かつて薬師丸ひろ子は「セーラー服と機関銃」で、こう唄っていた。
♪
スーツケースいっぱいに詰め込んだ
「希望」という名の重い荷物を
君は軽々と きっと持ち上げて
笑顔みせるだろう
スーツケースいっぱいに詰め込んだ重量感のある「希望」とは何だろう? そんな疑問を抱いたことがあったが、おりょりょりょ、なんだか分かってしまったかのような気分になる。
若松英輔著『光であることば』(小学館)では、【願望】と【希望】との差異に言及している。少しだけ引用します。
願望と希望は違う。似ているのではない。むしろ、似て非なるものだ。英語に置き換えてもまったく姿が違う。願望はwantだが、希望はhopeである。願望は、その人が望み、願ったものだが、希望は、希なる望みを指す。「希」はしばしば「稀」と同義になる。
人がいれば、少なくともその数だけの願望がある。だが、希望はそうではない。願望が拡散していくのに対して希望は個人を超え、普遍に向かって収斂していく。
願望はしばしば欲望に変じていく。希望が深化するときは、個の立場を離れていく。それは無私の悲願に至ることもある。(『光であることば』14頁)
もう、これ以上、私が何かを付け加える事は蛇足だろうとなる。
しかも、通常、我々のコミュニケーション上の慣習では、「願望」と「希望」とを混合している可能性がある。そして若松氏の引用文が述べている通り、しばしば願望は私的な願いであるので、利己的なものになる。
「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べる事を希望する。」
というのではニュアンスにボカシが介在しており、実際のところは
「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べたいと欲している。」
に過ぎない。自分で労力をかけてローソンまで行って、自分の財布で購入して、勝手にケーキを食えばいい。それは、その人のまったくの自由だ。「希望する」という具合に発言してみる事で、私的な欲求を、あたかも公的なニーズであるかのように偽装するのは慎むべきだ。まるで、誰かに買って来てくれと言わんばかりの言い回しだ。しかし、これが現代社会で起こっている混乱の核心かも知れない。
既に脳神経学などでも「好き」という感情と「欲しい・独占したい」という感情との差異については別物であると説明されていたと思う。好きだからこそ、欲しくなってしまう、自分だけの所有物にしたくなってしまうというのも道理であるが、脳の働き方としても心理としても、少し違うのだ。きれいな花を見つけたなら、そのきれいだなと思った状態のままで花を愛でればいいのであって、ちょん切って持ち帰って自分だけのものにしようとか、誰かに見せて自慢しようというのは、それは純粋な好きという感情ではなく、独占欲が強く作用しているという事なのでしょう。
これは単なる偶然ではない。『光であることば』は、その先では「励まし」よりも「自分も辛いと感じることがある」ぐらいに呟く方がベターであろうという話が出てくる。そういう言葉こそが「光であることば」だという。
悲しみや苦しみを生きるとき、まったく励まされないのも寂しいものかもしれないが、善かれと思って投げかける激励の言葉は、かえって相手の苦しみを深めることがある。
さらにいえば、励ましらしい言葉は、ほとんど励ましにはならない。苦しむ人に必要なのは慰めと癒しであって、「とにかく頑張れ」という言葉に象徴されるような、一方的な声がけではない。
こう断言するのも問題があるかもしれない。だが、自分の経験を正直に語るとそうなる。いわゆる励ましの言葉に励まされたことがないのである。(同19頁)
この箇所、凄いなと思う。断言するのも問題があるかも知れないが、自らの経験から言えば、励ましの言葉に励まされた事なんてなく、むしろ、本当に苦しんでいる時に必要なのは慰めと癒しであると言っているのだ。
別に狙った訳でもなく、つい先日、『教育虐待』について正しい知見を述べているのだろうと思うけれど違和感が拭えなかったという感慨を持った私の気持ちを代弁してくれている。駄目さ加減について最も理解できているのは自分自身であり、励まされても励みにはならないものだという事を経験則として知っている。「そうじゃない」と言ったらウソになる。また、引用箇所からは洩れましたが、善かれと思って声をかけてくれている励ましの声については後になって「彼も悪気ではなかったのだろう」と認識する事となり、感謝したりすることもある。但し、真に苦しんでいるタイミングでは、励ましなんてものは何の効果も見込めない。
なので、ホントの事を言えば、そういう状況では「今の、あなたの苦しみや辛さというものを明確には分かる筈もないのだけれども、駄目だなって思う事は私も今までに何度もあったし、きっとこれからもそうかも知れない」ぐらいのネガティブなホンネで相手と対峙した方が、相手の情感にとっては癒しになるだろうと思う。ホントは、ヒトは弱い生き物であり、誰かと一緒にいるときには弱さを見せないように強がるものであるが、独りの時などにはズシーンと重たくのしかかってくるものがあるのだ。
「孤独が怖い」と言っている者は、まだ、本当の孤独と向き合えてない可能性が高い。孤独な時にこそ、その者は自分と向き合えているという話が続く。日々の生活にウツツ(現)を抜かしていると、「生活」と「人生」との区別がつかないのだという主旨を若松英輔氏が続ける。とはいえ、この次元の話になってくると噛み締めるように考えるべき話になってくる。
ここでは手短に一点だけ、「願望を拡散していくとしばしば利己主義になってしまうが、希望を拡散していくと普遍的なものになっていく」――という。この箇所なのですが、これは愛を広げていけば博愛になり、慈悲を広げてゆけば大慈悲になるという話との類似があるじゃないかと感じた。
来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「夢の途中」は実際には「セーラー服と機関銃」と同じ楽曲であるが、次のようにも唄っている。
♪
今を嘆いても 胸を痛めても
ほんの夢の途中
「生活」と「人生」との差異は、この事だ。【生活】は「今」の切り取りである。それに対して【人生】とは生きてきた道程を総括している認識なのだ。苦しくても辛くても、それは「人生が夢だとすれば、それは、ほんの途中の一コマ」に過ぎない。付和雷同に、その瞬間その瞬間を刹那的に生きるという生き方をしたり、他人の言動に惑わされて、結局は自分自身の人生を後悔するようなものすべきではない。孤独を恐れるのは、孤独に鈍感であり、生活と人生との区別がつかないからである――と読める事柄を『光であることば』は論じている。
拙ブログ:「「大慈悲」と「博愛」
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スーツケースいっぱいに詰め込んだ
「希望」という名の重い荷物を
君は軽々と きっと持ち上げて
笑顔みせるだろう
スーツケースいっぱいに詰め込んだ重量感のある「希望」とは何だろう? そんな疑問を抱いたことがあったが、おりょりょりょ、なんだか分かってしまったかのような気分になる。
若松英輔著『光であることば』(小学館)では、【願望】と【希望】との差異に言及している。少しだけ引用します。
願望と希望は違う。似ているのではない。むしろ、似て非なるものだ。英語に置き換えてもまったく姿が違う。願望はwantだが、希望はhopeである。願望は、その人が望み、願ったものだが、希望は、希なる望みを指す。「希」はしばしば「稀」と同義になる。
人がいれば、少なくともその数だけの願望がある。だが、希望はそうではない。願望が拡散していくのに対して希望は個人を超え、普遍に向かって収斂していく。
願望はしばしば欲望に変じていく。希望が深化するときは、個の立場を離れていく。それは無私の悲願に至ることもある。(『光であることば』14頁)
もう、これ以上、私が何かを付け加える事は蛇足だろうとなる。
しかも、通常、我々のコミュニケーション上の慣習では、「願望」と「希望」とを混合している可能性がある。そして若松氏の引用文が述べている通り、しばしば願望は私的な願いであるので、利己的なものになる。
「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べる事を希望する。」
というのではニュアンスにボカシが介在しており、実際のところは
「私はローソンで売られているプレミアムロールケーキを食べたいと欲している。」
に過ぎない。自分で労力をかけてローソンまで行って、自分の財布で購入して、勝手にケーキを食えばいい。それは、その人のまったくの自由だ。「希望する」という具合に発言してみる事で、私的な欲求を、あたかも公的なニーズであるかのように偽装するのは慎むべきだ。まるで、誰かに買って来てくれと言わんばかりの言い回しだ。しかし、これが現代社会で起こっている混乱の核心かも知れない。
既に脳神経学などでも「好き」という感情と「欲しい・独占したい」という感情との差異については別物であると説明されていたと思う。好きだからこそ、欲しくなってしまう、自分だけの所有物にしたくなってしまうというのも道理であるが、脳の働き方としても心理としても、少し違うのだ。きれいな花を見つけたなら、そのきれいだなと思った状態のままで花を愛でればいいのであって、ちょん切って持ち帰って自分だけのものにしようとか、誰かに見せて自慢しようというのは、それは純粋な好きという感情ではなく、独占欲が強く作用しているという事なのでしょう。
これは単なる偶然ではない。『光であることば』は、その先では「励まし」よりも「自分も辛いと感じることがある」ぐらいに呟く方がベターであろうという話が出てくる。そういう言葉こそが「光であることば」だという。
悲しみや苦しみを生きるとき、まったく励まされないのも寂しいものかもしれないが、善かれと思って投げかける激励の言葉は、かえって相手の苦しみを深めることがある。
さらにいえば、励ましらしい言葉は、ほとんど励ましにはならない。苦しむ人に必要なのは慰めと癒しであって、「とにかく頑張れ」という言葉に象徴されるような、一方的な声がけではない。
こう断言するのも問題があるかもしれない。だが、自分の経験を正直に語るとそうなる。いわゆる励ましの言葉に励まされたことがないのである。(同19頁)
この箇所、凄いなと思う。断言するのも問題があるかも知れないが、自らの経験から言えば、励ましの言葉に励まされた事なんてなく、むしろ、本当に苦しんでいる時に必要なのは慰めと癒しであると言っているのだ。
別に狙った訳でもなく、つい先日、『教育虐待』について正しい知見を述べているのだろうと思うけれど違和感が拭えなかったという感慨を持った私の気持ちを代弁してくれている。駄目さ加減について最も理解できているのは自分自身であり、励まされても励みにはならないものだという事を経験則として知っている。「そうじゃない」と言ったらウソになる。また、引用箇所からは洩れましたが、善かれと思って声をかけてくれている励ましの声については後になって「彼も悪気ではなかったのだろう」と認識する事となり、感謝したりすることもある。但し、真に苦しんでいるタイミングでは、励ましなんてものは何の効果も見込めない。
なので、ホントの事を言えば、そういう状況では「今の、あなたの苦しみや辛さというものを明確には分かる筈もないのだけれども、駄目だなって思う事は私も今までに何度もあったし、きっとこれからもそうかも知れない」ぐらいのネガティブなホンネで相手と対峙した方が、相手の情感にとっては癒しになるだろうと思う。ホントは、ヒトは弱い生き物であり、誰かと一緒にいるときには弱さを見せないように強がるものであるが、独りの時などにはズシーンと重たくのしかかってくるものがあるのだ。
「孤独が怖い」と言っている者は、まだ、本当の孤独と向き合えてない可能性が高い。孤独な時にこそ、その者は自分と向き合えているという話が続く。日々の生活にウツツ(現)を抜かしていると、「生活」と「人生」との区別がつかないのだという主旨を若松英輔氏が続ける。とはいえ、この次元の話になってくると噛み締めるように考えるべき話になってくる。
ここでは手短に一点だけ、「願望を拡散していくとしばしば利己主義になってしまうが、希望を拡散していくと普遍的なものになっていく」――という。この箇所なのですが、これは愛を広げていけば博愛になり、慈悲を広げてゆけば大慈悲になるという話との類似があるじゃないかと感じた。
来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「夢の途中」は実際には「セーラー服と機関銃」と同じ楽曲であるが、次のようにも唄っている。
♪
今を嘆いても 胸を痛めても
ほんの夢の途中
「生活」と「人生」との差異は、この事だ。【生活】は「今」の切り取りである。それに対して【人生】とは生きてきた道程を総括している認識なのだ。苦しくても辛くても、それは「人生が夢だとすれば、それは、ほんの途中の一コマ」に過ぎない。付和雷同に、その瞬間その瞬間を刹那的に生きるという生き方をしたり、他人の言動に惑わされて、結局は自分自身の人生を後悔するようなものすべきではない。孤独を恐れるのは、孤独に鈍感であり、生活と人生との区別がつかないからである――と読める事柄を『光であることば』は論じている。
拙ブログ:「「大慈悲」と「博愛」
