どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:世迷い言 > 死灰の中から

かつて薬師丸ひろ子は「セーラー服と機関銃」で、こう唄っていた。

♪
スーツケースいっぱいに詰め込んだ

「希望」という名の重い荷物を

君は軽々と きっと持ち上げて

笑顔みせるだろう


スーツケースいっぱいに詰め込んだ重量感のある「希望」とは何だろう? そんな疑問を抱いたことがあったが、おりょりょりょ、なんだか分かってしまったかのような気分になる。


若松英輔著『光であることば』(小学館)では、【願望】と【希望】との差異に言及している。少しだけ引用します。

願望と希望は違う。似ているのではない。むしろ、似て非なるものだ。英語に置き換えてもまったく姿が違う。願望はwantだが、希望はhopeである。願望は、その人が望み、願ったものだが、希望は、希なる望みを指す。「希」はしばしば「稀」と同義になる。

人がいれば、少なくともその数だけの願望がある。だが、希望はそうではない。願望が拡散していくのに対して希望は個人を超え、普遍に向かって収斂していく。

願望はしばしば欲望に変じていく。希望が深化するときは、個の立場を離れていく。それは無私の悲願に至ることもある。
(『光であることば』14頁)

もう、これ以上、私が何かを付け加える事は蛇足だろうとなる。

しかも、通常、我々のコミュニケーション上の慣習では、「願望」と「希望」とを混合している可能性がある。そして若松氏の引用文が述べている通り、しばしば願望は私的な願いであるので、利己的なものになる。

「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べる事を希望する。」

というのではニュアンスにボカシが介在しており、実際のところは

「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べたいと欲している。」

に過ぎない。自分で労力をかけてローソンまで行って、自分の財布で購入して、勝手にケーキを食えばいい。それは、その人のまったくの自由だ。「希望する」という具合に発言してみる事で、私的な欲求を、あたかも公的なニーズであるかのように偽装するのは慎むべきだ。まるで、誰かに買って来てくれと言わんばかりの言い回しだ。しかし、これが現代社会で起こっている混乱の核心かも知れない。

既に脳神経学などでも「好き」という感情と「欲しい・独占したい」という感情との差異については別物であると説明されていたと思う。好きだからこそ、欲しくなってしまう、自分だけの所有物にしたくなってしまうというのも道理であるが、脳の働き方としても心理としても、少し違うのだ。きれいな花を見つけたなら、そのきれいだなと思った状態のままで花を愛でればいいのであって、ちょん切って持ち帰って自分だけのものにしようとか、誰かに見せて自慢しようというのは、それは純粋な好きという感情ではなく、独占欲が強く作用しているという事なのでしょう。

これは単なる偶然ではない。『光であることば』は、その先では「励まし」よりも「自分も辛いと感じることがある」ぐらいに呟く方がベターであろうという話が出てくる。そういう言葉こそが「光であることば」だという。

悲しみや苦しみを生きるとき、まったく励まされないのも寂しいものかもしれないが、善かれと思って投げかける激励の言葉は、かえって相手の苦しみを深めることがある。

さらにいえば、励ましらしい言葉は、ほとんど励ましにはならない。苦しむ人に必要なのは慰めと癒しであって、「とにかく頑張れ」という言葉に象徴されるような、一方的な声がけではない。

こう断言するのも問題があるかもしれない。だが、自分の経験を正直に語るとそうなる。いわゆる励ましの言葉に励まされたことがないのである。
(同19頁)

この箇所、凄いなと思う。断言するのも問題があるかも知れないが、自らの経験から言えば、励ましの言葉に励まされた事なんてなく、むしろ、本当に苦しんでいる時に必要なのは慰めと癒しであると言っているのだ。

別に狙った訳でもなく、つい先日、『教育虐待』について正しい知見を述べているのだろうと思うけれど違和感が拭えなかったという感慨を持った私の気持ちを代弁してくれている。駄目さ加減について最も理解できているのは自分自身であり、励まされても励みにはならないものだという事を経験則として知っている。「そうじゃない」と言ったらウソになる。また、引用箇所からは洩れましたが、善かれと思って声をかけてくれている励ましの声については後になって「彼も悪気ではなかったのだろう」と認識する事となり、感謝したりすることもある。但し、真に苦しんでいるタイミングでは、励ましなんてものは何の効果も見込めない。

なので、ホントの事を言えば、そういう状況では「今の、あなたの苦しみや辛さというものを明確には分かる筈もないのだけれども、駄目だなって思う事は私も今までに何度もあったし、きっとこれからもそうかも知れない」ぐらいのネガティブなホンネで相手と対峙した方が、相手の情感にとっては癒しになるだろうと思う。ホントは、ヒトは弱い生き物であり、誰かと一緒にいるときには弱さを見せないように強がるものであるが、独りの時などにはズシーンと重たくのしかかってくるものがあるのだ。

「孤独が怖い」と言っている者は、まだ、本当の孤独と向き合えてない可能性が高い。孤独な時にこそ、その者は自分と向き合えているという話が続く。日々の生活にウツツ(現)を抜かしていると、「生活」と「人生」との区別がつかないのだという主旨を若松英輔氏が続ける。とはいえ、この次元の話になってくると噛み締めるように考えるべき話になってくる。


ここでは手短に一点だけ、「願望を拡散していくとしばしば利己主義になってしまうが、希望を拡散していくと普遍的なものになっていく」――という。この箇所なのですが、これは愛を広げていけば博愛になり、慈悲を広げてゆけば大慈悲になるという話との類似があるじゃないかと感じた。


来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「夢の途中」は実際には「セーラー服と機関銃」と同じ楽曲であるが、次のようにも唄っている。

♪
今を嘆いても 胸を痛めても

ほんの夢の途中


「生活」と「人生」との差異は、この事だ。【生活】は「今」の切り取りである。それに対して【人生】とは生きてきた道程を総括している認識なのだ。苦しくても辛くても、それは「人生が夢だとすれば、それは、ほんの途中の一コマ」に過ぎない。付和雷同に、その瞬間その瞬間を刹那的に生きるという生き方をしたり、他人の言動に惑わされて、結局は自分自身の人生を後悔するようなものすべきではない。孤独を恐れるのは、孤独に鈍感であり、生活と人生との区別がつかないからである――と読める事柄を『光であることば』は論じている。

拙ブログ:「「大慈悲」と「博愛」
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「目に見えるものが全てはない!」ぐらいのセリフは、しょうもないレベルの地上波放送のテレビドラマの中のセリフでも使用されている。しかし、きっと深く意味を見い出そうとしているものではない。なんでもかんでも数字化して比較して取捨する事が正しいと教えられているデジタル化礼讃の世の中なのが現実であり、AIやアルゴルリズムを神として崇めるつもりになってしまっているのが令和の知識人の真の姿でしょう。

若松英輔著『光であることば』(小学館)では、「希望」という言葉について最も深く論じた人物の一人は新約聖書中の中に登場する聖パウロであろうと述べている。

「目に見える望みは望みではありません。目に見えるものを誰が望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」(「ローマの人々への手紙」8章24〜25節)

「苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望はわたしたちを裏切ることはありません」(「ローマの人々への手紙」5章・3〜5節)

苦難に耐えて、試練の中で私たちは苦しむ訳ですが、その苦しみの中から徳が生まれるという。この特については、別の箇所で儒教の「仁」「義」「礼」を上げているとおり、ああした徳は耐えている者の中に宿るのだと聖パウロはローマ人宛ての手紙の中で説いていたという。引用文は、その一節という事になる。(なので、引用は『光であることば』からの孫引用になる。)

このパウロは元々はユダヤ教徒であったのでキリスト教徒を弾圧していたが、啓示を受けて以降はキリスト教の伝道者となり、伝道の旅を続け大きな成果を上げた。殊に異邦人への布教を使命としていたいた。しかし、ユダヤ人の反感を買ったようでエルサレムで捕らえられた。捕らえられたパウロは、暴君ネロ時代のローマへ移送されて処刑されたという。


希望も孤独も苦難も試練も忍耐も、実は、どれも目に見るものではない。更に、そのように生きる中で、その者の中に生じてくる徳も目に見えるものではない。どれも観念や概念の世界である。そして、その事を若松英輔氏は以下のように解説している。

苦しみを生きるという試練が希望という徳を生む。それはけっして私たちを裏切らないとパウロは断言する。彼にとっての希望は、人が努力によって獲得する能力というよりも、大いなるものから与えられているものだった。このとき希望は、どこからともなく「宿る」ものものになる。(『光であることば』16頁)

この話、何気に浅野孝雄著『心の発見』(産業図書)を題材にして展開していた認識論&唯識論の解釈に似ているような気がする。目に見えるものというのは大した事がなく、我々は実体を実体として認識した気になっているが、実際には実体を直接的に感じる事は不可能であり、諸々の像として認識している。そして「実体そのもの」や「目的」、「結果」よりも「プロセス」の方にこそ、物事の本質を見い出そうとする。仏教もキリスト教も共通して「善く生きようとする事の実践」が説かれている。

つまり、善く生きようとする事で目には見えない徳が身に付くようになり、自ずと苦しみから解放されて幸福になれるという訳です。また、希望を見い出す者は実は苦難の中に生きる者であるという。もし仮に、何の苦労も悩みもないままに生きているとするならば、その者には希望を見い出しようがないじゃないか…という訳です。

観念的な話なのでピンと来ないかも知れませんが、結構、詰めてある語られているような気がする。というのは「努力によって獲得する能力というよりも」と言及している部分であり、これなどは霊性とかエートスとか、そういった血肉化する何かについての言及であるのが分かる。

どこかで誰かが「報われない努力はない」なんて力説している。いやいや、それは違う。報われない努力はある。目的とか目標を設定して努力している場合、その目的や目標といった結果を得られない事は現に在る。それと似たような観念的なはなしに聞こえてしまうが、思考の徹底の度合いが全く異なっている。プロセスにこそ、意義の本質があり、その者が直面する苦しみや孤独の中で徳が生じ、希望を見い出せるという話をしているのだ。

この話は裏返すと、一定以上の苦労をしないと、そうした徳は身につくものではないという話にもなってくる。しかし、昨今では「忍耐なんてムダ!」「辛抱なんて精神論は害悪だ!」のようになってしまい、結局はコスパ重視のようになってしまう。つまり、「忍耐せずに実体たる結果を手に入れたい」という思考回路になっているので、ごっそりと大元になる思想の部分が抜け落ちてしまっているのだ。


全く系統が異なる秋嶋亮著『日本人が奴隷にならないために』(白馬社)の中にも、似たような一節があった。インタビュアーから「教養のある者とない者との知性の差が絶望的に大きく開いてしまっているように見えるが?」と尋ねられての、秋嶋氏の返答が以下になる。

それを「知識ギャップモデル」と言います。だから物事を深く考える人は増々アウトサイダー化し孤絶を深めるのです。しかし歴史が示す通り、そんな知者の痛みが、やがて思想の軸となり、多くの人を照らすのです。だからむしろこのような時代に孤独であることを誇ればいいのです。(『日本人が奴隷にならないために』182頁)

マス大衆を巡っての原理は、本当は常に多数派は正解を選択できないというパラドックスから形成されており、しばしば多勢に無勢となってしまうものらしい。なので孤絶する事になる。しかし、歴史を考えてみると、むしろ、そちらの側の方から思想の軸が生まれ、最終的には多くの人々を光で照らすことになるという。まぁ、そんなものなのかもね。

秋嶋亮の著書には次のような指摘も為されている。

みんな絶望が浅いわけですよ。深く絶望しないと本当の希望は見えてこない。(『無思考国家』213頁)
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クラウス・シュワブ&ティエリ・マルレ著『グレート・ナラティブ』(日経ナショジオグラフィック)を読み始めたところなのですが、冒頭だけでも色々と頭を切り替えならない事が分かる。物事を考えるにあたっての物理法則からなる線形因果律が崩れ、量子力学的な複雑系の因果律になった事が冒頭で説明されている。これは、まだまだ、充分に拡散していない部分ながら、ポール・ハルバーン著・権田敦司訳『シンクロニシティ』(あさ出版)で徹底的に解説してもらった御蔭で、それなりについていけましたが、通常モードで、その話が通じるかというと甚だ疑問だし、テレビのような媒体を視ている限り、間違いなく今でも線形因果律で物事を語っている論者が殆んどのような気がする。実は、その複雑系の話が浅野孝雄著『心の発見』(産業出版)とも関係していて、どのような仕組みで我々が物事を認識しているのかが判明したが、改めて判明してみたら線形因果律は通用しないという内容であった。この事は、結構、大きな分岐点である事を意味している。何しろ、直線的な因果律、「AなのでBになった」といった具合の線形因果律が科学的にも通じなくなっていて、また、ホントに現実世界でも同じような事が起こっているという話なのだ。

単に常識が覆ったというのでは済まず、ずーっと燻ぶっていた不確実性などと呼ばれてきた問題が、一層、明確になってきたという意味なのだ。

『グレート・ナラティブ』は、ダボス会議(世界経済フォーラム)の必要性を提唱したクラウス・シュワブらが世界中のオピニオンリーダーと思われる50名ほどに声を掛けて、グレート・リセット後の世界、その可能性を論じたものとなる。既に第三次世界大戦は始まってしまっており、これについても宣戦布告がないままに始まってしまったようなものであり、早速、12日付の読売新聞あたりでもウクライナとロシアとの間で、クラスター爆弾使用の応酬になっており、その後が読めなくなってきているという記事がある。つい数週間前にクラスター爆弾の使用を西側諸国の政府要人らが認めてしまい、波紋が広がっていましたが、どんどん深みにハマってしまっている事が現在進行形でも確認できてしまうような御時世なのだ。政治家が語る国際情勢を真に受けていたら危険な事にもなりかねない。何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、そういう問題だ。日本からは経済界の大物などが出席しているものの、おそらく、結局のところ、環境問題を話しても金儲けの話に変換して持ち帰ってきているだけだから、どうしようもない。

さて、クラウス・シュワブは「複雑性」について、次のように述べている。

「複雑性」というキーワードが何度も登場し、それが世の中で起きていることの理解を難しくしているという意見をたびたび耳にした。政策決定者たちとの私的な会話では、「判断がつかない」、「何が起きているのかわからない」とよく言われた。無理もないことだ。複雑性は人々の知識や、物事の理解を超えたことを引き起こす。いままさに複雑性が増しているということは、政策決定者が広い情報を踏まえて賢明でベストな判断をしようにも、複雑性に圧倒されるかもしれないのだから。(『グレート・ナラティブ』31頁)

また、実際に次のように説明している。

世界は複雑で、状況に応じて目まぐるしく変化し、捉えどころのない、量子力学的な性質を持っている。(同29頁)

それについては、全くその通りなのだ。先に挙げたポール・ハルバーン著『シンクロニシティ〜科学と非科学のあいだ』は、そのタイトルにしている通り、今更ながらに、あのユングの「シンクロニシティ」を科学史解説本のタイトルにしているのだ。物理学でやってきたが量子力学になってみたら、線形因果律が通じない事が判明したのだ。これは、謂わば従来の科学が通用しないという次元があるという事を、(これまた)科学的に判明してしまったという事なのだ。

先週でしたか、米国議会に於いて「UFOについて政府は情報を隠している」という騒動が起こり、日本でもテレビ朝日あたりはトピックス的に余裕をぶっこいて報じていましたが、読売新聞はというと、とうとう報じなかったと思う。実は、ホントに報じるかどうか疑念を持っていたので国際面はチェックしていたが取り上げていない。おそらく、まだ、常識によって物事を判断してしまっているのでしょう。UFOなんて取り上げたら赤っ恥だと思っているのでしょう。しかし、物事は冷静に眺める必要性がある。余計な思い込みこそが、認知バイアスの正体であり、これまでの経緯を整理すると、〈調査していないと説明していながら実は調査していました〉に政府や軍の発表は変化してきているのだ。また、どれだけ内部告発があるのかについても冷静に検討する必要性がある。しかも、この問題、ロズウェル事件の前後からフェイクの技術が用いられており、情報を秘匿する為に敢えて胡散臭い情報を広めて、その胡散臭い情報の虚偽を暴く事で、深部の情報を秘匿してきたという流れが実際に確認できてしまうのだ。

いやいや、私だってグレイがどうのこうのという話については鼻でせせら笑ってきたし、今でも心のどこかでは虚言の類いと考えているかも知れない。しかし、説明不能な未確認飛行物体については否定しようもないし、現にNASAや軍も未確認飛行物体の存在を認めているし、一部の映像などは数年前から公開するようになっていたりするのだ。

ヒストリーチャンネルでは本日20時より、「バイオグラフィー」という番組で昭和天皇(ヒロヒト)の伝記に値するドキュメンタリーの放送を予定している。放送の並べ方にしてもヒトラー、ムッソリーニときて、天皇ヒロヒトになっており、読売新聞のテレビ欄でもアメリカがどのように昭和天皇を捉えていたのを知る好材料になる旨の論評がある。(私は20日21時からの再放送を視聴予定ですが…)。「バイオグラフィー」はエミー賞も受賞している番組であり、或る意味では注目の番組なのだ。

そして、その同局の「古代の宇宙人Season15」(最新版)では1986年11月17日に発生した日航機UFO追跡事件が取り上げられていた。日航機747型機が二つの光体にアンカレッジの北北東約770キロ、高度は1万6百メートル付近。謎の光体に追尾された時間は約30分程度。この事件に遭遇したのは日本人の寺内某という機長であり、当時の管制官とのやりとりの音声も残っていたが、何かしらの理由で圧力がかかり、同機長は地上勤務にさせれてしまったというものであった。同番組では音声テープを放送し、「こういうやりとりが実際に録音されており、テラウチは各機関にも正直に報告をしていたのに、何故、情報は歪曲させられてしまったのか?」というアプローチであった。ホントは不可解な現象は稀にではあるがホントに起こっているらしい。

同番組でも米国の国防総省かCIA何かが動いて情報を握りつぶした旨に解釈しており、「この日本人機長のケースでは、音声として管制塔とやりとりをしていたのに」と紡ぐ。つまり、ホントは引っくり返しようのない証拠があったが、機長の虚言か何かであるように処理してしまっていた事に「本当は決定的な証拠があったのに圧力で握りつぶされてしまったケース」の代表例として紹介していた。確かに管制相手に「謎の発光体に追い駆けられている」等の交信をしていた音声がある事を考慮すると、かなり生々しい目撃談話であったと考えるべきなんですよね。

また、長らく「トンデモ」と冠されてきた超古代文明の話にしても、従来の歴史観では決定的なまでに説明がつかないような遺跡が見つかってしまっている。これまで常識のように考えていた既成概念の方が、実は間違っていたという可能性が現実問題として起こっているという事なのだけれども巷間の反応は想像以上に鈍いように思える。

不確実性が顕著になってきている。これが何を意味しているのかというと、「こうする為にはこうすればよい」という線形因果律で描いた目論見が、悉くアテにならないという事を意味している。また、この説明には複雑系の話なので「バタフライ効果」という単語も使用されている。日本語で説明しようとすれば「風が吹けば桶屋が儲かる」の原理だと説明することになりますが、要は、よかれと思って、どこかのスイッチをいじってしまったら、何が作動するのか分からない状態であったりする。また、投資の分野では「ブラックスワン」という言葉がある。ジョディ・フォスターが映画監督をして、ジョージ・クルーニー&ジュリア・ロバーツを器用してみせた映画「マネーモンスター」内でも「ブラックスワン」という単語が使用されていましたが、これも予測不可能が事態が発生する事を意味している。もう、この世界、本当に高次化して相互依存が絡まり合ってしまっているので、ホントに予測不能、平たくいえばワケの分からない世界になってしまっている事が、あちらこちらで起こっているという事なのでしょう。

なので、これは一度、リセットしなきゃ駄目かも知れませんよという意見が真剣に検討されたりもしている。また、リセット後の世界として「グレート・ナラティブ」というワードが浮上している。少なくともダボス会議に出席するようなダボス階級の連中は、感度の鋭い鈍いはあるのでしょうけど、その可能性について少しは知っていると考えた方がいい。選ばれた者だけが生き残ればいいのだという選民主義的な考えで動こうとする人たちが登場する公算は、決して低くない。

【ナラティブ】とは耳に慣れない英語でしたがスペルは【narrative】だそうで、翻訳すると「物語」の意味になるという。しかし、その物語は【story】とは異なる意味合いらしく、結末がどうなるか分からない物語の途中を意味しているという。まぁ、来生えつこ&来生たかお姉弟的には「ほんの夢の途中」って訳だ。生前の者には自分の人生の結末が分からないように、世界もどこへ向かおうとしているのか分からないという意味だ。また、反面では認知を語る哲学の話にも関係しており、我々は、どう足掻いても言語化して物事を思惟するので、何某かの物語にしないと時系列を理解できなくなってしまう事と関係している。

「グレート・ナラティブ」とは「偉大な物語」の意であるが、真意からすると「どのような結末になるか分からない偉大な物語の流れ」という意味合いらしい。

拙ブログ:運命論と決定論
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只者ではなさそうだという印象がありましたが、実際に目を通してみて、この人は突出しているかも知れないという印象に変わった。作家の若松英輔氏の「言葉の力」は傑出している。そして、それらは悉く現代人が忘れてしまっている「心の在りよう」の話になっている。

【事実】と【真実】との差異について考えた事があるだろうか? 【事実】とは明鏡国語辞典を引くと「実際に起こった事柄。また、実際に存在する事柄。」と説明されている。まぁ、その通りでしょう。一方の【真実】については「表現されたものの内容にうそ偽りがないこと。また、本当のこと。」と説明されている。実際問題として両者に明確な差異を見い出す事は難しいのですが、若松英輔著『光であることば』(小学館)の中で、遠藤周作は【事実】と【真実】との使い分けをしていたと触れている。それには根拠もあり、遠藤周作はユング心理学の研究者であった河合隼雄と親交を温めていた事もあり、かなり正確に【たましい】を理解していたというという。

先に河合隼雄の見解を理解しておく必要がありますが、ギリシャ語のプシュケーが心理学のサイコロジーの語源になっているのだから、本来的には「心理学」という分野は、心理でもなく精神でもなく霊魂でもなく、たましい(プシュケー)を学問する事だったのではないかという。そして、その「たましい」に最も深く接近していたのが、かのカール・グスタフ・ユングであったという事になる。そのユング心理学の第一人者が河合隼雄だったのだ。

河合によれば、私たちが現実と呼ぶ世界において、「たましい」はどこにあるのか、という問いは成り立たない。しかし、そのはたらきは、さまざまなところに確認できる。「たましい」とは実証的な事実ではなく、経験的事実であるというのである。(『光であることば』108頁)

つまり、河合隼雄的には実証的事実が事実であり、経験的事実が真実という事になる。こうなってくると、真実を意味する経験的事実の方には、その者の思い込みが介入するのではないかと疑いたくなる。真実よりも実証的であるという事実の方が重い意味になってくる。しかし、そういう訳でもない。真実の方は実証は困難であるが否定しがたい強度を以ってして、その者が経験した事実を特に強調する意味合いで、つまり、事実を超えての真実だと言っているのだ。

経験知や経験則を昨今では、その者の主観に拠るので客観的事実ではないかのように認識してしまう。しかし、この辺りの話は深掘りすると主観と客観という区別は、便宜上、使用しているものであり、物凄く正確を期して語ろうとすれば、結構、曖昧なのだ。そして、その事は河合隼雄も気付いていたらしく、『宗教と科学の接点』という著書の中で、次のように記していたという。

たましいはもちろん実体概念ではない。それは時間、空間によって定位できない。しかし人間はたましいの作用、あるいは、はたらきは体験する。

認識システムを細分化すると、「花瓶を見ている」は「花瓶を見ている自分というものを認識している」になってしまうという。「見ている」というと一方的に見ているような気がするが、正確を期すと「見ているつもりになっている自分の存在を認識している」となり、その視線の先にある花瓶の像を認識しているという事になる。この一連の説明でも、際どい話になっているのですが、この不可解な認識コードの中に、既に神概念が組み込まれている。というのは、その者にとっては自らの感覚によって感知した事柄が全てであり、つまり、経験した事実こそが真実であり、しかも、そこには、その者が神概念や良心に背くことなく、ありのままの事実を真実だと表現している事になるから。

神を信じる者や、良心の呵責に苦しむ者からすれば、それは第三者機関である神概念による検閲を通して、真実を真実だと訴えているという事になる。何気なしに「天地神明にかけて、この証言に嘘偽りはない」のように我々が語る事も、それらを傍証している。また、天網恢恢疎にして漏らさずのような言葉にしても、神様は真実を知っていなさるという「たましい」の検閲を経ているのだ。

更に、解読不可能と考えられている西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」についても『光であることば』は言及している。西田幾多郎は自らの論文の中で「神のはたらき」に言及しているという。西田幾多郎の文章表現が異常なまでに難解なので、読んだ者、読んだ者が「よく分からなかった」と評する事になるが、この「絶対矛盾的自己同一」という言葉が、古代インドのウパニシャッド哲学が起源であるという「梵我一如」、スピノザ哲学がいうところの「神とは自然であり、自然の中にいる自分が自然の存在を否定するのは不可能である」に修正すると、たちどころに絶対矛盾的自己同一の意味が理解できる。

西田幾多郎は「個物的多」や「超越的一」という言葉を残していたらしいので、おそらく、絶対矛盾的自己同一とは、梵我一如のような事柄を表わしていたらしい事が分かる。つまり、宇宙も自分も一つのようなものであるという意味であり、そんな事は「絶対矛盾的であるが、それなのに現に自己と同一だ」という意味で解釈すると、そうとしか思えない。

語られていることは素朴だ。この世界が、超越的なものとともにあることによって「真実」であるということは、万物がどこまでも神とともにある、ということでなければならない。私たちは神とともにあるとき、はじめて人になる、というのである。

西田が語っていることは複雑ではない。世界がこうして存在していること、私たちがこうしてここに存在しているという事実こそ、もっとも端的な神の証明である。そう考えた西田にとって「ありのまま」とは、神とともにある世界を意味したのはいうまでもない。
(『光であることば』128頁)

悪知恵が働く者は「嘘も突き通せば真実になる」なんていう。まぁ、そういう事も現実問題として起こる。しかし、それは神意に背き他者を欺く〈捏造〉という行為であり、その者の浅ましさの為せる業(わざ)となる。他者を欺くことは可能かも知れないが、真実は真実であり、神を欺く事は出来ないだろうという具合に、我々には「たましい」が作用するという事になる。

「たましい」とは、その者の発言内容とは関係なく、また、表層的な心理とも関係がないらしい。また、ガイスト(霊魂)でもないという。河合隼雄はマンダラのような図形、そうした配置に深層心理が関係しているという風に発想し、箱庭療法と呼ばれる精神療法を展開させていた事でも知られる。精神を病んで河合の心療を受けた或る者は、河合隼雄は様子をうかがっているでもなく、心理を読もうとしているのでもなく、確かに存在そのものと向き合うようにして、その場に居たと証言しているらしい。まさしく深層心理学的なアプローチをしていたという訳です。
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実際に現行世界で主導的立場に立っているかも知れないオピニオンリーダーたちへのインタビューによって構成されたとしている内容がクラウス・シュワブ&ティエリ・マルレ著・北川香訳『グレート・ナラティブ』(日経ナショジオグラフィック)に記されている。日本では2022年刊行であり、つまり、「アフターコロナの世界」を論じた内容という事になる。そしてまた、【ナラティブ】だなんて聞きなれないカタカナ語だなと私は感じたのですが、2〜3日前の読売新聞に掲載されていたオピニオンを論じている学者が「ナラティブ」という単語を使用していた事に気づいた。物語をカタカナで表現する際に「ストーリー」と言わずに「ナラティブ」と語るのがトレンドになっているという訳だ。

また、結局のところ、これが現行体制下のオピニオンであり、思うにクラウス・シュワブらのまとめた見解を日本の学者が目にして日本国内に紹介するという形で、知的マウントの構造が出来ているのかなと感じてしまった。これは日本のビジネスマン文化が日本語で表現が可能なものを敢えてカタカナ語を使用することで、暗に「ボクはビジネスを勉強しているんです。日経新聞を読んでいるんです」という具合に努力の痕跡をひけらかす心性にも通じていて、結構な島国根性の発露であるよなと嫌味にも考察できてしまう。だって、ホントでしょう? 代用不可能な概念をカタカナ語にするのは仕方がないと思うけど、昔からある日本語で足りるような事柄を表わすのであれば、わざわざ外来語を使用するまでもない。

また、揚げ足をとる訳ではなくて『グレート・ナラティブ』には極めて根本的な問題があると感じ取れてしまう。環境問題に顕著なのですが、環境問題のような事柄については地球規模のグローバルな問題であり、地球環境とは公共財だと認識する必要性があるという。分かる。しかし、それを実現する為にはインセンティブが必要であり、ルールが必要であり、ペナルティが必要であるという提言へなってしまっている。「万人による万人の戦争」という思考に現行文明は偏ってしまっていると説く。そのあたりは「いいぞ」と思う。賛同できる。しかし、そこから先が平凡で、「これはよくないので協調性を培うべきなのである、さぁ、枠組みをつくってルールを設定してルールを守らなかった国にはペナルティを与えるようにすればいい」、こういう発想しか出てこないのだ。何故って、何故なら既にそこに集まっているオピニオンリーダーたちはグローバリストだから。

そして彼等は実質的には合理主義的を尊ぶ経済至上主義者であり、神殺しの系譜の成功者たちだから。実際に『グレート・ナラティブ』に目を通していても文化人類学的なアプローチは出てこないし、生物神経学や動物神経は語られていても、それが引用されているのは機械論的な説明であり、「心理」であるとか「霊性」であるとか、現にあるが語るハードルが高いものについては悉く無視してしまっている。「協調性が大切なのだ」とか「気遣いが重要なのだ」というところまでは論じるが、次に来るものがルールで規制して罰則を課せばいいという知的体系になっている。

「事実と真実との差異は何か?」や「知と識の区別はつくか?」といった問題では、いずれも、その者の経験を伴なった何かが物を言う。ただただテキストで教え込まれた知識は知識に過ぎないが、経験を伴なって身体化された知識は単なる知識というよりも知恵の最大化のようなものであるが、それが理解できない。また、テキストで習得する知識とは謂わば教条主義による知識の高低であるが、後者は、その者の本体に備わっている知識の高低という事となり、後者こそが霊性までもが伴った知的な生命体であるという事を意味している。機械論は典型的な「Aが作用してBになる」のような線形因果律から成っているが、複雑系は「目論見とは別に何がどう作用するか分からない。何故なら何がどれを左右する因子なのか世界は連環からなっているので予測不可能だから」という非線形の連環因果律だから。

通り魔が凶行に及んだのは或る種の逆恨みが主たる原因であるが、おそらく厳格に語ろうとすれば、その通り魔が通り魔に到るまでには諸々の要素が組み合わさっている。直近のイライラの蓄積、向こう3〜6ヶ月間の強度のストレスであるとか、生まれ落ちたその時から始まっているストレスの蓄積だって影響しているだろうし、仮に凶行を決意した日の朝に誰かが親切な言葉をかけていたら、或いは仔犬や仔猫の愛らしい姿とか草花の美しさに心を捉われる等の何かが起こっていたら、その通り魔は凶行には到らなかったかも知れない。ホントはそんな細々とした分析までは出来ないから、通り魔事件を語る際には、「これは、これこれこうなっていた事に対して逆恨みした犯人が社会に復讐をすべく凶行に及んだものであった」のように理解することで、物事を処理しているのが実際であり、便宜上、我々はそのような方法で解釈しているという事なのだ。これが言葉とか意味によって物事を理解する宿命を負っている我々のロゴス世界の限界なのだ。

陰謀論を排除する為に「切り取り」を意味して全体像から一部だけを切り取ることをフレーミングなどと呼ぶようですが、ホントはそれと同じフレーミングをしている。うーん、これは切り抜きという意味ではトレミングというニュアンスもあるかな。完全な背景までは捉えることができないので、どこかで切り取らざるを得なくなってくる。

世界はロゴスで出来ている。この場合のロゴスは、言葉であり、意味であり、概念である。我々はそのような目に見えぬ事柄を観念化する事で認識し、世界を構築している。だから謂わば、世界は幻想世界として存在している。この幻想には大袈裟なレベルでの幻想も含まれていますが、身近な部分にもアレコレと介在している。中には「如何なる理由があっても暴力は許されない」と信じている人たちも存在している。自分が刃物を持った暴漢に襲い掛かられた場合などは想定していないらしい。これは皮肉であり、本来的には自然法はバーリトゥード(なんでもあり)であり、殺しに来るものがあるのであれば逆に殺さねばならない場合もあると考えるべきですが、教条主義的な正義を掲げる人たちは、この陥穽にアッサリと落とされてしまう。「如何なる理由があっても暴力は許されない」というのであれば、そうなってしまう。

「法」と一言で語られてしまうものの、実際には「人定法」と「自然法」とでは異なる。中には、この教条主義的な正義を盲信し、体よく支配者に飼い慣らされている人たちも少なくないのが実相でしょう。暴力を禁止しようとするのであれば、それは相互性原理に基づいていなければならず、互いに暴力を振るわないという誓約が必要となり、また、それは同時に信義則に則って履行される事が条件になる。片方が暴力を行使する事も厭わないという態度なのであれば、それは実際には暴力を容認しているという事であり、もう片方も暴力を行使せざるを得なくなるという風に連鎖するのが実際なのだ。核不拡散条約は非保有国が核兵器を保有しないとする事と同時に保有国は核軍縮を進める事が条件であったが、どうにもこうにも進められていない。そもそも、その辺りが不完全なのだ。

「協調性が大切である」という場合は、上位下達で命じるという手法ではダメなのは歴然でもある。しかし意識高い系は「覚醒すべき!」だとして「法律を改正させてもらいます!」と展開させ、典型的な上位下達で物事を発想している。しかも、結局のところ、彼等はインセンティブだなんだと言い出して私利私欲塗れとなり、一部の者に負担を押し付けて、任意の者たちを効率的に富ませるという配分をし、尚且つ正当化している。築地移転騒動に係る問題から東京五輪ワイロだらけで予算オーバー問題まで、隅から隅まで利益誘導だらけになってしまうのがオチだ。しかも責任らしい責任も取らないで済んでしまうという有り様なのだ。

トマ・ピケティが指摘したのは、働く人たちよりも資本家階級の方が効率的に稼げてしまっていますよ…という事であった。自分たちは贅を尽くしてエンジョイのみをする人生を歩む事を渇望し、本来であれば自分が負うべき負の側面、例えば日常的な面倒な仕事については、資本主義原理によって経済的弱者に押し付けているという構図になっている。既に勝敗の決したモノポリーを虚しく続けているようなものだ。

決して協調性や社会性は高いハードルのものではない。人間は協調性や社会性を有しているというのが近年の研究で実証されてきた。この事は『グレート・ナラティブ』でも紹介されている。であれば、我々はきちんと、基本的価値観の修正、そこからやり直すべきではないのか? 私利私欲塗れの発想で、万人による万人の競争をやっている事、やらされている事はホントは不自然だと考えられているのだ。


で、その可能性を〈愚直なまでに真面目な人たち〉に見る。現代文明が喪失しているものは道徳であるとか人倫であるとか他者に対しての思いやりであり、且つ、それらを前提としたバランス感覚ではないのか? 〈人間の本性〉と向き合うべきではないのか?

浅野孝雄著『心の発見』(産業図書)は、ヒトの心の在りようを半ば解読してしまったかのような内容である。どのように脳が機能しているのか等の仕組みが分かって来てしまったのだ。で、思いも寄らぬことに、太田龍の本でもないのに爬虫類人類を思わせる話が出て来てしまう。ヤーク・パンクセップはヒトの脳が動物の進化の延長上にあると捉え、爬虫類脳→旧哺乳類脳→新哺乳類脳という風に脳の進化の道筋を考慮しながら情報神経科学という分野から、ヒトの脳を科学している。このテの話は旧皮質と新皮質などで基本は誰しもが知っている話かも知れない。

しかし、現代人の生活は思いの外、怖い部分がある。現行文明は、自己を再現なく拡大させてしまっており、どうも〈人間の本性〉として結局のところ、爬虫類脳を満足させる方へと近づいてしまっているという悲観論が出てしまっているのだ。

テレビ・映画・大衆音楽などの公共的メディアに対しては、浅薄な辺縁系・爬虫類的娯楽へと我々を落し込むのではなく、精神の向上を目標とするように仕向けなければならない。パンクセップは、「我々は脳全体を情動的に教育しなければならないが、それを成し遂げるためには、人間の心の生物学的源泉とうまく折り合いをつけることを学ばねばならない」という言葉で上掲書を結んでいる。(『心の発見』311頁)

切り抜きなので、その意見にしても上位下達の押し付けだろうと反論できてしまうが、実は背景はそうではない。重厚な認識システムを経て、どうすべきかという箇所で、その発言に到っている。善や悪であるとか、他者を思いやる気持ちであるとか、それらが欠如し、ただただ、快不快の追求をしてしまっているのが現代文明であり、人々もそのように進化していくのかも知れないが、その未来を悲観して、そのような言及になっているという箇所である。本当はごくごく当たり前の話であり、伝統的に「その年齢にもなって、ものの善悪も分からないようでは困る」という具合に人類は、何が善で何が悪かを親から子へ、或いは年長から年少へとロゴスで継承してきたのが実際なのだ。この梯子を外してしまったのは、ごくごく最近であり、カウンターカルチャーが過剰となって政治的主導権を握り、壊すべきではない伝統を破壊してしまった事と関係している。

『心の発見』の著者である浅野孝雄氏は埼玉医科大学名誉教授でありながら仏教への造詣も非常に深く、著書中にも様々な解説が為されているが、やはり、その問題を語らざるを得なくなる。

個人の能力を最大限に発揮することが、近代以後の西欧における科学・技術・文化の目覚ましい発達を促し、人類の福祉の大いに貢献してきたことは事実である。しかし、自我の拡大が個人的・集団的欲求の充足という方向へ傾いた場合、それは単なるエゴイズム、あるいは国家主義・民族主義と化してしまう。自我の限りない拡大は「神」さえもその内に取り込んでしまい、そうしていかなる残虐な行為をも正当化する「大義」が成立する。このように拡大されたエゴイズムが、個人・集団・地域社会・国家・民族という様々なレベルにおいて様々な形態をとって発現し恐ろしい災厄を引き起こすことは、世界の歴史が示すところである。

このような、自我の拡大を目指す理性の暴走こそ、パンクセップが最も恐れているものである。理性の途方もない発達は、自然そのものを急激に破壊しつつある。科学の発達がもたらせた核戦争・自然破壊・地球温暖化等々は、すでに現実的な危機となっている。ここで、理性が作り出した地球の危機に対しては理性で対処するしかないと考えることが、西欧的理性の顕著な特質である。
(『心の発見』314頁)

西欧的理性は自らの力で問題を超克しようとする。これは悪い事ではないように感じるかも知れませんが、ここに陥穽があるという文脈で論じられている。というのは西欧的理性とは、神殺しの系譜、つまり、神は死んだ、我々が神になればいいのだという風に発想してきた理性だから――。だから「自我拡大を目指す理性の暴走」をこそ、最も恐れるという話をしているのだ。

更にトドメをさせば、次の問題になる。

現代西欧社会における規律の観念は、功利主義のジェレミー・ベンサムが考案した「パノプティコン」の発想と結び付いている。それを刑務所から一般社会へと拡大したものが、現在急速に普及している衆人監視システムであるが、その必要性が増大していることの根本的な原因は、西欧社会が「超越者」である「神」を失ったために、自我の拡大に対する歯止めが失われてしまったことにある。一旦エゴイズムにとりつかれて走り出した個人や集団を、理性の力によって、あるいは外在的な力によって引き止めることが不可能なことを、人類はまざまざと思い知った。そのために、巨大なコンピュータに接続されたパノプティコンによって人々の生活を監視し制御するというSF的な世界が現出したのである。しかし、監視と処罰によって、社会・世界をコントロールすることができないことは既に明白である。(『心の発見』314〜315頁)

この現代文明の危機には、きっと西洋文明(西欧的理性)では対応できないだろうというのは古くから言われてきた言葉でもあって、五島勉の『ノストラダムスの大予言』(�兇��靴�な。そこは重要ではないので調べませんけど。)でも「東洋思想のようなものが台頭しない限り、世界は滅ぶ」のように指摘されていた。また、実際に「カール・グスタフ・ユング」という名前も挙げていたと思うから漠然とは35年ぐらい前には、そんな風に考えられていたのだ。成長と発展を追い求め、しかも自我を拡大させながら突進してきたのが現行文明の原動力であったが、五島勉に限らず、いつかの日か限界がくるだろうと考えられてきたのだ。


さて、世界はロゴスで作られている。これは古代ギリシャ哲学に始まるものであり、平たく言えば、世界は言葉(ロゴス)によって形成されているという考え方になる。言語化しない限りは我々は理解する事が出来ず、言語化された何かで我々は物事を認識しているのだから、確かにそうなる。具体的には、ロゴスとは言語だけではなく、思想や概念も含みますが、そういう事になる。

キリスト教にも「三位一体」という言葉があって、それは「神と子と聖霊」であるという。諸説あるので説明に苦慮しますが、基本的には「創造主の言葉、キリストの言葉、聖霊の言葉」のようになったりする。神と子が、それぞれ創造主、キリストであるのはいいとして、はて、最後の「聖霊」とは何であろうか? 

この問題に若松英輔氏が挑んでいる。若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)に拠れば、新約聖書が書かれたギリシャ語では聖霊を意味する【pneuma】(プネウマ)という言葉だが、それは時には風を意味し、場合によっては息吹を示すのだそうな。つまり、「聖霊」とは各地に偏在しており、風のように流れていくものだという。また、旧約聖書の方には聖霊という言葉が見えず、「霊」なのだそうな。つまり、新約聖書で風の意味で「プネウマ」という言葉が用いられ、風のような性質であるという意味から聖霊という意味になったらしい。そして「聖霊」は英語になると【Holy Spirit 】や【Holy Ghost】とになるという。

この風のように各地に偏在している聖霊とは何であろうか? 広辞苑では「人類の一致の鼓吹力となるもの。助け主。慰め主。」と説明している。神(ヤハウェ)も子(キリスト≒救世主)も聖霊といったものは時間や空間は関係なく、おそらく死滅なども超越した何かだと言わんとしたものらしい。つまり、神の言葉も救世主の言葉も、また、風のように偏在している聖霊の言葉も永遠に作用する何かを意味しているという。いやいや、キリスト教も実は古代ギリシャ哲学を踏襲しており、ロゴスから始まっているのだ。

イスラム教とキリスト教とは同じ神を崇めている。イスラムの聖典『コーラン』にもイエスとマリアは登場するのだそうな。イエスは「イーサー」と発音し、マリアは「マルヤム」という発音に変化するのだそうな。

そして有名な受胎告知のシーンもあるという。キリスト教の場合は天使ガブリエルが告知したという具合に語られるシーンですが『コーラン』になると、意外な展開だという。マルヤムは天使の言葉によってイエスを身籠った事を知る。天使はマルヤムへ言った。

「かしこくもアッラー様の嬉しいお告げじゃ。(お前は)神から発する御言葉を(産みまつるであろう)。その名はメシア。マルヤムの子イーサー。その御方は現世にても来世にもて高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう」(孫引用になりますが、訳は井筒俊彦訳『コーラン』上巻のものらしい)

マルヤムに対して「汝は神の御言葉を生むであろう」と言っているのだから、イエスとは「神の言葉」と同義である事が分かる。

他方、新約聖書では天使ガブリエルがマリアに受胎告知をするが、マリアはそこで天使から「汝は聖霊の子を身籠った」と伝えられている。

マリアは「言葉」を身籠った?

ヨハネ伝の冒頭は「初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。み言葉は初めに神とともにあった。」だという。確かに言葉は神と同一視されていた可能性がある。その場合の言葉は、現代人が使用する発する狭義の意味での「言葉」ではなく、ロゴスに近いニュアンスの言葉であったのでしょう。いやいや、『イエス伝』に拠れば、イエス・キリストにつていは何となく西洋の人をイメージしているが実際には中東の人であった筈だとし、今日のキリスト教は西洋化したキリスト教であり、原始キリスト教の舞台になるのは中東であっただろうという。そして最初から救世主(メシア)として生まれて来たという風に伝わっているらしい。

確かに現代文明は神を殺し、人類が神のように振る舞っている文明である訳ですが、それは元より世界の否定のような気がしないでもない。
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『グレート・ナラティブ』に記されている現状分析から、幾つかを引用として書き残してみる。

経済学者のブランコ・ミラノヴィッチは、次のような解決策を提案した。

自国の価値観を他国や他の社会制度に強制することが少なくなれば、世界はよりよいものになり、紛争も減るだろう。多くの紛争は、とくに共産主義崩壊後の欧米で強まった、欧米のやり方がベストであり唯一の姿であって、誰もがそれを目指すべきだというある種のおごりが原因で生じている。それが他国への多くの悲惨な介入を招き、最終的には中国との対立に波及して戦争の可能性も生じているのだ。私たち全員にとって大切なことは世界平和だ。平和がなければ、これまで私たちが話してきたようなことはすべて意味をなさなくなる。だが人々は時としてそれを忘れてしまう。とくに、自分たちが戦争の代償を負う必要がなく、自宅でくつろいだり、子どもたちを学校に送り迎えしながら、爆撃機に喝采を送る状況であればなおさらだ。
(『グレート・ナラティブ』144頁)

こういった主張は水面下には渦巻いているところもあるのでしょう。誰がポリコレに頼って言論統制をしている自称リベラルを評価できるのかって話になってきてしまう。秋嶋亮著『日本人が奴隷にならないために』(白馬社)あたりだと現行のリベラル陣営は既に帝国主義的なファシズムになっていると指摘しており、結構、否定しにくいのだ。

また、次のような意見も記されていた。

イギリスの中央銀行であるイングランド銀行前葬祭のマーク・カーニーは2021年に出版された著書『Value(s)(価値)』(未邦訳)の中で、資本主義がより公正でレジリエントな世界を生み出すに至らなかったのは、市場の価値と人間の価値の間に制度的な「ずれ」があったからだと論じている。市場価値とは、市場価格のないもの、つまり人間の価値を除いて、すべてのものに価格をつけることだ。しかし、私たちは市場社会(単に市場経済というだけでなく)で暮らしており、そこではあらゆるものについて、価格がそのまま価値を表わすようになりつつある。そのため、社会がうまく機能するために重要な道徳的資質に、どう価値をつければいいのかわからなくなってしまっているのだ。

誠実さ、連帯感、公正さといった、社会が共有する価値観や確立された道徳的原理は、人々を繋ぐ接着剤であり、信頼によって社会を機能させ、繁栄させるものだ。
(同152頁)

この箇所などは「斎藤幸平」や「柄谷行人」、或いは道徳に沿った経済論という意味では、アダム・スミス、そのアダム・スミスを解説して世界平和を訴えているノーム・チョムスキーにも近い意見のようにも思える。

しかし、『グレート・ナラティヴ』の著者たるクラウス・シュワブは164頁以降になると、全く正反対のアイデアを主張している。コロナのパンデミックによって「官」の重要性が判明したとして、いわゆる「大きな政府」を創設すべきだという主張になっている。(これが164頁前後)これは、中々に衝撃的な裏切りにも感じましたかねぇ。ハヤカワ文庫のSF小説などは沢山引用されているのですが、AIテクノロジーや遺伝子エンハンスメント(遺伝子を操作して能力を拡大させる技術)などにも賛成する立場であることを表明している。

クラウス・シュワブは50年前から「ステークホルダー資本主義」というアイデアを持っており、簡単に説明すれば、それはステークホルダーの利益のみを考えてゆけばいいという考え方である事を認めている。1970年代に発表した際には猛批判に晒されたが、2000年代に入ってからは株主への還元を主眼とする新自由主義的な資本主義が実際に主役になり、形としてはステークホルダー資本主義になってきているという。そして改めて「ステークホルダー資本主義」を打ち出している。これは読んでいても驚くレベルのどんでん返しですかね。協調体制の必要性であるとか道徳であるとかは、どうでもよくなってしまうのだ。平たくいえば「強欲は善だ」という路線でいいのだという話になるから。

因みに米国のバイデン政権は「ビルド・バック・ベター(よりよき再建)」と「米国家族計画」を国内政策の中心に据える方針だという。欧州委員会は何が何だか不明であるが福祉を保護して経済統合を推進することを目的とし、日本の岸田政権は「新しい資本主義」政策で所得の再分配に重点を置くなんていう話にまで触れられている。もう、ホントにそういう方針で動き出してしまっていますワな。

既にダボス会議(世界経済フォーラム)では標準化したESGパフォーマンス指標を作成しており、その指標によって「地球的価値」や「社会的価値」が測定できるようになっているという。その上、次のクダリがある。

社会的圧力とアクティビズムが高まれば、企業はいっそうステークホルダーの価値を受け入れるようになる。この方針に賛同しない企業も、方針を転換するよう「強制」されることになるだろう。(同187〜188頁)

引用文中にある【アクティビズム】とは「活動家たちによる活動を主体とする何か」の意味であり、【ステークホルダー】とは「利害関係者」の意味である。ダボス階級の人たちが決定したところでは「活動家を擁しての社会的圧力によって企業を動かす」って事ですが、これらのイヤらしさはウンザリするほど予見できてしまう気がする。

こりゃ、厄介ですなぁ…。結局のところ、既定路線の新帝国主義的グローバリズム対反帝国主義的反グローバリズムの対立が激化するって事なのだろうしね。
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ひょっとしたら人類史に残る殺戮劇へのカウントダウンが始まっているのかも知れない。一縷の希望的観測から22時からのテレ朝「報道ステーション」を視聴してみましたが、内容は案の定という内容でした。誰も何も批判することなく、自らの賢さをひけらかして、僅かに良識派ぶるかのようなニュアンスを漂わせ、次のニュースへ。このキマリの悪さというのが、この2〜3日間は続いている。ジャニーズ性加害問題では、忖度をあれほど、こっぴどく叩いていた人たちが、今は見事なまでな忖度をしてみせている。結局のところ、誰もホンモノの圧力には逆らえないって事なのでしょう。昭和末期から平成初期ぐらいであれば、変わり者の文化人や気骨のあるジャーナリストあたりが何某かの発言をしてくれたものと思いますが、今日的な炎上を回避しなければならない言論環境では誰も異論を唱えない。なので、結果として目立っているのは報復攻撃を支持する声ばかりになっている。しかし、「21世紀がこれでいいんだろうか?」と気付いている者は潜在的には少なくないと思う。

(念の為に触れておくと、ブリンケン国務長官の「私は一人のユダヤ人として、ここに来ている」という発言は、おそらく、日テレ24時間ニュースチャンネルあたりで放送されていた一コマであった。しかし、「羽鳥慎一モーニングショー」と「報道ステーション」ではブリンケン国務長官の会見の映像を使用していたが、その箇所は見事に編集でカットされていた。)


数日前にヒストリーチャンネルで「コロッセオ」についての番組が放送されており、そこでローマ帝国からキリスト教徒が迫害されていた時代の逸話が取り上げられいた。

当時のローマ帝国はギリシャ神話が土台になっているので多神教であり、かの日本映画のように公衆浴場で人々は賑わっている。そこへ現れたキリスト教徒たちは、神々を信じるのではなく、一つの神を信じるという一神教だというのでローマ帝国の有力者たちから改宗を迫られている。こちらは遠藤周作の原作をマーティン・スコセッシが監督した「沈黙」にも似たシーンがありましたが、改宗しさえすれば命は助けてやるという詰問である。しかし、その伝道者は改宗を拒否した。皇帝は死刑にするのはしのびないと思い、「拒否すると死ぬ事になる。回答を翻す事も認めるが、どうだ?」と訊くが、その伝道者は改宗を拒否したという。かくして、その伝道者はコロッセオに送られた。当時のコロッセオは闘技場であり、殺し合いをローマ市民に見せる場であった。その伝道者は生きた雄ライオンの前に引き出された。ライオンと殺し合いをせよ、そして、おそらくは噛み殺されよというマッチメイクであった。当初、闘技場に入って来た雄ライオンは伝道者に向かっていかず、その闘技場内で寝転んでしまった。最終的には、そのライオンを係の者がけしかけたので伝道者は噛み殺されたが、最初にライオンが寝転んだ事が話題になったという。キリスト教の伝道者は何かを持っているのではないか――と捉えたローマ市民もあったらしい。安っぽく言えば、それが当時のキリスト教が持っていた「愛」というものであったと思われる。

キリスト教が説いた教えとは何であったのか? ホントにキリスト教はユダヤ教と同じように唯一神を崇めよという教えであったのか? それはイエスがユダヤ教の異端であったから、そのようになっているだけではないのか? ホントにイエスが創造主なんてものを説いたと?

この問題ですが、思うところがあって今夏に若松英輔氏の『イエス伝』と『光であることば』に目を通した。イエスの実像というのは、通説とは異なっているらしい事が記されている。そして、ところどころに奇妙な事がある。あの本邦の哲学・思想の分野では随一の碩学であった中村元が、ゴータマ・ブッダの逸話とイエス・キリストには偶然とは思われないような逸話の一致があると指摘していた事であった。若松英輔氏は「東洋思想の専門家であった中村元が仏教びいきにしたと感じてしまうだろうが…」と、わざわざ冠して、その説を取り上げている。実際問題としてブッダの方が約五百年ほど古い時代に登場した聖者なので、何某かの理由でブッダ伝説が中東まで届いていたのではないかという。五百年もあれば、そういった可能性だって否定できないという訳です。

また、原始キリスト教は、むしろ、グノーシス主義に近かったと考える事ができるという。先述したようにローマ帝国は、或る時期まではキリスト教を迫害していたのだ。それがコンスタンティヌス一世の時代にキリスト教が庇護されるようになり、ヨーロッパにキリスト教が広まったというのが歴史であり、今日的なキリスト教の姿とは、ヨーロッパ化したキリスト教、もしくは西洋化したキリスト教だという事になる。

更に「ヨーロッパ」を語るに当たっては、その自己同一性に係るアイデンティティとして「ギリシャ神話」、「ローマ帝国」、「キリスト教」がヨーロッパ史に欠かせないが、現行の西洋文明の主権者はゲルマン系と呼ばれる北ヨーロッパから南下してきた人たちであるが、彼等はローマ帝国を滅ぼした側でギリシャ神話を包摂した歴史的遺伝子を持っていないし、また、キリスト教にしても体制維持に便利だからと取り込んだ側である。そして指摘されているように偉大なるローマ帝国の歴史があったのに、ヨーロッパは中世までは暗黒の歴史を歩んでおり、ローマ帝国時代にあった橋や道路、水路なども碌に整わぬままの数百年間がある。そして中世まで「黒死病」や「魔女狩り」といった暗黒の歴史を歩んできたのがヨーロッパの実相であったりする。

(近年、「欧州の中世にだって暗黒史だけではなかったぞ」という指摘も登場していると思いますが、総じて通説としては、そのように語られている。ギリシャ神話はヨーロッパ? キリスト教はヨーロッパ? と考えていくと、確かに若干のズレがある。)

現行のヨーロッパとは西ヨーロッパであり、本格的に歴史で活躍するようになるのは大航海時代であり、それに引き続く海賊の歴史であったりする。悪い事だけではないと思いたいが、それは侵略や略奪の歴史であり、アステカ帝国を滅ぼして征服し、マヤの残存勢力、そしてインカ帝国を滅ぼして征服。その後は帝国主義と呼んだ方が明確になりますが、植民地支配に奴隷貿易とやって、東インド会社、更にはアヘン戦争、そして日本に対しての黒船来航と続いている。そして膨大な犠牲者を出した二つの世界大戦を経て、時代は「現代」という事になりますが、21世紀になってまたまた雲行きが怪しくなってきている。

さて、イエスは「隣人愛」や「博愛」で知られるように「愛」を説いたとされる。隣人を愛する気持ちが拡大させてゆくと博愛の精神になる。おそらく、これは現代人がイメージする「LOVE」とは少しニュアンスが異なっていたかも知れない。今日的な「LOVE」は性愛のニュアンスが過ぎる。イエスとゴータマ、原始キリスト教と原始仏教との間には、似た思想があるのではないかという話がある。イエスの言う「愛」とは、ゴータマの言うところの「慈悲」であり、「慈愛」の事ではないのか? そしてゴータマ自身は「慈悲を拡大させてゆくと大慈悲になる」とまでは説かなかった。ゴータマの弟子たちがゴータマの教えを整理してゆく中で、その問題が起こった。一つの対象に限定して慈悲をかけるのであれば、それは不完全であり、当然、慈悲の対象は絞られるべきではないという大乗思想に発展していったのだ。「愛→博愛」であるように、「慈悲→大慈悲」となった。一つの対象を愛するのも素晴らしい事であるが、究極的には対象は絞るべきではない。すべてを対象にして慈しむようにして愛してこそ、その思想は完成を見るというのが本来的な解釈ではないのか?

現代人はインカやマヤの生贄の習俗を語って、残酷だと喚き、放送を禁止すべきだと声を上げる。しかし、どうもユダヤ教や原始キリスト教にも人食いの習俗らしいものがあった事が分かってきてしまっている。それが儀式に残っていたし、最近になって科学的な検証も行なわれ、それが確認された。何故、そうなったのかといえば、その聖者の血や肉を分け与えるという回路であったらしい。ホントはギリシャ神話あたりにも勇者の殺して、その勇者の食べると強くなれるみたいな神話があった筈で実際にはなんら文明的な優劣は関係がない。日本人もやっていたでしょうし、日本人のルーツを考える中に倭族論があって有力でもありますが、首狩りや人肉食いもやっている。いやいや、映画『ゆきゆきて、神軍』を視てくれ。第二次世界大戦の終戦直後、残存した兵士たちの間で人肉食いが起こっていた痕跡が生々しく映像化されている。

別にどうってこともない醜悪な人類史の中で、そこで「聖」が問われた事柄というのは数えるほどしかないでしょう。「彼は聖者だ」とか「彼女には聖性がある」のように語られるケースは、長い人類史の中でも僅かしかない。「そのような行為は人の道に反している」のような価値観は、別に仏教徒やキリスト教徒ではなくとも有している。儒教的な教えをも含めての日本教という事になるのかも知れませんが、多くの日本人は無意識のうちに道徳・倫理を身に着けていると考えられる。つまらぬ事でキレて大暴れするような人たちを目にして辟易とする。相手の事も考えぬ利己主義者にうんざりとさせられる。そうした感覚は、知識ではなく、実際に生活を営む中で培われ、それは霊性(エートス)として、その者の血や肉に染み付いている。

もはや自称「自由世界」からは聖性は欠片もなくなってしまっているので、誰も「戦争反対」と言えない。
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或る時期から、書籍の宣伝文句に「我々は何処から来て、どこへ向かっているのか?」という類いのものが量産中であるなと感じている。ホントに人類は時間軸の中で迷子になってしまっているかのような感覚がある上に、その文言は極めて根源的な問題として「我々は何者なのか? 私は何故、存在しているのか?」という哲学的な問題になって来てしまっているようにも思う。

MTVを継ぎ接ぎ的に50分ぐらい視聴していたら、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーン、マイケル・ジャクソン、シンディ・ローパーのミュージックビデオが流されていましたが、それらの流れというのが現在は完全に堰き止められているというか、干上がってしまっているというか、サブカルチャー世界までもが何やら平和に対して沈黙しているよなって思う。なんとうのかな、それが奇麗事であったとしても、何某かのテーマであるとか、メッセージみたいなものも含まれていたようにも見えるのですが、現在ともなると、なんだか沈黙なんだよなって。政治的な発言を控えるビジネスマンとしてのアーティストしかないというか。

誰のなんて曲のMVだか失念しましたが、古いMVでもベトナム戦争の映像が用いられているものがあったりして、確かに思想はサブカルチャーに溶け込んでいたらしいなと確認できた気がする。

Eテレ「世界サブカルチャー史」のアメリカ70年代編が先週、放送されていました。玉木宏さんのナレーションで番組進行していく番組なのですが、このアメリカ70年代編の総括では、既に混迷が始まっていたという解説を採っている。実際には60年代からの流れなのですが、公民権運動が実り、アメリカは人種の坩堝として輝かしい時代へ迎えるかという期待もあったが、公民権運動が実った直後からブラックパワーが炸裂し、アフリカ系アメリカ人たちは「自分たちのアイデンティティーの模索を始めた」という具合のナレーションがあった。まさしくブラックパワーの炸裂であった訳ですが、音楽シーンのようなものに激変が起こっただけではなく、つまり、黒人は黒人のアイデンティティーを掲げる事になったので、思っていたよりも共生の難しさというものが噴出してしまった側面があったというニュアンスなのかも知れない。まぁ、それでも、なんとなく巧く行っていたように見えていたはいたのだけれども。

ここで言っている「アイデンティティー」とは、帰属性とか帰属意識であり、結局のところ、血統主義的民族主義的なアイデンティティーとは文化に根差したものなので、そう簡単には切り離せないという問題であった――という分析した総括であったと思う。そこで取り上げたのは「ゴッドファーザー」であり、「ゴッドファーザー」を多くの者はマフィアの物語だと認識しているが、実際には、あの映画がモチーフにしたものは「アメリカ」であったという。つまり、血の掟を重視するイタリアン・マフィアをモチーフにしてみせたものの、描いたものは「アメリカ」であったという。あー、その次元で映画観賞をしてきてはいませんなぁ…。マジかよ。しかし、確かに、そう言われてみると、そうなるような気もする。「ゴッドファーザー」を撮って大成功を収めたフランシス・コッポラ監督が次に手掛けたのは「地獄の黙示録」であった――。

そしてオバマ政権の末期にはトランプ現象が起こり、トランプ政権が誕生した。その展開に世界は大いに動揺したのでしたが、そのトランプ現象を起こした大きな原因は〈分断〉であり、何が分断を惹き起こしているのかといえば、やはり、アイデンティティーだという事になる。理念上は、民族的アイデンティティーではなく、国家的アイデンティティーへのシフトが予定されており、法に基づいて自由と平等とが両立できるものだと考えていた。しかし、フタを開けてみたら、その考え方は絵に描いた餅であり、実際には公民権活動の時代からブラックパワーは、その頃の白人たちが思い描いていた理想とは異なるものであった。モハメド・アリの徴兵拒否騒動。ベトナム戦争の泥沼化。JFK暗殺。国家を統治する統治機構に関しての不都合な側面は本当は60年代や70年代から溢れ出していたのではないか――。

改めて、そんな風に捉えてみると、アメリカを中心とした〈自由〉を旗印とした現代文化というのは病みに病んでいる事にも気付いてしまう気がする。米国映画にしても最高傑作は何だろうって考えたとしても、私には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」か「ターミネーター�供廚△燭蠅箸靴�思えないのだ。音楽であれば、マイケル・ジャクソンが突出しており、あの黄金の80年代を超える傑作なんて出てくる事は期待薄だよなって思う。その後も相応の傑作みたいなものは何かしらあるのでしょうけど、どうも最盛期を過ぎてしまっているのだろうなという風にも感じ取れてしまうのだ。単純に稼いだ金額が上回るという話ではなく、ムーヴメントの力とか、気運といった観点ではありますが。しかし、そちらの方が深刻な気がしないでもない。


Eテレが展開させているサブカル論は書籍として『反逆の神話』にも目を通しての感慨ですが、実際のところ、カウンターカルチャーはマイノリティーではなく、実質的には政治的な主導権を握ってしまっているという指摘でもある。映画「イージーライダー」では、キャプテン・アメリカは自由を求めてオートバイで旅をしたが、その終わり方は保守的な人たちに遭遇し、最後には殺されて終わる。語り口として「自由を殺す保守的な人が悪いんです。きっとトランプ現象を先取りしていたって事でしょう?」と解釈する事になるのかも知れませんが、それだけではなく、「自由を標榜するする人たちが天下を取って好き放題にやってしまうようになったので、撃たれた」とも捉えられる。実際にジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著/栗原百代訳『反逆の神話』(NTT出版)を読むと、私には後者のニュアンスが強く指摘されているように感じた。(自由を標榜して制服を廃止にしたところ、やっぱり、制服があった方がいいという揺り戻し現象が起こった例などが挙げられている。)

つまり、平たく言えば〈過剰なリベラル〉こそが、サブカル史の分析から見えて問題点なのだ。マイケル・サンデルは「それを、お金で買いますか?」と問い掛けたという。その中の例には、イスラエルの保育園の問題が例示されており、その保育園では預り期限の17時になっても迎えに来ない親が思いの外、多かったので17時を超過した場合には、遅延に対して料金が発生するという制度を導入した。主旨としてはペナルティとして遅延金を取りますよという制度であった。しかし、その制度を導入したら保護者らは「遅延料金を払えば、18時や19時まで預けてもいいという事だ」と解釈し、実際にそうなってしまったのだという例を挙げている。まぁ、こう例示しても日本のコメンテーター氏らは、「サービスが拡充してニーズに対応して素晴らしいじゃないすか」と言ってしまうと思う。ホントは、書籍のタイトルからも想像できるように或る種の〈過剰〉に警鐘を鳴らしているという主旨であるが、それを理解できないような人たちが現に多数派になってしまった事こそがリベラルの追い込んでいるのだ。

常々、ポリコレのバカバカしさに言及してきましたが、先週もしくは先々週には、KADOKAWAが刊行を予定していた書籍の発刊が抗議によって見送られたという。例によって言論封殺、自分たちだけが正義という発想だ。「表現の自由」よりも、特定の活動家さんたちへの悪影響こそが心配という判断なのかも知れない。しかし、もう、そういうことをやり出したら検閲と一緒ですな。これじゃ、まるでリベラルは自分で自分の首を絞めて窒息しにいっているようなものだが、日本の主流のリベラル論陣は気付く気配すらないように見える。

「ドナルド・トランプのようなアイデンティティーを利用した〈アイデンティティー政治〉が米国を分断・破壊している」という具合の語り口が目立つのですが、実際にはアイデンティティーの問題はブラックパワーの頃から浮上しており、その後にコッポラが描いたようにナニナニ系米国人の問題であり、アイデンティティーを武器にした世論誘導は別に米国の宗教勢力や白人保守層だけがやってきた訳ではない。もっと大きな視点でとらえると、カウンターカルチャー側であったリベラル思想が過剰になって、それぞれが好き勝手な事を主張し始めてしまい、しかも主張するだけではなく、均衡なんてものも考えずに自分たちの正義ばかりを猛烈に主張するように過激化し、結局、他者のアイデンティティーなんてお構いなしに社会に正義を押し付けるようになった。なので、滅亡に向かっているという解釈なのだと思う。
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もしかしたら弥勒信仰の未来仏とは、西洋に於ける救世主であり、これは本格的に同源である事を疑うべきではないのかなって思う。勿論、マイトレーヤが弥勒であり、それがキリストでしょうと考える者もあるかも知れませんが、イエスについては架空の人物であるという風に語っている人を見た事がない。しかし、若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)や大貫隆著『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)あたりに目を通した際に気付いたのでしたが、19世紀頃ともなるとイエスの実在を信じていた者は、そんなに多くなかったという話が出てくる。確かにナザレのイエスという人物について書かれている資料は限られているそうで、よく分からないというのが実相ではないのかなと思う。これは二択で実在していないと述べているのではなく、おそらく「ナザレのイエス」という人物は実在していたでろうが、それに関しての伝承が、どれほどの精度で伝承しているのかは分からないぐらいの意味になる。

と、この話は空海とも見事にダブっている。空海は確実に実在していた事は論じる迄もないのですが、では実在に疑念の余地がなく、しかも資料が多いので空海はこれこれこういう人物であったと捉えられるのかというと、そうならない。空海についての伝承は、杖で地面を突いたら水が噴き出して泉になったという具合であり、何かしら評伝というものは神格化されたり、或いは脚色されてしまうのだ。

見事にダブっていると述べましたが、その話は杉崎泰一郎著『世界を揺るがした聖遺物』(河出書房新社)にも記されていました。少し引用します。

キリストに近いペテロや聖母マリアにもさまざまな物語が書かれますが、さらに記述の少ないその周辺の人物の方が創作をしやすいのでしょう。マグダラのマリアは聖書の中のいくつかの断片的なエピソードが合わせられてひとつのキャラクターになり、さらに物語が膨らみます。〜略〜南仏に流れ着いて、洞窟で30年も隠遁生活を送った末に亡くなったという物語が語られ、聖遺物はふたつの教会で真贋を争い、修行したといわれる南仏の洞窟も聖地になっています。

日本にも弘法大師(空海)のような有名な僧侶にまつわるエピソードが多く伝えられ、ゆかりのものが各地にあります。弘法大師の足跡や弘法大師が杖で突いて湧出させた湧き水など、さまざまです。でも、弘法大師の伝えた密教の教えとはどんなものだったか、どのような人物であるかということは、僧侶の方や仏教に詳しい方でもない限り、ほとんど知られていないと思います。
(『世界を揺るがした聖遺物』158頁)

これなどは、読み進めながら「空海と似ているな」と思っていたら、目に飛び込んできた一文であった。いやいや、似ているのだ。空海については現在でも肉体としては滅したのかどうかで見解の相違がある。勿論、空海は滅したものと考えられる。にもかかわらず、現在でも高野山では空海は不滅である筈だという信念の下に、食事と着替えの世話をしているというのだ。9世紀の人物なので、既に千年以上も昔に死んだ人物であるが、未だに滅した事が認められていないという事なのだ。この辺りについては、イエスの話や各種の聖人伝説は似ている。イエスはゴルゴダの丘で処刑された。しかし、その三日後に肉体ごと姿を消した。蘇えって天に行ったものという風に解釈されている。また、そうした教説に対して、グノーシス主義ともなると「そもそも神は不滅のものだと考えられており、イエスが滅したのであれば神ではないし、救世主でもない」のような論法を採る。

しかし、思えば神話というのは、そういう性質のものでしょう。それこそ、ショウヘイ・オータニは実在しており、メジャーリーグでホームラン王を獲得し、その一方では投手として超一流でスイーパーなんていう魔球を織り交ぜながら、時速165キロのストレートも投げている。そんなの幻想みたいなものなのだけれども現実だ。しかし、ショウヘイ・オータニの存在は奇跡的であるが、奇跡そのものではない。20年前の自分に

「20年後には日本人メジャーリーガーが二刀流として大成功する。しかも単に二刀流で通用しているというレベルではなく、打者としても投手としても超一流のレベルであり、ベーブ・ルース伝説も霞むような活躍をしてベースボール史そのものを書き換えてしまうだろう」

と言っても、絶対に信じなかったと思う。ショウヘイ・オータニの活躍ぶりについては尾ヒレの付け入るスキがないので、現実としてそれらを見ている。その実在や、彼の活躍ぶりを「奇跡そのもの」というニュアンスに変えるには、彼自身の力ではなく、彼自身の力に寄らない神懸かり的な何かが必要になってくる。浄土真宗的な意味合いでの「他力」、神(≒自然)に愛された者とか神に選ばれた者だけに起こせる人智を超えた偉業が必要になってくる。おそらく、人間技とは思えない超自然現象のことを、我々は真の奇跡だと思っているでしょう。

なので、尊崇された「聖者」については、勝手に周囲や民衆が奇跡らしいものをつくってしまう。現実問題として、死んだ筈の者が死んでいなかったら大変な事だ。不滅の者なんてのがあったら一大事だ。しかし、よくよく考えてみると、古今東西の不思議な話というのは、共通しているところがあって、或る人物の周辺では常識では考えられない出来事が起こっていたという風に語られる事で、それは特別に「聖」化されているという事なのでしょう。

イエスの場合は、聖母マリアの元に天使が顕われて受胎告知をして生まれたという。もう、この辺りからして神話半分といえば神話半分の世界でもある。しかし、この「半分は神話だ」という話は、「真実じゃないじゃないか!」と憤慨したり、落胆する話でもない。むしろ、その逆で、そうした神秘的な逸話をつくりあげられる者というのは、つまり、人々から聖性を認識され、そして人々によって聖化すべくして聖化されているという事なのだ。人の世とか俗世間とは、そういう認識回路を持っているものなのだ。

偶像崇拝は好ましくない。神の教えを忠実に守るという態度こそが、最も真摯な態度という事になる。思えば、神や宗教を「絵」や「像」のような象徴化する事だって好ましいとは言えない。しかし、そうは言うが、では「言葉」、「ロゴス」だけで神の教えを語り尽くせるのかというと、そうともならない。イスラム教は、この辺りに厳格だという。キリスト教でもプロテスタントは聖書のみを信じるという合理さがあるので、余計な聖人や天使を崇めない傾向があるのだそうな。他方、カトリックは聖人や天使を崇め、聖母マリア像なんて大好きな方だし、イコン(象徴)化したグッズも好まれるという傾向があるという。翻ってニッポンたるや、まさしく偶像崇拝の宝庫であり、アニメーションに描かれた場所を巡礼することを実際にサブカル的な意味合いで「聖地巡礼」と称している。エブリシング・ブッダの精神で、あれも神さま、これも神さま、死んだ者の事を現に「ホトケさま」と呼んでいる。

ここで引っくり返る。本来であれば「神そのもの」や「神の言葉のみ」、その「教え」を忠実に崇めるべきである。しかし、そんな厳格さが必要になる信仰よりも、むしろ、俗人たるもの、「ご利益のありそうなお守り」や「現実的な利益」を求めるものであったりする。それが自然の成り行きでもある。苦行、苦行、苦行、試練、試練、試練、試練、その連続では信仰のしようもない。むしろ、神や神のご利益と身近な場所に身を置きたいというのが、人の心理というものではないのか。

「老子」にあたる李聃(りたん/老聃とも)という人物については、それが実在した確かな証拠はないのような説明は本当に辞典類には多い。冒頭で、その説明がなされているケースも少なくない。「墨子」などにもその傾向がありますが、そもそも、そういう認識回路が偏狭なのだ。いつ、どこで、だれが、どのように…といった、そうした認識コードを持つ必要性がない。「実在したという確かな証拠はない」という思考コードこそが、実は狭量なのだ。それは狭義の思考コードであり、東洋文明では、いつ、どこで、誰が、どのように、どうした等といった、まだるっこしい傍証よりも、「その者が真理を語っているか否か」が重視される。一切即一。真理は真理であり、今現在であろうが数千年前であろうが、そんな事に執着するよりも真理かどうかに執着すればいい。

唯識説というものは、その仕組みからして「ただ識のみがある」であり、「私の識のみがある」という具合に帰結する事になる。「実体は把握しようがない/実体を実体として認識しようがない」という事を先取りしてしまっているのだ。なので、確かなものは「私はそう認識している私が存在している」という世界になる。また、困った事にグノーシス主義のグノーシスとは【識】を意味しているらしい。つまり、李聃の実在うんぬんよりも、現に「老子」という典拠があって、その「老子」を思想として捉えている人たちがあり、また、歴史としてそのように歩んできた事を否定できない以上、ホントは李聃が実在していたかどうかなんて、まったくもってどうでもいい問題なのだ。重要なのは、その「教え」に価値があるかどうか、共感できるかどうかの方にウェイトを置いているのだ。そして、この唯識説というのは認知哲学の問題にもなっている訳ですが、実体を実体として捉えることができないので、ただ識があるという回路の思考法になる訳ですが、ここに大きな意義がある。実物よりも、その過程、そのプロセスにこそ、意義があるという回路なのだ。

「何かを信仰して実際に何かの目的を達成できましたか?」で判断する回路ではなく、そのプロセスの方に重きを置いており、「それを信仰しているあなたは現に今、どうですか?」と判断する回路なのだ。「目的」とか「結果」ではなく、その「過程」と「今現在」に重きを置いている。何故って、世界を我々は識によって認識しているとしか言いようがないのがホントですしねぇ。

「✕✕が✕✕であったという確証はない」という具合の言説は、学術的なり科学的なり、何やら説得力がありそうな錯覚が起こるが、単に「確証がないから認めない」と主張しているだけで、狭量といえば狭量に思える。何故って〈現に今そこで認識されている現象〉なのに、自分の好みに合わないからと、半ば意図的に却下する事になりがちなのだ。実体を実体として有りのままに完全に把握することは不可能であるという事を、実は蔑ろにしている。
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司馬遼太郎の最高傑作とも呼ばれる『空海の風景』の中には、空海は不空三蔵の生まれ変わりであったのではないかと語る一節がある。不空(ふくう)という人物は、空海の師である恵果(けいか/えか)の師にあたる人物になる。また、一般に「三蔵法師」という呼称を使うと、我々がイメージするのは西遊記でも描かれる玄奘三蔵になるが、広辞苑第六版でも「経・律・論の三蔵に精通した僧。」と説明されており、必ずしも玄奘三蔵を指しているとは限らない。この不空についても不空三蔵のように記されている場合がある。

岩波仏教辞典第三版に設けられている【不空】の項目を引くと、おおよその概要が記してある。

生没年は705〜774年。インド名はアモーガヴァジラ。は北インドのバラモン系の父と、康国(こうこく/現在のサマルカンド地方)人の母と間に西域で生まれ、13歳の時に叔父に連れられて長安に入る。インド人で金剛頂経系統の金剛智(こんごうち)について出家受戒をし、密教を学ぶ。師の金剛智の没後には、自らインドに趣き、経論五百余部を持ち帰り、多数の密教経典を翻訳し、中国仏教に於ける大翻訳家である。また、実際に空海は深く私淑していた人物でもあるという。

この時代の中国とは唐王朝時代であり、しかも不空が中国にいた時代とは、まさしく楊貴妃の物語の「長恨歌伝」(ちょうごんかでん)に登場する玄宗(げんそう)の時代であった。空海が唐に渡ったのは楊貴妃の悲劇が起こった少し後の事である。

『空海の風景』は「小説」という取り扱いになっているが、実際には司馬遼太郎が「弘法大師・空海」についての論考にエッセイを交えて語っているだけの論文調の作品であり、フィクションの要素は少ない。また、そのタイトルが『空海の風景』というぼんやりしたタイトルである理由であることも断わって記されていた。

そして、どういう訳か、空海の弟子たちのあいだでは、「空海は不空の生まれ変わりである」という不可解な信仰が生まれたという。少しだけ『空海の風景』下巻(中公文庫)から引用します。

空海は直接の師匠である恵果よりも、恵果の師匠である不空を尊崇したにおいがある。においどころか、

――大師は不空のうまれかわりである。

という信仰が、のちに弟子たちのあいだで伝承された。のちに、というより、空海はその存生中において、自分は不空三蔵のうまれかわりだということを、かれ自身、大真面目に弟子に洩らしていたのではないか。

空海が不空の化身であることについては、『神統正統記』にも出ている。


弘法は母懐胎のはじめ、夢に天竺の僧来りて宿をかり給ひけりとぞ。宝亀年甲寅六月十五日に誕生、此日、唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す

『神皇正統記』は、密教の爛熟期ともいうべき室町時代に成立した。空海が不空の化身であるという伝承は、密教に関心のある者ならたれでも知っているような知識になったいたのかもしれない。空海の生誕が六月十五日であるかどうかの詮索はべつとして、真言宗の本寺である東寺も、またその生誕の地にたてられた善通寺においても、古くからこの日に誕生会をおこなっている。不空の病没した時が唐の大暦九年六月十五日であることはまちがいはない。(『空海の風景・下巻』134〜135頁)

空海は不空の生まれ変わりであったという説が実際にあったらしく、司馬遼太郎が調べた限りでは不空の入滅日に空海が誕生していることになっているのが分かる。


玄宗の時代の唐王朝は正真正銘の世界帝国であったと評されている。則天武后の時代の頃から西域との交流が活発化し、玄宗の時代になると長安には旧仏教だけではなく、密教、そして祆教(けんきょう/ゾロアスター教)などの寺院も皇帝によって庇護され、国家事業として翻訳をしていた。サンスクリット語も国家事業として翻訳していた。長安ではイラン系、西域系と思われる踊り子たちが官能的な踊りを披露し、酒をふるまう酒家が並び、そして日本国からの留学生らも皇帝によって歓待されていた。また、楊貴妃物語(長恨歌伝)の悲劇はソグド人系の将軍であった安禄山(あんろくさん)による反乱が起こり、玄宗は不興を買い、泣く泣く楊貴妃を絞首刑台に送ったというものであった。

楊貴妃の物語でも、楊貴妃を失って皇帝の座を追われた玄宗が、楊貴妃のへ未練を捨てきれず、屋敷に道士を招き、その道士に楊貴妃を探しに行かせるというクダリがある。道士は、東方の仙郷の洞窟の中で楊貴妃と逢ったと語り、玄宗を慰める。つまり、道士は玄宗に「楊貴妃様は仙界の人になっておりました、会う事は叶いませんが、現在でもお慕い申しております旨、おっしゃっておりました。証拠に玄宗様と楊貴妃様だけしか覚えてない秘密についても伺って参りました。貴妃曰く、憶えておられますか、あの日、二人だけで見た七夕の夜空を…」という具合の事を道士が玄宗に報告して、悲嘆にくれる玄宗を安堵させたという風に物語は編まれている。日本映画黄金期の立役者は黒澤、小津、溝口の三人の監督でしたが、その溝口健二監督の京マチ子主演映画「楊貴妃」は、そのクダリで〈すとん〉と落としてエンディングになる。

則天武后の時代から仏教は中国で拡大して影響力を強めた為、玄宗の時代には中国古来の宗教としての道教を見直す動きがあり、玄宗は道教贔屓であったとされる。まだ、この時代、呪術が信じられていた時代であり、玄宗の時代には度々、道士が呼び出されて雨乞いの祈祷などを行なわせる事があったという。

その時代背景の中で天竺由来の秘術をも使うという密教は存在感を示したらしい。不空三蔵は当時の長安では大呪術者であったという。日本に於ける安倍晴明と蘆屋道満の呪術対決さながら、密教を代表し、道教の道士と呪術対決をし、勝利を収めたりした経歴が伝わっており、つまり、不空は呪術者として人気を博した人物らしい。


少しこれまでの内容と重複しますが、空海の直接の師匠は恵果である。恵果の出身地は長安の東になる昭応(現在の陝西省西安市)である。その恵果の金剛智系の師が不空である。密教には二大体系があって、一つは金剛頂経系であり、もう一つは大日経系で、つまり、二つの系統となる。具体的に、どういう位置づけなのかについては司馬遼太郎が明解に記していたりする。摘まみ食い的な引用ですが、非常に明解に述べられているので引用します。

金剛頂経系は智(精神の原理)を説き、大日経系は理(物質の原理)を説く(下巻107頁)

恵果の金剛頂経系の師は不空である。恵果の大日経系の師は、おそらく善無畏(ぜんむい)の弟子であった新羅人の玄超(げんちょう)から灌頂されたという。その為、密教史上初の両系の継承者となったのが恵果であったという。で、その恵果から密教をことごとく相続したのが、日本人留学生(るがくしょう)の空海であり、しかも、恵果と対面してから僅か三ヵ月余りで、密教のすべてを相続して日本に持ち帰ったのが、我々が知る弘法大師・空海なのだという。

(しかも、空海の出自の問題がある。当時のヤマト朝廷からすると「毛人」と呼ばれていた佐伯氏の家系であり、毛人が日本各地に移住させられていた。その毛人たちの指導者的な家系が佐伯氏であったと考えられている。)

この大日経系の善無畏(ぜんむい)を仏教辞典で引くと、おおよそ、次のような記述がある。

生没年は637〜735年。シュバカラシンハの漢訳名。東インドのオリッサ国の王子であった説と、中インドの王子であったとも言われる。王位を捨ててナーランダ―寺で大乗仏教とダルマサクタ(達磨掬多)より密教を授かり、齢80歳で長安に入った。多くの密教経典を漢訳した。

この善無畏の弟子が新羅人の玄超であり、その玄超が恵果に大日経系密教のすべてを相続させたらしい。善無畏については仏教辞典で「真言宗の伝持の第五祖」という表現が使用されているので、第六祖が玄超であり、第七祖が恵果であり、第八祖が空海になるという風に組み立てられる。

この善無畏も、呪術好きな玄宗皇帝に引っ張り出されたという伝承を残しているらしく、『空海の風景』(上巻)に記述がある。

玄宗皇帝は呪術を好んだ。あるときひでりがつづいたために玄宗は善無畏をよんで雨をふらせようとした。善無畏はとんでもございません、とこれを断った。いま法を用いれば危うございます、暴風雨になりましょう、ということだったが玄宗はきかず、強制した。善無畏はやむなく鉢をとりよせ、水を盛り、小刀をもって水をかきまぜ、陀羅尼ととなえつづけると、たちまち眼前に竜が躍り出た。やがて天が真暗になり、電光がはためき、大雨が沛然と降ってきて、ついに長安のまわりの河川があふれ、場内にも被害が出た。玄宗は驚歎してしまった。(上巻359〜360頁)

今一度、確認すると、次のようになる。日照りになったので、皇帝が善無畏に雨乞いの祈祷を命じたところ、善無畏は断った。善無畏は「今、術を使いますれば暴風雨になってします」。しかし皇帝は、「その呪術で雨を降らせてみよ」と譲らなかった。やむなく善無畏が「陀羅尼、陀羅尼、陀羅尼…」と唱え続けると、空が真っ暗になり、雷が鳴り、大雨が降り出し、長安の河が氾濫して水害を惹き起こしたので、玄宗は驚嘆してしまった――になる。実話とは思えませんが、そのような伝承が生まれるという事は、そう伝えた者たちの心中に何かしらの意図があって、そうなっているものと考えられる。

(余談ながら雨乞いは、密教であれば護摩焚きとなり、道教でも火を焚いて祈祷したようですが、藁などを燃やして煙を発生させると、その煙に含まれているヨウ化銀は、実際に雨粒の核になるそうで、実は非科学的ではないのだそうな。)

確かに背景を掘り下げてゆけばゆくほど、空海は実在した人物でありながら半分は神話の中の人物である事に気付かされる。
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