「頭(こうべ)を垂れるものと言えば、何でしょう?」と問われたら、多くの者は「実るほど頭を垂るる稲穂かな」を連想するので、きっと�牋霾罩瓩伐鹽�するでしょう。ここで「稲穂」の他にどんな回答が考えられるのかというと、きっと�狄深足瓩澄�それも、その人は、長渕剛の「RUN」の歌詞から、その回答を導くに違いない。
♪
賽銭箱に 百円玉投げたら
釣銭でてくる人生がいいと
両手を合わせ 祈れば祈るほど
バチに蹴っつまづいて膝を擦りむいた
なるべくなら なるべくなら
嘘はない方がいい
嘘は言わない そう 心に決めて
嘘をつき続けてオレ生きている
恨む心も 願う心も お前の前にいると
真実 おお、真実
真実だけが 頭を垂れる
は、かなり印象的な歌詞だ。中には、こうした歌詞をバカにする者もあるが、これは凄い歌詞だよなと思う。この頃の長渕剛の精神状態は色々あった訳ですが、ホントに深く仏教思想に迫っていたような気がする。
「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しが完璧なのだ。中村元の『原始仏教』で展開されている論旨と全く同じだ。嘘はよくない。原始仏教というブッダの教えが濃い部分では基本的に嘘を認めていない。但し、相手を傷つけない為に吐く嘘、つまり、相手を傷つけぬ為に方便として吐く嘘については、それを禁じていないという。その点からしても「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しは見事なのだ。
そして、今回、実は「頭を垂れるものといえば何か?」という部分で気づいてしまった。中沢新一著『精霊の王』(講談社)の中で、伝最澄作だという『天台法華宗牛頭法門要簒』(てんだいほっけしゅうごずほうもんようさん)という書物を、本覚思想・本覚論の説明をするにあたり、「第五 煩悩を一時に断滅すること」が引用されていた。引用していたのは現代文であり、日本思想体系9『天台本覚論』だったのですが、その冒頭が次の一文なのだ。
真理の前に頭を垂れて、いっさいのおごりたかぶりを捨てて思慮してみると、生と死という二つの存在のあり方は、唯一無二の存在である「心」というもののしめす霊妙な動きであり、また有と無となる二つの存在のあり方は、人間にもともと備わった覚知性(本覚)の属性そのものだという事がわかる。その理由は、「心」はほんらい過去も未来もない人間性を超越した純粋な働きであり、「たましい(神)」というものはこの宇宙をあまねく埋め尽くしている存在の理法のことを、いいあらわそうとしてるからである。(『精霊の王』137〜138頁)
厳密に言えば【真実】と【真理】という文字の差異はあるが、或る意味では天台仏教(日本仏教)思想の核心中の核心を、歌詞にしているようなものだ。実際に「頭を垂れる」という表現を使うケースをネット検索を含めて探してみるといい。おそらく「稲穂」と「真実・真理」ぐらいしか出て来ない。それぐらいしか「頭を垂れる」という表現の用法は存在していない。よくぞ、この頃の長渕剛は、この歌詞を捻り出したものだよなぁって感心する。
世の中を見渡せば、謙虚さを見失い驕り高ぶる権力者たちの腐敗ばかりが目につく。何故、ほんの少しでも謙虚に振る舞えないものなのだろうか。よく「心を沈潜させて」のような言葉で説明される訳ですが、これが出来ずに感情的になってしまう現代人の何と多いことか…。また、上記に引用した箇所は、現代人に「心とは何か?」の問題について的確に答えているようにも思える。
或る者にとって、心とは現在進行形のその者の〈気持ち〉でしかない。しかし、現在の〈気持ち〉に頓着することなく、心を大きく押し広げて、過去も未来も、そして仏性という名の宇宙原理は当然に宇宙に溢れているものだと捉えてる事も可能だ。
虚飾と見栄にまみれるようにして現代人は生きている。「真実なんてものは捏造しちまえばいいのだ」と思っている者が増加してしまっている。しかし、そうなってくると本格的な腐敗で、太田龍風に言えばサタニズムであり、つまり、悪魔崇拝をしているようなものだ。
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賽銭箱に 百円玉投げたら
釣銭でてくる人生がいいと
両手を合わせ 祈れば祈るほど
バチに蹴っつまづいて膝を擦りむいた
なるべくなら なるべくなら
嘘はない方がいい
嘘は言わない そう 心に決めて
嘘をつき続けてオレ生きている
恨む心も 願う心も お前の前にいると
真実 おお、真実
真実だけが 頭を垂れる
は、かなり印象的な歌詞だ。中には、こうした歌詞をバカにする者もあるが、これは凄い歌詞だよなと思う。この頃の長渕剛の精神状態は色々あった訳ですが、ホントに深く仏教思想に迫っていたような気がする。
「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しが完璧なのだ。中村元の『原始仏教』で展開されている論旨と全く同じだ。嘘はよくない。原始仏教というブッダの教えが濃い部分では基本的に嘘を認めていない。但し、相手を傷つけない為に吐く嘘、つまり、相手を傷つけぬ為に方便として吐く嘘については、それを禁じていないという。その点からしても「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しは見事なのだ。
そして、今回、実は「頭を垂れるものといえば何か?」という部分で気づいてしまった。中沢新一著『精霊の王』(講談社)の中で、伝最澄作だという『天台法華宗牛頭法門要簒』(てんだいほっけしゅうごずほうもんようさん)という書物を、本覚思想・本覚論の説明をするにあたり、「第五 煩悩を一時に断滅すること」が引用されていた。引用していたのは現代文であり、日本思想体系9『天台本覚論』だったのですが、その冒頭が次の一文なのだ。
真理の前に頭を垂れて、いっさいのおごりたかぶりを捨てて思慮してみると、生と死という二つの存在のあり方は、唯一無二の存在である「心」というもののしめす霊妙な動きであり、また有と無となる二つの存在のあり方は、人間にもともと備わった覚知性(本覚)の属性そのものだという事がわかる。その理由は、「心」はほんらい過去も未来もない人間性を超越した純粋な働きであり、「たましい(神)」というものはこの宇宙をあまねく埋め尽くしている存在の理法のことを、いいあらわそうとしてるからである。(『精霊の王』137〜138頁)
厳密に言えば【真実】と【真理】という文字の差異はあるが、或る意味では天台仏教(日本仏教)思想の核心中の核心を、歌詞にしているようなものだ。実際に「頭を垂れる」という表現を使うケースをネット検索を含めて探してみるといい。おそらく「稲穂」と「真実・真理」ぐらいしか出て来ない。それぐらいしか「頭を垂れる」という表現の用法は存在していない。よくぞ、この頃の長渕剛は、この歌詞を捻り出したものだよなぁって感心する。
世の中を見渡せば、謙虚さを見失い驕り高ぶる権力者たちの腐敗ばかりが目につく。何故、ほんの少しでも謙虚に振る舞えないものなのだろうか。よく「心を沈潜させて」のような言葉で説明される訳ですが、これが出来ずに感情的になってしまう現代人の何と多いことか…。また、上記に引用した箇所は、現代人に「心とは何か?」の問題について的確に答えているようにも思える。
或る者にとって、心とは現在進行形のその者の〈気持ち〉でしかない。しかし、現在の〈気持ち〉に頓着することなく、心を大きく押し広げて、過去も未来も、そして仏性という名の宇宙原理は当然に宇宙に溢れているものだと捉えてる事も可能だ。
虚飾と見栄にまみれるようにして現代人は生きている。「真実なんてものは捏造しちまえばいいのだ」と思っている者が増加してしまっている。しかし、そうなってくると本格的な腐敗で、太田龍風に言えばサタニズムであり、つまり、悪魔崇拝をしているようなものだ。

