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カテゴリ:歴史関連 > アヘン戦争

◆アヘンとは…

アヘンとは麻薬の一種で、未熟なケシの実の乳液を感想させてつくった赤褐色の粉末で、主成分はモルヒネ。鎮痛・催眠作用を呈する。これが18世紀半ば頃から中国では「昼寝の友」として、つまり、麻薬として吸引する用途で拡散した。

かのジャン・コクトーは「いちど、アヘンを知った後では、アヘンなしで生きることは難しい」という言葉を残したという。典型的な麻薬なのだ。

18〜19世紀頃の中国ではアヘンは「相思草」という別名があったという。男女が同衾した後、互いに離れがたくという心情があるが、断ち切りたくとも断ち切れない情を「相思の草」と表現したものだという。現在でいうところの都市伝説があった。アヘンとはケシから作られる麻薬であり、インドでアヘン用のケシ畑が灌漑されるときには、一組の男女に性交をさせ、その行為が絶頂に到ったタイミングで男女の胸を突き刺して殺害する。夥しい血が流れるが、そこを灌漑してケシ畑にする、だからアヘンには相思相愛の男女の割き難い執着心が乗り移っており、一度、アヘンを吸引したものはアヘンを辞められなくなるのだと民間では信じられていたという。

俗に「アヘン中毒患者は風邪をひかない」というが実際には、風邪に罹患しても風邪の諸症状を感じとる感覚が麻痺しているので、風邪を引かないのと同じという意味であった。また、不安や心配、苦しみ、悩みに対しても、感覚の鈍化が作用するので、苦しみを忘れさせてくれるものであった。斯くして中国で、アヘン吸飲が広まってゆく。

陳舜臣に拠れば、アヘンについて一言、付け加えて「東洋人の体質にあっている」という表現を使用している。動的ではなく静的、受動的であり、瞑想的。アルコール、酒類もまた人々の不安を払拭してくれるが、総じて賑やかに騒ぐのに対して、アヘンは飽くまで静的、受動的、瞑想的な麻薬らしい。中毒者はアヘン窟で煙管をくゆらせているが、騒ぐのではなく、静かに各自が煙管を吸引している。「昼寝の友」として愛好されたのが実相らしい。現世の苦しみから解き放ってくれる幻の薬こそが、アヘンの正体であった。



◆道光帝の時代

ヌルハチに始まる満州族の王朝、その清王朝の第8代皇帝が道光帝であり、この道光帝の時代にアヘン戦争が発生する。清王朝の最盛期は第6代皇帝の乾隆帝で清王朝が最盛期を過ぎて徐々に斜陽へ向かっていた時期が道光帝の時代であった。また、この道光帝自身もアヘンを吸引していたが自らの意志によってアヘンを辞めた人物である。

アヘン吸飲が拡大する中で、清王朝は国家の銀が海外へと漏出していく「漏銀問題」という形で政治問題となってゆく。この頃の清王朝は銀貨を流通させていた訳ではないが、貿易にあたっては洋銀と呼ばれるメキシコ銀貨などが使用されていた。その洋銀とて、フィリピンのルソン島などを経由して流通し、これを清王朝では銀の重量で度量衡を計る「両」(リール)とし、銀本位制を採っていた。自国で銀貨は鋳造していないが、洋銀の銀の重量は計れたので、自国通貨に固執していなかったらしい。

イギリスには19世紀まで、実はティータイムという習慣はなく、茶を飲むという習慣が出来たのは19世紀だという。「茶」は16世紀頃から欧州に伝わっていたが、それは薬のように認識されており、ティータイムが習慣となったのは19世紀なのだそうな。アッサム地方やセイロン島で、茶の栽培が始まるのは後年の事で、19世紀初頭から中期にかけて、欧州人は茶を購入するには支那(中国)から入手するしか方法を持っておらず、欧州人は支那から購入したい汎用品が沢山あったが、一方の中国は儒教文化圏であり、日本も同じですが、つまり、自国で必要なものは自国で調達するという農本主義が根っこにあるので、欧州品で欲しいものといえば、贅沢品・奢侈品に限定されていた。勿論、南蛮渡来の贅沢品・奢侈品は珍重されるが、それは圧倒的に汎用性の高い「茶葉」や「綿花」といった交易品を埋め合わせるほどの需要はなく、欧州と支那との間は、片貿易になっていた。その片貿易を解消する為にアヘンが中国に持ち込まれるようになると、貿易収支は逆転し、漏銀問題という形で表出した。

支那にアヘンが流入し始めたのは18世紀初頭で、1729年に禁令が出ており、これ以降、アヘンは密輸されていた事になる。1780年に重ねて禁令を出て、同1799年になるとケシの栽培も禁止としたが、アヘンは人々の間に拡散していった。


◆三跪九叩頭

清王朝と通商条約を結びたいと考えていたイギリスは、要人を北京へ派遣して清朝政府と交渉しようとするが、清王朝では皇帝に拝謁するには三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)という儀礼があった。これは3回跪き、その都度、頭を3回、合計9回、床につけるものであったが、使者は、これを拒否した為、謁見できていない。

1793年、イギリス使節として北京入りしたマカートニー卿は皇帝(乾隆帝)に謁見の際、この三跪九叩頭を拒否。謁見そのものは出来たが、開港させるという目的は果たせなかった。

1816年、同じくイギリス使節のアマースト卿が北京入りしたが、皇帝(嘉慶帝)に向かって三跪九叩頭の礼を拒絶したので、そのまま、退京させられた。

1834年、それまでイギリスの対中貿易は東インド会社が独占していたが、イギリスは産業革命後に発生した諸事情によって東インド会社による対中貿易の独占を辞め、新たに「領事」を意味する商務監督を広州に派遣する政策に切り替えた。(この頃まで支那でも日本と同様で、基本的には広州以外の港を開港しておらず、広州のみが貿易の窓口であった。)これに伴って、イギリスはウィリアム・ネーピアを初代の商務監督として広州に派遣した。


◆ネーピア対蘆坤

1834年7月、ネーピアはマカオに到着し、領事(商務監督)として、つまり、大英帝国の官吏として正式に大清国との通商条約を締結するという意図を持っていたが、清朝政府は東インド会社だろうが大英帝国の正式な官吏であろうが、その差異を理解しない。いわゆる中華思想であり、つまり、天朝は自分たちだけであり、それ以外の国で交際しているのは属国か朝貢国でしかない。そもそも清国は物資が足りており、交易を必要としていない、だから、「お情けで交易してやっている」というのが清朝の考え方であった。故に、夷人からの請願書を清朝の官吏は受け取ってはならないという厳格な運用が為されていた。対して、イギリスは何とか対等以上の関係に持ち込んで、清朝政府相手に通商条約を締結したい。

ネーピアは、時の外務大臣であるパーマストンと連絡し、軍艦で乗り付けており、勿論、ここには日本に於ける黒船来航と同様に、恫喝的な意味が含まれていたが、清朝は揺るがない。清朝が始まったのは1636年であるが、清朝初代皇帝ヌルハチは「後金」という国号を名乗っていた時代に明王朝を壊滅的な状況に追い込んでおり、その勢力の歴史は長い。ヌルハチの挙兵そのものは1583年であり、1616年には汗位に就任しているなど、ヌルハチの死後に「清」に国号を改称しているが諸々の制度は、ざっと200年も継続していた統治体制であった。

清朝は、ネーピアの請願を撥ねつけて、イギリスとの一切の貿易を官命によって停止させ、イギリス商館を軍隊を包囲し、イギリス商館に食糧を供給する者は死刑にすると布告する。孤立無援状態にする方法を採ったのだ。孤立状態にされたネーピアは、広州にアンドロマキ―号とイモウジェン号という軍艦2艦を広州に呼び寄せ、この2艦は清朝政府の禁を破って、虎門水口を通り、珠江を通って広州へと動き出した。虎門には砲台があり、両国間で砲撃戦が発生する。イギリスの軍艦2艦は軽微な犠牲を出しながらも強行突破に成功し、黄埔(こうほ)に到る。

清朝は、この軍艦2艦の珠江侵入に対して、古くなった艦船に石を積み込んで沈め、更には筏を無数に浮べて艦船の封じ込めを行なった。河底は浅いエリアに大きな障害物が沈んでいると大型艦船は座礁してしまうが、それを行なった。

砲撃戦そのものは大英帝国側の勝利であったが、戦況は清朝が制した。イギリス商館で籠城を続け居てたネーピアはマラリアに罹患し、重症化。そこへネーピアに対峙した両広総督・蘆坤(ろこん)は「公行への命令」という文書を出した。

「公行」とは「コンホン」と発音し、これは長崎の「出島」に相当する。当時の外国商人は公行を通して貿易していた。清朝の官吏は直接的に夷人と交渉してはならないので、全ては公行に命令するという形式となっていた。

「イギリスが希望するなら、東インド会社の大班のかわりに、国家の官吏を派遣するのも、そちらの勝手である。しかし清国側が、公行を通じてのみ夷人と接触するという旧制を継続することも、おなじくこちらの自由である筈だ。儀礼の訪問や朝貢使節の場合をのぞいて、わが国は外国とのあいだに、直接の関係をもったことはない。イギリス政府はネーピアの任命にかんして、事前になんら公式の通告をよこさなかったし、彼自身もいかなる信任状も持参してこなかった。あまつさえ、清国の法律を破って、商館内に兵員と武器を入れ、砲台に砲撃を加え、強引に内河に侵入してきた。……これはゆるすべからざることである。……天朝の兵馬、恐るべき軍隊、鉄砲、武器は山と積まれている。軍を動かせば、小さな軍艦のよく防禦しうるところではない。もしネーピアが前非を悔いあらため、軍艦を撤退して旧制を守るなら、余はいま少し猶予してもよい。もし彼がまだおのれの愚昧にめざめなければ、余は忍耐しえないであろう。天朝の軍隊ひとたびうごけば、宝石さえ彼らの面前で焼かれるであろう!」

イギリスの商務監督ネーピアは、清朝の両広総督・蘆坤に屈した。ネーピアは軍艦2艦を撤退させる命令書にサインをした。

1834年9月、ネーピアはマカオに姿を現したが担架で担がれていた。この頃のマカオは、清朝の支配にありながらもポルトガルはマカオを自在に使用できており、マカオが西洋人の拠点になっていた。マカオに到着したネーピアは、その到着から15日後に絶命した。
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◆アヘン商人

スコットランド出身の医師であるウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身の貿易商のジャームズ・マセソンは、1832年にジャーディン・マセソン商会を広州マカオに設立した。中国では、「怡和洋行」(いわようこう)と呼ばれていた。ウィリアム・ジャーディンは「アヘン王」の異名を持つアヘン密売人であったが、貿易商のマセソンとして立ち上げたのが、このジャーディン・マセソン商会であった。

このジャーディン・マセソン商会の設立初期は主にアヘンと茶の貿易で稼ぎ、その後、金融、海運、運輸業、建設業、不動産業保険、製紙、紡績などにも手を広げ、1898年に香港上海銀行と合弁で中英公司を設立、鉄道建設の借款にも乗り出した。第二次大戦後は拠点を香港に移し、その後、中華人民共和国成立後は多くの事業は中国政府に国有化されたが、その後も香港最大のイギリス系商社として残り、世界30ヶ国以上に100社を超す子会社を有する。

因みに、ジャーディン・マセソン商会は1859年に日本の長崎と横浜に代理店を置き、伊藤博文や五代友厚らのイギリス留学を助け、その後、貿易手数料取引を中心に業績を伸ばした。

ジャーディン・マセソン商会に限らず、この時期、それまで対中貿易が東インド会社による独占が解除された事によって、多くのイギリス系の貿易商が支那(中国)との交易に乗り出し、アヘンは清朝によって禁制されていたが密貿易されていた。最も大きかったのが、このジャーディン・マセソン商会であり、その他にもデント商会、メイズ商会らで、いずれもイギリス系。元々は個人貿易商であったが、商会、商社へと拡大していった。アメリカからもオリファト商会が対中貿易に乗り出していたが、アヘン密輸には直接的には関わらず、19世紀の清朝では比較的アメリカの信用は高かった事が分かる。後に触れる事になる清朝の欽差大臣としてアヘン問題に当たった林則徐ともなると、アメリカ人とイギリス人とでは信用の度合いが大きく異なっている。



◆弛緩論と厳禁論

蔓延してしまったアヘンをどう対応すべきかとなって、清朝内には弛禁論が沸き起こった。既にアヘンは蔓延してしまっているのが現状なのだから、禁制を弛める事が現実的な対応ではないのかという意見であり、また、そうする事で武力を背景にしているイギリスと上手に調和していく事が賢い選択であるという意見が、弛禁論であった。また、この弛禁論を採れば「政体としての清朝」は、生き延びる事が望まれる。

また、交易を行なっているギルドである公行(コンホン)からしてみても、いっそ、アヘンを合法化してしまえば、アヘンを取り扱えるようになる。イギリス商人と繋がっている公行からすれば、弛禁論は、やはり都合がいい。つまり、諸々の思惑によって、弛禁論が登場した。この頃、広州にはロスチャイルドと比肩する大富豪の伍紹栄は公行メンバーであり、やはり、弛禁論に賛同していた。

広州の学界の中核であったのは学海堂と呼ばれる学校であったが、その学長の呉蘭修(ごらんしゅう)が現実主義としての「弛禁論」を提唱し、文通をしていた広州で帝室関係の高級官吏であった許乃済(きょだいさい)が、その「弛禁論」をまとめて道光帝に上奏した。

弛禁論の要旨は、

A)これまでアヘンについては禁制とし、厳罰化に取り組んできたが、現況を直視すればアヘン吸飲者は増加しており、アヘン吸飲者は天下にあまねく満ちている。

B)禁令以前には税を取れていたが禁令にしたが為に税収にもならぬまま、密貿易が後を絶たず、税収にも寄与していない。これでは漏銀が収まる筈もない。

C)夷人との貿易を断絶せよという声もあり、天朝は微々たる税収を惜しむものではないが、アヘンを売るのはイギリスのみであり、イギリスの為だけに諸国との貿易を断絶するのはおかしい。

D)夷人の船は、大洋の外にあって、好き勝手な島を選ぶことができる。そこへ内洋の商船が行って密貿易をしているが、これは現実的に防ぎようがない。夷船は、福建、浙江、江南、山東、天津などにも出没している。広州の密貿易を断絶しても、密輸は防ぎようがない。

E)そもそも、法令というものは下っ端役人や無頼の徒によって、己の利益の為に利用されやすいものである。禁を厳しくすればするほど、不正役人は賄賂で懐を豊かにし、ならず者どもの密輸も巧妙化してゆく。既に、銃器で武装した快速船のようなものが登場しており、これを兵役巡船が拿捕しようにも拿捕は困難となり、不正役人やならず者こそが、掠奪を欲しいままにし、良民はシワ寄せを受けているが、これらはアヘン厳禁以降に起こっている事である。

F)アヘン吸飲者は、皆、惰眠を貪るような輩ばかりであり、天朝からすれば取るに足らない輩である。たとえ、アヘン吸飲者が死に絶えても、断じて人口・税収が減るおそれはない。したがって、いっその事、アヘンに薬品並みの税を課して夷商に納めさせるようにしてはどうであろうか。国富を流出するべきではなく、その損得はハッキリしている。

G)現在ではケシの栽培も禁止した為に、夷人に付け込まれ、このような商売をされている。我が国の土性は穏やかであり、仮にケシを栽培して我が国でアヘンをつくれば中毒性も低くなるだろうし、価格も安くなることが想定できる。きっと輸入に頼らないで済むようになる。明朝の時代にタバコがルソン島からもたらされ、その時にも煙害だと騒ぎになった事があったが、タバコも国内で栽培して製造するようになってから輸入は止み、また、タバコは人を損じることがなかった。国内でケシ栽培の禁制を弛めてはどうか? 9月に二毛作の稲を刈った後にケシを植えれば、2〜3ヶ月で花が咲き、結実する。農夫らにとっても利益になるだろう。

結構、この弛禁論は、衝撃的なんですね。昨今、こういう考え方をしていますよね。大麻解禁論などでも、上記の事柄に似た話になっている。

この「弛禁論」及び「弛禁論の上奏」に対して、批判が噴出する。危機感を覚えた学派が厳禁論を掲げてゆく訳ですね。「アヘンに対して、どう対処すべきか?」という政治的イシュー、そこに石が投じられた事により、言論や言説は活発化する。

上記のA〜Gに納得する御仁もあるかと思いますが、同時に、それがどれだけ本質から逸れた考え方になっているのか、批判も同時に想起させてくれる訳ですね。百家争鳴現象が起こる。そうまでして金銭的利益に偏った考え方でいいのか、アヘン吸飲者は死んでも税収には影響はないと言及しているが、そもそも、そうした政治観でいいものなのかどうか…。

因みに、日本でも或る時期までは漢籍の影響が残っており、保守派は【経世済民】(けいせいさいみん)なんて言葉を使用していた。この「経世済民」を以って「経済」である訳ですが、これを広辞苑第六版で引くと、「世の中を治め、人民の苦しみを救うこと。経国済民。」とある。(より正確には【経済】という単語は【経国済民】に基づくものだが、現代語としての【経済】とは、すなわち英語圏の【economy】であり、経国済民の略語として実際には使用されていない旨、大修館四字熟語辞典に記されている。)

弛禁論への反論として、様々な批判が起こった。それは広州だけが開港しているにも関わらず、近年はアヘンの密貿易船が北方にまで出張して稼いでいるという事実を指摘し、その上で広州以外ではアヘンを扱えなくすべきだという主旨での厳禁論であった。

反弛禁論も起こって、朱嶟(しゅそん)、許球(きょきゅう)といった人物が反弛禁論としての厳禁論を道光帝に上奏した。その主旨は

「弛禁論は一般人民のアヘン吸飲を許して、官兵だけ禁じるとしているが、官兵は一般人民から徴募しているのが実情である。アヘンが、人を毒するものである明らかに知りながら、その流行を許し、そこから税を取ろうという行為は、天朝の行なうべき政治ではない!」

等であった。

道光帝は、弛禁論か厳禁論か、決めかねていた。弛禁論に傾斜していたように見えたが、実は道光帝自身がアヘン吸飲を辞めた体現者であり、原則的にはアヘンの流行を看過するという政策を採っていいものかどうか――。

更に袁玉麟(えんぎょくりん)も痛烈に弛禁論を批判した。

a)弛禁して課税する論は、小利のみを見て、大利を傷つける妄説である。

b)外夷がアヘンを売るのは銀が欲しいからであり、禁制を弛めたところで外夷は必ず内地の銀を攫いにくるだろう。

c)ケシ栽培を許した場合、農民はアヘンの方が儲かると知り、利に走ると考えるべきであろう。そうすれば農は死ぬ。

d)アヘンを吸引する愚民が自分で自分の首を絞める事を惜しむに足りないという弛禁論の箇所に到っては論外である。皇恩は万人に行き届いてこそ、意味があるものだ。

e)禁じても効果がないから禁じないでも同じだと弛禁論は言うが、これは法律の罪ではなく、法律を施行する者の罪である。盗賊が多いので盗賊の取締りを辞める等という話は、未だ聞いた事がない。

f)弛禁論は禁が厳しいから賄賂が多くなり、禁を弛めば賄賂が少なくなるという論法を採っているが、これは綱紀の問題である。法を奉じるに人を得れば、アヘンを禁じても賄賂などあるまい。法を奉じるに人を得なければ、アヘンの禁を弛めても、やはり賄賂は横行するに決まっている。
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◆公羊学派と洋務派

公羊学(くようがく)とは、漢王朝時代に尊ばれていた儒教の聖典である『春秋』、その「春秋」には3つの伝があり、それぞれ公羊伝、殻梁伝、左氏伝であったが、その内の公洋伝を正統的解釈とするものを公羊学といい、また、その学派を公羊学派と呼ぶ。

公羊学では、王朝の交代、社会の進化を肯定し、政治を批判する。一般的に儒教とは秩序第一主義の保守思想そのものであり、反革命的という意味で常に守旧的であるが、政体(統治主体)を変える革命そのものを否定していない。根本理念から逸脱しない限りは、制度的な変革があっていものだと考える。これは「孟子」が易姓革命を説いており、天の思し召しがあれば皇帝の姓は変わってもいい事を肯定している。

(その点、日本の天皇制の場合、天皇家は姓を持っていないから易姓革命は起こらない。「孟子」は日本には流入しなかったと語られてきており、何故か「孟子」を積んだ船が日本列島へ向かうと遭難したり、難破したりしてしまうと嘆かれてする不思議な伝承も残っている。)

漢代に公羊学は起こったが、三国時代以降は廃れた。しかし、長い長い年月を経て、清代末に康有為らによって大成し、変法(革新運動)の哲学的な基礎となったというのが通説である。

清朝末は清朝末ながら康有為(こうゆうい)の以前、陳舜臣に拠ればアヘン戦争以前の、清朝が弛禁論か厳禁論かで揺れていた時期から、この公羊学派の隆盛は始まっていたと細かに描いている。(参考にしているのは『阿片戦争』(上中下巻)と『実録アヘン戦争』)

公羊学派として、以下の名前が挙げられている。

龔自珍(きょうじちん)…生没1792〜1841年

魏源(ぎげん)…生没1794〜1875年

林則徐(りんそくじょ)…生没1785〜1850年

康有為(こうゆうい)…生没1858〜1929年

梁啓超(りょうけいちょう)…生没1873〜1929年


らで、生没年を確認すれば歴然ですが康有為と梁啓超が清朝最末期に変法運動を行ない、一時的に「戊戌の変法」と呼ばれるクーデターを起こすも失敗。両名は日本に亡命し、その後も中国を立憲君主制に変えようとした人物である。

また、ここが分かれば、中国近代史の肝になりそうですが、康有為と梁啓超は、孫文と対立していた。何故かといえば、孫文が志向していたのは皇帝の存続に固執しない共和制色が強く、それに対して公羊学派は儒教的伝統を以って皇帝の存続、立憲君主制を念頭に置いていた。平たくいえば、皇帝を廃止する事も厭わない共和制を志していたのが孫文であり、公羊学派は君主制を残したまま、立憲制へ移行させようとしてしてたの意である。また、

更に、洋務派があり、この洋務派になると「西洋列強から学んで変革をしよう」というスタンスが強くなる。

洋務派としては、

曽国藩(そうこくはん)…生没1811〜1872年

左宗棠(さそうとう)…生没1812〜1872年

李鴻章(りこうしょう)…生没1823〜1901年

張之洞(ちょうしどう)…生没1837〜1909年


となる。

上記の内、清朝の命運を握るような活躍をした宰相に例えられるような人物としては、アヘン戦争に対峙した林則徐(公羊学派)、太平天国の乱に対峙し、その後も末期の清朝政府を支え続けた李鴻章(洋務派)となる。変革運動の動きとしては康有為があり、この康有為は進士になる以前から中国全土に名前を轟かしていた英才であり、公羊学の体系をまとめ上げて、変革を説いた為、康有為が科挙試験の為に北京に入り、そこで「公車上書」を行ない、騒動になった。結局、康有為が梁啓超と組んで実施した光緒帝を担いで行なった「戊戌変法」(ぼじゅつへんぽう)というクーデター計画は西太后を担ぐ清朝内の守旧派によって潰され、100日間ほどで終わった。

一見、日本には何の関係もない中国の話に見えるが、アヘン戦争に対峙した公羊学派の魏源が海外情勢について記した『海国図志』は、日本の幕末志士たちに広く読まれていた。

康有為は「公車上書」という異彩のシーンを持っているが、林則徐には「紫禁城賜騎」という異彩のシーンを持っている。

康有為の「公車上書」とは、当時の清王朝では3年に1度、京師(北京)で高級官吏試験としての会試が開かれ、合格発表までの間、受験生(既に官吏になれる資格を有する挙人)たちは京師に滞在し続けるものであった。会試に合格すれば、進士となり、これは高級官吏になれる資格を意味する。1895年が会試があったが、時の清朝政府は日清戦争に敗れ、会試の受験者(巨人)たちが京師に留まって合格発表を待っている期間に、大日本帝国との清国との間で講和条約調印があり、この年は会試の合格発表待ちの挙人たちが、「会試の採点者よりも彼の方が優秀だろう」と評価されていた康有為を代表に担いで上書を行なったという特異の背景を持つ。(康有為は、この年の会試を8番目の成績で合格し、見事に進士になっている。進士になる前段階で、既に注目の大人物であったのが分かる。)

また、「公車」とは合格発表待ちをしている挙人たちを指しており、謂われは、その交通費や滞在費は税金持ちであった事に由来するという。会試の受験生たる挙人であり、官吏として任官している訳ではないので上書する資格は認められていないが、この1895年の場合は、実質的な敗戦で、台湾割譲を含む内容で大日本帝国と講和した事から、合格発表待ちの挙人ら千数百名の署名入りの上書が都警院に届けられた。「公車上書」とは、この出来事を指している。勿論、公車上書は受付を拒否されたが、その時の公車上書の代表者であった康有為が後に高級官吏となり、実際に光緒帝を担いでクーデターを起こしている。

さて、アヘン戦争と直接的に関係している「林則徐の紫禁城賜騎」については、間もなく触れる事になる。



◆林則徐登場

イギリスの圧力によってアヘンに蝕まれた国。それに対応するには弛禁論か厳禁論か――。そこに、驚くべき厳禁論が登場した。それを上奏したのは公羊学派の黄爵慈であった。その上奏は「アヘンを吸引した者は死罪にすべし」という意味の『阿片吸食死罪論』であった。

論旨を要約すると――

A)銀の流出はアヘンを購入する者が多く存在する限り、なくならない。外夷は中国国内でアヘンが売れなくなれば、自ずから来なくなるだろう。

B)これまでの刑罰は「枷」、「杖」のみであった。そこに死罪を加えればよい。勿論、いきなり死罪にするのは性急なので、1年程度の猶予期間を設け、それでもアヘン吸飲が辞められないのであれば、重罰を科しても整合性が取れる。

C)死刑のような厳重な刑罰は、しばしば讒訴・讒言が起こり、無辜の民に累を及ぼすものである。しかし、その者がアヘン中毒なのかそうではないのかは一目瞭然だから、重刑化しても無辜の民に累が及ぶ事もない。

D−1)ジャワ人は元々は勇敢で俊敏な人々であった。しかし、紅毛人にアヘンの吸引を教えられてから、堕落し、とうとう紅毛人に征服されてしまった。

D−2)紅毛人はアヘンを自国で吸引する者があった場合には棹に縛り付けて、大砲で海に撃ち落とすという。だから、紅毛人でアヘンに手を出す者はいない。各国には、ただただ、アヘンを製造する者のみが存在している。

E)外夷の紅毛人もまた厳罰で以って禁令にしているのだ。これが我が国に出来ぬハズはない。また、これを以ってして銀の流出もなくなるであろうから、これこそが天下万世臣民の幸せであると考える。


――といったもの。

道光帝は、自身がアヘン吸飲を辞めた経験から、この阿片吸食死罪論に感心を持ち、黄爵慈からの上奏文の写しを各地の総督と巡撫とに送付し、意見を求めた。

20数名の総督・巡撫から、道光帝への覆奏があった。全面的な賛成は僅か4名だった。その内の一人が、やはり、公羊学派の林則徐(りんそくじょ)であった。

(道光帝は気付いたかどうか不明ながら、よくよく人物の所属学派を確認すると、死罪論を奏上したのは公羊学派の黄爵慈であり、賛成意見を覆奏した代表人物も公羊学派の林則徐である事に気付かされる。公羊学派の面々は、龔自珍(きょうじちん)の元に通って顔合わせをしていたり、手紙で通じていたと思われるので、林則徐が黄爵慈の上奏文に全面的に賛成をするのは、全く矛盾しない。むしろ、公羊学派からすれば計画的な作戦であったようにも見える。)

道光帝は、覆奏されてきた書簡の中で、数少ない阿片犯死刑論賛成としている林則徐の文章に心を奪われた。林則徐は黄爵慈の阿片犯死罪論に全面賛成した上で、更に第一期に自首した者は罪を問わない、第二期と第三期に自首した者は罪は免れないが酌量する、第四期が過ぎても自首しない者及び再犯した者は死罪とすると細かく指摘していた。また、アヘンの拡大は、アヘン吸飲者を廃人にしてしまうだけではなく、その親族らの人生を破壊してしまう事にも言及していた。更に林則徐は自分が総督として統治している地域では、先駆けて阿片犯死罪への布石を打っており、アヘン吸飲の為の煙管を提出させ、5千本を煙管を折って揚子江に捨てるという対処を既に実験的に始めていた。林則徐の覆奏に目を通した道光帝は、その後、近臣に対しても、林則徐の覆奏文を引用して問い質すなど、大変に気に入った様子だったという。

湖広総督という役職にあった林則徐は、元より朝廷内でも一目置かれていた存在であった。道光帝の周辺には実権者として4名の軍機大臣が置かれていた。この軍機大臣は語感から軍事関係の役職を連想させるがそうではなく、政治全般の実権者であり、清王朝の場合は伝統的に満州族2名、漢民族2名の合計4名で構成されていた。清王朝の場合は満州族による支配王朝であったが王朝運営の中で漢族にへそを曲げられると大変だという事を身を以て知っており、貴族的階級としての満州旗人と、そうではない漢族を重臣に置く体制を採っていた。その軍機大臣4名の内のひとり、王鼎(おうてい)は、以前から林則徐に目をつけており、「林則徐は稀にみる優秀な人物である」と評していた。

道光帝は、このアヘン問題のすべてを「林則徐」という人物に賭けてみよう――という大胆な決定を下した。欽差大臣とは、臨時の官職名でありながら皇帝からの勅命で、臨時の大問題に当たる大臣職を意味しており、明朝時代に始まり、清朝にも継承された。明朝時代は欽差官であったが清朝時代には欽差大臣となり、その権限は大幅に拡大し、まさしく救国の為の全権大臣の意味合いを持つ、極めて特殊な臨時の官職であり、大役であった。林則徐は人々を侵食しているアヘン問題に当たっては、皇帝から全権的な委任を受けた大臣として扱われる事になる。

斯くして、林則徐は破格の待遇を以って、紫禁城へと呼び出された。



◆紫禁城賜騎

1838年、武昌を出発した林則徐は一ヵ月のち北京へ着き、紫禁城へ上殿した。物々しく装飾された紫禁城の中に通された林則徐は、そこで三日連続で道光帝に拝謁した。道光帝は会う前から林則徐に期待していたが実際に会って後、林則徐の謹厳実直な人柄に惚れ込んだ。

「汝は馬に乗れるのか? 紫禁城内での騎馬を許そうぞ」

と、紫禁城内での騎馬を特別に認めた。これによって、その翌日、林則徐は騎馬で紫禁城へ参内するという栄誉を賜わった。(紫禁城賜騎)

天安門を入ると儀衛がつき、林則徐は杏黄色の蓋傘をかざし、青扇飛虎旗を翻し、更に旗槍を6本、青旗を8本。2名が先導し、8名が騎馬した林則徐に従って歩いた。更に行く道には篝火が煌々と建てられていた。異例中の異例、明らかに破格の扱いであった。

とはいえ、林則徐は実は騎馬は苦手であり、落馬だけはしないように馬にしがみつくような乗馬ぶりであった。林則徐は福建省に出身で元より騎馬は得意ではなかったのだ。

すると、この日の拝謁で道光帝と林則徐との間で騎馬の話となり、「福建省の出身なので騎馬は苦手だ」と林則徐が言ったので、その翌日からは、林則徐は肩輿(けんよ)と呼ばれる肩の高さで8名が担ぐ輿(こし)で紫禁城へ参内する事になり、これも実現した。肩の高さに担がれた輿、その輿の上の椅子に腰掛けての参内した事になるが、これまた破格の待遇であった。

そして、その日、道光帝から林則徐は欽差大臣を拝命した。アヘンに関する問題の一切を託すという特別官職であり、これによって林則徐は欽差大臣兼湖広総督となった。

道光帝は林則徐にアヘンへの思いを託した。

「朕は、夷商の運んできた阿片を、ことごとく焼いてしまいたい。流毒隠れもない阿片を焼き払ったとて、百世のちの人もこれを咎めまい。阿片は天も人も許さぬ妖物ではないか」

欽差大臣の拝命を受けた後も、林則徐は紫禁城へ招かれ、林則徐の紫禁城参内は1838年と1839年の年跨ぎで、連続8日間にも亘ったという。
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◆衰世に出現した救国の英雄

紫禁城にて皇帝から異例の待遇を受けた林則徐は一躍、時の人となった。朝廷の歓待ぶりは異例づくしであったし、実際に人々はアヘン渦にうんざりしている者が多かったのだ。亡国的なアヘン弛禁論へ傾斜する中、スーパー厳罰論としての阿片犯死刑論が登場して、形成を引き戻した。更に公羊学派が段階的厳罰論という現実主義を打ち出した事によって、この清朝衰亡の危機に光明が差した。

勿論、アヘン弛禁論に誘導したかった政治勢力や商人らが引き下がる筈もなく、実際に皇帝から破格の待遇を受けて欽差大臣に就任した林則徐への嫉妬も表面下では渦巻いたが、多くの知識人はイギリス商人がもたらしたアヘン、そのアヘンが蔓延し、清朝政府の国富が海外へと流出している漏銀問題に忸怩たる思いをしていた中に登場した林則徐は、救国の英雄であった。

紫禁城で道光帝から欽差大臣を拝命した後、林則徐は林則徐推しをしていた軍機大臣の王鼎(おうてい)から、欽差大臣関坊(きんさだいじんかんぼう)と呼ばれる印鑑を授かった。この印鑑によって行政府の役人や広州の水軍の指揮権をも林則徐の一存で決定できるという大そうな代物であった。絶大な権力を持った印鑑が欽差大臣関坊であった。

地位の高い大臣が各地を移動するとなると、各地の役人は、これを饗応して迎えるのが当時の清国の慣習であった。しかし、紫禁城で欽差大臣に就任した林則徐が最初にした仕事は、「過大な饗応は必要がない」と各地の役人に御触れを出した事であった。これから北京から広州へ向かうが、その道々の官公署の役人、知県(県知事に相当)らは、自分(林則徐)に対して大袈裟な饗応はするな――と。多くの高級官吏が、各地の財政を圧迫させる事を顧慮する事もなく、当然の権利とばかりに豪華な饗応を要求する中、この林則徐は「ワシを饗応するな」と事前に御触れを出し、北京から広州へと向かった。また、多くの高級官吏は大人数で移動するので宿泊施設を用意するにも各地の財政を圧迫したが、林則徐の広州入りは雪が降る中でも必要最低限の人員で南下していったという。

上記の逸話で分かるように林則徐は「謹厳実直、仁政の人」であった。道光帝に惚れ込まれ、民衆の人気も高く、赴任して拠点を構えた広州の役人らにしても広く人気を集めた。諸葛亮孔明が三顧の礼で劉備玄徳に迎えられたという故事があるが、紫禁城に騎馬したまま入城する事が許されており、異常な厚遇で天朝に迎えられていた。「林則徐であれば、この衰世の世の中を変えられるかも知れない」という期待が嫌が応にも集まったのものと思われる。


◆通告(諭帖)

1839年3月10日、林則徐が広州に入る。官吏たちによる歓待を受ける事になったが、ここで広東巡撫の怡良(イリヤン)、広東水師提督の関天培(かんてんばい)、広東海関監督の予厚庵は、嘗て林則徐とは江蘇省で一緒に仕事をした事があり、林則徐は広州の官界をしっかりと掌握できた。(このうち、怡良と予厚庵は満州人であったが林則徐に親近感を持っていた。関天培は水軍の実力者であり、肩書きにある「水師」とは「水軍」を指している。)

広州入りした林則徐は、翌日からアヘンの取締りを強化する為の要人リストをつくると共に、諸外国の情勢を調べ出したという。

1839年3月18日、林則徐はアヘン撲滅への第一手を打った。諭帖(ゆじょう)と呼ばれる二通の指令所を公行(コンホン)に出した。まさしく、欽差大臣関坊の印鑑がモノを言うものであった。

。各以内に夷人から「今後、永久にアヘンを持ち込まない。持ち込んだ場合は死罪に処されても異論はございません」という文面の誓約書を、漢文と英語、それぞれ一通作成し、提出させる事。

夷人を諭す為に、この文書を渡すべしというもので、そこには

我が大皇帝が汝らに貿易を許し、汝らはそれによって利益を得ている。汝らは恩を感じて、法を畏れるべきだろう。己を利して人を害すべきではない。それなのに、どうして汝らの国でさえ吸飲しない阿片を我が国に持ち込み、人の財を騙し、人の命を害するのか? 汝らがこの物を以って中華の民を蠱惑することで既に数十年に及ぶ。得たるところの不義の財は、数え切れない。これは人心、共に憤るところであり、天理も許しがたいところである。阿片の禁令が厳守されていない事に大皇帝は震怒し、阿片根絶を決意されている。内地で阿片を売る者、阿片吸飲所を営む者、そして阿片吸飲者も死罪とするように決まった。汝らも天朝に来ているのだから、内地人と同じく、法度に従うべし

といった文章が書かれていた。

J殕している阿片を全て提出せよ。

林則徐が公行に発した諭帖は、センセーショナルであった。上記,蓮夷商は公行を通して「阿片を持ち込まない。阿片を持ち込んだ場合は死罪に問われても異論はない」という誓約書を提出するように迫った。また、上記はアヘン商人らは海上に阿片を満載した母船を浮かべて、その母船から阿片を陸に運び込んでいたが、母船に積載しているすべての阿片を供出せよと命じたものであった。しかも、この期限は、3日後、つまり、3月21日までと時限を切っていた。

夷商らは話し合いをして、誓約書は提出せずに、1037箱(1箱60kg)の阿片を供出して、新しく赴任した欽差大臣・林則徐の面子を立てる事にした。これまでに夷商らは清国の官僚は賄賂を贈れば何とかなる事を学習していた。林則徐がフツウの役人とは違うらしいという事は知っていたが、一先ず、そうした反応で様子を見た。

しかし、林則徐は夷商からの申し入れを撥ねつけてみせた。実は、入念な下調べによって、阿片母船には2万箱の阿片が搭載されている事を調べ上げていたのだ。

1839年3月22日、これは3月18日に諭帖を出して3日後の3月21日が諸々の期限であったから、期限が過ぎた翌日にあたるが、デント商会のデントに対して出頭の命令を出した。無論、逮捕する事が予想された。イギリス側は欽差大臣・林則徐の出方を甘く見ていた事に気付く。

イギリス側は、阿片商人らの総元締め的な役職「(駐清)商務監督官」として、チャールス・エリオットを派遣していた。この「商務監督官」という肩書きは、嘗て、清国に開港を迫って珠江へ侵入、砲撃戦で圧勝しながらもイギリス商館を包囲されて敗れたウィリアム・ネーピアと同じ役職で、平たく言えば、このチャールス・エリオットは「領事」に該当する。(「領事」に該当するが当時の大清国は領事館や領事、公使館、公使を認めていなかった。そのような概念がなかった。)

イギリス側は「欽差大臣」を「インペリアル・ハイ・コミッショナー」と翻訳していた。皇帝の命を受けた最高責任者であるという事は認識していた。そして、そのインペリアル・ハイ・コミッショナーな林則徐が、どの程度の力量なのか確かめるべく、林則徐の広州入り当日、チャールス・エリオットはマカオへ出張し、どうもマカオで様子見をしていても埒は開かぬと3月24日に広州に戻って来た。デント商会のデントが清国官吏の手に渡ってしまう事を回避する狙いがあったか。

しかし、林則徐は全て先手を読んでいた。チャールス・エリオットが広州に戻って来るのを待っていた。チャールス・エリオットが広州に設けられた夷館に入ると、林則徐は夷館を包囲するように指揮をした。


◆阿片焼却

夷館を包囲した後、立て続けに林則徐は夷館内の中国人(支那人)の退去を通告した。夷館では多くの中国人を使用人としていたが、原則的には夷人が中国人が使役する事を禁止していた。召使いや料理人などが雇われている事は黙認されていたのが実情であったが、この包囲作戦では、きっちりと中国人召使いを退去させた。これによって夷館内の夷人から召使いを奪って、孤立させる事を意図していた。この林則徐の措置によって、夷館の中には夷人のみ275名が包囲される状況となった。夷館は、ユニオン・ジャックの国旗を掲げるなどの姿勢を見せたが、林則徐の打つ手は容赦がなく、既に現実問題として夷館は清国の武装兵に包囲され、食料の調達も不能な状態になっていた。

1839年3月27日、チャールス・エリオットから、清国側に対して請願書が出された。そこには「イギリス人の所有するすべての阿片を供出する容易がある。阿片を積んだイギリス船はどこの港へ赴いて供出すればよいのか、明示いただきたい」というものであった。

翌3月28日、チャールス・エリオットから、清国側に「イギリス人が所有している阿片は20,283箱ある」という連絡が届いた。チャールス・エリオットは、阿片の供出には応じる態度を見せているが、未だに「永久に阿片は持ち込まない。持ち込んだ場合は死罪にされても異論はない」という誓約書の提出は拒否し続けている状態である。

つまり、阿片の供出には応じるが、誓約書の提出には応じない。阿片の供出には応じるのだから包囲を解いて欲しいというのがチャールス・エリオットの狙いであったが、当然、そうはならない。しかし、林則徐は、阿片の供出は勝ち取れたとみて、夷館へ牛肉と羊肉を届けるような措置を取った。チャールス・エリオット側は「召使いを戻して欲しい」と要求していたが、これには応じなかった。

斯くして、林則徐は夷商から膨大な阿片を供出させる事に成功した。イギリス商人の所有していた阿片は、19,760箱。1箱が60キロだから、かなりの量の阿片が持ち込まれていた事になる。しかし、チャールス・エリオットは事前に20,283箱を供出すると申し出ていたので、不足分の523箱はデント商会から買い取って、供出した阿片総数は予告通り、20,283箱になった。

この阿片の供出でも、林則徐は段階方式を採った。リストの4分の1を供出を確認して召使いの返還を認め、2分の1の供出を確認してサンパン船での往来を許し、4分の3の供出を確認して貿易の再開を認め、全ての供出が終わった事を確認して、一切を元通りにするという手法を採った。

また、この際の阿片供出は後に、イギリス側が不当に奪われたとして賠償金を請求する事になるが、実は林則徐は、1箱の供出につき、1斤の茶葉を褒美として渡していた。(1斤=600g、阿片1箱は60kgに該当する。)

1839年6月、イギリス商人に供出させた阿片2万箱を林則徐は徹底的に処分した。

単純に火で焼却した場合、阿片は地中に沁み込んでしまい、後で土を採って似ると阿片が容易に取得できてしまう事が分かった。実験の結果、阿片は塩と石灰によって成分が分解できる事が判明したので、林則徐は50メートル四方の池を2つつくり、そこへ阿片を投げ込ませ、半日ほど塩水に浸し、その後に焼石灰の塊を投入すると、煙を上げて燃焼する事が分かった。池の上に板を渡して、その板の上に人夫が乗って鉄鋤の類いで阿片を掻き混ぜ、阿片を溶解させた。そして、引き潮のタイミングで海中に投棄するという徹底ぶりであった。完全に阿片を跡形なく処理してみせた。

また、この阿片処理場は夷館から見える場所に作られ、処理の様子は野次馬たちが見物に訪れたという。また、アメリカ商人は見学に来たが、イギリス商人は最後まで見学しなかったという。

阿片を吸引した者は死刑に処する――。この阿片吸飲死刑制度は、実際の施行時にはアヘンを提出までの猶予期間を1年半としたので、懸念されていた大混乱は起こらず、必ずしも前近代的な行き過ぎた厳罰刑であったのかどうかも曖昧となった。林則徐のしたたかさが際立つ。
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◆人道の闘い

アヘンの供出に応じた後、全てのイギリス人は広州を引き上げて、マカオへと引き上げた。それなりのボイコットの意思表示であった。また、この頃のマカオは、植民地でも租界でもないが清国政府が好意によってポルトガル政府に賃借している二重行政エリアになっており、統治権や警察権などは厳密には清国政府に属しているがポルトガル人の自治権を認めていた。その為、マカオはポルトガル人に限らず、当時の西洋人にとっては重要な中継地点になっていた。(広州の夷館での交易は冬季は禁止されていたので、多くの西洋人は、そのマカオに夫人や愛人をつれてきており、西洋人の居留地になっていた。)

英国の商務監督官チャールス・エリオットは、尚もインペリアル・ハイ・コミッショナー林則徐への対抗を継続していた。例の「今後、一切、阿片を取り扱わない。もし阿片を持ち込んだ場合は死罪に処されても異論はございません」という誓約書の提出を拒否していた。

道理があったのは、どう考えても林則徐であった。「国際的にも、また、当のイギリスでも自国民にはアヘン吸飲を禁止しているのに、何故、そのアヘンを清国を持ち込んで商売しようとしているのか?」という指摘は逃れようがない。しかし、チャールス・エリオットは、ここで折れる事を拒んだ。そればかりか、チャールス・エリオットはイギリス商人に対しての抜け駆けを防止する為に誓約書にサインする事を禁じた。また、チャールス・エリオットは林則徐に対して、夷館包囲という強硬手段によってイギリス人の財産であったアヘンを不当に没収したと恨み骨髄となった。

チャールス・エリオットは、広州在留の全てのイギリス人に広州からの退去を勧告した。これは、或る種のボイコットの呼び掛けてであり、半ば、命令であった。イギリス人だけはボイコットの威力が薄れると思ったのか、チャールス・エリオットはアメリカ商人に対しても「広州退去に同調して欲しい」と申し入れた。アメリカ商人らは協議したが、直ぐに結論は出た。結論は「我々、アメリカ商人は、貴国人とは共同歩調を取らぬ事に決めました」であった。そもそもアヘン貿易は人道的な問題がある上にアメリカ商人は阿片の密貿易を直接的には行なっていなかったし、広州での対清貿易にしてもイギリスが主導権を握っており、ビジネスライクに考えれば、この際にイギリスから主導権、シェアをアメリカが奪ってしまえる好機でもあった。

誓約書の提出を拒否したチャールス・エリオットは、全てのイギリス商人に誓約書へのサインを禁止した。しかし、アメリカ商人は誓約書にサインをし、広州での交易を続ける事になった。アメリカ商人にして、これは最大のチャンスとなった。マカオには沢山の物資があり、マカオから広州に物資を運べば、それが利益になったが、チャールス・エリオットが掲げる「イギリス人の誇りとして誓約書にサインする事を禁じる」という禁令があったので、イギリス商人らは、締め出される形となったのだ。林則徐も、すかさず挑発する。「誓約書にサインして提出しさえすれば、イギリス商人とて広州での交易を認める。イギリス商人も広州へ来い」と。そして、イギリス商人たちは、チャールス・エリオットに対して切歯扼腕(せっしやくわん)する。商人の立場からすれば、国家としての面子よりも、目先の利益だと発想していたのだ。

「広州に来て誓約書にサインすればイギリス商人も拒まない」という態度の林則徐に対して、チャールス・エリオットは「広州ではなくマカオで交易をしたい」と返信したが、無論、そのような都合のいい要求は却下された。

漢代の儒教を19世紀に蘇られせた公羊学派、その公羊学派の林則徐は、実際にチャールス・エリオットに「理」で圧勝していた。しかし、世の中、「理」で物事が片付くほどに聡明に出来てはいない。「理」に勝ってしまうのが「武」であり、「暴力」であり「軍事力」であったりするのが現実世界だったりする。



◆前哨戦〜チャールス・エリオットVS.林則徐

チャールス・エリオット商務監督の指揮の下、全てのイギリス人は広州を出てマカオへ退いた。イギリスの商船は、全部で63隻あったが、それらイギリス商船は珠江の入口にあたる虎門を退出し、九龍半島および香港島の沖合、尖沙嘴(せんさし)沖に浮かんでいる状態となった。

この頃の香港は街ではなく、いわゆる何もない一つの島であり、貧しい漁師たちが疎らに住んでいる島であった。イギリス船団を見張る目的で、清国軍の兵船が巡回していた。実は、イギリス船は香港島に上陸し、香港島の住民とトラブルを起こしていた。イギリス人は広州を締め出された為に香港島に上陸して食料などを調達していた。しかし、それを清国軍の兵船に見張られるのは都合が悪かったのだ。

1839年6月19日、チャールス・エリオットは、マカオの清国の役所に一書を宛てて抗議した。

「尖沙嘴沖に、清国の兵船が30〜40隻ほど集まっており、我が国の商船が食料を入手する事を困難にしている。貴国の兵船が長くその海面に留まっているなら、不幸な事態を惹き起こすかも知れず、これについて私は責任を取れない」

と記してあった。

しかし、これは、そもそも尖沙嘴は清国の領海であり、清国側からすれば自国の領海に自国の兵船を浮かべている事は何の問題もない。「清国の兵船は邪魔だからなんとかしろ」と言える義理でもないが、強引に食料の入手が困難になる事を説き、「そのような清国側の態度は人道を欠いている」と抗議したのだ。

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尖沙嘴には3種類の船しか存在しない筈である。一つ目はアヘンを供出し終えて空になった船。二つ目は外洋から荷物を積んできた船。三つ目は、黄埔から荷物を積んで出ていく船。この3種類の船のうち、アヘンを供出し終えた船と、黄埔から荷物を積んできた船であれば、ただちに帰国すべき船であろう。残りの、外洋から荷物を積んできた船であれば速やかに珠江を遡って広州へ行くべきであろう。我が国は、広州への入港を禁止していないし、断じて住民にイギリス船に食料を売る事を禁止していない。船員が飢えているというのは、そちらが勝手にやっている事である。また、兵船が尖沙嘴沖に居るのは阿片密輸の取り締まり任務の為である。当方の兵船にとやかくいう以前に、早期に帰国するなり、広州に入港するなりすべきなのは、貴国の船団の方である。

と応じた。

そうした林則徐とチャールス・エリオットとの応酬は続いた。チャールス・エリオットの中には、どうせ、インペリアル・ハイ・コミッショナーと言ったって、イギリス軍の強さを知れば、その内、腰抜けになるさと高をくくっていたが、林則徐は必死にイギリス軍の戦力を調べ上げているという。実際、この間も林則徐はイギリス軍の破格の強さを調べ上げており、軍備増強を始めていた。清国の砲台に備え付けられた大砲はイギリスと比べると100年前とも150年前とも言われる骨董品レベルであり、砲撃戦になった場合は話にならないと知る。そうすると林則徐は、ポルトガル商人からイギリス軍艦にも通用する千斤砲や三千斤砲、これは砲身の重量を意味しているが、それら対イギリスを意識した大砲を購入して、虎門水道から広州に到る砲台に配備する準備を整えていた。また一方で水師・関天培の協力を仰いで水軍の再編を手掛けていた。林則徐はチャールス・エリオットが考えているような生易しい人物ではなく、ネーピア率いるイギリス軍艦2艦によって広州の砲台がコテンパンに破壊された5年前の軍事的敗北を研究し、立て直しをも視野に入れて動いていたのだ。



◆林維喜殺人事件

林則徐とチャールス・エリオットとが散らした火花は、小康状態にあったが、思いもよらぬ形で事態が動いた。広州を締め出されたイギリス人たちは食料の調達の為、しばしば香港島に上陸していた。香港には貧しい漁師の村落があるだけであったが、その島民とイギリスの船乗りたちとの間ではいざこざの発生が絶えなかった。

その日も香港島に上陸したイギリス人の船乗りらは、島の娘(劉さんの娘)が飼っていたニワトリの一羽を捕まえた。それを目撃した島の娘が「それはウチのニワトリだ!」と抗議をすると、イギリス人船乗りはニワトリを食べるジェスチャーをした。島民の娘が大声を上げて抗議をすると、イギリス人船乗りらは島民の娘に、ちょっかいを出し始めた。

その場に一人の酔っ払いが居合わせた。その酔っ払いが林維喜(りんいき)という名の島では喧嘩自慢の人物であった。この林維喜は酔っ払っては、自らの喧嘩の武勇伝を語るタイプの人物で、イギリス人が、劉さんの家の娘の体に触っている場面に出くわした。林維喜は、かなり酔っ払っている状態であったが、島の娘(劉さんの娘)を助けるべく、加勢していた。すると、結束力の固い島民たちの間で、

「劉さんの娘が洋鬼子(ヤンクイズ)に犯されそうになっている。林維喜が今、洋鬼子たちを相手に奮戦しているから我々も加勢しよう」

となり、乱闘は拡大していった。そして、イギリス人船乗りたちも加勢を要請した。船に乗せていたインド人水夫5名に、この乱闘に参加させたのだ。

遅れて駆け付けたインド人水夫らの喧嘩の相場は違っていた。島民たる中国人とイギリス人船乗りたちは徒手空拳で乱闘していたが、命令として駆けつけてきたインド人水夫ら5名は、付近の軒先に立て掛けてあった天秤棒を手にし、その天秤棒を振り回して島民たちを叩きのめしにかかった。インド人水夫たちは従属的な立場だったので、使用人であるイギリス人が中国人に襲撃されているので、喧嘩、イザコザではなく、暴徒鎮圧と捉えていたものと思われる。

乱闘が集結した時、そこには一人の男が倒れていた。林維喜であった。顔半分がつぶれ、頭がひしゃげているという状態であった。インド人水夫らが天秤棒で滅多打ちにしてしまったのが、劉さんの娘を助けようとして最初に加勢していた酔っ払いの林維喜であった。林維喜は、その時点では生きていたが瀕死の状態で、翌日、死亡した。これが林維喜殺人事件の概要であった。

香港島の島民は大いに憤り、役所へ抗議した。そもそもニワトリ泥棒をしたのも洋鬼子で、その洋鬼子が劉さんの娘に乱暴を働こうとしていた。それを助けに入った正義漢が林維喜であると島民は捉えているので、怒りは収まらない。役所を通じて、その林維喜殺人事件は、欽差大臣・林則徐の元まで達した。イギリス人が香港で無辜の島民を殺害した――と。

誓約書を提出せよ、誓約書は出さぬ、で、林則徐とチャールス・エリオットとは対立してきたが、今度は、林則徐の手元に一枚のカードが加わった。

林則徐が

「イギリス側は、香港島にて一人の男、林維喜を殺害した。香港島の案件は当然、清国側で裁くべき刑事事件である。イギリス側は犯人を速やかに当方へ差し出すべし」

といえば、チャールス・エリオットは

「犯人については我々が我々の法律に従って処罰する。引き渡しは行なえない。犯人の引き渡しについては、本国のビクトリア女王の許可がなければ応じられない」

と応じた。しかし、驚くべき事に林則徐は、ヴィッテルの『国際法』の主要部分を「各国禁律」として中国語に翻訳していた。国際法でも、イギリスの法律でも、イギリス人が他地方で裁判権に関しては在地主義、つまり、その国の刑法に従うという原則がある事までもを、調べ上げていた。つまり、仮にチャールス・エリオットがビクトリア女王やイギリス議会に泣きついたとしても、国際常識に照らし合わせれば、どう考えても理は林則徐にあった。

実際にはチャールス・エリオットは、船の中で陪審員裁判をインド人5名に対して行っており、殺人を否定し、軽い刑を科していた。しかし、林則徐は「死罪に値する」とプレッシャーをかけていたので、チャールス・エリオットは「調べ上げたが、この事件の真犯人は捜し出せなかった」と、清国側に通告した。

しかし、林則徐は

「林維喜殺人事件、その犯人を船内に匿っているという行為は、罪人秘匿に該当するので、チャールス・エリオット自身にも清国の法が及ぶことになる」

と、更に強烈なプレッシャーをかけた。
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◆マカオ退去令

林維喜殺人事件について英商務監督官チャールス・エリオットは「偶発的な事故」と主張したが、林則徐は受け容れる事無く厳しく批判した。そして今度はイギリス人たちが広州を出た後に滞在しているマカオからイギリス人の退去を命じた。マカオは清国の好意によってポルトガル人自治区になっている扱いであったが、インペリアル・ハイ・コミッショナー林則徐を相手に変に問題を拗らせれば、薮蛇にも成りかねず、イギリス人を擁護する立場は採らなかった。また、ここでのイギリス人退去令は、イギリス人への食糧の提供も禁止するという厳しいものであった。

これによって、イギリス商人は対清貿易から外された為、アメリカ商人が一気に対清貿易で優位に立ち、盛況となった。イギリス商人たちは、アメリカ商人の盛況を尻目にしてマカオを退出せざるを得ない状況となった。

1839年8月26日、イギリス人がマカオを退去する。

1839年8月30日、英国籍の軍艦・ポレジ号がマカオ沖に登場する。

本国のイギリスの世論は対清強硬策には賛否が割れていたが、マカオ沖に実際にイギリス軍の戦艦一隻が登場したのだ。チャールス・エリオットは、軍艦ポレジ号の武力を背景にして、退去させられた全てのイギリス人をマカオへ帰還させるように要求をした。とうとう軍事力を背景にして、そう主張し始めた。



◆九龍砲撃戦

1839年9月4日、九龍砲撃戦が発生する。

清国政府に対しては、威嚇砲撃を行なう事を決意したチャールス・エリオットは、威嚇砲撃をするに当たって事前に抗議文を作成した。

「ここに数千のイギリス国臣民が、食料の正常な供給から遮断されている。もしこの状態が継続するならば、今後しばしば紛争が起こるのは火を見るより明らかである。その場合、貴官はその結果に対して責任を持たねばならない。これは将に『平和と正義の言葉』である!」

この抗議文は、海上を巡察中の清国兵船に手渡された。しかし、予め、この抗議文を手渡してから5時間後に、ポレジ号は威嚇砲撃を予定していたから、そもそも抗議文に対しての返事を期待していた訳ではない。飽くまで、その抗議文は威嚇砲撃をするに当たっての、或る種のアリバイづくりに差し出されたものであった。清国官吏は夷人との直接交渉は禁止されており、林則徐らの高級官吏に取り次ぐには、どう考えても5時間では足りない。すべては計算詰めで奇襲攻撃を計画したものであった。

尖沙嘴(せんさし)から10キロほどの九龍沖にイギリス側は大小5隻からなる船を並べ、清国側兵船は三隻が遊弋(ゆうよく)していた。刻一刻と時間が過ぎて、その瞬間が訪れた。昼頃、チャールス・エリオットの合図で、イギリス船は一斉に砲門を開き、清国兵船へ砲撃を開始した。遊弋中の清国兵船がそんな事を知る筈もなく、まさしく、奇襲作戦であった。最初の砲撃は、清国兵船で甲板上にいた水兵への直撃弾となり、被弾した水平は即死。イギリス船は清国兵船に対して一斉に砲撃を開始した。

突如として発生したイギリス船からの砲撃に、清国側も即座に応戦した。陸上には砲台が備え付けられており、その砲台からイギリス船に対しての砲撃が行なわれたのだ。イギリス側は清国側の戦力を侮っていた。碌に砲台の大砲の操作できないだろうと侮っていたが、双方で砲撃戦となった。清国側では提督・関天培(かんてんばい)が事前に訓練を施して、万が一の事態に備えていたのだ。戦闘状態になると、尖沙嘴に控えていた清国兵船が増援に向かい、最初に襲われた清国兵船は海岸近くまで退き、砲台からの砲撃を頼りにイギリス船団との間で砲撃戦が行なわれた。

この九龍砲撃戦は、昼頃から日没頃まで行われた。現代人がイメージする激しい砲撃戦かというと、そうではなく、この時代の大砲は、砲撃を行なうまでにかなりの時間を要したらしく、戦闘のテンポそのものがゆったりとした前近代的な時代の砲撃戦であったという。イギリス船団には軍艦ポレジ号が1隻あったが、残りの4隻は武装商船であり、清国側は九龍の砲台からの砲撃頼みの砲撃戦であった。

戦死者は清国側で2名あり、うち1名は最初の砲撃で直撃弾を被弾した水兵であった。もう1名は狙撃された水兵が死亡したもの。清国側では他に重傷者2名、軽傷4名、兵船に被害が出たが直ぐに修理できたという。一方のイギリス船団では海賊上がりのダグラス船長が軽傷を負う等、合計4名が負傷。イギリス船団側にも砲撃でマストが折られるなどの部分的な損害があった。イギリス船団は清国側を侮っていたので、実は、これだけでも衝撃的な損害であったという。

この九龍砲撃戦の後、チャールス・エリオットはマカオのポルトガル当局を通じて、清国官憲宛てに

「砲撃戦は、やむを得ない行動であった。当方としては、今でも平和のみを願っている」

と、砲撃戦の釈明文を出した。勿論、すべては、或る種、予定通りの威嚇砲撃であり、策謀によって演じられた軍事行動であった。

この九龍砲撃戦を受けて、林則徐がどのように受け止めていたのか微妙なところであるという。九龍砲撃戦は、林則徐が広州からマカオをやってきた翌日に発生している。紛れもなく、威嚇行為であった。しかし、林則徐は道光帝には適度に粉飾した内容で報告を上げている。林則徐は、まんまとイギリス側の策に嵌まったのかというと、そうではなく、実は、皇帝に対しては砲撃戦が発生し、清国軍が蹴散らしたという内容にする一方で、水軍を強化する為に義勇兵を集めていた。官軍が正規の国軍になるが、実はこの時代の清国では官軍は生活苦の者が集まりであり、士気は上がらず、それよりも外敵の脅威を説き、それによって決起・志願してくる義勇兵で組織した軍隊の方が強い軍隊を組織できたという。

(後の「太平天国の乱」でも、官軍は匪賊と実力差はなかったという。自警団的な組織である「団練」、更には湘軍、淮軍のように地元出身の著名な指導者が、その郷里の壮健な若者たちを集めて組織した「郷勇」と呼ばれた軍隊が実際に実力上位であったという。曽国藩の湘軍、李鴻章の淮軍。特に水軍に顕著だったらしい。)

林則徐はチャールス・エリオットからの「今でも平和のみを願っている」という伝文を、真に受けていた訳ではなく、おそらくは九龍砲撃は威嚇砲撃であり、これによって戦線は急拡大しないと冷静に見抜いたと思われる。林則徐は、孫子、六韜(りくとう)に記されている故事を知っていた。窮鼠猫を噛む。完全包囲をしてしまうと、敵は死に物狂いになるので、自軍も思いも依らぬ痛手を受ける事がある。完全包囲することなく、適度に逃げ場を与えておくのが良策である――と。(「孫子」では囲碁を例えで退路を開けておくべきとして「囲師は必ず欠く」があり、「六韜」では「遺欠の道を置く」があるが、いずれも敵を完全包囲すると死に物狂いの反撃をしてくるから敢えて逃げ道を一つ作っておけの意であるという。)

九龍砲撃戦直後、林則徐はイギリス人への食料の供給を断つという部分は緩めて逃げ道をつくり、その一方で、アヘン取締りを優先させたという。
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◆ビルバイノ号火災事件

外国船は中国船とは異なる臭気を放っていたという。甲板や船具に染みついた匂いや積み込んでいる食品の匂い、更には異国人の体臭は、当時の支那人(中国人)には畏怖の的であった。その臭気は「夷臭」とも「魔臭」とも隠語で囁かれていたという。

九龍砲撃戦の後、林則徐はイギリス人たちの食料調達に関しての取締りは緩めたが、アヘンの密輸に対しては徹底した取り締まりを命じていた。それが一つの勘違い事件を引き起こす。

1839年9月14日未明、アヘンの密輸船の取締りを指揮していて黄(こうそう)という将校は、一隻の外国船を発見する。その船体には【Bilbaino】(ビルバイノ)と表記されていたが、それをイギリス船のバージニア号と勘違いする。ヴァ―ジニア号は【Virginia】という綴りになるが、日本人と同じく、凡そのアルファベットの綴りから「ヴァ―ジニア」と判断し、「ブラックリストに掲載されているアヘン密輸船のヴァ―ジニア号に違いない」と思い込んだものと思われる。

黄の率いる兵船はビルバイノ号をヴァージニア号と勘違いし、追尾した。実際にはイギリス船ではなくスペイン船、運んでいたのはアヘンではなく、生鮮食料品であった。黄の兵船がビルバイノ号に接近し、海上でビルノバイノ号に対して停船命令を出し、取締りと称して検査を強行しようとした。実際には中国語とスペイン語とのやり取りなので、言葉も通じず、互いに何が何だか分からない状態となった。中国人からすれば、イギリス人とスペイン人の区別がつく訳もなく、それは夷臭を放つ夷船として認識されていたものと思われる。

言葉が通じずに揉めている際、その様子をビルノバイノ号の甲板から何の気なしに覗き込んだ水夫がおり、その水夫が大砲に手を掛けたか掛けないかという不慮のタイミングで、清国兵船で指揮をしていた黄は

「やや、砲撃してくる気だな。火罐を投げ込め!」

という指示を発する。その指示の直後、清国兵船からビルノバイノ号に「火闘火罐」と呼ばれる投擲兵器が投げ込まれた。この火闘火罐は、いわゆる火炎ビンの元祖のような武器であり、これを投擲すると敵船は火災を起こす。

この清代には、あっと驚く投擲兵器があったという。ここで登場した「火罐」は火炎ビンであったが、その他に「噴筒」という毒焔を噴射する兵器を持っていたという。筒の中に歯車状のものを取りつけ、それに小さな瑪瑙石を添え、軸頭に衝撃を与えるとライターのような要領で点火する。筒の中に硫黄などをの薬粉が詰め込まれており、これが投げ込まれると、その筒から毒ガスが噴出するという珍しい兵器であったという。

ヴァージニア号と勘違いされたスペイン商船のビルノバイノ号には、次から次へと火罐が投げ込まれ、甲板に落下、そして花火のように火を散らし、やがて炸裂。突如として全く身に覚えがないのにビルノバイノ号は焼き討ちに遭ってしまう。

幸い、このビルノバイノ号の火災では死者は出なかったが、黄は逃げ遅れた水夫2名を捕虜として捕まえて凱旋し、意気揚々と「悪名高いイギリスのアヘン貿易船のヴァージニア号を襲撃、ここに2名の捕虜を捉えた」と報告した。

林則徐の元にも、この報告が上がった。林則徐は道光帝に「イギリスのアヘン貿易船ヴァージニア号を清国兵船が焼き払い、捕虜2名を捕捉した」と戦果報告を上奏した。おそらくは道光帝も、その報告に歓喜したものと思われる。

ヴァージニア号とビルノバイノ号の勘違いが判明するのは、この3ヶ月後の事であった。人命の損害がなかった為、このビルノバイノ号焼き討ち事件の賠償問題は比較的円滑に処理されたという。



◆対清強硬策のロビー活動

チャールス・エリオットは、武力で状況を打破すべく、本国イギリスへのロビー活動に力を入れていた。商務監督官であるチャールス・エリオットは、パーマストン外相に報告書を上げており、これ以前から強硬論であったが、筆致は激しさを増していた。

いわく、

「林則徐による阿片厳禁(死罪論)は正義に反している。そしてイギリス人の財産であった阿片の没収し、焼却したのは暴挙である。清国はイギリス人の生命財産を犯し、ビクトリア女王の尊厳を傷つけている。清国に対して最も有効な方法は、迅速果敢、一気に重大な軍事的打撃を与える以外にない」

という激しいものになっていた。

また、広州及びマニラでチャールス・エリオットのアドバイザーになっていた阿片王の異名を持つジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ジャーディンはイギリス本国でも実業家として存在感を持っており、政府高官に対してのロビー活動を行なっていた。

イギリスには議会があり、またビクトリア女王が国家元首であり、イギリス軍を動かすには相応のロビー活動が必要であった。



◆英国商船、造反す

1839年10月11日、英国商船トマス・カウツ号がマカオ沖に姿を現した。このトマス・カウツ号は、インドのボンベイで綿花を積み込み、それをマラッカへと運び、マラッカでは胡椒を積み込んでいた。つまり、胡椒を積んだまま、珠江へと入り、広州へ向かっていた。

トマス・カウツ号は商船ながら乗組員は100名、大砲も8門揃えている立派な商船であり、イギリス商人が出し抜かれ、アメリカ商人が荒稼ぎしている状況をバカバカしいと考えていた。インド、インドネシア、マカオ、広州というルートは、そもそも船を出せば荒稼ぎが出来るルートであり、清国と揉めてイギリス人が締め出されているが、そもそも阿片を運ばないでも商船としては利益は出せる状態だったのだ。しかも、林則徐は例の「阿片を密輸しない。阿片を密輸した場合は死刑に処されても依存はない」という誓約書、その誓約書にサインをしさえすれば、イギリス商船の広州入りを歓迎すると布告しているのだ。「イギリス人の誓約書へのサインは相成らん」と主張しているのは、チャールス・エリオット商務監督官の一存であり、そんなものに従う必要はないと考えていた。或る意味では商魂逞しい態度であり、「偏屈な商務監督官の命令になど従う必要はない、この機会に稼ぐべきだ」と考えていたと思われる。

トマス・カウツ号は黄埔に入った。明確にチャールス・エリオットを無視した行動であった。結局、このトマス・カウツ号のワーナー船長は、商魂を優先して誓約書にサインをし、広州に入った。しかも、このトマス・カウツ号は広州で清国人から大歓迎され、イギリス商船が締め出されていた事もあって、通常の相場以上の高値で公行(コンホン)に貨物を売った。この流れは欽差大臣・林則徐の狙い通り通りであり、チャールス・エリオットの方は切歯扼腕した。

また、実際には勘違いであったヴァージニア号焼き討ちの後、清国兵船は沖合に停泊しているイギリス船への取締りを強化していた。黄の兵船が「輝かしい戦果」を上げた事に味をしめて、清国兵船が尖沙嘴沖でイギリス船に火罐を投げ入れる騒動が頻発していた。

トマス・カウツ号に続いて、ロイヤル・サクソン号も英国船籍でありながら広州入りをするという動きを見せた。ロイヤル・サクソン号はジャワからコメを積んでおり、出来る事なら、広州に降ろしたい。ロイヤル・サクソン号のタウンズ船長は、しぶしぶチャールス・エリオットの命令に従っていたが、やはり、造反に踏み切った。ロイヤル・サクソン号は、誓約書にサインをして提出、マカオ同知(知事に相当)から広州入りの許可証を入手した。

ロイヤル・サクソン号は尖沙嘴へ行くフリをして、珠江の入口にある虎門で方向転換を図る手筈で、そのまま珠江を行けば、広州であった。

そして造反を予定しているロイヤル・サクソン号の出帆直後、ロイヤル・サクソン号が造反を計画しているという情報がチャールス・エリオットの元に届いた。

チャールス・エリオットは、

「何が何でもロイヤル・サクソン号の広州入りを阻止せよ!」

と叫んだ。勿論、その言動の裏には〈これを許したら、造反が相次いで発生する!〉という焦りがあった事は想像に難しくない。
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◆川鼻(せんび)海戦

1839年11月2日、尖沙嘴から広州へ向かう川鼻という場所で、チャールス・エリオットの命を受けた軍艦ポレジ号と、ヒヤシンス号が、購入へと向かっていたロイヤル・サクソン号に追いつく。ポレジ号とヒヤシンス号は共に軍艦であり、この2艦から「引き返し命令」を受けたロイヤル・サクソン号は引き返さざるを得なかった。

ロイヤル・サクソン号を引き返させたポレジ号、ヒヤシンス号は、そのまま、川鼻の沿岸に近づき、そこからボートを出して、清国官憲に抗議の文書を提出した。この抗議文書は、九龍砲撃の際と同じで返事など来ない事を知ってのアリバイづくりであり、つまり、間もなく、この2艦は軍事威嚇をする事を物語っていた。

翌11月3日、関天培提督は29隻の兵船を率いて、川鼻に留まっているイギリス船と交渉を始めた。双方から「覚え書き」が提示された。ポレジ&ヒヤシンス号からは、「清国兵船団の撤退要請」が提示され、関天培からは「林維喜殺人犯を引き渡せば撤退する」という内容が提示された。

実は関天培は、この前日に林則徐と面会していた。林則徐からは、イギリスの軍艦が口実としての抗議文を出した後に砲撃を行なう可能性がある事について、事前に関天培に説明していたとも言われる。

そして、その事態が訪れた。正午前、イギリスの軍艦二隻、ポレジ号とヒヤシンス号は「清国兵船が撤退要請に応じない為」という口実の下に砲撃を開始。ポレジ号には28門、ヒヤシンス号には20門の大砲が備わっていた。

関天培は米宇一号に乗船していた。この米宇一号は、勿論、清国兵船団全29隻の旗艦に該当していた。イギリス艦船の最初の砲撃の第一弾は、その米宇一号に向かって発射され、その帆柱をへし折った。その折れた帆柱の木片が、関天培の手を直撃し、関天培は出血した。関天培は砲撃が始まると直ぐに抜刀して帆柱の付近で指揮を執っていたので、狙い撃ちにされたものと思われる。

しかし、関天培は怯むこともなく、檄を飛ばし、また、冷静に督戦した。実は、この清国兵船たる米宇一号は、ひょっとしたら砲撃戦になる可能性があると事前に知っていたので、ポルトガル製の三千斤砲を搭載していた。(この三千斤砲とは、大砲の砲身の総重量が三千斤の意で、10斤が6kgなので、総重量が1800kgの意。)

抜刀した関天培は、洋銀2枚を高々と掲げ、檄を飛ばした。

「敵の大砲を狙え! 敵艦の大砲に的中させた者には、その場で銀2両を褒美として出すぞ!」

米宇一号に搭載された三千斤砲が耳をつんざくような轟音と共に発射され、イギリス軍旗艦でもあるポレジ号からほど近い場所に大きな水柱が立った。一矢報いてやるという気迫の砲撃であった。

そして、続く三千斤砲の砲弾は、とうとうポレジ号の船主付近で炸弾し、ポレジ号から白い煙が上がった。ポレジ号は激しく船体を揺らし、多数の水夫が、その一撃で海に振り落とされた。

この砲撃戦は約2時間続き、途中でイギリスの軍艦2艦は引き揚げていった。この海戦を「川鼻の海戦」という。

清国兵船は29隻中、普通に動けたのは3隻のみで、つまり、殆んどの兵船は動けなくなる状態まで破損していた。戦死者は15名あったが、これは船上の火薬庫に敵弾を受け、火災が発生、それによる死者であった。対して、イギリス側ではヒヤシンス号はポレジ号の後方に控えていたので無傷であったが、ポレジ号の方は艦首に大きな損害を受けていた。

この「川鼻の海戦」は清国側では「戦勝」と理解されていた。最終的にはイギリス艦船は自ら戦線を離脱していったのだから、勝利したのは自分たちであるという理屈であった。しかし、元をただせば、このポレジ号とヒヤシンス号は、威嚇砲撃を行なう為に砲撃をし、一定以上に威嚇が済んだから予定通りに引き返していったとも言える。また、関天培率いる清国兵船団にしても、その目的は川鼻で威嚇行為をしているイギリス軍艦を追い払う事であったのだから、勿論、任務を遂げたと言える。やはり、一矢報いたのは、敵艦ポレジ号の艦首に損害を与えたポルトガル製三千斤砲による一撃の炸弾だけであったと見るのが冷静な見解かも知れない。



◆官涌の砲撃戦

香港島の北30キロの湾を銅鼓湾(どうこわん)といい、その銅鼓湾に面して官涌(かんよう)という土地がある。この銅鼓湾には、川鼻に向かった軍艦に取り残されていたイギリス商船が集まっていた。

そして、このイギリス商船団の中には、海賊上がりのダグラス船長率いる武装商船ケンブリッジ号があった。このケンブリッジ号は、元々は商船であったが、この時代、海賊が多かった事から商船でも武装を施す事が多く、その典型例が、このケンブリッジ号であった。戦艦ではないが武装商船であり、大砲も多数搭載。しかも、ダグラス船長は、その武装商船で海賊を退治をし、また、場合によっては自らも海賊行為を行なってきた人物であり、その船こそがケンブリッジ号であった。

1839年11月3日に川鼻海戦があったが、同日にはケンブリッジ号を含むイギリス商船は銅鼓湾に結集していた。勿論、銅鼓湾に結集していたのは、川鼻での軍事衝突が、イギリス商船が溜まり場にしていた尖沙嘴に波及してくるかも知れず、それに備えて銅鼓湾に一時的に避難していたものであった。しかし、銅鼓湾にイギリス商船が集結した事で、今度は清国側が警戒感を強めていた。商船団の中にはケンブリッジ号のような戦艦と見紛うような武装船も含まれていたのだ。銅鼓湾に集まって来たイギリス商船に、どう対処すべきかとなり、砲台が備えられている軍事的要衝である官涌に兵隊を集めていた。

川鼻海戦の翌日、つまり、11月4日、その官涌にイギリス武装商船から砲撃が行なわれた。前日の川鼻海戦に対しての報復のようにも、単に海賊船長の異名を持つダグラス船長によるケンブリッジ号による暴走だったのかかは判然としない。

銅鼓湾では、11月8日にもイギリス船からの砲撃があり、この際には小型ボートに乗船したイギリス兵の百数十人が上陸作戦を展開、そのまま上陸した。しかし、事前に備えていた清国側も兵を向けた為にイギリスの上陸部隊は引き返した。

翌9日にも銅鼓湾にてイギリス船からの砲撃が行なわれた。こうした執拗な小さな挑発行為が繰り返され、小競り合いが頻発する事態へと発展していた。砲撃を仕掛けていたのは海賊船長率いる武装商船のケンブリッジ号であり、清国側では関天培の覚え目出度い陳連陞(ちんれんしょう)らが官涌砲台からの砲撃で応戦していた。この「海賊船長」と冠されるダグラスに対峙している陳連陞は、「喧嘩将軍」という渾名があり、猪突猛進型の人物であった。つまり、イギリスの海賊船長と、清国の喧嘩将軍とが局地戦をしているという状況であった。陳連陞は兵卒出身の武将であり、実際の戦功によって出世した人物であった。

海賊船長と喧嘩将軍との砲撃戦は、どちらも後には引かぬタイプであった為か、そこそこ長引き、合計で、11月13日までに6度もの小競り合いの砲撃戦が起こった。清国側では死者2名、それと一千斤砲の大砲の破裂事故があった。戦死者は、その破裂事故による。イギリス側には死者、負傷者ともに無しであった。
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◆イギリス海軍が投入される

川鼻海戦の後、清国側はイギリスとの断交を打ち出す。一方、イギリスは国家として正式に軍隊を動かす事を1840年2月に決定し、同年4月にはイギリス議会でも戦費支出が承認され、インドに駐留していた東洋艦隊が動き出した。

イギリス議会では、アヘンを没収された事に端を発しての、この軍隊派遣については紛糾した。それが「大義なき戦争」であり、「不義の戦争」であるのは歴然であった。しかし、議会は最終的にこれを正式に認めた。戦費支出の票決は、実際に賛成票271、反対票262という、僅差であった。勿論、チャールス・エリオットや、アヘン密輸で財を成したジャーディン&マセソンらはイギリス海軍を引っ張り出す為に大袈裟に誇張して、その必要性を説くなどの工作をしていた。

清国への遠征軍の全権大使には、ジョージ・エリオット少将が任命された。このジョージ・エリオットは、商務長官であるチャールス・エリオットとは従兄の関係にあった。この時、ジョージが56歳、チャールスが39歳。このジョージ・エリオットと、チャールス・エリオットは、従兄でありながら、反りが合わず、以降、この二人のエリオットは反目しながら、アヘン戦争が展開される。

インペリアル・ハイ・コミッショナー林則徐は、1840年になると体調を崩し始める。しかし、そんな
中でも清国兵船による銅鼓湾に駐留しているイギリス船に対しての火攻めは散発的に継続していた。また、広州へ入るには絶対に避けて通れない沙角、その沙角砲台を始め、虎門水道近辺の砲台にはポルトガルから購入した八千斤砲を並べてイギリス船に備えた。4月には海賊船長ダグラスが手放した武装商船ケンブリッジ号を買い取り、対イギリス軍艦に模して演習に使用までしていた。

一方のイギリス軍はシンガポールに軍船を集結させる一方で、マカオにも軍船を集結させていた。



◆広州封鎖と舟山列島襲撃

1840年6月25日、この日、イギリス軍は「6月28日以降の、あらゆる船の広州入りを禁止する」という布告を出した。これは広東の民間人、清国官憲及び中国人に対してだけではなく、アメリカなどの諸国の船舶に対しても、「広州入りを禁止する」と布告したものであった。とはいえ、この時点では広州の入口に位置する虎門水道は清国側が抑えており、諸外国がイギリス軍の布告に従うものかどうか見極めあぐねていた。

1840年6月28日、この日から広州はイギリス軍の艦船によって封鎖される事となる。

1840年6月30日、イギリス軍は舟山列島(しゅうざんれっとう)の占領に向かった。イギリス軍は広州封鎖には僅かな艦船だけを割き、他の主力艦船は舟山へと向かった。舟山列島を以前からイギリスは中継基地にする戦略を練っており、この舟山列島を占領してしまえば、台湾海峡を抑える事が出来てしまう。

また、このイギリス軍の舟山列島襲撃によって、林則徐の夷船に備えて砲台の強化は意味を為さなくなってしまう可能性が出てきた。イギリスの攻撃目標は広州ではなく、舟山列島、その舟山列島を中継基地にして、北上してゆけば南京、天津とあり、天津から陸路で北京まで行けば、そこには紫禁城がある。この地政学を林則徐は見落としていた――。



イギリス軍は戦艦ウェズリー号を旗艦とする4隻からなる船団で、定海県に出没する。そして定海県の知県(県知事に相当)を旗艦のウェズリー号の甲板に招聘する。定海知県の姚懐祥(ようかいしょう)に、その軍艦を見せ、争う必要性がない事を示す為であった。勿論、圧倒的な武力、火力を知県に見せて、降伏を促す為に甲板に招聘したものであった。

ウェズリー号のブレ―マ―艦長は、姚懐祥が一切の抵抗をせずに降伏してくれる事を期待していたが、姚懐祥は、言い放った。

「この兵船の強大な事はよく分かりました。我が方は、太平に慣れてしまい、戦を習っておらず、大砲も武器も抗う余地がありません。あなた達と戦えば、必ず負けるでしょう…。しかし、降伏する訳には参りません」

と返答した。ブレ―マ―艦長は通訳を通じて、諭した。

「みすみす負けると分かっている戦争をする事なんて、ないでしょう?」

しかし、姚懐祥は返答した。

姚「それでも戦わねばなりません」

ブ「皇帝から叱責されるからですか?」

姚「そうではありません。一戦も交えずに降伏したとあっては、青史に汚名を残すことになりましょう。私は、それを恐ろしいと言っているのです」

ブ「紙の上に残される記録上の汚名よりも、生命の方が大切ではありませんか?」

姚「私は汚名を恐れます。この兵船よりも汚名を残す事の方が恐ろしい」

そう、この姚懐祥はじめ、多くの清国の忠臣には、そういう汚名を残す事を最も恐れるという独自に発展した儒教的価値観があったので、一戦も交えずに降伏する事を何よりも恐れる、その恥の文化があったよう。

ウェズリー号のブレ―マ―艦長による説得工作は失敗に終わり、姚懐祥は下船した――。

斯くして、イギリス軍は、その時を迎えた。ウェズリー号、コンウェイ号、アリゲーター号、クルイザー号の各艦は、旗艦たるウェズリー号の艦砲を合図に、一斉に艦砲射撃を行なった。この艦砲射撃は、ほんの一瞬で終わったという。一撃で、海辺の民家が跡形もなく吹き飛び、定海県の応援要請を受けてジャンク船を率いていた水軍も海上に現れていたが、一瞬で半壊状態となり、水師は後日死亡し、水兵の半数も死亡した。圧倒的な軍事力差があった。

心配されていた年代物の清国の砲台、それは道頭洋砲台という砲台に160年前に製造された、最早、骨董品と呼ぶべき大砲があった。イギリス軍の水兵の間で、清国の大砲は艦船まで届くのか届かないのかと賭けの対象になっていた。このアンティークな大砲から放った砲弾は、数発がイギリス艦船まで届き、命中していた。しかし、ダメージを与えたと言えるレベルではなかった。

1840年7月5日、この日、イギリス軍は清国の領地であった舟山に上陸を果たした。舟山の住人たちはイギリス軍の進軍を前に一斉に避難したので、定海県城内から人影は消えた。一般住民よりも、むしろ役人や軍人の方が逃げるのは早かったという。

知県の姚懐祥は、未だに定海県城内に留まっていた。一戦も交えずに降伏する訳にはいかない、青史に汚名を残す訳にはいかない、ただ、その思いで、留まった。定海県城に留まって、城と心中しようとした者は、刑務所の官吏であった全福という男と、知県の姚懐祥、その2名程度だったという。

1840年7月6日、夜明けを待ってイギリス軍は定海県城への攻撃を開始した。また、この日には全権大臣のジョージ・エリオット率いる20隻を超える大艦隊が道頭洋に現われていた。4艦の先発部隊はジョージ・エリオットの到着を待つまでもなく、定海県城への攻撃を開始した。しかし、一向に反撃は無かった。殆んど、県城内はもぬけの殻になっていたのだ。

殆んど抵抗を受けることなく、イギリス軍は定海県城を陥落させ、占領。ただ一人、奇声を発しながら大刀で斬り込んできた大男が1名あったという。イギリス側の記録では「酔っ払った中国人の大男」であったが、それが定海県の刑務所の看守をしていた全福という男の最期であったと思われる。そして城内に残っていたもう一人、「汚名を恐れる」と主張し続けた定海県知県の姚懐祥はというと、城内の池に飛び込んで入水自殺を遂げた。

その後も中国人の「自殺的抵抗」と呼ばれる入水自殺が頻発することになる。武力という力に抗う術を持たぬ当時の中国、このアヘン戦争に於いては、思いの外、自殺をしてしまう者が多かったという。
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◆林則徐、罷免される

ジョージ・エリオット率いるイギリス軍は船山を占領、そして中国船を封鎖したが、この封鎖には意味がなかった。そもそも当時の清国は自給自足で経済を賄っており、経済封鎖にはならなかった。しかし、その後、イギリス軍は北上し、天津へと向かった。

1840年7月29日、8隻からなるイギリスの北上艦隊が船山諸島を発って、天津へ出航した。

これによって欽差大臣・林則徐の罷免が決まった。イギリス軍と一戦交えるのは広州周辺と見込んで軍備増強をしていたが、イギリス軍の北上によって、その進路には相変わらず貧弱な軍備しかなかった。また、その状況になってもイギリス軍と一戦交えるという覚悟は、誰にもなかった。ジョージ・エリオット率いるイギリス艦隊が船山諸島へ向かった段階で、既に、天津へのルートは開けていた。イギリス軍に対峙できるとすれば、広州周辺しか有り得なかったのだ。天津の清国側の守備兵は僅か800名であり、とてもではないが戦争できる戦力は保有していなかった。

同年8月5日、イギリス北上艦隊は山東半島を通過し、翌6日、渤海へ入る。同月9日、白河口に入ると清国の艦船がやってきて、その艦船を通じて、イギリスのパーマストン外相が書いた書簡を清国大使に手渡した。北上艦隊は「イギリス全権団」を名乗っていた。

大雑把には、

\狭颪龍嶌溝膺叩ξ啾Ыが広州で没収したアヘン代金を賠償する事

▲ぅリス商務監督官に対して行なわれた侮辱行為に謝罪する事

1莖い琉譴帖△泙燭亙数個の島をイギリス臣民の居住地と商業活動の拠点として指定する事

じ商のイギリス商人に対する負債を清算する事

であった。

書簡が手渡されたという形であるが、既に船山では定海県城を占領している等、軍事侵攻も既に住んでおり、実質的な降伏勧告文にも似た内容であった。

清国政府は激しく動揺した。そもそも清王朝の歴史は勿論のこと、支那の歴史としても、そもそも東方から外敵の侵攻を受けた経験は、倭寇ぐらいしかなく、天津はノーガードに近かった。しかも、天津から北京までは遠くもなく、つまり、天津に外敵が上陸した場合、即座に紫禁城までもが外敵に包囲されてしまうという地政学上の問題を抱えていた。最早、この時点で、詰んでしまったのだ。

清国側は、和睦に応じるより他の選択肢はなかったが、面子の問題として、どうしてもアヘン代金の賠償は受け容れたくないというホンネがあった。そもそもアヘンは密輸していたものであり、清国側には一ミリの非もない。また、林則徐にすべての罪を御仕着せるべきという意見もあったが、林則徐にアヘンを焼却してしまえと命じたのは、当の道光帝であり、道光帝の命令に忠実に林則徐は、没収したアヘンを焼却してみせたに過ぎなかった。

1840年8月31日、イギリス側はチャールス・エリオットと、清国側の代表の直隷総督の善(キシャン)とが特別に設けた天幕の中で6時間にも及ぶ下交渉を行なった。実質的な降伏勧告に応じる役目を追った直隷総督の善は、その条件を値切る事と引き延ばす事を忘れなかったが、それでも難題が降り掛かった。イギリス側は、林則徐の処分を要求していたのだ。ここでイギリス側は副使のチャールス・エリオットを交渉に出しているが、このチャールス・エリオットは、さんざん林則徐に叩きのめされた張本人であり、恨み骨髄であったのだ。

道光帝は、イギリスの交渉窓口に善を使用することに決定し、林則徐の欽差大臣を罷免し、この善を次の欽差大臣に任命。場所を広東に移して、その後も善がイギリスとの交渉を継続することとなる。

1840年9月15日、イギリス海軍は広東で、新たに欽定大臣となった善を相手に交渉するという内定を確約させて、天津沖から姿を消したが、舟山列島はイギリスの占領下のままとなる。



◆ヴェールを脱いだ西洋帝国

1840年11月、斯くして林則徐に変わって欽定大臣となった善(キシャン)とイギリス側との間で和平交渉が始まった。清国としては実質的には敗戦交渉であり、戦勝国イギリスの要求を値切る事が全てという交渉となる。しかし、それを見据えてイギリス側の要求も大きかった。イギリスに対しての侮辱に対しての謝罪、船山列島などの海島の割譲、六つ以上の港を開港する事、開港エリアには英国人の居留民の家族の同居も認め、教会の設立を認める事、そして、没収したアヘン代金の弁償として2千万ドルを支払う事――。

善は値切れると思っていたが、イギリス軍の厚かましさに頭を抱えた。道光帝及び宮中の意向としては、絶対に認められないのは海島の割譲であり、つまり、これは領土をイギリスに献上する事を意味していた。更に、アヘン代金の弁償にしても、インドでの原価は割れているのに、そこに諸々の損失分を計上し、厚かましく2千万ドルとふっかけて要求してきたのだ。

要求を値切る為にはどうしたらいいのか――。善は、当時の清国では常套手段でもあった交渉の引き延ばしを図ろうとする。さすがに不利な条件で和平する訳にはいかない。また、ここで再浮上してくるのは前任の欽定大臣・林則徐の人脈であった。

林則徐は、イギリスに対峙するに当たっては、単純にイギリス人は弱味をみせればつけ上がるであろう事を知っていた上に、敗北を受け容れるに当たっての、清国人もしくは支那人の矜持の問題を掲げていたのだ。清王朝の臣民というアイデンティティーが傷つくというのはメンツ、プライドの問題である。それとは別に支那人としての歴史的なアイデンティティーというのは矜持、自尊心の問題であった。林則徐は戦わずして敗北したなら、相手をつけ上がらせ、且つ、支那人(中国人)の誇りをも打ち砕き、ひたすらに不平等な条件で和睦を迫られるだろうと思考し、それを周辺の人物にも語っていたのだ。その思考方法は、或る意味では帝国主義の本質を見抜いていたものであり、同時に、武力衝突で敗北する支那の将来を案じたものでもあった。戦わずして敗北を受け容れる事は、子々孫々、支那の人々の矜持を傷つけることになる、アヘンの密輸をしてきた悪業、そんな悪業に屈するという不名誉は到底、受け容れるべきではない――と。

林則徐が罷免されて善に欽差大臣が交代となった後、林則徐の思想が正しかった事が証明される。イギリス側は、更なる軍事攻撃を仕掛け、有利な条件を引き出そうと動き始めたのだ。洋鬼子の思考回路には東洋的な性善説は通用しない――。弱味をみせれば、つけこまれるだけという真理を。

年が明けて1841年1月、早速、善は窮地に追い込まれる。善は、イギリスと軍事的緊張状態が発生しても、先に手を出してはならぬと命令していた。しかし、イギリス軍は威嚇砲撃を決断した。何故なら、威嚇砲撃をすれば相手を跪かせる事が可能であり、有利な交渉条件を引き出せる手段だと知っていたから。強者の奢りとは、こういうものらしい。

(イギリス陣営では、元々、この衝突の原因をつくっていたチャールス・エリオット、その後に英国軍人として乗り込んできたジョージ・エリオットとの間では対立が発生。チャールス・エリオットは、この時点で善と手を打って和解し、さっさと商業貿易を再開し、商業利益を上げる事を主張した。しかし、英国軍人であるジョージ・エリオット少将の方は、大英帝国軍人としての立場で物事を思考していた。ジョージ・エリオットは、その有しているイギリス軍の軍事力を行使し、政治として開港を勝ち取ったり、海島の割譲といった〈権益を勝ち取る〉という使命を帯びていた。この二人のエリオットは従兄弟同士であったが、ここで対立が激化し、元々、この清国相手に紛争を起こしたチャールス・エリオットは、ここで従兄弟と衝突し、イギリスへ帰国した。)

1841年1月7日、イギリス艦隊は珠江の入口となる虎門に設置されていた沙角砲台に対して、約20分間に及ぶ艦砲射撃を開始し、その後、なんと上陸部隊を以って沙角砲台を占領するという軍事行動に出た。更に大角砲台も軍事侵攻を受けた。この時には、既に林則徐なく、後任の善によって兵士の数も減らされていたという皮肉が重なる。イギリス艦船4隻は虎門水道の中央に停泊し、清国側の砲台に攻撃を加え、上陸し、沙角要塞と大角要塞を陥落させ、占領したのだ。

この沙角要塞での戦闘は、清国人に未だ見た事のない本格的な西洋列強の強さをみせつけた。砲弾が霰のように降り注ぎ、城壁を破壊し、砲台を潰し、火薬庫が轟音を立ててふっとび、黒煙が上がる。その守備兵たちは火に囲まれ、死ぬ者は死に、生き残った者はガクガクと体を震わせ、戦意を喪失した。その軍事攻撃は、東洋人が目撃した未知の恐怖であった。(日本に黒船来航が起こる前の出来事である事を念頭に置くと、色々な事を思考できる。)

また、イギリス軍の賢かった事は、上陸部隊には漢奸、つまり、漢族であるが故に満州族政権である清王朝臣民というアイデンティティーを持たず、国家なんてどうでもいいという漢奸を傭兵として使用し、また、インド兵を使用していた。金銭で雇われた漢奸部隊が先陣を切って上陸し、その背後からインド兵が援護射撃をしながらの上陸戦であった。

沙角要塞、大角要塞ともに上陸戦に備えて地雷も埋めてあったが、地雷は金銭で雇われた漢奸部隊が担当したという。これには清王朝の限界があった。官軍は、いじめが横行したりするものだから、漢民族というアイデンティティーを持っていた。ごくごく平均的な国民意識としての支那人とは、つまり、漢人という民族的アイデンティティーを有しており、満州系王朝である官軍に対しての不満もあったのだ。貧民ともなれば尚更であり、金銭を払ってくれるイギリス軍の尖兵になった方がマシだという判断があったものと推測できる。便宜上、「漢奸」と表現しているが、厳密には「満に対しての奸」もしくは「清に対しての奸」というニュアンスであったか。
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