どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:政治史など > 日本赤軍と連合赤軍

◆序として

丁度、令和元年時点の我々は香港デモのニュース映像を報道で見聞きしている訳ですが、本当は先鋭化する原理とか、過激化する原理のようなものがあるように思える。この赤軍派はセクト争いの中で「そんな理屈では生ぬるいのだ!」という意見に意見をぶつける中で登場した急進派であり、おそらく、それが過激化する原理、ラジカルなものが称賛されるマヌケな社会を投影しているような気になる。

YMOであったかYMOの中の誰かであったか、「♪時代は過激な淑女」といった具合の歌詞があって、直感的な嫌悪感を抱いた憶えがある。「過激な淑女」という言葉の中に「過激さ」と「淑」とを同時に並べているので「上手なフレーズづくりだ」と感心するかというと、まったく、そうではなかった。率直に「気持ちワルイ」と感じたのでした。何故なら「♪時代は過激な淑女」と歌っているのであり、如何にも浅薄な調子でラジカルである事を称揚しているなって感じたから。じゃ、時代が忍従を要求していたなら、その時代に迎合して忍従するんかよって話だ。美質を感じなかったし、今も同じですかねぇ。扇動にしても、ちょっと薄気味悪いよなっていう感慨か。

人気漫才師のナイツ塙さんが、あの淡々とした小ボケを並べて行く漫才スタイルのヒントになったものは、実はYMOだという。思いも拠らぬところで、YMOに出会うものだなって思いました。私も相応のレベルではYMOのレコードを聴いていたのだと思いますが、入れ上げるような熱は持てなかったという記憶がある。

気持ちワルイ顛末になると分かっている話でもあるですが、一方で、人間のダメさ、ヒトのダメさ、醜悪さを剥き出しに出来るテーマかも知れない。以下、角間隆著『赤い雪』(読売新聞社1980年刊行)と『FOR BEGINNERS 全学連』(現代書館1982年刊行)、重信房子著『日本赤軍私史〜パレスチナと共に』(河出書房新社)、小嵐九八郎編『日本赤軍!〜世界を疾走した群像』他を参考に。


◆「全学連について」と「赤軍派の登場」まで

【全学連】とは「全日本学生自治会総連合」の略称であり、1948年9月18日、日本全国の国公私立大学142校(学生数30万人)の代表者が東京大学に結集し、三日間連続の討議の末に結成されたという。性格としては大学生自治会の全国的連合組織であり、授業料値上げ反対による授業放棄運動などを契機にして発足したという。翌年、国際学生連盟にも加盟。活動主旨は、教育の民主化、平和と民主主義の防衛を目的とし、破壊活動防止法、元水爆実験、勤務評定、警察官職務執行法などに対する反対運動を展開する学生運動であった。

第二次大戦が終結し、当時の日本は強くアメリカの支配圏に置かれていたが、当初、アメリカは学生運動を奨励するような態度であったという。戦前戦中の日本の体質が極めて抑圧的であったので、自由を奨励していたのだ。また、当初の全学連の実態というのは学生服のバンカラ派であり、戦中には禁止されていた思想書などが解禁された事と関係しているという。やがて、全学連が勢いを増すようになるとアメリカは共産主義に脅威を感じるような方向へとシフトしてゆく。

日本共産党は全学連に対してブレーキをかける立場を採るが、その裏にはマッカーサー司令部から日本共産党に弾圧が入った事とも関係しているという。ここで、自制する事を主張する日本共産党と全学連とのズレが生じる。

しかし、1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約締結直後、日本共産党は戦術を一変させ、国家権力を奪取する為に軍事路線を打ち出す。これによって全学連にも火がつくが、翌1953年にはスターリンが死亡し、ソビエト共産党の意向に沿って動いていた日本共産党は軍事路線の否定に転じた。この日本共産党の中央委員会の方針に学生たちは失望し、党中央に対しての批判を展開する。

その後も全体的な潮流としては学生運動と日本共産党との距離は、1960年の日米安保を迎えるにあたって激化してゆく。

そして1958年6月、全学連は第11回大会の決議として共産党中央を猛批判する。その猛批判に対して、共産党中央は報復措置として全学連グループに対して除名処分などを開始し、半年間に72名を除名処分とした。共産党中央の対応に対抗して同年8月、社学同が発足する。その社学同の呼び掛けによって、同年12月10日、共産主義者同盟(通称ブント)が発足する。

「われわれは、一切の革命的空文句を拒否する。たとえ、われわれが正しい思想、正しい理論、正しい綱領をもって武装されたとしても、またそれがいくら多量のビラ、新聞の配布によって支えられようとも、革命理論を物質化する実体が存在せねば全くのナンセンスである。組織は、真空の中では成長しない。労働者階級の闘いが生起する課題に、最も労働者的に、最も階級的に応えつつ、闘争の先頭にたって闘うことによって、その党は革命的方針を渇望する労働者にこたえることができる」

このブント(共産主義者同盟)と呼ばれる学連新党が、以降、全学連の主導権を掌握するようになる。

また、ブント(共産同)の他にも、日本トロツキスト連盟が日本革命的共産主義者同盟と組織を改めて、これが「革共同」として大きな勢力となる。日本トロツキスト連盟は1957年1月27日に発足、同年6月27日には砂川基地闘争(砂川事件)を経て、同年12月1日、革共同(日本革命的共産主義者同盟)へと転身する。60年安保の主導権を握っていたのはブント(共産同)であった。

つまり、日本共産党と学生運動とが割れた。そして対立が激化してゆく。日本共産党のコントロールの及ばぬところで、ブントは60年安保闘争へと突入してゆく――。また、この頃までには【ZENGAKUREN】は世界的にも報じられており、「ゼンガクレン」として相応に世界的知名度を誇るまでになっていたという。

そして60年安保、運命の日を迎える。1960年6月15日、全学連は1万7千の学生を動員して国会を包囲し、1千5百名が国会へ突入。負傷者712名、逮捕者67名、そして東大生・樺美智子が死亡するという激しい衝突を経て、日米安全保障条約が自然成立。これによって戦後日本の方向性は、日米安保体制が確定し、自由主義陣営の中の戦後日本という構図が確定する。

1960年7月4日、全学連第16回大会が開かれたが、ここで日本共産党系列の東京都自治会連絡会議、通称「都自連」が分派行動をとって、60年安保敗北の中、ブント体制の全学連は分裂する。

ブントに次いで全学連の主導権を採ったのは革共同の学生組織であるマルクス主義学生同盟、通称「マル学同」であった。マル学同は1961年7月の全学連第17回大会で全学連を掌握したが、このマル学同体制に不満を抱いた連中が多かった。社学同、革共同・関西派、社青同(これは社会党系の青年組織で正式名称は日本社会主義学生同盟)の三派が、第17回大会の期間中に東京・飯田橋の「つるや旅館」で会合を持ち、その場で「反マル学同」を掲げた。俗に、これを「つるや連合」等と呼んだ。

更に日本共産党系の都自連が、全自連(全国自治会連絡協議)を組織し、この全自連もマル学同体制全学連に対して抵抗をしたので、全学連は60年安保後に大別すると、.泪覲愼院↓△弔襪簣合(社学同・革共同関西派・社青同/三派全学連)、A桓連の三大勢力となった。

この60年安保以降の全学連は、大別すると日共系(日本共産党系)と反日共系(反日本共産党系)とに分かれる。日共系は日本共産党の下部組織の民生(日本民主青年同盟)があり、元々は全学連そのものには日本共産党の制御下にあったが、学生運動の隆盛と共にブントを筆頭とする反日共系の活動組織が登場、60年安保以降になると、反日共系の活動組織が登場するようになったというのが、大きな流れである。

また、ここまでの過程で登場した全学連は、1963年に黒田寛一率いる「革マル派」と、本多延嘉率いる「中核派」とに分派した。より正確には、全学連の支配権を握っていたマル学同の中で議長・黒田と書記長・本多との対立が発生し、1963年年明けと同時に「中核派」と「革マル派」に分裂した。これによって「ゼンガクレン」の歴史は事実上、消滅し、中核派と革マル派の骨肉の抗争史へ。

この分裂劇によって、学生運動は、

‖紂耕攘倭干慙◆紛産党中央系・民青系)

革マル系全学連

C羈貿彪倭干慙

という構図になる。実質的な統制を失った流れの中で、新たな大同団結が模索されるようになった。中核派やブント(共産同)の中から全学連を再建すべしという動きが起こり、狒干慙∈瞳準備会瓩立ち上がる。この再建準備会は、三派連合(つるや連合)が中心となり、ここに中核派の一部の参加するという流れが起こる。

1966年9月1日、第二次ブント(共産同)が発足する。

1966年12月、分裂した全学連も再建すべく、新三派体制全学連が発足する。ここでは社学同(旧ブント系)、中核派(旧革共同系)、社青同解放派の三派が主軸となり、ここに旧革共同系の第四インターが加わったものが、学生運動の主軸となってゆく。

1968〜1970年にかけて、やはり70年安保問題と絡めて学生運動が激化した。従来の既成党派を基盤とする全学連とは異なって党派を基盤としない全共闘(全学共闘会議)が発足した。この全共闘はノンセクトの一般学生を結集させようとしたものであった。この全共闘には革マル派を除いては各派が参加している。日大闘争や映像としてしばしば目撃する機会がある東京大学の安田講堂占拠騒動(1969年)は、それである。

おそろしく複雑に分裂する左翼史ですが、要点としては、日共系(民青)⇔反日共(反民青)という大きな構図がある。社学同、ブント(共産主義者同盟)やマル学同系の中核派や革マル派は既に反日共系であるという事が一つの大きな前提となる。これらの流れの中で産み落とされたのが、いわゆる【赤軍派】である。

赤軍派とは、共産主義青年同盟赤軍派が正式名称であり、つまり、共産同(ブント)からの分派である。ブントの政治局員であった塩見孝也が

「革命は戦闘的な大衆運動から起きるものではなく、組織された暴力――つまり、訓練された軍によってしか達成できない」

と提唱、この急進的な闘争理論(塩見理論)によって、赤軍派が立ち上がる。地理的には主に関西系であった。この関西系急進派に関東系穏健派の中から賛同する者が登場し、赤軍派となる。

塩見孝也(京大生)
田宮高麿(大阪市立大生)
高原浩之(京大生)
藤本敏夫(同志社大生)
山田孝(京大生)
森恒夫(大阪市立大生)

重信房子(明大生)
遠山美枝子(明大生)

らが発足メンバーであった。

1969年9月4日、東京・葛飾公会堂にて赤軍派は旗揚げ集会として独立宣言を行なった。

「革命の軍隊、赤軍が結成された。武器をとれ。武器を使おうとしない被抑圧階級は、奴隷の階級だ。至るところに軍団を組織せよ。市民社会のすべてに、兵舎、連絡網、情報網、武器網を張り巡らせ。われわれは戦争をやるのだ!」

改めて、調べてみると、この赤軍派は最初から暴力革命を思考している事が分かる。また、実質的な内戦に近いものを思考していた可能性が高い。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆「フーちゃん」と「ミコ」

重信房子は「終戦の日」から数えて39日目に生まれた。実父は戦前の血盟団事件に参加していた重信末夫であった。血盟団事件とは井上日召を首謀者として行なわれた組織的な政府要人暗殺事件であった。その為、重信の家は貧しく東京や郷里の鹿児島を行ったり来たりするという生活であったという。

どういう理由か定かではないが、重信房子に拠れば「幼稚園を突然やめさせれた」経験があったという。これが単なる貧困を理由にしての出来事なのか、或いは実父が過去に血盟団事件に参加していた事を敬遠する幼稚園側による差別なのかは判然としない。

中学の頃からは東京町田市の都営住宅(借家)で暮らしており、本人いわく「割と勉強ができて、いわゆる優等生の仲間にばかり入っていた私は、貧乏であるということがすごく屈辱であった」と自叙伝の中で語っているという。

東京・渋谷にある東京都立第一商業高校へ進学。「小さな親切運動」なるものにセーラー服姿で参加していたといい、どこからどうみても善行に勤しむ感心な少女であったという。

高校卒業、重信房子はキッコーマン醤油に入社する。キッコーマン醤油に入社した翌年、明治大学二部(いわゆる夜間部)の文学部へ入学した。日中はキッコーマンの日本橋支社で働き、午後五時の退社時間の後に明治大学のキャンパスへ足を運び、授業が終わるのは22時、家へ帰るのは午前0時少し前。そして朝は6時に起床してキッコーマン日本橋支社へと出社していたという。

その頃、明治大学でも授業料値上げをめぐって学生運動が盛んに行われていた。或る時期から重信房子は、学友たちと一緒にバリケード内に入るようになったという。バリケード内で過ごす時間は楽しかったらしく、時間を忘れ、しばしば最終電車に間に合わぬという事があったという。

そして1964年10月、バリケード闘争でバリケードの中に泊まることになり、無断で会社を欠勤した。その無断欠勤を機にして、重信房子はOL生活に別れを告げた。これが「重信房子」が活動家になる前の経歴であるという。

当時の明治大学二部の学生自治会は、日本共産党の下部組織である民青(日本民主青年同盟)が掌握していた。重信房子は最初から反民青として活動した。ここで重信はめきめきと台頭とした。要は民青シンパの連中を、反民青に招き入れる(オルグする)という情報宣伝部長として大活躍した。「重信の微笑外交」という言葉が当時の明大にはあったらしく、美人で頭の切れる重信房子がカタブツそうな連中に

「お茶のみにいかない?」

といった具合に誘いかけると、かなりの男子学生が釣れ、重信にオルグされた者は数知れないという。証言に拠れば、重信には独特の色気があり、適度に色気をチラつかせたのだという。

これは単なる「色仕掛け」と理解する事も出来るが、重信には天性のものがあったと思われる。セックス観そのものが、フリーセックスに近い価値観の持ち主であった。

「愛というものは普遍的ではないと思うし、人間的なものに惚れこむということからいえば、同時に二人以上の人を愛せると思うの。いままで何も感じていなかった人でも、ある瞬間フッと感じるものがあれば、それは愛と呼べるし、その結果、セックスが行われたとしても、決していけないことじゃないと思う」

これが重信房子という魔のカリスマの本性であったかも知れない。重信房子によって反民青に取り込まれ、のめり込んでいった者は数知れず、且つ、抜群のカンパ集金力を誇り、一ヵ月で二百万円ものカンパを集める能力を持っていたという。

「重信の微笑外交」によって明治大学二部の学生自治会の主導権は民青から反民青へと引っくり返った。

カリスマ視される重信房子には、一人だけ女友達があったという。それが一歳年下の遠山美枝子であった。重信房子は遠山美枝子を「ミコ」と呼び、遠山は重信を「フー」とか「フーちゃん」と呼んでいたという。遠山は170cmぐらいの長身で、おしゃれ好き、澄んだ瞳をしたモデル風の美女であった。昼間はキリンビールでアルバイトしながら明大二部に在籍していた。共通項も多かった為か、この二人はウマが合い、重信房子は遠山美枝子を連れて出掛ける事が多かったという。

1967年、重信房子はブント(共産同)へ入会すると、それに続くようにして遠山美枝子も入会した。

いつしか周囲は重信と遠山を「明大の二大美女」と呼ぶような存在になっていった。この重信と遠藤。この明大の美女コンビは――重信は後にレバノンに脱出、日本赤軍を起ち上げて、世界中を震撼させるテロリスト集団のリーダーとなり、一方の遠藤はというと日本事件史でも三指を競うであろう凄惨なリンチ事件の被害者になる。

重信房子は教師志望者であり、明大文学部を卒業後に明大政治学部に再入学し、ブントに所属するようになってからも授業をサボることもなく、実際に教育実習まで果たしており、その教育実習ぶりも非常に高く評価されていたという。教師になりたいという希望は捨てがたいものであったらしい事を窺がわせる。

この一連の過激派の話には、やたらと美女が登場する。また、その過激派と呼ばれた若者たちの性モラルは、前述した重信房子のセックス観の通りであり、かなりフリーセックス志向であったとされる。誰と誰とがくっついたとか離れたりを、狭い組織の構成員間で繰り返していたものという。当時の構成員の証言の中には「女性兵士の殆んどは、4〜5回は堕胎を経験していたのではないか? 匿ってやってくれと頼まれたら断れる筈もない」といったものもあったという。

分かっているだけでも重信房子は、高原浩之と交際関係を持った後に田宮高麿に乗り換え、更に高田某の子を中絶していると思われ、更にはレバノン脱出にあたっては奥平剛士と入籍して奥平姓で日本を脱出している。奥平とは日本脱出の為に偽装結婚したという話もあれば、そうではなく奥平と重信とは正式な婚姻であったと記述しているものもある。そして、遠山美枝子は高原浩之と内縁関係にあったとされる。平たく言えば、重信が高原浩之から田宮高麿に乗り換えたので、遠山が高原と付き合い出したという。ここで名前の挙がった高原浩之、田宮高麿の両名は、この赤軍派の幹部中の幹部であり、ナンバー2もしくはナンバー3である。



◆「急進派」対「穏健派」

少しだけ時間が戻る。赤軍派はブントからの分派したものであったが、当時のブントは関東派と関西派とに分裂していた。関東派が仏徳二(さらぎ・とくじ/本名は別)議長を中心として形成されてた穏健派で、そこに沸き起こって来たのが政治局員というポストにあった塩見孝也ら塩見理論に賛同するグループで関西派であった。

塩見孝也(京大生)
田宮高麿(大阪市立大生)
高原浩之(京大生)
藤本敏夫(同志社大生)
山田孝(京大院生)

物江克男(滋賀大生)
森恒夫(大阪市立大生)
行方正時(岡山大生)
城崎勉(徳島大中退)
奥平剛士(京大生)

進藤隆三郎(日仏学院生)
持原好子(元芸者/進藤の恋人)
玉振佐代子(――)

急進派と対置に置かれるので、その便宜上、「穏健派」となるが、正確には大衆を巻き込んで革命を成そうとしていたのが元々のブントの関東派(穏健派)の基本方針であった。

1966年、成田空港建設の反対運動として断続的に三里塚闘争が起こっていたが、三里塚闘争では地元農民が三派全学連を受け入れて、抵抗運動をしていたというのが実相である。抵抗しようにも抵抗する方法がないので過激派を受け入れたという事かも知れない。この三里塚闘争、当初は日本共産党系の、いわゆる日共系が農民たちを支援していたが、ここに内ゲバの論理が持ち込まれ、三里塚の現場で日共系が反日共系の活動家を攻撃する事態が発生したが、地元農民の目線で語ると三派全学連は歓迎されていたのが実相と思われる。

また、東大安田講堂に於いても、実はバリケードを築いている学生たちに対しては、まったく見ず知らずの、そこら辺を歩いているオジサンが近寄って来て、現金の入った封筒でカンパを届けに来ていたりしたので、資金繰りは意外に楽だったという。思いの外、大衆は学生を応援していたらしく、現在の香港デモと似た状況があったのかも知れない。

総じて、或る時期までの日本では「中道左」が好まれ、それが主流であった事は多くの高齢者が知っている話でもある。田原総一朗に拠れば、新聞なんてものは冷戦崩壊前までは読売も朝日も、そんなに大きな差はなかったという語り口をしている。元毎日新聞記者の著書などでも同じで、当時の日本の報道スタンスは、全紙が揃って機動隊と学生との衝突に対しては、学生側に同情があったという記述も目にした事がある。

それらを考慮すると、必ずしも仏徳二らの「大衆を巻き込んで運動を続けて行く」というスタンスにも一定説得力があったかも知れない。しかし、機動隊を前にして過激派学生が勝利するという公算は少なく、戦略的な敗北が続いた。それを敗北となじって、台頭してきたのが、塩見孝也ら関西派であり、これがブント内の急進派となる。そして、軍を創設して軍による暴力革命に走ったというのが、この赤軍派誕生の一連の経緯となる。

1969年6月28日、この日、関西派の幹部にして後に歌手・加藤登紀子の夫となった藤本敏夫と森恒夫の両名が、関東派の学生に拉致され、暴行を受けるという事件が発生した。その日、藤本敏夫と森恒夫は明治大学構内にある明治記念館でイベントに登壇する予定であったが、中々、姿を現さず、その現場に、不気味な電話が入った。

「藤本と森の身柄は、オレ達が預かった。藤本は、国電上野駅近くにおいてあるぜ」

というものであった。藤本と森は、関東派の学生グループに拉致され、中央大学一号館一階の経済研究室に連れ込まれ、そこで「自己批判をしろ!」との吊るし上げを受けていたのだ。

藤本は自己批判を拒否、そこで壮絶な集団リンチに遭った。鉄拳を浴びせられ、顔面や下腹部に飛び蹴りを受けるなどの激しい暴行を受けたが、尚も、要求を拒否し、そのまま、気絶、人事不省に陥った。

次は、森恒夫の番となったが、森は、あっさりと

「勘弁してください。何でもいうことをききます」

と声を振り絞り、関東派の連中からツバを吐きかけられながら、自己批判を披露した。おそらく、森は、それで解放された。一方、人事不省に陥った藤本の方はというと、関東派にしても持て余して、国鉄上野駅の付近に放置された。

藤本が壮絶なリンチを浴びて上野駅付近に捨てられていた。藤本と一緒に森も拉致された筈だが、森の方はというと、関西派の幹部たちに

「脱走してきた。敵を二、三人ぶちのめしてやったよ」

等と、曖昧な事を口にした。藤本敏夫は薄々は森恒夫がどのような態度を採ったのかを知っていたが藤本は、それについては一切、話そうとしなかった。

藤本と森が関東派に襲撃された事で、関西派は直ぐに報復の計画を立てた。京都や大阪に助っ人を要請し、京都・大阪から約50名が上京、また、関東派の中からも重信房子らも集まって藤本の仇討ちが練られた。

1969年7月6日午前4時頃、関東派がアジトにしていた東京・杉並区にある明治大学の和泉校舎に関西派が角材、竹槍、ゴルフクラブなどの武器で武装して殴り込みを掛けた。この関西派の殴り込みには、森恒夫も参加していたが途中で姿を消した。おそらく怖気づいたものだろう、という。この森の敵前逃亡は、多くの赤軍の仲間も周知する事になったという。

ブントの議長である仏(さらぎ)は学生会館二階で就寝中であったが、そこへ関西派は武装した総勢130名で押し掛けた。塩見孝也、田宮高麿、上野勝輝(京大生)の三人が陣頭指揮をとり、

「やっちめェ!」

「一匹も逃がすな!」

という号令の下、その場にいた関東派の面々を手あたり次第、殴りつけて叩きのめした。学生会館二階は悲鳴と絶叫が木霊し、血が流れた。議長の仏は、布団の上から起き上がる隙も与えることなく、全身のあらゆる場所を鉄棒で殴りつけたり、踏みつけられた。敵対勢力のリーダーである仏を捕捉した関西派は、そのまま仏を和泉校舎の西隣にある築地本願寺和田堀願所の墓地まで連行し、その墓地において辺り一面が血の海になるまで仏に凄惨な暴行を加えた。議長・仏徳二を半殺しにし、その返り血を浴びて悠々と引き揚げていった。

早朝に起こった関西派の殴り込み、そして仏の連れ去りは、瞬く間に関東派に伝わっていた。関西派が拠点にしていたのは御茶ノ水の東京医科歯科大学の三号館であり、必ずそこに引き返すと踏んだ関東派は、即座に仲間を糾合し、医科歯科大学周辺に包囲網を張った。関東派にしてみれば東京は地元であり、ブントにしても造反組に襲撃されたとあっては黙って帰す訳にはいかぬという、怨嗟の深い報復合戦となった。中央大学から300名、明治大学から100名、医科歯科大学の内部から50名、ざっと450名の関東派が、関西派を逃すまいと厳重に見張りを始めた。

関東派は、全てを監視していたらしい。殴り込みを敢行した関西派の襲撃部隊が三々五々、中央大の三号館5階に戻ってくるのを待っていた。午前11時過ぎ、関西派の襲撃部隊が全員集まったところで、一斉蜂起を始めた。五階の窓へ投石すると、一斉に関西派のアジトである三号館五階に押し入った。圧倒的な数量差であったために、関西派は抵抗することなく全面降伏となった。

関東派は、塩見孝也、花園紀男(社学同・前書記長)、望月上史(京都府学連書記次長)、物江克男(滋賀大学)ら、関西派の中心メンバー29名を見事に捕虜とし、そのまま、捕虜29名を関東派のアジトである中央大学四号館へと連行した。関東派は、捕虜らに自己批判を要求した。25名は自己批判に応じたが、塩見、花園、望月、物江の4名は自己批判を拒否した。自己批判に応じた25名は釈放とし、自己批判を拒否した塩見以下幹部4名については一号館三階の経済学部長室に場所を移して引き続き監禁し、攻め抜いた。なにしろ、リーダーの仏徳二を虫の息にされたばかりなのだから、怒りが収まる筈もない。

関東派にしても、これ以上、この4名を殴ったところで建設的とはいえない。なので、関東派は、その4名を釈放する代わりに、田宮高麿を筆頭とする赤軍残党120名全員の武装解除、それと自己批判書の提出を条件にして、塩見、花園、望月、物江の4名を解放するという条件を提示した。

田宮高麿と120名の赤軍残党は、その頃、横浜の関東学院大学に立てこもっていた。田宮は寸でのところで関東派の襲撃から逃れていたのだ。やがて、塩見孝也ら幹部4名からの伝言が、田宮の元へ届いた。伝言は、

「諸君が武装解除しないと、われわれは釈放してもらえない。頼むから、この際、要求を受け入れてくれ」

という主旨であった。

さて、田宮高麿は、どうしたか? 

田宮は「仏一派に屈服するなんて全くのナンセンスだ」と言って、伝言が書かれた紙をビリビリと破り捨てた。そして塩見たちの伝言に対しては

「機をみて自分たちの力で脱走しろ!」

が田宮の返答であった。

あまりにも冷徹な田宮高麿の態度に、塩見らは落胆した。また、それ以上に関東派は落胆したという。このまま、人質として4名を監禁し続ければ、結局は警察沙汰になる可能性が高いのだ。まさか殺害してしまう訳にもいかない。関東派は、結局、話し合いの場を設けることを提案せざるを得なかった。

1969年7月23日、関東派と関西派との間で話し合いの席が設けられた。関西派を代表して話し合いにやってきたのは、田宮高麿、重信房子、遠山美枝子を含む5〜6名であった。本来であれば、この席に田宮の腰巾着と揶揄される森恒夫の姿があって然るべきであったが、森は7月6日早朝の殴り込みを前にして逃亡して以降、音信不通になっていた。


    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆戦争宣言

捕虜返還を巡って関東派から話し合いを受けるも田宮高麿ら関西派残党との交渉は東京・上野の旅館で行われたが、田宮は頑なな態度を崩さなかったらしく、交渉は決裂した。これによって、捕虜の身になっている塩見、花園、望月、物江の4名は窮地に追い込まれた。味方残党に助けてもらえる芽はないと悟り、全面降伏を受け入れて釈放してもらうか、あるいは田宮の言う通り、機をみて脱走するかの二択となった。

塩見らが監禁されていたのは中央大学一号館三階の経済学部長室であった。出入口には不寝番を立てて見張っており、脱出は至難の技であったが、塩見らは消防ホースを窓から垂らして壁伝いに脱出するというレスキュー部隊さながら、アクション映画さながらの方法を実行した。誰も彼もが寝静まったころ、三階の経済学部長室の窓から消防ホースを垂らし、その消防ホースを手で握り締めながら15メートルほどの高さのある窓から脱出を始めた。実際に、それを実行してみると消防ホースの粗い布地が掌に食い込み、掌は血塗れになったという。塩見が先陣を切って降りて、次に花園が続いた。三番目に望月が降り始めると、俄かに真夜中の三号館が騒がしくなった。脱走に気付かれたのだった。望月が途中まで降り掛けているタイミングで、物江も消防ホースをつたって降り始めた。

しかし、次の瞬間、物江が手を滑らせ、中途まで降りていた望月を巻き込むようにしてコンクリートの床に落下した。物江は即座に跳ね起きたが、望月は倒れたまま動かなかった。頭部からは夥しい流血が確認でき、コンクリートの床に頭から落下し、頭を割っていた。塩見らは望月を担ぎ上げて通りに出ると、タクシーを拾い、そのまま病院へ望月を運び込んだ。望月は急性硬膜下血腫、右後頭骨骨折、右前側頭葉脳挫傷という大怪我を負っていた。

脱出劇があった同日前後、田宮高麿は関東に留まっていると襲撃される可能性があるとして大阪へと戻った。大阪・阿倍野区の桃山学院大のアジトにブント(共産同)の旧幹部たちが集まっており、その場に田宮は乗り込んで

「とても関東派とは一緒にやっていけない」

と訴えた。田宮の主張は「関西派は関東派と手を切って、独自に武装路線を歩むべきだ」という熱弁であった。しかし、旧幹部たちにしてみれば狒反イ魍笋覘瓩箸いα択には躊躇があった。苦労して第二次ブントを発足させたのに、また、ここで分派する事になるのはマズいと、田宮の熱弁にも中々、首を縦に振らなかった。

そこへ捕虜になっていた筈の、塩見、花園、物江がバタバタと駆け込んできた。田宮と、捕虜になっていた三人との間に微妙な空気が流れたが、塩見のハラは決まっていた。こんな酷い目に遭わされたのだ、今更、関東派と協調路線など有り得ない。

斯くしてブントを割る事が決定した。8月初旬、ブントの第四回中央委員会があったが関西派は全員が欠席。ただ一人だけ山田孝(京大生)が東京の会場に乗り込んで、関東派から野次と怒号を浴びながら、「武装蜂起以外にありえない!」と言い放った。

1969年8月26日、共産主義者同盟・赤軍派の結成を正式に決定。本拠は京都の同志社大学学生会館内とした。

1969年9月4日、東京・葛飾公会堂で、旗揚げ大会が開催された。しかし、その場には塩見孝也、高原浩之、田宮高麿の最高幹部は現れなかった。既に警察にマークされていた為という。

葛飾公会堂に集まった赤軍派は総勢250名。その内の50名が「赤軍戦闘団」と書いた樫の棒切れを持って、関東派や警察に備えた。赤ヘルメットに白文字で「赤軍」と書いた不審な人影が夕闇の葛飾公会堂に集まっていた。

その赤軍派旗揚げ大会では、塩見や田宮たちが書いた『戦争宣言』という過激な文書を、赤軍派の幹部・八木健彦(京大生)が黒ストッキングを被ったまま、その会場で読み上げた。

「ブルジョアジー諸君! われわれは君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである。君たちの歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。君たちの歴史は、血塗られた歴史である。君たち同士の間での世界的強盗戦争のために、われわれの仲間をだまして動員し、互いに殺し合わせ、あげくの果てには、がっぽりともうけているのだ。

われわれはもう、そそのかれ、だまされたりはしない。否、そそのかされ、だまされないだけではない。われわれは過去のうらみを以て君たちを呪うと共に、またまた君たちのやろうとすることに対して、今度はわれわれの側に用意がある。君たちにベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら、われわれにも君たちを好き勝手に殺す権利がある。

君たちにブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、われわれにも、ニクソン、佐藤、キージンガー、ドゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君たちの家々を爆弾で爆破する権利がある。

〜略〜

万国のプロレタリア諸君、団結せよ。前段階蜂起――世界革命戦争に勝利せよ!」


殆んど宣戦布告文のような過激な、その内容に、場内からは拍手と歓声が沸き起こったという。

この戦争宣言の中にある「ブラック・パンサー」は当時のアメリカで台頭していたブラックパンサー党を指しており、同月25日には北区の滝野川会館にブラックパンサー党の代表を招く計画を立てていた。





◆「中性の怪物」と呼ばれた女

連合赤軍リンチ事件は、実に14名もが凄惨な集団リンチによって殺害された。その実質的な主犯は永田洋子と言った。あさま山荘事件の後に、集団リンチ事件が発覚、次から次へと難癖をつけて兵士たちを殺害していったが、その難癖をつけていたのが、この永田洋子であり、後に「中性の怪物」と冠された。

永田は東京都文京区本郷の生まれであり、終戦の半年前に誕生している。書道と算盤を習っており、小学5〜6年生の頃から成績が伸びたといい、頑張り屋の少女であったという。しかし、この少女時代から後の永田洋子のキャラクターの萌芽は見え隠れしており、ホームルームでは盛んに発言するかクラスメイトからの人気は今一つという陰のある少女であったという。

内面的な事からすれば気難しいところがあり、「自分のことしか考えない」というタイプであったという。また、外見的な事からすれば、背が低く、色が黒く、反っ歯であった。

中学時代のニックネームは「お芋ちゃん」であった。服装には無頓着で、皆が服装を気にしている中、一人だけ、シワくちゃのプリーツスカートを履いているような少女であったという。また、中学、高校の頃からガラガラ声になって、そのキャラクターを決定づけてゆく。

大学は共立薬科大学へと進学。この頃から共産主義イデオロギーに傾斜し、男子学生などに議論を吹っ掛けるようになったが、うざったがられたと思われる。どこか人間関係の距離感に不器用で、しつこくしてしまうタイプだったのかも知れない。

大学三年の時、永田洋子はバセドー氏病の症状を出す。薬を飲んでは症状がよくなり、薬を辞めると症状が出て来てしまうの繰り返し。入院して手術をし、完治したと医師は説明する。しかし、当の永田洋子は、病気のことを気に病み、また、「自分が男友達に好かれないのは病気のせいだ」と考えていた節があるという。

共立薬科大を卒業後、一ヵ月間だけ慶応大学付属病院の薬局で無給医局員を務め、その後、東京・品川の三水会病院に勤めた。しかし、この病院関係者の記憶や証言は「意固地なところがあった」、「明るさがない」、「ねちねちとした喋り方」、「協調性に欠け、自我が非常に強い」であり、よくよく眺めてみると、少女の時代から一貫して、そのキャラクターの像がある。

永田洋子はデモに参加するようになったが、今日は中核派、明日はML派といった具合のフーテン活動家であった。(この頃、全共闘の方針でノンセクトを如何に巻き込むかという戦術が実際に流行していた。特定の所属を持たぬ一般学生を巻き込む事がテーマにもなっていた。)

1967年には一方的に三水会病院を辞めて横浜市神奈川区の済生会神奈川病院に移った。いつも左翼系の本を読んでいて、周囲の薬剤師を小バカにするような態度だったので、誰からも相手にされなかったという。

永田洋子は薬剤師を辞めて活動家へ転身する。手引きをしたのは「竹浦」という名のハンサムな東京大学の学生であったという。その竹浦が所属していたのが「京浜安保共闘」もしくは「革命左派」という組織であった。

この組織は、元々は日本共産党系であったが、その日共系から除名されたメンバーが日共左派神奈川委員会をつくり、更に、その後に分派を経て、日共革命左派神奈川委員会となる。実際には日共から除名されているから、ただただ「革命左派」という呼称の方が的を射ているように思える。他方、複雑な事に、この革命左派の実質的なリーダーは東京水産大学の川島豪であり、その革命左派は、婦人解放同盟、京浜労働者反戦団などの組織をつくって、それら複数の組織を束ねて「京浜安保共闘」と命名していた。なので「京浜安保」と略されている場合もある。

後に、この京浜安保共闘(革命左派)が、ブントから分裂した赤軍派と合併を模索して悲劇だらけの連合赤軍が結成される。

永田洋子は大学在学中に、ハンサムな東大生だったとされる「竹浦」を相手に処女を捧げた。この表現がマズかったら処女を捨てた。しかし、その後、永田洋子は革命左派のサブリーダーである坂口弘の内縁の妻となる。坂口は実質的なナンバー2であり、実行部隊を組み場合は常に隊長になるタイプで、今風に言うなら細マッチョ、筋骨たくましくワイルドなタイプであった。竹浦は過激派活動にのめり込む事に警鐘を鳴らす慎重なところがあったが、永田洋子は武闘派としてガンガン機動隊を相手に戦う坂口弘に惹かれて行き、東京水産大の朋鷹寮の尾崎充男の部屋が坂口たちの溜まり場であったが、そこに永田洋子は女一人で出入りするようになった。いつしか坂口弘と永田洋子は通じるようになり、同棲するようになっていた。

川島豪(東京水産大/実質的なリーダー)
坂口弘(東京水産大)
柴野春彦(横浜国大)
吉野雅邦(横浜国大)
尾崎充男(東京水産大)
山崎順(早稲田大)
奥沢修一(慶応大)
寺岡恒一(横浜国大)
岩田平治(東京水産大)

石井勝(横浜国大/名目上のリーダー)
石井功子(石井勝の妻)
川島陽子(川島豪の妻)

金子みちよ(横浜国大/吉野雅邦の妻)
杉崎ミサ子(横浜国大)
大槻節子(横浜国大)
早岐(はいき)やす子(日大看護学院中退/京浜三人娘)
中村愛子(日大看護学院/京浜三人娘)
伊藤和子(日大看護学院/京浜三人娘)
向山茂徳(浪人生/大槻節子の恋人)
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆革命左派京浜安保共闘

京浜安保が、その存在を示す事になったのは、1969年9月4日、愛知揆一(あいち・きいち)外相の訪米・訪ソの出発阻止を目的とした羽田空港での火炎瓶投擲事件であった。

坂口弘が実行隊長となったもので、事前に羽田空港に近い昭和島の埋立地に火炎瓶を隠しておき、警備の厳重な羽田空港の玄関口から突入するのではなく、殆んど警備さえしていない海から上陸し、愛知外相の搭乗機の離陸を妨害したというものであった。

離陸直前に「毛沢東思想万歳 反米愛国」の幟旗を持った1名と、4名が両手に2本づつの火炎瓶(計16本)を持った五人組が絶叫しながら滑走路に飛び出してきて、滑走路上に火炎瓶を投げ込んだ。異常事態を嗅ぎつけたパトカーがサイレンを流しながら五人組の方へと走り、愛知外相の搭乗機も緊急停止した。しかし、実際には26分間だけ大事をとり、予定通り、愛知外相の搭乗機はアメリカへ向かった。5人組は逃亡する様子もなく警察に逮捕された。

さほど大きな混乱にはならなかったが、当の京浜安保の構成員らは「これで神奈川に京浜安保アリ」という堂々たるデモンストレーションで全国デビューしたつもりであったと思われる。

その後も京浜安保共闘は、米軍横田基地への侵入事件を起こし、立川基地にダイナマイトを仕掛けるなど、矢継ぎ早に事件を繰り返した。典型的な犲孫垠燭硫畄稠畢瓩噺世┐燭も知れない。

警察も危険視し、1969年12月8日にリーダーの川島豪を逮捕し、そこから芋づる式に京浜安保の幹部たちは逮捕され、京浜安保共闘の組織は、愛知外相搭乗機への火炎瓶投擲事件から3ヶ月もしない内に組織はガタガタとなる。ここで京浜安保のリーダーへと、一気に、のし上がったのが永田洋子であった。

永田洋子は策士であったかも知れない。川島豪の妻・川島陽子に中京地区に於ける京浜安保共闘組織をつくらせる為に、愛知県へと追い出し、また、もう1名についても九州地方へと追い出し、当然、坂口弘が京浜安保のトップに繰り上がって良さそうなものだが、坂口弘は、あろうことか永田洋子の操り人形と化していた。坂口がだらしないというよりも、実行隊長タイプの坂口はリーダーシップ(政治力)には無関心な武闘派な性向であった可能性が高い。何が何だか分からぬままに、永田洋子が京浜安保共闘のトップになってしまった。

革命左派京浜安保共闘の中京版に該当するという革命左派中京安保共闘も実在し、後の連合赤軍リンチ事件では被害者と加害者とを出し、あさま山荘事件で最後まで戦い続けた2名も含まれている。

加藤能敬(和光大生/加藤三兄弟長兄)
加藤倫教(加藤三兄弟次兄/未成年)
加藤元久(加藤三兄弟末弟/未成年)
小嶋和子(看護婦)

山本順一(日中友好商社社員/北九州大卒)
山本保子(山本順一の妻)
山本頼良(山本夫妻の間の乳児)

前沢虎義(自動車部品メーカー三国工業社員)京浜安保
瀬木政児(――)京浜安保

牧田明三(横浜市立大生)京浜安保
目黒滋子(牧田明三の恋人)京浜安保



◆「交番襲撃計画」と「パイプ爆弾」

日本の警察は優秀で、赤軍派の発足後、間もなくして赤軍派として活動している美女が存在している事に気付いていた。葛飾公会堂の管理事務所にやって来て会場の予約をしていったのは、赤いワンピースを着た美女であった。「どうも赤軍派に謎の美女が存在しているらしい」と、その美女の正体が話題になっていたが、その正体は「重信房子」であった。

組織を旗揚げするにあたって具体的に何すべきかという問題が降りかかる。その組織の目的は武力革命であり、半ば世界革命戦争を宣言するような武装闘争路線なのだ。実行部隊の長として田宮高麿が兵士集めに奔走し、高校生などを含めて片っ端から人員を搔き集めた。そして彼等は「大阪戦争」と名付けて交番を襲撃し、拳銃を奪おうと計画し、実行した。しかし、これは、やはり非常に稚拙であり、当初は計画を立てるが、いざ現場に行ってみると、その交番は警察官が13名以上も居るマンモス交番であり、とても襲撃して拳銃を奪うなんて不可能だと諦める茶番劇を複数回、繰り返した。

1969年9月22日、これは赤軍派の旗揚げから15日後という事になりますが、大阪市の阿倍野署金塚交番を襲撃した。この一団はダンボール箱の中に火炎瓶を入れて、そのダンボール箱を抱えて阿倍野銀座と呼ばれる繁華街の中を駆けてゆき、その商店街の外れになる交番が金塚交番であった。交番に向かって火炎瓶を投げつけると、交番を炎上させる事に成功した。しかし、直ぐに商店街の人たちが出てきて、

「堪忍して、お店がやけてしまう!」

「商店街が火事になるがなっ!」

と、叫び、たちまちの内に黒山の人だかりとなった。そして、そこに集まっていた野次馬たちが交番から飛び出してきた警察官に加勢し、そのまんま交番襲撃実行犯の学生らを袋叩きにしてしまった。

「大阪戦争」と銘打った計画は惨憺たる大失敗に終わった。

「大阪戦争」が惨憺たる結果であった為、東京でも2件の交番襲撃計画が練られた。こちらも拳銃を奪う事が目的であった。標的となったのは本富士警察署と西五反田派出所であった。前者には高校生11名を含めて総勢28名もの赤軍兵士が計画に関与し、後者にも総勢13名の赤軍兵士が関与していた。本富士警察署襲撃事件は火炎瓶の投擲は成功したがピストルを奪うことは出来ず。西五反田派出所襲撃計画は、交番を覗きに行ったが、何もせずに引き揚げてきた。その時、同交番に道を尋ねていた一般市民があり、その一般市民を公安の刑事と勘繰った為に未遂事件で終わった。

しかも、東京では、本富士警察署襲撃事件に関与した高校生が警察に捕まり、その高校生の口から襲撃に関与した全員の名前が警察側に露見し、芋づる式に36名が検挙された。

武装闘争といってもゲバ棒と火炎瓶では話にならない、このままでは直ぐに赤軍派なんて全滅してしまう――そのように赤軍派の幹部が落胆しているタイミングで、大きな朗報が舞い込んだ。

「梅内恒夫が、パイプ爆弾の開発に成功したようですっ!」

と。

梅内恒夫は青森県八戸市の出身で、福島医大。福島医大の空手部に所属し、且つ、ブントであり、福島医大の学生運動のリーダーであった。この梅内は東北地方に於けるブントのリーダーであり、しかも赤軍派の武闘路線を支持していた。実質的には「みちのく赤軍」と呼ぶような異例の系譜の人物であったが、この梅内は理系の知識を活かして都市ゲリラ戦に必要な爆弾を研究、繰り返し繰り返し実験をして都市ゲリラ戦に威力を発揮するパイプ爆弾の開発を手掛けていたが、そのタイミングで開発に成功した。

1969年10月16日、梅内は阿武隈上流の山間の某所で、自家製の鉄パイプ爆弾の爆破実験を行なった。威力は壮絶で、阿武隈川に鉄パイプ爆弾を投げ入れると10メートルにも及ぶ水柱が上がった。梅内の造った鉄パイプ爆弾の威力は絶大で、その炸裂した20メートル四方の人間を吹き飛ばせるだけの威力が確認された瞬間であった。

赤軍派の最高幹部・塩見孝也は、パイプ爆弾開発成功の知らせに狂喜乱舞したという。

1969年10月30日、東京から塩見の命を受けた2名が青森県弘前市の弘前大学付近になる喫茶店で、梅内の部下から17本のパイプ爆弾を受け取った。青森からの帰途、福島医大に立ち寄って、17本の鉄パイプ爆弾は東京へと持ち込まれた。その鉄パイプ爆弾は、形状が野菜の「キュウリ」に似ていた事から赤軍派内では隠語で「キューリー」と呼ぶことになった。

梅内は赤軍派内では「爆弾の神様」とまで崇められるようになる。また、この爆弾の神様「梅内直系の部下」と呼ばれた青砥幹夫と植垣康博らが、後の連合赤軍による地獄のベースキャンプの参加者となる。

◎みちのく赤軍
梅内恒夫(福島医大生)
青砥幹夫(弘前大生)
植垣康博(弘前大生)
穂積満(弘前大生)
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆大菩薩峠事件

鉄パイプ爆弾「キューリー」を入手した赤軍派は首相官邸襲撃を計画する。1969年10月29日、東京・赤羽台団地の一室に、塩見孝也、上野勝輝、八木建彦、松平直彦、重信房子、田宮高麿といった顔ぶれが集合した。そして、首相官邸襲撃を実行する前に、革命兵士たる赤軍兵士に武器の取扱い方を教える軍事訓練を行なう事になった。場所は、山梨県の大菩薩峠が選ばれた。

首相官邸襲撃は攻撃隊と突入占拠隊と道路防護隊を組織し、同年11月6日もしくは翌7日に決行を予定していた。官邸を占拠し、三日間も持ちこたえられたら成功、その間に佐藤栄作首相もしくは警察官を人質として、その人質解放の条件として政治犯の釈放を要求するというものであった。(決行予定日は最終的に7日に決定。)

大菩薩峠には、赤軍派の各地区から兵士らを集まって来た。福島地区、茨城地区、千葉地区、神奈川地区、東京西部地区、東京北部地区、東京中部地区、関西地区、そして赤軍派中央軍からなる総勢50名が集まった。そして、その作戦を成功させるべく、梅内恒夫率いる「みちのく赤軍」はキューリーの大量生産体制に入っていた。

1969年11月3日には、総勢50数名が大菩薩峠での訓練に集まったが、それが首相官邸襲撃を予定しての訓練であると知る者は10名も居なかったという。急遽、集められた兵士の中には高校生も少なくなく、首相官邸襲撃といった目的について、参加者の多くは大菩薩峠に集まって初めて聞かされた話であったという。参加者の中には、山へハイキングにでも行くような感覚の者も含まれていたという。

この大菩薩峠での軍事訓練中、赤軍派は大量に捉えられる事になった。公安警察は全国的規模で赤軍派に不穏な動きが起こっている事を事前にキャッチし、千葉地区の高校生二人組をマークし、その高校生二人組を尾行していたのだ。

尾行されていた高校生二人組は3日午前2時頃にアパートで落ち合い、午前9時頃になるとハイキングに行くような格好をしてアパートから出てきた。その後、国鉄の西千葉駅から新宿駅へ向かい、新宿駅地下街をぐるぐると回った後に急行列車の乗車券を購入し、中央線沿いに西へ向かい、塩山駅で下車した。そこから裂石行きのバスに乗って、終点の裂石バス停で降りた。この裂石(さけいし)とは、大菩薩峠の登山口に程近いバス停であり、リュックサックを背負った二人の高校生は、そのバス停で下車した。

赤軍派は大菩薩峠の中腹にある「福ちゃん荘」を拠点にしていた。ぽつりぽつりと若者たちがやってきて小屋へ消えて行くのを公安の刑事たちは確認した。公安では、関係各県の公安刑事に非常招集が掛けられた。警察の組織力は桁違いであった。

翌4日には地元山梨県警の第一機動隊、第二機動隊までもが集められた。公安捜査隊が凡そ100名、そして武装警官隊は総勢288名が集められ、赤軍派が訓練を行なおうとしている福ちゃん荘から二キロほど離れた「長兵衛小屋」に陣を張った。

1969年11月5日午前6時頃、武装警官隊による総攻撃が開始された。大量の警察官を乗せたトラックが、鬨の声を上げながら、福ちゃん荘へと突進した。赤軍兵士らの殆んどは就寝中であったと思われ、「サツだ! 逃げろ!」等と声を上げて、慌てて小屋から飛び出してきたが、小屋は敢然に包囲されていた。中には屋根によじ登って抵抗を試みた者もあったが、この大菩薩峠での大捕物は、警察の完全勝利に終わった。

逮捕者、53名。赤軍派の幹部に当たる「政治局員」7名の内から上野勝輝、花園紀男、常山道生、八木健彦の4名が、この大菩薩峠で逮捕された。これによって首相官邸襲撃計画も消えた。そして警察は赤軍派の組織力と赤軍派が開発した鉄パイプ爆弾とを把握し、その後、赤軍派は危険視され、極めて重点的な取り締まりの対象となる。

また、政治局員7名中、4名が逮捕された事で、残ったのは塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3名のみとなり、更に塩見と田宮に対しては逮捕状も出した。

赤軍派旗揚げ大会の会場として、偽名で葛飾公会堂の予約をした「謎の美女」の正体は早期から警察にマークされていた。女の名は重信房子といい、明治大学二部の学生であった。大菩薩峠事件の後、間もなくして重信房子は「東京都公安条例違反」という罪名で逮捕された。同容疑で留置されたが重信は完全黙秘をし、三日後に釈放。しかし、これは警察の方便であり、警察署の階段を降りたところで再び「兇器準備集合罪」の容疑で重信を逮捕し、23日間拘留。重信房子は、この際の警察側の手法に怒りをおぼえ、闘志を燃やしたとされる。

政治局員が不足してしまった事から、不足してしまった政治局員を補填する必要性が生じた。そこで白羽の矢が立ったのが、赤軍派創立メンバーでありながら、この五ヵ月前、関東派(仏徳二襲)を襲撃した際に、敵前逃亡したままになっていた狄更栄廰瓩任△辰拭その行方不明になった森恒夫はというと、大阪市東淀川区の町工場で板金工になって生活していたが、その森を、改めて赤軍派の政治局員(幹部)として招聘する道筋を立てた。森は、復帰の条件としてビラ配りなどの新米兵士の仕事を割り当てられたが、森は、その下働きにも応じ、赤軍派の政治局員になった。(それまで森は創設メンバーではあったが「政治局員」になった事は無かった。また、この森恒夫が赤軍派の幹部に収まる敵前逃亡者でありながら幹部として復帰した経緯については映画「実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程」でも描かれていた。後の展開を考慮すると、ここに「運命の皮肉」が隠されている。)



◆「赤軍派の復活」と「希望の国のEXODUS」

1969年9月の旗揚げから、同年11月の大菩薩峠事件まで、僅か2ヶ月間で赤軍派は壊滅的状況にあったが、その後、勢力を挽回する。これは当時の時勢が大きく影響しており、この1969年というのは、日本国内的には70年安保を巡って1969年10月21日の国際反戦デーの大規模デモを挟んでいる。また、この頃は世界的にも反帝国主義が叫ばれていた御時勢であった。

1970年1月16日、東京は神田駿河台の全電通労働会館ホールでは「赤軍派武装蜂起集会」が開催され、そこには約560名もの若者が集まった。前田祐一(中央大生)が北海道、東北、北陸、九州などを駆けまわって搔き集めてきた若者たちであった。

その壇上で物江克男(滋賀大)が演説した。

「諸君、赤軍は、大菩薩峠の敗北から僅か二か月で浮上した。われわれは、温存されたエース級の戦士の手で必ず武装蜂起を実現する。戦いは一国のみにとどまるものではない。外国で義勇軍を編成するために、既に同志の一人を海外へ派遣した。今後さらに外国へ要員を送り出す」

上記の物江の演説は非常に示唆的であった。大菩薩峠の失敗に学んだ赤軍派は、着眼点を海外へ向けた事を説明しているのだ。実際に赤軍派は1969年11月12日、つまり、大菩薩峠での完全敗北から僅か1週間後には小俣昌道(京都大学全共闘議長)を「赤軍国際部長」という肩書きで羽田空港から渡米させていた。米国のブラックパンサー党はじめ、海外の過激派勢力との連携を本格的に模索するようになっていた。つまり、日本を脱出して国際規模で革命戦争を模索するという、その画期的な発想の転換が起こった事を暗示している。

この発想の転換は、日本赤軍と連合赤軍との大きな分岐点になったかも知れない。ハイジャック事件や大使館襲撃事件などで世界を震撼させる海外へ出た日本赤軍と、日本国内に留まって京浜安保と組んでつくられた連合赤軍とになった。日本赤軍にしても結局は漂流するテロリスト集団であったと総括する事は可能であるが、その時点では日本国内に留まるか、国外脱出(エクソダス)するかという選択肢は、かなり、前衛的な発想であったように思える。

(「エクソダス」というのは聖書の「出エジプト記」に典拠があるというから西洋的ですが、東洋には仏教の解脱、あるいは神仙思想という形で現実世界から脱出する事が説かれている。)

脱出して海外の諸勢力と連携してゆくという選択肢は、中々に前衛的な発想で、居場所を失ったものは「脱出する」という定石は、80年代中盤以降に起こったパラゾ、スキゾのブームでも最終的に提示された問題であり、或る種の分裂の到達点かも知れない。その社会に居る事が無理になってきたら、脱出し、漂流者になるしかない。もしかしたら、この話は宇多田ヒカルのアルバム「EXODUS 04」(西暦2004年、アメリカデビューを果たしたアルバム)や、村上龍の小説『希望の国のエクソダス』(2000年刊行)などにも底の方では繋がっている可能性が高いように思える。その原型が70年代初頭の過激派の動向に見い出せるのは、中々、興味深い話でもあるように思う。

そして、この赤軍派の問題で語ると、その国外脱出の第一弾が「よど号ハイジャック事件」となる。

    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆よど号ハイジャック事件

大菩薩峠の失敗後、旅客機の乗っ取りを考案した。考案したのは田宮高麿であった。素案としてのキューバ、ベトナム、そして北朝鮮へと脱出して、それらの地に軍事拠点をつくり、日本に攻め込むという遠大な計画であったという。しかし、先ずは、どのように海外へ脱出するのかが焦点となり、そこで「旅客機乗っ取り」が具体的に出来上がった。広く知られている通り、本邦初のハイジャック事件が「よど号事件」となるので「ハイジャック」という言葉そのものの認知度も低かったという。

このハイジャック計画は隠語で「フェニックス計画」と命名された。このフェニックス計画には塩見孝也、田宮高麿、前田祐一、小西隆裕(東大生)、上原敦男(中央大生)、森清高(京大生)といった6名の幹部と、田中剛三(明大生)、岡本武(京大生)、吉田金太郎(工員)、若林盛亮(同志社大生)、安倍公博(魚本公博/関西大生)、柴田勝弘(当時16歳の高校生)ほかのメンバー合計13名が決行部隊と決まった。ナンバー2の立場にあった高原浩之と女性中央委員の重信房子は残留部隊の指揮を執る事となった。政治局員として戻ってきた森恒夫は出直し修行中であり、何の役割も課されなかった。

決行日は当初、1970年3月21日と決定した。(異説として26日決行予定日あり。)

しかし、その2週間前に警視庁公安一課が、赤軍派最高幹部・塩見卓也と、先乗りして海外を偵察してきた前田祐一とを、アジトと睨んで東京都北区田端の江本ビルを張り込んでいた刑事が発見する。

塩見と前田がタクシーに乗り込んだところを公安刑事が追尾し、タクシーが赤信号で停車していたところに刑事が追いつき、タクシー運転士に警察手帳を提示しながら、窓越しに声を掛けた。

「警視庁の者です。そのままドアをロックした状態でバックして下さい」

とタクシーにバックを要求した。20メートルほどバックすると駒込駅前派出所があり、その派出所の前でタクシーを停車させることにしたのだ。

「何かあったんですか?」

塩見はトボケて、一般市民を装うかのような素振りをしてたが、公安刑事は冷静であった。

「赤軍派の塩見だね?」

塩見は、ここでタクシーから飛び降りて逃走を図るが、駅前派出所から若い警察官が猛ダッシュで逃げる塩見を追走し、50メートル足らずで塩見を確保した。前田の方はタクシーの座席から逃亡することもなく、体を震わせていたという。

塩見と前田が逮捕された。そして塩見が持っていた鞄からは札束と本とノートが押収された。ノートには細かな数字が記入されており、アルファベットの「H・J」という記号が書き込まれていた。その「H・J」は【Hijack】の頭文字を略したものであったが、当時は、言葉そのものが知られていなかったので、警察は、それが何を意味するのか理解できなかった。

最高幹部の塩見が逮捕され、且つ、前田もフェニックス計画でのキーパーソンであった。その2名の逮捕を受けて、フェニックス計画がどうなるのか動揺が走ったが、ここでも田宮高麿という人物のキャラクターが全てを跳ね除けた。田宮は、フェニックス作戦を断固決行するという判断を下し、入念なリハーサルを始め、とうとう日本初のハイジャック事件へと繋がった。(決行予定日は10日もしくは4日ほど当初の計画予定日よりも遅れた。)


1970年3月31日の羽田発福岡行きの日本航空351便、ボーイング727型機は通称「よど号」と呼ばれていた。同機は同日午前7時21分に離陸した。石田真二機長を含めた乗員7名。それと122名の乗客を乗せていた。(何故か乗客数に異説がある。)離陸後、特に何の変哲もないまま、同機は神奈川県座間市上空に差し掛かった頃、機内で異変が生じた。

右手に短刀、左手にモデルガン、そして腰には登山ナイフとパイプ爆弾を下げた田宮高麿ら赤軍派ハイジャック犯9名が一斉に立ち上がり、乗員と乗客に対して威圧を始めた。

ハイジャック犯は、爆弾らしきものを見せながら、

「このまま北朝鮮の平壌へ行け」

と機長に命じた。ここでは石田機長が機転を利かせて、実際には燃料は満タンであったが「燃料が不足している」と説明し、同機は福岡空港に燃料補給の為、緊急着陸する事となった。

離陸から約1時間半後というから、概ね午前9時前後か。この福岡空港にて乗客の中から女性と子供とが解放される。そして13時58分、よど号は福岡空港を離陸する。また、この福岡空港で燃料補給に費やしながらの時間稼ぎの間、日本政府は韓国政府に要請し、ソウル郊外の金浦空港を北朝鮮の平壌空港に偽装するという大胆なアイデアが編み出された。

同日15時18分、よど号は平壌空港と偽った金浦空港に着陸する。しかし、到着した空港は北朝鮮ではなく韓国だと見破ったのは田宮高麿であったという。見破った理由には諸説あるようで一説に、ハイジャック犯は韓国軍の制服を見て気付いたといい、また異説もある。

この金浦空港にて、よど号事件は膠着状態に突入する。田宮率いる赤軍派は北朝鮮行きを譲らず、日韓両政府は「よど号」を金浦空港に釘付けにしたものの、打開策はなく、金浦空港での膠着状態は三昼夜も続いた。人質になっている乗客・乗員にも疲労が蓄積してゆく。(政府は大菩薩峠事件を経ていたから赤軍派が所有しているパイプ爆弾はホンモノ、かなり威力のある爆弾である事も理解できていたものと思われる。)これ以上の引き延ばし策は、不測の事態を巻き起こしかねない状態へと、事件はもつれた。

ここで山村新治郎運輸政務官(当時36歳)が「乗客の身代わりとして人質になる」と名乗り出る。するとトントン拍子に、山村政務官は日本を発って韓国入りし、全ての乗客と引き換えに、山村政務官が「よど号」に乗り込んだ。石田機長と別の乗務員3名、それと山村政務官、それとハイジャック犯9名を乗せた「よど号」は平壌空港へ発ち、4月3日、平壌空港に降り立った。その後、ハイジャック犯らは北朝鮮に亡命したという形となった。(後に、よど号メンバーが北朝鮮の諜報作戦に関与していた事が発覚している。)当時の新聞には平壌空港に降り立った赤軍派メンバーの写真なども掲載されていた。

この「よど号」事件は当時にしてはハイジャックという未曾有の大事件であり、センセーショナルな事件でもあった。身代わりとなった山村新治郎政務官は「男・山村新治郎」として一躍脚光を浴びて、政治家としても運輸大臣にまで登り詰めた。しかし、1992年4月12日、精神疾患を患った長女に刺殺されるという悲劇的な最期となった。また、よど号事件で機転を利かした石田真一機長も一躍「時の人」となったが、それが仇となって週刊誌に愛人問題をすっぱ抜かれ、不本意な形で日本航空を退社する羽目になった。(別冊宝島『日本の未解決事件100』(宝島社)参照)

亡命に成功した田宮高麿ら、よど号グループは、ホントに理想郷に亡命できたのかという問題が残る。冷静に考えれば分かる事でもあるが、当時の北朝鮮とは即ちソビエト連邦の支配下にある国であり、また、日本の政党でいれば日本共産党の系統である。当時の共産圏の統治体制はモスクワから各国の共産党に対して、その運営方針の細かな指示が出されていたのが実相であった。この田宮らの赤軍派とは反日本共産党系の共産同(ブント)、そのブントから分派した過激な集団が赤軍派であった事を考えれば、どういう境遇で迎えられたかの推測は可能であった。北朝鮮政府は表向きは彼らを歓待したが、そもそもハネッカエリの若者たちであった。北朝鮮政府は、よど号メンバーの生命を保証する代わりに犲臑了彖朖瓩噺討个譴詼鳴鮮の金王朝の思想で洗脳し、諜報・工作活動などに利用したという。

    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆ラディカリストの残滓は狂い出す

序文にて「過激な淑女」という楽曲への嫌悪感を述べた。巧く説明できないが、それは直感的な嫌悪であった。過激化すること、ラディカリズム、急進的態度、先鋭的態度というものは、おそらく本能的なものであり、相互に、もしくは競合する中で、その過激度を競い合うようにして過激さが過激さを招き、大きなうねりとなる。

この1970年という年は、3〜4月に赤軍派の「よど号事件」が起こり、6月更には11月には「三島由紀夫(割腹)事件」が起こっている。そんな事は当たり前の事実であるが、実は、どちらも或る種の残滓である可能性がある。よど号事件は過激派のハイジャックという行為からすれば成功例であるが、何故、ハイジャックという手法に行き着いたのかというと、真正面からの武力革命は不可能だと気付いたからであり、それを示すように赤軍派の計画では米国の極左勢力との連携を模索し、キューバやメキシコ、北朝鮮、ベトナムと連携し、外国で軍事拠点を構築して日本国を攻めるという発想に転換しているのだ。三島由紀夫・楯の会事件にしても、容易に想像できる事は三島由紀夫自身が蹶起文の中で、1969年の10月21日の国際反戦デーで内乱が起こらなかった事に対して、強く不満を表わしている――この事は否定しようがない。

冷静に考えれば、状況は敗北に決してしまった。しかし、それを受け入れられないのが、ラディカリズムの原理ではないだろうか。日頃から勇ましい発言をし、部下を毎日のように往復ビンタしていた上官は、それまでの自分の身の振り方を一気に変える勇気がない。自分が間違っていたなんていう殊勝な態度になる事は極々稀で、多くの場合、ラディカリストは自己否定ができない。いや、反省するという理性的な態度を採らない激情型のパーソナリティーであるからこそ、彼らはラディカリストなのだ。激情型であれば激情型であるほど、過激な行動をとることが可能となり、また、その誰かの過激な行動が、別のラディカリストの過激な行動を呼び込む。彼らは過激である事を競い合っているのだ。

現実的な劣勢を現実的に受け止められない。だから精神論に傾斜し、無謀な戦いを始めてしまう。過激化は、現実を見据えて戦っているときよりも、むしろ、現実的目標を喪失し、その喪失した後の戦後処理として無軌道な過激化を辿るという事かも知れない。

「よど号事件」は日本中にセンセーションを巻き起こした。それに触発されるのがラディカリストの本性のように思う。京浜安保共闘では「赤軍派」に対しての何某かの感情が芽生えた。「赤軍派だけにいい顔をさせていられるか」という感情的な反応を喚起してしまうのだ。それは自己承認要求(欲求)や、他者との比較から生成される嫉妬心といった人格的なものでもある。「あいつが成功したんだからオレも」という心理が作用し、行動はどんどんエスカレートする。

三島由紀夫は、この1970年、週刊プレイボーイに連載中であった野坂昭如の小説「てろてろ」を称賛したとされるが、その評は「これは破裂する為の小説ですね」といった事を述べている。実は、まったくその通りである。小説「てろてろ」は最初は変わり者の若者たちの話で始まるが、殺人に手を染め、誘拐に手を染め、指名手配されると、もう、彼等には行き場がなくなるのだ。明らかに、その先は三島が言うところの倏卜瓩箸いΑ打ち上げ花火のような壮大なフィナーレへ向かう事しか、目的がなくなってしまう。

そして、そのエスカレートしてゆく過程がスリリングであり、(小泉進次郎先生風に言えば)セクシーなのだ。セクシーといっても表面的に性的にセクシーなのではなく、その次元を飛び越えて、死と隣り合わせ、破滅と隣り合わせ、どうせ死ぬのだから…という死を覚悟した境地が、理屈抜きでセクシーなのだ。生と死。その間に生殖があり、ヒトは発情するようにつくられている。理屈抜きで性的なものに吸い寄せられてしまう。性的欲求はヒトの根源であり、その生き死にという宿命を持つヒトの欲求は根源的な部分で繋がってしまっている。社会的成功はセクシーであり、命を賭けた戦いは、それだけでセクシーなのだ。

性衝動は暴力と非常に近く、発達過程で分岐する。分岐しない者は暴力的な行為そのもので性的興奮をする。フロイトの言ったようにヒトの心の奥底には死を招き寄せてしまうタナトスという死の欲求があり、そこに到達しようとしてしまう。なので、過激派の残滓こそが危ない。残滓でこそ、その狂気や暴走は止まらなくなるという事ではないのだろうか。

誰も彼もが本当は、この心理を強弱の差異こそあれ、多少は内包している。目立ちたくはないが目立ってみたい気持ちはあるだろうし、どうせ悪目立ちするのであれば、とことん悪目立ちし、いっそ後世に名を残すような爪痕を残したい等と夢想するのが、現代人の秘めたる欲望ではないだろか。



◆M作戦(エロイカ作戦)

よど号事件よりも数ヵ月程度、時間は遡った頃から赤軍派は資金調達の必要性からM作戦と呼ばれる強盗を計画、実行していた。このM作戦の【M】とは【Money】の頭文字の略称で、強盗でカネを搔き集める事を意味していた。この強盗をして資金源を集めるという手法は、かのボルシェビキでも行われていた裏任務であり、レーニンの死後にソビエトを掌握したスターリンはボルシェビキ時代には強盗作戦に関与していたとされる。

元々は田宮高麿がM作戦の指揮を執っていたが、どこかの時点から森恒夫がM作戦の指揮を執るようになったという。森恒夫が指揮を執るようになってから間もなくして、「M作戦」は「エロイカ作戦」に改名された。エロイカとはベートーベンの「英雄」をイメージしたもので、どこかに森恒夫という人物の人間性が表出していたかも知れない。

1969年10月頃から赤軍派では都市アジトを各地に設けていた。要はアパートなどを借り上げて、そこを拠点にしていたのだ。その拠点に実行部隊が集まって、銀行や郵便局の襲撃計画などを練って、一部は実行し、その多くは失敗していた。碌すっぽ、実際には成果が出ない作戦だったので田宮高麿が森恒夫に投げ出したという可能性も考えられる。後の証言に拠れば、大胆な計画は実行のハードルが高く、高齢者を尾行して、そのバッグをひったくる等の「ひったくり」行為も行われていたという。

1970年3月15日、赤軍派最高幹部・塩見孝也が逮捕される。

1970年3月31日、田宮高麿がフェニックス作戦を断行、北朝鮮へと国外脱出する。

1970年5月9日、重信房子が殺人予備罪及び爆発物取締法違反容疑で逮捕(二度目)される。23日間拘留。

1970年6月7日早朝、塩見孝也なき後、実質的な最高幹部であった高原浩之が恋人の遠山美枝子と朝帰りしたところを警察官に待ち伏せされ、逮捕される。この際、遠山美枝子も身柄を抑えられたが、この遠山美枝子は赤軍派内では合法活動を担当していたので逮捕は免れた。(遠山は留置場に入っている同志たちへの接見や差し入れといった合法的な任務に従事していた。)

森恒夫は遠山美枝子から電話で「高原が逮捕された」という一報を受けた。森恒夫が何を思ったのか定かではないが、次から次へと幹部「政治局員」が居なくなった事で、押し出されるようにして森恒夫が赤軍派の最高幹部になった。(赤軍派残党の弁によると、第一次赤軍派と第二次赤軍派に分けて語っており、塩見、高原、田宮らが居なくなって森恒夫が最高幹部になって以降は「第二次赤軍派」という具合に切り離して語ろうとする者が少なくないという。)

このM作戦に必要不可欠な都市アジトの借り上げ任務では、日仏学院生の進藤隆三郎、元芸者という特殊な経歴の持原好子、曲者美人・玉振佐代子らが関与し、M作戦の実行部隊としては、ずっと後にダッカ事件の超法規的措置によって釈放される城崎勉、更にはリンチ事件に参加した植垣康博らどが関与していた。

進藤隆三郎は当時22歳。会社役員の息子であり、オシャレでハンサムな人物であったので人当りがよく、アパートを借りるのに持原好子と夫婦を装って、各地にアパートを借りるなどの活動をしていたという。しかし、途中で持原好子が警察に逮捕されると、その持原から警察に赤軍派の隠密部隊の内情が露見したという。

玉振佐代子は美貌の持ち主であったといい、きれいにツケ睫毛をつけている上品な新婚の奥さんという印象であったという。しかし、この玉振は、かなりの曲者で、一度、アジトに刑事が訪ねてきた際には、煮えたぎった熱湯を刑事に浴びせかけ、刑事が怯んだ隙にまんまと逃走に成功した猛女であった。この玉振佐代子は1971年4月に神奈川県警によって逮捕されたが、逮捕の際、玉振は紺のミニワンピースにベージュのミディコート、更にはファッション雑誌『アンアン』を所持していたと警察から正式発表された。そのギャップには驚かされる。

城崎勉はM作戦に参加中、無免許運転で警察の検問に引っ掛かって逮捕。ここに挙げた名前では、進藤隆三郎と植垣康博、それと両名が参加していたM作戦坂東班の班長・坂東国男が、連合赤軍に参加する事になる。


1971年2月2日、重信房子は奥平剛士(京大生)と入籍し、「奥平房子」の戸籍を手に入れる。

1971年2月26日、奥平剛士がパンアメリカン航空機で日本脱出。

1971年2月28日、奥平姓でパスポートを取得した重信房子はスイス航空機でレバノンの首都ベイルートへ発った。重信は事前にベイルートのPFLP(パレスチナ解放人民戦線/これはパレスチナ解放機構のPLOではなく、よりイスラエルと敵対的に構えていた勢力)と連絡を取り、受け入れを確認していた。

重信房子がベイルートへ発つにあたり、その見送りにやってきたのは互いに「フーちゃん」、「ミコ」と呼び合っていた遠山美枝子だけであったという。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆エロイカ電撃作戦

森恒夫は「M作戦」を「エロイカ作戦」に改名し、強盗による資金集めを継続した。革命の為というが、そのエロイカ作戦の名の下に行われていたのは、連続強盗であった。

1971年2月22日、千葉県市原市辰巳台にある市原辰巳台郵便局(「特定郵便局」と呼ばれる小規模の郵便局)に白マスクをした男が侵入、居合わせた客の喉元にナイフをつきつけて、同郵便局内にあった手提げ金庫の中から現金を鷲掴みにして逃亡。およそ71万8千円の強奪に成功する。

1971年2月21日、千葉県茂原市の高師郵便局にも同様の手口で押し入り、およそ9万4千円の強奪に成功。

1971年3月4日、千葉県船橋市の夏目郵便局に刃渡り25センチのステンレス製包丁を持って押し入り、およそ1万5千円の強奪の成功。

1971年3月9日、神奈川県相模原市の横浜銀行相模台支店相武台出張所を襲撃。およそ150万9千円の強奪に成功。

1971年3月20日、宮城県泉市七北田にある振興相互銀行黒松支店を襲撃、およそ115万9千円の強奪に成功。この犯行は坂東国男(京大生)率いる坂東隊によるもので、メンバーには植垣康博(弘前大生)、穂積満(弘前大生)、進藤隆三郎(仏院学院生)があった。

このエロイカ作戦は「儲け」も大きかったが、リスクも大きかった。もともとは、第1班から第4班まで、計4班の強盗部隊があったが、最終的には第4班と呼ばれた坂東隊しか残らず、残りの第1班から第3班までは警察に逮捕されるなど壊滅状態となった。

第1班:大西隊
大西一夫(同志社大中退)
松浦順一(関西大生)
近藤有司(高校卒)

第2班:新谷隊
新谷富男(同志社大中退)
城崎勉(徳島大中退)
藤沼貞吉(茨城大生)
林慶照(高校中退)

第3班:松田隊
松田久(茨城大中退)
鈴木裕(弘前大生)
石原元(東京水産大生)

第4班:坂東隊
坂東国男(京大生)
植垣康博(弘前大生)
穂積満(弘前大生)
行方正時(岡山大生)
進藤隆三郎(日仏学院生)

強盗団の才能があったのか坂東隊の強盗は成功を続ける。

1971年5月15日、横浜市立南吉田小学校の校務員が職員給与を持ち帰るところを襲撃、およそ321万6千円の強奪に成功。

1971年6月13日、長野県上伊那郡長谷村の建設現場からダイナマイトと雷管を盗む。

1971年6月24日、横浜市港北区の横浜銀行妙蓮寺支店に押し入って、およそ45万円の強奪に成功。

そして同年7月26日、鳥取県米子市の松江相互銀行米子支店を、松浦順一を隊長として新規であつらえた松浦隊が押し入るが、これが失敗。松浦隊4名は全員逮捕となる。この松江相互銀行への襲撃失敗を最後に、一連のエロイカ作戦は終結する。もう、人手が足りなくなってしまったのだ。しかし、この一連のエロイカ作戦(M作戦)によって、森恒夫体制の赤軍派が搔き集めたカネは、少なく見積もっても1千万円はあったという。



◆京浜安保〜板橋交番襲撃事件

赤軍派が「よど号事件」を起こし、その後も都市にアジトをつくっての都市ゲリラ展開、更にはM作戦(エロイカ作戦)で世間を賑わせていた頃、京浜安保でも赤軍派の派手な活躍に触発されるようにして、過激化に拍車がかかっていった。

大まかな流れに先に触れておくと、資金は搔き集める事に成功したが武器を持っていないという赤軍派に対し、京浜安保の方は武器は手に入れたが資金がないという構図が出来上がり、京浜安保の最高幹部・永田洋子が赤軍派の最高幹部・森恒夫に資金の前借りを水面下で依頼してきた事から、赤軍派と京浜安保の接点が出来上がる。1971年4月、森恒夫は永田洋子と初対面を果たし、それが赤軍派と京浜安保との合併話に向かうというのが、大まかな流れである。

しかし、その前に京浜安保の歩みにも少しだけ触れておく必要がある。

1970年12月18日の夜、京浜安保共闘は交番襲撃事件を起こした。命じたのは永田洋子と坂口弘で、実行部隊長を務めたのは、永田、坂口とも同格の京浜安保の最高幹部・柴野春彦であった。

柴野春彦(横浜国立大)をリーダーに、渡辺正則(横浜国大)、大槻節子(横浜国大)、佐藤安治(三菱自動車工業厚生部勤務)の4名であった。標的になったのは東京都板橋区の志村警察署上赤塚派出所で、大槻節子が運転する日産ブルーバードに三人の男たちが乗り込んだ。

柴野は上赤塚派出所の約80メートル手前で、大槻に車を停車するように合図した。大槻節子は運転手兼待機が役割であり、柴野、渡辺、佐藤の男三人が降車して、標的の派出所へと静かに近づいていった。

この柴野隊の武器は即席の「ブラックジャック」だった。ゴムホースを30cmほどで切断し、そのゴムホースの中に鉛の棒切れを詰め込んだものであった。柴野、渡辺、佐藤の三人が派出所へ近づいていくと、そこには若い警察官が一人あり、机の上で書き物をしていた。

渡辺が

「あのぅ、すみません、道を教えてもらいたいんですが…」

と声を掛けると、若い警察官が顔を上げた。顔を上げたのは高橋孝志巡査であった。

高橋巡査が顔を上げるや否や、渡辺は渾身の力を込めてブラックジャックを振り下ろして襲撃した。ブラックジャックは高橋巡査の頭部に当たり、高橋巡査は頭部を抱え込んだが、同時に

「巡査長っ! 巡査長っ!」

と、裏手のドアの方へ叫んだ。派出所の奥には、別の警察官が控えているらしい事を暗示していた。一瞬で事態を悟ったリーダーの柴野春彦は、咄嗟に奥のドアを引き開け、残るもう一人の警察官を襲撃しようとした。

が、ドアを引き開けてみれば、そこには、拳銃を構えた「巡査長」と呼ばれた警察官、阿部貞司巡査長(当時)の姿があった。

「やめろっ! やめるんだっ! やめないと撃つぞっ!」

と、阿部巡査長の声が飛んだ。しかし、柴野春彦は阿部巡査長に飛び掛かった。その刹那、二発の銃声が響く。柴野が明けたドアは宿直室と呼ばれる部屋のドアであり、宿直室内で銃を構えていた阿部巡査長に飛び掛かった為、阿部巡査長が発砲したのだ。勿論、正当な発砲であった。柴野は胸を抑えながら崩れ落ちた。

阿部巡査長が宿直室から出てみると、そこでは凶器らしきものを手にした2名の暴漢が部下の高橋巡査と格闘していた。真夜中に突如として起こった不測事態であったが阿部巡査長は冷静で、暴漢に向けて3発を発砲した。阿部巡査長の放った弾丸の内の1発は、渡辺正則の右肩を貫通。残りの2発は2発とも佐藤安治の腹部に食い込んだ。渡辺正則、佐藤安治は重症――そして京浜安保の最高幹部の一人であった柴野春彦に放たれた弾丸は、柴野の右肩の下部と心臓右上を撃ち抜いており、派出所内で既に息を引き取っていた。

80メートルほど離れたところで日産ブルーバードで待機していた大槻節子は、銃声を聞き、計画は失敗したと判断し、そのままブルーバードで走り去った。現場となった上赤塚派出所には、瞬く間に警察官が集まって来ていた。



◆京浜安保〜塚田銃砲店襲撃事件

1971年2月17日、これは板橋交番襲撃事件から約2ヶ月後となるが、京浜安保は栃木県真岡市の塚田銃砲店を襲撃し、意外な形で、その名を日本中に広めることになった。この塚田銃砲店襲撃事件によって京浜安保は、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2千3百発を手に入れた。

塚田銃砲店襲撃の実行犯は吉野雅邦であった。武器を入手できず、武力革命路線が日一日と遠ざかってゆく中で、リーダーの永田洋子が、半ばいい加減に吉野雅邦に

「あんたのプチブル精神を追い出すには、これをやるしかないわよ」

と追い込み、そう追い込まれた吉野がリーダーとなって塚田銃砲店襲撃をやってみたところ、思いも拠らぬ大成果を上げてしまったのが真相であった。

この塚田銃砲店襲撃事件では、吉野雅邦をリーダーとして、寺岡恒一、雪野健作、尾崎康男(すべて横浜国大生)と中山衡平(東京水産大生)の五人が実行犯であったとされる。

吉野雅邦の実父は三菱地所の重役(当時)であり、かなりの育ちが良い青年であった。麹町小から麹町中、そして日比谷高校から横浜国立大へ。顔つきも「ノーブルな感じ」と評されていた。

この雅邦には兄があり、その兄は重度心身障害の身にあった。雅邦が小学校へ入学したとき、その兄が「僕も学校へ行きたい」と泣いた。当時の日本には重度心身障害児に教育を受けさせる施設はなかったので、どうしようもなかった。しかし、兄思いだった雅邦は、毎日のように、その兄をおぶって小学校へ通った。世間の目は冷たく、僅か一年で雅邦も、そして家族も疲れ果ててしまい、それ以上は続けられなかったという過去を持っていた。

大学生になってから社会の矛盾に行き当たり、ゲバ棒を持つようになった。当初は中核派として活動していたが機動隊に取り囲まれて袋叩きの目に遭い、病院に担ぎ込まれた。12針を縫う怪我を負っていた。入院中に看病してくれたのが同じ横浜国立大の合唱部の金子みちよであったので交際を始めた。後に吉野が中核派に見切りをつけて京浜安保に入ると、吉野の後を追うようにして金子みちよも京浜安保の合法活動をする組織に入って来た。そのまま、吉野雅邦と金子みちよは内縁関係となり、金子みちよに到っては妊娠八か月という身重の状態で連合赤軍の山岳ベースキャンプに参加していた。

吉野は、この塚田銃砲店襲撃事件を皮切りに、その破局に向かう暗部を背負い続け、印旛沼リンチ事件、山岳ベースのリンチ事件、そして、あさま山荘に立て籠もっての銃撃戦まで関与する唯一のメンバーとなっている。

猟銃と弾薬を大量に獲得したものの、資金と爆弾を持たぬ京浜安保は、赤軍派へと触手を伸ばし、共闘から統一へと動き出す。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆接近する赤軍派と京浜安保

赤軍派の最高幹部になった森恒夫の元に、その秘書役になっていた青砥幹夫から耳打ちが為された。

「京浜安保の永田洋子が会いたがっているようなのですが…」

突然の話に森恒夫は驚いた。

「今、どこにいるんだ?」

「真岡事件(塚田銃砲店事件)のホトボリを冷ますために、札幌にアジトをつくって息を潜めているようです」

「真岡で奪った銃を持ってか?」

「はい。永田は銃とカネを交換したがっています。今、京浜安保は資金不足で首が回らない状態に陥っているんです」

「どうして分かるんだ?」

「永田の子分の前沢虎義という男が、私のところに連絡に来たんです。一度、前沢に会ってやってもらえませんか?」

森恒夫は、渡りに船だと歓喜した。赤軍派には潤沢な資金と、鉄パイプ爆弾はあった。しかし、どうしても手に入れたかったのは銃であった。非合法活動の中で銃を手に入れようと様々な活動をしてきたが、どれも失敗だった。カネで関西のヤクザから日本刀を購入したケースなどは成功例であったが、相手はヤクザであり、手に入れたのは使い物にならないようなナマクラ刀であった。京浜安保が栃木県真岡市の銃砲店から奪った銃をカネで買えるかも知れないという話は、魅力的だった。

森は青砥の手引きで、京浜安保の前沢虎義に会うこととなり、そこで前沢から永田洋子の伝言を聞いた。永田から森への伝言は単刀直入、猟銃とカネの交換だった。

「10万円ほど貸してもらえないでしょうか? 御礼に猟銃をお渡ししますから」

事前に青砥から話を聞いていた通りであった。森はシメタとばかりに、その場で前野に10万円を手渡した。

上記の前野虎義と青砥幹夫とが仲介して、森恒夫の赤軍派と永田洋子の京浜安保にコネクションが出来上がったが、この時期は定かではなく、1971年の3月頃の事と推定できる。

森恒夫が永田洋子の使いの前野に10万円を手渡した日から、およそ1週間後、北海道は札幌に身を潜めていた京浜安保の永田洋子が坂口弘を連れ立って上京を果たした。森から渡った10万円を上京する為の交通費に当てていたといい、それほど京浜安保は資金的に枯渇していたという。

そして、1971年4月半ば、京浜安保のアジトの一つであった東京都葛飾区新小岩4丁目にある第二矢作荘で、赤軍派最高幹部・森恒夫と、京浜安保最高幹部・永田洋子とが初顔合わせを果たした。

その場で永田洋子が切り出した。

「京浜安保には資金がありません。その代わり、武器を沢山もっています。どうでしょう、散弾銃2丁に弾丸200発をつけますか30万円ほど都合してもらえないでしょうか?」

その第二矢作荘での初対面を契機にして、以降、森恒夫は永田洋子と頻繁に会うようになり、森と永田の間で、赤軍派と京浜安保とを統合して一つの組織とするという統一赤軍構想が進められていった。

京浜安保は赤軍派との連携を視野に入れて、東京都西多摩郡多摩町溜浦にあるバンガローと、山梨県北都留軍丹波山村にある炭焼き小屋を無断で組織の拠点とするようになる。この二つの拠点を総称して「小袖ベース」と彼等は呼んだ。



森恒夫と同様、永田洋子が組織の最高幹部になった経緯というのは、どこか不思議でもある。基本的には他の幹部が失脚してしまったので、繰り上がりで最高幹部になったというのは、赤軍派の森恒夫のケースと似ている。しかし、よくよく逸話を追ってゆくと、両者が最高幹部になった事の背景には少しだけ違いがある。

森恒夫は、日和見主義という批判も多かったし、敵前逃亡なども起こしていたので信頼度は低かった。しかし、森恒夫は赤軍派の創立メンバーであった事、また、田宮高麿から、どこか軽んじられながらも赤軍派の中で常に中心的存在であった田宮高麿と近かったので、幹部が次から次へと居なくなって、その単純な引き算によって森恒夫が暫定的に残った唯一の幹部であった。

それに対して永田洋子の場合は、そもそも革命左派・京浜安保の創立時のメンバーという訳ではない。元々は、フーテンのようにデモに参加していた何かであり、且つ、多くの職場などでも分かり易い程に、孤立してしまうタイプ、その多くは嫌われて孤立したという人生を歩んできた人物であった。当時の実質的な最高幹部の川島豪が逮捕され、また、その川島豪は京浜安保のリーダーには坂口弘を指名していたが、その坂口弘と同棲関係に入り、そのまま、最高幹部になっている。坂口が永田に籠絡されたと語るのは易しい。

実は京浜安保の内部にも永田が台頭して幹部になった事に不満を抱く者は少なくなかったという。しかし、永田は最高幹部となった。板橋交番襲撃事件で、やはり幹部であった柴野春彦が警官に射殺された事などは偶発的な要素であり、引き算として永田洋子の地位が上がったと言えるのかも知れない。しかし、川島豪の妻の川島陽子を中京安保構想として、愛知県に飛ばしてしまった経緯などは、どこか永田洋子の内に秘めたしたたかさ、その階級闘争本能を窺がわせる。

京浜安保には、理論派で京浜安保の公然組織の議長を務めていた牧田明三(横浜国大)が在った。この牧田の恋人は目黒滋子(京浜安保)であった。実は京浜安保の内部でも永田洋子への不満を抱えている者は少なくなかったといい、この理論派リーダーの牧田は、永田が女性兵士にまで実弾を使用しての射撃訓練をさせた事に腹を立てて、永田洋子に真正面から反論した。

(以下の箇所は『赤い雪』から引用とします。)

「こういう事は、やはり、獄中にあるとはいえ、最高指導者の川島豪に相談すべきじゃないだろうか。あなたは唯銃主義に取り憑かれているんじゃないか。」

と、面とむかって批判した。カッとなった永田は、生まれつき足の悪い牧田に対して、

「ふんっ、ビッコのくせにえらそうなツラするんじゃないよ!」

と、罵倒した。牧田は去った。永田の率いる京浜安保共闘に見切りをつけたのである。


こうした永田の態度で、理論派の牧田が去り、また、牧田の恋人の目黒滋子も早々に京浜安保から姿を消した。この事は、後々の経緯を考えると、この牧田明三と目黒滋子にとっては幸運に作用した。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆印旛沼事件〜前編

連合赤軍の山岳ベースによる大量リンチ殺害事件。その序章は「印旛沼事件」と呼ばれる永田洋子が最高幹部となった京浜安保の中で既に始まっていた。(以降、かなり、陰鬱にして陰惨、おぞましく、また、胸糞の悪い話となる。)

塚田銃砲店襲撃事件後、一度、北海道へ逃れた永田洋子と坂口弘は赤軍派との連携を模索しながら上京した。革命兵士を作る為には訓練になるので、都市の中に紛れて借り上げている都市アジトだけでは足りず、山岳ベースを持って、その山岳ベースで軍事訓練が必要だという話になってゆく。そして奥多摩山中に「小袖ベース」を設けた。

1971年5月末日、その日、京浜安保の小袖ベースでは、実弾を使用しての射撃訓練などが行われた。このキャンプに参加していたのが、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児、前沢虎義、向山茂徳、早岐やす子、金子みちよ、杉崎ミサ子、大槻節子、目黒滋子、川島陽子の13名が参加していた。(目黒滋子は牧田明三の恋人であり、牧田が去った為に目黒もこの小袖ベースから早期に去った。)このうち、犠牲者となるのが向山茂徳(当時20歳・浪人生−早稲田予備校生)、早岐やす子(当時21歳・日大看護学院中退)であった。(目黒滋子は牧田明三の恋人であり、牧田が去った為に目黒もこの小袖ベースから早期に去った。)

向山は浪人生ながら文学青年であり、夢は小説家という青年であった。長野県出身。諏訪青陵高校在学中から成績がやや低迷し、受験では立命館大、法政大などの試験を受けたが落ちてしまい、その翌年も早大、明大の受験に失敗。したがって浪人生であったが、上京して東京・新宿の早稲田予備校の学生になっていた。そして諏訪青陵高校時代の同級生である岩田平治が東京水産大学の寮生であったが、その寮こそ、京浜安保の幹部たちが溜まり場にしている明鷹寮であった。いつしか、この向山は京浜安保に参加するようになっていた。通称は「ムケ」であり、年齢的には若手であったが犲个帽修┐疹説家志望青年瓩箸いΕャラがウケたのか、年上の大槻節子(当時23歳・横浜国大生)の交際していた。

早岐(はいき)やす子(当時21歳)は長崎県出身。佐世保南高校卒業後、日大看護学院へ進学し、その日大看護学院で中村愛子、伊藤和子と親交を持っていたが、1970年末頃に中村愛子が永田洋子にオルグされたのを切欠として、結局、中村、早岐、伊藤が京浜安保に入った。この三人は共に看護学院生であった事もあり、別名「京浜三人娘」と呼ばれた。その京浜三人娘の中で、早岐だけが中退になっているのは、1971年に卒業論文拒否闘争のリーダーとなって学内闘争を展開した為、同校から退学処分に処された為であった。

小袖ベースでの訓練は、思いの外、苛酷なものであった。食事といえば麦雑炊にインスタントラーメン、野草、サバ缶。トイレは穴を掘って埋めるだけ。寝る時は、狭い小屋の中でスシ詰め状態であった。

そして向山茂徳が大槻節子と交際している事が話題になった際、永田洋子に罵りを受けた。大槻の元の彼氏は獄中に在り、その大槻と向山が交際している事を「痴漢」や「泥棒猫」となじっていたという。これは後々の惨劇の序章であり、永田の嫉妬深さを示す逸話でもある。この山岳ベースで行われたキャンプ(軍事訓練)には、その大槻節子も参加していたので、単なるありがちな冷やかしにも思えるが、それは後に判明する。

元より仲間内では向山を心配していたという。ストイックな生活に馴染めない文学青年と認識されていた為であったと思われる。

1971年6月5日、向山は遂に周囲に下山を表明した。

「僕はテロリストとして戦えても、党のためゲリラ闘争を持久的に戦うことはできない。小説も書きたいし、大学にも行きたい」

と、思い切って打ち明けた。しかし、周囲が猛反対したので、その下山表明を撤回した。

翌6月6日、この日の射撃訓練中、向山は「小便に行く」と言って姿を消した。そして親戚宅で「もう学生運動は辞める」と話し、同月9日には母親にも会って同様の話をし、その上で別の下宿部屋を借りる為のお金を受け取った。

同年6月10日、永田洋子率いる京浜安保は向山茂徳の脱走を受けて、小袖ベースが警察にバレる可能性があるとし、秩父連山に入って行き、笛吹川から塩山に下りた。山梨県東山梨郡三富村のアパートに入り、そのアパートを「塩山アジト」と呼んだ。

その後、向山は高校時代の同級生で京浜安保に入るキッカケになった岩田平治の元にも姿を現す。そこで向山は岩田に、小袖ベースの訓練に参加してきたが脱走してきた事を説明した上で、岩田に不満をぶちまけた。

「(山岳ベースで)やることは作業と自己批判ばかり、息が詰まって一ミリの自由もない」

「あんなクソみたいな所で、クソみたいな連中と一緒にやっていくのは、まっぴら御免だ!」

と、怒りをぶちまけた。(この向山の怒りというのも、後の連合赤軍リンチ事件の序章になっている。)

その後、向山は瓶コーラを自動販売機に補充するアルバイトをしながら東京・練馬区のアパートに引っ越してしまった。もしかしたら敏感に永田洋子の危険性や、京浜安保の危険性を感じ取っていた様子も窺がえる。

早岐やす子は6月2日から、その山岳ベース・キャンプに参加していたが、参加から10日程度経過した時点で、限界を感じた。早岐は「向山君のように無断で山を下りるのはよくないと思うので…」と前置きしてから下山の意志を表明した。早岐には、日大板橋病院に勤務する医師の恋人もあり、正直に、「(その)彼に会いたい」とまで打ち明けた。

しかし、永田率いる京浜安保は、そういう体質ではなかった。周囲からの執拗な説得に次ぐ説得となり、結局、この早岐も前言撤回に追い込まれた。

同年6月15日、悩み続けたらしく早岐は脱走を試みる。しかし、この脱走は他のメンバーに見つかって、未遂に終わった。脱走未遂を起こした早岐は殴られ、以降は脱走しないように見張られるようになった。永田は、この早岐やす子の脱走防止の監視役を中京安保出身の小嶋和子に命じた。

早岐は、例によって自己批判させられた。その中で早岐は、今後は作戦の為に積極的な兵士となりたいので、作戦の為の交番調査にも参加したい旨の表明をする。

その決意表明が認められる。そして、同年7月13日、早岐は静岡県の磐田駅前交番の調査中、仲間に「トイレに行ってくる」と言ったまま、行方をくらませた。(この早岐やす子の逃亡については、若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍〜あさま山荘までの道程」と角間隆著『赤い雪』(読売新聞社)では、ここに記した内容と少し異なる内容で描かれているが、この「トイレに行く」として逃亡した箇所は、2019年刊行の別冊宝島編集部編『証言 昭和史のミステリー』(宝島SUGOI文庫)の「新資料から読み解く連合赤軍〜狂気の原点印旛沼事件」を参照している。)

向山に次いで早岐にも脱走された事で、山岳ベースには脱走者対策用の牢屋がつくられた。脱走者を連れ戻して、その牢屋で再教育してやろうというのが、その牢屋をつくった理由であった。

同年7月15日、山岳ベースで異様な状況が発生する。向山と交際していた筈の大槻節子が、裏切られた怨嗟を含めてらしく、永田洋子に向山の殺害を提案したのだ。数週間前までは、大槻と向山は結婚を匂わせるかのような話をしていたが、この日、大槻は

「向山を殺るべきです」

と、自ら永田に提案したという。(このクダリには諸説あるのかも知れませんが、比較的最近公開された裁判資料等によると、これが実相だったよう。)

大槻節子の大胆な変節にも驚かされる訳ですが、これにも理由があり、当の大槻節子になると、「人間的な感情を完全排除することで、真の革命戦士になれる」という、或る種の洗脳的革命幻想に陥っていたと思われる。これが、この異常な大量連続リンチ殺人事件を起こした、核心部分でもある。

また、この大槻が向山殺人を永山に提案した呪わしい日に、京浜安保と赤軍派とを統一しての「統一赤軍」が発足する。この「統一赤軍」という名称は、獄中にあった川島豪によって改称を迫られ、この「統一赤軍」は、結局は「連合赤軍」が正式名称として用いられる事になる。



◆印旛沼事件〜後編

1971年7月19日、新たに発足した統一赤軍の最高幹部・森恒夫は、京浜安保内で起こっていた出来事を知ってか知らずか、

「スパイや離脱者は処刑すべきではないか?」

と語ったという。

1971年7月21日、大槻節子が永田洋子に報告をする。

大槻いわく

「向山は組織のことをテーマにして小説を書き始めている」

「早岐は喫茶店のマスターに『山に行っていた』と言っている。(仲良しの)中村愛子には『山を下りて、せいせいした』、『狭いアジトで、オイルサーディンみたいにぎゅぎゅう詰め。眠れたものじゃなかった』等と話している」

と、報告したとされる。

大槻からの報告を受けた永田洋子、坂口弘、寺岡恒一の三人は、同月31日に話し合いを行ない、その際、寺岡の「殺るか」という一言から、向山茂徳と早岐やす子の殺害計画が具体的に動き出したという。

1971年8月2日、早岐やす子は、大槻節子と中村愛子から

「もう一度、話そうよ」

と誘い出され、京浜安保のアジトの一つであった墨田区向島の小林荘なるアパートに誘い出された。(ここで名前の挙がっている中村愛子は、日大看護学院の学生であり、同看護学院の早岐やす子、中村愛子、伊藤和子は、京浜三人娘などとも呼ばれていた間柄だった。)

その小林荘に、翌3日に金子みちよ(24歳)と杉崎ミサ子(24歳)がやって来て、早岐を囲むようにして女たちの酒盛りが始まった。この酒盛りでは、早岐の飲む酒とつまみには睡眠薬が仕込まれていた。早岐は、疑わなかったのか、その酒席で酒を飲み、意識が朦朧となった。この朦朧とした早岐を、一味はクルマに乗せて千葉県印旛沼へと運んだ。

ここから先の早岐やす子の殺害に関与した殺人実行部隊は、吉野雅邦(23歳)、寺岡恒一(21歳)、瀬木政児(21歳)、小嶋和子(22歳・中京安保)であった。裏返せば、誘い出したのは大槻節子、中村愛子であり、睡眠薬を盛ったのが金子みちよ、杉崎ミサ子であることが分かる。永田洋子は直接的には手を下していないが、裁判では主犯は永田洋子だと判断されている。

睡眠薬を盛られた早岐を小林荘から連れ出すと、既に、そこには小嶋和子がハンドルを握っている乗用車が待ち構えていた。早岐やす子は、乗用車の後部座席に吉野雅邦と寺岡恒一に挟まれるように中央に押し込まれ、その状態で印旛沼へと向かった。

※ここ以降、服役中の吉野雅邦に何度も何度も面会してドキュメントを仕上げたという『赤い雪』の生々しい描写も含みます。

この車内では、先ずは寺岡が早岐に警察に組織の事を何も喋っていないのか、険しい表情で切り出した。実際に早岐は逃亡の際、追手を振り切る為に交番に駆け込んだが、結局は組織の事は話すことなく、咄嗟に道を尋ねていたと思われる。後部座席の左右の寺岡と吉野とが早岐を挟んだ状態で詰問していたが、その途中、早岐が

「やめてっ、もういや……絶対に嫌だわ」

と言った事に吉野が逆上し、早岐の胸倉を掴んだ。早岐は花柄のブラウスを着ていたが、その拍子でブラウスのボタンが引き千切れた。

「やめてよ! いやらしいっ、辞めたいから辞めるって言ってるのに、しつこいわねっ!」

と、早岐が語気を荒げて返したが、その早岐の言葉に車中の男たちが激昂した。

助手席に座っていた瀬木政児が、振り向きざまに「この野郎っ!」と怒鳴りながら早岐の顔面を力一杯に殴りつけた。その瀬木の一撃によって、早岐は鼻骨が折れ、鼻血がドッと吹き出した。調子に乗ったのか、瀬木は更に二撃目の拳を早岐の顔面に浴びせた。早岐は唇が切れて、泡を含んだような鮮血を吐き出した。

早岐やす子は強い精神力の持ち主であったかも知れない。この期に及んでも

「女をいじめるだけが、あなたたちの革命なんだわ。あなたたちは永田の言う事には文句一つ言えないくせに」

と、今にして思えば図星の指摘を言い放ったが、その発言は火に油を注ぐことにしかならなかった。

その言葉は吉野と寺岡を逆上させ、早岐のブラウスをびりびりに引き裂き、胸から下腹部から、気が狂ったように早岐やす子に鉄拳を浴びせた。

ハンドルを握っていた小嶋和子は後部座席で起こっている異常な事態に動揺し、かなりの猛スピードでクルマを運転していた。早岐やす子は車中で瀬木、吉野、寺岡からさんざん殴られた為に気を失ってしまった。

印旛沼についたのは、日付が変わった8月4日(5日か?)、午前1時を過ぎた頃であった。月のない真っ暗な夜であったという。

何のことはない、最初から一行は早岐やす子を殺害し印旛沼の畔に埋めてしまうつもりだったのだ。印旛沼の畔に着くと、吉野と寺岡は持参したスコップを持って降車し、目ぼしい場所に穴を掘り始めた。瀬木は外部から誰か来ないか見張る為に見張り番として降車した。車の中には失神している早岐やす子、それを運転席の小嶋和子が見張っていた。

一時間余り経過すると、穴の深さは70cmほどの深さに達していた。この位でいいのかと吉野の思った頃、暗闇に小嶋和子の声が響いた。

「大変っ 早岐さんが逃げようとしているっ!」

吉野と一緒に穴を掘っていた寺岡が血相を変えて闇の中へ駆けて行き、クルマの方へ向かった。早岐は既に満身創痍、それに半裸状態のまま、クルマから脱出しており、印旛沼近くの土手の方へ死力をふりしぼって走っていった。しかし、その状態の身体で逃げ切れるものではなかった。

見張り役をしていた瀬木政児が、早岐に追いついたらしく、真夜中の印旛沼に

「こん畜生! ふてぇ女だ!」

という怒号が響いた。直ぐに寺岡もやってきて、「この野郎、死ねっ!」という怒声と共に早岐の下腹部を力一杯に蹴り上げた。吉野の視点からは暗闇の中に早岐の白い肢体が浮かび上がって見えた。

「助けて! お母さん、助けて!」

という早岐やす子の絶叫が闇をつんざいた。

遅れて早岐に追いついた吉野は、クルマの中から毛布を持ってきて、その毛布を早岐に被せた。すると、調子に乗った瀬木が毛布をぐるぐる巻きにして、そのまま、毛布でぐるぐる巻きの早岐を殴ったり、蹴ったりした。

吉野が寺岡に

「どうしよう?」

と尋ねると、寺岡が言った。

「構うもんか。絞め殺そう。永田さんもそう言ってたし、やっちまおう」

瀬木が持ってきたビニール製ロープを早岐の首に巻き付けて、左端を吉野が、右端を寺岡が握った。そして寺岡が叫んだ。

「せーのって合図で一斉に引っ張るんだ。足を、こいつの顔にかけて引っ張るんだ……いいな、せーのォっ!」

寺岡の具合に合わせて、吉野も力一杯、足をふんばってロープを引いた。すると、グキンという鈍い音が聞こえた。早岐の脛骨が砕けたような音だった。

寺岡が毛布を剥いで、早岐の顔を覗き込んだ。早岐は両目をカッと見開くようにして絶命していた。

「証拠を残さないように」という事で、早岐やす子の下着などもすべて剥ぎ取って全裸にしてから、その遺体を埋めた。以降、連合赤軍リンチ事件では遺体の処理は全裸にして埋める事が不文律の掟となり、男女ともに例外はない。証拠を残さない為の措置だという。



後に、早岐やす子を殺害し、印旛沼の畔に埋めてきたことを吉野雅邦が最高幹部の永田洋子に報告すると、永田はガラガラ声で言った。

「まだ終わってないわよ…向山が残ってるじゃない」

「向山君の隠れ家も分かったんですか?」

と尋ねると、永田は

「私の目は節穴じゃないわよ。あいつは西武池袋線の富士見台にいる。大槻を応援につけるから、できるだけ早いとこ、始末してきなさい」

と吉野に命じた。

ここで思い出して欲しいのですが、向山茂徳と大槻節子は男女関係にあった。少なくとも向山が脱走する前までは、そうであった。その大槻に、この向山殺害計画の手伝いをさせたという事である。向山は、元彼女である大槻節子に誘い出される。


1971年8月10日、この日の朝、向山茂徳は母親からの電話で目を覚ました。

「茂ちゃん? 母さんや。あのな、今晩7時の汽車でな、マモル(茂徳の弟)がそっちにつくから、面倒みてやってぇな」

長野県の実家の弟が東京へ行くから、その弟の面倒をみてくれという電話であった。向山茂徳は

「マモルの事は任せといて。オレ、エビフライの美味い店、見つけたんだ」

「そんな贅沢せんでいいから、二晩くらい泊めてやってね」

「うん、わかった」

向山茂徳は、跳ね起きて、その日は弟を迎える為に部屋の掃除をし、買い出しに行った。向山が買っていたのは、コーラやカップラーメンであったが、確かに弟を迎える為の準備に一日を費やし、気が付けば夕方になっていた。

電車でやってくる筈の弟を迎えに行く為に身支度を整えていたところ、ピン、ポーンと、呼び鈴が鳴った。

向山が警戒心もないままにドアを開くと、そこには大槻節子が立っていた。

「こんにちは。お元気?」

と大槻は、以前の調子であった。きっと向山にしてみればバツが悪かったものと思われる。小袖ベースでの訓練では大槻節子を置き去りに、組織(京浜安保)を裏切って単身、下山したのだった。

「うん、まぁ、適当に…」

大槻は室内を覗き込んで、

「あら、素敵なお部屋じゃない」

と玄関口に一歩、入り込んだ。向山は、そのまま、元カノに籠絡されてしまう。向山は大槻に

「あん時は、ごめんよ」

と、脱走を詫びた。おそらく微妙な空気が流れたが、大槻は気にしている素振りもなく、

「ね、ね、折り入って相談したいことがあるのよ。ちょっとだけ、付き合ってくれない?」

「う、うん。でも、オレ、今、出掛けるところなんだ。今日、弟が田舎から上京してくるから新宿駅まで迎えに行かなければならない」

「あら、そう……よかった、私も新宿に用事がるの。一緒に行ってもいい?」

「うん、そら、まぁ、構わないけど…」

向山は20歳で、大槻は23歳。そこら辺の年齢の差を考慮すると、断れなかったのかも知れない。結局は、二人で西武新宿線に乗って新宿駅へ着くまで、大槻のペースに向山はハマった。ぺしゃくちゃと電車の中でしゃべっている内に、付き合っていた頃の調子を思い出してしまった可能性が高い。

大槻が言った。

「私がおごるわ。時間まで、その辺で飲みましょうよ」

「ありがたいな。ここのところ、全然、飲んでなかったんだ」

「じゃんじゃん、やりましょうよ。お金はたっぷりあるわ」

大槻は、したたかに向山を煽てたらしく、「あなたって、強いわね」などといって酒を飲ませた。気持ちよくなってしまった向山はグラスを空けては、氷をカラカラと鳴らした。弟の事なんて忘れてしまったのか。

大槻はオトシにかかった。「淋しいの」や「心細いの」等、偽の女の涙を流しながら、向山を籠絡させてていった。

「あ、そうだった、今晩、(向山の高校の同級生でもある)岩田さんのところで、集まることになってたんだ…」

「岩田(平治)と会うの?」

「ええ。……あっ、そうだ、ムク(向山)も一緒に来ない? いま、岩田さんは是政(これまさ)のアパートに住んでるのよ」

「岩田かぁ、会いたいなぁ…。でも、弟が来るからなぁ…」

「でも、弟さん、スペアキーを持っているんでしょ? だったら頃合いを計って、後で電話して岩田さんたちと一緒に、盛大な歓迎パーティーをしてあげればいいじゃない」

それが地獄へ行き電車の入口であった。弟はスペアキーを母親から渡されている筈で、また、アパートの場所も教えてあると今朝の電話で母親から聞いていた。東京で上手に生活しているところを弟に見せてやりたいという気持ちもあったと推測できる。なので、向山は大槻に言われるまま、その是政行きを承諾してしまった。

新宿駅から国電、中央線で武蔵境駅へ行き、そこから西武多摩川線に乗り換え、その終点が是政だった。元カノの大槻が集団リンチに手引きをしているとも知らず、向山は大槻に甘えるようにして電車へ乗り、そのまま是政駅で降り、岩田が居る筈のアパートへ案内された。

中学、高校と同級生だった岩田平治がドアの向こうに居るものと信じて、向山は、その一室のドアを開けた。

ドアの向こうに居たのは寺岡恒一であり、寺岡が「よう、久しぶりだな」と、不気味な顔で向山を迎えた。その部屋には岩田の姿はなく、寺岡恒一の他には吉野雅邦、瀬木政児が居座っていた。

向山は、ようやく事態を飲み込んで、背後の大槻節子を振り返って発した。

「や、約束が違うじゃないか! 大槻さん、岩田が待っているって言ったじゃないか!」

「すぐ来るわよ。ゆっくりウイスキーでも飲んで待ちましょうよ。私は、ちょっとトイレに行ってくるから」

といってドアをバタンと閉めた。これによって、吉野、寺岡、瀬木の部屋に脱走者・向山が取り残された。

「まぁ、いいじゃねーか、上がれよ」

と誰かがいい、寺岡と瀬木が戸口に立ったままの向山の両脇を抱えて、部屋へと引きずり込んだ。

「オレは、岩田に会いに来たんだ」

と向山は言ったが、次の瞬間、寺岡が

「うるせェ、大人しく座ってろってんだっ!」

と怒声を浴びせながら足払いをし、向山を畳の上にねじ伏せた。続けて寺岡が

「てめぇ、何でここに呼ばれたか分かってるんだろう?」

と、凄みを利かせて言った。向山は

「わ、わかった。反省している。ふ、ふ、深く反省している」

と、震えながら言った。しかし、「もう遅いんだよ!」と吐き捨てるように寺岡が言い、向山の顔面を殴った。瀬木が用意しておいた睡眠薬入りのウイスキーを持って傍らへ来て、向山へ「飲め、飲むんだよ」と飲酒を強要した。向山が、そのグラスを拒否すると、そのグラスを向山の顔面に投げつけ、間髪入れず、膝頭で向山の下顎を蹴り上げた。その膝蹴り一撃で、向山は後ろ向きに転倒、血ヘドを吐いた。

吉野も立ち上げって、向山を責めた。

「オマエ、どうして逃げたんだ! オマエ一人のためにみんながどんなに迷惑したか、わかってるのか? 裏切り者を放っておくわけにはいかねぇんだよっ!」

すると向山は涙声で、震えながら謝りはじめた。

「ぼ、ぼ、僕は…ダメなんだ……とても、みんなと一緒についていけないんだ…勘弁してくれ、見逃してくれ…」

吉野は「泣いたって、もう遅いんだよっ!」と言いながら向山の腹を蹴った。続けて、寺岡と瀬木とが

「やっちまえっ!」

と向山に飛び掛かり、殴る蹴るの暴行をし、たちまちのうちに向山の顔は血塗れとなり、その大きさはフットボールのボールのように膨れ上がった。

向山は、最後の力を振り絞ってドアの方へ向かい、逃げる素振りをみせると、「逃がすもんか」と瀬木が向山を押さえつけ、その押さえつけられた向山の顔面に寺岡がウイスキー瓶を振り下ろした。

グシャッ、という気持ちの悪い音がして、その次の瞬間には、周囲にウイスキーの匂いが立ち込めた。

「くたばりやがったか?」

と言いながら瀬木が向山の髪を掴んで引き起こそうとすると、一握りすると、髪が抜けた。顔を上げた筈の向山、視線を向けると、グシャリと、ひしゃげた鼻柱があった。口や鼻だけではなく耳からも血が噴き出していた。最早、人の顔の原形を留めていなかった。しかし、それでも向山は呼吸をしていた。

「こいつ、まだ、息してやがる!」

「まずい、ここで死なせちゃ、絶対にまずいぞ!」

吉野は、向山を、つい先日、早岐やす子の亡骸を埋めた印旛沼に埋めることにした。吉野が向山の頭側を持ち、寺岡が足を持ち、虫の息の向山を、その一室から担ぎ出して、クルマへ積み込んだ。

外では、大槻節子が見張りをしていた。この時も運転手は小嶋和子であった。

印旛沼へと向かう車中で、向山茂徳が息を吹き返した。車中で向山は泣きながら懇願した。

「助けてくれ、何でも言う事をきく。もう、絶対に裏切ったりしない。お願いだ」

挙げ句、向山は大声で泣き叫び出した。これはマズいと瀬木と吉野が顔を見合わせていると、寺岡が「絞め殺しちゃおう」と提案した。早岐やす子を絞め殺した時のノウハウが既に、この連中にはあった。同様にビニール製のロープを向山の首に巻き付けて、急遽、その車内で絞殺することにした。

「や、やめてくれ」

という向山の懇願に構うこともなく、寺岡は吉野にロープの端を引っ張るように促した。狭いクルマの後部座席で、それは行なわれた。運転をしていた小嶋和子は、後部座席で起こっている戦慄的な出来事に動揺してか、アクセルを強く踏み、一行を乗せたクルマは時速90キロ以上の高速で走行していた。

「せーのーォ!」

その寺岡の掛け声でロープが引き絞られた。向山は鶏が締め上げられたときと同じような声を発したかと思うと、その首がくびれた。目玉が飛び出し、舌が垂れ下がった。

寺岡が、小嶋の運転を冷静に注意した。

「おいっ、スピードを落とせ! ポリに捕まったら大変じゃないか」

吉野は、向山の遺体を早岐の遺体と同じ場所に埋めようと思ったが、余計な事をして永田に責められては大変だと考え直し、早岐を埋めた場所から少し離れた場所に穴を掘って埋めた。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ