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カテゴリ:格闘技 > UWFと猪木イズム

2017年刊行の『証言〜UWF最後の真実』(宝島社)では、前田日明、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのる、安生洋二、山崎一夫、田村潔司といった人物らが、UWF分裂劇について語った証言を収録しており、キーマンの内の佐山聡、高田延彦を欠いているものの、おおよそ、その誕生から分裂までの経緯が語られている。

このUWFの問題、私自身は前田日明派として物事を見ていたのですが、後年になって「前田日明」への不満の声らしいものが多々あるように思えるようになり、一体全体、何だったんだろうと捉えていたのですが、証言を搔き集めたものを目にしてみると、なんとなく自分なりに、その分裂劇の実相のようなものも見えてきてスッキリとしました。なんだかんだいって、既に名前を挙げたUWF出身とかU系と呼ばれたプロレスラーは、それなりに一時代を築いたプロレスラーであり、確かに記憶に残っている。確かにUWFブームみたいなものが、1983〜1984年にかけて大いにも盛り上がったのを記憶している。新しいスタイルのプロレスの登場であり、途中からは新しい時代の到来、その象徴のように輝いて見えたのは確かですかねぇ。



1983年8月10日、初代タイガーマスクとして四次元プロレスを披露していた佐山聡が、新日本プロレスとテレビ朝日とに内容証明郵便を送り付け、新日本プロレスからの離脱を宣言する。佐山聡の新日本プロレス離脱の意図は判然としない。しかし、この佐山聡は、いわゆる第一次UWFを語るには欠かせぬ人物である。第一次UWFでは、その看板選手は前田日明であったが、そこに「スーパータイガー」の名前で佐山聡も参加しており、この佐山聡のシューティング構想が第一次UWF崩壊劇の元凶のように語られている。

この佐山聡については、70年代から猪木が「ウチの佐山はあらゆる格闘技を身に着けていて…」という具合に語っていたような記憶があるし、梶原一騎が主催した「格闘技大戦争」に参加、そこで佐山サトルは、プロレスラーであったにも関わらず、マーシャルアーツ(これは全米プロ空手と訳されていた)のマーク・コステロとキックボクシングルールで対戦、ただただ、6ラウンド、押され続けたまま、判定負けしたという異種格闘技戦を経験していたという。これ、視聴した記憶があるかな。まったく見せ場のない凡戦であったと記憶している。猪木が「佐山サトル、佐山サトル」と名前を出していたのでホープなのだろうと思っていたものの、その試合は殆んど何も出来ずに敗北した試合であった。

1977年11月14日、日本武道館に於いて「格闘技大戦争」の興行があり、そこで佐山聡は、キックボクシングルールで、全米プロ空手のマーク・コステロと6回戦を行ない、ほぼ見せ場ないままに判定負けを喫した。これが、起点であったと思われる。この佐山サトルVSマーク・コステロ戦について、前田日明と藤原喜明とが語っている。


藤原の弁
「あの試合は素晴らしかったよ。だって、あのときの佐山はキックの練習を始めて半年ぐらいだよ? それが6ラウンドだか7ラウンドまでやりきったからね。殴られても蹴られても、最後までたってだろ? ほかのヤツだったら、1ラウンドでもう立ってられないよ」

前田の弁
「俺らが新日本の若手だった頃、当時の猪木さんは神様みたいに偉い人っていう感じで、みんなが『社長! 社長!』って尊敬していて、とくに佐山さんなんかは『猪木さんは神様』っていう感じだったんだよね。それで猪木さんもそういう佐山さんをかわいだっていて、『佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ』って言ってたんだよ」

そんなニュアンスがあったような気がする。そうじゃないと、そういうルールで戦わせないだろうし、おそらくはテレビカメラの前でも、そういう発言をしていたのではなかったかなぁ…。だからこその、コステロ戦であった。しかし、実際には、佐山は何も出来ぬままに判定負けしてしまったのだ。佐山サトルの才能は本物であったが、さすがにキックボクシングのルールで戦うってのは、見通しが甘かったんでしょうねぇ。

再び前田の弁
「佐山さんが武道館でやったキックのマーク・コステロとの試合で、なにもできずに負けちゃったでしょ。あれがたぶん猪木さんのなかで凄いショックだったんだろうね。『佐山ならいけるだろう』って思ってたのに。あの試合は俺らが見ても『なんで佐山さんはなにもできないんだろう?』って思ったんだよね。キックのルールなんだからしょうがないとかって言うんだけど、それ以前の問題でまったくなにもできなかった。

それで猪木さんも『佐山でこれなら、ほかのヤツは難しいな』って思ったんじゃないのかな。〜中略〜それぐらいね、佐山さんの運動神経のよさ、身体能力の高さをみんなもよく知ってたから」


前田日明の回想に拠れば、コステロ戦では長州力や藤原喜明あたりも「なんで佐山は何もできないんだ?」のように述べていたというが、前述したように藤原喜明は「あの試合は素晴らしかったよ。やりきったからね。ほかのヤツだったら1ラウンドも立ってられないよ」と証言している。(前田証言を採れば、藤原喜明も試合直後には、そう言っていたのかも知れない。)

そしてまたまた藤原の弁となりますが、単刀直入、「佐山は天才」と藤原喜明は語っている。前田日明や高田延彦は、カール・ゴッチ道場に留学した藤原喜明、その藤原喜明と新日本プロレスの道場でスパーリングをする事で、そのサブミッション技を含む技術を磨いていった。佐山も確かに藤原喜明と一緒にカール・ゴッチ道場へ留学したが、佐山の場合は、その後も期待を背負ってかメキシコに遠征し、更にはイギリスにも遠征し、それで、あの空中殺法のようなものも体得したプロレスラーなのだ。なので、新日本プロレスの道場でスパーリングをして技術を磨いたという期間がない。それなのに、何故、佐山はサブミッション技についても高い技術を持っているのかに藤原が答えている。

「あいつは天才だからだよ。俺はゴッチさんに習った技を、イラストに描いて覚えて、それを何度も反復練習することでみにつけていったけど、あいつは教わると、『ああ、こうやればいんだ』ってわかっちゃう。力学もメカニズムも考えずに、できちゃうんだよ」

「でも、天才ってのは教えるのが下手なんだよ。できないヤツがいると、『バカ野郎、そんな簡単なこともできないのか!』となってしまう。自分が簡単にできてしまうから、できないヤツがなぜできないのか、理解できないんだよ。佐山は昔からそうだったな」


こう並べてみると、この藤原喜明による「佐山は天才論」は、非常に説得力があるように思えてくる。その天才の欠点にも言及している訳ですからね。また、この佐山が、第一次UWFの分裂の引き金になっている事にも繋がっており、且つ、何故に、佐山聡が魅せるプロレスを完成させたタイガーマスクとして一世を風靡しながら、シュート構想になってしまったのかの遠因も探ることができそう。つまり、アントニオ猪木の格闘技世界一路線という構想、その構想を引き受けてしまったのではないだろうか? それこそ、猪木から「佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ」とまで期待されながら、実際には何も出来なかった事がトラウマ、いやいやトラウマではなく、それを発条(ばね)として、その猪木の夢の具現化を追求し、プロレスからリアルファイトへと転身する事になっていったのではないか? なんてね。


しかし、この佐山聡はスーパータイガーとして第一次UWFに参加、そして第一次UWFのエースとして頭角を現すことになる前田日明と、不穏試合を起こす。その不穏試合、VHSビデオで視聴した経験がありました。前田のキックが急所に当たったとかで試合が紛糾、怒ったスーパータイガーはリングを降りて引き揚げて行ってしまった試合で、ビデオで視聴しても意味がさっぱり分からなかった記憶がある。当時は、〈この前田と佐山との間ではどちらが強いのかハッキリさせてはいけないので、故意に仕組まれた無効試合なのだろうな〉と思っていたのでしたが、どうやら、正真正銘の不穏試合だったよう。団体の運営方針で揉めていた佐山と前田との間で、プロレスとは異なる原理での争いが発生してしまったというのが事の真相だったよう。

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どうしても見つからないのですが、前田日明の自著とされる書籍を読んだ経験がある。『格闘王』とか『格闘伝説』とか、そんなタイトルだった気がするものの、20年以上は昔なので記憶もおぼろ。ですが、どうも山本小鉄からは「トンパチ」と呼ばれていたらしい事が綴られていたのだったかな。聞き慣れぬ言葉だったのですが、仮に翻訳するなら「ハネッカエリ」のような意味であったか、つまり、新日本プロレスの若手の中でも、前田日明という若手は「トンパチ」と認識されていたらしい。そのトンパチな前田日明が、新日本プロレスの経営でクーデターのような動きをホントに見せていたという。

思えば力道山の死後の日本プロレスは乱脈経営となり、そこから全日本プロレスと新日本プロレス、それと国際プロレスへと選手が散っていった。その分裂騒動の裏には、間違いなく乱脈経営があり、その経営を糾弾したのがアントニオ猪木であった。ややあって、不正を糾弾したアントニオ猪木は逆に日本プロレス側から「会社乗っ取り」を画策したと反撃を受けて、日本プロレスから離脱。水面下では各テレビ局が動いており、独立、後に新日本プロレスが立ち上がる。日本プロレスの大エースであったジャイアント馬場にしても、日本テレビが背後に回り、全日本プロレスを立ち上があり、母体であった日本プロレスは馬場と猪木を失い、急失速し、2つのチャンネルでテレビ中継枠を持っていたがスター選手のいないプロレス中継が視聴率を取れる筈もなく、打ち切られる。日本プロレス残党は全日本プロセスへ。

時代は繰り返すという感じですが、UWFの誕生も似て見える。演じる役回りは変わり、この1984年の動きというのは、アントニオ猪木らが猪木が興した会社「アントン・ハイセル」に新日本プロレスで上げたカネを注ぎ込み、莫大な負債を抱えており、1983年8月、新日本プロレスの選手らはクーデターを起こした。これによって、アントニオ猪木は社長職を辞任し、坂口征二も副社長を辞任、猪木の片腕であった新間寿も謹慎処分になるという騒動が発生した。この1983年8月というのは、同月10日に佐山聡が内容証明郵便で新日本プロレスに決別を告げたタイミングである事からすると、そもそも佐山聡も、この会社経営に対しての不振から新日本プロレスを離脱したものと推定できそう。

この事態は放送局であったテレビ朝日をも巻き込んむこととなり、テレビ朝日は「猪木抜きでのテレビ中継は有り得ない」と介入し、後に猪木と坂口は元の役職に復帰を果たした。しかし、猪木の片腕、敏腕マネージャーなどと呼ばれていた新間寿は、そのまま、新日本プロレスを放逐されるという経緯を辿った。その新間寿は新プロレス団体の旗揚げを画策し、それがユニバーサル・レスリング連盟であり、通称「UWF」であったという。

1983年8月10日、佐山聡がいち早く内容証明付き郵便を新日本プロレスに送り付ける。

1983年8月23日、この日は大宮スケートセンターで興行があったが、この日、藤波辰巳を先頭に山本小鉄、長州力らが猪木・坂口・新間をやり玉に上げて抗議。試合のボイコットも検討されていたという。前田日明の場合は、まだまだ若手であり、後ろの方についていっただけであったが、前田は複雑な心境であったらしい。というのも、前田をスカウトしてくれたのは、その新間寿でり、前田からすれば恩義もあれば面倒も見てくれる人物であり、その新間寿が新日本プロレスから離れる事は複雑な感情だったと前田自身が語っている。

結局、新間寿は新日本プロレスを追放され、その新間寿がUWF創立を画策した。そして新間は、前田日明をUWFに参加させるべく、口説いた。

「猪木とタイガーマスクも、後から合流する。フジテレビもついている」

と。

その第一次UWFに、アントニオ猪木もタイガーマスクも参加するという新間の構想は、ホンモノだったのだろうか? この詳細は分かり難い。佐山聡は電撃引退し、東京・世田谷にタイガージムをオープンさせ、そこでは佐山聡に着いて行く形となっ山崎一夫、通称「山ちゃん」はインストラクターになっていた。また、前田日明も、偶然、二子玉川の高島屋内の紀伊国屋書店で偶然に佐山と鉢合わせし、その場で「一緒にやらないか?」と誘われたが、当時の前田日明は諸々の理由で金銭が必要であり、佐山の誘いを受ける事は難しかったし、やはり、新間寿に世話を受けており、その新間からUWFへ勧誘されていたので、それを断る事は考えにくかったらしい。なので、佐山にシューティング入りの勧誘を受けはしたが、前田はそれを断って、自らの選択によって第一次UWFへの参加を決断したというのが実相であった事になる。


1983年11月1日、新間寿が新日本プロレスを退社。

1984年1月29日、新日本プロレスと契約していた剛竜馬が遠征先の函館から失踪。

1984年2月11日、佐山聡が「タイガージム」をオープンさせる。


新間寿の証言に拠れば、この第一次UWF構想は、人脈を持っていたビンス・マクマホン・シニアのWWFとUWFとを契約させ、UWFにアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンを呼べるようなプロレス団体にするという構想であった。佐山聡が参加してくれれば、それに越したことはないが、実際には佐山聡と新間寿との間には太いパイプはなく、むしろ、佐山は新間を敬遠したがっているような状況であったというのが新間の語る証言である。他方、アントニオ猪木のUWF参戦については新間は信じていたという。しかし、事実はどう転んだのかというと、アントニオ猪木は、UWFには参加しなかった。

その後も新間はラッシャー木村、剛竜馬などをUWFに参入させている。しかし、選手集めは難航し、大宮スケートセンターで行われた第一次UWFの旗揚げ戦では、ポスターには、猪木、タイガー、長州といったスタープロレスラーが印刷されているにの関わらず、新生団体UWFのエースを務めたのは前田日明であった。いわば、押し出される形で新団体のエースになったのが、前田日明であったらしい。

既に述べた通り、UWFとは、その構想の時点では脱プロレスの意識は無かった事になる。そのUWFという名称を考えた新間寿にして、WWFと提携し、フジテレビをバックにした新しいプロレス団体を旗揚げしようとしていたのが分かる。そのUWFのリングで披露されるプロレスは、別段、シュート系でもなかければ、プロ格闘技路線でもなく、団体の信念としてロープに飛ばされても戻ってこない、ハンマースルー無視を絶対的な信念として掲げていた訳でもなかったらしい。ただただ、新日本プロレスの分離劇であったらしい。思うように選手が集まらぬ中、前田日明がエースに押し出され、そこに集まったメンツでプロレスをやってみたところ、新日本プロレスの藤原組のスパーリングの延長線上のような、そういうプロレスになっただけというのが、このUWF誕生のキッカケだったらしい。

それを面白がって、週刊プロレス(ベースボールマガジン社)がUWFを「新しいプロレス」と位置付けて大々的に取り上げた為、UWFは既存の台本のあるプロレスとは異なり、真剣勝負のプロレス、競技性に則った新しい時代のプロレスとして認識され、UWFブームを惹き起こしたというのが真相らしい。

では、実際のUWFで行なわれていた試合とはプロレスだったのかというと、やはり、これはプロレスであった。前述したように新日本プロレスの道場でゴッチ流のそれを藤原喜明が取り入れ、兎に角、スパーリングを行なっていたものが原型だという。打・投・極のような、シンプルなものであり、稽古であるスパーリングを試合として披露しても地味になってしまう事は分かっていたので、プロレスの要素、つまり、エンターテイメント性を完全に排除する事は、当たり前にしていなかったというのが、UWFの実相らしい。

1984年3月2日、ラッシャー木村と前田日明が、新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」を無断欠場。

1984年3月6日、新宿のビルに「UWFユニバーサル・プロレスリング蝓殖廝廝謄錙璽襯鼻Ε譽好螢鵐囲¬阻槁堯廚箸いΥ波弔掲げられる。

ラッシャー木村、前田日明は、この新宿のビルに看板が掲げられる僅か4日前に新日本プロレスを無断欠場し、新間寿のUWFに移籍を巡る動きの中での無断欠場であった事が分かる。

しかし、新間寿の構想は、最初から躓いたらしい。新間は「猪木も来てくれる」と思っていたが、猪木は来なかった。おそらく、テレビ朝日の上層部までもを巻き込んで、猪木を保留工作が為されたものと思われる。

1984年3月8日、毎週水曜日夜8時からUWFを一時間枠で中継すると発表していたフジテレビが、テレビ中継の中止を発表。UWFにアントニオ猪木、タイガーマスクが参加するという話であったが、どちらも難航している事が明らかになった為であるという。

1984年3月26日、前田日明がニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、ピエール・ラファエルと戦い、勝利し、そこでWWF認定インターナショナル・ヘビー級王者として「UWF」と刻印されたチャンピオンベルトを巻く事となる。同時に、正式に前田日明はUWF入りを表明。

1984年3月30日、新日本プロレスに残留する立場であった藤原喜明が、

「個人として、前田の野郎を潰す」

と発言する。これは藤原喜明がUWFの旗揚げ興行に単身で殴り込みをかけてやるという発言であったが、これを新日本プロレスも容認した。プロレスといった興行世界では、ライバル団体の事務所に敵対する団体のプロレスラーが押し掛けてくる事が実際に過去にもあったらしい。その辺りの激しさは否定しようがない世界でもある。但し、この場合の藤原の「前田の野郎を潰す」という発言は微妙にも思える。前田憎しから出た言葉なのでしょうが、プロレスという見世物世界、プロレスファンからすれば、そうした遺恨の要素は歓迎され、「これは愈々、面白い事になってきましたっ!」と内紛をもエンターテイメントとして受け止められてしまう、虚構綯い交ぜの世界でもあるのだ。

高田延彦は前田日明の弟分のような立場であった事もあり、前田日明を追って渡米。ロサンゼルスで前田と会い、一緒に帰国。

1984年4月9日、高田延彦もUWF参戦を表明。

1984年4月11日、3100人満員の観客を集めて、埼玉・大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行ななされる。ポスターには、アントニオ猪木、タイガーマスクも刷られていたが、メインイベンターは前田日明であった。(この時から前田はリングネームを「前田明」から「前田日明」に改めた。)

1984年4月17日、旗揚げシリーズの最終日、蔵前国技館会場に藤原喜明が姿を現し、ここで前田日明との一騎打ちが実現する。試合は両者フェンスアウト。試合は延長になったが、両者KOという決着で終わった。

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1984年6月27日、藤原喜明と高田延彦が正式にUWF入りを発表。

1984年6月28日、初代タイガーマスク(佐山聡)の、翌月下旬に開催されるUWF無限大記念日興行への参戦を発表が発表される。この際、タイガーマスクは「ザ・タイガー」に改名。併せて山崎一夫のUWF参戦の発表される。これに対して新日本プロレスは、タイガー、藤原、高田のUWF出場は契約違反に当たるとし、法的措置を取ると明かす等、選手移籍を巡ってのゴタゴタが発生する。

UWFは、新間寿の思惑とは別にして「脱プロレス」という方向性の、つまり、シュート要素の強いプロレスとして方向性が定まってゆく。これによって早期からUWFへの参加が決定していたラッシャー木村や剛竜馬、グラン浜田らはUWFスタイルと合わずに去ってゆく事になる。また、木戸修はUWFへ合流。

この頃、実際に観客を呼べるのは佐山聡であり、しかも、その佐山聡のシューティング構想はプロレスからエンターテイメント色を排除し、競技性の高く、最早、プロレスとは異なる格闘技興行を志向していた為、それがUWFを分裂させてゆく。シュート路線のプロレスは概ね好評を得たが、どこまでエンターテイメント性を排除すればいいのかという大問題が早くも降りかかった。興行は、観客が入らねば成立しないし、スポンサーもつかないのが現実であった。

また、既にシューティングを立ち上げていた佐山聡は、山崎一夫をインストラクト―にしており、もっぱら練習はシューティングのジムで行なっていたのでUWFの道場へ顔を出す事はなかったという。UWFの道場内でも、スパーリングは上位選手が付き人の若手レスラーを相手にするものだった。これは従来のプロレス道場も同じであり、実は上下関係が厳しい世界でもあるので、若手レスラーが実力上位のスター選手と自由にスパーリングをする関係性ではなかったという。これは、若手の育成にも関係しており、若手は若手同士でスパーリングをして研鑽してゆくしかないという意味であり、同時にスパーリングで若手選手が上位選手との実力差がない事を示すこと、或いは実力としては上であるとして台頭する事は不可能になっていたという。

佐山聡は、UWFに2リーグ制の構想を持っていたという。実力上位のAリーグ(佐山、藤原、前田、高田、山崎)と、実力下位のBリーグに分けるという構想であった。如何にも競技性を追求した構想であったが、それで興行が成立するのかという問題があったし、或る時期までには前田日明はUWFのエースとなり、新時代のカリスマ的な人気を獲得してゆく存在になっていた。競技性を追求していった場合、仮に前田日明や高田延彦のようなUWFを支えている人気レスラーが下位選手に敗れるような事態が発生すれば、それもまた興行の行方を危うくするリスクが伴っていた。競技性を追求したい佐山聡は孤立してゆき、一方でUWFは前田日明という新たに誕生したカリスマも手放せないビジネス的なジレンマに直面したものと思われる。

勿論、前田日明や高田延彦のセメントでの実力は折紙付きであり、そこに疑念を掲げる余地はあんまりない。とはいえ、脱プロレスの新時代のプロレスとして脚光を浴びたUWFでは、実力至上主義と無縁ではなかった。前田日明はサブミッションは、言われている程、上手くなく、どちらかというと体格と馬力とでサブミッションに補っている強さであったという。高田延彦は、その前田日明から弟分のように可愛がられた実力派であり、且つ、スター性も持っていたが、後に高田延彦もUインターのエースになる頃には同じ問題によって若手とのスパーリングはしない練習スタイルとなってゆく。前田日明や高田延彦の少し後発には船木誠勝、鈴木みのるらが存在しており、実際に第二次UWFでは一緒になるが前田や高田が船木や鈴木のスパーリングに付き合う事は難しかったと思わる。この言い方を変えれば非常にリスキーであった事が分かる。実力至上主義、競技性の高いプロレスに移行すればいいと考えるが、そもそも、それをやってしまうと興行的に成立しなくなってしまうという経営的ジレンマがあったと思われる。前田も高田も「ガチンコに応じる覚悟はあった」と返答する事が予想されるが、そもそも、それぐらいリスキーな事でもあり、少しでもスター選手となって経営にタッチするようになると興行面を考え、若手選手にも給料を払わねばならないという事情に直面する事になるのだ。

故に、過熱するUWF人気の裏では前田日明は経営に深く入り込むようになり、その事が前田日明に対しての不満となって、鈴木みのる、船木誠勝らの中で高まってゆく。後に、パンクラスとリングスとが激しく対立し、且つ、安生洋二が前田日明への襲撃事件を起こす伏線も、そこにあったと思われる。この「興行か実力主義か?」という悩ましい問題を最も早い段階で惹き起こしていたのが、実は「アイツは天才だった」と回想される佐山聡ことタイガーマスクであった。



1984年8月、「ザ・タイガー」は「スーパー・タイガー」に改名。また、カール・ゴッチがUWF最高顧問に就任する。

1984年9月11日、「UWF実力ナンバーワン決定戦」に於いて、スーパー・タイガーが前田日明をチキンウイング・アームロックで下す。

しかし、佐山聡の周辺にはショウジ・コンチャという快人物があった。

1984年10月19日、浦田昇UWF社長が佐山聡のマネージャーをしていたショウジ・コンチャへの強要罪で逮捕される。ショウジ・コンチャをUWF社長が暴力団関係者を使用して恐喝したという容疑であった。

1984年11月2日、佐山聡がコンチャを背任横領罪で東京地検に告訴する。

ショウジ・コンチャは一時的に佐山聡と親しくしており、新間寿に拠れば、ショウジ・コンチャを佐山聡が「お父さん」と呼ぶほどの心酔ぶりで、そもそも新日本プロレスから佐山聡が離脱した事にも関与していたのが、このショウジ・コンチャであったと証言している。

新間寿に拠れば

私は浦田に『佐山を絶対に使うな。ショウジ・コンチャが裏にいる以上は災いの為になるぞ』と言ってたんだ。浦田は『先輩に言われたことは絶対に守ります』と言ったのに、ヤクザを使ってショウジ・コンチャを脅かしてさ。ショウジ・コンチャと佐山が取り交わした書類を浦田が取り上げたという事で、コンチャが丸の内署に告訴した。浦田が右翼と付き合ってたのは知ってたけど。コンチャの件で暴力団が出てきたと聞いて『浦田のバカ、こんなヤクザ使って……』と思ったよね〜以下略〜」

となる。

この第一次UWFは、浦田社長逮捕によって、急遽、藤原喜明社長代行となったが、そもそも藤原喜明という人物は、経営マネジメントには関心が薄いタイプであった。週刊プロレスの関係者らは、このタイミングで、前田日明を社長に据えれば…と語っている。後述することになりますが、前田日明という人物は、敵も多い反面、相応に組織運営、会社経営にも尽力するタイプの人物であったと全般的に回想されている。

明けて、1985年8月18日、衝撃的な事件がUWFを巻き込む事となる。テレビニュースでは、純金の現物まがい商法で問題視されていた豊田商事、その会長であった永野一男会長が、記者らが詰めかける中、そこへ押し掛けてきた暴力団員風の男2名によって刺殺されるという日本列島を揺るがした大事件が発生。しかし、この豊田商事はUWFのスポンサーであった。これによって、テレビ東京で予定されていた地上波放送は中止に。

1985年7月25日、この日、第1回UWF公式リーグ戦を藤原喜明が優勝で飾る。同日、前田日明がスーパー・タイガーを逆エビ固めで下す。しかし、この前田とスーパー・タイガーの試合は、関係者が前田に佐山制裁をけしかけた為に発生した幻のシュートマッチと噂が立つ。(大田区体育館)

1985年9月2日、この日も前田日明とスーパー・タイガーの試合が行われたが、前田がスーパー・タイガーの急所を蹴って反則負けとなる。(大阪府立臨海スポーツセンター)

この不穏試合はVHSで視聴した記憶が私にも残ってる。非常に不可解な試合であり、会場は、この一戦に期待しているのは明らかであるが、妙に殺伐としており、前田の急所蹴りがあったからなのか、スーパー・タイガーの方も得意技のローリングソバットで前田日明の急所を狙いに行っているような、非常に危険な空気の試合であったのかな。佐山聡は険しい顔つき、その顔は蒼ざめており、それでいてマイクを叩き付けて花道を去って行った、おおよそプロレスらしくない試合であった。

1985年9月11日、前田日明は欠場。藤原喜明がスーパー・タイガーを破り、第2回UWF公式リーグ戦を制(連覇)する。

1985年10月3日、スーパー・タイガーの急病を理由にして予定されていた興行の中止が発表される。

1985年10月11日、佐山聡がマスコミを通じてUWFからの離脱を発表。


さて、前田と佐山の、あの不穏試合は、一体、何だったのか?

前田日明は、大阪臨海スポーツセンターで行われた不穏試合について、以下のように語っている。

試合前に伊佐早さんと上井が俺のところに来たんだよ。田中正悟も佐山さんに対してはああだこうだいってたけど、俺のところに直接やってきたのは伊佐早さんと上井。本当に試合直前にね、『もう佐山を潰してください!』って言ってきた。そりゃ当時は俺も佐山さんに対してむかっ腹を立てていたけど、爐修Δい試合瓩呂笋辰舛磴い韻覆い隼廚辰討拭それをやるならクビをかけてやらなきゃいけないと思ってたんだけど、でもやっちゃった。だから臨海の試合が終わったあと、俺はみんなに『長いことお世話になりました。今日を最後に辞めます』と言って退いた。だけど、みんなは佐山さんじゃなくて、俺を迎えに来てくれたんですよ。そのとき、高田なんかは『次、俺が佐山さんをぶち殺しますよ』とか言ってたけどね、当時の高田が佐山さんに仕掛けたら、本当に佐山さんはなにもできなかったと思う。〜以下略〜」

どうも第一次UWFでは、確かにシュート路線へ一直線の佐山聡に対して、UWFのフロント陣にしても所属プロレスラーにしても危機感を募らせていたらしい事が分かる。ロストポイント制や2リーグ制といった競技性を主張する佐山聡に対して、フロントから前田日明に「潰してください!」と依頼があり、前田がそれに応じてセメントを仕掛けた事により、あの不穏試合が発生したというのが真相と思われる。

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