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人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:神々の遺産 > キリストについて

ヨーロッパ史を語る場合には、しばしば、「ヨーロッパ」と括った場合の、そのアイデンティティーが問題になる。いつぞや財政破綻状態の問題の際にギリシャをEUから除名する事が出来るのか否かという問題になった際、ギリシャを切り離してしまうとヨーロッパの歴史的アイデンティティーが喪失してしまうので不可能だろうという見解が紹介されていたのを記憶している。「ギリシャ神話」、「ローマ帝国」、そして「キリスト教」といった3つの要素によって、〈ヨーロッパ〉というアイデンティティーが形成されているので、仮にギリシャが財政として足を引っ張るからといって切り離せば、それはヨーロッパ共同体という体裁を失ってしまうというものであった。

ギリシャ神話の舞台になっていた時代があり、その後にローマ帝国という繁栄の歴史を持ち、人々の価値観はキリスト教によって形成されている。しかし、これを細かく歴史として語ろうとするとゲルマン民族の大移動があり、それがローマ帝国を衰退させ、分裂させ、西ローマ帝国を滅ぼしている。西ヨーロッパに向かったゲルマン人、更に遅れて押し寄せた北方系のゲルマン人はローマ帝国に備わっていた上下水道などの社会インフラを破壊し、破壊したインフラは中世まで放置されていたなんていう表現も使用される場合がある。そんなヨーロッパ史の中で、キリスト教が果たした役割というものを、杉崎泰一郎著『世界を揺るがした聖遺物』(河出書房新社)に沿って以下に考えてみる――。


基本的にはカトリック世界は聖遺物を好み、いわゆるプロテスタントは聖書のみを信仰対象とするというスタイルである。なので、聖母マリアにしても、或いは、ここで上げたマグダラのマリアにしても、そちらを信仰対象とする事は、厳格に言えば偶像崇拝であり、マリア像(聖母マリア像)であるとか、イエスを磔刑にしたという聖十字架の欠片であるとか、更にはマグダラのマリアの遺骨であるとか、或いはイエスを処刑した際に使用されたロンギヌスの槍であるとか、それら聖遺物信仰に熱心なのはカトリックの方の歴史だという。

勿論、カトリックとプロテスタントとでは、カトリックの方が歴史が古い訳ですが、そのカトリックの方で、信仰の対象が聖書だけではなく、聖遺物にまで広がっている事、更には、何故か聖母マリアの人気が異常に高い事の秘密などにも触れられている。

それはヨーロッパの歴史そのものと関係しているという説明も非常に簡潔になされていた。

キリスト教も発足当時は弾圧される対象であったとされる。『世界を揺るがした聖遺物』に拠れば、殊更にローマ帝国で弾圧されていたのかは疑念の余地があるという見地であったと思いますが、そのキリスト教が劇的に庇護されるようになったのは、或る奇跡によってコンスタンティヌス大帝がキリスト教の信者となり、以降、キリスト教は庇護される事になったという事情がある。その奇跡についてはヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」では、何度も何度も取り上げられていましたが、それを文章で紹介してあったので引用します。

――その時、コンスタンティヌス帝は川を挟んで敵の大群と対峙していました。決戦を前に、敵の軍勢は次第に数を増し、コンスタンティヌスは自軍の不利を悟ります。いよいよ明日の決戦は免れない、というその夜、目の前に天使が現れ「空を見あげなさい」と告げます。空には明るく輝く十字架が見え、黄金の文字で「この印を掲げれば勝利を収むべし」と書かれていました。

そこで皇帝は、空に見えたものと同じ十字架をつくらせると、それを先頭に掲げて、敵に挑みました。すると、敵兵はことごとく逃げ出し、戦いに勝利。これを機に、コンスタンティヌス帝はキリスト教信者となったとのことです。
(『世界を揺るがした聖遺物』55頁)

その空に十字架が出現したという逸話も、どうもアウグスティヌスの『黄金伝説』あたりが話の出所らしい。しかし、このコンスタンティヌス大帝によるミラノ勅令によってキリスト教を公認宗教とし、この事が実質的にはキリスト教がヨーロッパで広く普及する契機になった事は間違いない。これは4世紀の出来事だという事になる。

コンスタンティヌス大帝の次なるキーマンは、カール大帝ことシャルルマーニュという事になる。いずれも「大帝」と呼ばれる人物だ。ヨーロッパ史では4世紀末から6世紀にかけてゲルマン民族大移動が起こり、カール大帝の時代は8世紀になりますが、まだ、その頃には西ヨーロッパはローマ帝国の文明を破壊した蛮族というイメージから抜け出せて折れず、キリスト教を軸とする事で秩序体系を構築したという見立てを紹介している。

古くは西ヨーロッパに侵入したゲルマン人は、西ローマ帝国を滅ぼした蛮族という呪縛から逃れるために聖遺物の力を利用しようとしました。東ローマ帝国から聖十字架の破片を譲り受けたり購入しながら多くの聖遺物を集め、そこから聖遺物をパワーアイテムとした王権、教会、民衆の三つ巴の関係が始まったわけです。(同168頁)

王の戴冠式を教会的権威に裏打ちされた教皇が執り行なう。これによって王の権威づけが為される。他方、教会は教会で王制の庇護を勝ち取れる。つまり、国家的権威はキリスト教的権威によって権威づけられる互恵関係にあったという。

その箇所で〈三つ巴〉と表現しているのは、「政府」、「教会」に加えて「民衆」というものがあった事に拠る。民衆は教会を利用して社会を統制していたという。或る意味では権威が権威を相互に利用し合うようにしてヨーロッパ史は編まれており、王制の権威、その王の権威を権威づけてきたものは教皇を頂点とする教会勢力、つまり、キリスト教であったという事になる。

秩序体系が雑然としていた時代、教会は民衆の味方に立ち、実質的な権力者である政権と対峙するものであったという訳です。しかし、徐々に教会という権力が政府という権力に接近していくようになっていった。更に近代ともなると、すべての権力は政府に集中する事になり、教会というべきか、宗教勢力そのものは無力化し、その影響力そのものを縮小させていった――となる。

この話などは、若松英輔氏がテレビの討論番組の中で放った「宗教は本来は反権力的な立場であったのに、現在の宗教は政治勢力や社会と慣れ合いになってしまい、その状態を続けてしまった為に、既に人々は宗教に引っ掛かるものを見い出せなくなってしまっている」という批判とも合致している。
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杉崎泰一郎著『世界を揺るがした聖遺物』(河出書房新社)に沿って、「キリストは何故、処刑されたか」の項目で、その差異が語られている箇所がありました。

元々、ユダヤ教があり、イエスの出自については諸々あるようですが、ヨルダン河の畔で預言者ヨハネから洗礼を受け、40日40夜、祈りと瞑想を続けた後、イエスは既成のユダヤ教とは異なる新しい教えを説き始めた。その部分以降の引用となります。

ユダヤ教では、神に救済されるためには定められた戒律を守るべしと説きます。ところがキリストは、神を信じ、正しい行いをする者はすべて救われると説きました。隣人を愛せよ、それが戒律よりも大切だと教えたのです。(『世界を揺るがした聖遺物』75頁)

ユダヤ教からキリスト教へという流れは「戒律よりも隣人愛が大切である」という具合に変化していった事を説明している。この変化していく過程というのは、上座部(小乗)から大乗になった過程、あるいは密教的な要素が強まって大乗思想を強めていく過程に似ているようにも思える。

更に『世界を揺るがした聖遺物』からの引用を続けます。

たとえば、ユダヤ教では裕福になることは悪ではありません。ちゃんと戒律を守り、勤勉に働けば、神に祝福されるだろう。そうすればきっと豊かになれる、というのがユダヤ教の論理です。

逆に貧しい人がいれば、それは働かないからだ。だから神が罰を与えたのだと解釈できます。そんな罰当たりには手を差し伸べる必要はない、と考えます。ましてや卑しい職業で金を稼ぐ、娼婦などはけしからん、ということになります。

ところがキリストは卑しい職業の人、貧しい人、罪人、あるいはユダヤ以外の他民族とも分け隔てなく接します。神のもとでは平等であるからです。しかし、それでは古くからの律法学者や為政者は困ったことになります。人が平等であれば、上下関係が成り立たなくなるからです。それゆえキリストは、社会や宗教の規律を乱す危険事物と見なされます。
(同76頁)

ユダヤ教とキリスト教との差異も分かり易く語られている上に、何故、イエスが処刑されなければならなかったのかという問題も簡潔に説明できている。当時の社会状況の中では、イエスは既存の秩序体系を危険にさらす危険人物であった事が上手に説明できている。戒律よりも愛(ここでは隣人愛)を優先し、且つ、その救済の対象にする範囲も深く広くしているのだ。

また、そこで卑しい職業の代表例として娼婦を著者は挙げていますが、実はマグダラのマリアという人物は、アウグスティヌスが残した『黄金伝説』によれば、元々は資産家の令嬢であったらしく、その財力と美貌と若さにカマケて〈肉欲三昧の生活に身をもちくずした〉という素性を持っていたという事になっているという。マグダラのマリアのケースでは、イエスに出会って回心(キリスト教用語)したというサイドストーリーになっているという。また、このマグダラのマリアはイエスらをもてなし、イエスが処刑された際には一番最初に墓に駆け付けた人物とされている。

貴賤による差別を考慮しないであるとか、罪人でも分け隔てしないという対象の広がりを確認できる。
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イエスは、ユダの裏切りに遭い、司祭長の手に落ち、自らを「神の子」と認めた罪によって磔刑に処される。その処刑が行われた「ゴルゴダの丘」とは「シャレコウベの場所」の異名を持つ地であり、イエスは十字架を背負わされ、刑場であるゴルゴダの丘までの道のりを歩かされた。

磔刑になるにあたってイエスは、何某かの麻酔薬を口にする事を勧められたが、それを拒否した。ここで麻酔薬と呼んでいるものはマタイ伝では「胆汁を混ぜた葡萄酒」と記されているが、マルコ伝では没薬になっており、これは「ミルラ」と呼ばれていた薬草を意味し、鎮痛効果があるとされていた。マタイ伝、マルコ伝ともに、兵士がこれから処刑されるイエスに口にするように勧めたものであったが、イエスは舐めただけで飲まなかったという。

斯くしてイエスは磔刑となった。イエスが十字架に磔になると見物人の中からは罵声が飛んだ。これから処刑されるイエス、既に罵声を浴びせたところでその身に危害が及ぶことはない。イエスは「三日で神殿を建て直してみせる」と宣言していた。その解釈としては「壊された神殿でも私は三日もあれば復元してみせる」の意味であり、更なる解釈では「たとえ、私は殺されても再び蘇生してみせる」の意味として語られているという。磔刑になったイエスに飛んだ罵声は、

「三日で神殿を建て直してみせると豪語しているが、自分の命さえ救うことができないじゃないか!」

という主旨のものであった。

イエスの処刑は午前九時頃から執り行なわれたが、正午頃になると異変が起こったと福音書は記しているという。マタイ伝では「闇が全地を覆った」旨の記述があり、ルカ伝には「太陽は光を失った」という記述があるという。これは世界中の太陽神の神話にありがちな表現であり、日本神話であればアマテラスの「岩戸隠れ」によって世界は暗闇に包まれた――となる。「闇が全地を覆った」や「太陽は光を失った」といった表現は「人の死」ではなく、「神の死」を物語って用いられる表現である。

光が失われた闇の中で、イエスの叫び声が響いた。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

その意味は「私の神、私の神、どうして私はお見捨てになったのですか」と訳されている。また、別の説として、その冒頭になる「エリ、エリ」は預言者エリヤの名前、エリを二度ほど繰り返したものであり、つまり、私の信じる預言者エリヤよの意味での「エリ、エリ」であり、つまり、「私の信ずる預言者エリヤよ、何故に私をお見捨てになったのですか!」という最後の叫びであったという解釈が『イエス伝』では紹介されている。

その叫び声を挙げてから、もう一度、同じように叫ぶと、十字架に磔られたイエスは息を引き取った。

この先は『イエス伝』ではなく、俗説になってしまうのかも知れませんが、そこに在る筈のイエスの遺体がなくなっていたとなり、そのまま、後世の神秘伝承にも繋がってゆく。イエスの亡骸を包んでいたという布は聖骸布と呼ばれ、トリノの聖ヨハネ大聖堂の聖骸布は有名。また、福音書の類いにもウェロニカという女性(聖女)がイエスの顔の血や汗を布で拭ったところ、その布にイエスの顔が転写されたという記述があるという。しばしばミステリーを取り扱うテレビ番組でも取り扱われる聖骸布ですが、『イエス伝』に目を通していると処刑に処される前にイエスは香油を頭から注がれている。更にヨハネ伝では、イエスを埋葬するに当たり、〈ユダヤ人の埋葬のしきたりに従って香料と一緒に亜麻布でつつんだ〉という記述があるという。埋葬にあたって使用された香料は「百リトラ」とあり、現在の単位に修正すると実に33キロにもなる。何故、ユダヤ人がそんな埋葬をしていたのかというと、やはり、それはエジプトのミイラにも共通する何かであり、つまり、遺体を腐乱させない為に、そのようなしきたりがあったのだという。香油を頭からかけていたというクダリからしても、亜麻布に包む際に大量の香料を使用していた等はあるようなのですが――。

さて、ナザレのイエス、人の子イエスは死んだ。いや、殺害された。弟子の裏切りに遭い、司祭長ら時の権力者らの妬みや嫉みによって処刑された。そして死んだイエスは「神の子」になった。この話は、やはり映画「ダ・ヴィンチ・コード」のストーリー中でも用いられていたキリスト教のミステリーでもある。これが何を暗示しているのかというと、生きる者に対しては「原罪」の象徴になっている。

十字架に磔にして殺した。積極的に殺害に関与した重罪の者も在れば、積極的に関与した訳ではないが見て見ぬふりをしたという中程度の罪の者も在り、真実に基づいて正しい行動が出来なかったという、その自らの無力さを嘆くような軽微な罪の者も在る。

「人の子」が「神の子」になった。聖者の誕生、その劇的な描写にもなっていると、『イエス伝』の著者である若松英輔氏も触れている。

民が王のために命を捧げるのではなく、王が民のために命を捧げる。西洋には殆んど見られないことだが、東洋には巫祝王(ふしゅくおう)という伝統がある。王であると同時に巫者である者は、国と民が危機に瀕したとき、文字通りわが身を供物にして、天に意を伝えた。そうした王の行為を白川静は、『孔子伝』にこう記している。王の名は湯(とう)という。

九年もうちつづいた大旱のとき、湯はみずから犠牲となって雨を祈った。犠牲者は髪を切り、爪を断ち、積薪の上に坐して、焚殺されるのである。湯はその聖処である。桑林の杜に祈って、その儀礼を実行したが、さすがに聖王の祈りには感応があって、そのとき沛然(はいぜん)たる雨が降ったという。

ここで白川が語っている「犠牲」、あるいは「犠牲者」は、被害、被害者とはまったく関係がない。むしろ、ここでは「犠牲」はほとんど「聖」と同義である。それは同時に新約聖書を貫いている霊性である。「聖は人間最高の理想態とされた」と白川は自ら編纂した辞書『字通』に書いている。(『イエス伝』301〜302頁)

中々に衝撃的な解釈であると思う。とはいえ、確かにイエス・キリストという人物は、あまりにも西洋化し過ぎてしまっており、そもそもはセム語を話していた中東人であり、また、当時のユダヤ人の習俗として、その埋葬方法にエジプト由来であろうしきたりがある事、加えて「そもそも」という話をすればキリスト教はユダヤ教の異端であり、イエスにしても福音書ではダビデ家の家系に生まれた人物であったというのであれば、フロイトが著した『モーセと一神教』と照合すると、それなりに実相が浮かび上がってくるものではないのか? また、旧約聖書に描かれている神は理解不能なところがあり、「絶対服従の証として我が子を殺害せよ」と命じる奇妙なクダリがある。神はアブラハムに対して「その子イサクを殺して神への捧げものとせよ」と命じるという奇妙な逸話がある。結構、オリエンタルな要素が強いのが実相ではないのだろうか。

また、その神は現代人の感覚からすると蛮族の神を思わせるような原始的な神の姿がある。インカやマヤの生贄の風習を現代人である我々は残酷であると認識する。しかし、どこの文明でも似たような発達段階を経て文明に覚醒しているが、早期の段階で神概念に触れている。そして例外なく人類は、神へ捧げものをするという様式を経て、歴史を形成してきているのだ。


そして犠牲になった者に対して、我々は何がしかの後ろめたさを我々は霊性として持っている。これが〈原罪〉の仕組みではないのか。前段で触れた命と引き換えに雨乞いをして民を救ったという湯王のような人物の伝承は後世では聖性を帯びる。そして、それは聖(ひじり)と認識される事になる。白川静を引けば、どうも人間最高態こそが「犠牲」であり、それは同時に「聖性」あるという事になる。これは諸々の民俗学や比較文化人類学などを渉猟してゆけば、多くの例を発見できるのではないかなと思う。

鶴見和子著『南方熊楠』(講談社学術文庫)には、ゴータマ・ブッダがサッダ太子であった時代に虎の前に身を捧げたという逸話があった事に触れられている。少しめんどくさい話になりますが、南方熊楠は「大唐西域記」の中で、その逸話を見つけて紹介していた。それを著者の鶴見和子が論じている中での話になる。おそらく、逸話は実際ではなく、フィクションである。フィクションであるがサッダ太子が飢えた虎に対して捨て身になったという具合に脚色される事に意味を見い出している。何故なら、そういう逸話が作られるという事は、それが「聖性」の根拠にあるという訳だ。しかも明らかに唐王朝時代の〈西域〉が舞台になっているという事であり、敦煌写本で確認されている。それが日本の法隆寺に保存されている『玉虫逗子』、その台座には「捨身飼虎図」が描かれているという。本来的な仏教の開祖のゴータマ・シッダッタの逸話に西域で付け加えられた何かであり、聖性を表現する為に付け加えられた何かだとなる。また、何故かこの際には虎に生き血を飲ませた後、飢えた虎の前に身を投げたという話になっているという。

聖者とは自らが犠牲になる事も厭わぬ態度の中に現れる。また、凡夫が現実的な生活の中で「聖性」を目撃するのは自己犠牲を厭わぬ人、そうした行為を実際に目にした時でしょう。他人に面倒くさいことの全てを押し付け、自分は享楽を貪る事にうつつを抜かしているという現代の先進国のライフスタイルからすると、そうした聖性も霊性も「存在しないもの」として認識されているのかも知れませんが、実は闇の属性を持つ悪魔の方、サタニスト(悪魔崇拝者)が既に世界を牛耳ってしまっており、光の属性を持つ「聖」や「善」といった原義的な徳目は既に壊滅的状況に立たされている――と、そんな感じがしないでもない。
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WOWOWシネマにて「ダヴィンチ・コード」と、その続編となる「天使と悪魔」の吹替版を視聴。今更ながらの視聴でしたが、これまでにも何度か視聴しようとしたのですが字幕で視聴するには尺数が長く、飽きてしまい二度ほど断念。こういう作品の場合は吹替版は有難く感じました。

また、これらはオカルト的な予備知識があってこそ、理解できる作品だったかも。以下、当たり前のようにネタバレします。

先ず、美術館にて殺人事件が発生する。遺体の胸には五芒星が描かれているというところから物語がスタートする。トム・ハンクス演じる主人公は図像学者であり、五芒星や籠目紋の解説などをしながら事件に巻き込まれてゆく。五芒星や籠目紋は、荒俣宏著『帝都物語』的に言えば、どーまんせーまんの世界であり、そんな風に捉え直すと、日本の陰陽道でも説明可能な図像が、どうしてキリストの聖杯の謎と絡んでくるのだろうと楽しめる。

ミステリーはシンプルであったかも知れない。キリスト教には秘匿しなければならない秘密がある――というのが物語のキモに据えられている。聖杯とは、杯(さかずき)を意味しているのではなく、女性の暗喩であり、実際にはイエスの妻であった「マグダラのマリア」を指しているという。イエスは実際には「人の子」であったが、それが「神の子」になったという謎と関係している。キリスト教はローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝が空に十字架を目撃した事が契機となり、且つ、戦争に勝利したのでキリスト教を公認宗教にしましたが、その後の会議の中で「人の子」の痕跡を消し、イエスは「神の子」であったという風に捏造されたのだという説が物語の中で語られている。

「聖杯とはマグダラのマリア自身を指す。そのマグダラのマリアは娼婦のように語られてきたが実際にはイエスの妻であった。しかも本当はイエスの子を妊娠していた。マグダラのマリアは歴史から姿を消して、どこかに隠れてひっそりと生活をしていた。実は、現在でも末裔が生きている――」

というもの。聖杯については、シオン修道会の下にテンプル騎士団が結成され、テンプル騎士団は聖杯を密かに持ち帰っていたという伝承があり、主人公たちはテンプル騎士団の痕跡を追う。「聖杯」という言葉が意味しているものは、実は「マグダラのマリア」である、となると、今度はマグダラのマリアの墓を探す。

その「マグダラのマリア」の秘密を暴かれると、キリスト教そのものの信仰体系が崩壊してしまうとなり、法王庁では信仰体系を守る為に聖杯探しをしている連中を処刑する任務を与えられたヒットマンがある。このヒットマンが冒頭で五芒星殺人を行っており、次から次へと「マグダラのマリア」の痕跡を消そうとしている。

実はヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」という番組でも、「レオナルド・ダビンチ」についても、或いは「キリスト教の聖遺物」が取り上げられていたので、その辺りのミステリー事情の解説がなされていたので、すらすらと理解できた。楽しめたといえば楽しめましたが、一定程度の予備知識はあった方が楽しめそうですかねぇ。

「古代の宇宙人」の方がブッ飛んでいたかな。聖杯ではなく、聖櫃(せいひつ)であり、いわゆるモーセが神から授かったという「契約の箱」の事であり、「失われたアーク」の事でもある。しかも登場する論者たちは古代宇宙人飛行士説の提唱者たちなので、聖櫃の中には神の火を放つ未来兵器に相当するものが納められており、だからこそ、秘中の秘なのだという。聖櫃の形状は、実は日本の御神輿にも似ており、同番組でも日本の剣山(つるぎさん)を取り上げていた。剣山は確かに禁則地であり、山岳信仰の聖山であり、隣接する山の上にある神社から眺めることしか出来ないという不思議な山である。この聖櫃を巡っては映画「ダビンチ・コード」の中にも登場したテンプル寺院などもレポートされていましたが、実は面白かったのはマリだかナイジェリアに現在でも聖櫃が24時間体制で守られている謎の教会が現存するという話でした。ホントかよ? 嘘だろうねぇ。でも面白い事には変わりない。その教会の地下にモーセがヤハウェから授かったという聖櫃が安置されていて、それが未来兵器で、神の炎が発射する兵器であったならホントに腰を抜かすほど驚嘆すると思う。衝撃の人類史ってオチになるのだろうし。更には南アフリカの田舎町で聖櫃の残骸が発見されて展示されているというものもレポートしていた。何故、聖櫃が南アフリカの片田舎に? しかし、番組でDNA解析をしたところ、その南アフリカの原住民たちの遺伝子は古代のユダヤ人の遺伝子と酷似していた――と。いやいや、まだまだ、テンプル騎士団によってカナダに持ち出され、その後、アメリカに持ち込まれ…と、果てしなく謎を追う。

「天使と悪魔」は、素粒子実験装置によって反物質を抽出してしまったところから物語がスタートする。電源が切れて反物質が物質と接触したらバチカンごと光になって消えてしまうという。しかし、タイミング的には法王が亡くなって次期法王を決定するコンクラーベの最中であり、バチカンには大勢のカトリック教徒たちが詰めかけている。かつて、キリスト教に弾圧された科学者たちの仇を討つべく、立ち上がったテロリストが次から次へと殺人事件を起こしてゆく――。

「天使と悪魔」は、信仰と科学主義との対立をベースとして描いている。トム・ハンクス演じる主人公は「神を信じるか?」と問われて、「学者なので科学を信じるしかない」と説明するシーンがある。『魔女の鉄槌』によって魔女狩りをしてきた歴史などにも触れている。実は視聴しながら、随分とキリスト教はピンチに立たされているのだなと感じた。丁度、別の番組で、確かテレ朝「ワイドスクランブル!」だったと思いますが、最近ではキリスト教の影響が低下している事が取り上げられていたのだ。75%が信仰しているというデータであったものが、65%まで低下しており、カトリックよりもプロテスタントの方で信者の減少が起こっているので、法王は中国で信者獲得を目指している…という具合のコメントであった。

確かに「科学こそが正しい」という潮流の中にある。しかし、最先端の話をすれば、その科学を操っているのは人であり、善悪の区別も分からぬままに、この先を進んでいいのかという問題がある。この「天使と悪魔」の中でも殆んど同じ内容を語るシーンがクライマックスで挿入されている。本当は「科学と信仰とは敵対する概念ではない」という結論になる。思えば、科学主義は善悪(神と悪魔)の問題を超越してしまっている…というシブい内容であった。
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イエスは弟子であったユダの裏切りに遭い、その裏切りを切欠として処刑される。その逸話から、しばしば裏切者やスパイを指して「ユダ」のように表現する事がある。「ユダ」という言葉は「裏切者」の代名詞として定着している。

若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)で改めて、イエスの足跡を確認すると、以下のような流れになっている。

イエスは、或る時期から不可解な事を言い出す。弟子たちに対して「あなた方はいずれ迫害に遭う」のような事を話し出す。何故に迫害に遭うのかというと、私(イエス)に付き従っているから迫害に遭うという風に組み立てられている。そして、それらの苛酷な運命が待っているが、ここで「あなた方は幸いである」とも付け加える。

これはどうしようもない。ホントにミステリアスな内容といえばミステリアスな内容なのだ。この時点ではイエスは「神の子」なのか「人の子」なのかも分からない。弟子たちはイエスを「神の子」だと思っている。しかし、イエス自身はそのような事を口にしたことはなく、むしろ「人の子」という言葉で自分を表わしている。しかし、この「あなた方はいずれ迫害に遭う」は預言であり、予言になっている。このクダリは『イエス伝』に拠れば、マタイ伝とルカ伝にあるという。

また、黙示録のようにして語られるハルマゲドンについては、てっきり、イエス自身が預言したものではないと解釈していたのですが、どうもイエス自身が一定のレベルでハルマゲドンを預言していた節がある。

「あなた方は迫害に遭うが、そんなあなた方は幸いである」のような事を言い出す。しかし、これはハルマゲドンが起こる前に偽イエスが登場し、その偽イエスが広く人々に信仰されるので、真のイエスと、その弟子たちは迫害に遭うという話になり、「自分たちの身の上に起こる破滅」と「世界的な大破滅」の物語とが交錯している。

マタイ伝第5章の「山上の説教」の一節に、既にそれが顕われている。

わたしのために人々があなた方をののしり、迫害し、またありとあらゆる、いわれのない悪口をあなた方に浴びせるとき、あなた方は幸いである。喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのであった

既に「カルマの法則」や「因果応報」については触れたものとして話を進めますが、それらのエッセンスが既に「山上の説教」には盛り込まれているのが分かる。理不尽な迫害を受ければ受けるほど、天にある神の国では報われると説いているのだ。そして、過去の偉大な預言者たちも同様に迫害されたではないか――と説いている。これは想像以上にマイトレーヤ(救世主)信仰である事に気づかされる。死後には天国(浄土)と地獄とがあるという死生観があり、更に生前に報われなかった者は死後に報われるというカルマの法則を前提にして話になっている。おそらく、「マイトレーヤ」は「メシア」であり、「弥勒」であろうと昔から解釈されていましたが、想像以上にイエス・キリストはマイトレーヤ伝承、そのド真ん中であるかのようなストーリーを持っている。そもそも「キリスト」という言葉が「救世主」の意味なのだから、ホントは何もかも、そのまんまだという事かも知れない。

中々に不可解なストーリーに思える。が、イエスが語らんとしてた真意とは、これらの言葉によって弟子たちとの間に強固な絆を築いたかのように若松英輔氏は解釈されている。というのは、イエスは死後に聖霊を遣わして弟子たちに寄り添うという意味の事を言っているという。とはいえ、その聖霊の解釈が難しい訳です。しかし、少し前に述べたように、この時代に使用されていた聖霊とは、目には見えないが風を起こす空気のようなものであり、聖なる霊であると言っているのだ。こう展開すると、神秘主義者や神秘家のような解釈になり、ともすれば非科学的だと見下してしまう訳ですが、そもそも生命活動とは神秘であり、自己の存在も地球に生命が存在している事も神秘なのだ。神の秘密なのだ。

実際に、その後にイエスは迫害に遭う。奇蹟を起こしていると評判である事から、中には「あのイエスという男は神の子なのではないか?」と聖なるものだと感じる者もあれば、聖なるものとは感じずに薄気味悪い何かだと感じる者の登場する。神の子なのか、人の子なのか? いや、ハルマゲドンをイエスと呼ばれた人物は本当に預言していたのか、していないのか?

以下はマタイ伝の第24章、第29〜31章になるという。

太陽は暗くなり、

月は光を失い、

星は天から落ち、

天のもろもろの力は揺れ動く。

その時、人の子の徴(しるし)が天に現れる。するとその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗ってくるのを見る。人の子は大いなるラッパの響きを合図に、み使いたちを遣わす。そして、み使いたちは、四方からすなわち天の果てから果てまで選ばれた人々を集める。
(『イエス伝』231〜232頁)

これは何でしょう? イエスが自らを「人の子」と称して、その人の子の徴(しるし)が天に出現するという事であろうか。「地上のすべての民族は悲しみ」の箇所も読み取りに苦慮しますが、すべての民族が悲しみの中にある終末の時に、徴が天に現れて、イエスが再臨するというものか。基本的には、そのように解釈されている訳ですが、これは選民思想ではないという。というのも、マルコ伝の方にはイエスは再臨に対して「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という一節があるという。「罪人を招くため」になると、今度はなんだか悪人正機説のような話にも思えてくる。

とはいえ、この悪人正機説は親鸞の弟子の唯円が著した「歎異抄」(たんにしょう)で有名なので親鸞に関連づけて引用される機会が多いものの、悪人正機は既に法然の「選択本願念仏集」に見えているという。これらを我々日本人の多くは仏教と捉えていて、阿弥陀信仰と呼んだり、その本尊は阿弥陀仏や無量寿・無量光だとしているが、つまり、西方浄土に存在しているという浄土に存在している仏の話になってくる。阿弥陀は浄土に存在する仏であり、人は死後に浄土へ行くという。これが阿弥陀信仰であり、浄土宗や真宗にも通じる何かである訳ですが、救世主信仰になると天国(浄土)から救世主(神仏)が下界へと降りてくる。降臨もしくは下生(げしょう)。

救世主信仰は、より進化系であり、それがキリスト教でもある。そして、これもどういう訳なのか聖徳太子と所縁がある。秘仏にして国宝の法隆寺の夢殿に安置されていた救世観音(ぐぜかんのん)はまさしく救世主を意味している。また、飛鳥時代のものとされる広隆寺の半跏思惟像は弥勒菩薩だとなる。弥勒は弥勒菩薩と呼ばれているが、釈迦牟尼の次に仏になる事が約束されているという未来仏であり、弥勒仏となって下生するという。


さて、ユダこと、「イスカリオテのユダ」はイエスの弟子でありながら、自らの師であるイエスを、そのイエスを目の敵にしていた祭司長に引き渡した。ユダがイエスを売り渡した金額は銀30枚と言われているが、その数字が何を表わしているのかというと、当時の奴隷一人あたりの単価に相当するという。つまり、ユダはイエスを奴隷と同じ値段で売り渡したという事らしい。ユダは或る意味では究極的な裏切者であり、究極的な背任行為を行なったと考えられる。「神殺し」や「親殺し」も人類史規模での重罪ですが、このイエスの物語というのは最後に弟子であるユダに金銭で売られ、ゴルゴダの丘で十字架に磔にされて終わる。この裏切りに遭っているという事、それも単なる裏切りではなく、師を奴隷と同じ金額の金銭で売り払ってしまったという醜悪な行為であった。後になって、ユダは自分が犯した罪に苦しんで縊死したという。

このストーリーが事実なのか虚構なのかは兎も角として、神の子ではないのかとか、天界から下界へと下生した救世主を、一人の男が売り払ってしまったという何とも後味の悪い話なのだ。おそらく、文明人の原罪のようなものへと繋がっているような気がしないでもない。カネの為なら友人も肉親も恩師だって、平気で敵に売り払ってしまうような行為を正当化しているのが現行文明の実相かも知れませんが、思えば人の道に反するような行為でもある。

しかし、若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)は意外な説明をしている。イエスは、ユダが自分を売る事を知っていて、まるで売らせるようにして、その悲劇的結末へ突入していると指摘する。

所謂、「最後の晩餐」として語られる一節がある。イエスは語り始める。

「あなた方によく言っておく。あなた方のうちの一人で、わたしとともに食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」

マルコ伝とルカ伝とでは誰が裏切ることになるのかを弟子たちが詮索したとは記されていないという。しかし、マタイ伝では、実際に裏切ることになるユダその人が、イエスに「まさか、わたしではないでしょう?」と尋ねているという。しかも、そう尋ねられたイエスは「いや、そうだ」と答えたというのがマタイ伝が伝えている「最後の晩餐」のシーンらしい。

(念の為に触れておくと、「最後の晩餐」という言葉は、どの福音書にも記されておらず、後世に作られた言葉だという。また、最後にユダが自殺したと記しているのは4つの福音書の中でマタイ伝のみで、他は記述がないのだそうな。)

しかし、それだけではないらしく、ヨハネ伝になると更に異なる内容になっているらしい。イエスが「この中に私を裏切ろうとしている者がいる」と発言すると、或る弟子が「裏切るのは誰ですか?」とイエスに尋ねるという意味深なシーンがあるという。

或る弟子「裏切るのは誰ですか?」

イエス「私がパン一切れを(葡萄酒に)浸して与える者が、それである」

イエスは、そう言って一切れのパンを浸すと、そのパンをユダに与えた。パンをユダに与えたイエスはユダに向かって言った。

「しようとしていることを、今すぐしなさい」

このヨハネ伝のクダリは非常に不可解なのが分かる。読みようによっては、まるでイエスはユダに裏切られる事を知っていながら、そのユダに対して「しようとしていることを、今すぐしなさい」と裏切りを教唆しているかのようにも読めてしまうのだ。

何故、このような不可解な事が記されているのか? カート・バルトなる人物は『イスカリオテのユダ』という著書の中で、その問題に切り込んでいるという。あっと驚く話にもなってきますが、イエスの働きを十全に伝える為にはユダによる〈引き渡し〉という行為は、どうしても欠かせなかったと、逆転させて解釈しているという。

ストーリーは続くように少しだけ引用します。

イエスが差し出したパンを手にして、ユダが部屋を出て行ったあとの様子を語るヨハネ伝の記述は、バルトの言葉を裏打ちしている。裏切り者ユダという符牒に、根本的な異議を突きつけているように感じられる。

「さて、ユダが出ていくと、イエスは仰せになった」との一節から始められ、そこでイエスは、弟子たちに新しい掟を語った。

今こそ、人の子は栄光を受けた。

神もまた人の子によって

栄光をお受けになった。

〔中略〕

わたしは新しい掟をあなた方に与える。

互いに愛し合いなさい。

わたしがあなた方を愛したように、

あなた方も互いに愛し合いなさい。


ヨハネ伝の記述からすると、イエスが浸したパンをユダに手渡し、そのユダに対して「しようとしていることを、今すぐしなさい」と促し、ユダが出て行ったと同時に「人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって栄光をお受けになった」と語っているのだ。この一節は何を意味しているのだろうか?

因みに、姦通した女が石投げの刑になりそうになっている状況でイエスが「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」と言ったという逸話はヨハネ伝にある。旧約聖書では姦通は死罪であり、ヨハネ伝の記述でも規律に厳格なファリサイ派の人たちはイエスに対して「モーセは律法として、姦通をした者には医師を投げつけて殺すようにと命じています。ところで、あなたはどう考えますか?」と尋ねられてのイエスの返答が「罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」であった。

諸々を考慮すると、ユダの裏切りの真相は、巷間で語られているような「裏切者=ユダ」という解釈は誤まっている可能性がある。可能性があるというか、高いかも知れない。先述したように、ひょっとしたらユダによる裏切りがあったからこそ、イエスは聖性を帯びたという事ではないのか? それを示しているのが、「人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって栄光をお受けになった」という言葉に現れているのではないのか?

「キリストの十二使徒」と呼びたいところですが、実は「弟子」と訳している。それには意味があるそうで「十二使徒」という言葉はキリストの死後にキリストが聖霊となって弟子を支えるようになってから「十二使徒」と呼ぶような慣習があるらしい。つまり、イエスの生前の弟子は弟子に過ぎなかったがイエスの死後に弟子たちは使徒になった。また、イエスは自らについて「人の子」と名乗っていた謎も解ける。病人がイエスに触れると病気が治るなどの奇蹟を起こしていた事から、人々はイエスを「神の子」と考え、救世主だと考えていた。しかし、イエス自身はそれを認めないのだ。しかし、ユダの裏切りに遭い、大司祭に尋問を受けた場面で、とうとう認めるという場面がある。

引き続きヨハネ伝の伝承という事になりますが――逮捕したイエスを処刑する為に大司祭はイエスに質問する。

「生ける神に誓ってわれわれに言え。お前は神の子、メシアなのか?」

すると、イエスは次のように答えた。

「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。今から後、あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るだろう」

不可解な問答であるが、この箇所で、イエスは「神の子」である事、そして「メシア」(救世主)である事を認めるように「あなたの言う通りである」と回答しているのだ。また、唯一神教では自らを神であると名乗る事は神を冒涜する涜神行為と見做され、それは死罪に相当した。つまり、もし仮に、ユダの裏切りがなかったなら、イエスは処刑されることもなく、また、神の子と認める事もなく、或いは、神と人との間で交わされた栄光の交換(契約)もなく、また、そこからイエスが「愛」を説く展開にならなかった可能性がある。まるで、ユダの裏切りは予め仕組まれていたかのような、そういう行動であったのだ。

そして、そもそもイエスはユダを憎んだり、怨んだりしているだろうか? 裏切者のユダを罰するべきだと考えるだろうか? この裏切り行為の一連というのは、その罪を犯したユダこそが最も罪を背負って苦しむ事になった人物だという事になりやしないだろうか? 

前段で触れた「山上の説教」からすると、いわゆるカルマの法則を語っている。「悲しむ人は幸いである。その人は慰められる」のように説く。要は不足している者は満たされると説く。その法則性からすると、「大きな罪を抱えている者こそ、神による救済が必要である」という解釈になっていかないだろうか? 
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コロナ禍の最中に死んだ伯父があり、結局のところ、埋葬前に一度、線香を上げて、その後に墓参りを何度かしている。その伯父は兄弟の中では珍しく、ドラマ好きであった。競馬はするがナイター中継は見ないという当時としては珍しいタイプで、その伯父がドラマ「特捜最前線」を好きだったのをおぼえている。これが実にシブい刑事ドラマで「太陽のほえろ」や「Gメン75」あたりであればアクションなどの見せ場があった訳ですが「特捜最前線」ときたら、アクションは控え目。犯罪のウラにある人間ドラマを見せる型。そしてエンディングテーマは、何よりも印象的であった。ビル街を照らす夕陽の映像の中、チリアーノなる歌手が唄うラテン風の楽曲「私だけの十字架」が大音量で流れるのであった。


あーのーひーとーはー

あのひとは…

わーたーしーだけの じゅーじかー


「ああ、もう特捜最前線が終わった時間だぞ」という、しんみりとした気分を味わったものであった。ウチの父親は野球中継があれば野球中継を視て、その後はラジオ中継でビールを飲みながら聴き、ニュースを視聴して就寝するというタイプであったので、テレビの前に座してコーヒーを飲みながら刑事ドラマを視聴している伯父を珍しく感じた。更に別の伯父は一日に何本も時代劇を視聴するなんて言ってたから、きっと私の父親だけが兄弟の中でも特別で、アルコール&野球中継という飲んだくれのケが強い人間だったというのが実際であったか。


高校時代に目撃した落書きで忘れられない落書きがある。当時の東武東上線の館林駅であったか羽生駅であったか、そこのプラットフォームに白いペンキで塗られていた待合室があって、その待合室の隅の席に座ると、どこかの高校生が鉛筆で落書きしたイラストと文字があった。「祈り 長渕剛」と書いてあって、その脇に長い髪をした若い女性が祈っているようなイラストが斜めに傾くような角度で鉛筆描きしてあったのだ。

「シブい落書きだなぁ…」と、その高校生の時にも感じた。一緒にいた友人にもシブい落書きがある事を告げたが反応は鈍かった。その友人は極端なまでにアイドル歌謡しか聴かないタイプの友人であった。


おまえが去っていく、その前に

何故に電話くれなかったか

やさしすぎるお前のことだから

それが思いやりのつもりだったか


落書きもシブいのですが、その題材がシブい。長渕剛の「祈り」って…。でも、きっと、その落書きをした人物は、その楽曲がたまらなく好きで、その待合室の中で落書きを残したのでしょう。失恋の気分を紛らわしていていたのだろうか等と想像すると、何とも味わい深い落書きだと感じた。しかし、よくよく考えて見ると「祈り」の歌詞が気になってくる。その曲はサビの部分は


深く目を閉じて今、天女のように

おまえは一人、空へ帰る


であり、あれ、「去っていく」って、単に去っていってしまった恋人を想っている失恋の歌なのではなく、ひょっとしたら死別してしまったので、祈っているという歌詞だったの? 確かに「今度、生まれてきたときは」とかって歌っているし、単なる失恋にしてはヘビーすぎる。どこの誰だろう、こういうセンスを持っている人は…。

とはいえ、どうしようもないレベルのド田舎、そんな風に認識していたそんな駅、そんな駅の利用者の中にも「こういうセンスの人が居るんだな」と感じた。ざっと辺りを見回せば、誰も彼もフツウの人たちに見えたのだけれども。


中高生の頃というのは誰かと知り合いになって、その子の家へ遊びに行ったり、遊びに招いたり、なんだか簡単に仲良くなれたような気がする。ああいうのは、あの時代の中高生の特権であったのかもね。割と、そういう敷居は低くて、そんなに仲間外れにするだのなんだのという煩わしい人間関係はなかった。「よっ!」と片手を上げて挨拶をして、「ちっと付き合えよ」とか「少し寄ってけよ」と電車内で知り合った他校の連中とも直ぐに仲間意識を形成できた。私が思うに、当時はオトナ全体や社会全体が、もしくは学校そのものが敵になっていてくれたので、生徒同士では同じように迫害されている者同士という意識があったので、連帯する事のハードルが低かったかのような気がしている。そうした世相が、その時期の「オザキユタカ」というカリスマを登場させるベースになっていたような気もする。

学校が悪役を引き受けてくれていたところがあると感じるのは、私の場合は頭髪検査とか所持品検査とか、ホントにヤラレていましたからね。他校は校則がユルかったのかも知れませんが、抱えている不満なんてのは似たり寄ったりであったと思う。だけど、昨今はホントにスクールカーストみたいなものが形成されている訳でしょう? イヤな時代になったもんだね。想像しただけでも不愉快な気分になる。
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外部ではなく、内部、つまり、自らと向き合う事で、その者は大いなる存在を感じる事になる。それは神を感じるという事であり、そういった現象を「神を見る」と表現したり、「神の顕現」と呼んだりする。そもそも認識するシステムとは内部構造に拠っている。


イエスは洗礼を受けた後に布教活動をしたが、その期間は意外と短く2年半から3年程度であったと考えられるという。最終的には十字架に磔られて処刑された人物だという事になる。また、現在、検証してみれば、イエスはユダヤ教世界に於いては異端の人物であっただろうとなる。

目の不自由な者の目が見えるようしてしまう等の奇蹟を起こしながら、イエスは奇蹟の人として噂されるようになり、イエスの元には弟子が集まり、また、一行の行く手には救いを求める人々が続いたものと想像される。その行進はマハトマ・ガンジーの「塩の行進」のようなものであっただろうと若松英輔は『イエス伝』の中で表現している。

その最中、「山上の説教」と呼ばれる有名な説教があるのだという。その箇所をマタイ伝の第五章から引用している。

自分の貧しさを知る人は幸いである。

天の国はその人たちのものである。

悲しむ人は幸いである。

その人たちは慰められる。

柔和な人は幸いである。

その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人は幸いである。

その人たちは満たされる。

憐み深い人は幸いである。

その人たちは憐みを受ける。

心の清い人は幸いである。

その人たちは神を見る。

(『イエス伝』130〜131頁)

この「山上の説教」では、仏教哲学とも共通する因果応報の理が顕われている。「悲しむ人は、悲しむが故に慰められるであろう」となり、「憐み深い人は、そうであるが故に憐れみを受ける」という具合に因果に応じて報われるように説いている。そして、この「山上の説教」は、ビベーカーナンダという近代インド哲学者によって、この言葉がキリストの説教として認められる事は奇蹟であり、それはビベーカーナンダの師である聖者ラーマクリシュナが説いていた全宗教が帰結している原宗教的な教義であると指摘した。神へと到る道は、どの宗教も同一であり、すべての宗教は同じような事を説いている――というのがラーマクリシュナの指摘であった。

心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る。

というのだ。裏返せば、心の清くない人には神は見えない。「見えない」とは補足すれば「感じられない」という意味だ。仏教を念頭にしても八正道を想起すれば、そこに当て嵌まる。邪ではない事を以って正とし、邪念を払うところから物事は始まる。今日では成句になっている明鏡止水も、ほぼ同じで、邪念のない心境を濁りのない水鏡に喩えた言葉であり、曇りない鏡、水に濁りがなくなる静かな状況で初めて、物事の本質が見えるという意味で使用される。明鏡止水の出典は荘子(徳充符/とくじゅうふ)であり、「人は流れる水を鏡としないで止まっている水を鏡とする。鏡がはっきりと姿を映すのは、そこに塵やごみがないからである」に基づく。

しかもビベーカーナンダは原宗教の核心を突いている。いつ、どこで、だれが言ったか等の5W1Hは邪推であると切り捨てるのだ。これがヒンズー教の特徴などとしても挙げられていたと思いますが、5W1Hのような思考コードは西洋起源の科学主義的な何かであり、神髄中の神髄であろう宗教的直観からすれば、そもそも真実を言っているかどうかが最重要なのだ。相手が真理を語ろうとしているのに「何時何分何曜日、何月何日? 地球が何回まわったとき?」という具合に質問を浴びせ、相手をからかって悦に入っているような感覚は幼稚園児のようなものかも知れない。

なので、ビベーカーナンダは

「心の清い人は幸いである。/その人たちは神を見る」。この一節の中にあらゆる宗教を貫く神髄がある。」(同131頁)

といったという。カッコ内はヴィヴェーカーナンダ(ビベーカーナンダ)の「霊性の師」の一節の若松訳となる。

すべての宗教に通じるような道があるのは何故か? この問題を考える場合、偶々、世界各地で誕生した宗教が偶然に同じようなものになったのだろう、何故なら真理は一つの道に帰結するのだから――という考え方が一つ。もう一つは、ひょっとしたら、これらの宗教に似たようなものが見いだせるのは、それなりに現実的な交流があったからなのではないかという現実的な考察という事になる。

何故、仏教とキリスト教とに似ている点があるのか? いやいや、既に西域、おそらく古代ペルシャや、西域と呼ばれる地域の信仰がどうも混じっているから、マイトレーヤ(救世主=メシア=弥勒=キリスト≒香油を注がれた者)になっており、死後には天国と地獄とがあり、行為には善いカルマと悪いカルマとがあり…のように現に構成されているという不思議がある。

また、キリスト伝とブッダ伝とが似ていると、東洋思想・東洋哲学の碩学である中村元(なかむらはじめ)が指摘していたという。

中村はイエスが語る「愛」とブッダの「慈悲」、あるいはイエスが語る「真理」とブッダの語る「ダルマ(法・理法)が強く共振することを、学問的に、しかし、従来の通説と衝突することも辞さないという覚悟をもって論じている。『インド思想とギリシア思想との交流』で中村はこう書いている。

仏伝とイエス伝との間には非常な類似が存する。またイランのザラトゥストラ(ツァラトゥストラ)の伝記との間にも不思議な一致が存する。新約の諸々の物語が仏教やイランの宗教の影響であるかどうかは軽々しくは断定できない。しかしもしも両者の間に関連があったとすれば、仏教のほうがもとである。ともかく世界宗教の開祖が同じような伝説に包まれていたということは、人間性が世界宗教の開祖をかかるものとして欲しているという事を示している。
(『イエス伝』245〜246頁)

あー、やっぱり、気づいてたんじゃないか。「そんな事は有り得ない!」という具合に作用していた空気の方がホントはおかしかったのだと思うけど…。まぁ、こういう風に大胆な意見は言えないというのが現行世界の知の体系なんだろうけどね。

これ、何気に凄い内容なのだけれどもね。だってさ、ここが理解できると聖徳太子が馬小屋で生まれたという伝承になっている理由の話にも繋がってくる。聖徳太子には別名があり、その一つは「厩戸皇子」ですが、もう一つある。それは「豊聡耳」(とよとみみ)であり、これは聖徳太子は一度に十人の言い分を聞き分ける耳を持っていたから、豊かで聡い耳を持っていたと、そのような名前になったという逸話と共に成立している。

さぁ、イッキにいきますよ。毘沙門天とはミトラ神の化身であるという説を歴史雑誌の中からピックアップしてみせた松本清張の指摘を――。ミトラ神は万の眼を持ち、千の耳を持っていたとも評される万能の化身の火の神であり、敵を踏みつぶしている構図からして毘沙門天とは実質的には多聞天であり、つまり、ミトラ神であるという仮説を、松本清張は歴史雑誌の中で読んだ論文から引っ張り出した。その話が如実に浮かび上がってくる。聖徳太子の別名の一つは豊聡耳(とよとみみ)であり、一度に十人の話を聞く事が出来たという聖徳太子像はミトラ神の残像ではないのかとなる。何故、残像が聖徳太子伝説に遺されているのか? 直接的にではないにせよ、キリスト伝説やミトラ教を継承した何かが日本に於ける仏教の守護者である聖徳太子にも現に影響を与えていたと考えるべきであろうな、と思う。

以下は、松本清張著『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)の218〜219頁にかけて記されている事柄の要約となります。宮崎市定氏なる人物が『アジア史研究第二』に『毘沙門天信仰の東漸に就て』という論文を発表していたらしく、それを松本清張が前掲著の中で引いている。その内容によるとゾロアスター教の聖典「アベスター」のミヒル・ヤシト訳にはミトラとは千の耳を持つ神であり、万の眼を有する神であり、国家を護持する神であり、生長を司る神である事が記されているという。仏教の四天王は多聞天(毘沙門天)、広目天、持国天、増長天といった具合に実はゾロアスター教の取り入れていたミトラ神と、実は全く一致しているというもの。ミトラ神を四分割して取り入れて、仏教では四天王とし、守護神としていたという解釈になるという。千の耳を持ち、万の眼を持ち、国家守護であり、生長を司るというミトラ神に付託されていたそれぞれの性質が、多聞天、広目天、持国天、増長天に一致しているのは確かに注目して然るべき一致のように思える。
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東京・池袋で刃物を持った男が警察官らに囲まれながら「撃ってください。お願いします。撃ってください」と懇願しているという不可解な映像を昨夕と今夕にテレビで目にしました。諸々の理由で、その人物を未成年に近い若者だと思い込んでいたら46歳の男性であった。死にたくなって、ああした行動に出たという訳だ。また、このテのニュースの場合、現に映像を視ていた私が勝手に未成年に近い若年男性であろうと思ってしまった事にも通じていて、どこかしら、その彼に対してリアリティーを抱けていない事も分かってしまった。彼は自殺したいと思っているほど悩んでいるのでしょうけど、私からすると「年齢的にも若い者が、精神的に幼いままに、おかしな事をやっている映像」として認識していたという事でもある。違うんかよ。でも、そう見えてしまうという事は、きっと、あの彼は私以外の多くの者からも、そのように見くびられ続けて生きてきたのだろうなと思う。

迫力というか、人間的リアリティーというか、そういったものを周囲に認識してもらえない事の不幸を彼は背負っていたのかも知れない。


さて、若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)から引用します。

善き行いは、常に隠されてなくてはならない。むしろ、隠されることによって善きことは完成する。宣教を始めたイエスは、弟子たちに繰り返し、そう伝えた。そればかりか、ひけらかすことは神を前にし、善行を無にすることであるとイエスは言う。

続けて、マタイ伝の第6章が引用されている。

人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気をつけなさい。さもないと、天におられるあなた方の父のもとで、報いを受けることはできない。

若松氏が解説して、善行とは善行を為すことよりも、それを隠すことに真の困難があるという。つまり、善い人だと周囲に察知されてはならず、周囲に察知されぬように善行を為せというのだ。ましては、これ見よがしに行なわれる善行では、その善行は無に帰してしまうとも言っている。

何故、善い行いは隠されねばならないのかについて、隠されないと善行が善行としてカウントされなくなってしまうからという。これは、まさしく「カルマの法則」の話だ。善業(善行)と悪業(悪行)とがあり、あの世では善業も悪業も、それぞれに応報がある。仮に善い行いをしているところを、他人に見られてしまった場合、その者は現世で善業を費やしてしまった事になる。何故なら「善い人だ」と他人から評価されてしまうので、もう、現世に於いて報いを受けてしまっている事になるから。善業を、この世で報われぬまま、あの世へ持っていけば、あの世で、その生前の善業に対しての報いがあるという。あの世には父なる神があるという訳だ。

このカルマの法則については、我々は仏教を通して、よく知っている。『杜子春』に描かれていた天国と地獄という考え方であり、仏教に組み込まれている。仏教とは言いながら実際にはペルシャあたりの西域から流入した思想が組み込まれた何かであるという。「天国と浄土との区別もつかんのか!」と突っかかってくるのは早合点だ。そもそも我々が知るエンマ大王であるとか、この世のあの世、阿弥陀仏であるとか弥勒菩薩であるとか起源らしい起源は不明瞭となり、原始仏教にはないものが西域を経由して中国に入ってくる大乗仏教になる過程で取り入れられたと考えられているのだ。

そもそも、善い行いは、これ見よがしに行なうものではない。これ見よがしに善い行いをすれば、それを当てこすりとして受け止めて嫉妬されてしまう可能性もあり、本来的に善は隠れて行なうものだ。日頃は「キザ兄ちゃん」という道化者を演じながら、裏ではタイガーマスクを演じる伊達直人の美学だ。♪ 誰も知らない、知られちゃいけない、デビルマンは誰なのか? 一文字隼人や風見志郎がキャバクラへ行って「実は私は仮面ライダーなんですよ。わっはっは。カッコいいでしょう?」って名乗ってモテていたらカッコ悪いでしょ? それって善を行なう為の純粋な善意ではなく、モテる為、つまり、自己実現要求の為にやっているだけだなって思ってしまうでしょ? 

いやいや、ニーチェの似たような解説もあった。ペンシルヴァニア大学の哲学の名誉教授であるアルフォンソ・リンギスは、ニーチェを語る一節で次のように論じている。真の親切を完遂しようとすれば、親切にした後、目撃者があれば、その目撃者を棒で殴り倒して親切にした痕跡や証拠を消し、更に自らも棒で殴り倒して他人に親切をした等という邪悪な記憶を消すという話に言及している。本来、善行(善業)は隠すべきもの、人目をはばかって行うものなのだ。

これ見よがしの善では、「いい人ぶっている」になってしまうし、「あいつは善人だ」という評価を得る為のフェイクになってしまう。真に善を行使しようとするならば人に見られてはいけない。真の善業とは自分と天界に存在する神だけの内緒なのだ。また、そうする事で「大いなる何か」と自己との関係性が構築できるのが、秘めて行使する善業の神髄だという事になる。


さて、「祈り」である。この祈りも同様に秘めて行なわれるべきものである。もう、分かってでしょう。祈りとは、本来は現世利益の懇願をする行為ではなく、神と自己との対話の場であるから。お願い事なんてしても、薄情な神は手加減なんてしてくれないし、何某かの支援なんてものも期待できない。実際に自力で試練を乗り越えよというのが神の態度の定番であり、人事を尽くして天命を待つという境地まで行なった者が初めて神頼みをするのだ。出来る限りの事は自分なりにはしたので、どうか不運を差し向けるような意地悪だけは勘弁して下さい、と。いやいや、神とは畏れ多い何かであり、小銭を賽銭箱に投げ入れて「宝くじが当たりますように」とかお願いしちゃってる現代人がどうかしているのだ。また、縁結びの神だとか言って商売っ気たっぷりな神様に一体、何を期待できるだろう? 

ええーい、もどかしい! 私が代わりに答えてしまおうっ! 神は現世利益を祈願に来た者には更なる試練と苦しみを与えるであろうっ! 試験当日にお腹がゴロゴロしてしまい、試験どころではなくなるっ! 縁結びの神がもたらせた出会いは衝動買いをして後悔したぐらいの体験の重複だと思えっ! 失せ物なんて何処を探しても出てこないし、出てくる訳がないっ! 出て来たとしても拾ったヤツが捨てているっ! 

もとい。祈りとは外部から遮断した空間で、自己が神に静かに祈りを捧げてみる事、その実践であるという。神へのアプローチだ。他人は全く信用できないが、ひょっとしたら神は真に苦しむ者に対しては何がしかの救いの手を差し伸べるてくれるかも知れない。基本的には期待薄だ。しかし、それでも祈ってきたのが人なのだ。

何故、神との対話は誰にも知られてはならないのか? これは前段で述べたように善い行いは誰にも知られてはならないにも通じている。改めて、何故か?

それは神と向き合うルートとは、外部と接するルートではなく、内部にあるルートで神と接するルートだから――。神と自己だけの秘密の回路は内部にあるものだから――。

誰かが作った幸福感を感じたとしても、それが己れの真の幸福と無関係であるなら、いったい何の意味があるだろうか。真に幸福と呼ばるものは、「内部」にしか顕現しない。真に実在と呼ぶべきものは「外部」にはない。「内部」において時間は、とめどなく過ぎ去ってゆく。肉体的生がそうであるように、「外部」にあるものはすべて朽ちてゆく。しかし、「内部」は過ぎゆかない。(『イエス伝』142頁)

また、祈りは、異邦人のようにくどくどと祈ってはならないとマタイ伝が述べている箇所がある。

あなた方は祈る時、異邦人のようにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられてると思っている。彼らの真似をしてはならない。あなた方の父は、あなた方が願う前に、必要とするものを知っておられるからである」(マタイ伝第6章)

神とは内部ルートで繋がっているものなので、その者の願い事なんて既に知っているのだ。つまり、神は既に御見通しであるの意であり、老子の「天網恢恢疎にして漏らさず」に近いニュアンスなのだ。

静かに隠すようにして祈るというのが正解らしい。そのように自己と向き合う中で、その者は神の存在を感じる事になる――と。神の存在を感じることとは、神を見ることと同義である、とも。
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イエスは40日間にも及ぶ断食を行なったという。その際にイエスの残した言葉が、「人はパンのみにて生くる者に非ず」であった。慣習的には「人はパンのみにて生くる者に非ず」が使用されていますが、若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)から引用すると、次のようになる。

「人はパンだけでいきるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」

となり、マタイ伝4章を引いている。

状況としては、イエスは40日間の断食を敢行していた。そのときに近づいてきた人の仮面を被った悪魔が

「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう命じなさい」

と話し掛けた。それに対してイエスが「人はパンのみにて生くる者に非ず」と返答したという。ここで意外と重要なのは「悪魔のささやき」だという事になる。「石をパンに変えてしまえばいいじゃないか」とイエスに〈試練〉を課していると解釈するのだそうな。しかし、そういう問題ではないのだとして「人はパンのみにて生くるに非ず」と返答したという設定になっている。

意味合いとしては「人は食べ物を食べる為だけに生きているのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きるのである」という意味になっているという。「パンのみにて生くるに非ず」の次には「神の口から出るすべての言葉」であるが、慣用句としては後段は省略されている。

「神の口から出るすべての言葉」とは、即ちロゴスである。ロゴスとは「言葉」であると同時に、「概念」であり、「思想」でもある。

キリスト教だけではなく、イスラム教にも共通して「言葉は神である」という。ヨハネ伝の冒頭は以下のように始まる。

初めにみ言葉があった。

み言葉は神とともにあた。

み言葉は神であった。

み言葉は初めに神とともにあった。

この世はみ言葉によってできたが、

この世はみ言葉を認めなかった。

み言葉は自分の民の所へ来たが、

民は受け入れなかった。


つまり、ロゴスによって世界が形成されており、ロゴスを抜きにして世界を語る事もできないという古代ギリシャ哲学が確かに反映されている事が確認できる。また、旧約聖書の時代からモーゼたちは預言者なのであり、神の「み言葉」を預るものであったという事になる。今更の話でありながら、改めて、この問題を考えると、日本の奈良の葛城山の「一言主神」(ヒトコトヌシカミ)にも通じているような気さえしてくる。ロゴスと片仮名を使用してしまうと、言霊(ことだま)から距離があるような気がしてしまうが、意味合いとしては似ている。元始もしくは元始に近い状態であれば、コトバは認識世界を形成する全てであった。

フリーマン理論として紹介した、その提唱者のウォルター・ジャクソン・フリーマン3世あたりも、どんなに難しい数式のような事柄であっても、その実、言語で説明できないものはないという考えた方の信奉者であったという。ロゴスまで押し広げられれば自明でもあるのですが、通常の我々は言語を単なる意思伝達をする為の道具ぐらいにしか思っていなかったりする。令和の現在ともなれば、最低限度の単語のやりとりでコミュニケーションをするのがコスパに適っているだろうというコスパ思考になっている。

コトバといえばコトバなのですが、それをコトダマと言い換えると、魂と言葉とが一体化したかのようなニュアンスになってくる。当たり前なのですが、魂の発するロゴスを乗せて発される意の形態こそが言霊であった訳です。単なる道具ではない。魂と魂とを共鳴させる役割も持っていたのかも知れない。用事や用件なんてものは、どうでもいい。魂をどう見つめるかという問題になってゆくと、確かにこれはフロイトやユングの出番、もしくは神の出番になってくる。

また、このパンの話は「最後の晩餐」のクダリになると、イエスは弟子たちにパンとワインとを用いられている。そこではパンは肉を、ワインは血を暗示している。

また、これらの話からシャーマニズムらしいものを想起する事も出来るかも知れない。イエスをシャーマニズムとしてしまうのは問題を生じさせてしまうのかも知れませんが、体系として語れば、唯一神の言葉を預かったという預言者たちの伝承によって編纂された信仰体系である。その中で、論者によってはイエスも預言者の一人なのだろうとカウントするのでしょう。しかし、イエスの場合には少し趣きが異なっている。というのは「救世主」という性格が強く打ち出されているのだ。

「イエス・キリスト」という場合の「キリスト」とは救世主を意味しているから。ヘブライ語の「マーシーアッハ」はギリシャ語形にすると「メシアス」という発音になる。ギリシャ語に訳した時には「油を注がれた者≒洗礼を受けた者」の意味であり、ギリシャ語で【Christos】、ポルトガル語で【Christo】となり、発音は「クリスト」や「キリスト」となったという。しかし、元々の意味は〈救世主〉の意味であるという。つまり、ナザレのイエスに与えられた特別な敬称こそが、救世主を意味する「キリスト」という名前らしい。
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イエスはベツレヘム近郊の宿屋で生まれた。宿屋で男児が生まれたらしい事を最初に知ったのは羊飼いたちであった。この「羊飼い」とは当時のベツレヘムの階級階層で言えば最下層ギリギリのところだという。しかし、イエスの誕生は少し事情が違っていた。間もなく、東方から三人の博士らがマリアが産み落としたイエスを祝福にやってきた。この東方の三博士の「博士」の部分は【magoi】(マゴイ)であり、後に手品の意味の【magic】の語源になる、いわゆる【magi】(マギ)と呼ばれる人たちであったという。

では、このマギは、どういった人たちであったのかというと、天文学者にして同時に占星術師であり、預言者。魔法のような不思議な術を使うと人たちという意味で、特に限定することなく、不思議な術を使う人たちを「マギ」と呼んでいた。或る種の知識階級であり、おそらくは数学や建築学などの研究もマギから始まっていると考えられている。

マギについては諸説があり、ゾロアスター教の祭司であったとする説があり、ペルシャではマギといえば祭司になる一方で、バビロニアでは特に祭司のような身分になくとも魔術師もマギと呼ばれていたらしい。元々は古代イラン語の【magi】で音としては「マギ」もしくは「マグ」と呼んでいた何かであるという。

東方の三博士は、星座を観察している中でユダヤに王が生まれる、それは世界的な救世主になるような大人物であると察知して、はるばる遠方からイエスを拝しに来たものだという。この東方の三博士は異国の異教徒であったが、救世主が誕生すると予見して、イエスに黄金と乳香とを捧げに来たのであった。

東方の三博士はエルサレムへとやって来て、「新たにお産まれになったユダヤの王は、どこにおられますか?」と黄金と乳香を携えて尋ね廻ったので、エルサレムの人々は、東方の三博士がはるばる遠方から宝物を持ってやってきている事から類推して、何か一大事が起こっているらしい事を察知して、激しく動揺した。

東方の三博士がはるばるユダヤの王の誕生祝にやってきているという噂はヘロデ王の耳にも届いた。ヘロデ王は、新たに出生した嬰児に対して遠方から使者がやってきている事を快く思わなかった。いや、それどころではなく、嫉妬した。ヘロデ王の父は同じ名前でヘロデ大王と呼ばれていたが、この時代の王や王族は嫉妬深く王位を巡る争いも絶えず、殺し合いになる事も珍しくもなかった。ヘロデ王は、密かに東方の三博士に使いを送り、イエスの居場所が分かったら、自分も訪ねて祝福するつもりなので帰りに立ち寄って、どこでイエスが生まれたのかを教えるように伝えた。しかし、東方の三博士はイエスを詣でた後、ヘロデ王の元へは立ち寄らずに帰国したという。何故なら東方の三博士は夢の中でヘロデ王が良からぬ事を企てているというタダならぬ忠告を察知した為であったという。

ほどなく、ヨセフも夢で天使に遭遇した。夢の中に天使が現われ、その天使は主の言葉を伝えた。

「起きよ。幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げよ。そして、私が告げるまで、そこへ留まれ。ヘロデが幼子を探し出して、殺そうとしている」

これらの啓示について、四つの福音書の中ではマタイ伝のみが明確に「夢の中に天使が現われた」のように記しているという。マタイ伝は旧約聖書の影響が見られる事、そして旧約聖書を聖典とするユダヤ教では実は夢の中に天使が顕われて、主の言葉を伝えるというパターンは多いのだという。突き詰めてゆくと、実はジグムンド・フロイトはユダヤ人であり、そのフロイトが後に「心理学の父」と呼ばれる働きをしますが最初に手掛けたのは『夢判断』(現在は『夢解釈』に改称)であった。つまり、睡眠時に見る夢と現世とを繋ぐ入口であるという考え方はユダヤ人にはどうも昔から伝統的に備わっていた回路らしい。

「夢には、その者の無意識が投影されている」というのが心理学(精神分析)の地平をこじ開け、まさしく、その基本中の基本であったという事になる。
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