ヨーロッパ史を語る場合には、しばしば、「ヨーロッパ」と括った場合の、そのアイデンティティーが問題になる。いつぞや財政破綻状態の問題の際にギリシャをEUから除名する事が出来るのか否かという問題になった際、ギリシャを切り離してしまうとヨーロッパの歴史的アイデンティティーが喪失してしまうので不可能だろうという見解が紹介されていたのを記憶している。「ギリシャ神話」、「ローマ帝国」、そして「キリスト教」といった3つの要素によって、〈ヨーロッパ〉というアイデンティティーが形成されているので、仮にギリシャが財政として足を引っ張るからといって切り離せば、それはヨーロッパ共同体という体裁を失ってしまうというものであった。
ギリシャ神話の舞台になっていた時代があり、その後にローマ帝国という繁栄の歴史を持ち、人々の価値観はキリスト教によって形成されている。しかし、これを細かく歴史として語ろうとするとゲルマン民族の大移動があり、それがローマ帝国を衰退させ、分裂させ、西ローマ帝国を滅ぼしている。西ヨーロッパに向かったゲルマン人、更に遅れて押し寄せた北方系のゲルマン人はローマ帝国に備わっていた上下水道などの社会インフラを破壊し、破壊したインフラは中世まで放置されていたなんていう表現も使用される場合がある。そんなヨーロッパ史の中で、キリスト教が果たした役割というものを、杉崎泰一郎著『世界を揺るがした聖遺物』(河出書房新社)に沿って以下に考えてみる――。
基本的にはカトリック世界は聖遺物を好み、いわゆるプロテスタントは聖書のみを信仰対象とするというスタイルである。なので、聖母マリアにしても、或いは、ここで上げたマグダラのマリアにしても、そちらを信仰対象とする事は、厳格に言えば偶像崇拝であり、マリア像(聖母マリア像)であるとか、イエスを磔刑にしたという聖十字架の欠片であるとか、更にはマグダラのマリアの遺骨であるとか、或いはイエスを処刑した際に使用されたロンギヌスの槍であるとか、それら聖遺物信仰に熱心なのはカトリックの方の歴史だという。
勿論、カトリックとプロテスタントとでは、カトリックの方が歴史が古い訳ですが、そのカトリックの方で、信仰の対象が聖書だけではなく、聖遺物にまで広がっている事、更には、何故か聖母マリアの人気が異常に高い事の秘密などにも触れられている。
それはヨーロッパの歴史そのものと関係しているという説明も非常に簡潔になされていた。
キリスト教も発足当時は弾圧される対象であったとされる。『世界を揺るがした聖遺物』に拠れば、殊更にローマ帝国で弾圧されていたのかは疑念の余地があるという見地であったと思いますが、そのキリスト教が劇的に庇護されるようになったのは、或る奇跡によってコンスタンティヌス大帝がキリスト教の信者となり、以降、キリスト教は庇護される事になったという事情がある。その奇跡についてはヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」では、何度も何度も取り上げられていましたが、それを文章で紹介してあったので引用します。
――その時、コンスタンティヌス帝は川を挟んで敵の大群と対峙していました。決戦を前に、敵の軍勢は次第に数を増し、コンスタンティヌスは自軍の不利を悟ります。いよいよ明日の決戦は免れない、というその夜、目の前に天使が現れ「空を見あげなさい」と告げます。空には明るく輝く十字架が見え、黄金の文字で「この印を掲げれば勝利を収むべし」と書かれていました。
そこで皇帝は、空に見えたものと同じ十字架をつくらせると、それを先頭に掲げて、敵に挑みました。すると、敵兵はことごとく逃げ出し、戦いに勝利。これを機に、コンスタンティヌス帝はキリスト教信者となったとのことです。(『世界を揺るがした聖遺物』55頁)
その空に十字架が出現したという逸話も、どうもアウグスティヌスの『黄金伝説』あたりが話の出所らしい。しかし、このコンスタンティヌス大帝によるミラノ勅令によってキリスト教を公認宗教とし、この事が実質的にはキリスト教がヨーロッパで広く普及する契機になった事は間違いない。これは4世紀の出来事だという事になる。
コンスタンティヌス大帝の次なるキーマンは、カール大帝ことシャルルマーニュという事になる。いずれも「大帝」と呼ばれる人物だ。ヨーロッパ史では4世紀末から6世紀にかけてゲルマン民族大移動が起こり、カール大帝の時代は8世紀になりますが、まだ、その頃には西ヨーロッパはローマ帝国の文明を破壊した蛮族というイメージから抜け出せて折れず、キリスト教を軸とする事で秩序体系を構築したという見立てを紹介している。
古くは西ヨーロッパに侵入したゲルマン人は、西ローマ帝国を滅ぼした蛮族という呪縛から逃れるために聖遺物の力を利用しようとしました。東ローマ帝国から聖十字架の破片を譲り受けたり購入しながら多くの聖遺物を集め、そこから聖遺物をパワーアイテムとした王権、教会、民衆の三つ巴の関係が始まったわけです。(同168頁)
王の戴冠式を教会的権威に裏打ちされた教皇が執り行なう。これによって王の権威づけが為される。他方、教会は教会で王制の庇護を勝ち取れる。つまり、国家的権威はキリスト教的権威によって権威づけられる互恵関係にあったという。
その箇所で〈三つ巴〉と表現しているのは、「政府」、「教会」に加えて「民衆」というものがあった事に拠る。民衆は教会を利用して社会を統制していたという。或る意味では権威が権威を相互に利用し合うようにしてヨーロッパ史は編まれており、王制の権威、その王の権威を権威づけてきたものは教皇を頂点とする教会勢力、つまり、キリスト教であったという事になる。
秩序体系が雑然としていた時代、教会は民衆の味方に立ち、実質的な権力者である政権と対峙するものであったという訳です。しかし、徐々に教会という権力が政府という権力に接近していくようになっていった。更に近代ともなると、すべての権力は政府に集中する事になり、教会というべきか、宗教勢力そのものは無力化し、その影響力そのものを縮小させていった――となる。
この話などは、若松英輔氏がテレビの討論番組の中で放った「宗教は本来は反権力的な立場であったのに、現在の宗教は政治勢力や社会と慣れ合いになってしまい、その状態を続けてしまった為に、既に人々は宗教に引っ掛かるものを見い出せなくなってしまっている」という批判とも合致している。
ギリシャ神話の舞台になっていた時代があり、その後にローマ帝国という繁栄の歴史を持ち、人々の価値観はキリスト教によって形成されている。しかし、これを細かく歴史として語ろうとするとゲルマン民族の大移動があり、それがローマ帝国を衰退させ、分裂させ、西ローマ帝国を滅ぼしている。西ヨーロッパに向かったゲルマン人、更に遅れて押し寄せた北方系のゲルマン人はローマ帝国に備わっていた上下水道などの社会インフラを破壊し、破壊したインフラは中世まで放置されていたなんていう表現も使用される場合がある。そんなヨーロッパ史の中で、キリスト教が果たした役割というものを、杉崎泰一郎著『世界を揺るがした聖遺物』(河出書房新社)に沿って以下に考えてみる――。
基本的にはカトリック世界は聖遺物を好み、いわゆるプロテスタントは聖書のみを信仰対象とするというスタイルである。なので、聖母マリアにしても、或いは、ここで上げたマグダラのマリアにしても、そちらを信仰対象とする事は、厳格に言えば偶像崇拝であり、マリア像(聖母マリア像)であるとか、イエスを磔刑にしたという聖十字架の欠片であるとか、更にはマグダラのマリアの遺骨であるとか、或いはイエスを処刑した際に使用されたロンギヌスの槍であるとか、それら聖遺物信仰に熱心なのはカトリックの方の歴史だという。
勿論、カトリックとプロテスタントとでは、カトリックの方が歴史が古い訳ですが、そのカトリックの方で、信仰の対象が聖書だけではなく、聖遺物にまで広がっている事、更には、何故か聖母マリアの人気が異常に高い事の秘密などにも触れられている。
それはヨーロッパの歴史そのものと関係しているという説明も非常に簡潔になされていた。
キリスト教も発足当時は弾圧される対象であったとされる。『世界を揺るがした聖遺物』に拠れば、殊更にローマ帝国で弾圧されていたのかは疑念の余地があるという見地であったと思いますが、そのキリスト教が劇的に庇護されるようになったのは、或る奇跡によってコンスタンティヌス大帝がキリスト教の信者となり、以降、キリスト教は庇護される事になったという事情がある。その奇跡についてはヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」では、何度も何度も取り上げられていましたが、それを文章で紹介してあったので引用します。
――その時、コンスタンティヌス帝は川を挟んで敵の大群と対峙していました。決戦を前に、敵の軍勢は次第に数を増し、コンスタンティヌスは自軍の不利を悟ります。いよいよ明日の決戦は免れない、というその夜、目の前に天使が現れ「空を見あげなさい」と告げます。空には明るく輝く十字架が見え、黄金の文字で「この印を掲げれば勝利を収むべし」と書かれていました。
そこで皇帝は、空に見えたものと同じ十字架をつくらせると、それを先頭に掲げて、敵に挑みました。すると、敵兵はことごとく逃げ出し、戦いに勝利。これを機に、コンスタンティヌス帝はキリスト教信者となったとのことです。(『世界を揺るがした聖遺物』55頁)
その空に十字架が出現したという逸話も、どうもアウグスティヌスの『黄金伝説』あたりが話の出所らしい。しかし、このコンスタンティヌス大帝によるミラノ勅令によってキリスト教を公認宗教とし、この事が実質的にはキリスト教がヨーロッパで広く普及する契機になった事は間違いない。これは4世紀の出来事だという事になる。
コンスタンティヌス大帝の次なるキーマンは、カール大帝ことシャルルマーニュという事になる。いずれも「大帝」と呼ばれる人物だ。ヨーロッパ史では4世紀末から6世紀にかけてゲルマン民族大移動が起こり、カール大帝の時代は8世紀になりますが、まだ、その頃には西ヨーロッパはローマ帝国の文明を破壊した蛮族というイメージから抜け出せて折れず、キリスト教を軸とする事で秩序体系を構築したという見立てを紹介している。
古くは西ヨーロッパに侵入したゲルマン人は、西ローマ帝国を滅ぼした蛮族という呪縛から逃れるために聖遺物の力を利用しようとしました。東ローマ帝国から聖十字架の破片を譲り受けたり購入しながら多くの聖遺物を集め、そこから聖遺物をパワーアイテムとした王権、教会、民衆の三つ巴の関係が始まったわけです。(同168頁)
王の戴冠式を教会的権威に裏打ちされた教皇が執り行なう。これによって王の権威づけが為される。他方、教会は教会で王制の庇護を勝ち取れる。つまり、国家的権威はキリスト教的権威によって権威づけられる互恵関係にあったという。
その箇所で〈三つ巴〉と表現しているのは、「政府」、「教会」に加えて「民衆」というものがあった事に拠る。民衆は教会を利用して社会を統制していたという。或る意味では権威が権威を相互に利用し合うようにしてヨーロッパ史は編まれており、王制の権威、その王の権威を権威づけてきたものは教皇を頂点とする教会勢力、つまり、キリスト教であったという事になる。
秩序体系が雑然としていた時代、教会は民衆の味方に立ち、実質的な権力者である政権と対峙するものであったという訳です。しかし、徐々に教会という権力が政府という権力に接近していくようになっていった。更に近代ともなると、すべての権力は政府に集中する事になり、教会というべきか、宗教勢力そのものは無力化し、その影響力そのものを縮小させていった――となる。
この話などは、若松英輔氏がテレビの討論番組の中で放った「宗教は本来は反権力的な立場であったのに、現在の宗教は政治勢力や社会と慣れ合いになってしまい、その状態を続けてしまった為に、既に人々は宗教に引っ掛かるものを見い出せなくなってしまっている」という批判とも合致している。