山田太一脚本のフジテレビ50周年記念ドラマ「ありふれた奇跡」を視聴している。第1話と第2話はヤバいぐらいに低調であったが第3話から徐々にエンジンがかかってきた。この題材は重々しく、仲間由紀恵&加瀬亮+陣内孝則という組み合わせ。冒頭で、駅のホームから自殺をしようとする中年男(陣内孝則)を加瀬亮演じる男と仲間由紀恵演じる女とが身を挺して止めて、警察にしょっぴかれるところからスタートする。
その3人は奇縁だとして、事後になってから「会ってみないか?」となり、3人は会合をしようという事になる。ストーリーが動き出すのは、そうした席で陣内孝則演じる男が「オレの直感なんだけど、あんたたちも自殺を考えた事があるんじゃねぇの?」と話を振ってはじまる。仲間由紀恵演じる中城加奈も、そして加瀬亮演じる田崎翔太も押し黙る。予感は的中してしまったのだ。中城加奈も田崎翔太も、「あの人、自殺するんじゃないの?」と神経が鋭敏になっていたのは、自分たちも自殺を考えた経験があったので、いち早く、気づき、そして制止したのであった。
とはいえ、中城加奈も田崎翔太も自分が自殺しようとした理由については中々、語ろうとしない。勿論、劇中でも「語りたくなければいいんだ」という了承が採れている世界である。が、第3話で翔太(加瀬亮)が自らが自殺を図った理由を告白する。ここからイッキにドラマにエンジンがかかった。現在で言うところのパワハラであった。
事務用品の営業マンをしていたが営業成績が悪く、田崎は同期の中でも成績はビリ。事業所内の営業マン同士で競争原理が機能するし、同期が居れば同期同士でも競争原理がかかる。そんな事は分かっているが田崎は営業成績を上げることができなかった。なんとかしないと田崎は自ら2百万円の借金をして自分の営業成績を上げようと、現在でいう「自爆営業」までしていたが、それでもダメだった。上司からは厳しく叱責される毎日で、顔を至近距離まで寄せてきて、「クズ」や「カス」、「給料泥棒だ」と罵られるような日々を送っていた。ある日、田崎は首つり自殺を図ったが幸いにも家族に発見され、救急搬送された結果、一命を取りとめたという過去を持っていた。
加奈(仲間由紀恵)に打ち明けたが、打ち明けると同時に翔太(加瀬亮)は、その場にへたり込んでしまう。情けない自分を晒した事で、腰砕けになるのだ。その上で、次のように言い放つ。「あんなにバカにされたのに、何も抵抗できなかった自分が情けなくて(自殺しようと思った)」と。このシーンなんてのが、非常に山田太一だよなと感じた。最も翔太を追い込んだのは〈上司の言葉そのもの〉ではなく、そんな上司の言葉に対しても何も言い返すことも出来なかった自分、理不尽だと思いながらも実際にペコペコと謝る事しか出来なかった自分が情けなくなって自殺を図った――と表現しているのだ。
翔太は自らが自殺を考えた理由を加奈に打ち明けた。加奈の方はというと、まだ、心の準備が出来ていないからと留保するが、ストーリーが進行していく中で加奈が自殺を考えた理由も明らかにされてゆく。実は以前に妊娠してしまった事があり、相手の男の事情もあって人工妊娠中絶を考えた。東南アジアでは数日間の旅行ついでに人工妊娠中絶をして帰ってくる日本人女性がいるという噂を耳にし、それとなくツテのある友人に相談してみたら、確かにあるというので加奈も海外で中絶手術を行なった。中絶そのものは成功したものの、妊娠できない身体になっていた。医療機関で2度ほど検査を受けてみたが、2度とも「子どもを産む事は難しい」と言われてしまった。こちらの加奈も自分自身で、その境遇を招いた事を激しく悔いている。加奈の年齢設定は29歳であるが、実は子供を産むことができないとなれば結婚は難しいのは必至となるので、内心では結婚は諦めている。(そんな中、やさしそうな翔太と出会い、気に入られているらしいと気づき、当惑している。)
カフカ 頭木弘樹編『決定版カフカ短編集』(新潮文庫)には『独身者の不幸』という僅か12行しかない一篇がある。実際に生涯独身であったカフカが、若かりし頃に書いたものであり、その書き出しは「いつまでも独身者でいるのはつらいことらしい、」で始まる。さらに「わたしには子供がおりませんと繰り返してばかり」というのは「つらいことらしい」のように綴っている。カフカは若い時分から「結婚はしたいけど、結婚には耐えられないだろう」のような不安を抱いていた。頭木弘樹氏の解説も踏まえて述べると、カフカは今風の表現でいうなら「ひきこもり型」の性格の持ち主で、小説は書き溜めていたが生前に発表したものはなく、そればかりか、親友に「僕が書き溜めてしまった小説はすべて燃やしてくれ」とまで言ってしまっていたスーパーネガティブ思考の人だったらしいのだ。流行とか売れ筋とは殆んど無縁の小説を書き溜めていたが、死後になって発表されたところ、あれよあれよと高評価され、最終的には「20世紀で最も偉大な作家」なんてところまでいってしまった人物だという。
繊細であるが故に押し潰されそうになってしまう自己であったり、或いは結果を知ることが怖いから、自分が傷つくのが怖いから、そもそも挑戦しないという風に考えてしまうタイプだったと思われる。実は、この性向は現代人の7割に見られると頭木弘樹氏が解説している。カフカは、そんな臆病者であるにもかかわらず、女性に何度か熱を上げており、婚約を申し込んで承諾を得るが、やっぱりボクには無理だと婚約破棄し、更に、もう一度、婚約を申し込んで承諾を得るが「やっぱ、無理だわ。ごめん」と婚約破棄をしているという具合の一生だったという。家は金持ちだったし、裁判所の助手のような仕事もしていたので考え方次第では結婚もできたであろうし、子供を持ったとしてもおかしくはない。しかし、そういう人で、そういう一生を送ったという。ついでに触れておくと、代表作でもある『変身』はじめ、他の作品からも事業を成功させた父親に対してのコンプレックスが強烈にあったように思われる。『変身』は、ある朝、目が覚めてみたら主人公は虫になっていたというストーリーであるが、その物語の最後は父親が投げつけたリンゴに殺されて終わる。人は傍目からすると世間体のようなものに囚われて、苦しみ、自分を傷つけてしまったりするものなのだ。
文藝別冊『山田太一〜テレビから聴こえたアフォリズム』(河出書房新社)には、『人生は誰も教えられないけれど』という山田太一のエッセイが収録されていた。思わず、笑いながら唸ってしまった部分があった。引用します。
「かつては笑いがあった。いまの夫妻にあるのは沈黙と冷淡である」というような文章を目にすると「夫婦なんてそんなもんよ」となんだか嬉しい。
「一世一代の世紀の恋」をして、半年で別れてしまった夫婦のことを中村紘子さんが書いている(『アルゼンチンまでもぐりたい』)。結婚してから夫の大好物が鮭の焼けこげた皮だと分ったのだそうである。妻は「まるでヘビの抜け殻みたいで箸で触るのもイヤ」なのに、夫は御飯粒の残った茶碗に入れてお茶を注いでクチャクチャにかき廻し「正視するのも耐え難いほど汚らしくなった」それを「それを満足気にすすったりしゃぶったりする。彼女は自分でも予期しなかったほどの激しい嫌悪感に、思わず身震いしてしまった」そうである。
結婚相手が、実は思ってもいなかった存在だと分るのは怖い。ところがどんな結婚だって、ほとんど必ずそういう意外性はあるのだろうからおそろしい。多くのはのぼせているうちに知り、ひそかに嘆きながらも、若さや性欲に助けられてなんとかやって行くのだけれど、それで配偶者の実体が分ったつもりでいると、そうはいかない。中年になって、それまで隠していたおぞましいものが急に浮上したりするのである。死ぬまで隠していた秘密などというものもある。そんなことはうちみたいな平凡な夫婦にはない、と思っていると、とんでもない。人間は分らない。誰がなにを秘めているか知れやしない。そういう分らない他人と一緒に暮そうというのは、ほとんど無謀というか無神経というか怖いもの知らずなことで、他者のエゴ、性向、不潔に多少の想像力があれば、結婚などめったにデキるものではないはずなのである。(『山田太一 テレビから聴こえたアフォリズム』181頁)
焼き鮭の皮が大好物だという人は確かに居そうだし、それが他人であった場合、その鮭の皮を茶漬けのようにしてクチャクチャとやられた場合、確かにドン引きしてしまう可能性がある。いわゆる「クチャラー」の話というのは今日的には言葉として語る事も可能になったものの、実際に相手と面と向かっている場合、中々に指摘しにくい事でもあるだろうから、ドン引きしてしまう感覚というのも分かる。人というのはそれぞれだ。
しかし、先日、ETV特集「小津安二郎は生きている」が放送されていたが、クチャクチャと音を立てて、おいしそうにお茶を飲むシーンが紹介されていた。クチャ音に注目したものではないにしても完璧主義者の小津安二郎でさえ、そんな事を気にしていないのだから、現代人の側が他人のマナーに対して厳しくなったのだろうなと思う。そういう事までもを含めて、山田太一は「(結婚とは)ほとんど無謀というか無神経というか怖いもの知らずなことで」と表現していたりするのだ。
山田太一作品としては今一つ不発気味にも思えた「ありふれた奇跡」であったが、テーマは山田太一が練りに練ったものであったのだろうなぁ…と感じた。残酷な現実を突きつけてしまっているドラマなので視聴率は予想通り苦戦し、作品評にしても必ずしも高くなかったのも頷ける。しかし、それでも深味は凄いなと感じた。「ありふれた奇跡」でも、中城家の加奈(仲間由紀恵)の両親は岸部一徳と戸田恵子で、祖母は八千草薫が演じているが、両親や祖母は「何故、結婚しないの?」や「子供が欲しくないなんて言うの?」とやってしまい、加奈を苦しめてしまう。そんな加奈を庇おうとして田崎翔太(加瀬亮)は「子供が嫌いなんです」と言ってしまうが、すると中城家の人達は「きっと田崎さんは無精子症なのよ。断じて加奈との交際は認められません!」なんてやってしまう。
一個の人間を掘り下げていった場合、その人から「何が出てくるか分からない」という問題があり、実際に一個人は傍目からすると思いもよらぬ秘密を持っていたりする。加奈の母親役(戸田恵子)は比較的冷静に取り乱すことなく対応してみせるが、田崎翔太に自爆営業の末に借金を抱えて自殺未遂をした事があるという過去を知らされると、内輪の会話としてであるが「あの子、次から次へと、一体、何が出てくるかわかりゃしないわ」というセリフを吐く。世間の反応とは、そういう冷淡なものなのだ。
重苦しいドラマでコメディ風の味付けで活きる仲間由紀恵さん主演なのに軽妙な笑いがない。救いは田崎翔太の父親(風間杜夫)と祖父(井川比佐志)の漫才風の演技に掛かっている。因みに、回数を重ねていくと、風間杜夫と岸部一徳が実は同じ女装クラブに通っているという設定が出てくる。漫才風の演技では風間杜夫が行き着いた落語の模写で鍛えた笑わせる演技、その技量が発揮されている。
その3人は奇縁だとして、事後になってから「会ってみないか?」となり、3人は会合をしようという事になる。ストーリーが動き出すのは、そうした席で陣内孝則演じる男が「オレの直感なんだけど、あんたたちも自殺を考えた事があるんじゃねぇの?」と話を振ってはじまる。仲間由紀恵演じる中城加奈も、そして加瀬亮演じる田崎翔太も押し黙る。予感は的中してしまったのだ。中城加奈も田崎翔太も、「あの人、自殺するんじゃないの?」と神経が鋭敏になっていたのは、自分たちも自殺を考えた経験があったので、いち早く、気づき、そして制止したのであった。
とはいえ、中城加奈も田崎翔太も自分が自殺しようとした理由については中々、語ろうとしない。勿論、劇中でも「語りたくなければいいんだ」という了承が採れている世界である。が、第3話で翔太(加瀬亮)が自らが自殺を図った理由を告白する。ここからイッキにドラマにエンジンがかかった。現在で言うところのパワハラであった。
事務用品の営業マンをしていたが営業成績が悪く、田崎は同期の中でも成績はビリ。事業所内の営業マン同士で競争原理が機能するし、同期が居れば同期同士でも競争原理がかかる。そんな事は分かっているが田崎は営業成績を上げることができなかった。なんとかしないと田崎は自ら2百万円の借金をして自分の営業成績を上げようと、現在でいう「自爆営業」までしていたが、それでもダメだった。上司からは厳しく叱責される毎日で、顔を至近距離まで寄せてきて、「クズ」や「カス」、「給料泥棒だ」と罵られるような日々を送っていた。ある日、田崎は首つり自殺を図ったが幸いにも家族に発見され、救急搬送された結果、一命を取りとめたという過去を持っていた。
加奈(仲間由紀恵)に打ち明けたが、打ち明けると同時に翔太(加瀬亮)は、その場にへたり込んでしまう。情けない自分を晒した事で、腰砕けになるのだ。その上で、次のように言い放つ。「あんなにバカにされたのに、何も抵抗できなかった自分が情けなくて(自殺しようと思った)」と。このシーンなんてのが、非常に山田太一だよなと感じた。最も翔太を追い込んだのは〈上司の言葉そのもの〉ではなく、そんな上司の言葉に対しても何も言い返すことも出来なかった自分、理不尽だと思いながらも実際にペコペコと謝る事しか出来なかった自分が情けなくなって自殺を図った――と表現しているのだ。
翔太は自らが自殺を考えた理由を加奈に打ち明けた。加奈の方はというと、まだ、心の準備が出来ていないからと留保するが、ストーリーが進行していく中で加奈が自殺を考えた理由も明らかにされてゆく。実は以前に妊娠してしまった事があり、相手の男の事情もあって人工妊娠中絶を考えた。東南アジアでは数日間の旅行ついでに人工妊娠中絶をして帰ってくる日本人女性がいるという噂を耳にし、それとなくツテのある友人に相談してみたら、確かにあるというので加奈も海外で中絶手術を行なった。中絶そのものは成功したものの、妊娠できない身体になっていた。医療機関で2度ほど検査を受けてみたが、2度とも「子どもを産む事は難しい」と言われてしまった。こちらの加奈も自分自身で、その境遇を招いた事を激しく悔いている。加奈の年齢設定は29歳であるが、実は子供を産むことができないとなれば結婚は難しいのは必至となるので、内心では結婚は諦めている。(そんな中、やさしそうな翔太と出会い、気に入られているらしいと気づき、当惑している。)
カフカ 頭木弘樹編『決定版カフカ短編集』(新潮文庫)には『独身者の不幸』という僅か12行しかない一篇がある。実際に生涯独身であったカフカが、若かりし頃に書いたものであり、その書き出しは「いつまでも独身者でいるのはつらいことらしい、」で始まる。さらに「わたしには子供がおりませんと繰り返してばかり」というのは「つらいことらしい」のように綴っている。カフカは若い時分から「結婚はしたいけど、結婚には耐えられないだろう」のような不安を抱いていた。頭木弘樹氏の解説も踏まえて述べると、カフカは今風の表現でいうなら「ひきこもり型」の性格の持ち主で、小説は書き溜めていたが生前に発表したものはなく、そればかりか、親友に「僕が書き溜めてしまった小説はすべて燃やしてくれ」とまで言ってしまっていたスーパーネガティブ思考の人だったらしいのだ。流行とか売れ筋とは殆んど無縁の小説を書き溜めていたが、死後になって発表されたところ、あれよあれよと高評価され、最終的には「20世紀で最も偉大な作家」なんてところまでいってしまった人物だという。
繊細であるが故に押し潰されそうになってしまう自己であったり、或いは結果を知ることが怖いから、自分が傷つくのが怖いから、そもそも挑戦しないという風に考えてしまうタイプだったと思われる。実は、この性向は現代人の7割に見られると頭木弘樹氏が解説している。カフカは、そんな臆病者であるにもかかわらず、女性に何度か熱を上げており、婚約を申し込んで承諾を得るが、やっぱりボクには無理だと婚約破棄し、更に、もう一度、婚約を申し込んで承諾を得るが「やっぱ、無理だわ。ごめん」と婚約破棄をしているという具合の一生だったという。家は金持ちだったし、裁判所の助手のような仕事もしていたので考え方次第では結婚もできたであろうし、子供を持ったとしてもおかしくはない。しかし、そういう人で、そういう一生を送ったという。ついでに触れておくと、代表作でもある『変身』はじめ、他の作品からも事業を成功させた父親に対してのコンプレックスが強烈にあったように思われる。『変身』は、ある朝、目が覚めてみたら主人公は虫になっていたというストーリーであるが、その物語の最後は父親が投げつけたリンゴに殺されて終わる。人は傍目からすると世間体のようなものに囚われて、苦しみ、自分を傷つけてしまったりするものなのだ。
文藝別冊『山田太一〜テレビから聴こえたアフォリズム』(河出書房新社)には、『人生は誰も教えられないけれど』という山田太一のエッセイが収録されていた。思わず、笑いながら唸ってしまった部分があった。引用します。
「かつては笑いがあった。いまの夫妻にあるのは沈黙と冷淡である」というような文章を目にすると「夫婦なんてそんなもんよ」となんだか嬉しい。
「一世一代の世紀の恋」をして、半年で別れてしまった夫婦のことを中村紘子さんが書いている(『アルゼンチンまでもぐりたい』)。結婚してから夫の大好物が鮭の焼けこげた皮だと分ったのだそうである。妻は「まるでヘビの抜け殻みたいで箸で触るのもイヤ」なのに、夫は御飯粒の残った茶碗に入れてお茶を注いでクチャクチャにかき廻し「正視するのも耐え難いほど汚らしくなった」それを「それを満足気にすすったりしゃぶったりする。彼女は自分でも予期しなかったほどの激しい嫌悪感に、思わず身震いしてしまった」そうである。
結婚相手が、実は思ってもいなかった存在だと分るのは怖い。ところがどんな結婚だって、ほとんど必ずそういう意外性はあるのだろうからおそろしい。多くのはのぼせているうちに知り、ひそかに嘆きながらも、若さや性欲に助けられてなんとかやって行くのだけれど、それで配偶者の実体が分ったつもりでいると、そうはいかない。中年になって、それまで隠していたおぞましいものが急に浮上したりするのである。死ぬまで隠していた秘密などというものもある。そんなことはうちみたいな平凡な夫婦にはない、と思っていると、とんでもない。人間は分らない。誰がなにを秘めているか知れやしない。そういう分らない他人と一緒に暮そうというのは、ほとんど無謀というか無神経というか怖いもの知らずなことで、他者のエゴ、性向、不潔に多少の想像力があれば、結婚などめったにデキるものではないはずなのである。(『山田太一 テレビから聴こえたアフォリズム』181頁)
焼き鮭の皮が大好物だという人は確かに居そうだし、それが他人であった場合、その鮭の皮を茶漬けのようにしてクチャクチャとやられた場合、確かにドン引きしてしまう可能性がある。いわゆる「クチャラー」の話というのは今日的には言葉として語る事も可能になったものの、実際に相手と面と向かっている場合、中々に指摘しにくい事でもあるだろうから、ドン引きしてしまう感覚というのも分かる。人というのはそれぞれだ。
しかし、先日、ETV特集「小津安二郎は生きている」が放送されていたが、クチャクチャと音を立てて、おいしそうにお茶を飲むシーンが紹介されていた。クチャ音に注目したものではないにしても完璧主義者の小津安二郎でさえ、そんな事を気にしていないのだから、現代人の側が他人のマナーに対して厳しくなったのだろうなと思う。そういう事までもを含めて、山田太一は「(結婚とは)ほとんど無謀というか無神経というか怖いもの知らずなことで」と表現していたりするのだ。
山田太一作品としては今一つ不発気味にも思えた「ありふれた奇跡」であったが、テーマは山田太一が練りに練ったものであったのだろうなぁ…と感じた。残酷な現実を突きつけてしまっているドラマなので視聴率は予想通り苦戦し、作品評にしても必ずしも高くなかったのも頷ける。しかし、それでも深味は凄いなと感じた。「ありふれた奇跡」でも、中城家の加奈(仲間由紀恵)の両親は岸部一徳と戸田恵子で、祖母は八千草薫が演じているが、両親や祖母は「何故、結婚しないの?」や「子供が欲しくないなんて言うの?」とやってしまい、加奈を苦しめてしまう。そんな加奈を庇おうとして田崎翔太(加瀬亮)は「子供が嫌いなんです」と言ってしまうが、すると中城家の人達は「きっと田崎さんは無精子症なのよ。断じて加奈との交際は認められません!」なんてやってしまう。
一個の人間を掘り下げていった場合、その人から「何が出てくるか分からない」という問題があり、実際に一個人は傍目からすると思いもよらぬ秘密を持っていたりする。加奈の母親役(戸田恵子)は比較的冷静に取り乱すことなく対応してみせるが、田崎翔太に自爆営業の末に借金を抱えて自殺未遂をした事があるという過去を知らされると、内輪の会話としてであるが「あの子、次から次へと、一体、何が出てくるかわかりゃしないわ」というセリフを吐く。世間の反応とは、そういう冷淡なものなのだ。
重苦しいドラマでコメディ風の味付けで活きる仲間由紀恵さん主演なのに軽妙な笑いがない。救いは田崎翔太の父親(風間杜夫)と祖父(井川比佐志)の漫才風の演技に掛かっている。因みに、回数を重ねていくと、風間杜夫と岸部一徳が実は同じ女装クラブに通っているという設定が出てくる。漫才風の演技では風間杜夫が行き着いた落語の模写で鍛えた笑わせる演技、その技量が発揮されている。