◆フロイトの試み
もしかしたら晩年のフロイトはとんでもない問題に取り組んでいたのではないか？ カール・グスタフ・ユングの方はシンクロニシティや東洋思想に傾倒していったのでしたが、ジークムント・フロイトは人生の集大成として「モーセとはエジプト人ではないのか？」という壮大なテーマに取り組んでいた――。
都合のいい事に、ここのところ、神話と聖書についてアレコレとやっていましたが、その手応えとしてはバカにならず、それどころか、とんでもない時限爆弾みたいな問題をフロイトは遺していたのだなぁ…と感心してしまった。
フロイトの仮説では、こうだ。かの預言者モーセはユダヤ人ではなく、古代のエジプト人ではなかったのか――と公然と述べている。それどころか半ば人物も特定している。古代エジプトの或る王こそが、実はモーセの正体であろうとまで導いている。『モーセと一神教』（ちくま学芸文庫）の内容は殆んどミステリー小説を読んでいるようだ。そして、そのミステリーは一定以上の整合性を伴なったまま、加速してゆく。そうなると預言者モーセの「出エジプト記」に係る内容にも大きく影響してくる。あの「エクソドス」と呼ばれて崇拝されてきたものは一体、何だったのか？ 更には、いわゆる一神教の正体とは？ 一神教は現在でも世界情勢に大きく影響を与えている訳ですが、そこには、その名前を語ることも許されないという畏れ多い神、ヤハウェ（エホバ）のように表現される神がある訳ですが、その正体にも迫っている。
ジークムント・フロイトはユダヤ人である自身がユダヤ人の神の起源を分析する事で、凄まじいレベルの批判が起こるであろう事を覚悟した上で、最晩年に、その驚天動地の大問題に挑んでいた。猛批判に晒される覚悟についても冒頭で言及しており、その唯一神を崇める人たちに対しては時限爆弾のようなものにも感じなくもない。
◆通説としてのモーセ伝
モーセに関しての事績については諸々あるようですが、よく語られているモーセについての伝承とは以下のようなものだ。
モーセの血統についてはイスラエルの12支族の一つであるレビ族とされている。このレビとはヤコブの第三子がレビであり、レビ族の子孫がモーセだという。
アブラハムはメソポタミアのウルの出身で放浪の後にパレスチナに住んでいた。そのアブラハムは神のお告げを受けて妻のサラとの間にイサクとイシュマイルを授かった。イサクがイスラエルの民の祖となり、イシュマイルがアラブ人の祖になった。
そしてイサクはリベカという妻との間にエサウとヤコブという双子が生まれた。このヤコブの第三子がレビだという事となり、そのレビの子孫がモーセであったという事になる。
アブラハムが放浪していた時代が約紀元前2000年頃だといい、紀元前14世紀末から13世紀にかけての時代にモーセの物語が始まる。
この頃の古代エジプトには多くのイスラエルの民たちがいたが、イスラエル人たちは奴隷であった。通説として語られているところでは、当時のファラオが「イスラエル人の男児は全てナイル川へ捨てて殺害せよ」と命じていた。そんな中、イスラエル人夫婦アムラムとヨケベドの間に赤ん坊が生まれた。ヨケベドが産んだ子は男の子であった。
ヨケベドは数ヵ月ほど隠して男児を育てていたが、隠し通す事は難しいと考え、パピルスで編んだ籠に、その男児を入れてナイル川へと流した。「どうか、誰かがこの子を拾って、育ててくださいますように…」と祈って――。
その籠を発見したのは、古代エジプトの王女であった。その王女は籠の中に男児を発見すると、侍女たちが「その子はきっとイスラエル人の子です。勝手に拾って育てるのは差し障りがあるかも知れません」と助言するが、その王女は、その男児を王宮の中で隠して育てる事にした。この王女は、その男児に「モーセ」と命名した。
そう、モーセは実母に捨てられるようにして、一度は河に流されてしまった捨て子であった。
これは一定以上の年齢の方であれば、共通しているものを見い出せるかも知れない。斯くいう私の場合は小学１〜２年生の頃までは「踏切に包丁と一緒に捨ててあった。それを拾って育てている」と両親から言い聞かされていた。同級生の中にも同じような言い聞かせを受けていた者は中学時代でも半数ぐらいは居たと思う。「踏切に捨てられいた」は私の両親のオリジナルなのでしょうけど、多くは神社に捨てられていたところを拾っただとか、川に捨てられていたところを拾って育てているだとか、そんな感じ。そして、つい先日も、落語家の春風亭一之輔さんの落語をテレビで視聴していたら「橋の下に捨てられていた子だった」という具合に親から言い聞かされていたというマクラがあったので〈ああ、一之輔さんぐらいの年齢でも経験していたのだなぁ！〉と思い知る事になった。因みに春風亭一之輔さんは1978年生まれだ。現在ともなると虐待と騒ぎなってしまうのかも知れませんが、そもそもって話でね。
モーセは、エジプトの王宮内でイスラエル人の子である事を隠したまま、育てられた。モーセは利発だったので、ファラオからも気に入られる存在にまでなっていた。モーセ本人は、自分がイスラエル人の子である事を知らずに育ったが、青年になってから育ててくれた王女から真実を教えられる。「本当は、あなたはナイル河に流されていたイスラエル人の子でした」と。自らの出自を知ってしまったモーセは、以降、奴隷のように扱われているイスラエル人たちを気に掛けるにようになった。イスラエル人は、迫害され、搾取されている――と。
或る時、老いぼれたイスラエル人の奴隷がエジプト人の官吏（監督）から鞭で滅多打ちに遭っているという場面に出くわす。モーセは、容赦なく奴隷に鞭を振り下ろしているエジプト人の官吏と揉め事を起こし、モーセは、そのエジプト人官吏を殺害してしまう。殺害が露見すると大変な事になるので、モーセは、その官吏の死骸を砂に埋めてしまう。
しかし、後に育ての母である王女からエジプトから脱出するように忠告を受ける。
「モーセ、逃げなさい！ あなたがエジプト人官吏を殺めた事がファラオの耳にも入りました。陛下は、きっと、あなたを処刑するでしょう！」
これによってモーセは、エジプト王宮から脱走して、荒野を彷徨う。そしてミディアンの地で、その地で司祭をしていたエトロ、そのエトロの娘であるツィポラを妻とし、おそらくはしばらく、このミディアンの地で暮らしている。
そんなところへファラオの死の報が届く。モーセは、育ての母の事を心配するが、その時、モーセの元に、神が降臨した。通説では、このモーセの前に顕現した神は、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神だという。そして、その神はモーセに言った。
「私は汝をエジプトの王の元へ遣わせる。モーセよ、イスラエルの人々を、我が民を、エジプトから連れ出すのだ！」
しかし、モーセは口下手であったので、次のように答えた。
「私は弁が立ちませんので自信がございません。私よりも弁の立つ者に役をお申し付け下さい」
「モーセよ、お主には弁の立つ兄、アロンがいるではないか。既にアロンがこちらに向かっている筈だ。さぁ、兄のアロンと合流してエジプトへ行くがよい！」
モーセは、神から授かった蛇に変身する魔法の杖と、ホントに神の預言通りに迎えに来た兄のアロンと共にエジプトへと向かった。
モーセはエジプトの王宮に舞い戻って政府高官との間で「我々の神から啓示があったので、どうかイスラエル人を解放して欲しい」と申し入れをした。しかし、その交渉は決裂した。エジプトの政府サイドでは、それまで以上に苛酷な労働をイスラエル人に課してみせるという有り様であった。
打ちひしがれたモーセ。そのモーセの前に、再び神の声が響いた。神は告げた。
「私がエジプトに手を下す。大いなる審判によって、私の民をエジプトより導き出す。その時、エジプトは私が主であることを思い知るであろう」
まもなく、エジプトは災厄に見舞われた。神の指示とおりにモーセが魔法の杖でナイル河を打つと、川の水は血に変わり、魚は死に、川は悪臭を放ち始めた。カエル、ブヨ、アブが大量繁殖し、疫病、腫物、そして雹が降り注いだ。そして、とどめにはイナゴの大群がエジプトを襲った。
エジプト政府は、災厄が続くのはモーセが言うようにイスラエルの神の祟りなのではないか不安になり、イスラエル人の解放を認める。モーセは、ようやくイスラエルの人々を連れてエジプト脱出に成功する。しかし、これも神の預言通りにエジプト側ではイスラエル人を解放した事を後悔し、追手を差し向ける。
そして、映画などでも有名な、あの海が真っ二つに割れるという紅海渡渉となる。海が真っ二つに裂けて、そこをモーセ率いるイスラエル人たちが徒渉する。エジプト軍が追い掛けてくるが、その海の道は閉ざされて、エジプト軍は紅海に飲み込まれるというスペクタクルな描写で有名。まざまざと神が神である事を証明する、その絶大な力が見せつけられる奇跡中の奇跡として少なくとも、信ずる人たちにとっては有名な場面でもある。
無事にエジプト軍の追手を撃退したものの、イスラエル人たちが約束の地に辿り着くまでには、まだまだ時間を擁した。シナイ半島のシナイ山では神より十戒を授かったので、これをイスラエルの人々に伝え、神との約束を違えぬ事を誓わせた。シナイの契約。
モーセが再びシナイ山に姿を消していると、イスラエルの民は堕落した。十戒の教えに背いて勝手に「黄金の仔牛像」をつくって、その仔牛像を祀るという偶像崇拝をしていたのだ。それは十戒に背く行為であった。モーセは、それを知ると神から授かった言葉を書き留めた石板を叩き割り、黄金の仔牛像を祀っていた者たちを殴り殺した。イスラエルの人々は、モーセに謝罪し、二度と過ちを犯さないと誓った。
その後もイスラエルの民の放浪は続いた。中々、約束の地にはたどり着けなかった。ホロ山で、アロンが死に、モーセも約束の地にたどりつくことなく、ネポ山で死んだ。
◆【Mose】の名前の秘密
フロイトは、何故、誰もモーセがエジプト人であっただろうと言わないのかという問題に切り込んでゆく。フロイトよりも古くから、このモーセという名前についてはエジプト語ではないのかという指摘があったという。仮にエジプト語の名を持つ者があったとして、その者がエジプト人ではなかったと考えるだろうか？
「モーセ」については、日本語では「モーゼ」と濁る事もありますが、モーセとして進めます。モーセのアルファベットでのスペルの中には【Moses】と語尾に【s】のつく表記があるが、それは旧約聖書をギリシャ語にした際についたものであり、基本的には【Mose】であるという。また、ヘブライ語では「モシェ」という音で発音し、スペルは【Mosche】になるという。しかし、旧約聖書は決定的におかしな事を書いており、わざわざ、そのモーセの名の由来を記しているという。
これは、つまり、モーセがヘブライ人ではなかった事を隠蔽しようとして、記述者が無理矢理にモーセの逸話に辻褄の合わぬ記述を盛り込んでしまったという事ではないのか――と考える事になる訳です。ああ、フロイトは「心理学の父」ですが、それ以上にフロイトを的確に表すなら精神分析の非常に巧な人であった事しょう。こんな小さな綻びを発見し、「ユダヤ人である私が指摘するのは何だが、我々が崇めている預言者モーセは、エジプト人だったなのではないか？」と導いしてしまってるのだ。
ナイル河に捨てられた赤子を拾ったのはエジプトの王女であり、そのエジプトの王女が、その赤子にモーセと命名したというクダリがある。エジプトの王女が命名したのだから、それはエジプト語であろうと考えるのがフツウだ。しかし、何故かエジプトの王女は、その子の命名に当たってはヘブライ語としての「水から引き上げる」という意味の【Mosche】（モシェ）に因んで命名したと自ら、おかしな事を述べてしまっているというのだ。エジプトの王女が、何故、わざわざ当時は奴隷階級の言葉であっただろうヘブライ語で命名するだろうか――と。しかも『ユダヤ辞典』を調べても、モシェの意味は「水から引き上げる者」の意味であり、「水から引き上げられた者」という意味でさえないという。
なので、ごくごく常識的に考えれば【Mose】とはエジプト語であっただろうと解釈すべきなのだ。そして、フロイトは先人の著書の中から、その問題に気付いたらしい。多くのユダヤ人も気付いており、モーセという名前はエジプト語であろうという論者は見付けられたという。しかし、フロイトは、そこまで気付いていながら、何故、誰もモーセはエジプト人であったと誰も仮説を唱えないのか――と展開させてゆく。
（先にも少し触れましたが、実は赤ん坊を捨てるという奇妙な慣習はあったし、）世界中の英雄物語には特定のパターンがあるという。英雄の子は本来は王の子として生まれながら、その王に疎まれてしまう。いずれは、この子が王位を奪ってしまうだろうと考え、その子は捨てられたり、殺されそうになる。このパターンはギリシャ神話に於けるゼウスのパターンを筆頭に確かにある。クロノスは父のウラノスを殺害して王となった。クロノスは自分が父殺しをして王位についたので、きっと我が子に王位を追われるだろうと考え、我が子を次から次へと呑み込んでしまった。（食べてしまった。）クロノスの子としてゼウスが生まれたが、きっとゼウスも呑み込まれてしまうだろうと考えた人たちがゼウスをクレタ島へ逃がして、そこで伸び伸びと育てて、後にクロノス率いるティタン神族と、ゼウス率いるオリュンポス神族との争いが起こり、それを制してゼウスは神々の王になっている。これは各種の神話にも見られる特徴である。また、世界各地にというのは文字通りに世界各地で実は東アジア圏でも事情は一緒である。高句麗神話の朱蒙（しゅもう）、商殷の神話に於ける契（せつ）、そしてひょっとしたら日本人にも大きく影響している可能性が高い扶余（ふよ）の東明王も捨てられた子が英雄となるストーリーである。
フロイトはしっかりと神話も分析している。これは貴子流離譚という言葉があったと思いますが、ホントは高貴な生まれであるが、故あって、その子は捨てらてしまう。その捨て子を不憫に思って身分の賎しい女が拾い、愛情を注いで育てると、その子は成長してから英雄となり、実は幼少期に捨てられた経緯を知って王を討つ英雄になるというパターンだという。
モーセの場合は逆パターンになる。高貴な生まれの子が賎しい身分の女に育てられたのではなく、奴隷の子として生まれながら身分の高い王女に拾われて、大事に宮中で育てられたという珍しい形を持っている。しかし、当然、そんな事があるだろうかと考えねばならない訳です。
そしてフロイトは、その指摘をする。【Mose】とはエジプト語であると解釈するのが妥当なのだから、その先だって考える事が出来る筈だと展開させる。エジプト語で【Mose】とは【子】という意味であり、実は頻繁に名前に使用される言葉であるという。
古代エジプトには、知恵の神としてトト（Thut）という神が存在していた。トキの頭部を持って描かれる神だ。そのトトの子は「Thut」+「mose」となってトトメス（Tothmes）となる。また、エジプトで最も古くから崇められた神は太陽神ラーである訳ですが、ラーの子は「Ra」+「mose」となってラムセス（Ramses）となる。
トトメスやラムセスという名前は、エジプトの歴代ファラオの名前であり、第18王朝のトトメスであれば１世から４世まで、ラムセスであれば第19王朝から第20王朝にかけて11世までがファラオになっている。
トトメス。トトメスと名乗るファラオがいた古代エジプト、その第18王朝とは新王国時代と呼ばれ、ラムセス２世の最盛期にはエジプト軍は現在のトルコでヒッタイトと戦争をして痛み分けを演じるなど古代エジプトの最盛期であり、エジプトが大帝国として領土を拡大させていた時代である。
因みにトトメス４世の治世は紀元前1400〜1390年である。一方でモーセの生年については紀元前15もしくは14〜13世紀に実在していた人物であると考えられている。これらを考慮すると、何やら非常に鋭い指摘をしているような気もしてくる。トトメス４世に限定せずとも、このモーセという名前で語られてきた人物はエジプト第18王朝で王位についてもおかしくないような高貴な人物であったのではないか？ 何故、誰もモーセはエジプト人であっただろうと言わないのか？ ひょっとしたらイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した人物とは現役のファラオのトトメスであったという可能性はないのか？
更にモーセの逸話を思い出して欲しい。モーセは神との対話の中で「私は弁が立たないのでイスラエル人を脱出させる自信がない」と述べている箇所がある。モーセはエジプト人だからヘブライ語が苦手だったという事を意味しているのではないのか？
まだまだ、モーセに対してのフロイトの分析は続く――。
以下、参考リンクです。
拙ブログ：卵生神話の解釈についてアレコレ
拙ブログ：「天空神」と「鳥」
もしかしたら晩年のフロイトはとんでもない問題に取り組んでいたのではないか？ カール・グスタフ・ユングの方はシンクロニシティや東洋思想に傾倒していったのでしたが、ジークムント・フロイトは人生の集大成として「モーセとはエジプト人ではないのか？」という壮大なテーマに取り組んでいた――。
都合のいい事に、ここのところ、神話と聖書についてアレコレとやっていましたが、その手応えとしてはバカにならず、それどころか、とんでもない時限爆弾みたいな問題をフロイトは遺していたのだなぁ…と感心してしまった。
フロイトの仮説では、こうだ。かの預言者モーセはユダヤ人ではなく、古代のエジプト人ではなかったのか――と公然と述べている。それどころか半ば人物も特定している。古代エジプトの或る王こそが、実はモーセの正体であろうとまで導いている。『モーセと一神教』（ちくま学芸文庫）の内容は殆んどミステリー小説を読んでいるようだ。そして、そのミステリーは一定以上の整合性を伴なったまま、加速してゆく。そうなると預言者モーセの「出エジプト記」に係る内容にも大きく影響してくる。あの「エクソドス」と呼ばれて崇拝されてきたものは一体、何だったのか？ 更には、いわゆる一神教の正体とは？ 一神教は現在でも世界情勢に大きく影響を与えている訳ですが、そこには、その名前を語ることも許されないという畏れ多い神、ヤハウェ（エホバ）のように表現される神がある訳ですが、その正体にも迫っている。
ジークムント・フロイトはユダヤ人である自身がユダヤ人の神の起源を分析する事で、凄まじいレベルの批判が起こるであろう事を覚悟した上で、最晩年に、その驚天動地の大問題に挑んでいた。猛批判に晒される覚悟についても冒頭で言及しており、その唯一神を崇める人たちに対しては時限爆弾のようなものにも感じなくもない。
◆通説としてのモーセ伝
モーセに関しての事績については諸々あるようですが、よく語られているモーセについての伝承とは以下のようなものだ。
モーセの血統についてはイスラエルの12支族の一つであるレビ族とされている。このレビとはヤコブの第三子がレビであり、レビ族の子孫がモーセだという。
アブラハムはメソポタミアのウルの出身で放浪の後にパレスチナに住んでいた。そのアブラハムは神のお告げを受けて妻のサラとの間にイサクとイシュマイルを授かった。イサクがイスラエルの民の祖となり、イシュマイルがアラブ人の祖になった。
そしてイサクはリベカという妻との間にエサウとヤコブという双子が生まれた。このヤコブの第三子がレビだという事となり、そのレビの子孫がモーセであったという事になる。
アブラハムが放浪していた時代が約紀元前2000年頃だといい、紀元前14世紀末から13世紀にかけての時代にモーセの物語が始まる。
この頃の古代エジプトには多くのイスラエルの民たちがいたが、イスラエル人たちは奴隷であった。通説として語られているところでは、当時のファラオが「イスラエル人の男児は全てナイル川へ捨てて殺害せよ」と命じていた。そんな中、イスラエル人夫婦アムラムとヨケベドの間に赤ん坊が生まれた。ヨケベドが産んだ子は男の子であった。
ヨケベドは数ヵ月ほど隠して男児を育てていたが、隠し通す事は難しいと考え、パピルスで編んだ籠に、その男児を入れてナイル川へと流した。「どうか、誰かがこの子を拾って、育ててくださいますように…」と祈って――。
その籠を発見したのは、古代エジプトの王女であった。その王女は籠の中に男児を発見すると、侍女たちが「その子はきっとイスラエル人の子です。勝手に拾って育てるのは差し障りがあるかも知れません」と助言するが、その王女は、その男児を王宮の中で隠して育てる事にした。この王女は、その男児に「モーセ」と命名した。
そう、モーセは実母に捨てられるようにして、一度は河に流されてしまった捨て子であった。
これは一定以上の年齢の方であれば、共通しているものを見い出せるかも知れない。斯くいう私の場合は小学１〜２年生の頃までは「踏切に包丁と一緒に捨ててあった。それを拾って育てている」と両親から言い聞かされていた。同級生の中にも同じような言い聞かせを受けていた者は中学時代でも半数ぐらいは居たと思う。「踏切に捨てられいた」は私の両親のオリジナルなのでしょうけど、多くは神社に捨てられていたところを拾っただとか、川に捨てられていたところを拾って育てているだとか、そんな感じ。そして、つい先日も、落語家の春風亭一之輔さんの落語をテレビで視聴していたら「橋の下に捨てられていた子だった」という具合に親から言い聞かされていたというマクラがあったので〈ああ、一之輔さんぐらいの年齢でも経験していたのだなぁ！〉と思い知る事になった。因みに春風亭一之輔さんは1978年生まれだ。現在ともなると虐待と騒ぎなってしまうのかも知れませんが、そもそもって話でね。
モーセは、エジプトの王宮内でイスラエル人の子である事を隠したまま、育てられた。モーセは利発だったので、ファラオからも気に入られる存在にまでなっていた。モーセ本人は、自分がイスラエル人の子である事を知らずに育ったが、青年になってから育ててくれた王女から真実を教えられる。「本当は、あなたはナイル河に流されていたイスラエル人の子でした」と。自らの出自を知ってしまったモーセは、以降、奴隷のように扱われているイスラエル人たちを気に掛けるにようになった。イスラエル人は、迫害され、搾取されている――と。
或る時、老いぼれたイスラエル人の奴隷がエジプト人の官吏（監督）から鞭で滅多打ちに遭っているという場面に出くわす。モーセは、容赦なく奴隷に鞭を振り下ろしているエジプト人の官吏と揉め事を起こし、モーセは、そのエジプト人官吏を殺害してしまう。殺害が露見すると大変な事になるので、モーセは、その官吏の死骸を砂に埋めてしまう。
しかし、後に育ての母である王女からエジプトから脱出するように忠告を受ける。
「モーセ、逃げなさい！ あなたがエジプト人官吏を殺めた事がファラオの耳にも入りました。陛下は、きっと、あなたを処刑するでしょう！」
これによってモーセは、エジプト王宮から脱走して、荒野を彷徨う。そしてミディアンの地で、その地で司祭をしていたエトロ、そのエトロの娘であるツィポラを妻とし、おそらくはしばらく、このミディアンの地で暮らしている。
そんなところへファラオの死の報が届く。モーセは、育ての母の事を心配するが、その時、モーセの元に、神が降臨した。通説では、このモーセの前に顕現した神は、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神だという。そして、その神はモーセに言った。
「私は汝をエジプトの王の元へ遣わせる。モーセよ、イスラエルの人々を、我が民を、エジプトから連れ出すのだ！」
しかし、モーセは口下手であったので、次のように答えた。
「私は弁が立ちませんので自信がございません。私よりも弁の立つ者に役をお申し付け下さい」
「モーセよ、お主には弁の立つ兄、アロンがいるではないか。既にアロンがこちらに向かっている筈だ。さぁ、兄のアロンと合流してエジプトへ行くがよい！」
モーセは、神から授かった蛇に変身する魔法の杖と、ホントに神の預言通りに迎えに来た兄のアロンと共にエジプトへと向かった。
モーセはエジプトの王宮に舞い戻って政府高官との間で「我々の神から啓示があったので、どうかイスラエル人を解放して欲しい」と申し入れをした。しかし、その交渉は決裂した。エジプトの政府サイドでは、それまで以上に苛酷な労働をイスラエル人に課してみせるという有り様であった。
打ちひしがれたモーセ。そのモーセの前に、再び神の声が響いた。神は告げた。
「私がエジプトに手を下す。大いなる審判によって、私の民をエジプトより導き出す。その時、エジプトは私が主であることを思い知るであろう」
まもなく、エジプトは災厄に見舞われた。神の指示とおりにモーセが魔法の杖でナイル河を打つと、川の水は血に変わり、魚は死に、川は悪臭を放ち始めた。カエル、ブヨ、アブが大量繁殖し、疫病、腫物、そして雹が降り注いだ。そして、とどめにはイナゴの大群がエジプトを襲った。
エジプト政府は、災厄が続くのはモーセが言うようにイスラエルの神の祟りなのではないか不安になり、イスラエル人の解放を認める。モーセは、ようやくイスラエルの人々を連れてエジプト脱出に成功する。しかし、これも神の預言通りにエジプト側ではイスラエル人を解放した事を後悔し、追手を差し向ける。
そして、映画などでも有名な、あの海が真っ二つに割れるという紅海渡渉となる。海が真っ二つに裂けて、そこをモーセ率いるイスラエル人たちが徒渉する。エジプト軍が追い掛けてくるが、その海の道は閉ざされて、エジプト軍は紅海に飲み込まれるというスペクタクルな描写で有名。まざまざと神が神である事を証明する、その絶大な力が見せつけられる奇跡中の奇跡として少なくとも、信ずる人たちにとっては有名な場面でもある。
無事にエジプト軍の追手を撃退したものの、イスラエル人たちが約束の地に辿り着くまでには、まだまだ時間を擁した。シナイ半島のシナイ山では神より十戒を授かったので、これをイスラエルの人々に伝え、神との約束を違えぬ事を誓わせた。シナイの契約。
モーセが再びシナイ山に姿を消していると、イスラエルの民は堕落した。十戒の教えに背いて勝手に「黄金の仔牛像」をつくって、その仔牛像を祀るという偶像崇拝をしていたのだ。それは十戒に背く行為であった。モーセは、それを知ると神から授かった言葉を書き留めた石板を叩き割り、黄金の仔牛像を祀っていた者たちを殴り殺した。イスラエルの人々は、モーセに謝罪し、二度と過ちを犯さないと誓った。
その後もイスラエルの民の放浪は続いた。中々、約束の地にはたどり着けなかった。ホロ山で、アロンが死に、モーセも約束の地にたどりつくことなく、ネポ山で死んだ。
◆【Mose】の名前の秘密
フロイトは、何故、誰もモーセがエジプト人であっただろうと言わないのかという問題に切り込んでゆく。フロイトよりも古くから、このモーセという名前についてはエジプト語ではないのかという指摘があったという。仮にエジプト語の名を持つ者があったとして、その者がエジプト人ではなかったと考えるだろうか？
「モーセ」については、日本語では「モーゼ」と濁る事もありますが、モーセとして進めます。モーセのアルファベットでのスペルの中には【Moses】と語尾に【s】のつく表記があるが、それは旧約聖書をギリシャ語にした際についたものであり、基本的には【Mose】であるという。また、ヘブライ語では「モシェ」という音で発音し、スペルは【Mosche】になるという。しかし、旧約聖書は決定的におかしな事を書いており、わざわざ、そのモーセの名の由来を記しているという。
これは、つまり、モーセがヘブライ人ではなかった事を隠蔽しようとして、記述者が無理矢理にモーセの逸話に辻褄の合わぬ記述を盛り込んでしまったという事ではないのか――と考える事になる訳です。ああ、フロイトは「心理学の父」ですが、それ以上にフロイトを的確に表すなら精神分析の非常に巧な人であった事しょう。こんな小さな綻びを発見し、「ユダヤ人である私が指摘するのは何だが、我々が崇めている預言者モーセは、エジプト人だったなのではないか？」と導いしてしまってるのだ。
ナイル河に捨てられた赤子を拾ったのはエジプトの王女であり、そのエジプトの王女が、その赤子にモーセと命名したというクダリがある。エジプトの王女が命名したのだから、それはエジプト語であろうと考えるのがフツウだ。しかし、何故かエジプトの王女は、その子の命名に当たってはヘブライ語としての「水から引き上げる」という意味の【Mosche】（モシェ）に因んで命名したと自ら、おかしな事を述べてしまっているというのだ。エジプトの王女が、何故、わざわざ当時は奴隷階級の言葉であっただろうヘブライ語で命名するだろうか――と。しかも『ユダヤ辞典』を調べても、モシェの意味は「水から引き上げる者」の意味であり、「水から引き上げられた者」という意味でさえないという。
なので、ごくごく常識的に考えれば【Mose】とはエジプト語であっただろうと解釈すべきなのだ。そして、フロイトは先人の著書の中から、その問題に気付いたらしい。多くのユダヤ人も気付いており、モーセという名前はエジプト語であろうという論者は見付けられたという。しかし、フロイトは、そこまで気付いていながら、何故、誰もモーセはエジプト人であったと誰も仮説を唱えないのか――と展開させてゆく。
（先にも少し触れましたが、実は赤ん坊を捨てるという奇妙な慣習はあったし、）世界中の英雄物語には特定のパターンがあるという。英雄の子は本来は王の子として生まれながら、その王に疎まれてしまう。いずれは、この子が王位を奪ってしまうだろうと考え、その子は捨てられたり、殺されそうになる。このパターンはギリシャ神話に於けるゼウスのパターンを筆頭に確かにある。クロノスは父のウラノスを殺害して王となった。クロノスは自分が父殺しをして王位についたので、きっと我が子に王位を追われるだろうと考え、我が子を次から次へと呑み込んでしまった。（食べてしまった。）クロノスの子としてゼウスが生まれたが、きっとゼウスも呑み込まれてしまうだろうと考えた人たちがゼウスをクレタ島へ逃がして、そこで伸び伸びと育てて、後にクロノス率いるティタン神族と、ゼウス率いるオリュンポス神族との争いが起こり、それを制してゼウスは神々の王になっている。これは各種の神話にも見られる特徴である。また、世界各地にというのは文字通りに世界各地で実は東アジア圏でも事情は一緒である。高句麗神話の朱蒙（しゅもう）、商殷の神話に於ける契（せつ）、そしてひょっとしたら日本人にも大きく影響している可能性が高い扶余（ふよ）の東明王も捨てられた子が英雄となるストーリーである。
フロイトはしっかりと神話も分析している。これは貴子流離譚という言葉があったと思いますが、ホントは高貴な生まれであるが、故あって、その子は捨てらてしまう。その捨て子を不憫に思って身分の賎しい女が拾い、愛情を注いで育てると、その子は成長してから英雄となり、実は幼少期に捨てられた経緯を知って王を討つ英雄になるというパターンだという。
モーセの場合は逆パターンになる。高貴な生まれの子が賎しい身分の女に育てられたのではなく、奴隷の子として生まれながら身分の高い王女に拾われて、大事に宮中で育てられたという珍しい形を持っている。しかし、当然、そんな事があるだろうかと考えねばならない訳です。
そしてフロイトは、その指摘をする。【Mose】とはエジプト語であると解釈するのが妥当なのだから、その先だって考える事が出来る筈だと展開させる。エジプト語で【Mose】とは【子】という意味であり、実は頻繁に名前に使用される言葉であるという。
古代エジプトには、知恵の神としてトト（Thut）という神が存在していた。トキの頭部を持って描かれる神だ。そのトトの子は「Thut」+「mose」となってトトメス（Tothmes）となる。また、エジプトで最も古くから崇められた神は太陽神ラーである訳ですが、ラーの子は「Ra」+「mose」となってラムセス（Ramses）となる。
トトメスやラムセスという名前は、エジプトの歴代ファラオの名前であり、第18王朝のトトメスであれば１世から４世まで、ラムセスであれば第19王朝から第20王朝にかけて11世までがファラオになっている。
トトメス。トトメスと名乗るファラオがいた古代エジプト、その第18王朝とは新王国時代と呼ばれ、ラムセス２世の最盛期にはエジプト軍は現在のトルコでヒッタイトと戦争をして痛み分けを演じるなど古代エジプトの最盛期であり、エジプトが大帝国として領土を拡大させていた時代である。
因みにトトメス４世の治世は紀元前1400〜1390年である。一方でモーセの生年については紀元前15もしくは14〜13世紀に実在していた人物であると考えられている。これらを考慮すると、何やら非常に鋭い指摘をしているような気もしてくる。トトメス４世に限定せずとも、このモーセという名前で語られてきた人物はエジプト第18王朝で王位についてもおかしくないような高貴な人物であったのではないか？ 何故、誰もモーセはエジプト人であっただろうと言わないのか？ ひょっとしたらイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した人物とは現役のファラオのトトメスであったという可能性はないのか？
更にモーセの逸話を思い出して欲しい。モーセは神との対話の中で「私は弁が立たないのでイスラエル人を脱出させる自信がない」と述べている箇所がある。モーセはエジプト人だからヘブライ語が苦手だったという事を意味しているのではないのか？
まだまだ、モーセに対してのフロイトの分析は続く――。
以下、参考リンクです。
拙ブログ：卵生神話の解釈についてアレコレ
拙ブログ：「天空神」と「鳥」
