どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:書籍・音楽 > 一曲観賞

「真夏の夜の夢」というと、或る時期から松任谷由実さんの「♪骨まで溶けるよな」という歌い出しの楽曲を思い浮べるようになりましたが、そういえば野口五郎さんにも「真夏の夜の夢」っていう楽曲があったよなぁ…。まぁ、いつの頃よりか、ものまねタレントのコロッケさんの物真似芸の影響で、モノマネをする場合の定番曲としてしか認識しなくなってしまっているのかな。冗談めかして野口五郎さんがコロッケさんに「僕のヒット曲が一つ減っちゃった。コンサートで唄っても観客が笑ってしまう」と悪態をついていましたが、実は、地味に、その効果があるような気も。。。


野口五郎版「真夏の世の夢」は、筒美京平の作曲・編曲なのですが全体的にフォークソング的にして、軽く演歌している野口五郎の楽曲の中では、傑出して斬新でポップな曲なんですね。この一曲があるかないかによって、野口五郎というアーティストの印象は変わってしまうかも知れない。やはり、野口五郎といえば、「私鉄沿線」、「君が美しすぎて」、「甘い生活」、「針葉樹」、「青いリンゴ」といった大人しい目の楽曲のラインナップなので、やはり、ここに「真夏の夜の夢」が入るか入らないかで、その幅に大きな差異が出る。(因みに「19:00時の街」も名曲ですが、ちょっと来生たかおの「シルエットロマンス」にアレンジが似てしまっている。)

で、「真夏の夜の夢」、CDで聴いてみると、かなり斬新な曲だなと気付かされる。モノマネで毒されてしまった歌い出しとなる


その時、あなたはバラになり

その時、僕は蝶になり

この世の嘆きや苦しみを

忘れて覚えた蜜の味


ですが、これ、いきなり「胡蝶の夢」ですね。胡蝶の夢については後述しますが…。

そして、クライマックスの箇所というのを、よく記憶していなかったのですが、結構、冒険的なクライマックスの楽曲なのだ。


夢よ〜、夢よ夢よ〜

夢よ〜、夢よ夢よ、真夏の夢よ

深い〜、深い深い眠りに誘えよ

あなたはバラ、ぼくは蝶

あなたはバラ、ぼくは蝶

真夏の夜の夢〜


くはぁ、これは中々の名曲であるなぁ…と感じるに到って作詞を確認してみると、阿久悠センセイでありました。ああ、やはり、凄いなぁ。また、これを多段階の展開とした筒美京平の作曲も見事だったなぁ…とね。

先ず、歌詞ですが「その時、あなたはバラになり、その時、ぼく蝶になり」という冒頭の歌詞が、クライマックスの直後の「あなたはバラ、ぼくは蝶」の繰り返しによって確認されているのだ。そして、どれもこれも、真夏の夜の夢であったと唄っている。しかも、この締めは、上り調子のまま、「まなつのよるの〜、ゆめ⤴」と突き抜けるように歌われている楽曲だったのだ。このクライマックス部分の突き抜け方が、中々、カッコいい。本当は楽曲の持っている斬新さは、ホントは未だに色褪せていないと思う。

また、「あなたはバラ、ぼくは蝶」は二番になると「あなたは海、ぼくは舟」に言い換えられていますが、これも予定調和すぎると考えてしまう事も可能ですが、まぁ、よく出来ているといえばよく出来ている。そうした比喩の技法を、きっちりと守っていたのだなぁ…と。

「胡蝶の夢」とは、荘子の冒頭に示したものであり、つまり、「この世とは、夢のようなものである。夢の中の私は蝶であり、ヒラヒラと飛んでいる夢をみたが、この世と夢の差異なんて見極めることができるだろうか?」と示した人生観についての見識である。また、大海の中をさまよう一隻の舟という構図も、深遠を探れば、荘子の世界観に行き着けると思う。



こ〜の舟を 漕いで行け

お〜まえの手で 漕いで行け

オマエが消えて喜ぶ者に

オマエのオールを任せるな


という中島みゆき作詞の「宙船」あたりも同じですが、自己に対比しての外の世界とは、限りなく膨大、無限に近い大きさであり、その外海を、我々は一隻の小舟に乗ってたゆたっているようなものでしかない。横から他人が口を出してきて、その櫓を漕ぎ出したら、その自らの人生を他人の舵取りに委ねることになってしまう。だから、「お前が消えて喜ぶような卑怯な連中に、お前自身のオールを任せるなっ! お前の人生はお前が漕いでいくべきだ!」なのでしょう。

森進一には「花と蝶」という、かなり遠大な楽曲があり、作詞は御大・川内康範センセイであった。


花が、女で

男が、蝶か


であるが、これを全盛期の森進一が唸りまくって歌唱したので、

はうあぅながぅ おぅうんなで(花が女で)

おぅとこがぅわぅわぅ、ちょうおぅおぅくわぁ〜(男が蝶か)


ぐらいの歌唱法になる。

花が女で男が蝶という、この比喩は野口五郎が唄うところの「あなたはバラ、僕は蝶」の比喩と一緒である。

そして、川内康範&森進一コンビの場合は、「花が散るとき、蝶が死ぬ」と唄い、「蝶が死ぬとき、花が死ぬ」とまで歌った。実際に花が枯れてしまったら、花に依存していた蝶は滅んでしまうかも知れないし、蝶が花粉を媒介してくれなかったら花も死滅してしまうのかも知れない。やはり、情感を込めまくって、熱唱されてしまったときに、その情感は、ド迫力で伝わってくる。ここは目一杯の演出であるべきで「花が散るとき、蝶も死ぬ」という比喩によって、その男女の情愛の深さを表現したのでしょう。男女の仲というのは、心情的としては、きっと、そういう燃え上がり方をするものなのかも知れませんやね。

で、それを「真夏の夜の夢」も、しっかりと踏襲しているように見える。この阿久悠の「真夏の夜の夢」は、死には向かわず、よりニヒルである。意訳すれば、きっと、この狂おしい恋の炎は、真夏の夜が見せた幻想であるとして、その恋情を「夢」として片付けようとする。

夢よ〜、夢よ夢よ

夢よ〜、夢よ、真夏の夢よ⤴


と直線的に上昇し、地平に立つ自己から遠ざかってゆき、その夢は消えてゆく。

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桜田淳子が中島みゆきの全曲カヴァーをした13枚目のアルバム「二十歳なれば」を聴いていて色々と唸らされてしまったのですが、そこで改めて「おまえの家」という楽曲の持つ味わいについて気付かされました。おそらくブログにも記した記憶があって、中島みゆきのアルバム「愛してくれと云ってくれ」でも同曲を耳にしており、それが、中島みゆき的な味わいの世界である事は知っているつもりだったのですが、気のせいか桜田淳子ヴァージョンの方が、しみじみとした情感が伝わってきたかも。


雨も上がったことだし おまえの家でも

ふっと たずねてみたくなった


というのが歌い出し。それで曲名は「おまえの家」である。

そして、歌詞とメロディーは、気まぐれで訪ねた、爐まえの家瓩陵融劼鬚燭世燭晴里辰討い襦

けれど おまえの家は なんだかどこかが

しばらく見ない間に 変わったみたい


その爐まえの家瓩慮軸惴に立ってみると、以前には趣味ではなかった筈のレコードの音が漏れている。玄関先で顔を合わせ、しばらく沙汰のない事を軽く責めようとするが、「お前の方こそ」と言われそうなので、その言葉をのみ込み、なんだかそらぞらしいままに、おまえの家に、上がり込む。

爐まえ瓩男性なのか女性なのか、この両者の関係が友人同士なのか恋人同士なのかも実は判然としない。まぁ、察するに恋人同士、いや、一緒に音楽活動をしながら幽かに恋愛感情を抱いていたが双方ともに巧く気持ちを伝えられぬまま、一時期を過ごした擦れ違いの男女の図か。つまり、「雨もあがったことだし、訪ねてみるか…」と欲した方が男性で、不意に訪問を受けた側が女性とみるのがフツウの解釈だろか。いやいや、訪ねようと欲した側が女性で、訪ねられた側が男性か? まぁ、一応は男同士、女同士としても、その関係性は成立するかも知れませんけどね。

とにかく、【おまえ】と【あたし】という呼称しかでてこないので、色々と考えさせれてしまう歌詞なのだ。

爐まえ瓩枠鰻燭変わっている。新しい髪型はそれはそれで似合っているが、前の方がよかったんじゃないか等と思うが、余計な事を言うものではないなとして口をつぐむ。以前には、黒猫ではない猫を部屋に招き入れていたが、今、部屋にいる猫は黒猫である。以前には、ロクに磨いていなかったギターが、今はぴかぴかに磨いてタンスに立てかけてある。おまえの家で、おまえの変化を、どうしようもなく感じ取ってしまうのだ。

爐っと恋人でもできたのであろうな

つまり、気まぐれに訪ねてみたところ、その家、その人の様子がすっかり変わってしまっていて、そこで非常に、ギクシャクとした、それでいて、そのギクシャクした変貌の核心については問いたださないという機微の世界になっている。

ガスコンロの青い火を見ている。爐まえ瓩呂湯を沸かして、お茶をいれてくれようとしている。

「何を飲みたい?」とぽつんと尋ねられ、「喫茶店に来ている気はないよ」と返事するが、なんだか絶望的に噛み合っていない。もう、決定的に両者の距離感が以前とは違ってしまっている。そのぎこちなく、居心地の悪い部屋の空気――。

この気まずい空気を一発で変えてやろうと目論んで、故意に明るく話し掛けると、爐△い牒瓩量椶僅かに潤むのを確認してしまう。もう、どうやっても、この気まずさは取り繕えそうもない。

居心地の悪さを感じ取った語り手は、「今度、また、改めて来るよ。この後、仕事だから、これで失礼するよ」と視線も合わせぬままに切り出して、早めにオイトマ(お暇)する事とする。そう言うと、爐まえ瓩蓮屬い弔任睛茲討れよ」と昔ながらに応じる。戸外へ出ると、凍てつく風が吹いており、コートの襟を立てて、そこから仕事場へ向かうこととする。

気まぐれに訪ねてみた、あいつの家であったが、あいつは変わってしまっていた。昔のままで居てくれていると思っていたが、そういうワケにもいかなかった。あいつにもあいつの都合があるものだと思い知らされてしまった。そんな複雑な疎外感を抱えて、寒風の中、仕事場へ向かう。仕事後に、ギターで明るい曲を、メイジャーコードの曲を弾き語ってみるかと思うが、ムリしてメイジャーな楽曲を弾いてみたところで、きっと、しめっぽい音しか出ないだろうなと考えて、その雨上がりの日に気まぐれを起こした主人公の身の上に起きた一連が終わる――。


思うように会話が続かず、ガスコンロの青い火を見ているという描写は効きますねぇ。確かに、間が持たぬ時間というのは、人は、じっと火を見ていたり、煙があれば煙の行方を目で追うなどして、その気まずい時間をやりすごそうとする。

また、会話が続かない事の原因も薄々は分かっており、何かしら行き違いが生じてしまっているのだ。以前のように接したいが、色々と変化に気づいてしまっているので、そうもいかない。また、その変化を指摘し、その核心を突く事にも臆病になってしまう。

心が離れてしまった。

距離が広がってしまった。

率直に変化の理由を問い質し、その変化の理由を聞かされたところで、きっとショックを受けてしまう。「自分だけが昔のままで、取り残されてしまっている」という現実が冷たい。しかし、現実逃避するでもなく、全てを察する。いさぎよくあらんと、後腐れないようにと、とにかく、体裁を保たんと強がるが、内心では、激しく動揺している。

これだけの情感を一曲に詰め込めるものなんだなって感心してしまう。複雑な心情を歌詞にせんとしても、これら重層的な複雑さ、そして機微が表現されているってのは凄いなぁ。


好意というものがあったして、その好意には殆んど無制限のレベルがある。強烈な好意もあれば、そこそこの好意もあり、また、フツウの好意もあり、好きでも嫌いでもないというレベルもあり、あんまり好かないというレベルもあり、どうしようもなく嫌いであるというレベルもある。好意のようなものは、振り子の原理、可愛さ余って憎さ百倍という風に表出するもので、つまり、大好きであったが裏切られた場合には大嫌いになる。思えば、人付き合いであるとか、人間関係の多くは、好きでも嫌いでもないという線から少しだけ好意的か、少しだけ嫌いかが殆んどなのでしょう。大親友であるとか、恋人同士であるとか、そういう関係性の場合、稀にケンカ別れを起こすのが人間でもある。

大半は、好きでも嫌いでもないという基準線の周辺である。異性間である場合には、そこに淡い恋慕の情なども加わる。取り分け、入れあげているワケではないが、ひょっとしたら自分はあいつの事を好きなのかも知れないぐらいの自覚、その温度の熱情というのも考えられる。

桜田淳子さんは途中からアイドル歌手を超越していたかもな。花の中三トリオのように括られるのでアイドルという括りにしてしまいがちなんですが、そこから飛び出る。山口百恵さんにしても「いい日、旅立ち」や「秋桜」、「曼珠沙華」、「さよならの向こう側」等に顕著ですが、凄い名曲を残し出す。それが桜田淳子さんの場合も、これはアイドルの歌じゃないやなっていう曲が途中から続いている。中島みゆき作品としての「化粧」、「しあわせ芝居」、「追いかけてヨコハマ」であったり、あるいは歌手・桜田淳子としての大成を意識させられる「窓」なんてのもかなりの名曲で、思いの外、スケールが大きく、しかもちゃんと情感を伝える歌手になっていた事に今更ながら気付かされる。初々しい歌声の「黄色いリボン」や「私の青い鳥」あたりと比較すれば歴然、アイドル歌手から本格派の歌手に脱皮していた事に気付かされる。それは中島みゆき作品のカヴァーでこそ顕著であり、色々と唸らされましたかね。。。「朝焼け」とか「おもいで河」とかもいいし、「時代」も見事で聞き惚れましたし。

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「秋を感じさせる歌って意外と少ないんじゃないの?」と素朴な疑問があって、ネットで検索してみたんですが案の定、春夏秋冬の中では最も「秋の歌」が難しそうだと気付かされる。

基本的にはタイトルそのもののに【秋】が入っている曲、「秋」という季節を感じさせる歌詞として謳われている曲は、紛れもなく秋の歌に分類できそうなんですが、旋律が「秋らしい」という風にも展開されてゆく。


「これが秋を謳っている代表的な曲です!」というのが意外と少ないなぁ…という感じ。

◆「秋桜」山口百恵

◆「風は秋色」松田聖子

◆「風立ちぬ」松田聖子

◆「思秋期」岩崎宏美

◆「それぞれの秋」アリス

「9月」をテーマとした楽曲を「秋の歌」と解釈したとしても…

◆「September」竹内まりや

◆「すみれSeptember Love」一風堂

◆「九月の雨」太田裕美

ぐらい。

以下、その他なのに「秋の歌」としてセレクションされていた曲を挙げて行き、検証してみる。

先ずはオムニバスアルバム「秋歌」に収録されていたもの。

◆「私がオバサンになっても」森高千里

唄い出しが「🎶秋が終われば冬が来る」と歌っているが、あんまり秋のイメージがしない。

◆「思えば遠くへ来たもんだ」海援隊

唄い出しが「🎶駅のそばに咲くコスモスの花揺らして」と歌っているし、曲調も秋と言われれば秋であるが、そんなに秋を意識させない。

◆「SHOW ME」森川由加里

うーん。歌詞的には秋は唄われていないかな。まさかドラマ「男女7人秋物語」のテーマ曲だったというのが理由であろうか。

◆「コスモス街道」狩人

知らない人は知らないであろう楽曲である上に、狩人にして「あずさ2号」以上に歌謡。まぁ、味はあるんですけどね。「🎶右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道」ってフレーズは、確かに狩人の代表曲か。

◆「残り火」五輪真弓

歌詞として「🎶花はかげろう 秋はきまぐれ」とあり、曲調もばっちり「秋」です。しかし、五輪真弓さんの場合は代表曲「恋人よ」を秋の歌として挙げる方も多いよう。例の「枯れ葉散る夕暮れは…」が秋をイメージさせるっぽい。【枯葉】は秋の象徴か。そう言われてみるとそうっすね。(【木枯らし】は冬だけど。)

他にないかと思ったら、阿久悠作品のオムニバスアルバム「思秋期」がありました。

◆「秋のホテル」森進一

ダメだ。知らない。聞き込めば味がわかるのかも知れませんが、森進一の歌っている楽曲の中では埋もれてしまう。

◆「枯葉」森進一

ダメだ。知らない。以下同文。

◆「春夏秋秋」石川さゆり

ダメだ。知らない。これは、ちょっとした発見したであるような気もしましたが、何かインパクトが低いよなぁ…という印象。(言ってしまうと、加山雄三さんが歌う「サライ」に似た旋律を演歌調にした感じ。)

この他にも「花占い」桜田淳子、「風見鶏」桜田淳子、「月は東に」チェリッシュなどがありましたが、どれもピンと来ませんでした。

で、その阿久作品群の中で、一つ、伊藤咲子さんの「乙女のワルツ」という楽曲に耳を傾けることになりました。

なんだっけ、これ。「ひまわり娘」の伊藤咲子さんか…。うーん、いや、知ってる曲のような…と、非常に耳に残る曲なんですね。

「これ、すごい名曲なんじゃないの?」と思い立ち、検索してみると、ホントに名曲の誉れ高い楽曲でした。阿久悠さんの葬儀の際、BGMとして流されていた曲の一つとしてセレクションされている曲だったのだとか。作曲は、三木たかしさんで、大正時代の流行歌「ゴンドラの歌」のオマージュ的作品であるという。

志村喬が映画「生きる」の中でブランコに揺られながら口ずさむ、

「🎶 いの〜ちみじか〜し、恋せよ乙女〜」

と、あのフレーズに似ている。

実際、2度、3度と聞いてみると、この「乙女のワルツ」は屈指の名作のように感じるようになる。三木たかしさんのオマージュっぷりも見事なんですが、やはり、阿久悠さんの作詞家としての力量が活かされてしまっているなぁ…。気のせいか、伊藤咲子さんは思いの外、楽曲が揃っている印象もある。以前にも「木枯らしの二人」を、あれは地味ながら年代を越える名曲だと評したことがありましたが…。

初恋の苦しさを謳っており、基本的には、乙女の歌である。簡素な歌詞なのですが、凄い。コーラス&オーケストラを率いて歌う、

「つらいだけの 初恋 乙女のワルツ」

このワンフレーズだけで、じーんとさせてしまう不思議な魅力がある。勿論、これは別に私が乙女趣味なんじゃないのに、ですよ。

私の言葉で評するならば、「花鳥風月的な世界に、乙女の初恋という心情をかけている」という詩で、それを仕上げてしまうと、屈指の美しさになってしまうのだと思う。

「禅」を世界に広めた鈴木大拙に依れば、日本人の霊性が覚醒するのは鎌倉時代、武士たちと、鎌倉仏教と関係しており、それ以前の日本人の霊性は覚醒していなかったと述べている。つまり、平安時代の日本文化とは花鳥風月的な文化であるが、そこには霊性が投影されておらず、故に、花鳥風月を愛でるという特化した美的感覚を備えたのだろうと論じている。

多分、それは鋭い指摘だと思う。花を見て、その姿に何かを思う。鳥を見て、その姿に何かを思う。風に吹かれて何かを思い、月を眺めて何かを思う。まさしく、それなんです。実は、その美的感覚は表層的で、何か哲学的論考として掘り下げたものではなく、美的センスの世界なんですよね。

で、【霊性】というのも、その感覚美の世界ではない。霊性が覚醒してしまうとソウル(魂)を謳わねばならないという。霊性を覚醒させる以前の「蝶よ、花よ」と、自然を愛でる貴族階級の美的センスを嗜みむという段階があり、そこから抜け出して霊性が覚醒し、能動的に「我、戦わん」とか「あの世はあるのか?」等と展開させてきたものであるという。したがって、単純に感じたもの、感性の世界から霊性の段階へとステップアップしたのだ。しかし、花鳥風月の世界は感性の世界がベースになっているから、その美的感覚というものが日本人の基本要素になっているという。

だから、「白く咲いている野の花を、摘んで願いを掛ける」といった乙女チックな描写に対しても、日本人は、まっさらな心で、それを美しい当たり前の光景と見る。しかも、それは乙女に限定されない。

「生の営み」を、日本人は花の一生に喩える。花は咲き、やがて散る。

死を待っているような境遇の老人、老境を意識したとき、ブランコに揺られながら「恋せよ乙女」と口ずさみ、それが尚更に命というものの刹那さを引き立ててしまうのだ。美しいさかりがあるのを知っているから、直接的に自己投影できないのに乙女を花にたとえ「命短し恋せよ乙女」と歌うのだ。

「もの思う秋」(あれこれと思う秋の意)というけれど、これは、その意味で「秋の歌」に分類されているんだろうか。いや、阿久悠さんだと「人生の秋」か。

シンプルな歌詞がシンプルな旋律でひびく。

小雨ふる日は せつなくて

ひとり涙を ながし

つらいだけの 初恋

乙女のワルツ。
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中島みゆきでも聴いてみようかと、音楽CDをタワーレコードで物色。最近はタワーレコードも埼玉の郊外くんだりまで進出しておりまして、そこでは「なつかし横丁」というポップが付けられてワゴンセールになっていました。ワゴンセールではあるのですが、ホームセンターが売れたら儲けもんさねってノリで置いている感じでもない。そこら辺りが、さすがにタワーレコードで、やはり、品揃えがいいんですよね。

で、衝動的に、中島みゆきの「愛していると云ってくれ」を購入。なんで購入したのかって、なんとなくとしか言いようがないのですが、中島みゆきのベスト盤などには収録されていなかった「化粧」という曲が目当てといえば目当てだったのですが…。

このアルバムは特殊なんだろか。収録されている一曲目の「元気ですか」ってのは、ただの詩の朗読じゃないか。うーん、このアルバムって初めて聴いている訳じゃないぞって。中学一年生のときに、友人のY君の部屋で聴かせてもらった記憶があるアルバムだ…と、ホントに記憶が蘇る。「わかれうた」が収録されており、私自身が初めて中島みゆきの「わかれうた」を聴いたのは、このアルバムだったのだと思います。

このアルバムには大ヒット曲でもある「わかれうた」も収録されているし、金八先生挿入歌して名高い「世情」も収録されている。ですが、やはり、⦅アルバム⦆という概念で捉え直して今、聴いている訳ですが、問題は「化粧」でした。中島みゆきの「化粧」って、こんなに泣きながら歌っていたのか…というオドロキ。間違いなく、泣きながら歌っているんですよね…。つい、先日、週刊現代が企画した「歌のうまい人ランキング」の女性部門の第四位に中島みゆきがランクインしていた話、その経緯にも踏み込んだばかりでしたが、こんなのもアリだったのかと改めて思い知らされる。知っている方は知っているのでしょうけれど、ホントに泣きながら歌われてる。

手紙らしいものの朗読である1曲目「元気ですか」に始まって、2曲目が「玲子」、3曲目「わかれうた」、4曲目「海鳴り」ときて、そして5曲目が「化粧」。歌詞といえば歌詞なのですが、もう、歌詞という範疇ではないというか、表現手法として、既に劇のようになっている。しかも、その詩の世界というのが、やっぱり、尋常じゃないんですよね。この曲を探していた訳ですが、今更ながら音楽CDを手にして、驚かされてしまう。

化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど

せめて今夜だけでも綺麗になりたい

今夜あたしはあんたに逢いに行くから

最後の最後に逢いにゆくから


と、まぁ、なんとなく歌詞も断片的には記憶している。ですが、私が断片的に記憶していた化粧の歌詞世界とは、「♪化粧なんてどうでも、いいと思ってきたけれど、せめて、今夜だけでも、綺麗になりたい」という歌い始めの部分。それとサビにあたる「♪流れるな〜、涙」というフレーズ。それから「♪バカだね、バカだね。バカの癖に、あゝ…」という部分で、つまりは、別離のワンシーンだという認識はあった。ですが、それは失恋にあたっての、失恋ソングであり、それを感傷的に仕上げたという部分を断片から組み立てて、その印象でした。

ですが、詩の世界は、更に深いんですよねぇ。いや、こりゃ、短歌をやっているオバサンたちが中島みゆきを絶賛している理由が分かってきた…。

というのも、これは次のような戯曲のような構成を、かなり精巧につくってある。そのストーリーも凄いんです。

化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど、せめて今夜だけは綺麗になりたい」と詠(うた)う。

何故なら、それは別れる事になった男に逢いに行く為である。今夜、これから、その男に逢いに行くんです。

せめて今夜だけは綺麗に化粧をしたいという心情は、今夜、これから逢う男の中で、綺麗な印象を残したいからであり、別れる男に「いい女であったから別れて惜しいことをしたな」と後悔させたいが為に、「せめて今夜だけは綺麗になりたい」なんです。

さて、別れる男の元へ、いわば、最後に逢いに行く訳です。

何の為に? 別れを告げる為に。いや、そんな抽象的じゃありません。その「今夜だけは綺麗になりたい」とばかりに、必至に化粧をしてみせた女は、これまでに男に差し出してきた「恋文の束」、「手紙の束」を、取り返しに行っていたんですね。

この部分を、完全に私は見落としていました…。ここが分かると、この情念の深さが数倍に膨れ上がってくる。

「あたしが出した 手紙の束を返してよ」

と、確かに歌っている。

【手紙】なのだから必ずしもラブレターの類いとは限らないのですが、常識的には恋文であり、ラブレターでしょうねぇ。その類いの手紙というのは、別れる段になると、羞恥心の塊でしなかなく、誰しもが、「あんな手紙を出すんじゃなかった」と後悔したりします。それはラブラブを誇るカップルさんたち特有の経験ではなく、実は、そこそこ、多くの人が体験したり、するものでもある。現代の若者の場合は便箋にしたためる手紙から、「ケータイメール」というようなサイバーなグッズに変化していますが、中身とか、思いとか、心情では、そんなに変わっていないでしょう。

別れることなんて無いだろうと思い込んで付き合っていたり、或いは、「愛して欲しい」と思ったり、「愛してもらえているつもり」で、したためている。だから、別れなるものが確定的になると、もう、過去に出した手紙は羞恥心の塊であり、その物的証拠になってしまう。

だから、その手紙の束を取り返しに行っている。

あたしが出した 手紙の束を返してよ

誰かと二人で 読むのは 辞めてよ


うわぁ…、なんて悲しい心情であることか…。つまり、別れた男と、自分とは別の女とが手紙を読むことを怖れている。確かに、それは最大の恥辱かも知れませんやね。

つまり、心象風景としては、

男「くっくっくっ。これ、前に付き合ってた女からの手紙なんだけどさー、なんつーの、重たいっちゅーか、暗いちゅーか、思いつめるタイプっちゅーかさ。まぁ、読んでみ」

女「あら、何、このコったら、いやだ。ここまで書いたら重たいわよねぇ…。ねぇ、ねぇ、このコ、あんたに愛されてるつもりだったのかしら」

男「さぁね」

というぐらいの、非常に残酷な⦅二人⦆というのを想定し、それが自分を惨めな思いをすることになる。

元カレが、そこまで実際問題として薄情なのかは兎も角、そこに浮かび上がってくるのは「絆の断絶」であり、「縁の断絶」で追い込まれてしまう、人の心というものでしょう。そこまで薄情ではないと思うものの、愛してもらえているつもりで書いた手紙の束なんてものは、やはり、精神的な恥部であり、二人に読まれるなんて可能性を想像してしまうと、いたたまれないので「返して」と詠っている。

なんで、あんな手紙を書いてしまったのだろうという、凄まじい後悔の念が湧き上がる。

バカだね、バカだね、バカだね、あたし

愛して欲しいと思っていたなんて

バカだね、バカだね、バカの癖せに あゝ

愛してもらえるつもりでいたなんて


となり、

今夜、死んでもいいから綺麗になりたい

こんなことなら アイツを捨てなきゃよかったと

最後の最後に あんたに 思われたい


となって、その思索が一応は終わる。

アルバムのタイトルが「愛していると云ってくれ」とになっていますが、つまりは、ここにかかっていたのかと、感嘆させられました。「愛していると云ってくれ」というフレーズは、その後に野島ドラマのタイトルになっているので、ピンと来ませでしたが、「愛していると云ってくれ」なんていうストレートな表現は、本来ならおかしい。気障でもなくベタすぎるのであって、カッコつけることになっていない。泥くさく、それは心の底からの渇望じゃないと、出ないフレーズでしょう。それこそ、愛されているつもりになっていたとか、この愛は永遠であるとか、そんな風に考えているアタマじゃないと出てこない。

で、私の場合、この頃の「中島みゆき」というアーチストに対して、「暗い歌ばっかり」という批判があったのを記憶している。「暗い」とか「重い」とか、そういうものですね。ですが、改めて、それらの評を考えると、チープである事がトレンドだったんですよね。今でも、そのチープであることがカッコいい事であるというトレンドは変わっていないでしょう。時代は常に、そちらで、年々、軽薄さを増して来ましたが軽薄さが美徳になってしまっているような気さえする。ダサいという言葉自体も既にダサくなりましたが、都会的センスに憧れた人たちが過去の自分を振り返って「ダサい」と今の自分はダサくないと間接的に言い聞かせ、過去のダサいセンスというものを蔑むことで自らの虚飾をむさぼってきた30年が、近30年間ぐらいのトレンドだった気もするんですよね。

ケーハクである事がカッコよく、泥臭くない事がカッコよく、以前であれば「気障ではないか?」とか「男なのにそこまでやるか」や「女なのにそこまでやるか」と思われたであろう、そういう事がカッコよいに変質している。

話を戻しますと、泣きながら声を打ち震わせながら確かに歌っている。巧拙で歌を眺める方法がありますが、あるいは「伝える力」の歌が巧い人は、つまり、歌が巧いのではないかという話とも合致してくる。

うわずった声で、泣きながら、確かに歌っています。

流れるな〜涙 心で止まれ

流れるな〜涙 バスが出るまでぇぇぇ


手紙の束を取り返した女は通い慣れた夜道を走って帰る。そしてバスに乗り込む。せめてバスが出発するまでは涙を流したくないので、涙よ流れるな、心で止まれと祈っている。


ホントに中島みゆきさんの表現力とか、その世界、その詩は異常じゃないかってレベルですごい…。以前にも「ファイト!」を取り上げて、ネガティヴ、ネガティヴというのだけれど、本当は「心」とか「心情」を詠うとなると、必ずネガティブな闇と向き合わざるを得ないのであって…。

また、【歌詞】ではなく、【詩】と記されている「元気です」なる手紙の朗読らしきものが気になってくる。まぁ、細かくは記しませんが、輪郭を説明すると、自分の元カレを奪ったのでははないかという疑念を抱き、ある女に電話をしているという女の詩です。元カレと、その女とがデキているのかどうかと探りを入れる為に電話を執拗にかけまくっている。今でいうストーカーもどきな行動でもある。ところが、電話で相手をしてくれる、その恋敵の女は、ストーカーもどきの女である私を傷つけまいと元カレとの交際を隠す。表面的には私にもやさしくて、とても恨む訳にはいかない。そんな行為を繰り返している自分に問いかける。「私は何を望んでいるの?」、「この女が振られればいいと思っているの?」と自問自答、葛藤し、そこから自己嫌悪する。そして、「今夜、私は泣きます」、と詠っている。

この世界はなんなんでしょう。情念といえば情念。情念を詠む詩人。情念を情念として歌えるアーチスト。


中島みゆき/愛していると云ってくれ
7netshopで2625円(変動するかも)


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一曲、まるまる聴けてしまうというか、聴かされてしまう歌というのが幾つかあると思うんですが、或る時期から、自分の中では、さだまさしさんの、この曲はスゴイなって事になっている。「償い」もビックリしましたが、「償い」の以前に、「遥かなるクリスマス」の方に驚きました。

ああ、こんな風に聴かせる手法というのが、あったのね…と。

既成のクリスマスソング、クリスマスというイベントは、なんかこう、目に触れてはいけないものにフタをして、自分たちが浮かれるイベントであったりする。でも、その浮かれている裏側には沢山の問題がある。

ロマンチックなもの、聖なるイベントを迎えた気分になって自分の心を清らかなものだと思いたいのが人情なのですが、ですが、そこへ社会問題をサラリと、いや、ドロリと塗りたくる。

貧乏性の人間というのは不便なもので、シアワセの中にあっても疑問を抱えている。絶えず「こんなに自分は浮かれていていいのだろうか?」とか「こんなに自分はシアワセでいいのだろうか?」という種類の疑問や不安を抱えているのがホントでしょう。で、それをストレートに訴えかけられてしまう。

静かに、チロチロと燃えている小さな「疑問」の炎が、曲が進行するにつれて、どんどんと膨らみ、それは大きな炎へとなっていく。気がつけば、もう、それは絶対に矛盾であり、怒り。そして、自分の無力さに気づき、その不公平を痛感しながら自分自身の小さなシアワセの有難味を痛感する。

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