どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:世迷い言 > ブルーハーツ

ブルーハーツの映像を視ていて、いつもコーフンが収まらなくなる。これは何だろうと、しばしば考える事があって、最近、偶々、視聴したブルーハーツの活動全般を追ったドキュメンタリー映画「ブルーハーツが聴こえない」を視聴後にブルーハーツのCDを意図的に聴くようにしていたのですが、そうなると歌詞が気になって気になって仕方がない。どうして、こんな凄い詩が書けるのだろう? これは殆んど理屈抜きの次元で「凄い」と感じたのかな。

この度、2020年10月刊行の陣野俊史著『ザ・ブルーハーツ〜ドブネズミの伝説』(河出書房新社)に目を通したのですが、想像以上に「ブルーハーツがヤバすぎる」と気付く事となりました。これは年甲斐もなく「凄い」とか「ヤバい」と言っているのではありませんで、実は、そうした抽象的な言葉でしか、その真相について語りようがないという事に気付かされてしまったの意でもある。

「ブルーハーツなんて、そんな凄かったっけ? 或る種、バブル症候群とか中高年の懐古趣味なのでは?」という手合いも多いと思うし、そもそもブルーハーツと全く接点がないという人も2021年の現在ともなると、決して少なくないハズなんですが、実はブルーハーツだけは何か別次元の境地に達する何かであったのは間違いない。

或るテレビ番組で、あの「ビートたけし」が憧れた有名人の名として「甲本ヒロト」の名前を挙げたという。その番組を視聴していないものの、その実、その一連を聴いて「有り得るかな」と合点することができてしまった。ホンモノの頂点みたいなものを究めた何かである。映画「ブルーハーツが聴こえない」の中では、俳優の萩原聖人さんがナレーションを担当し、随処に「一度だけ出したファンレター」というものが読み上げられる。ブルーハーツにファンレターを書いていた人物として「ダンプ松本」や「大森うたえもん」なんて名前が浮かび上がり、ファンレターが読み上げられる。或る種、ブルーハーツが人々を熱狂させた現象、これを仮に「ブルハ現象」と呼ぶとすれば、ブルハ現象は単なる熱狂という現象だけだったとは言い切れそうもないのだ。そこには、その奇跡的な何かが秘められている。

数多の虚像が何かしら像(イメージ)を創り出す。そうした像は、言ってしまえば偶像であるが、ブルハーツ現象の場合、それら偶像と信者という、その関係を越えていた事に気付かされる。


終らない歌を歌おう クソッタレの世界のため

終らない歌を歌おう すべてのクズどもの為に

終らない歌を歌おう 僕や君や彼等の為

終らない歌を歌おう 明日には笑えるように


世の中に冷たくされて 一人ぼっちで泣いた夜

もうダメだと思う事は これまで何度でもあった

ホントの瞬間はいつも 死ぬほど怖いものだから

逃げ出したくなった事は 今まで何度でもあった


終らない歌を歌おう クソッタレの世界のため

終らない歌を歌おう すべてのクズどもの為に

終らない歌を歌おう 僕や君は彼等の為

終らない歌を歌おう 明日には笑えるように


とは「終わらない歌を歌おう」という楽曲の一節である。そんな歌詞に眉を顰める者だって少なくはないのが世の中であるが、ブルハーツの世界は一貫して、挑発的な文言を唄っておりながら、それでいて全く以って、やさしい、なんで、こんなにやさしい歌なんだろうってなってしまう、不思議な魅力がある。

『ドブネズミの伝説』では、現在は歌人・穂村弘さんとブルーハーツとの出会いについても、それが引用されていました。穂村さんが、当時のガールフレンドが住んでいるアパートを訪ねてみると、そのガールフレンドが一言も発することなく、穂村さんの腕を掴んで部屋に通したという。そこにはビデオテープがセットされたテレビがあり、そこで視る事になったのはブルーハーツの日比谷野音で行なわれたコンサート映像、いわゆるライヴ映像のビデオであったという。穂村さんは、そのビデオを視聴していたらなんだか理由も分からないままに涙が止まらくなり、そのまま、5〜6回も繰り返し繰り返しライヴ映像を再生したという。これ、先日、私が視聴した感慨にも近い。よく理由は分からない。しかし、凄いのだ。そしてなんだか感動してしまうのだ。やはり、私だけではないのだなと確認できてしまった。しばしば、こういう話は、或る種の信者が信者という立ち位置でもって大袈裟に誇張したりする事も少なくないのですが、どうも違うんですね。ガチ中のガチ。何がどう凄いのか分からないのでモヤモヤし、よく分からないのだが、そのライヴ映像などは圧倒的に凄い何かを帯びている。

そして、この陣野俊史著『ドブネズミの伝説』にしても、さすがに、これは過大解釈なのではないかと疑いながら目を通していくことになりましたが、読み終えてみると、複雑な感慨が沸き起こる。大雑把には7割に賛成、1割に反対、残り2割は「私のブルハも残しておいてくれよ」という感慨。

先ず、甲本ヒロトさんですが、ブルーハーツ結成前の一時期、法政大学中退後と思われますが、どうもホントにテキヤ稼業のような事していたらしい事が記されている。これは「渥美清」と同じような経歴という事になるのかも知れませんが、これが何を意味しているのかというと、あのヒロトのキャラは、演じられた何かではなく、実際に世の中で「ドブネズミ」と呼ばれるような人たちや、クズ呼ばわりされている人たちを身近なところで目撃してきた人物であるという。しかも、この逸話にしてもファッションではないし、プロモーションでもなく、プロパガンダでもない。渥美清のケースと同じで、成功してしまった以上は、あまり取り上げるべきではない事柄という事になる。

そうなると、


ドブネズミみたいに 美しくなりたい

写真には写らない 美しさがあるから


といったブルハ現象と深く関係している、あの謎の世界と深く関係している事が分かる。何かしらの比喩ではなく、ヒロトは本気も本気で「ドブネズミは美しい」と考えている可能性が高い。


戦後日本の思想史のようなものを紡いでいこうとすると、「どこかの時点でイデオロギーはサブカルチャーに吸収されて消えてなくなった」という説明に直面する事になる。その辺りついても、モヤモヤする事がある。或る時代から識者は古典ではなく、アニメーションを引用して物事の説明をするようになり、そうした論者が何故か御意見番のような地位までを占めるようになり、あちらこちらで持て囃せ始める。そういうサブカル評論家が増殖し、主導権を握り、業界然として構え、若者論や政治や時事問題の主導権も握ってしまったという不可解がある。単なるアニメオタクにも思えるし、単なる洋画マニアにも思えるし、単なる音楽オタクな人たちであるが、どうしようもなく、泥臭いイデオロギーで物事を語ろうとする事は古くさくなってしまい、雨後のタケノコのように生まれては消えてゆくかのような時代の落とし子たちが、諸々の世論をリードするカリスマに祀り上げられるようになってゆく。確かに、今、「思想家」という肩書きで物事をテレビで論じている人物って、きっと見当たりませんね。反面、大学教授などの肩書きを有するテレビ的な御用学者というものがつくられるようになった。最早、誰も危険な真実には言及しない時代になってしまった。

シマッタと感じたのは、そこでした。ブルーハーツが、戦後思想史に於ける「イデオロギーを吸収したサブカルチャー」の大きな何かであった事に、今更ながらに気付かされてしまった。思想性はないと述べるべきなのですが、そうではない。しかも、どうも実際には濃密すぎるほどにブルーハーツはメッセージ性を有し、しかも圧倒的な共感力を喚起させる秘密を有していた。穂村さんのように涙が溢れて止まらなくなってしまったというタイプの人は、おそらく、ブルーハーツのライヴから何かを感じ取れてしまった人たちの反応なのだ。歌詞としては「常識的には汚い言葉」を使用しながらも、実は圧倒的な理想世界を唄っている。その奥底にある本質を感覚という次元で触れ、触れてしまったが故に、言葉にならない感動が溢れて来てしまうのだ。これはホンモノだ。ホントの理想を唄えてしまっている人たちがいるじゃないか…という衝撃。

誰かが線をひきやがる 

騒ぎのドサクサにまぎれ

誰かがオレをみはってる

遠い空の彼方から


とは「チェルノブイリ」の歌詞である。出だしの「誰かが線を引きやがる」なんてフレーズは、現在進行形の所得制限うんぬん、この線から上の人にはこうするが、この線の下の人にはこうするという今風の「線引き」の問題である。「勝手に線を引くな!」という怒りは、ホントは普遍性のある怒りでしょう。そして「ラインを越えて」という歌もある。

色んな事をあきらめて 言い訳ばっかりうまくなり

責任逃れで笑ってりゃ 自由はどんどん遠ざかる

カネがモノをいう世の中で 爆弾抱えたジェット機が

僕のこの胸を突き抜けて あぶない角度で飛んで行く

満員電車の中 くたびれた顔をして

夕刊フジを読みながら 老いぼれていくのはゴメンだ


これらは、ざっと35年以上も昔につくられ、唄われていた曲であるが、「色んな事を諦めて、言い訳ばっかり巧くなり、責任逃れで笑っているので、どんどん自由は遠くなる」と意味をきちんと追ってしまうと、令和3年の最先端の現代批判である事に気付かされてしまう。この「ラインを越えて」という楽曲の歌詞は、よくよく時代考証をしてしまうと、その当時の自衛隊派遣を巡る批判であったり、或いは原発問題を巡る批判を忍び込ませた歌詞であったが、その実、普遍性のある歌詞にしてあるので時代を経ても尚も通用してしまうのだ。

ヒロト(甲本ヒロト)については余りにも複雑であるが、マーシーこと真島昌利の書いた歌詞がキレキレなのは、種明かしもされている。マーシーは、どうも文学青年の一面を有しており、実際に中原中也の詩をモジった歌詞を書いたり、その詩の一節がプリントされたTシャツでステージに立ったこともあるなど文学的素養から組み立てられているという。なにも中原中也に限らった次元ではなく、どうもマーシーの思想的なバックボーンは文学分野に限ったものではなく、想像以上に、かなり重厚であるらしいことも想像できてしまう。

イデオロギーについては細かくは触れないものとするも、「チェルノブイリ」は80年代に実際に起こっていた日本の世論と関係しており、「ラインを越えて」についても自衛隊の中東派遣問題と関係している事が実は年譜と比較してしまえば、歴然である。しかし、ブルーハーツの面々は頑なに「俺たちを社会派と呼ぶな!」と釘を刺し続けた。確かにブルーハーツは「社会派のパンクロック」という括りで済むような何かではなく、もっともっと照準は大きいところにあったという。マーシーは、ブルーハーツを発足させ、その2年後はローリングストーンズの前座にまでのし上がってみせると考えていたという。照準は、そもそも日本の頂点になることではなく、世界の頂点になろうとしていたという、そういう次元の人たちだったのだ。

抽象的な詩だからこそ、時代を越えても尚も現代批判としてブレない。これはおかしな事ではないと思う。批判精神というのは一つの事象への批判でありながら、おそらく時代を越えていく部分がある。裏返せば、巧妙に切り取っているという事の証拠でもある。しかも、歌(歌詞)にしても詩にしても、どちらかとえいば、読み手の解釈に委ねられる余地がある分野なのだ。いつの時代にも、どこの世界にも孤独があり、怒りがあり、悲しみがあり、気落ちしている人たちがあり、ささやかな幸せを祈る人たちがいる。それらを、ごっそりと射程に収めている世界観である――という事なのだ。(長くなってはいけないので、細かい話は後に譲りますが…)

どこか朴訥としたところがありながらも破格のボーカリストであるヒロトの世界と、ロックを体現したようなマーシーの世界がある。ブルーハーツとは、ヒロトにマーシー、それと「梶くん」と「河ちゃん」の4名から構成された四人組のロックバンドであり、総じてパンクロックと呼ばれるバンドである。しかし、中核になっているのはマーシーとヒロト、もしくはヒロトとマーシーである。

ドブネズミ伝説の始まりは、マーシーがヒロトに一緒にバンドをやろうと誘いかけた事から始まったと考えらえる。

ヒロトは岡山県のクリーニング店の子として育って、東京で音楽をやりたいと欲する。進学する口実の為に法政大学に入学、上京を果たす。しかし、本気で大学を出る気はなかったらしく、2年時に中退し、その後はバンド活動をしてライヴハウスには出ていた。ブルハ結成以前の時代、別のバンドの時代に既に「NO NO NO NO」や「少年の詩」を唄っていたという。この2曲はブルハとしてデビュー後にも、会場を沸かせた名曲である。なんとも手短には形容しがたい楽曲であるが名曲である事には変わりはない。

そんなヒロトであったが、或る時期からスランプになり、曲を書けなくなり、自堕落な生活を送り始める。それでも、このスランプ期間中に後に大ヒット曲となる「人にやさしく」を書いている。


気ーがー狂いそう やさしい歌が好きで

ああ、あなたにも聞かせたい

このままボクは 汗をかいて生きよう

ああ、いつまでもこのままさ


ボクはいつでも 歌を歌うときは

マイクフォンの中から ガンバレって言っている

聞こえて欲しい あなたにも


ヒロトの自堕落は本格的なもので、スキンヘッドでは済まずに眉毛をも剃り落とし、テキヤの一団でたこ焼きを売るなどして糊口をしのいでいたが、万年、金欠状態という生活をしていたという。ヒロトという人物のキャラクターを想像できれば、理解できるかも知れないが、この頃のヒロトは、あの岡山訛りの口調で「洞穴があれば、そこで暮らしたい」と発言していたらしく、実際、そういう状態だったという。

甲本ヒロトというボーカリストには異様な雰囲気がつきまとっており、そして、信じられないほどに真っ直ぐに、朴訥な歌詞を歌い上げる。巧拙という次元を超えてしまっている、あの迫力と、あの、何か分からない異様なやさしさは、当の甲本ヒロト自身がホントの意味での「どん底」を知っている人物であるからなのかも知れないと今更ながらに気付かされる。

1984年のクリスマスイヴの夜に、音楽仲間が集まって飲み会をしていると、マーシーが、それまで、やはり、別のバンドでギターを担当していたが、バンドを辞めると切り出したという。既に、マーシーの所属していたバンドはプロデビュー確実と言われていたらしく、そのバンドを辞めるというマーシーをヒロトは訝しく思ったが、マーシーは本気らしかった。そのバンドを辞めると言い出したマーシーは、次にはヒロトに声を掛けた。

「やろうよ、いっしょに」

「やってもいいけど。まあ、いいよぉ…」

という簡単なやり取りであった。ヒロトはかなり酔っていたらしい。

ヒロトは、この頃、東京は笹塚の殺風景な工場跡地に一人で住んでいた。イタズラされては困るから誰か、こんなところでも住んでくれるのであればという防犯になるという理由の、冗談のような物件であったらしい。クリスマスイヴに一緒に音楽をやろうといった約束をしたが、ヒロトの方は、いぜんとぶらぶらとした生活を続け、年が明けて1985年となり、2月になった頃、家財道具を売り払ったマーシーが、その工場跡地に押し掛けてきたという。

マーシーは、その工場跡地でヒロトと同居して音楽活動をする決心をしてきた。実際にマーシーは、この際、既に楽曲をつくってきたという。しかし、一方のヒロトは殻のような生活をしており、生活はお菓子を食べながらテレビを視るという怠惰な生活から抜け出せておらず、寝そべったまま、立ち上がろうとしなかったそうな。真正の、そういう人だったらしい。

或る時、マーシーは「今日の午後4時からミーティングをしよう」と告げると、ヒロトは「ばってんロボ丸がはじまるから」とゴロリと寝転がったまま、言った。マーシーは、ついに怒りを爆発させ、「こんなもんがあるからいけないんだ!」と言って、テレビのスイッチを切り、コンセントを抜き、更にそのテレビを担ぎ上げると、隣の部屋に運び出してしまったという。そのマーシーの態度で、ヒロトは覚醒した。

「そのときですよね。ああ、友だちをこんなに悲しい気持ちにさせちゃいけないとおもって。それからすぐに曲をふたつつくったの。できましたァって、マーシーにもってった」

そう、友だち(マーシー)を怒らせてしまった事とは、ヒロトからすれば《いい友達なのに怒るという事は悲しまてしまった事と同義である》という受け止め方になる。この出来事で、ようやく覚醒したヒロトは、これではいかんと慌てて、曲を書いた。そして、この時に書き上げて、ヒロトがマーシーの元に持っていった、その曲は「ブルーハーツのテーマ」と「リンダリンダ」であった――。


ドーブーネーズミ みたいに 美しくなりーたいー

シャシンーにはー 写らない 美しさ・が・あ・る・か・らー

リンダ、リンダ、リンダ、リンダ、リンダ
リンダ、リンダ、リンダ、リンダ、リンダ

もしも僕がいつか君と 出会い、話し合うなら

そんな時は、どうか愛の 意味を 知ってください

愛じゃなくても 恋じゃなくても 君を離しはしない

決して負けない 強い力を 僕を一つだけ持つ



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「リンダリンダ」という名曲の唄い出しであり、且つ、ブルーハーツの代名詞でもある、このドブネズミもしくは、ドブネズミの美しさとは、何を意味しているのかという問題があると思う。これは、80年代頃の私であったなら【ドブネズミ】という単語には「サラリーマン」という意味を持って使用していたと思う。というのは、通勤電車に揺られて出勤するサラリーマンのオジサンたち、その多くはグレイかチャコールグレイであり、それを揶揄して「どぶねずみ色」という言葉を使用していた記憶があるから。揶揄しているというのは、少しばかり小バカにしているの意でもあり、勿論、私がそういう人たちを小バカにしていた事に由来するのでもなく、既に、そのように揶揄する言葉が当時、ホントにありましたよ的な意味である。

どちらかといえば尾崎豊世代、これはブルハ現象とは、ほんの数年ズレていると感じますが、そのズレもあって尾崎豊が唄っていた「Bow!」という楽曲の「♪ サラリーマンにはなりたかねえ」という尾崎豊の歌詞の方が身近に感じていた。時代はバブルだった頃かな。今でも歌詞カードなしで諳んじることができる。


あいつは言っていたさ サラリーマンにはなりたかねえ

朝夕のラッシュアワー 酒びたりの中年たち

ちっぽけなカネにしがみつき ぶらさがってるだけじゃ No,No

救われない これが俺たちのー、あしたーなーらーばー

午後4時の工場のサイレンが鳴る

心の中の狼が、あー、叫ぶよゥおー

鉄を食え、飢えた狼よ

死んでもブタには 食いつくな


しかし、ブルーハーツの唄っていた「ドブネズミ」は全く違うものであった。陣野俊史著『ドブネズミの伝説』(河出書房新社)では、コアなブルーハーツのファンたち、メンバーとの交流もしていたであろうレベルのファンの人たちとの間で取り上げられていた、内情らしきものにも触れられている。ドブネズミとはドブネズミであり、ドブネズミの美しさ、それは、なんだったらゴキブリの美しさでもいいという生命は等価であるという思想とも関係していたという。クズだ、ドブネズミだ、ゴキブリだと、世の中から蔑まれている人たちが大勢いるが、そうじゃないぞ、という強烈な信念が【ドブネズミ】及び【ドブネズミの美しさ】の解釈だと実際に考えられていたらしい。

そして、この問題は更に複雑な問題を惹き起こしたという。そのドブネズミの美しさの解釈に拘泥したのか、実はコアなファンであり、且つ、ファンクラブ会報誌の編集を手掛けていた女性の一人が、オウム真理教に出家したという出来事があり、一部の人たちの間では、それがブルーハーツ解散の切欠になったという風聞が流れたという。ドブネズミだってゴキブリだって、突き詰めれば等価じゃいとしていたブルハ型の水平思想(フラット思考)は、思いも拠らぬ形で時代に揺さぶられ、揺さぶりをかけられていた事に気付かされる。ああ、最も、それは風聞であり、実際にブルハ解散の理由は別のところにあったと思われますが、そのブルハ型の水平思想について、もう少し続けます。

ブルーハーツには、ヒロト、マーシー、河ちゃん、梶くんの4名によって構成されていた。この内の「河ちゃん」は元々、熱心な仏教信者であったとされ、その河ちゃんが或る時期から新興宗教団体「幸福の科学」へ入信し、ファンクラブ会報などでは同団体について語る事態が発生。そして、オウム真理教に係る一連の事件が発生すると、河ちゃんは厳しくオウム真理教の批判なども展開していた。宗教活動が、そのバンドなどの活動方針に影響を与えてしまうという事例は、私は詳しく知りませんが、おそらくサザンオールスターズなどでも起こった問題であったと思う。それらの問題がブルーハーツの解散劇の舞台裏にあったのではないかと、実際に考えられたりもしたらしい。しかし、それらが、そのまま、解散の切欠になったとは、前掲著は断じてはいない。(断じては居ないが、ブルーハーツというバンドにズレが生じている事は明確に指摘している。)

ドブネズミの美しさを唄うことは、そんなに危険思想だったのだろうか? 実は、これは非常に重要な指摘であると思う。社会でクズとして扱われているドブネズミやゴキブリ、そんなものに対しての美しさを称揚すれば、その射程は、当然、万物に及ぶことになる。ありとあらゆるものが美しい。その射程であれば、何ものも洩らさない。最底辺からの放射だという事になる。

そして、批評家にして立教大学特任教授でもあるという著者の陣野俊史氏に拠れば、ブルハ現象の中核にあった「ドブネズミの美しさ」の秘密は、どうも、そこにあったと思われる。先述した、オウム真理教に出家した女性は、どうもドブネズミの美しさは証明されたが、ゴキブリの美しさは証明されていないというところ、つまり、「私はゴキブリみたいに美しくなりたい」といった具合の心性でもってオウム真理教に出家してしまったのだそうな。これは《出家》であり、単なる《入信》ではなかったらしいので、その決断は非常に大きいものであったのが分かる。ブルーハーツを支えていた一部の濃密なファンたち、その中の一人が「オウム真理教に出家した」という出来事は、舞台裏では大きな出来事であったという。

危険思想? ニューアカデミニズムの旗手と呼ばれた中沢新一氏がオウム真理教の思想を擁護していたとして問題視する論陣がありますが、その話と似たような、最終的次元に突き当たってしまう。元オウム信者の中には「中沢新一がグルを信じるべきだ」と言ったので、彼等は自分たちのグルである麻原彰晃を信じたのだという論陣があり、また、オウム事件後も一度も中沢新一氏は謝罪したことがなく、それを以っての中沢新一批判がある。しかし、私が思うにナカザワは、なんら謝罪する理由はない。高次元で信仰をしていく中で「グルを信じるべきである」という発言を以って、断罪を迫ることは難しい。

そもそも等価と考える思想は、危険だろうか? そんな事を言い出せば、私が掲げている「万物斉同」も危険思想にされてしまう。思想の根源を辿れば、自ずと物の価値に貴賤も優劣もなく、貴賤や優劣という価値観は人が人として創り出した価値観であり、宇宙、これはコスモスの意味でもありますが、そもそも根源的に貴賤も優劣も有益や有害といった価値観さえもないという、ごくごく当たり前の話でしかない。それに耐えられないのが、今日的な物質文明に傾斜しすぎた文明という事かも知れない。仮にも、世を生きる中で、一定の価値基準に従っているというのが真の哲理というものでしょう。これはねぇ、私が思うに、実際にそこそこ哲学や思想を真剣にやっている人は、何某かの胡散くさい信仰宗教には軽々には嵌まらないと言い換えたいかな。この問題は際どいといえば際どい。宮崎哲弥氏あたりが、実際に精神修養をすれば、見えないハズのものが見えてしまう次元があるという事にも言及している。それ自体はオカルトではない。立花隆さんの幽霊検証でも、酸欠状態になると人の脳は何某かの幻覚をみせることに言及しており、ホントはオカルトでさえない。しかし、それらを理解できない人たちが、恐ろしいものには近づくなと無知蒙昧の刀を振り回してしまうが故に、精神修養の結果、見える怪奇現象を、過剰に神々しい現象だと捉えてしまう人たちが登場しているだけなのだ。

私の場合、実は誰も気付かぬ時代に西洋の銅版画を背景として模写したり、ゲーテやチベット死者の書を流用していた水木しげる、或いは、東洋大学の創設者である井上円了の『霊魂不滅説』まで読んでいますが、ホントは、そんなにオカルトでもない。諸々、冷静に考えれば、その多くは物理現象というよりも精神現象である。では、侮っていいのかといえば、侮るべきではない。突き詰めてしまえば、よく判明していない次元というのもある、それだけの話だ。但し、間違っても、手品とメンタリズムなどを混同すべきではない。メンタリズムとは即ち錯覚を応用した手品であり、それは超心理学の最先端のデューク大学の話からして、そうなのだ。最先端の研究でも、テレビで披露されているメンタリズム、あの精度で他人の心理を読むことなんてのは不可能。裏でテレビ局のスタッフが何か細工しているだけの話だ。他人の心を9割とか8割で読み取れる等というのは、ひどい出鱈目だ。真摯に心理学の深部や宗教学の深部の話が理解できる訳がない。

ああ、UFOについても触れておくか。倉本聰がシナリオで有名な「北の国から」には、現在、視ると非常に陳腐に視えるUFOの話がある。確かに陳腐に視える。しかし、どうも当時は、現在のような気風ではなく、目撃者があるというのだからUFOはあるかも知れず、そのUFOには地球外生命体が乗っていると真面目に考えられていた節がある。山田太一ともなると、倉本聰以上の現実主義者ですが、やはり、古いエッセイの中で「存在しないと断言する訳にはいかない」という具合に残している。人間の認知の限界なんて、そんなものなのだ。それこそ、実際には多くの学者は地球外生命体は存在すると考える方が自然であるというのが一貫した態度であったが、オウム事件前後のトンデモ批判のブームになると、根拠もないままに「宇宙人は存在していない」という言説が、過剰にマウントを取っていた事と関係している。世の中の常識なんてのは、実際、そんなものですな。延々と、理解しようとしない。

かの酒鬼薔薇聖斗は、自ら「等価思想」という思想を思い付き、その教祖をバモイドオキ神を崇めていた。しかし、これはホントは等価な思想ではなく、独我論であり、多少、擁護したとしても、せいぜい独我的等価思想である。つまり、自分以外の生き物は等価であり、虫を殺すも猫も殺すも劣った人を殺すも一緒であるという考え方である。自分だけを虫ケラに置いていないアンフェアな等価思想なのだ。酒鬼薔薇の場合、知的障害のある少年に手をかけていますが、酒鬼薔薇は、そこで等価思想を用いており、本来的な等価の思想、命は平等であるという次元に全く達していない。身勝手な、自分を除いて、自分以外の生命も重さは同じであると考え、その中で、知的障害のある子を自分が殺して何の罪があるのだろうという、とんでもない危険思想の持ち主であった。おそらく、オウム真理教事件にも、この話は応用できるでしょう。真に等価であるというのであれば、それは例外なく、尊師も自分の命も虫ケラと同等と考えねば、論理的一貫性がない事になる。


さて、話を元に戻すと、何故、1985年の時点で、甲本ヒロトは【ドブネズミ】という比喩を用いたのかだろうか? 陣野俊史著『ドブネズミの伝説』(河出書房新社)の著者はアルベール・カミュの『ペスト』との関連にまで言及している。昨年とは2020年であるが、折からのコロナ禍で、急に脚光が集まったのがカミュの『ペスト』であった。そんなもの読めるかいなって思ったものの、昨年、急に売上が上がってベストセラーランキングに顔を見せたという話は小耳に挟んでいた。

著者に拠れば、カミュの『ペスト』にしても、物語がはじまりを意味をするのは一匹のネズミの死骸が発見された事からであるという。アルジェリアのオランという街が舞台。医師が診察室を出ると、そこでネズミの死骸に蹴躓いて転びそうになる。ネズミの死骸が階段の踊り場の真ん中に転がっていた。その医師は殆んど無意識にネズミの死骸を脇に寄せて階段を下り、建物から出た。しかし、建物を出てから、「先ほどのネズミは、本来、居る場所ではないところで死んでいたな。これは奇妙な事かも知れない」と思い直し、建物の管理人に一言注意しておくこととする。しかし、管理人はネズミの存在を無かった事にしようとする。管理人にとって、ネズミが存在しているという事は、不都合なことなので、ネズミの死骸があったという事さえも認めたくはない。勿論、このネズミが媒介となってペストを広めたに過ぎず、実はペストという感染症の拡大にあってはネズミもまた被害者であるが誰も、そんな事に気付かない。

ザ・ブルーハーツという1985年から1995年まで活動していたバンドは「ドブネズミの美しさ」や「ドブネズミのやさしさ」を称揚し、大ブレイクを果たした。人々は、怪訝だなと思いながらも、深掘りすることがなかった。単なる表現手法なのだろうとしか受け止めていなかった。しかし、ひょっとしたら、ブルーハーツは、とんでもない思想背景を持っていたからこそ、それを起爆剤にして、あの伝説をつくったのではないか――という私論をも述べている。まさか。しかし、分からない。司令塔らしいマーシー(真島昌利)は、中原中也だけではなく、ヘルマン・ヘッセなどから着想を得た歌詞を書いている。まさか、ヒロト、ヒロトの方は「ばってんロボ丸」なるアニメを、いい歳して視てたぐらいのようだし、まさかカミュだなんて、と思う。過剰解釈だろうと思う。しかし、確かに文芸作品に於けるネズミの地位とは、信じられない程、低い事は感じ取れる。

重複しますが、今一度なぞると、ネズミとて居場所というものがあるのだろうに、そのケースでは本来的な場所で死んでいなかった。しかし、さほど誰も気に留めない。ネズミの死骸に躓いた医師にしても、眉を顰めて死体を脇にどけたのだろうし、管理人ともなると必死にネズミは存在していなかったと言い出す。では、悪の本体はネズミなのかというと、そうではない。ネズミもまたペスト菌の被害者なのだ。人間からは「不潔の象徴」とされて忌み嫌われ、見捨てられ、無視され、迫害されているネズミこそが、実は最大のペストの被害者ではないのか? ネズミが語れないのを幸いに、人間という生き物はネズミに、なんて惨い仕打ちをしているのか――。

「ドブネズミは美しい」「ドブネズミはやさしい」と言い切るブルーハーツの原点、その何故かやさしく、クズどもを魅了してしまった思想性とは、このカミュの『ペスト』でも説明できるという。

実際のところ、ブルーハーツは思想性を否定するだろうし、社会派と呼ばれる事については拒絶する態度を採ってきたという経緯がある。しかし、何かしら歌詞、その言葉選びにも特徴があり、狂暴そうに見えて、どれもこれもやさしい歌だらけであるという不可解がある。また、歌詞についての解説もブルーハーツは否定する。そのニュアンスとしては「歌は、みんなのものだから、みんなが好きに解釈してくれればいいよ」という態度なのだ。カッコよすぎるじゃないかブルーハーツ。


この著者と私自身が挙げる曲も、そこそこ重なっている事が確認できた。やはり、ブルーハーツの楽曲で、凄すぎるという楽曲が何曲かあるのだ。言い出したらキリがなく、あれも名曲、これも名曲と言い出さねばならないが、仮に歌詞に照準を絞って、この歌詞は凄すぎるじゃないかという場合、そのタイトルは、そこそこダブっていました。「1000のバイオリン」や「情熱の薔薇」という完成期の素晴らしい歌詞もあるのですが、やはり、よりブルーハーツらしい歌詞の世界が炸裂しているのは初期作品であり、「青空」は稀代の名曲として紹介されている。いやいや、過大な評価ではない。歌い継がれて然るべき名曲なのだ。


ブラウン管の向こう側

カッコつけた騎兵隊が

インディアンを撃ち倒した

ピカピカに光った銃で

出来れば僕の憂うつを

撃ち倒してくれないか


神様にワイロを贈り

天国へのパスポートを

ねだるなんて 本気なのか?

誠実さの欠片もなく

笑っている奴がいるよ

隠している その手を見せてみろよ


生まれたところや皮膚や目の色で

一体、この僕の何がわかるというのだろう



運転手さん、そのバスに

僕を乗っけてくれないか

行先なら何処でもいい

こんな筈じゃなかっただろ?

歴史が僕を問い詰める

まぶしいほど、青い空の真下で


が、「青空」の歌詞である。

蛇足を承知で、この歌詞を確認していくと、やはり、ブラウン管の向こう側なのだから、やはり、テレビを視聴していて、きっと、西部劇か何かで、そこで、保安官がインディアを撃ち殺しているシーンを視ているのだ。そして、そのピカピカの銃で、自分の憂うつを撃ち殺してくれないかと考えている。「神様にワイロを贈り、天国行きのパスポートを、ねだるなんて本気なのか? 誠実さの欠片もなく、わらっている奴がいるよ」と続き、尚も知らぬふりをしようとする彼に対して、「隠している、その手の中を見せてみろよ!」と挑発している。そして「生まれたところや、皮膚や目の色で、一体、この僕の何が分かるというのだろう?」がサビとなる。これは、もう説明するのも嫌になりますが差別問題の核心であり、しかも、これ以上ないレベルで分かり易く歌っているのだ。そして、その一連を歌っている主体者たる《僕》は「運転手さん、このバスに僕を乗っけてくれないか? 行先なら何処でもいい」と言い、おそらくはバスに乗せてもらえたのだろうか。そして、その《僕》の思索は続く。「こんな筈じゃなかっただろ?」と歴史が思索をしている主体たる《僕》を問い詰める。まぶしいほど、青い空の下で――。

どう考えても単なるチンピラな唄じゃありませんな。よくよく読むと、「僕の憂うつを撃ち倒してくれないか?」であり、「僕を乗っけてくれないか? 行先はどこでもいい」であり、「歴史が僕を問い詰める」なのだ。歴史に裁かれるという覚悟が表出している。そして、冒頭の歌詞、保安官がピカピカの銃でインディアンを撃ち倒す、意味としては撃ち殺すなのでしょうけど、つまり、テレビで放映されている西部劇のシーンと繋がっている。もう、心が苦しくなるほどの、差別や偏見への嫌悪だ。差別や偏見によって正義やカッコよさが出来上がっている。そして、そのカッコよさは、偏見から抜け出せぬままにピカピカの銃を抜き、ドブネズミを撃ち殺し続けている。どうせなら、僕の憂うつを撃ち殺してくれればいいのに――。

そしてサビ、これは物凄くシンプルだ。差別や偏見だらけの世の中だけれども、おいおい、一体、みんなホントに、この僕の何を分かるというのだろう? この「青空」、現在でも都内のフリースクールでは児童らに、この「青空」を歌わせている学校があるのだそうな。あのサビは見事ですからねぇ。「♪ 生まれたところや、皮膚や、目の色で、一体、この僕の何が分かると言うのだろう?」をイカつくも見える連中が熱唱していた。しかし、この「青空」のパフォーマンスのヒロトは感情移入が激しく、見ようによっては身体障害者の真似をしているかのようにも見えてしまい、当時のNHKでのステージは伝説的なステージであるが実は裏側ではクレームが殺到したらしい。

ああ、ブルハは語っても語り尽くせそうもない。何故、ブルハは、このフラット型の等価思想を貫けたのだろう? 著者は指摘している。ブルーハーツの全曲、全ての歌詞を改めて調べ直してみたが、これほど挑発的な文言を並べているにも関わらず、ただの一つも差別・偏見を想起させるものがなかった――と。


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ブルーハーツの初期作品には、不思議な作品が多く、それらは映画「ブルーハーツが聴こえない」でも確認できる。先述したように、友だちを哀しませてしまった=怒らせてしまったと覚醒したヒロトは、「リンダ リンダ」と「ブルーハーツのテーマ」の2曲を書いて、マーシーの元へと持っていった。それは1985年2月の事だという。

「ブルーハーツのテーマ」は、確かにライブで演奏されている。実は、唄い出しが「♪ ひーとごろーしー」という非常に物騒にも感じてしまう歌なのだ。

人殺し 銀行強盗 チンピラたち

手を合わせる刑務所の中

耳を澄ませば かすかだけど

聞こえて来る 誰の胸にも 少年の詩は


何か変わりそうで 眠れない夜

君の胸は明日 張り裂けるだろう

あきらーめーるー なんてー

死ぬまーでー ないからー


しかし、これが実際に「ブルーハーツのテーマ」であり、ライブではかなり頻繁に演じられている。既にブルーハーツの結成以前に甲本ヒロトは「少年の詩」を書き上げて別のバンドで歌っていた。という事は、やはり、この歌詞の中にある「少年の詩」は、その楽曲を指しているのかも知れない。

世の中には偏見が多い。実際にブルーハーツの歌詞は【人殺し】、【クズ】、【ドブネズミ】、【皆殺し】、【首吊り台】、【夜盗】に【悪魔】、そして【ナイフ】、【銃】、【戦車】、【戦闘機】といった具合で何やら物騒なものを連想させる単語が多く使用されているのだ。しかし、それらは何故か物騒ではないところへ着地する事になる。前掲の「ブルーハーツのテーマ」の場合、刑務所の中に入っている人たちにでも、かすかに聞こえて来る筈だ、少年の詩がと歌っている。その上で「諦めるなんて死ぬまでないから」と繫ぐ。実際の曲だと、サビは、そこになっている。

また、「英雄にあこがれ」は中高生ウケを狙ったという指摘もあるが、興味深いといえば興味深く、惜しまれながら死んでいく英雄に憧れた少年であろうか、その人物が、運動場の片隅、その金網の中で悪魔を飼い始めるという歌である。なんじゃ、この歌詞はと思って改めて確認してみると、ヒロトの作詞である。

惜しまれながら死んでいく

英雄にあこがれ

茨の道を見つけ出し

靴を脱ぎ捨てる

あんまり平和な世の中じゃ

カッコ悪すぎる

ああ、宣誓布告! 手あたり次第

そうです、これが若者の……


音もたてないで過ぎてゆく

やり直せない日々

運動場のはしっこで悪魔を育てよう


誰にも気づかれないように

食べ物を少し分けてやる

金網の中で 大きくなれよ

そうです、これが若者の……


月曜の朝の朝礼で 

手首をかききった

運動場のはしっこで悪魔が笑ってら


あんまり平和な世の中じゃ

カッコ悪すぎる

ああ、宣誓布告! 手あたり次第

そうです、これが……


なんというデンジャラスな歌詞である事か! 中高生向けだとしても「手あたり次第」なんてのは、「ジョーカー」や「無敵の人」の登場を目の当たりにしている今日的な状況からすると、その到来を35年前に予言していたかのような不気味な歌詞でもあった。しかし、それでいながら実は一定以上の真理を突いてしまっている可能性がある。何故って、世の中、ダサいかダサくないか、サムいかサムくないか、イケてるかイケてないか、カッコいいかカッコ悪いか、そういう大衆人気におもねるような押し付けがましい価値基準に実際になってしまっているし、その押し付けがましいマス大衆文化の価値観の変動が起こったのは、80年代後半頃なのだ。

山田太一のエッセイの中に「笑っていいとも!」を語る一節があった。明るい事、面白い事が是とされる開放的な時代が到来した。しかし、その事は、あたかもネアカ&楽観主義である事が優れていて、ネグラ&悲観主義である事が劣っているにも通じるような、奇妙な捻じれを産み落とした。ポジとネガは表裏一体の関係にあるのが本来であるが、ポジだけが礼讃されネガが否定される時代になった。軽佻浮薄、軽薄短小、バブってバブって不思議大好き、なんとなくクリスタル、ジュリアナ東京、ソアラ、マル金&マルビ、私をスキーに連れてって。山田太一のエッセイには確かに書き残されている。ポジティブ一本で行ける筈はないし、きっと生きにくさを感じている人は潜在的には多いのだろう――と。その時代の象徴に「笑っていいとも!」を挙げているあたり、実は物凄く感心してしまう。

1980年代後半の楽曲である事を、よくよく吟味する必要がある。そして、ここまでにも何度もタイトルを挙げてしまった同じくヒロトがつくった究極的な問題作の「少年の詩」がある。しかも、これは皮肉にも破格の名曲の可能性がある。


パパ、ママ、おはよおうございます

今日は何から始めよう

テーブルの上のミルクこぼしたら

ママの声が聞こえて来るかな


ワン、ツー、スリー、フォー

五つ数えてバスケットシューズが履けたよ

ドアを開けても 何も見つからない

そこから遠くを見つめてるだけじゃ


別に スネてる訳じゃないんだ

ただ、このままじゃいけないって事に

気付いただけさ

そしてナイフを持って立ってた ×3回



ボク、やっぱり、勇気が足りない

「アイラブユー」が言えない

言葉はいつでもクソッタレだけど

僕だってちゃんと考えてるんだ


どうにもならない事なんて

どうにでもなっていい事

先生たちは僕を不安にするけど

それほど大切な言葉はなかった


誰の事も恨んじゃいないよ、

ただ大人たちに褒められるような

バカにはなりたくない

そしてナイフを持って立ってた ×3回


少年の声は、風に消されても

ララ、ラランランラララ―

間違っちゃいない


そしてナイフを持って立ってた ×3回

そして!

色んな事が〜 思い通りに〜

なったら〜 いいのなあ〜


この「少年の詩」がヤバい内容であるのは薄々感じ取れるところであるが、深読みすると、思いの外、鋭い歌詞である事に気付かされる。「このままではいけないって事に気付いただけさ」と、実はちゃんと彼なりに理由を述べているのだ。そして、この「もどかしさ」が実際に少年の非行の原理と直接的に関係している可能性がある。しかも、よくよくヒロトという人物のキャラクターを考えたとき、器用に言葉を操るという器用なタイプではなく、どちらかといえば、どちらかといえばというのは単なる飾りであり、単刀直入に言えば、ヒロトの歌詞とは、直球で言ってしまうと非常に問題視されてしまう言葉だらけであり、必死に取り繕いながら詩にしている節がある。


ブルーハーツの歌詞については、既に多くの考察が為されているという。感覚派のヒロトに対して、理論派のマーシー。もしくは、隠喩に頼らざるを得なくなる隠喩派のヒロトに、物語派のマーシー。しかも、この二人、かなりレベルが高いのだ。また、この事から更に見出されてしまうのは、ヒロトは、おそらく色々な事が頭の中にあって、それを言語化する事に苦慮するタイプ。それがとんでもない詩を生み出していると考えられる。マーシーが物語派とか理論派に分類されるのは、なんだか承服しがたい気もする。この連中であれば、確かにとんでもない思想背景が出て来てしまう可能性がある。しかし、確かに、そんな事を勘繰る以前に、楽曲として残されているものを味わいたし、既に古い映像になってしまっているものの、「このシビレる感じはなんだろう?」と味わう事が優先されてしまうものでもある。

過ぎたるは及ばざるが如し。もしかしたらブルーハーツのトンガリ具合は、時代を先行し過ぎていたのではないだろか。いや、時代に対応はしていたのですが、それに多くの者は気付かなった。なんとなく、カウンターカルチャーとして、パンクロックというものがあり、日本でも成功したバンドが登場したのだなーぐらいで、ブルーハーツを受け止めてしまった。何故、それまでにたったの一度たりともファンレターなんてものを書いた事がないようなタイプの人が、ブルーハーツにだけはファンレターを書きたくなってしまったのか、そこを置き去りにしたまま、既に35年も経過してしまっているのだ。

そして、少々、オカルトめいた話にも触れねばならない。それはブルーハーツには「1985」と題したデビューした年をタイトルにした楽曲がある。しかも、何故か音源化されたのは発売からかなりの年月が経過してからであった。まだまだ、ブルーハーツが活動を始めた初期も初期の作品であり、実際にライブでは披露されている。またしても、ヒロトの曲である。

これはオカルトかも知れない。


1985(ナインティーン エイティファイブ)

国籍不明の

1985(ナインティーン エイティファイブ)

飛行機が飛んだ

風を砕くのは銀色のボディー

謎のイニシャルは誰かの名前


僕たちが生まれてなかった

40年前、戦争に 負けた

そして この島は 歴史に残った

放射能に汚染された島


1985 求めちゃいけない

1985 甘い口づけは

黒い雨が降る 死にかけた街で

何をかけようか ジュークボックスで


1985 今、この空は

神様も住めない そして

海まで山分けにするのか

誰がつくったものでもないのに


1985 クリスマスまでに

サンタクロースのおじいさんの

命が危ない

1985 選挙ポスターも

1985 アテにはならない



僕たちを 縛りつけて 

一人ぽっちにさせようとした

すべてのオトナに感謝します

1985年 ニッポン代表 ブルーハーツ


最後の部分は歌詞カードにもなく、いわばヒロトが奇妙な節回しで選手宣誓めいた台詞を言っている。しかも「犬神家の一族」に登場している「青沼の静馬」ような声色で「僕たちを、縛りつけて、一人ぽっちにさせようとした、すべてのオトナの感謝します」と宣誓している。勿論、感謝なんてしていない、これは「感謝します」という挑発なのでしょう。まるで、2021年の今日に読んでしまうと、それは分断社会の始まりを意識していたかのような選手宣誓であった事に気付かされる。

あまりにも不可解な「僕たちを縛りつけて、ひとりぽっちにさせようとした大人たちに感謝します」という宣誓、それはおそらく宣戦布告であった思われる。今にして思えば、アレコレとカテゴライズしてのイヤらしい分断の始まった時期が、80年代であったか。先に尾崎豊の「Bow!」を引用しましたが、あの曲は「♪ 中卒、高卒、中退、学歴がヤケに目につくっ! 愛よりも〜 夢よりも〜 カネで買える自由が〜 欲しいのか?」と歌っている。今にして思えば、80年代のティーンのイライラ、そして共感したカリスマは、そんなところに共鳴していたのかも知れない。

また、どこがオカルトなのかというと、この1985年の夏に、あの日航機123便の墜落事故が起こっている。歌詞の冒頭で、1985年に国籍不明の飛行機が飛んだという具合に確かに歌われている。深読みしてしまうと震えるほど怖い歌詞なのだ。

いやいや、幾ら何でも勘繰りが過ぎる。これは歌詞を通して読めば、40年前に戦争に負けて原爆を投下された島が、この日本であると歌っているのであり、常識的に考えれば、その歌詞の中に登場している、その飛行機とはエノラ・ゲイであり、飛行機にしたためられていた文字は「リトルボーイ」と「ファットマン」であるのは自明だ。しかし、それを考えてみると、それは落書き、イラストつきで別に頭文字(イニシャル)でもない。また、仮にリトルボーイとファットマンであれば、別に国籍不明の飛行機が持ち込んだものでもない事になる。

感覚派の人が書いた詩や歌詞は、後になってみると、こういう不可解な偶然を残す。或る意味では、めちゃくちゃ怖かったりもする。広島と長崎に落とされた核爆弾の話であるのは自明であるが、それでいながら「1985年」という年を明らかに掲げておきながら、「国籍不明の銀色の飛行機、そこには謎のイニシャルがあり、それは誰かの名前である」と歌っていた事になる。なまじヒロトという人物の底知れなさを理解しているだけに、なんだかオカルトだ。

「筑紫哲也のニュース23」という報道番組が放送されていた頃、特集コーナーでアマチュアのロックバンドが紹介された事があったのを記憶している。いつの頃かは定かではないが、それは右傾化を伝える文脈の中で取り上げられたものであったと思う。おそらく、小林よしのりさんあたりが脚光を浴び始めた頃であった。そのロックバンドは勿論、色々とブルーハーツとは次元が違うが、彼等の歌詞は「リメンバー・ヒロシマ、リメンバー・ナガサキ」と等とシャウトする過激な歌詞であった。それを踏まえると、この「1985」という楽曲にしても何かしら思想的背景があるのではないかと勘繰れなくもない。ブルーハーツは「日本」の事を、そのままストレートに「日本」と表現する事は珍しく、多くのケースでは「この島」という具合に表現しているのだそうな。つまり、この楽曲は極めて例外的らしい。よくよく考えてみると、中々、CD化されなかったこの「1985」、そこでは明確に「♪ 40年前、戦争に負けた」と歌っており、しかも「放射能の島になった」と歌っている事に気付かされる。右翼とか左翼といった色眼鏡で眺めるよりも、ここは純粋に反核の思想があったらしい事が分かる。また、甲本ヒロトは岡山県出身であり、隣県の広島県の原爆投下についての何かしら一矜持を持っていた可能性もある。




思想的な対立軸を明らかにすると、より鮮明にブルハ現象の底にあった思想が浮かび上がる。

諸々、余計な寄り道をしてしまったものの、ブルハ現象は、思想そのものがサブカルチャーに溶け込んだ好例であったと『ドブネズミの伝説』は教示してくれていた。なるほど、どうだよなと感服すると同時に、見事な分析だなと感心してしまった。

ブルーハーツには先述したように「チェルノブイリ」という楽曲がある。しかし、これは中々に中途半端な歌詞であり、そこで歌われているのは「♪ チェルノブイリには行きたくねぇ/あの娘を抱きしめていたい」という表現である。当時の時代背景としては反原発ブームがあった。

1979年3月28日、米ペンシルバニア州のスリーマイル島原子力発電所二号炉に於いて炉心溶融という重大事故が発生。これは所謂、スリーマイル島原発事故と呼ばれるものであった。

「反原発」と「反核」とは少し趣きを異にするものの、これが時間差で日本でも沸き起こる事になった。

1982年に「核戦争の危機を訴える文学者の声明」(通称:文学者反核声明)なるものが、中野孝史、小田切秀雄、井伏鱒二、吉川淳之介、藤枝静男らが発起人となり、国内のマスメディアは大きく取り扱ったという。「反原発」ではなく、「反核」である事が被爆国たる日本のジレンマか。

そして、それに対して吉本隆明が『「反核」異論』を書いて批判した。この吉本隆明の態度は、いわば、「反対に反対」という論法であった。

1986年4月26日、ソビエトのチェルノブイリ原子力発電所で、スリーマイル島原発事故を遥かにしのぐ規模の炉心溶融を伴なった原発事故が発生。旧ソビエト政府は当初は積極的に事実を認めていない中で、大規模な放射能漏れが確認されたというものであった。

スリーマイル島事故は欧州にエネルギー政策の見直し議論を起こしたが、日本では起こらず。そこへ来て、このチェルノブイリ事故が発生した事により、1986年6月に朝日新聞が実施した原発推進に関しての世論調査で、日本で初めて反対が賛成を上回るという事態となった。因みに、原発推進に賛成が34%、反対が41%という数値であったという。

このチェルノブイリ原発事故の後、世界各地で音楽分野から、反原発のメッセージが発信されるようになった。殊に、ロック、殊更にパンクロックで、その傾向が強かったという。

そして日本でも、そのムーブメントが起こった。中心的役割を果たしていたのは忌野清志郎であり、つまり、RCサクセションであった。RCサクセションはアルバム「COVERS」の中で、プレスリーの「ラブミーテンダー」を


なに言ってんだー

ふざけんじゃねー

核なんて要らねー


と歌ったアルバムを1988年に発売しようとするも、このアルバムの発売が中止になるという騒動が発生。(後に発売されている。)一説に、当時のRCサクセションが所属していたレコード会社の東芝EMIが、親会社の東芝に遠慮して圧力をかけたものではないかと報道され、騒動になった。

近年、宝島SUGOI文庫だったと思いますが、その検証によると、当時の東芝EMIは、むしろノリノリのムードだったらしい。誰かが忖度した? また、桑田佳祐さんの証言でも当時、この反核の話を清志郎に持ち掛けられた際、「あの時、なんで今の時代に政治批判みたいな事を? カッコ悪くないですか…」と肌で感じていたのが実際であったが、福島第一原発事故の後に「やはり、清志郎さんは正しかったのだと思う」という主旨のコメントを出していたかな。私も当時、「清志郎、原発反対とか、やり過ぎじゃねーの?」と感じていた一人だから実は感慨深い。

1988年6月22日、東芝EMIが全国紙の広告として「このアルバムは素晴らしすぎて発売できません」という謎の広告を打ち、それがRCサクセションの「CAVERS」発売中止を告げる広告となった。

この1988年8月に佐野元春が「警告どおり 計画どおり」なる反核ソングを発売。同年11月には爆風スランプが「スバる」という曲を収録したアルバムを発売、その楽曲の中では「放射能やだ」という連呼があったという。

この流れの中で、ブルーハーツが「チェルノブイリ」を自主制作レーベルで発売していたが、その年月日は、1988年7月であった。そればかりか、ブルーハーツは1988年2月の日本武道館ライブでも「チェルノブイリ」を熱唱しており、ブルーハーツの「反核」は想像以上に早かった事が確認できる。忌野清志郎の葬儀では、甲本ヒロトが弔辞を読んだという。実は生前の忌野清志郎とヒロトとは実は親交が深かったらしい。

忌野清志郎は反核に留まらず、反原発として、かなり踏み込んでおり、知らない間に原発がいっぱいできていると真正面から批判を展開した。ブルーハーツの「チェルノブイリ」の歌詞は、マーシーが作詞&作曲を担当してヒロトのボーカルという組み合わせ。過激さは控え気味の歌詞であったが名曲である。


東の街にも雨が降る 西の街にも雨が降る

北の海にも雨が降る 南の島にも雨が降る

チェルノブイリには行きたくねぇ

あの娘とkissをしたいだけ

こんなチッポケな惑星の上


まーるい地球は誰のもの?

砕け散る波は誰のもの?

吹き付ける風は誰のもの?

美しい朝は誰のもの?

チェルノブイリには Ah(×2)

チェルノブイリには行きたくねぇ!


そういえば、福島第一原発事故では、その数日後に斉藤和義さんがYouTube動画で「ずっと好きだったんだぜ」の歌詞を「ずっと嘘だったんぜ」に変えて披露していたんでしたっけ。確かに音楽界には思想が溶け込んでいたという事かも知れない。

そして『ドブネズミの伝説』で最も感心した核心部分となりますが、この1988年頃、「世界と孤独」というテーマが浮上していたという。批評家・加藤典洋(1948〜2019)の著書『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』というもの。そのタイトルの通りであり、意味を私が意訳してしまうと、

「個と世界との戦いに於いては、世界に巻かれよ」

という意味である。しかも、その批評の元になっているのは吉本隆明(念のため、述べておくと、吉本ばななの父上、思想家)であるという。

これも長文の割には要領を得ない文章なので、意訳してしまいますが、「マス文化というべきか大衆文化、マス大衆文化というもの全体的な問題になってきてしまい、そうなったが為に、孤独感や内面性といったものの運命がどうなっていくのかは、さっぱり分からない。おそらく、マス文化やサブカルチャーといった文化がせり上がってくると、孤独なるカルチャーや、孤独なる芸術とか、そういうものを対抗させるという段階は過ぎたな思っている」という発言が大元となっている。

つまり、マス文化の中では孤独なるカルチャーや孤独なる芸術は、もう抗う段階を過ぎてしまっているという指摘なのだ。これを批評家の加藤典洋がフランツ・カフカの言葉を引用して「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という具合に時代のキーワードとして読み解いた。

そして、その加藤の著書の中では「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」側の人物として、村上春樹、高橋源一郎、糸井重里、ビートたけし、井上陽水といった面々の名前を挙げていたという。

この話を紹介した後に『ドブネズミの伝説』の著者は、延々と列挙してきたブルーハーツの歌詞を掲げて、ブルーハーツに限っては「君と世界の戦いでは、君を支援せよ」とばかりに、頑なに個を守り、孤独を厭わず、その泥臭い戦いを続けていたと解説している。

山田太一エッセイ集にも、ありましたが、ドラマのシナリオを書いていると、市場調査などからのデータを元にして「こういうデータがあるから、ドラマの内容をこうすべき」のように圧力がかかることがあるという。これを山田太一さんは「嫌いだった」と述べていたけど、それでしょうねぇ。少年漫画あたりでも読者投票によって、漫画の内容が変わるという。マーケティング(市場調査)という手法によって作者の外世界の意見が、実際に作品に介入してきてしまうらしいのだ。視聴者や読者、広く購買者に媚びるものしか作れない時代になったって事ですね。その点、ブルーハーツは確かにかなり自分勝手にやっていた節がある。絶対に歌詞の変更などを求めない事を条件にしてレコード会社と契約を結ぶなど、そこら辺は物凄く特殊である事が分かる。

これはプロの批評家らしい批評になってしまっているので、少し分かり難い気もする。しかし、これは大衆型商業主義に対しての強烈な反抗、でしょうか。そもそも「パンク」がカウンターカルチャーだし、量産型流行トレンドに対しての反量産型非流行の独自路線しかない。大衆化するであろうマス文化、それと戦っていた可能性が高い。つまり、「個は世界を支援するべきだ」とは「個は社会に飲み込まれるべきだ」であり、それらの論調に抗ったのがブルハ現象であったという事ではないだろうか。

売れっ子の音楽プロデューサー、最新のコンピューター・ミュージック、そしてマスメディアを利用して広告力で市場を支配する事が可能になってしまった時代の入口であり、そんな土壇場に登場したのがブルーハーツであり、吠えて吠えて、声を涸らして涸らしまくって、高く高く、冗談のような高い跳躍をしてみせた。圧倒的な泥臭いパワーで、縛られる事を拒絶し、愚直なまでに個の自由を叫び続けた。

これが、ドブネズミ伝説の真相であった――となる。



以下、若干、余禄的な内容となります。

ブルーハーツには、意外にもラブソングもある。ブルハ世代あれば、おそらく直ぐに「ラブレター」という楽曲を思い浮べるでしょう。


本当ならば 今頃

僕のベッドには

あなたが あなたが あなたが 居て欲しい

今度 生まれた時には 約束しよう

誰にも じゃまさせない 二人の事を


読んでもらーえるだろうか

手紙を書こう

あなたに あなたに あなたに ラブレター

ああ、ああ、ラブレター

百分の一でも

ああ、ああ、ラブレター

信じて欲しい

ほかの誰にも言えない 本当の事

あなたよ、あなたよ、しあわせになれ

あなたよ、あなたよ、しあわせになれ


いい曲だなぁ…と思う。しかし、そこまで読み取れなかった。この曲は甲本ヒロトの作詞・作曲であるが、よくよく詩を読むと、実は片思いの歌、物凄い孤独な歌なのだ。「♪ 本当ならば今頃、僕のベッドにはあなたがあなたがあなたが居て欲しい」というのだから、そこには恋人は居ないのだ。「♪ 今度生まれたときには約束しよう、誰にも邪魔させない二人の事を」って歌ってるけど、だから、そこには誰も居ないんだって! 「♪ 読んでもらえーるだろーかー、手紙をー書こうー あなたに、あなたに、あなたに、ラブレター」と歌っているけど、その手紙にしたってホントに出したかどうかだって微妙なのだ。何故なら、まったく相手の反応は登場せず、ただただ、そこに居るのは、ラブレターを書こうとしているヒロト、ヒロトが居るだけなのだ。

「百分の一でも信じて欲しい」と煩悶しているレベルだから、やたらと不安なラブレターを書いているらしい。そして結局、「あなたを幸せにする」とか「シアワセになろう」といった結論も示されていない。そのラブレターは「他の誰にも言えない本当の事を(言うよ)」と前置きしてから、「あなたよ、あなたよ、幸せになれ、あなたよ、あなたよ、幸せになれ」と歌っているだけで、いつの間にか応援歌みたいになってしまっているのだ。ホントに手紙を書いたのかどうかさえ怪しい。これがヒロトの詩の世界なのだ。そこにあるのは圧倒的な孤独者にして当事者目線であり、自分の事を後回しにして、いつも他人の応援ばっかりしてしまうタイプなのかも知れない。押し付けがましさというのが全くなく、いかついし、狂暴そうなのに、何故かやさしさが滲み出ている。全力で弱いヤツの味方になってやるぜ――という矜持みたいなものを感じてしまう。

当事者を含めて、きっと誰も意識していなかったであろうが、「ブルーハーツ」が最も烈しく対峙していたのは、実は「糸井重里」であったと読める観点が『ドブネズミの伝説』の中で掲げられている。糸井重里? 「おいしい生活」に「不思議大好き」等、広告のコピーを考え出してヒットさせ、一躍、その時代の頂点を極めたコピーライターだ。企業からカネをもらって、その才能を売るという仕事で、その最大の成功者でもある訳ですが、確かに先の「世界と孤独(個)との戦いでは、世界を支援せよ」の命題からすれば、最も顕著な、その成功者こそが糸井重里氏であり、確かに、それが起こったのは80年代中葉から後半の時期にかけてであった。ごくごく純粋なイデオロギーというものが、そこら辺で完全に消えている。マス化&大衆化への道筋をつけてしまったマス化社会の覇者こそが糸井重里氏であったかも知れない。売れたらすべて。スポンサーあってこそ、成り立つようになったカルチャー、芸術、そして才能。そんな風にマス社会に飲み込まれるのは、まっぴら御免だと牙を剥いて抵抗していたのがブルーハーツだったであろうというのが「サブカルに溶け込んだイデオロギー構図」という事になる。

私の場合、「法政大学」という単語、その大学名からは私なりに二人の名前を想起する。それが、まさしく、糸井重里さんと甲本ヒロトさんなのだ。そして、思い浮かべると同時に「二人とも才能があるから、さっさと中退してしまった人だよね」と付け加えると思う。案外、ホントにそんなものだったのかも知れない。

この『ドブネズミの伝説』のブルーハーツ論は正しいような気がする。7割方は全く異論がない。おそらく、ブルーハーツが宣戦布告していたのは「時代そのもの」に宣戦布告していたのであり、孤独、個の自由をドブネズミ視線で最底辺から照射していたっぽい。ドブネズミの解釈に於いてカミュの『ペスト』が引用されていましたが、偶然にも週刊文春最新号(11月25日号)の鹿島茂さんの「私の読書日記」は、カミュとパスカルが取り上げられていました。カミュについては「不条理」がキーワードであり、勿論、『ペスト』にも触れられている。何故、ここで鹿島氏がカミュとパスカルをチョイスしているのか分からないんですが、確かにパスカルの『パンセ』について語られている。

『パンセ』で私が一番凄いと思ったのは「人間たちのすべての不幸はただ一つのこと、すなわち、部屋の中でじっとしていられないことから生じる」という一句で、今回のコロナ禍でその真実性をいやというほどに思い知らされたが〜以下略〜

ああ、もう、そういうところまで行ってるのか、評論の世界では。しかし、だったら、もう少し孤独についても考え方が変わって来てもいいような気がする。ボンクラ頭で考えるに、おそらく真の理想とは、ブルーハーツが示したような外の世界と内世界たる個との戦いに於いては、個(孤独)の側が勝利する世界なんじゃないんだろうか? ブルーハーツのデビューから36年目、解散からは26年目、既に世界はマス大衆文化に完全に包囲されてしまってますけど…。

ブルハーツともなると、既に殺されたって歌い続けてやるとまで「首つり台から」で歌っている。これもヒロトですが、ホント、凄い。


うまれた時に 迷い始めた

地図も磁石も 信じちゃないさ

帰り道なんか 覚えちゃないさ

そこへ行くのか? どこへ行くのか?


お金のために 苦しまないで

歴史に残る 風来坊になるよ

前しか見えない目玉をつけて

どこへ行くのか? どこへ行くのか?


眠れない街 犯罪だらけ

口笛 吹こうね

最高のクライマックス

首つり台から歌ってあげる

Oh Yeah 首つり台から笑ってみせる


おいおい、どこまで行く気なんだ…。


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陣野俊史著『ドブネズミの伝説』(河出書房新社)で改めて、マーシー(真島昌利)について「青空論」と題してアレコレと論じてくれていたのですが、よく理解できなかったのが率直な感想であったかな。

マーシーの詩については、理論派と呼ばれているらしい。それに次いでの箇所を引用してみる。

ただ「理論派」というのは誤解を招くかもしれないので、私なりに言葉を補えば、大きな物語の断面であることが多い、というあたりだろうか。詩を読むで、物語の一海に触れると、その言葉が包囲されていた、もとの物語についてもあれこれと想像したくなる。そんな詩を書く。甲本の、感覚に掴んだ一行をぐっと前面に押し出してくる書き方に比べて、真島の描く断面は、それだけでも数行の幅を持っていて、聴く私たちは、その数行からまず一枚の絵をイメージする。一曲のなかに数枚の絵が示されていることも多い。聴く者は、その絵たちをなんとく連結させて、曲の全体を捉えようとする。

という具合で、少々、難しいのだ。絵をイメージしている? 本当だろうか?

確かに絵をイメージさせる曲もある。もう、代表曲になってしまいますが、これですかね。


ヒマラヤほどの 消しゴム一つ

楽しい事を たくさんしたい

ミサイルほどの ペンを片手に

面白いことを たくさんしたい


(あ、私はヒマラヤ山脈の映像を思い浮かべてる。ホントだ)

夜の扉を 開けて行こう

支配者たちはイビキをかいてる

何度でも夏の匂いを嗅ごう

危ない橋を渡って来たんだ


夜の金網を くぐりぬけ

今しか見ることが出来ないものや

ハックルベリーに会いに行く

台無しにした昨日は帳消しだ


(………思い浮かべてない)

揺籠から墓場まで 

馬鹿野郎が着いて回る

1000のバイオリンが響く

道なき道をブッ飛ばす


(ここも私は絵をイメージしていない。バイオリンの音が入る事もあって、ここはアマタの中がぐるぐるする。そして、この《揺り籠から墓場までバカヤロウが着いて回る》は、実は物凄く共感する箇所でもある。)

誰かにカネを貸してた気がする

そんな事はもうどうでもいいのだ


(この歌詞も大好きだなぁ。なんだか気が遠くなっていく感じがする。)

想い出は熱いトタン屋根の上

アイスクリームみたいに溶けてった


(おっ、ここで屋根の上の絵をイメージしている。私の場合はトタン屋根じゃなくて、赤茶色の屋根で、これは昔、住んでいた家の屋根かな。屋根の上に降りて、そこから小学校の方の景色を眺めていた夏休みの記憶かな…。)

なるほど、私のような絵に造詣のない手合いでさえ、2枚ほど絵はイメージしていたか…。

しかし、それ以上に私はマーシーの詩のフレーズが好きなんだよなぁ…。この「1000のバイオリン」で言うなら、「ヒマラヤほどの消しゴム一つ」は、まぁ、10人中9人が見事だなって認めるところだと思う。しかし、それにとどまらない。「支配者たちはイビキをかいてる」もワクワクするし、「ハックルベリーに会いに行く」もワクワクするし、続く「台無しにした昨日は帳消しだ」でワクワクに拍車がかかる。そして「揺籠から墓場までバカヤロウが着いて回る」の箇所は物凄くコーフンする。私と近い思想なのかも知れないなぁ…と思ったりして嬉しくなる。中々、同世代に「揺籠から墓場まで」というフレーズそのものを知っている人が居ないのだ。また、この「揺籠から墓場まで」というフレーズは商品サービスに満たされた人の一生だ。「そんな人生でいいんだろうか?」という思想が裏に潜んでいる。

そして「誰かにカネを貸してた気がする/そんな事はもうどうでもいいのだ」という箇所は、溜息が出そうなぐらいのフレーズだなって思う。そんな境地になりたい。しかし、どちらかとえば私の場合はきっちりとカネの貸し借りにはオトシマエをつけるべきだというケチな性分なので、この境地になっているという事は、おそらく、意識は朦朧としている。心地好い睡魔に襲われているときに、そういう境地に似ている。


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甲本ヒロトの独特な詩の世界については、凡そ、言及できたつもりでいるもの、よくよく考えてみると、もっともっと取り上げるべきであったという歌詞も多い。先ずは、「ブルハーツより愛をこめて」の歌詞が以下である。

見捨てられた 裏通りから

世界中に 向けて 大切な

メッセージが届くのを

君たちは知るだろう


戦争も 兵隊も

政治家さえも要らないよ

君たちが 望むのは 

自由だけでいいよ


たった一つの 小さな夢を

追い掛ける若者がいて

たった一つの その命を

燃やし続けている

燃やし続けている


これは別に抜粋ではなくて、これが歌詞の全て。曲は2分10秒しかない。しかし、この曲をライヴでは、きちんと「ブルハーツより愛をこめて」と曲名を紹介して歌っている。演奏もされていますが、実際にはヒロトがアカペラに近い語り掛ける調子の楽曲である。しかも、この「ブルーハーツより愛をこめて」という曲はライヴの序盤で歌われているので「見捨てられた裏通りから君たちに発せられるメッセージ」とは、つまり、ブルーハーツが演じる楽曲たちの事なのだ。ブルハの演奏=愛を込めたメッセージそのもの。

そして、もう一曲、ヒロトの作詞作曲に「ロクデナシ」という曲もある。

役立たずと罵られて サイテーと人に言われて

要領よく演技できず 愛想笑いもつくれない

死んじまえと罵られて このバカと人に言われて

うまい具合に世の中と やっていく事も出来ない


全てのボクのようなロクデナシのために

この星はグルグルと回る

劣等生で充分だ はみだし者で構わない


お前なんかどっちにしろ 居ても居なくてもおんなじ

そんなこと言う世界なら ボクはケリを入れてやるよ

痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫

そんなこと言えるあなたはヒットラーにもなれるだろう


全てのボクのようなロクデナシのために

この星はグルグルと回る

劣等生で充分だ はみだし者で構わない



「おー、おー、おー、生まれたからには生きてやる!」

「おー、おー、おー、生まれたからには生きてやる!」


誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない

自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか


全てのボクのようなロクデナシのために

この星はグルグルと回る

劣等生で充分だ はみだし者で構わない


この「ロクデナシ」にはブルーハーツの世界、主にヒロトの世界であろうと推察できますが、その「ドブネズミは美しい」の思想が溢れている。おそらく、言わんとしている内容は、これなのでしょう。この歌詞は、実際には珍しく説明するかのように、その思想を如実に語っている。世間からはロクデナシと呼ばれているけど、それで、いいじゃないか、変な演技なんて出来るものじゃないよ、と。

当時から「実はブルーハーツって、物騒な文言が多い割に、やさしさが溢れているよな」って感じるのは、こういう部分でしょうねぇ。テレビ番組で「心やさしきロックンローラー」って紹介されていたシーンを記憶しているけど、実は、こういう部分に滲み出ている。

確かに、この「ロクデナシ」の歌詞は、確かに90年代に浮上した「キモい」と相手に言えてしまうようになり、如実に「切るか切らざるか」といったトリアージする事が許されるようになってしまった世相を反映している気がする。

これは、まんま、トロッコ問題でもある。昨日、放送していたTBS「報道特集」では、旭川少女凍死事件を特集していましたが、やはり、同事件を改めてなぞっていて引っ掛かったのは、被害者少女の母親に、当該中学の教頭から浴びせられたという

「10人の加害生徒の将来と、1人の被害生徒の将来で、どちらが大切だか分かりますか?」

は、ふざけてますな。自分がバカなクセに、被害者の母親をバカにしているという構図、もうイヤになるぐらい醜い。

どうせなら言ってやろう。その場合、10人の加害生徒の将来なんて全く以ってどうでもいい。社会的制裁を受けて然るべきを庇ってしまっている事の問題に気づいていない事態で、かなりの醜さだ。数の問題なんて全く関係がない。その数の論理では常に多数派が正義で少数派が悪者にされてしまう。どちらが大切か? を考えるにあたり、人数(数量)なんて関係ない。一個の被害者を多数の加害者が痛めつけたり、殺したのであれば、多数が裁かれればいいだけの話だ。10人の加害者よりも1人の苦痛や死とを数字で比較している事そのものが狂気だ。しかも万死に値するレベルではないですかね? トロッコ野郎の横暴が露見している。罪とは、真っ直ぐに断罪されるべきものであり、罪を犯した者を妙ちくりんな理屈で歪められては堪らない。世の中をおかしくしてしまったのは、その教頭のような論者ですワな。これは万死に値するレベルの過ちだと思いますよ。勝手に将来の重みを計測して、加害者の10人の将来の方が重いと思っているなんて、醜悪にも程がある。

或る時期から、実は物凄く差別的・排他的になったのだ。空気を読めという。しかし、その結果、誰も彼もが空気を読んで、迫害する事も正義化されてしまった。それに抗おうとしていたのがブルーハーツ及びブルハ現象であったとしたのが『ドブネズミの伝説』であった。

「ロクデナシ」の歌詞ともなると確かに「世界と君との戦いでは、世界ではなく、君に支援せよ」である事が明確に表れている。世界に支援しなきゃならないというのでは、常に社会が正しく個人は折れねばならない。時代や社会といった大波に飲み込まれる事を拒絶し、真の自由とはありのままでいい、その自己肯定。実に、くだらない世界になってしまったもんだ、そーゆーことかも知れない。

そして「ブルーハーツより愛をこめて」では、「♪ 見捨てられた裏通りから、世界に向けて大切なメッセージが届くのを君たちは聞くだろう」と歌っていたのだ。それは、戦争も兵士も政治家さえも要らないよ、というアナキズム的でもある理想形の自由主義を掲げている事が確認できる。それを述べた上で、小さな夢を追いかける若者が居て、その若者は命を燃やそうとしているのだから、それで、もう充分じゃないか、それで、いいじゃないか、と歌っていた訳ですね。



「ブルーハーツ・スーパーベスト」には、しばらく音源化が見送られていた「1985」、ライブ音源「ブルーハーツより愛をこめて」、「ロクデナシ」等が収録されています。「1985」の曲の最後には歌詞カードには記載されなかった宣誓文(宣戦布告文)の「僕たちを縛りつけて、一人ぽっちにさせようとした、すべてのオトナに感謝します」というセリフも確かにありました。
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1987年4月19日のこと、日比谷野外音楽堂ではパンクバンド「ラフィンノーズ」のライヴ中、思いも拠らぬ大事故が起こった。ステージに詰め掛けた観客が折り重なるようにして転倒、結果として死者3名、怪我人20名を出す惨事になったという。

ああ、思い出した…。当時はスポーツ新聞を毎日欠かさずに読んでいたし、気楽な大学生だったので、その惨事のことが記憶に残っていました。結構、これ、世間的には騒いだ出来事だったのだ。

陣野俊史著『ドブネズミの伝説』(河出書房新社)に拠れば、当時のマスメディアは死者が出たという最悪の結果になった事もあって喧噪状態になって、ロックコンサートの在り方が問われたり、主催者らは「警備上の不備」を指摘されて責められるなど、そういう状況になっていたと綴っている。ああ、確かに、当時、そんな空気があったよなぁ…と思い出す。

で、同著を読んだ後に、あれこれとブルーハーツのDVDを漁って、WOWOWプラスの放送で視た『ブルーハーツが聴こえない』も結局は再視聴してみて、ああ、なるほどと合点するに到りました。

歌人の穂村弘さんの逸話も、ここに繋がっていたんだよなと改めて気付く。1987年当時、穂村さんのガールフレンドの家に行った。すると、ガールフレンドは、いきなり穂村さんの腕を掴んで引っ張り込んで、そのまま、テレビの前に座らされたという。続けてガールフレンドはビデオデッキのスイッチを入れた。何事だろうと思っていると、変なシャツを着た坊主頭の男がテレビ画面の中に現われ、やがて歌い出した。すると、穂村さんは数秒後には泣いていたという。両目から涙がブワッと出てきてしまい、その事に驚き、そんな自分に狼狽したという。ガールフレンドは急に泣き出した穂村さんを確認して、ホッとした表情を浮かべた。穂村さんは、その日、そのビデオを何度も何度も繰り返し巻き戻して視聴したという。それが穂村弘さんとブルーハーツの出会いであった――、と

穂村さんが視て、ほんの数秒で泣き出してしまったという映像は、日比谷野外音楽堂で行なわれたブルーハーツのライヴ映像であった。つまり、変なシャツを着た坊主頭の男とは「甲本ヒロト」の事であった。そして、両目からブワッと涙が吹き出した楽曲とは「リンダリンダ」であったという。

そして、そこから、もう一つの情報を確認できました。変なシャツを着て、坊主頭の甲本ヒロトが日比谷野外音楽堂で行なわれたライヴとなると、それは1987年7月4日のライヴであり、まさしく『ブルハーツが聴こえない』でも取り上げている重要なコンサートであった。それは、まさに、ラフィンノーズが日比谷野音で起こした事件から僅か2ヶ月半後限界、厳戒の警備態勢下で行なわれたブルーハーツのライヴであり、ヒロトは、坊主頭に破れた白い長袖シャツに赤い腕章、そして破れたジーンズで、迫真のステージパフォーマンスを演じている。

ホントは、この映像、私も何度も繰り返し視ている。『ブルーハーツが聴こえない』のみではなく、『ブルーハーツ・ライヴ 1974.7.1』も視聴したから。そして、ようやく、確信できるようになってきた。

《ロックコンサートの在り方》や《主催者の警備上の責任問題》が、当時、厳しく問われている中で敢行されたのが、そのライヴであった。その為、このブルーハーツのライヴは、厳戒態勢が布かれることになり、100名以上の警備員が通路の縦横に配置され、且つ、ステージと客席の間には鉄柵を障害物として設置していた。その環境下で、ブルーハーツの面々は、感情をいつも以上に昂らせていたという。

ブルーハーツのメンバーは、その厳重な警備体制に感情を昂らせていた。ドラム担当の梶くんは、直筆の手紙を用意して、それを会場のファンたちに配布していた。この手紙は『ブルーハーツが聴こえない』の中でもチラリと全文が読める程度には映し出されていた。どう感情を昂らせていたのかというと「客に暴力を振るうような警備ならば、僕たちは演奏できません」という主旨であったという。それを文章や言葉として、認識しても今一つ、よく分かり難いんですね。警備が強化されるのは当然といえば当然であり、別に警備員がファンに暴力を振るうだなんて発想は飛躍にも思える。しかし、ブルーハーツとは、そういう人たちであったらしい。

『ブルーハーツが聴こえない』では、インタビュー音声で、その経緯が語られており、且つ、『ドブネズミの伝説』の文章と、併せて捉えると、以下のような事であった。

先ず、ラフィンノーズ事件の直後に行なわれた豊島公会堂でブルーハーツは2日連続のライヴを組んでおり、その豊島公会堂のライヴ警備体制について、マーシー(真島昌利)が

「ガードマン的な過剰な警備をやるんだったらオレはライヴをやりたくない」


と言い出した。すると、ヒロト(甲本ヒロト)も

「ワイもイヤじゃなあ。でも、ケガ人を出したら終わるっていうのも分かるから、何か考えなきゃな」

と言い出して揉めたのそうな。

で、ラフィンノーズ事件直後の豊島公会堂ライヴでは、警備員は全員ステージに手をついて観客には背中を向けたままの体勢で警備する事にして、行われたという。これによって、警備の行き過ぎによって警備員がファンに暴行するという行為を完全に封じたという訳ですね。

この部分について『ブルーハーツが聴こえない』ではスタッフの証言を流している。そこでは確かに「あの人たち、凄い感情移入が激しくて」と語っている。ヒロトとマーシーがスタッフルームに押し掛けて来て「ファンに暴力を振るうんなら僕たちライヴはできません」って涙ぐんじゃって――と。

この「あの人たち、凄い感情移入が激しくて」という箇所は、「あの人」と呼んでいることから、微妙な距離感、距離感があるが故に他人行儀とも言えますが、或る種の客観性があり、その客観性を持った人の証言として「感情移入が非常に激しい」と語っている。おそらくブルーハーツの実相を第三者的な観点で語った箇所なのでしょう。裏返すと、ブルーハーツのメンバーが、かなりのガチの人、口先だけのパフォーマンス人間ではなく、心底から、それらの言動であった様子が窺がえる。

そこまで警備員の過剰な暴力を警戒する神経も特殊といえば特殊なのですが、どうもブルーハーツとは、涙ぐんで抗議してしまうような、そういうメンタルの人たちであったらしい。

そして7月4日の日比谷野音へ――。

先に述べたように、この日の日比谷野音では100名からの警備員を通路に縦横に配置し、ステージと客席の間には鉄柵が設けられていた。メンバー中、最年少であるが最も精神的には大人であったとされる梶くんは直筆の手紙を書いて、それを当日、ファンの人たちに配布した。勿論、どうにか事故を起こすことなく、ライヴをする事を呼び掛ける内容であった。

気温が30℃を超える暑い日のライヴであったらしい。

ステージに登場したブルーハーツは、アップテンポの曲を立て続けに3曲ほど演奏する。

1曲目、ブルーハーツのテーマ

2曲目、ハンマー

3曲目、NO NO NO NO

これが迫力あるんです。一体全体、この人たちは、どうなっているんだろうと感じてしまうような尋常ではないパワフルなライヴパフォーマンスなのだ。

30℃を超える暑さの中、ヒロトはハイテンションで飛び跳ねまくってクネクネなステップなどを披露し、河ちゃんにしてもタイミングを見計らって膝を折ってのハイジャンプを披露し、マーシーも動き回りながら目を剥いてバックコーラスをしている。兎に角、ハイテンションなパフォーマンスであり、なるほど、これで観客が熱狂しない訳はないじゃないかというステージである。

そして、問題のシーンが訪れる。薄暮の日比谷野外音楽堂で、汗まみれになっているヒロトが半身に構えて中腰になり、肩で息をしながら語り始める。

「どうやら……どうやら……どうやら、この、鉄の檻は、人の心までは縛れんようじゃな!

ヒロトの語り掛けは絶叫に近く、会場は歓声で溢れかえる。勿論、ヒロトが言っている【鉄の檻】とは、ステージと客席との分断している「鉄柵」を意味しているらしい事が分かる。

大歓声に包まれながら、ヒロトが更に絶叫する。

「ざまあみろ!」

意味が分かると、尚更に「どうやら、この、鉄の檻は、人の心までは縛れんようじゃなっ!」が伝説的名言であり、それに続けて発せられた「ざまあみろ!」が伝説的絶叫であっただろう事に思いが到る。

この「ざまあみろ!」という咆哮は、はたして何に対して発せられたものだったのだろうなんて考えると、実際問題、正答を導くことは難しそうで、そういう部分があるのがブルーハーツの世界らしい。具体的に恨みの対象があったのかなかったのか。それとも、具体化さえできないレベルの、一切のもやもや、目の前に立ち塞がって邪魔しようとする一切の不都合に対して「ざまあみろ!」と叫んでみせたのかさえ、きっと判然としない。

そして、その「ざまあみろ!」という絶叫に続けて「未来は僕等の手の中」の演奏が始まる。バラードではない、またしも、アップテンポの曲だ。


月が空にはりつてら 銀紙の星が揺れてら

誰もがポケットの中に 孤独を隠し持っている

あまりにも突然に 昨日は砕けていく

それならば今ここで、僕等何かを始めよう

僕等何かを始めよう


生きている事が大好きで 意味もなくコーフンしてる

一度にすべてを望んで マッハ50で駆け抜ける

くだらない世の中だ ションベンかけてやろう

打ちのめされる前に 僕等、打ちのめしてやろう

僕等、打ちのめしてやろう


「未来は僕等の手の中!!」


誰かのルールは要らない 誰かのモラルは要らない

学校も塾も要らない 真実を握り締めたい

僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ

僕等は負ける為に 生まれてきたわけじゃないよ

生まれてきたわけじゃないよ








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ブルーハーツの「平成のブルース」は、9分を超える長尺の楽曲であり、作詞・作曲そしてボーカルのマーシーが務めた曲なんですが、この歌詞が令和3年の現在、耳にすると、なるほど「平成」が総括されている。真島昌利(マーシー)の持っている諸々が発揮されている一曲という事になるのでしょう。


いつまでたっても おんなじことばかり

いつまでたっても なんにも変わらねぇ

いつまでたっても イライラするばかり


の繰り返しで、シンプルなフレーズの繰り返し。そして途中から歌詞を入れ替える事によって楽曲を構成している。

いつまでたっても おんなじことばかり

いつまでたっても なんにも変わらねぇ

いつまでたっても イライラするばかり


オマエがそんなに 愛を語るから

そんなにリッパに 愛を語るから

オレの心は チッソクするだろう


いつまでたっても おんなじことばかり

いつまでたっても なんにも変わらねぇ

いつまでたっても イライラするばかり


嘘をつかないと やってられねぇぜ

言い訳しなけりゃ やってらんねぇぜ

バカの振りしなきゃ やってらんねぇぜ


ヒーロー目指せと お前が言うから

ヒーロー目指せと みんなが言うから(※)

ヒーロー目指せば 嫌われちまった


ヤな野郎だなと お前が言うから

ヤな野郎だなと みんなが言うから

いい人ぶったら みんなに褒められた


駄文を連ねて いい商売だな?

オマエには何も 見えちゃいないだろ?

ディランのMR.ジョーンズそのもの


ヒガイシャ面して 何言ってやがらぁ アー

ゼンニン面して 何言ってやがらぁ アー

痛い目に遭わなきゃ 分からねぇのか


名誉白人がいい気になってらぁ

名誉白人がいい気になってらぁ

なんて恥ずかしい人たちなんだろう


お金があったら 社長も怖くねぇ

お金があったら 左遷も怖くねぇ

お金があったら クビも怖くねぇ


お金があったら 差別も怖くねぇ

お金があったら 地上げも怖くねぇ

みんながお金の 言うこと聞くから


強行採決 問答無用さ アアー

強行採決 いつもそうだろう アー

問答無用でキミたちはクビだ アー


中流意識をまだ気取るつもり?

中流意識をまだ気取るつもり?

3%で見栄も吹っ飛ぶさ


オレにはコミック雑誌なんていらねぇ

オレにはコミック雑誌なんていらねぇ

オレにはコミック雑誌なんていらねぇ



いつまでたっても おんなじことばかり アー

いつまでたっても なんにも変わらねぇ アー

いつまでたっても イライラするばかり


ロックンロール スターになりてぇな

ロックンロール スターになりてぇな

ブルーハーツの真似すりゃいいんだろ


色々と不明なところもあるだろうなとは思いながらも、この楽曲、聴いていると、いつの曲なんだろうって考えずにはいられなくなってくる。

終盤に織り込まれている「コミック雑誌なんていらねぇ」は、あの「内田裕也」が話題を集めた映画のタイトルにかかっているのは確かでしょう。「ロス疑惑の三浦和義」なんてのも出演させてしまった強烈な社会風刺作品であった。

「3%で見栄も吹っ飛ぶさ」とは、勿論、消費税導入の話ですね。改めて、DVDに封入されていたブルハの活動履歴をチェックすると、この「平成のブルース」は、1989年2月、あのブルハを代表する名曲とされる「青空」のカップリング曲としてB面で収録されたのが「平成のブルース」であった。あー、ドキュメント映画「ブルーハーツが聴こえない」のシーンの中に、どこかの湖畔のレコーディングスタジオで「平成のブルースのレコーディングだ」と示されているシーンがあったような気がする。

そして、この1989年2月というのは、平成元年である。昭和63年12月に昭和天皇の崩御があり、昭和64年は僅かとし、年が明けると年号が平成に改められたのだ。(因みに歴代の中華王朝では仮に帝が没しても元号は、そのまま翌年まで改めずに使用するケースが殆んど)つまり、「平成のブルース」は平成元年2月にリリースされた楽曲である事に気付かされる。それでいながら、ああ、確かにその通りになったのかなとも読めるような歌詞が鏤められている。

中流意識をまだ気取るつもり?⇒見事に一億総中流は平成の御代に崩壊した

お金があったら✕✕も怖くねぇ⇒実際に吐き気がするほどの金銭至上主義の世の中になった

強行採決⇒言われてみると、これがすっかり定着したのも平成ですね

その他にも、背伸びをする人たちが登場し、彼等は「リッパな愛」を語るたちが世に蔓延し、何故かベストセラーコーナーには奇妙な自己啓発本などが並んだ。「ヤな野郎だなとみんながいうから」⇒「いい人ぶったらみんなに褒められた」なんてのは、ホント、見事な皮肉だなと思う。(※因みに、実際にCDの音声も聴いているのですが、最初に聴いたときは「ヤな野郎だなとオンナが言うから」にも聴こえてしまうかも。)こういう背伸びをした言説の蔓延によって、まさしく窒息(チッソク)しそうな人たちが登場したのが平成であったかも知れない。

陣野俊史著『ドブネズミの伝説』(河出書房新社)では、「ロックンロールのスターになりたいならブルーハーツの真似すりゃいいんだろ」という具合のヤケクソ気味のオチ、そのウィットについてのみしか言及していませんでしたが、確かに悪いオチではない。ブルーハーツ自身が「ブルーハーツの真似すりゃいいんだろ」って歌っているんだからニンマリとなる。何しろ、この楽曲、実際には10分近い長い長い楽曲なのだ。

「お金があったら地上げも怖くねぇ」の【地上げ】という当時の狂奔をスクラップしており、これは「コミック雑誌なんていらない」も同じような効果として、現在では受け止めることができると思う。ホントに社会を劣化させたかのように思える部分でもある。既に、ジャーナリズムも含めて陳腐化してしまい、そうであるが故に「コミック雑誌なんていらない」となる。当時は写真週刊誌の暴走も話題になったんでしたっけ。豊田商事会長が押し入った二人組の男に頭を割られて殺害され、それが写真週刊誌を飾ったりした時代だったのだ。また、その豊田商事のいわゆる「ペーパー商法」のマニュアルは、闇ルートで拡散し、高齢者にやさしくしてカネを巻き上げる等の悪徳商法の元祖的な存在でもある。高齢男性に甲斐甲斐しく背中を流してあげたりして、ペーパー上でゴールドを買わせるという手法が大儲けした。

そして、何よりもシビレたのが、

ヒガイシャ面して 何言ってやがらぁ

ゼンニン面して 何言ってやがらぁ


でした。

ホントにコレ。物凄く重要な平成以降の隠しキーワードだよなって思う。そして、この曲、実は、マーシーが「あーっ!」とも「あぁん?」のニュアンスともとれる、つまり、恫喝とも挑発、或いは単なる雄叫びとも取れる「アー」というシャウトが入っているのですが、その「アー」が入っている箇所は限定的である。そして的確にも感じる。まさしく、そこら辺に感情を刺激される箇所であったりする。物凄くイライラさせる箇所に、その「アー」が入れられているのだ。

今更ながら怖ろしいまでに的確に「平成」を歌っていた可能性があるよなって思う。

また、「駄文を連ねて、いい商売だな?」という挑発は、原則的にはジャーナリズム批判でしょう。先述したように写真週刊誌などの行き過ぎた報道というのがしばしば問題視されていた。しかし、この箇所はフカヨミも可能に思えてしまう。純粋性を喪失し、大衆性に日和見するようになった何かを批判していやしないだろうか。

それはブルーハーツ評の中で、実際にブルーハーツが対決していたものとは、(本人たちに自覚はないだろうけど)糸井重里ではないかという観点でしょうか。才能や芸術性みたいなものを、最終的には大衆的商業ベースに乗せ、「大衆化せよ」という方向性のシンボルこそが「糸井重里」だという批評なんですね。そういう風潮に徹底抗戦をしていたのが「ブルーハーツ」というパンクバンドであった――とする。令和になってみたら武田砂鉄さんあたりの著書は確かに糸井重里氏に批判的である。結局、糸井重里氏あたりが商業ベース、資本家に媚びてしまったから、そうなってしまったという文脈なのであれば、注目すべき、現代批評だよなって思う。

別に糸井重里さん自身に何かしらの責任を問える問題ではないものの、言論や芸術の大衆化とは、即ち、言論までもがサブカルチャー化してしまった事をも意味しており、言論や純粋な芸術は衰退し、それらが実際に《大衆化していった》という流れって、それなのかもね。

確かに映画「コミック雑誌なんていらない!」は具体的にはワイドショウ批判であったが、それは即ちマス大衆化批判≒ジャーナリズム批判であった。実は、一気通貫しているのだ。

今日の政治を見よ、大衆の気分の善し悪しでしか、物事の指針を決める事が正しいというまでの残念な民主主義になってしまっている事に気付かされる。

マーシーではなく、ヒロトの作詞作曲の楽曲に「皆殺しのメロディー」という曲がある。この「皆殺しのメロディー」では、

我々人類は バカ

過去現在未来 バカ

正義はあったのか バカ

正義は勝ったのか バカ


と歌い、更に、

テレビが待ってるぜ バカ

ラジオが待ってるぜ バカ

新聞紙が舞ってるぜ バカ

彼女も待ってるぜ バカ


という強烈なマスメディア批判がある。サビは「♪ 皆殺しのメロディーが切り裂きジャックを呼んでいる」であり、如何にブルーハーツが強烈にマスメディアを嫌悪し、そしてマス大衆化の悪弊を攻撃していたのかは確かに確認できる。



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30年ぶりぐらいに聞き惚れているブルーハーツですが、「ザ・ブルーハーツの凸凹珍道中」という、ブルハーツとしては後半期、ワーナー移籍後のライヴ映像のセレクション集を視聴。もう、やりたいことは、やりつくしていたんじゃないのかなという印象か。

しかし、ブルーハーツの場合は初期の曲が強烈だった事もあって、楽曲などの完成度は高まってきているものの、やっぱり、ボルテージが振り切れるのは初期の楽曲のメドレーであったかも知れない。決して完成期の楽曲が悪い訳ではなくて、「夜の盗賊団」、「夕暮れ」なんて名曲っすね。

「夜の盗賊団」は私の第一印象と、『ドブネズミの伝説』の中で披歴されていた印象とも合致していました。それは何かというと、どうにもこうにもRCサクセションのバラードの雰囲気を受けてしまうという事。実際に曲調は全然違うのに。何故かRCの「トランジスタ・ラジオ」を連想してしまうと雑誌に記した人があったらしいのですが、私が連想してしまったのは人生の中でも墓場へ持っていきたいぐらいに好きな「スローバラード」。多分、RCの楽曲を想起されられるのは「トランジスタ・ラジオ」ではなく「スローバラード」の誤まりなんじゃないのかな。使用されている楽器やアレンジが「スローバラード」似ているし、歌詞の中に同曲に欠かせないアイテムである【カーラジオ】という単語が使用されている。

とはいえ、「今夜、多分、雨は大丈夫だろう」がサビなのだから当然、これはRCサクセションの代表曲「雨上がりの夜空へ」を想起せずには居られない。「♪ この雨にやられて エンジン イカレちまった」と清志郎が唄ったのが「雨上がりの夜空に」ですが、この「夜の盗賊団」はヒロトに「♪ 今夜、たぶん雨は大丈夫だろう」と歌せているのだ。(作詞作曲はマーシーなんだけどね。)そして、何故か琴線に触れるというか、あの雰囲気というのはぐっとくるのだ。


おー、今夜、きっと雨は大丈夫だろう

おー、今夜、五月の風のビールを飲みにいこう


曲の最後の方には、清志郎を想起させるような奇声も聞き取れる。


曲調は一転「夕暮れ」ですが、こちらはプロモーションビデオや、その撮影風景のビデオも視聴してますが、これもブルハには欠かせないタイプの曲なのかな。初期のブルハはパンク・ロックの印象が強いんですが、意外に楽曲に幅があり、その中でも成功した曲だと思う。


はっきりしなくていい あやふやなまんまでいい

ボクたちは なんとなく 幸せになるんだ


と歌い出して、


それよりも赤い 血が からだ中に 流れてるんだぜ


となる。これはヒロトの持ち味の一つなのかも知れませんが、どうも、どこにでも居そうな12歳前後の無邪気な少年のような雰囲気で歌う。

そして「夢」と「旅人」、そして「1000のバイオリン」ともなると、これらの楽曲は、今にして思えば、後期のブルーハーツの傑作ですね。少し評価が下がって「月の爆撃機」になりますが、この曲だって悪くない。

「月の爆撃機」はヒロトの作詞・作曲なんですが最も難解なのではないかと思われる歌詞である。


あれは伝説の爆撃機 

この街もそろそろ危ないぜ


なのだけれども、そのコックピットの中にいるのは、どうも「ボク」らしい。つまり、爆撃機を操縦しているのはボクらしい。白い月の真ん中の黒い影、それが「月の爆撃機」であるという。手掛かりになるのは薄い月明かりで歩いていて、真っ直ぐに歩けるとは限らないとも歌っている。伝説の爆撃機に乗って、この街を爆撃してしまいたいという衝動の唄だろうか。いやいや、冒頭で「この先には友達も恋人も通さない」と歌っている事からすると、決死の覚悟で伝説の爆撃機を月光の中で操縦しているという夢であろうか。

そして、初期作品のメドレーが披露となったのはアンコール後でしたが、「未来は僕等の手の中」、「爆弾が落っこちる時」、「ロクデナシ」、「NO NO NO』、「風船爆弾」、「ハンマー」、「人にやさしく」、「ダンス・ナンバー」となると、さすがにボルテージが凄い。楽曲的に揃ってるんだろうね。「未来は僕等の手の中」の唄い出しの歌詞は「♪ 月が空に貼りついてらぁ、銀紙の星が揺れてらぁ」ですが、そういうファンタジーな歌詞は徐々にヒートアップしていって一気に「♪ くだらない世の中だ ションベンかけてやろう 打ちのめされる前に僕等、打ちのめしてやろう 僕等打ちのめしてやろう」という戦闘モードにまでヒートアップしてゆく。やられる前にやっちまえってさ。

メドレーの後は、「リンダ リンダ」、そして最後は「TRAIN-TRAIN」という構成。

色々と視聴してみて、私の持っていた印象だと「ハンマー」という曲は、勿論、30年前にも知っていた筈なんですが、ライヴ映像を見ている内に、この「ハンマー」の魅力に改めて気づきました。これ、途中で少しだけボーカルがヒロトからマーシーにチェンジする箇所がある。コーラスがメインボーカルを採るというべきなのかな。あのチェンジしたときのマーシーがヤバい。なんていうのかな、どこか逝っちゃってるかような凄まじい気迫なのだ。


ハンマーが振り下ろされる

僕たちの頭の上に

ハンマーが振り下ろされる

世界中いたるところで


安っぽいメッキなら

すぐにはがれてしまう

カラッポの言葉なら

僕はもう聞き飽きた


悲しみが多過ぎて

泣いてばかりいたって

何も見えなくなっちゃうよー


48億の個人的なユウウツ

地球がその重みに

耐えかねて軋んでる


デタラメばかりだって

耳をふさいでいたら

何も聴こえなくなっちゃうよー


ハンマーが振り下ろされる

僕たちの頭の上に

ハンマーが振り下ろされる

世界中いたるところで


と、ヒロトのガテン系な強いボーカルであるが、ここからマーシーが目ん玉を剥き出しにしてギターを抱えながらスタンドマイクに口を近づけて、声も涸れ涸れ割れ声にボーカルを採るんですね。もう、これ以上ないような絶叫だ。

外は春の雨が降って

僕は部屋でひとりぼっち

夏を告げる雨が降って

僕は部屋でひとりぼっち


とんでもないテンションで、孤独という悲しみを唄っている。ホント、マーシーは中原中也あたりの詩に影響されているという解説でしたが、確かにスゲェ迫力だなとしか言いようがない。逝ってる。この「ハンマー」という楽曲については、繰り返されるリフレイン、サビの部分じゃなくて、「48億の個人的な憂鬱」とか全体的な構成がヤバい。

「ハンマーが振り下ろされる 世界中いたるところで」と「外は春の雨が降って 僕は部屋でひとりぼっち」とを、実は繫げていたんスな。これ、分断と孤独を繫げていたって事じゃないんだろか。30年以上も昔なのにね。


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ヒマラヤほどの消しゴムひとつ

楽しい事をたくさんしたい


by「1000のバイオリン」
この部分に限らずトータルして見事な歌詞ですけどね。



終わらない歌を歌おう クソッタレな世界のため

終わらない歌を歌おう すべてのクズどものために 


by「終わらない歌」
世界はクソッタレであり、例外なくクズでありバカであるという潔さ。



弱い者たちが夕暮れ 更に弱い者を叩く

その音が響き渡れば ブルースは加速してゆく

見えない自由が欲しくて

見えない銃を撃ちまくる

本当の声を聞かせておくれよ


by「TRAIN-TRAIN」
いじめの連鎖、暴力の連鎖が歌詞に織り込まれており風刺になっている。



満員電車の中 くたびれた顔をして

夕刊フジを読みながら 老いぼれてくのはゴメンだ


by「ラインを越えて」
これは私だけが気に入っている歌詞かなと思ったら、映像ビデオの中でも切り抜かれていました。「夕刊フジを読みながら老いぼれていくのは御免だ」は名フレーズですな。



誠実さの欠片もなく 笑ってる奴がいるよ

隠している その手を見せてみろよ


by「青空」
この曲も、トータルして素晴らしい歌詞なのですが、個人的には、この箇所好きです。マーシーの毒がよく顕われている。



台風が来る 物凄いやつ

台風が来る 記録破りだ
 

by「台風」
これはシンプルに台風がくる際に、どうしようもなくワクワクしてしまう感慨を唄っている。人が心に奥底に抱えている破滅願望か。



プルトニウムの風に吹かれてゆこう


by「旅人」
この曲は歌詞の意味が説けると、ホントにこのフレーズは「糸井重里」に迫っていたなと痛感させられる。《プルトニウムの風》って何だよ。



誰かにカネを貸してた気がする

そんなことは もう どうでもいいのだ


by「1000のバイオリン」
気が薄れて行く中で、そのように感じるのかも知れない。ホントはカネなんて、どうだっていい。



はちきれそうだ とびだしそうだ

生きているのが素晴らし過ぎる 


by「キスしてほしい」
これは単純に歌詞に性衝動を込めて的確に唄っている。勿論、その、はちきれそう、とびだしそうな感慨を多くの者は知っている。そして事後には「生きているは素晴らし過ぎるじゃないか」と束の間の至福の境地に到る。



戦闘機が 買えるぐらいの ハシタ金なら要らない


by「NO NO NO NO」
このフレーズは非常に刺激的ですな。「そんなハシタ金なんて要らねぇんだよ」って言ってみたい。



まーるい地球は誰のもの? 

砕け散る波は誰のもの? 


by「チェルノブイリ」
反核ソングをベタな政治風刺にせず、環境問題に絡めていた。しかも押し付けではない。ライヴ映像で確認する限り、律義にも「次の曲はチェルノブイリって曲だけど、みんな自分で調べて、自分のアタマで考えてみてくれ」と、語りかけた後に歌っていたりする。



くだらない世の中だ

ションベンかけてやろう
 

by「未来は僕等の手の中」
このフレーズは非常に印象的であり、心象そのものでもある。どうしても印象に残ってしまうフレーズなのだ。



あきらーめーるーなんてー

死ぬまでないからー 


by「ブルーハーツのテーマ」
ここだけ切り取っても分かり難いかったかな。人殺しも銀行強盗も含め、すべてのクズどもに向けての、このメッセージなのだ。



今夜、ブルースをブチのめしてやらぁ

ジャイアント馬場みたいにやってやらぁ

マイク・タイソンみたいにやってやらぁ


by「ブルースをけとばせ」
ここでのチョイスが「ジャイアント馬場」であるのが気持ちイイ。



我々人類は バカ 

現在過去未来 バカ 

正義はあったのか バカ 

正義は勝ったのか バカ
 

by「皆殺しのメロディー」
そんな気持ち分かるでしょ? やはり胸の奥底では、痛罵せずには居られない。むしろ、そう言ってやった方が健全でもある。



いろんなことがー 

思い通りにー 

なったらー 

いいのになー 


by「少年の詩」
ライヴでは、この箇所を合唱させていたんですね。



あなたよ、あなたよ、しあわせになれ 


by「ラブレター」
この曲は人気のある曲ですが、実はジェンダー不明だそうな。誰に向けて歌われているのか考えてみると感慨深い。



48億の個人的なユウウツ 

地球がその重さに耐えかねて軋んでる


by「ハンマー〜48億のブルース」
この曲もトータルして歌詞に魅力がいっぱい詰まっている。個人的な事情にかかるユウウツが重たく地球にのしかかっているじゃないかという表現ですが、ユウウツとは人間の内面の問題であり、本来は物理的な重量では測れないが、それを物理的な重量に仮託する妙に感心する。



あなたのくちびる

動く 

スローモーションで


by「TOO MUCH PAIN」
この曲の遅れ気味のボーカル、いい時期のRCサクセションの雰囲気を持っていて、この歌詞の箇所で、しみじみきてしまう。一瞬の切り取り、先日紹介した「クロノス」と「カイロス」でいえばカイロスという事になるのかな。一期一会、もしくは悲恋の場面の瞬間的な切り取りでしょうか。「あなたのくちびるがスローモーションで動いて…」って、一瞬の切り取りなんですが、その一瞬は、その者にとっては後々まで記憶に残る時間である。ホントにポエジー&リアリティーの世界。



建前でも本音でも

本気でも嘘っぱちでも

限られた時間の中で 

借り物の時間の中で

ホンモノの夢をみるんだ


by「夢」
ブルーハーツの歌詞の中には、直球で凄いなと感心するのが幾つかありますが、これは典型例。



oh 今夜、たぶん雨は大丈夫だろう

oh 今夜、五月の風のビールを飲みにいこう


by「夜の盗賊団」
これも、いい時期のRCサクセションを彷彿させる名バラードのサビ部分。



夜の街 犯罪だらけ 口笛 吹こうね〜


by「首つり台から」
何故に犯罪だらけの夜の街にあって「口笛、吹こうね」なのか?




ハッキリさせなくても いい

あやふやなまんまで いい

僕たちは なんとなく 幸せになるんだ


by「夕暮れ」
この楽曲は、ほのぼのとした楽曲なんですが、歌詞にやさしさが滲み出ている。



ロックンロール・スターになりてぇな

ロックンロール・スターになりてぇな

ブルーハーツの真似すりゃいいんだろ


by「平成のブルース」
ここを切り取っても仕方がない10分近い楽曲のオチ(サゲ)の一節。この「平成のブルース」にはマーシーの挑発と皮肉が詰まってる。「俺にはコミック雑誌なんて要らねぇ!」は三回もシャウトされますが、これは当時、話題になっていた内田裕也の映画のフレーズを使用したそれであり、バカのようなマスコミ報道への不満。勿論、コミック雑誌なんて要らないの本意は、世の中そのものが最早、コミック雑誌よりもコミカルな世の中になってしまっているからである。



生まれたところや 皮膚や目の色で

一体、このボクの何がわかるといのだろう


by「青空」
これほどシンプルに差別問題を唄ってみせている楽曲って、そんなに見当たらない。



ドブネズミみたいに美しくなりたい


by「リンダリンダ」
ドブネズミの中に美しさや、やさしさを見い出したブルハ現象の金字塔を象徴する箇所。



君、ちょっと行ってくれないか?

捨て駒になってくれないか?

イザコザに 巻き込まれて

泣いてくれないか?


by「すてごま」
これもライブビデオを視ている内に気付きましたが、唄っていた時期に行なっていたツアーの名称は「PKOツアー」なのね。しかも詠んでいるのは戦争の本質、資本主義の本質でもある。



ああ、宣戦布告! 手当たり次第 

そうです、これが若者の✕✕✕
 

by「英雄にあこがれ」
この過激さよ。なんだか予言になっていたんじゃないのかな。



生まれたからには生きてやる


by「ロクデナシ」
全体の歌詞は「すべてのボクのようなロクデナシの為に歌っている」という歌詞なのですが、そのサビの部分は力強い「生まれたからには生きてやる!」になっている。或る時期から、生きる力とか自己肯定感の揺らぎの問題が囁かれるようになりましたが、そもそも「生まれたからには生きてやる」というハートの部分で伝えないとね。他人から「死ね」と揶揄されようが、「生まれたからには生きてやる」という強烈で揺らぐことのない絶対的な自分こそが「自己」には必要なのだ。



ハンマーが振り下ろされる

僕達の頭の上に 

ハンマーが振り下ろされる 

世界中いたるところで 


by「ハンマー〜48億のブルース」
出る杭は打たれるの描写。とはいえ、この楽曲もトータルしてこそですけどね。



皆殺しのメロディーが 切り裂きジャックを呼んでいる


by「皆殺しのメロディー」
ゲテモノ的なパンクロックとして唄っているように見せて、おそらく半分ぐらいはガチだと思う。



導火線に火がついたのは

いつだったろうか?

中学生の頃か?

生まれる前か?


by「旅人」
これは「プルトニウムの風に吹かれて行こう」と歌っている楽曲と同じ。つまり、核問題を唄っている。核問題に決定的な転機が起こったのは、彼等が中学生の頃か生まれる前である。まさかまさかの的確すぎる隠喩。



なるべく小さな幸せと

なるべく小さな不幸せ

なるべくいっぱい集めよう

そんな気持ちわかるでしょう?


by「情熱の薔薇」
「情熱の薔薇」は完成期のブルーハーツのヒット曲ですが、こんな事まで、ちゃんと歌詞にしていたんですね。


僕たちを縛りつけて

一人ぽっちにさせようとした 

すべての大人に感謝します


by「1985」
ブルーハーツの選手宣誓として発せられた言葉。歌詞カードには記されていなかったのだそうな。



それよりも赤い血ぃぃぃが からだ中に流れてるんだぜ 


by「夕暮れ」
ほのぼのソングの中にも、身体的な血肉を忘れていない。一見、過激なブルーハーツの歌詞の中に「やさしさ」を見い出してしまうという問題がありますが、基本的に、やさしい人じゃないと、こういう歌詞は書けませんね。



ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

手掛かりになるのは

薄い月明かり


by「月の爆撃機」
非常に難解な歌詞ですが、これを個人情報保護法とか特定秘密保護法などに解釈を広げてゆくと、今日的な過剰な法治主義信仰及びディストピア問題に関係している。実際に文藝春秋1月号を読んでみたら色々な論者がちゃんとマイナンバーカードの普及策を批判して「ディストピア」という文言を使用していますね。



僕、パンクロックが好きだ 

中途半端な気持ちじゃなくて

ホントに心から好きなんだ 

僕、パンクロックが好きだ


by「パンク・ロック」
この楽曲は、多くの者を驚かせた曲だそうな。「(パンクロックなんて)吐き気がするだろ? みんな嫌いだろ?」と歌い出してから「僕、パンクロックが好きだ。心から好きなんだ」とヒロトが力技で捻じ伏せている曲なのだ。



そしてナイフを持って立ってた


by「少年の詩」
これこそ、初期のブルーハーツの突出した惹句ですね。少年とナイフの危険な関係。



揺り籠から墓場まで 

馬鹿野郎がついてまわる

1000のバイオリンが響く

道なき道をブッ飛ばす


by「1000のバイオリン」
「揺り籠から墓場まで」というフレーズのナンセンスを真正面から歌ってる。令和の日本では揺り籠から墓場まで完全に面倒をみてもらいたいという人たちでいっぱいになってしまった訳ですが…。為政者たちが本気で福祉が重要だなんて考えている訳がないのに、信じてしまっている。



外は春の雨が降って

僕は部屋でひとりぽっち

夏を告げる雨が降って

僕は部屋でひとりぽっち


by「ハンマー〜48億のブルース」
この曲はトータルしての凄さですが、この箇所だけボーカルがマーシーにスイッチする。目ん玉を剥いたマーシーの絶叫が、なんとも見事なコントラストになっている。



神様にワイロを贈り 天国へのパスポートを

ねだるなんて本気なのか?

誠実さのカケラもなく 笑っている奴がいるよ

隠している その手を見せてみろよ


by「青空」
ワイロを贈って天国へのパスポートを買う不誠実な者を突き上げている。更に、損な重複にもなりますが、そんな不誠実な者に対して「隠している、その手を見せてみろよ」とまで迫りたくなってしまう気迫に味わいがある。



「ごめんなさい 神様よりも 好きです」


by「君のため」
おそらく愛を題材にしたバラードですが、ブルーハーツの歌詞には何故か「神様」が登場する。



鉄砲も 兵隊も 政治家さえも要らないよ

君たちが望むのは 自由だけでいいよ


by「ブルーハーツより愛をこめて」
これが初期の歌であり、こういうタイトルであったというのが色々と先見的で驚かされる。



人は誰でも 挫けそうになるもの

ああ 僕だって 今だって


by「人にやさしく」
この箇所に限らず、やさしさが滲み出ている楽曲ですけどね。



大変だ 真実がイカサマと手を組んだ


by「シャララ」
まさかまさかの情報氾濫時代のデマゴーグ、フェイクニュースやショックドクトリンが題材のように歌われているような気になる。この楽曲に限らず「台風」でもデマゴーグが題材にされている。



見捨てられた 裏通りから 

世界中に向けて 大切な

メッセージが 届くのを

君たちは見るだろう


by「ブルーハーツより愛をこめて」
まるで007シリーズのような「愛を込めて」というフレーズでしたが、どうもガチだったっぽい。改めて検証してみると、プロテスト(抗議)するかのような歌詞が多かったんですね。


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舛添要一、橋下徹、それと少し別枠で玉川徹といった人たちが諸々のバッシングを浴びているのを知ってしまうと、心穏やかでは居られない。おそらく、リアリズムを理解できない人たちがいて、その人たちは自分たちが単なる情緒的な同調圧力に敗北しているにも関わらず、舛添、橋下、玉川の三氏らを、お茶の間相手のお気楽な原理主義であると考えているらしいと知ると、もう、限界だ。脳味噌がお花畑なのは、イデオロギーとは無縁で起こっている戦争の力学を読めていないその人だし、大衆迎合度で言えば既に叩かれている三氏らは大衆に迎合していないから叩かれている事も自明だ。

怖ろしいほどの転倒、ヒロイズムに絆され、世論と同期する事を正義であると主張しているポピュリストが、リアリズムを原理主義を評しているという転倒は、深刻な《知の転倒》現象だなと思う。ホントの事を述べれば、このまま放置していたら、西側陣営の政治的戦略に乗った人たちが「団結するのだ!」等と言って、どんどんプーチン政権を追い込んでしまい、最悪の事態を引き寄せてしまいかねない事を憂慮しているからこそ、の問題でしょう? ロシア軍が侵攻して、それに対峙しているウクライナの人々が窮地に置かれている事は勿論、自明だ。ウクライナの人々が決死の覚悟で抵抗するのも分かる。しかし、それで生まれる悲劇というものは、イタズラに大きくなるという話だ。ここには一切、何が尊いだの、自由の戦いだの、そんな手前味噌な観念は存在せず、生きるか死ぬかの問題の前には、当然、それらの観念は通用しない。究極的な問題は「生きるか死ぬか」だからだ。原理主義よりも政治的イデオロギーが優先すると思っているのだったら、おめでたいバカだし、実際のところは知の転倒だと思う。大衆迎合社会で支持される知識人ほど醜悪なものもないんだろうにね。

実際に、ロシア侵攻後に、私なりに注意深く人々の言動を考察しているが、それなりに「このままでは戦力差によって被害が拡大する恐れがあります」と実は説明を付している。ただ、短く付しているだけだから気付かないのかも知れませんが、それはナーバスな問題であるから、変な方向に引っ張られぬよう、わざわざ付け加えて発せられていると思う。制裁、制裁、制裁、制裁の輪に加わっている状況に懸念を抱かない人たちの独善的正義の強さに、閉口しているのがホントなのだ。相も変わらず、一元的正義でしか物事を思考できなお人たちが支配者階層になって大衆と連動して、まったく反省する気はないのだなぁ…と。

ウクライナ情勢の報道で、何が色々とおかしいって、戦争には国際法とか人道なんてものさえも通用しない部分があるという話をしているのだ。東京大空襲で使用されたのは焼夷弾であったが、これは木造建築であった日本家屋を焼き尽くすのに合理的に考えられたものであり、戦術としても人々の逃げ道を塞ぐようにして投下された。非戦闘員への攻撃は許されませんのように報じているが、そもそも、という話だ。幼稚園にミサイルが打ち込まれていました、子供を標的にした攻撃は許されませんというが、では過去のベトナムに於いて枯葉剤を散布していた過去はどうなのか、地雷などは意図的に身障者をつくりだして戦意を削ごうとしていた悪魔的兵器の過去についてはどうなのか、そしてそして広島と長崎への原爆投下も同様だ。東京裁判にしたって戦勝国による裁きであったに過ぎず、奥の奥まで論じてしまえば、国際法違反だとか、人道に反しているといった、それらの価値観さえも蔑ろにされてしまったり、曖昧にされてしまうのが戦争の実相だ。粛清されるんだぞ、と実相に自分こそが迫っているつもりらしいが、逃げれば、その粛清から免れられる可能性があるのだぞに置き換えられるし、そもそもプーチンが征服を意図しているとか、皆殺しを意図しているという情報は信じるに値するものなのか? 【征服】とは征服して統治する事を意味しており、それは如何にも非効率的にも感じるが、ホントはかなりの情報戦になっており、ウクライナ政府側からすれば欧州やアメリカを戦争に引きずり込みたいと考えるだろうから、そのような意図の発信になっている。実は、単に力学が力学として、政治的力学と軍事的力学とは間違いなく作用しているが、その実「自由主義がどうのこうの?」という政治的イデオロギーの問題については単なる論争の為の道具に過ぎない事に気付くべきだ。生きるか死ぬかの存亡を賭した時局に於いては、政治的イデオロギーとしての「どっち寄り」や「どちらの陣営につくべきか」なんてものは全く関係ない。それらは生きるか死ぬかという場に置かれている当事者からすれば、副次的な問題になる筈なのだ。(中には、俺は国家の為に死にたいという者もいるだろうけど歴史を顧みれば、少数派である事は疑うまでもない。)

百歩譲ったとしても「人命を優先して考えること」を低廉な原理主義だ等と展開している者は、かなり認識に問題があると思う。その者の理屈では「彼等は原理主義よりも、自分たちの高度な思考方法の方が何かしら高尚である」と錯覚している。「原理主義に対しての国際常識の優越」か「原理主義に対しての自由主義の優越」と言ったところでしょう。しかし、この問題に限っては、どう考えたって人命が最優先、人命に限らず拷問や虐待などの人道的観点が最優先になるに決まっている。自由もなにも、そもそも死んだら自由も味わえないのだ。これを「原理主義である」と叩き切っているのは、原理主義を低廉だと思い込んでいるという事以外有り得ない。

敢えて言うなら、事物とは本質的な原理によって編まれている。原理とは本質的なものだ。その原理を覆すようなものとは、即ち小手先の何かだ。しかも、ここで用いられている原理とは、生命の優先で、これはかなり根深い普遍的価値観と関係している。だって、人の命よりも優先すべきものって実際に挙げられます?

尊い戦いをしているという組み立て、そして犠牲者たちの死を悼む等の甘っちょろいヒューマニズムを展開されるのが正直、きつい。そうじゃないだろう? 直観できる筈だ。現代人の生活を直視すべきだ。現代人の生々し現実とは、おいしいスイーツに舌鼓を打ったり、オリンピックの金メダルに歓喜し、コロナ禍で外出ができなくてストレスが溜まってかなわんわぁ…と、そんな次元で不満を言っているような連中が世論の主流層だという現実がある。サイレント・マジョリティーとして「私は今もスパゲッティをなんとなくすすってるけど、ウクライナでは今、あんな事が起こっている…。でも私には、どうすることもできない。何かできることがあるだろうか?」のような順番で認識する事になるのが正規の認識コードだ。

プーチンも含めてですが、マスコミ全般で【ヒトラー】や【ファシスト】といった言葉も飛び交っている。つい3週間前にヒトラーに喩える事は国際マナーに反している云々と騒いでいた筈であるが、早速、そのまんま、流用されている。改めて気付いた事は【ファシスト】の定義なんてものは、そんなに精緻には形成されていませんね。単なる「悪」の符牒みたいなものだ。現実を直視すれば、政治的プロパガンダに引き摺られている事にも気付かずに、制裁で解決できると思っている制裁包囲論に染まっている連中が、何を分かったような口をきいていやがるんだろう、だと思う。

既にウクライナ情勢は、第三次世界大戦や核戦争といったものを誘発しかねないリスクになっている事、この切迫感、緊迫感がキューバ危機を超えていると発言している専門家を昨日、テレビで目撃しましたが、私もそう思う。おそらく、既にキューバ危機を超えている状態に見える。ロシアを経済破綻させてどうなるのか? それに対しての報復が起こらないだなんて言えるだろうか?



ブルーハーツに、「やるか逃げるか」という楽曲がある。ブルーハーツの歌詞を取り上げている最中にも、気付かない事にした歌詞でもある。

南の国へ行こう 日焼けでもしに行こう

死んだらそれでさようなら

勲章の一つでももらえるかもしれない

南の国へ行こう ダイエットしに行こう

死んだらそれでさようなら

面と向かってキックされたらどうするんだ?

やるか逃げるか どうする?

やるか逃げるか どうする?

戦車に乗れるかもよ マシンガン撃てるかも

死んだらそれでさようなら

安っぽいヒロイズム 嫌いじゃないもんな

愛するあの娘のため 平和を守るために

死んだらそれでさようなら

不条理に不意打ちを食わされたらどうする?


やるか逃げるか どうする?

やるか逃げるか どうする?


作詞・作曲はマーシー(真島昌利)ですが、実は凄い歌詞でもある。『ドブネズミの伝説』の著者である陣野俊史氏が指摘している事でもありますが、この曲は自衛隊のPKO派遣に当てた楽曲であり、「南の島へ行こう」とは漠然とした隠喩になっている。そして指摘されているのは実はブルーハーツの歌詞は誰も悪者にしないという流儀が貫徹されている。政治家は悪者にするし、世間や社会といったものも悪者にしているけどね。そして、この曲の歌詞ですが何に驚かされるのかというと「自分が自衛隊員だったら目線」もしくは「自分の周囲の人が自衛隊員だったら目線」によって、この歌詞が構成されている事でしょう。

だから「やるか逃げるか、どうする?」なのだ。「安っぽいヒロイズム、嫌いじゃないもんな」と歌われている。実際、そんなものだから。でも、この歌詞は歌詞の中で反問している訳です、生きるか死ぬかなんだぜ、と。だから「やるか逃げるか、どうする?」と問い掛けている。実は精緻に、ドブネズミ目線というべきか、その目線で検証して、その問題の核心にまで迫ってみせている歌詞なのだ。

「国家の為に死ぬ事は断じて安っぽいヒロイズム等ではないのであーるっ! 高尚な戦いなのであーるっ! これは人類の叡智の戦いであり、勝ち目のない戦いであれども尊ぶべき英雄的行為なのであり、我々は見習うべきなのであーるっ!」というのは、或る種の国家幻想であり、危険思想だと思う。本人が国家の為の殉死したいのなら、どうぞとなるが、このヒロイズムを人々に押し付けるのは勘弁願いたい。死にたきゃ死ぬよ、勝手にね。真島昌利作詞の「俺は、俺の死を、死にたい」が本望。

マーシーの歌詞の凄さは、こういうところに現われている。「ジョニーは戦争へ行った、僕はどこへ行くんだろう」という歌詞は、「ラインを越えて」ですが「ジョニーは戦争へ行った」は第一次世界大戦へ行ったが負傷してしまった青年の悲劇を描いた映画である。一時的に戦意高揚に影響があるとして問題視された映画でもあるらしいのですが、戦争を悲劇として切り抜く手法など、ホントは背景にしても底知れぬレベルで深い。聴き手が考えたり、検証しないと理解できないレベルで、それをやっていた事に驚かされる。

そう展開していくのは、さすがに無理があるだろうって気付くものだと思うよ。彼等の言っていることと、ここで述べている事で、どちらが真理を突いているのかを判断するのも、その読み手になるのだけれど、この呼びかけが正確に聞き取れない人というのは、社会的地位がどうのこうのとか、その人の人気とか、その人による自己評価とは全く関係がない。その発言が物事の核心を抉っているか否か、その言説の価値は、誰が言っているかという副次的な要素は関係なく、その言説そのものが、直接的に如何に正鵠を射ているかによって判断されるべきだ。

掃除のおばちゃんと校長先生とでは、社会的に偉いとされている校長先生の言っている事が正しいに決まっているという教条主義的な認識コードの人には、一生、理解できない問題でもある。どこぞの偉いセンセイよりも、ホームレスの方が真実を語ってしまっている場合もあるんだぜ、の意。ポピュリズムの厄介な事は、そこが曖昧になってしまう事でしょうねぇ。

「やるか逃げるか」は、例えば男女間の「やり逃げ」をも連想させなくはないが、実は歌詞は明確に非戦か反戦ソングになっている。しかも、その切り口は与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」的な切り口なのだ。

「やるか or やられるか?」という二項対立構図としたのではなく、「やるか or 逃げるか」という二項対立を成立させない構図にしていない事、その妙。「殺すか殺されるか」の二元論ではなく、「殺すか逃げるか」の二元論として展開させていたのが、この「やるか逃げるか」の歌詞なのだ。何が違うのかというと単純二択化していない事が違う。選択肢を殺すか殺されるかの二択に絞る者のアタマと、そうではなく、「殺すか逃げるか」の二択であると絞るアタマの差異。どう考えても、鋭い考察や洞察力を抜きでは書けない歌詞である。それを、サラッと若者ウケするようなロックナンバーとしてリリースしていたのだから、改めて驚かされる。

「降伏したって粛清されるから戦うべきなのだ」というけど、そんな風に判断する合理的な理由があるだろうか? 結局は戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」にも通じる狂信的なヒロイズム信仰となる。戦争はロシアの場合は背後から鉄砲を撃ってでも兵隊に戦わせた過去の歴史もあるらしいから皆殺しは有り得ないとまでは断言しないが、プーチンにしても民間人を皆殺しにする事には全く合理的理由がない事も自明だ。そんな与太話よりも現実を、現況を、実際を直視すべきだ。現状としては、この抵抗を継続していけば被害は拡大するでしょう。その被害の中でいつまで戦えるのかはウクライナの人たちにしか語りようがない事柄だというのも自明だが、現況としては楽観は厳しいというのが現実だ。そして当たり前ながら我々は日本人だ。空間的にも、この日本でウクライナ情勢について語っているのだ。しかも幾らかは客観的に、冷静に状況を分析しようとして語った何かであるのも自明だ。それなのに「許されない」等と難癖をつけるのは単なる歪んだ正義の押しつけだ。冷静さや客観を失っているのは、その批判者の方だ。

「降伏してもプーチンに粛清される」等と何を根拠に展開しているのだろうか? 現時点ではそんな事は分からない筈だし、かなり非合理的な予見に思える。そもそも逃げれば生存の確率が上がるであろうと予測する事だって難しくもない筈だ。勝手に自らの思い込みによって他人の退路を断つかのような発想をするという行為は「生きて虜囚の辱めを受けず」に通じるものがあると思う。ヒロイズムへの同調を強いる行為だ。戦中、そんな勇ましい訓示を垂れていた人たちが、その自らの語っていた言葉に従って、アッパレな切腹を遂げるなどした、つまり、言行一致していた、そういう美しい歴史であったとでも思っているのだろうか? 

これらから既に、その批判者は「言論の自由」も実際に許容できぬような者である事が自明だ。そんなヘンテコな自由主義者が語っている「守るべきもの」や「崇高なもの」なんてものを、誰が信じられるだろう。

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