どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:神々の遺産 > アースダイバー

「頭(こうべ)を垂れるものと言えば、何でしょう?」と問われたら、多くの者は「実るほど頭を垂るる稲穂かな」を連想するので、きっと�牋霾罩瓩伐鹽�するでしょう。ここで「稲穂」の他にどんな回答が考えられるのかというと、きっと�狄深足瓩澄�それも、その人は、長渕剛の「RUN」の歌詞から、その回答を導くに違いない。

♪
賽銭箱に 百円玉投げたら

釣銭でてくる人生がいいと

両手を合わせ 祈れば祈るほど

バチに蹴っつまづいて膝を擦りむいた

なるべくなら なるべくなら

嘘はない方がいい

嘘は言わない そう 心に決めて

嘘をつき続けてオレ生きている

恨む心も 願う心も お前の前にいると 

真実 おお、真実

真実だけが 頭を垂れる


は、かなり印象的な歌詞だ。中には、こうした歌詞をバカにする者もあるが、これは凄い歌詞だよなと思う。この頃の長渕剛の精神状態は色々あった訳ですが、ホントに深く仏教思想に迫っていたような気がする。

「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しが完璧なのだ。中村元の『原始仏教』で展開されている論旨と全く同じだ。嘘はよくない。原始仏教というブッダの教えが濃い部分では基本的に嘘を認めていない。但し、相手を傷つけない為に吐く嘘、つまり、相手を傷つけぬ為に方便として吐く嘘については、それを禁じていないという。その点からしても「なるべくなら嘘はない方がいい」という言い回しは見事なのだ。

そして、今回、実は「頭を垂れるものといえば何か?」という部分で気づいてしまった。中沢新一著『精霊の王』(講談社)の中で、伝最澄作だという『天台法華宗牛頭法門要簒』(てんだいほっけしゅうごずほうもんようさん)という書物を、本覚思想・本覚論の説明をするにあたり、「第五 煩悩を一時に断滅すること」が引用されていた。引用していたのは現代文であり、日本思想体系9『天台本覚論』だったのですが、その冒頭が次の一文なのだ。

真理の前に頭を垂れて、いっさいのおごりたかぶりを捨てて思慮してみると、生と死という二つの存在のあり方は、唯一無二の存在である「心」というもののしめす霊妙な動きであり、また有と無となる二つの存在のあり方は、人間にもともと備わった覚知性(本覚)の属性そのものだという事がわかる。その理由は、「心」はほんらい過去も未来もない人間性を超越した純粋な働きであり、「たましい(神)」というものはこの宇宙をあまねく埋め尽くしている存在の理法のことを、いいあらわそうとしてるからである。(『精霊の王』137〜138頁)

厳密に言えば【真実】と【真理】という文字の差異はあるが、或る意味では天台仏教(日本仏教)思想の核心中の核心を、歌詞にしているようなものだ。実際に「頭を垂れる」という表現を使うケースをネット検索を含めて探してみるといい。おそらく「稲穂」と「真実・真理」ぐらいしか出て来ない。それぐらいしか「頭を垂れる」という表現の用法は存在していない。よくぞ、この頃の長渕剛は、この歌詞を捻り出したものだよなぁって感心する。

世の中を見渡せば、謙虚さを見失い驕り高ぶる権力者たちの腐敗ばかりが目につく。何故、ほんの少しでも謙虚に振る舞えないものなのだろうか。よく「心を沈潜させて」のような言葉で説明される訳ですが、これが出来ずに感情的になってしまう現代人の何と多いことか…。また、上記に引用した箇所は、現代人に「心とは何か?」の問題について的確に答えているようにも思える。

或る者にとって、心とは現在進行形のその者の〈気持ち〉でしかない。しかし、現在の〈気持ち〉に頓着することなく、心を大きく押し広げて、過去も未来も、そして仏性という名の宇宙原理は当然に宇宙に溢れているものだと捉えてる事も可能だ。

虚飾と見栄にまみれるようにして現代人は生きている。「真実なんてものは捏造しちまえばいいのだ」と思っている者が増加してしまっている。しかし、そうなってくると本格的な腐敗で、太田龍風に言えばサタニズムであり、つまり、悪魔崇拝をしているようなものだ。
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グラハム・ハンコックの『人類前史』を読み終えてみて、これは中々に中沢新一の『アースダイバー』にも通じるような話ではないのかという気がしていた。『アースダイバー』は高台の地層は洪積層であり、それは1万年前以上から既に陸地であったが沖積層の方は比較的新しい低地であり、それらの地縁が延々と続いていると展開させた試論だ。地質学な洪積層と沖積層との差異が、そのまま、「高台と低地」、「山の手と下町」のように現代まで因縁を引き摺っているかのように読みよいてゆく。中沢新一は目には見えないが「霊性」のようなものがあるという前提なのだ。『人類前史』の方も更新世(これは洪積世の新しい呼称)には、世界にまたがるような巨大な先史文明があったのではないかという話であり、その辺りは中沢新一の『精霊の王』の内容とも少しダブっており、ケルト神話やギリシャ神話と日本の縄文時代との類似点などに触れられている。(細かい事を述べると、ストーンヘンジのような巨石文明はケルト人ではなく、ケルト以前の先住民が有していた何かだと考えるのが最先端なのかな。)

しかし、『アースダイバー』以上に衝撃を感じたのは同じく中沢新一の『精霊の王』の方であった。中沢新一の著書としては『森のバロック』と『精霊の王』で、非常に難解な問題に触れている。『カイエソバージュ』や『アースダイバー』の敲き台になっているのが『森のバロック』と『精霊の王』といったものになるのだと思う。

グラハム・ハンコックが指摘している先史文明と、中沢新一が展開させている古層の神々は完全に一致している訳ではないのでしょうけど、結局のところ、シャーマンが支配していた多神教時代という先史時代の探究であり、その扉というのは『金枝篇』とも繋がってゆく。キリスト教世界以前の世界は多神教の世界であり、文字を有さなかったという意味では先史時代でもある。そして、その時代は実は非常に長かったと考えられるのだ。


【宿神】と表記して「シュクジン」と読むのは難しくない。当て字から、意味も想像しやすく、宿る神だ。一方、【石神】と表記した場合は各地で読みが異なるようで「シャグジ」、「シュグジ」、「しゃくじん」、そして【宿神】と同じで「シュクジン」と読んだりする。この他にも様々な呼称が存在し、当て字と思われる漢字も存在するのだという。因みに広辞苑には【しゃくじん】の読みで項目が設けられている。

『精霊の王』では、シャグジという呼称が用いられているので、それを踏襲しますが、石を身体として祀った祠であり、正体としては民間信仰の神であり、それでいて記紀にも記されている神だという。霊山を神として崇めていたのではなく、石を神として崇めていたとなると少しニュアンスが違ってくる。しかも、このシャグジについては正体不明という程ではないにしても詳細は明らかではない謎の「古層の神」だという。明治40年代の日本民俗学の黎明期にシャグジに柳田国男が着目して、『石神問答』(いしがみもんどう)という著書を残しているが、基本的には正体不明の謎の神であり、しかも、それは古層の神であり、おそらくは精霊だという。

道祖神も石神ではあり、道祖神は、いわゆる「塞の神」(さえのかみ)であり、道の分岐点のような境界に置かれ、邪悪なものがそのエリアに入って来ることを防ぐ神。道祖神については、どうも男女和合の石像が多いので性的要素のある縁結びの神の性質を持っていること、そして、それが古層の神であることも断片的な知識としては有していたのですが、この「シャグジ」も基本的には同じ石の神の話であるが、それが掘り下げてある。

武蔵野や中部山岳地帯にの村に行くと、シャグジを発見するのは難しくないのだそうな。神社の脇の方にどけられていたり、道端の小祠に祀られているという。そうはいっても、いちいち、道端にある小祠を見てまわるなどという事はない。また、それが単なる地蔵なのか、それとも道祖神なのかなんて事も考えないものなのだ。しかし、そのように言われてみるとクルマで10分ほども行くと、私の住んでいるエリアは本格的な田園風景になってしまい、そうした田んぼ道の畦には確かに小さな祠があったりする。あの小さな祠の中にシャグジがあるのかも知れない。

そして『精霊の王』に拠れば、それは諏訪神社の信仰圏だったりするらしい。そう言われて、膝を打ちたくなった。まさしく、私が「ああ、あそこに田んぼの畦に小さな祠があったな」と思った場所から程近い場所に、諏訪神社との所縁を持つ神社があった。今は廃れてしまっているが、その神社には神楽をする舞台までがあり、昔は信仰されていたのだろうなぁ…と思わせる神社であった。

諏訪神社といえば諏訪大社が本社であり、諏訪大社といえば、タケミカズチに追われたタケミナカタが逃げ込んだところだ。それは「国譲り神話」の重要な箇所であり、中沢新一は一切、出雲王朝のような単語を使用してはいないが、基本的には出雲王朝から大和王朝への国譲り神話だと考えられている訳です。まぁ、中沢新一もスサノオ、牛頭天王、天王様、八坂神については言及しているので、そのまんまだ。八坂神社の祭神は牛頭天王であり、住民たちからは「天王様」だなんて呼ばれ、それが意味しているものは「オオクニヌシ」や、その異名である「大黒様」だ。おそらく、オオクニヌシと呼ぶと最も分かり易い。私が住んでいる町は「武蔵野」そのものではなく、そこから僅かに外れたエリアの埼玉県東部であるが、神社の殆んどはオオクニヌシを祭神にしている。八坂神社とか天王様を祀るお祭りがあるし、実は諏訪神社もあったので、中沢新一の指摘はドンピシャだ。

そして、このシャグジの面白いところは、その「国譲り神話」の検証になるかどうかという古代史的な話にもなってしまう。先ず、東日本に於けるシャグジの分布は、武蔵野と中部山岳地帯で、それは諏訪神社信仰圏であっただろうと考えられる。対して、何故か西日本では「宿神」や「シュクのカミ」、そして「敷地神」(シキチシン)のような呼称で、多くの被差別部落の氏神になっているというのだ。

となると、「国譲り神話」を瑞々しく想起する事が可能になってきてしまう。出雲王朝とは、精霊信仰をする弥生人文化圏であったが、その後に別の弥生人から成る大和王朝が日本に流入してきた。「国譲り」と呼んではいるが、実際には力比べをしてタケミカヅチがタケミナカタを諏訪へと追いやったというのだから、その話だ。なので、東日本の諏訪神社信仰圏にはシャグジが残っているが、一方の西日本では珍しく、しかも同じシャグジは被差別部落の氏神になっているというのだから、おそらく、王朝の交代劇があったのだろうと想像できる。しかも強く想像できる。

東日本と西日本とでは、その発現形態がひどく違っているように見える。諏訪信仰圏を中心とする東日本では、シャグジはまさに堂々たる「存在の胎児」をあらわす神として、神社信仰がひろまった後も、人々の信仰体系の中で無視できない場所を占めてきた。ところが、西日本にあっては後世の人たちが勝手に変更してしまうのがむずかしい地名を別にすれば、「シャグジ地層」は一般村落の精神生活の表面から見えなくなってしまい、その存在は差別された人々の心をこめた宿神への信仰心によってのみ、細々と守られてきたように見えるのである。(『精霊の王』204頁)

シャグジを崇める出雲王朝系の人々は、王朝の交替が起こった際に何某かの不利な処遇を受けて被差別部落になったが、その被差別部落の人たちはシャグジ信仰を辞めることなく、密かに自分たちの氏神(つまり、地の神、敷地に宿る神)にして信仰を続けていた。
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中沢新一著『アースダイバー(増補改訂版)』(講談社)を読み進めてゆくと、著者の中沢新一が吉本隆明を語り出すクダリがあり、それが想像以上に印象に残るものであった。より正しい日本人論があるとするなら、やはり、吉本隆明〜中沢新一という流れだったのではないだろうか? 

江戸=東京の下町には、特有の思想があったのである。その思想はたいていの場合、知的な言語では表現されない。食べ物の趣味やファッションや特有のしぐさや、たいして意味のないしゃれた口のききかたや、権威を相手にしたときの振る舞い方などをとおして、それは表現されてきた。じつに下町は思想の豊かな温床ではあったが、その思想はいつも潜在的な暗黙知のようなもので、自分の思っていることが知的な言葉で語られるのを、むしろ照れくさく感じるような人たちの世界だった。

ところがその下町に、戦後になって、吉本隆明という大思想家があらわれたのである。その人は自分が下町住人であるという地点に立脚して、誰の真似でもない独自の思想を組み立てた。「大衆」の幸福感を最高の価値尺度として思索をおこなったが、その大衆の原像とは、じつは東京下町の庶民の暮らしの中に見出されるものだった。
(『アースダイバー(増補改訂版)』309頁)

『For beginners 吉本隆明』(現代新書)でも吉本隆明については、近所の鉄工所の社長であるとか、そういう人たちとの親交しながら、同時に論壇で思想家として活躍していた特殊な思想家であった旨の解説があった。その話を中沢新一がしているのだ。

(吉本隆明が育ったのは隅田界隈の下町であり、その吉本隆明は…)という論旨に続けての部分を引用します。

自分の父親も含めて、まわりにいた大人たちのほとんどが、職人や労働者やその家族であった。会社経営者と言っても、たいがいは零細な工場をやりくりしてるような人たちで、この地域には小金持ちもプチブルですら少ない。

彼らはおおむね「大衆」である。〜略〜地に足をついた生き方をしている在野人である。そういう大衆に囲まれて、吉本隆明は人格形成をした。

思想家として活動を開始した頃、吉本隆明は「大衆の原像」という、鮮烈な概念をひっさげて登場した。戦後間もないその頃は、知識人を先導役としてのいわゆる左翼運動がさかんで、彼らの間では「大衆」という言葉がよく使われた。そこでは、大衆が政治に目覚めるとき、彼らは世の中を変革する力を持つにちがないが、知識人はその大衆を目覚めさせる役割を果たさなければならない、などと語られていた。

吉本隆明はそれに食ってかかった。知識人によって目を覚めされるなんて、そんな大衆は現実のどこにもいない。知識人は「あるがままの大衆」を知らないから、そんな寝ぼけたことを言うのである。あるがままの大衆は、「自分と家族が今日を生きることができ、明日もまた同じように暮らせることを願う存在であり、それ以外のこと(政治や経済の状況など)には徹底的に無関心である」。

ほんものの生活者でない知識人に、そんな大衆の真実がわかろうはずがない。そんなことで、あるがままの大衆の言葉にならない思想を繰り込んだ、ほんものの思想をつくることなど、できっこない。
(同312〜313頁)

もう、引用した箇所だけでも充分な価値があるよなと思う。だって、今現在だって状況は同じでしょう? 本当の意味での庶民のことなんて、国会議員や学者、或いは華麗な経歴をひっさげてメディアに引っ張りダコになっている言論人たちも、とにもかくにも実際に庶民が生きている現場の空気については殆んど絶望的なレベルで理解できていないよなって思う。

本年度の新語・流行語大賞に「カスハラ」という単語がノミネートされていましたが、ホントは20年から25年ぐらいは感覚的に遅れている。「カスタマー・ハラスメント」という言葉が25年ぐらい遅れてようやく出来上がったので、ハラスメント、ハラスメントと騒いでいる人たちの中から、コンビニ店員やファミレス店員などの接客業に寄せられる理不尽極まりないモンスタークレーマーたちの迷惑行為に、やっと、やっと、僅かにスポットがあたったに過ぎない。先ず、消費者至上主義の資本主義にされた事で接客業全般に対してモンスタークレーマーと呼ばれる人たちが登場し、その次に教育現場に拡大してモンスターペアレントが話題となり、更に医療関係にまで被害が拡大してモンスターペイシェントへ拡大していた。凄いモンスターになると、それぞれの業務をたった一人で麻痺させてしまうようなレベルであった。

万引きをした少年を追い掛けた書店だったか古書店の店主があった。少年は逃亡したので踏切で事故に遭って死亡した。そのとき、世論は万引き犯を追い掛けた店主を攻撃したのだ。「たかだか万引きしただけなのに追い掛けられて死亡してしまった。その少年が可哀想だ。その少年を殺した店主には責任がある」というものだった。その後、その書店だか古書店は店を閉めた。こんなクソなモラルを垂れ流していたのが当時の世論であった。当時のマスメディアや言論人が一生懸命に媚びていた視聴者層とは、そんなレベル視聴者たちだったのだ。

昨今ともなるとテレビ局や自称タレントの人たちは、彼らが育成したクレーマー気質の人たちによってクレームの嵐にさらされている。一時的にマスメディアを通して時代の寵児となって人気者になった人たちにしても、結局はクレーマー気質を強めた物を言う視聴者たちによって英雄に仕立て上げられ、物を言う視聴者たちによってバッシングにさらされ、結局、奈落の底へと突き落されている。それだけのことだ。ジャニーズ事務所しかり、フワちゃんしかり。

若年世代の人たちが、実際に接客業を経験してみて、その異常さに気づき、ハラスメントブームの風潮によって、ようやく「カスタマーハラスメント」という言葉が生成され、それを略して「カスハラ」という言葉が完成し、2024年の新語・流行語大賞にノミネートされたという訳だ。もう、そんな言葉に新鮮味なんてものは微塵もない。今頃、ノミネートしているなんて、どれだけ時流に疎いんだよって審査員の感性のなまくらさ加減を露呈しているようなものだ。

昨今だってルッキズムだのなんだのって騒いでいるけど、数週間前にも都道府県魅力度ランキングなんてものを取り上げて、相変わらず最下位争いを話のタネにしていた筈だ。実体は、たかだか一民間企業であるブランド総合研究所がつくったランキングに過ぎないのに、まるで風物詩扱いをするようになってしまっており、昨年か一昨年にはNHKの7時のニュース枠でも取り上げていた。ホントは日本人の劣化以外の何物でもない。安心してイジれるものを欲しているだけで、その実、自分は田舎者ではないつもりになっている人たちの秀逸なユーモアセンスとやらが全開だ。AKB総選挙なんていう疑似的な国民イベントについては2〜3年ぐらいで飽きたんでしょうに、よくも飽きずに続けているよなって気がするけどねぇ。

ああ、脱線してしまいそうだ。何が凄いって、大衆の実相を語っているところが凄い。大衆とは「自分と家族が今日を生きることができ、明日もまた同じように暮らせることだけを願う存在であり、それ以外のことには徹底的に無関心である」と述べていたという事になりますが、こういう言葉こそが大衆の本質だ。「視聴者はバカじゃない!」とか「有権者はバカじゃない!」のような声で、安堵するタイプの人も多いのが現実だけれども、「大衆とは何か?」を掘り下げてゆけば、そうなるし、かなりの説得力を持った表現だ。

ここのところ、論客と呼ばれていた類いの人たちの訃報が続いていて、今年は既に松岡正剛、福田和也、西尾幹二なんてあたりまで鬼籍入りしてしまっている。彼等と、テレビやネットで持て囃されている言論人の言論を並べてみるといい。絶望的なレベルで言論そのものが劣化してしまっている事に気付かされる。

吉本隆明の「大衆の原像」論は、知識人予備軍であった学生たちをうろたえさせ、今の人には想像もつかないくらいの衝撃を、彼らに与えた。その当時は、難しい本を読む知識人と、生活に明け暮れる大衆の間には、大きな格差・落差があったから、吉本隆明の言葉は、大衆であることを脱して、さあこれから知識人の仲間入りをしようという学生たちを、しこたま打ちのめす力を持っていた。たちまち吉本隆明はそういう若者たちにとっての、教祖的存在になっていった。(同313頁)

まとめ的な部分に入ります。

原像的「大衆」の世界は、具体性の世界である。じっさい下町の住民は、その昔から徹底して具体的なものの好きな人たちである。目で見たり、手で触ったりできる具体物を、自分の手で扱い、細工をほどこし、道具の調子を整えてそれを使って見せたりするのが得意で、そういう具体性の世界を離れた、観念とか思想とかについて考えるのは、いたって苦手である。〜略〜こういう心性から見れば、国家とか政治とか経済などというのは、まるで現実性をもたない。幻想の産物であるように見える。いったいどうやったら国家などというものに触れることができ、目で見ることができるのだ。だから「大衆」が国家や政治のことなどに無関心なのは、意識が低いせいではなく、そうしたものが幻想の領域に属しているという直感が、彼らにあるからである。(同314頁)

国家なんてものは共同幻想に過ぎない。ホントは何もない。単に税金を巻き上げている為政者たちにメシウマ生活を提供しているだけの可能性だってある。ああ、今年はショウヘイ・オータニ効果もあって「ドジャース」に明け暮れた年でもあった。ドジャースという名前はドッジボールのドッジと関係していて「避ける」とか「躱す」のような意味だという。つまり、ドジャースとは「避ける人たち」とか「躱す人たち」という意味で、これが面白い事に「ドジャー」には「税金のがれをする人」という意味があるらしいと和英辞典で引いて気づいてしまった。

『アースダイバー』でも少しだけ国家というものが成立する以前の太古の日本の古代史の話が展開されている。まだ、国家が成立してないという時代が現に在ったと考えられるのだ。国家が存在していなかったら庶民は存在そのものが不可能なのだろうか? まぁ、国家が存在しなかったら、そこには偉人とか庶民といった区別も、きっとなくなるのでしょう。きっと日本政府だけが無くなっただけではダメで、世界中の政府という政府が無くなったとしたらどうだろう? 案外、その方が人々は平和にやっていけるんじゃないの? だって、いつだって戦争を起こす主体は、国家(政府)である訳でしょう? 法治主義者たちは平然と「国家は法人格を持っている」というけど、仮に国家が何かヤラカシたとしても実際には誰も責任を取らない無責任体制なのだ。それを敗戦国である日本人は知っている。いや、違うな。知っていた世代があった――かな。

この話をしているのは『アースダイバー』の前半に、その話が出てくる。中沢新一の思想は、国家幻想論の部分で吉本隆明と繋がっている。中沢新一は、敗戦後の庶民世界には、地域や国家といった共同体(コミュニティ)ではなく、より上位にくるであろう人類的共同体(コミュニタス)を実現しようという気運があったとしている。それが東京の東部、焼け野原になった下町の文化として興ったと記している。震災も戦災も、結局のところ、下町でこそ、被害が甚大であった訳ですが、その下町では、人と人とのつながりに活路を見い出していたところがあったという意味合いかも知れない。確かに「下町人情」のようなものは、単なるコミュニティというよりも、もっと濃密な人的関係を感じなくもない。また、例えば「男はつらいよ」シリーズなど、下町こそを舞台とした映画やドラマが多くつくられた一時期が確かに戦後の日本にはあったような気がする。
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中沢新一著『アースダイバー(増補改訂版)』(講談社)では、現在の東京都がどういった歴史的地縁を有しているのかを冒険的に考察したものである。

先ず、東京都杉並区の神田川と善福寺川に挟まれた地域の縄文遺跡の分布を調べ、同じ形式の土器の拡散状況から推定して導いたという仮定を展開させている。そして、この武蔵野にやって来た弥生人たちとは「海人」(あま)であっただろうという。

その先を引用します。

伊勢湾に盤踞した海人は、弥生時代の後期にはすでに、東海地方の海岸部に進出していた。駿河湾、伊豆半島、湘南海岸をへて、海人の大集団が房総半島にたどり着いたのは、二世紀の後半頃であろうか。彼らは内房総と外房総に分れて進み、それぞれの拠点をつくっていった。

このなかでもっとも精力的だったのが、外房総の上総一宮近くの海岸に上陸した海人集団である。海神への強い信仰心を持ち、旺盛な開発心にあふれていた。
(『アースダイバー』356〜357頁)

これは関東地方へ弥生人が流入したルートについての説明になっており、伊勢湾に盤踞していた倭人系海人は弥生時代後期までには東海地方にまで進出していて、その後、2世紀後半ぐらいまでには、その海人の大集団は房総半島に辿り着いて拠点を形成していたという。上総一宮(かずさいちのみや)とは、千葉県長生郡一宮町であり、これは房総半島の東側、外房となる。

房総半島の先端、安房の館山に上陸した海人集団もある。館山周辺の地形はすばらしい。さぞかしアヅミはそこで繁栄をとげたと思いきや、そこからしばらくして、四国の徳島から移住してきた、「忌部」(インベ)という技術と呪術に長けた別の海人集団が、強力がコロニーをつくってしまった。そこではアヅミやアマの存在感は、あまり表にあらわれてこなくなってしまう。

しかし富浦(とみうら)、富津(ふっつ)、木更津(きさらず)と、内房総の海岸部の良好な入江には、いたるところ、アヅミ・アマ系の海人の村がつくられていった。古代の房総半島には、いたるところに、豊玉姫・玉依姫などの海の女神に守られた、典型的な海人の世界が成長していった。浜降り、霊合祭など、この地帯の神社の祭礼は、どこも海とのも深いつながりをしめしている。
(同357〜358頁)

この房総半島の西側、内房に展開していくと、西にあるのは現在の東京湾であり、江戸時代頃の古江戸湾となる。東京湾内(古江戸湾内)に平川という川の河口があり、そのあたりから川に沿って現在の武蔵野への踏み入っていった集団が登場し、そこから更に武蔵野の奥へ進んで多摩川下流域(南武蔵)、荒川上流域(北武蔵・埼玉古墳群の勢力)、利根川上流域(上毛野)とへ入植が進行し、「武蔵国造の乱」につながったという具合に組み立てられる訳です。

そして、多摩川下流域へと向かい海人的なイエ集団の中には、アヅミ系の海人集団があり、その集団が、現在の東京都の善福寺川と神田川とに挟まれたエリアに集落を形成していた。これは実際に方南町峰遺跡群という遺跡群があり、更に善福川沿いには済美台遺跡、松ノ木遺跡、大宮遺跡があり、その大宮遺跡の場所に和田大宮こと大宮八幡宮という神社があるという。

その和田大宮に展開していた多摩川中流域・下流域に展開していた勢力となる。後に「武蔵国造の乱」の南武蔵の小杵(オギ)であるとする。小杵は、上毛野君小熊と通じて、北武蔵の使主(オミ)へのクーデターを起こした。しかし、反乱は失敗した。実際の遺跡調査では、善福寺川と神田川とに挟まれた地域に、相応に繁栄していた弥生村があった痕跡が発見されているのに、以降、南武蔵界隈では、しばらくの期間は歴史的に不毛の地となっていった――と。

東京・杉並区をスタート地点にしているので、少し地理的偏りがあるというか、現在の茨城県ルートの話は大幅にカットして、このように論じられている。とはいえ、関東地方に倭人が流入してきたルートを考察するには、中々によく構築されていると思う。

「和田大宮」や「大宮八幡宮」は、埼玉在住の私からすると、まったくピンと来ない場所と名前であった。それは「大宮」というと、埼玉県民である私からすると即座に旧大宮市のイメージになってしまうのだ。勿論、大宮の名の由来は武蔵国一之宮の氷川神社に由来する。現在ともなると「氷川神社」と言っただけでは通じない事も多く、東京の芸能人たちがよく参拝するどこかの氷川神社と勘違いされてしまったりするので、頭に「大宮」を冠して「大宮氷川神社」と呼ばないと通じなかったりする。しかし、おそらくスケールが全く違う筈なんですが…。

なので、杉並区にあったという大宮八幡宮については、ピンと来なかった。『神社辞典』では大宮八幡宮の別名としては和田八幡もあると紹介されており、「武蔵三大宮」の一つの旧府社であり現別表神社であるという。祭神は仲哀天皇(タラシナカツヒコ)、息長帯姫(オキナガタラシヒメ)、応神天皇(ホンダワケ)。社伝による創建は西暦1061年の事で源頼義だという。創建年からすれば、そんなに古いものではないのではないかと考えたくなる。しかし、その地には弥生人村らしきものの遺跡があったというのだから、それは古の聖地の上には、次代の人たちの聖地が重ねて造られてしまうというもので、その話はグラハム・ハンコックのそれにも通じており、且つ、中沢新一が展開させ始めたアースダイバー的な発想とは、それである。


どのように関東が形成され、或いは東国が、或いは日本が形成されていったのか、未だに判然としない部分がある。総じて西日本から東日本への弥生人の流入が大きく関与していただろうで間違いない。こういった話というのは、もう少し焦点を絞れそうな気もする話なのだ。

『アースダイバー増補改訂版』に目を通していて、大いに刮目すべき指摘もあった。中沢新一は、上毛野君(かみづけのきみ)を説明する中で、当時のヤマト王権には完全に服してくれていない勢力だっただろうという見解を示していた。しかも、そこが複雑だ。ヤマト王権といっているが、それ以前にあった旧体制下では上毛野氏は堂々たる勢力の有力者だったのだが、そこら辺の関係が微妙になってしまっており、ヤマト王権は上毛地方に強大な勢力を張っていた上毛野君を怖れていたという。つまり、出雲王朝、その名称も適当なのかどうか分かりませんが、ヤマト勢力(ヤマト王権)以前に何かしらの統治機構が存在していたが、それをぶっ壊すようにしてヤマト勢力の台頭があり、旧勢力でった出雲王朝勢力の有力者たちは、新興のヤマト勢力に対して冷たい態度をとっていたというシナリオが思い浮かぶ。「君」が用いられていたのは、上毛野、鴨(賀茂)、大神(三輪)であり、それらの勢力は、後のヤマト王権になったヤマト勢力よりも、明らかに古層の有力者であっただろう、そう読めてしまうのだ。

同じ中沢新一の著書『精霊の王』では、諏訪神社崇拝圏であった武蔵野にはあちらこちらに分布しているシャグジ(石神・道祖神)は、西日本では通常の町や村にはなく、それでいて被差別部落に宿神とか石神が祀られていて、その地で氏神になっているという話が紹介されていた。これは何なのか? 何があったのかと考えてゆけば、おそらく旧支配体制の人たちは、新興の勢力によって追い出されたという古代史が隠れているのではないか。この事は「国譲り神話」と合致し、つまり、出雲王朝体制からヤマト王権への移行した事、それを示している痕跡と言える。

拙ブログ:神社辞典で推理する(中編)

拙ブログ:「宿神」もしくは「石神」
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「武蔵国造の乱」について考える中で、そもそも〈ムサシ〉とはどんなものだったのか? 現在の地名に比定して、どんな感じになるのか?

武蔵国地図DOUDARE

『新編武蔵風土記稿』関連の書籍からすると、上記のような図が江戸時代の頃の武蔵国の郡名になるのだという。鉛筆とトレーシングペーパーとで手作業で書いたものなので色々と見にくいと思いますが、武蔵国というのは面積で言ってしまうと、秩父郡、多摩郡、足立郡、埼玉郡、葛飾郡の比率がかなり大きい。地名入りの古地図から地名を拾っていくと、次のようになる。

世田谷→荏原郡

練馬→豊嶋郡

府中→多摩郡

田無→多摩郡

まぁ、多摩郡ってあっち方面ですワな。秩父地方とか多摩地方というのは、そんなに難しくもないかも知れない。

そして千住、草加、川口、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣は、ごっそりと武蔵国では足立郡であった。おお、埼玉県民としては、なんだか謎が解けたような気分になってくる。越谷、岩槻、騎西(旧騎西町で現在は加須市)、羽生、行田あたりまでは、ごっそりと埼玉郡だ。春日部はというと葛飾郡となり、東松山はというと比企郡になる。そして川越、所沢、狭山、飯能、入間、ふじみのあたりまでが、ごっそりと入間郡。

そして日高と鶴ヶ島は高麗(こま)郡となる。この高麗郡については高麗神社があり、高句麗系の渡来人たちが開発した土地であり、7世紀、実に天智天皇の時代にまで遡れる。高麗若光は高句麗王族だったとされ、従五位下の官位を与えられている上に高麗郡の郡司になったとされている人物で、これらの事情が分かってくると、日本のルーツみたいなものにも思いが到るかも知れない。

そして暑さで取り上げられることの多い熊谷(くまがや)ですが、これは大里郡の一部と榛沢(はんざわ)郡と男衾(おぶすま)郡と、幡羅(はら/はたら)郡となり、この幡羅郡には深谷も属していた事になる。「武士のはじまり」は鈴木大拙に言わせれば「熊谷直実」だ。熊谷直実は源頼朝の御家人として頭角を現し、その熊谷(くまがい)という姓の発祥だとされているが、この日本中に広まっている熊谷姓の祖となる熊谷氏で、毛利元就軍の傘下にあった熊谷氏は武蔵発祥の熊谷氏の分家だ。おそらく毛利水軍には児玉某という武将もいたと思いますが、熊谷氏のケースを考慮すると武蔵武士団の児玉党を率いていた児玉氏との関係は非常に怪しいと思う。武蔵七党のような関東武士団は鎌倉時代から室町時代にかけての戦乱では、とんでもない寒村だった武蔵野の人たちでありながら、はるばる京都を越えて西日本の中国地方まで遠征していたりする。(そういう歴史が本当にあって、それら歴史を経て現在のニッポンが形成されている。)

一方、三浦半島はごっそりと久良岐郡となり、横浜や川崎あたりになると橘樹(たちばな)郡と都築郡とに跨っていたという。

先に世田谷を挙げましたが、品川、大田、目黒といったあたりが荏原郡となる。江戸城のあった千代田は元々は荏原郡であったが、そこは特別に「府内」と江戸時代には呼んでいた。

東京の隅田川よりも東を「墨東」(ぼくとう)と呼ぶ訳ですが、中沢新一の『アースダイバー』に拠れば、墨東とは、つまり、下町であり、歴史的には諸々の災害が多かった地方だという。なので武蔵国時代には葛飾郡であり、現在も葛飾区がありますが、元々は葛飾郡が南北へ長く伸びていたので埼玉県の春日部市と一緒だったという訳です。現在の地理感覚からすると意外ですが、そういう事らしい。

氷川神社について。旧大宮市にある氷川神社は武蔵一之宮として知られている。諸々と語られている神社ですが、氷川神社は武蔵国全体に広く分布しており、特に足立郡には集中して154社と多く分布している。基本的には足立郡司と密接な関係があったと考えられ、「平将門の乱」の引き金を起こした武蔵竹芝(むさしたけしば)は足立郡司であった。また、鎌倉幕府の時代の御家人衆の棟梁格であった有力武将の安達家も足立郡司の家系だったのではないかととされている。更に氷川神社にはアラハバキ神を祀ったものとされる門客人社がある。

この話を展開してゆくと、実は自ずと神社の分布が古代からつながっている事に気付く事になる。クイズと読める事からテレビの「クイズ番組」で取り上げられた久伊豆(ひさいず)神社の分布が、武蔵七党と呼ばれた武蔵武士団の分布と重なっており、やはり、出雲からやってきた土師氏との関連が強く強く疑われる。久伊豆神社は岩槻が本社だという説と、騎西にある玉敷神社が本社であったという説もある。実は武蔵国の神社の分布は出雲系弥生人が進出していた後にヤマト勢力の弥生人が進出してきた事を如実に物語っているのだ。

拙ブログ:【アラハバキ】について

拙ブログ平将門の時代〜その2
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中沢新一著『アースダイバー神社篇』(講談社)では、倭人の源流をゾミアであったとする「倭人=ゾミア仮説が採られていた。

その中でも「え?」と驚いた箇所が何ヵ所かあった。引用から入ります。

ゾミアでは、大洪水の後、生き残った兄と妹が結婚することによって、人間の世界が再生されたいきさつを語る神話が残されている。この創成神話の、原初の男女が兄と妹の関係にあった、という近親相姦的な部分を隠せば、『日本書記』や『古事記』が語る、イザナミとイザナギによる国土生成の物語にそっくりの神話ができる。

ゾミアの民の神話には、原初の世界の天空には太陽がいくつも出ていて、人間が高温な環境に苦しんでいた様子が、描かれている。一人の男が、みんなの苦しみを取り除こうと決心して、大地の果てまで旅をして、そこでたくさんの太陽に立ち向かう。男は矢を放って、ひとつだけを残して、余分な太陽を撃ち落としていった。こうして地上には、快適な気温が実現された。

この天空の太陽を撃ち落とす神話を再現した儀式が、日本列島の各地の神社に、いまもおこなわれている。「オビシャ(御日射)」と呼ばれるこの儀式では、太陽をあらわす丸や、太陽に住んでいる「三本足の烏」の姿を描いた的に向かって、神官や若者が矢を射るのである。
(『アースダイバー神社篇』62頁)

この一節は非常に興味深かったですかね。既に「太陽を射落とした男のはなし」として、羿(げい)については過去記事でも触れた事がある。

拙ブログ:太陽を射落とした男のはなし

掻い摘んで説明すると、中国の『淮南子』(えなんじ)、『春秋左氏伝』(しゅんじゅう・さしでん)が出典となっている古い古い神話がある。『山海経』(せんがいきょう)の解説にも出てくる謎の神話だ。

それは殷王朝よりも前の夏王朝の時代の話として語られている。その頃、空には全部で10個もの太陽が出て来てしまい、世界は日照りに苦しんでいた。羿(げい)という弓の名手が現れて、9個の太陽を矢で射落としたというもの。

中沢新一は『淮南子』にも『左氏伝』にも『山海経』にも触れていないが、ゾミアの神話の解説をしてみせている。なので、どういう資料を基にして太陽を射落としたという伝説をゾミアの神話として採集したのかは不明だ。しかしながら、「辻褄が合うのか?」というと実は合うよな、と思った。そもそも羿の話が収録されているされている『淮南子』は紀元前2世紀頃の淮南王・劉安が編纂したものであり、この淮南とは現在の世界地図では安徽省北部となり、淮河の南で揚子江の北。現在の中国の全体図からすれば東にあるので華東となる。「倭人=ゾミア仮説」ではゾミアの民は揚子江中流域あたりで稲作をしていたが、徐々に華北に帝国が勃興したので更に南下していった人たちがゾミアであり、倭人の場合は揚子江河口から海へと逃れた人たちだとしているので、地域的には辻褄が合う。

中沢新一は、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーの山岳地帯、更に中国の雲南省、貴州省、広西省、四川省といった付近がゾミアが逃れた地で、それと別に海へと脱出した人たちを倭人だとしている。

その上で次のように述べている。

ゾミアの民の代表である「苗族(ミャオ、モン)」は、自分たちの部族がかつては揚子江の南岸に住んでいたが、北西から進出してきた漢民族の勢力に押されて、ゾミアの山地に移動したのだという伝承を伝えている。倭人の出身地も、この揚子江河口域である。(同63頁)

中国の少数民族として知られる苗族の存在は歴史検証上では侮りがたいものがある。やはり、人類創成に関わるであろう盤古神話(ばんこしんわ)も苗族が持っていた伝承だと解説されていた記憶がある。何がどう興味深いのかのというと、盤古神話とは、盤古という名の大巨人が死んで、その亡骸から世界が生まれたという具合の神話なのだ。そして、それは古代インドの「原人プルシャ」の話と酷似しているのだ。何か巨大なものが滅び去って、その死体や洟水から世界ができたとか、人間が生まれたとか、そういう不思議な神話だ。思いの外、広く、その神話が太古に伝わっていたらしい事が分かる。

因みに映画「プロメテウス」の冒頭シーンでは、何やら未来兵士らしい格好をした何かが滝下へと落下するシーンから始まっているが、おそらくモチーフにしているのは、この巨人神話だ。世界の始まりは、巨大な巨大な神の死から始まったのである――、と。何故、この世界(宇宙)に生命体というものが存在しているのかという問題を考える場合、そもそも世界の始まりは大巨人の死から始まっており、我々は、その大巨人の洟(はな)から生まれたものに過ぎないのである的な解釈が込められている。

となると、日本神話があれこれとホントに世界の超古代神話と合致し始める。仏教伝来に伴って日本列島に入ってきたものであろうというのが定説であったし、私自身もそう考えていたのですが、ひょっとしたら、この話は縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて既に倭人が持っていた神話であった可能性が出てくる。しかも、手応えとしては、そんなに精度が低くない。

そこへ太陽を撃ち落とした男・羿のはなしの痕跡までもが、現在の日本に残っているのだとしたら、それは大変な事だ。夏王朝の時代の記憶が日本列島に神事や儀式として、ざっと2200年ぐらいの時代を超えて残されているという事になってしまう。

『アースダイバー神社篇』が取り上げているオビシャは、確かに太陽に見立てた丸い的を弓矢で射るという神事だという。太陽に見立てている可能性は低くない。また、神社によっては、その的の中に太陽の中に住んでいるという三本足の烏、つまり、八咫烏の話にまで繋がっているという。

これは常識的には出来過ぎな話だ。ごくごくフツウに考えれば、そのテの武術は南方由来ではなく、北方由来のものと考えるべきだ。「オビシャ」にしても、私が辞典類を調べた限りでは【御日射】ではなく【御歩射】であった。とはいえ、基本的には「倭人=ゾミア仮説」は侮れない。地理的には離れているのに共通しているものが不自然なぐらいに多いのだ。それについては鳥越憲三郎の著書を読んでいたので充分ぐらいに知っているつもりだ。

そして、この話の重要性について次のようにも述べられている。

歩射祭と類似の祭りを、日本列島の海外ぞいの漁村や離れ小島の海人系の村の神社で、いまでも見ることができる。弓矢をとって的を射るからといって、流鏑馬などの一種かと思ってはいけない。この祭りは、それよりもずっと古い、人類的な来歴を持っている。射手が矢を放っている相手は、ただの的ではない。射手が狙っているのは、太陽なのである。

そのことをこっそり知らせるように、こういう祭りはしばしば「オビシャ」と呼ばれている。「お日射」であろう。文字どおり、「太陽を射る」という意味である。太陽には三本足のカラスが住むとされていたから、的の中に三本足のカラスの姿を描くところもある。
(同283頁)

『アースダイバー』では出典である「淮南子」、或いは中国古典では度々、登場する「羿」という名前についても最後の最後まで一度も挙げられていない。しかし、流鏑馬よりも、遥かに古い何か、それもずっとずっと古い何かだという事については言及していた。確かに、それがホントなのであれば、世界でも最古級の古い神話と繋がっている可能性がある。

大昔、空には太陽が三つも四つも、たくさん出ていた。そのため地上は暑くなりすぎて、あらゆる生き物が熱に苦しんでいた。生き物は土中に隠れ住んだ。鳥は空を飛ぶこともできなかった。この窮状を見た一人の人間の若者が、太陽を射落として、地上に涼しさをもたらそうと決意し、弓矢を手に太陽たちの住処をめざして、旅に出た。

遠くまで旅をして、若者は太陽たちの集まり住んでいる国にたどり着いた。すさまじい熱に耐えながら、若者は強い弓に矢をつがえ、一つの太陽に向けてヒョウと射た。みごとに矢は命中して、太陽は死んだ。こうして若者はつぎつぎと太陽を射落とし、とうとう一つの太陽を残すのみとなった。すると地上の熱はおさまり、快適な気温になった。

これとよく似た「複数の太陽」を巡る神話は、中国少数民族の暮らす「ゾミア地帯」から、太平洋諸島、南北アメリカの先住民のあいだなどで、さまざまな形で語り伝えられている。ただ語るだけではなく、部族の若者が太陽を射落とした英雄に扮して的を射る、歩射祭とよく似た儀礼をおこなっていた。
(同286頁)

となる。実はゾミア地帯だけではなく、太平洋諸島や南北アメリカの先住民にまで、似たような儀式があるとなると、この古さは尋常ではない。太平洋諸島や南北アメリカ先住民にまで継承されているのだとしたら、1万年以上は昔からあるような、そういう神話だという事になってこないだろうか?

この古さの度合いが問題になってくる。

複数の太陽についての神話は、〜略〜つぎような神話と同じ主題を語っている。それによると、大昔、天と地上が近くにくっつきすぎていたために、地上の生き物は太陽の暑さで苦しんでいた。これを見かねた力持ちの巨人が、天をいまのような高い場所まで持ち上げてくれた。こうして天と地は適切な距離に分離され、おかげで地上の生活は快適になった。(同286〜287頁)

これも中国の盤古神話や女媧(じょか)の神話などと重なるところがある。盤古神話の一節には盤古という大巨人が天を持ち上げて、天と地との距離をつくったという逸話がある。また、女媧は天地が崩壊して大洪水が発生した際、天空を補修したという人面竜身(蛇身)の女神だという。『史記』では伏羲(ふっき)、神農と並んで三皇に数えられている。伏羲(ふっき)と女媧とは兄と妹(夫婦説もある)とされており、この男女二神信仰はイザナギ&イザナミに限らず、実は日本各地にある。
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中沢新一著『大阪アースダイバー』(講談社)では、少しばかり聖徳太子についての考察が述べられていた。聖徳太子をどのように考えるのかは、古代日本を考える場合に大きなポイントになるような気がする。

先ずは、物部氏の説明から。物部氏は北九州の弥生系豪族であったが、瀬戸内海を通って大阪湾に辿り着き、古代の河内湖の周辺、つまり河内地方に住み着いていたという。八尾に政治的な中心地を置き、更に生駒山系の北端の渓谷地にある〈天磐船〉という巨大な宇宙船を思わせる奇岩がある周辺を宗教的な聖地にしていたという。おおよそ、『大阪アースダイバー』の54頁に記されている事柄という事になりますが、確認しておくと物部氏は北九州の弥生系豪族であり、河内地方を拠点にして展開し、この時期は天皇家の祖先よりも早い時期であったとしている。

因みに巨大な宇宙船を思わせる天岩船はヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」でも取り上げていた巨大な奇岩だ。

しかし、その後に天皇家の先祖をリーダーとする首長連合の勢力が生駒山を越えた奈良盆地へ勢力を伸ばすようになった。その際、河内に展開していた物部氏は、その勢力と争うことなく、その天皇家の祖先となるリーダー、おそらく、これがヤマト勢力という事になるのかも知れませんが、そのヤマト勢力の中で物部氏は存在感を発揮し、その新体制内で確固たる地位を固めていった。

6世紀の後半、物部氏の頭目は物部守屋であった。物部氏は中央政界でも一大勢力を築いていたが、その物部氏にはライバルがあった。それが蘇我氏であった。

物部氏は古い神道と呪術の伝承者であったが、その関係で反仏教のレッテル貼りをされ、そこから排仏派の物部氏、崇仏派の蘇我氏という対立が発生した。中沢新一は、この箇所については特に物部氏が排仏を掲げていた訳ではなかったが、排仏に仕立て上げられたものであり、「一皮むいてみれば、富と権力の奪い合いに過ぎなかったように思える」と述べている。

厩戸皇子という事になりますが、厩戸皇子は、この時には蘇我氏についていた。物部氏の頭目であった物部守屋は八尾にあった邸宅を焼き払い、最後の決戦は現在の森ノ宮(玉造の村のモリヤの森)に陣取ったが、落命した。戦勝者たちは物部守屋が果てた地に四天王寺を建てた。

その四天王寺は物部守屋が落命した地である玉造の村、上町台地北部に建てられた。しかし、キツツキの大群がやってきて、その四天王寺は襲撃に遭い、無惨にも破壊されてしまった。それが実話を祟りと考えたものなのか、そもそもからして或る種の作り話なのかは判然としない。しかし、兎に角、物部守屋の霊を鎮める為の目的で建立された四天王寺は、別の場所へ移す必要性が出て来た。また、この四天王寺を建立したのが厩戸皇子(聖徳太子)という事になる。

引用します。

アポロンの領域である天空とディオニュソスの領域である大地とを、ひとつの全体につなぎあわせている。(『大阪アースダイバー』61頁)

唐突に何を――という引用で恐縮ですが、アポロンの領域は天空であり、ディオニュソスの領域が大地であるという事が、ここでは重要になってくる。或る意味ではフレイザー『金枝篇』的な事柄であり、それでいながら、その推理は、なんだかんだいってオカルト領域にグッと接近している。何故、日本にある神話や古伝承が、ギリシャやヨーロッパの神話や古伝承と似ているのかという問題があるのだ。実は中沢新一の「アースダイバー」シリーズも、トーンとしてはグラハム・ハンコックの著作活動との類似点がある。

高い高い仏塔を建てる必要性があるとして四天王寺が建てられた。何故、高い仏塔を建てたり、高い柱を大地に建てるという考え方があったのかという問題について中沢新一は人類学的な直感であると述べている。天と地とを、実は柱で繋ぐという儀式が隠されているらしい。その話は『大阪アースダイバー』ではなく『アースダイバー神社編』で詳しく述べられている。

さて、アポロンの領域の天空と、ディオニュソスの領域の大地とを、ひとつの全体に繫ぎ合わせるという文章に続けて、以下のように文章が続く。

それならば、厩戸皇子と物部守屋も、もともとは一体であり、四天王寺はそのことを象徴する寺ではないだろうか。(同61頁)

これは非常に興味深い展開であった。梅原猛は、聖徳太子とは蘇我蝦夷ではないのかと考えたのに対して、中沢新一は聖徳太子は物部守屋と一体だったと展開させているのだ。同一人物だと言っている訳ではない。しかし、どうもそういう伝承があるらしい。

その先を引用します。

最近の歴史学者の説によると、聖徳太子という人物は存在しなかった、ということになっている。厩戸皇子は実在していた。しかし、憲法十七条や冠位十二階を制定した偉大な聖徳太子という人物は、後世の人々の作り上げた理想のイメージであって、じっさいの厩戸皇子は、そこまでのことはしなかった、というのである。

それどころか、聖徳太子の手になると言われてきた憲法も政治の組織も、原型はみんな中国からの借り物で、太子の名前を借りてそれらをうまくリメイクしたものにすぎず、そこに日本人のオリジナルなどはほとんどないとまで、歴史学者たちは主張する。

しかしこの説は、半分ぐらいは正しいかも知れないが、半分以上は歴史の真実をとらえそこなっていると、私は思う。〜略〜聖徳太子という人物が実在しないとしても、「聖徳太子」という名前を用いて表現された思想の中には、まぎれもない日本人のオリジナルが含まれているからである

とりわけ、四天王寺を誇らしげに仰ぎ見てきた、大阪の人々によって語りつがれ、育てられてきた「聖徳太子」の思想には、これから覇権主義的な中国に向かい合って生きていかなければならない、日出ずる国の民である日本人が、もっとも大切にしなければならないオンリーワンの思想の、原石のような輝きを秘めた原型がしめされている。

「聖徳太子」は、世界が強者だけで支配されてはならないと考える。世界は、合理的な思考と大地の豊かさが、ひとつに結びついた「和」の中にあるとき、はじめて潜在的な力を開花させる。秩序がつくられなければならないとき、戦を通じて敗者となる者たちが出てくる。そうした敗者や弱者を排除しないで、自分の中の組み入れる度量をもった政治をおこなうこと。そういう世界を作り出すことが、「聖徳太子」という名前を使って表現された、日本人がめざしていた政治の理想なのだった。
(同63頁)
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大阪ってのは、なんなんでしょうねぇ。実際に足を踏み入れた事もないので情報媒体を通してのイメージによって〈大阪〉という像が形成されている。ごくごくフツウに言えば、大阪のイメージといったら大阪弁でしょうねぇ。「✕✕して、けつかる」の「けつかる」ってのは強烈な方言だよなって思う。そもそも大阪弁なのか関西弁なのかも判然としないものの、とにかくイメージとして強烈なのは吉本興業のお笑い芸人たちの話し言葉かも知れない。後は阪神タイガースでしょう。あ、甲子園球場は兵庫県なんだっけか。揚げ足を取られるのも癪なので、南海ホークスって事で。ドカベン香川、PL学園。河内とか難波とか言われても地理的なものはさっぱりわからない。通天閣タワーがあって、道頓堀があって大阪城がある。

異文化だなって感じるのは音楽ですかねぇ。BORO、桑名正博あたりは大阪色がありながらもマイルドだけど、憂歌団、やしきたかじん、上田正樹あたりになってくると大阪色が強い。ああ、音楽評などに目を通していると大阪はブルースの似合う土地柄らしい。やしきたかじんは「ゆめひとつ、いらんかね」と意外すぎる美声で唄い、上田正樹は「大阪の海は悲しい色やね、サヨナラをみんな、ここに捨てに〜くるから〜」と、しわがれ声で唄う。こうした音楽のような部分に、ホントに風土の違いが影響しているのでしょう。マニアックな音楽評を読むと大阪のブルースは、めちゃめちゃ評価が高いのだ。

中沢新一の『大阪アースダイバー』に目を通してみたところ、「阪田三吉」、「横山やすし」なんてワードにも触れられていた。村田英雄は九州出身だったと思いますが、村田英雄の「王将」の世界が阪田三吉の物語を題材にしている。

♪
吹けば、飛ぶような

将棋の駒に

賭けた命を笑わば笑え〜


と唸って唄う。村田英雄は浪曲師上がりの演歌歌手であり、つまり浪曲師であった。浪曲の【浪】とは浪花節の【浪】なのだ。「浪花節」と呼ばれていた芸能は関西以外でも大成功していた。桂春団治の世界、都はるみ&岡千秋の「浪花恋しぐれ」を挟んで、それを体現していた天才漫才師が横山やすしであった。破天荒を地で行くような人格そのものとも関係している芸風であったが、やすしきよしの漫才は記憶がある。衝撃的な面白さだった。そうした荒っぽい口調と、お涙頂戴的な大阪風の人情というのは、実際には日本人の情緒的なものとの相性がいい。

霊性を読み取るという試みをしてみせた『大阪アースダイバー』から少し引用します。

イザナミとイザナキの神話が語っているように(その神話の舞台は淡路島である)、宇宙のかたちや秩序や意味は、すべてカオスのなかから生まれ、カオスのなかに崩れさっていく。その様子を演じた古代の儀式を遠い祖先とする漫才は、自分の体内深くに、生まれ出てくる子供の抱える未熟さや、この世でうまく行動できない不具性や、死の近くにいるものたちへの愛情を、セットされている。だから、漫才が炸裂させる笑いには、ひそかに毒が含まれる。

しかし、横山やすしは早死にし、東京に出てきた松本人志は、テレビの解毒作用にやられて、いまでは息も絶え絶えだ。吉本興業の若手お笑い芸人たちは、雨上がりの森のなかのキノコのように繁茂しているけれど、毒を期待して食べてみても、調子がいいばかりで、しびれはいっこうにやってこない。
(『大阪アースダイバー』149〜150頁)

なんとなく当たっている気がしますかね。毒のないままにお笑いをしていくというのは無理がある。東京のテレビ局のスタジオで当代の人気アイドルたちに囲まれて、彼ら彼女らにテキトーにチャチャを入れて盛り上げ役に徹してテレビの前の視聴者たちに愛嬌を振りまいて好感度を獲得する事が、令和の時代のお笑い芸人が目指している最終到達地点だ。

興味深いのは「河内」についてであった。中沢新一は、後の天皇家の先祖よりも先に物部氏が河内に到達していたという具合に解釈していた。それは谷川健一風に言えば「物部王朝」であり、その物部王朝はニギハヤヒに始まるという。ニギハヤヒによる降臨は天磐船を使用して行われたという。それを事実として述べているのではなく、飽くまで神話として語っているものの、大きな見解だ。実際に河内にやってきた人々は九州地方の海の民であったとしている。当時の西日本は朝鮮半島南端の伽耶(かや)と同じような文化圏で、漁業と稲作をする人たちが、どこかにいい場所はないかと東進して辿り着いたのが河内地方であったとする。

その河内に展開していたニギハヤヒに始まる勢力が、後に物部氏となり、この物部氏はヤマト勢力に入り、大勢力を形成した。物部氏は実質的なヤマト勢力内の実力者となっていた。物部氏の宗家の頭目は物部守屋であり、ヤマト勢力(王権?)の中でも屈指の実力者であったが、新興の勢力として台頭していた蘇我氏、その蘇我氏との権力闘争で敗れた――としている。

その仮説は、谷川健一や関裕二らの仮説と比較することも可能だ。確かに神武が東征した時には、既に、そこには既存の勢力が盤踞していた。例えばナガスネヒコという事になりますが、そのナガスネヒコの後裔が秋田氏だという話を谷川健一は取り上げていた。谷川健一がそう推理したのではなく、当の秋田氏が自身の起源を語る中で、そのように申し出た事があるという話だ。

因みに、そのニギハヤヒに始まる物部王朝に該当するものが、イコールで出雲王朝に該当するものなのかどうかについては明言されていない。

とはいえ、大阪という土地の歴史からすると、そのような推理が成立するという。

『大阪アースダイバー』には、アレコレと大阪の成り立ちについて書かれているものの、確定的な話ではないので、軽々に強く確信する訳にもいかない。しかし、どうも基本線は合っているような感覚がある。


大阪の隣の兵庫には生野(いくの)という地域があるという。兵庫県朝来市生野町。この「生野」と表記して「いくの」と発音する地名について、筒井功著『潮来を、なぜイタコと読むのか』(河出書房新社)で解説を見つけた。

『播磨国風土記』の「神前郡」の条には、現代語に訳しますが、次のような一文があるという。

「生野と名づけた所以は、昔、ここに荒ぶる神が在り、往来の人々の半分ぐらいを殺した。そのことに因って、同地は死野(しにの)と名付けられた。その後、品太の天皇(ホンダワケ=応神天皇)が「ここは悪しき名なり」と宣(のたま)ったので、応神天皇の勅命によって死野を生野に改称した」

まぁ、挙げられているんは兵庫県の朝来市生野町のケースなのですが、大阪にも生野区というのがあるんじゃないのかな。

『大阪アースダイバー』では、5世紀の頃に現在の平野区と生野区の付近に百済系と自称する渡来人たちが高津古代港に上陸し、上町台地を越えて東に広がっていったという。そちらではヒメコソ神社がある。扇状地には百済野という地名が残っているという。

更に猪飼野(いかいの)という地名がある。これについては谷川健一が「隼人が豚を飼っていた野」という説を唱えていたという。いわば「猪飼野原住民=隼人説」。河内王朝の考察としては非常に面白い訳ですが、その猪飼野の地からは豚の骨は発見されず。すると改めて何故、そんな地名、そんな漢字表記なのかという問題になる。しかし、この【イカイノ】は【イクノ】とは、ほぼほぼ同じ音ですやね。【i】と【k】の音が共通している。気づいちゃった。そもそも生駒山の【イコマ】の音も【i】と【k】が共通している。

現在は死語になっているという【イカスリ】の話にも『大阪アースダイバー』では触れていた。武士の発祥でも触れられる渡辺氏、その渡辺氏の氏族は元々はツゲ氏であり、新羅系渡来人の集団であったという。渡辺綱。そのツゲ氏が崇拝していたのがイカスリの神であり、既に読みが変わってしまっているが【坐摩】だという。現在では「ザマ」と発音しているが元々は「イカスリ」と発音していた事が分かっているのだそうな。
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14日と15日の夕刻、NHK総合が1971年に放送した紅白歌合戦を画像が悪いにもかかわらず、放送していたので、なんの気なしに視聴したのですが、凄いメンバーで驚いた。

紅組キャプテンは水前寺清子ことチーター、白組キャプテンは後に政治家に転身した宮田輝。歌手陣は名前を挙げてゆくと、ザ・ピーナッツ、弘田三枝子、美空ひばり、水前寺清子、北島三郎、橋幸夫、堺正章、フランク永井、坂本九、三波春夫、村田英雄、渚ゆう子、和田アキ子、いしだあゆみ、南沙織、朝丘雪路、千昌夫、尾崎紀世彦、布施明、森進一。とんでもない豪華メンバーであった事に気付かされた。

チラっと映った美女は誰だろうと思ったら南沙織であった。現在のアイドルと並べてもキラキラしていそうな感じ。ああ、往年の特撮ドラマ「シルバー仮面」にアイドル歌手を目指している少女として南沙織がゲスト出演していて、その時もキラキラしてんなぁ…と感じた。あ。いしだあゆみさんも、この時代はアイドル風であった。

白組のトリは森進一で、紅組の大トリは美空ひばり。しかし、度肝を抜かれたのは森進一の方でありんした。「おふくろさん」を熱唱していたのですが、とんでもない映像だった。モノマネの人たちがデフォルメして森進一のモノマネをする訳ですが、あのデフォルメでは足りないぐらいのド迫力だった。あまりにも唸るような熱唱なので、自らのマイクを持つ手が震えてしまっている。ええ、このまま、爆発しちゃうんじゃねーのってぐらいに顔を肥大化させての大熱唱! 凄すぎて笑い転げてしまった。。。

1971年の紅白歌合戦なのですが、コント55号がゲスト出演していた。「あー、この頃は裏番組ではなく紅白に応援ゲストとして出演してたのか…。物心ついた頃には大晦日には「紅白歌合戦をブッ飛ばせ!」と冠された裏番組が放送されていたので、小学生の頃は大晦日には「ブッ飛ばせ」の方を視ていたのかな。で、そのコント55号と一緒にザ・ドリフターズが舞台に登場。なんちゅう豪華な競演をやっていたんだと驚かされた。まだ、ドリフには志村けんが加入しておらず、荒井注だった。おーっ、萩本欽一と、いかりや長介が同じ画面に収まっている。奇跡みたい! 更にソロ歌手としては初出場であったのかマチャアキがマチャアキとして、軽く笑いを取っている! いい時代だったなぁ…。

しかし、衝撃はその後に起こりました。正司敏江・玲児という夫婦どつき漫才コンビを記憶しているだろうか? この1971年の紅白歌合戦で最も大爆笑を取っていたのは敏江・玲児であった。実際、抱腹絶倒するレベルのコントを披露していた。玲児が敏江を張り倒して大コケさせると、敏江が仕返しとばかりにスタジオの端から助走をつけての飛び蹴りで玲児を吹っ飛ばす。激昂した(ように見せて)玲児が敏江を突き飛ばして転ばせ、敏江が立ち上がると立ち上がり様に足を払って尻もちをつくように転ばせる。殆んどプロレスみたいなステージであった。笑福亭仁鶴が「やめえ、やめえ」という具合にステージに登場すると、敏江も玲児も仁鶴の頭に立て看板みたいなものを叩きつけて、仁鶴の頭が二枚の看板を突き破り、そこで仁鶴が顔芸で「やってられんわ」的なアクションをしてすごすごとスタジオの端へと掃けていった。私もテレビを視ながら抱腹絶倒しましたが、実際に会場の観客もドッと笑い声が起こっていた。まだ、この頃の観客は誰々の親衛隊なんていう客層ではなく、どちらかといえば中高年の男性が目立つぐらいの客層で、そういう客層は〈重い〉と考えられる筈なのに、どっかんどっかんと沸いているのが分かった。

評価というのは追いつかないものだ。実際には、あの時代のあの瞬間に、紅白歌合戦という舞台で敏江・玲児は伝説をつくり、時代にしっかり爪痕を残していたという事のような気がする。文化人のように取り上げられて社会的地位を形成していくお笑い芸人よりも、実際に、その舞台で大爆笑を取る芸人こそがエラいんじゃ、の世界。

視ていて思ったのでしたが、あの時代の敏江・玲児のステージは世界中のどこへ行っても通用したんじゃないのかな。言葉なんて理解できなくても笑えるようなシステムになっていた。痛そうとか可哀想とか教育上よくないとか、そういうものを超越していた。笑いを取ることを最優先して、ああいうカタチになっていたのでしょう。

コントで飛び蹴りを使い出したのはコント55号だと言われていますやね。コント55号の成功は、あんなに舞台は広いのに舞台全体を使わないのは勿体ないという発想から舞台全体を使う動きのあるコントが生まれ、目玉になっていたのが萩本欽一の飛び蹴りであった。坂上二郎が弁当売りか何かに扮して、「弁当いかがっすかー」とやっていると、萩本欽一が猛スピードで脇からすっ飛んできて飛び蹴りを浴びせる。二郎さんは、その飛び蹴りで転ぶ。欽ちゃんの飛び蹴りの方で笑いを取る。しかし、二発目の飛び蹴りになると、蹴られた二郎さんは舞台をゴロンと一回転して立ち上がって、何事もなかったかのように「弁当、いかがっすかー」と平然と弁当売りを続ける的な。

しかし、敏江・玲児のそれはもう最終形まで行ってしまってたんでしょう。豪快な転び方などもホントは、どんな風にコケればウケるのか等の世界があるという。あの渥美清の話でも笑いが取れるズッコケ方というのは痛い転び方だそうで、若いとか体力自慢じゃないとできないと語っていたらしい。裏返すと、浅草時代の渥美清は痛みを伴うズッコケをやっていたという事でもある。

これは中々にバカにできない話でもある。中沢新一の『アースダイバー』でも「エノケンの笑いには身体性が伴っていた」という指摘がホントにあった。エノケンこと榎本健一は所作とか動作といった〈身体性〉で笑いを取っていたという事なのだ。奇想天外な発想をコトバにしたり、その話術そのもので笑いを取ることだけが能じゃない。なんとなくオモシロい発想をしてみせる事、その発想を言語化して語る事が最高峰のお笑いであるかのような認識に(M−1グランプリ以降の)日本人のユーモアセンスは傾斜してしまっているが、ホントはそれが必ずしも高尚な笑いという訳でもない。エンターテイメントとはバーリトゥードなのだ。つまり、エンターテイメントを何でもアリのワンダーランドだと捉えれば、所作・動作は基本中の基本だし、派手なアクションは飛び道具であり、本当は�牴抬瓩覆里澄�

『アースダイバー増補改訂版』から引用します。

西日本出身の吉本興業の芸人さんのほとんどは、しゃべくり芸が専門で、からだの動きを使った芸を見せる人はめったにいない。しゃれた身ごなしをする芸人も、ほとんどいない。それにダンサーと言ってもなんとなく二枚目志向ばっかりで、志村けん以外コミカルなダンスを見せてくれる人もいなくなってしまった。〜略〜

現代の芸人は、モニターの前に座り込んでいる「おたく」といっしょで、目の前の映像の中ではものすごい運動がおこっていたり、笑いのことばの速射砲のように飛び出してくるのだけれど、映像とことばをあやつっている本人のからだは、ほとんど芸のうちに参画していない。映像を見る目とことばを聞く耳ばかりが異常に発達して、からだの運動はすっかり魅力を失ってしまっているように見える。
(『アースダイバー』207頁)

まさかまさかの演芸評ですが、それなりに意義深い評のように読んだ。現代人は、当代の時代性を肯定した杓子定規で物事を眺めている。古いものよりも時代の最先端の方が優れているに決まっているという先入観があり、その先入観に没入したまま、時代を生きている。古い話は無駄。年寄りの話なんて付き合うだけ無駄。伝統なんてクソくらえ。パロディーのパロディーをするか、パロディーの模倣をすればいい。常に古いものは劣っていて新しいものこそが優れているのだと思い込んでいる。

しかし、それは怪しい。ザ・ピーナッツを超えた思えるデュオを挙げる事ができるだろうか? 坂本九の「スキヤキ」以降にビルボードチャート1位を取った日本の楽曲があるだろうか? 布施明の歌唱力や弘田三枝子の歌唱力をきちんと評価できているだろうか? いやいや、美空ひばりに三波春夫、村田英雄、そして北島三郎の世界なんてのは日本文化そのものでもあるのに、それを理解できているだろうか?

BEGINの「島人ぬ宝」を聴くとはハッとする。

♪
僕が生まれた この島の空を

僕はどれぐらい知ってるんだろう


が唄い出しであるが、その三番の歌詞になると、

♪
僕が生まれた この島の唄を

僕はどれぐらい知ってるんだろう


になっている。

そして一番の歌詞に戻りますが

♪
教科書に 書いてある ことだけじゃ わからない

大切な ものがきっと ここにあるはずさ〜

島人ぬ宝


なのだ。よく出来た歌詞だよなって思う。

勿論、これは石垣島なり沖縄に限った話ではなく、或る時代の日本という地域に生まれ育ったにもかかわらず、その日本文化について〈僕はどれぐらい知ってるんだろう〉と自分自身に問い直せるような歌詞の構成になっているのだ。

現在ともなると学校でヒップホップダンスを教え、オリンピック中継になるとスケボーにブレイキンがあるので、そうしたショウ要素の強いコンテンツに大衆の関心は奪われる。これは必然的に奪われるような状況になっているという意味でもある。しかし、本当は戦後の日本には戦後の日本の歩みがあり、その歩みの中で相応の水準のサブカルチャーも形成してきていたのだ。いつの間にか〈迷子〉になってしまったんでしょうねぇ。
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週刊文春新年特大号には『悠仁さまを揺さぶる�牋�子天皇�甼鉾觀弉茵戮箸いΦ�事があった。しかし、目を通してみると〈見出し先行〉といった印象の記事であった。

安倍政権の頃のこと、平成天皇(現・上皇)の退位を巡って、あのビデオ映像をNHKにリークしたルートに秋篠宮が関与していたのではないかという憶測も相俟って秋篠宮家への不信感が官邸内に起こり、その頃から愛子天皇を巡る議論が起こっているという。裏返すと、或る時期から秋篠宮家に対しての批判的な報道が増えましたが、当時の東宮家(現・天皇)と比較すると秋篠宮家は、それぞれの進学先を選びにしても難儀する事が多く、そういう流れが出来たという。また、この頃に「皇位継承を途絶えさせないためには、女性天皇、すなわち『愛子天皇』の誕生も容認する考え」が浮上したという。但し、例によって女性天皇と女系天皇の問題が保守派から出た為に、旧皇族の中からY染色体を有する男性を捜し出そうとしていた。

政権中枢が語る。

「安倍政権のこの指示を極秘裏に、杉田和博官房副長官(当時)に命じました。血統が天皇に連なる旧皇族の男系男子と愛子さまが結婚すれば、その子どもも天皇に連なるY染色体をもつ『男系男子』となる。それならば愛子天皇が誕生した後も、男系の子どもが皇位を継承していけるという計画だったのです」


これが一部週刊誌が2023年に「御所で愛子さまのお見合いが行われた」と報じた記事と関係しているが、当時、週刊文春は宮内庁に事実関係を確認したが否定されたという。まぁ、そのような動きがあったというのは確かなよう。しかし、新年特大号の文春は何かしらの理由で〈頓挫した〉と報じている。

どう感じたかというと、確かに皇族方の事を道具のように考えすぎではないのかなと感じた。

以前に、天皇制の究極は「精霊の王」になってしまうことではないのかという話に触れた。

拙ブログ:天皇が「精霊の王」になるとき

この話で書き漏らした事を思い出した。何故、「精霊の王」になる必要性があるのかというと、それが超越的主権である事を意味しているから。先に触れたような人為的な行為が絡んで皇位が決定される等というのでは、結局は「人為によって選出された王」でしかない。それでは意味がないのだ。

(まだ国家の概念が未発達だった時代には)縄文的な思考が、大きな影響力を持っていた。国家を持たない社会の人々は、人間の能力を超えた「超越的主権」のありかを、人間のつくる社会の外部に見出そうとした。これは国家がつくられる以前の、新石器的思考の特徴をよく示している。「超越的主権」というものが、王の存在をつうじて社会の内部に持ち込まれてくるとき、そこに国家が生まれる。だがアメリカ先住民の歴史人類学的な研究からの類推で言えば、縄文的な社会はそういうことがおこるのを、慎重に回避してきたように思われる。「超越的主権」は、そこでは社会の外に見出されるものでなければならない。つまり、人間の王ではない。真実の「世界の王」は、自然の領域に見出されてきたのである。

縄文的な社会においては、「世界の中心」たる真実の王は、社会の外にいる。それは、境界の外から人間の社会の内部に、やってくるものでなければならない。
(中沢新一著『精霊の王』(新潮社)208頁)

時の権力者が企図して選んだ〈王〉では、超越的主権とはならないという話をしているのだ。仮に、その権力者が覇権でもって絶対君主となったとしても、その体制は易姓革命のような理屈で崩されてしまう。力さえあれば、誰が君主になってもいいという解釈になってしまう訳です。選挙で誰かを大統領に選ぶにしても、それは絶対的な権威とはなりにくい。現在の韓国の大統領事情などが好例だ。そうではなく、「超越的主権」を構築するには、人間世界の〈外部〉からやってくる神が必要になる。自然を統べる神とコンタクトをとれるような「太陽の王」とか、もしくは万物の生命に通じている「精霊の王」であれば超越的主権となり得るという訳です。
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