どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:世迷い言 > 最終章

アブラナ科のシロイヌナズナの葉をアオムシは好物にしている。なので、シロイヌナズナの葉をアオムシはむしゃむしゃと食べる。食べられているシロイヌナズナは、植物なので食べられていても何も感じていないのかというと、そうではない事が分かってきたという。シロイヌナズナは防御反応をする。齧られた部位ではグルタミン酸の濃度が上昇し、このグルタミン酸がシロイヌナズナの細胞の中にカルシウムイオンが流れ込み、結果としてシロイヌナズナの葉の細胞のカルシウムイオン濃度を増加させる。

これを可視化すると、シロイヌナズナは葉から茎を伝わってシロイヌナズナの全身にヒトの神経コードのように信号が伝わり、シロイヌナズナは全身中にあるカルシウムイオン濃度を増加させる――。

上気の話は既にNHKスペシャル「超・進化論」で取り上げられた内容ですが、改めてNHKスペシャル取材班+緑慎也著『超・進化論』(講談社)を参考にして、その分かってきた現象を述べると、そうなる。

まるで植物には心があるようだ。いや、明確に植物は、自然界とコミュニケーションをとっている。残念な事に、ヒトだけが言語に頼って他者を欺く技巧に走り、そのロゴスと再現性が確認されない限り、科学とは認めないという科学主義の知的体系をつくってきてしまったという事っぽい。

上記の話は、実はシロイヌナズナは音を聞いてアオムシに食べられている事を知覚していると考えられている。実は植物は音を聴いている? 勿論、これはヒトが音声を捉えるという手法とは異なり、おそらくは振動を読み取っているの意になる。アオムシがシロイヌナズナの葉を食べる。その際には咀嚼音が発生している。シロイヌナズナに、人工的な装置でアオムシの咀嚼音(振動)を聴かせると、実際にアオムシが葉を齧っておらずとも、シロイヌナズナは防御反応としてグルコシノレートという辛味成分を分泌するという。

では、シロイヌナズナは音(振動)でのみ、アオムシに食べられている事を認識しているのかというと、そうではない。植物は、自分を食べる昆虫や動物を、その食べられている箇所に付着する動物や昆虫の唾液から、相手を特定しているらしい事も分かってきたという。つまり、「誰だ、オレの葉っぱを食べちゃってる奴は! 至急、この唾液の主を分析せよ。判明したか? よし、この唾液はアオムシだ。ではアオムシに有効な毒物を生成してヤツが喰いつきそうな場所に張り巡らせておけ!」のような防御反応しているのだそうな。

更に、このシロイヌナズナとアオムシの話は続く。2鉢のシロイヌナズナを用意して、それぞれのシロイヌナズナの間には空気だけを通すような仕切りを施し、片方のシロイヌナズナにはアオムシに食べさせ、もう片方のシロイヌナズナにはアオムシをたからせないし、移動もさせない。なので、アオムシに食べられているシロイヌナズナが防御反応をとる事は予想できるが、実はアオムシに食べられていない方のシロイヌナズナも食べられているシロイヌナズナと同じように防御反応をとることが分かっているという。

実は植物はコミュニケーションを取っている。異変を察知したシロイヌナズナは揮発性化学物質を分泌し、自分だけではなく周囲の植物にも「私は虫に食べられている! ここに虫がいるぞ! みんなも気をつけろ!」というシグナルを発信しているのだという。

この自然界にある意思伝達ネットワークは、一体、なんだって思いません? 植物さん、実は心がないようで、心があるって事ですよ。いやいや、これはホントに「風の谷のナウシカ」とか「もののけ姫」の世界ですよ。実は、森の精は何もかも知っているって事かも知れない。ヒトと呼ばれる動物の種族が、破格のエゴイストで自然破壊ばかりをしているサタンである事を――。


ヤナギの葉をヤナギルリハムシの幼虫が食べる。このヤナギルリハムシの幼虫は、カメノコテントウという日本最大級のテントウムシの大好物である。カメノコテントウは多い時だと、1日で100匹以上のヤナギルリハムシの幼虫を見つけ出して食べてしまう。しかし、カメノコテントウの視力は大した能力がない事が分かっている。では、何故、カメノコテントウは、そんなに大好物のヤナギルリハムシを見つけ出す事ができるのか――という謎が残る。この問題も同じであった。植物は植物で同盟関係を締結しているのではなく、実は昆虫類とも「敵の敵は味方である」という論法で結ぶついているのだという。

ヤナギの葉が食べられると、揮発性のテルペノイドという化学物質が分泌される。そのテルペノイドは、ヤナギルリハムシの成虫が食べても幼虫が食べても分泌されるが、カメノコテントウは絶妙な嗅覚(厳密には嗅覚ではないかも知れない)が化学物質のブレンド具合によって嗅ぎ分け、ヤナギルリハムシの幼虫の居場所に駆け付ける。

つまり、ヤナギはヤナギルリハムシに食べられると揮発性化学物質で「SOS、SOS、今、ヤナギルリハムシに食べられています!」というシグナルを発信している。そのシグナルをカメノコテントウは嗅ぎ分けて「ほぅ。そないでっか。ワテの好物の幼虫はこっちでんな」と駆けつけている。

その自然界のネットワークでは、植物の発信したシグナルを昆虫は読み取れているという訳です。ここが理解できると、精霊信仰をしていた古代人やシャーマニズムが如何に優れた自然界と溶け合う手法であったのかに思いが到るかも知れない。


しかし、それ以上に気になったのは南方熊楠の指摘だ。「南方マンダラ」が、無数の因果律によって形成される球体となる量子論の立体図に酷似している事は既に述べた。本当は南方マンダラの方が、球体から外れたところにも因果律の線を引いているので、おそらく南方マンダラの方が今でも真理に迫っているとも言える。で、その「南方マンダラ」の解読方法が厄介な訳ですが、南方熊楠が土時法竜に宛てた手紙の中では――その手紙の解読も難解な訳ですが――、どうも宇宙には心象界と物象界との二つがあると述べている。量子だけが物質として宇宙に存在しているのではなく、物質と等しくして心があると述べている。しかも、それこそが真言密教の奥義だという解釈をしているのだ。我々が何かを確認するにも、思い描こうとするにも、そこには必ず心象界の影響を免れない。何かをしようと思った瞬間に、そこに〈意〉が生じる。何かを考えたり、何かを確認しようとしたとき、実際に〈意〉から逃れる事は出来ない。ここから唯識論に繋がってゆく訳です。

夜空に星を見ようとしない限り、星は見えない。そんなの当たり前だと考える。しかし、この問題は御存知の通り、では、夜空を見上げていない間、ホントに夜空に星は存在しているのかという問題にもつながってくる。結局のところ、識の限界があるので、きっと見ていない間にも星は存在しているのように補足しながら我々は世界を認識しているのだ。また、この問題が量子力学的な問題にもなってくる。

南方熊楠は、井上円了の妖怪講義に物足りなさを感じていたらしい事が土時法竜への手紙から読み取れる。『南方マンダラ』(河出文庫)の中でも二度ほど井上円了の名前を挙げていたと思う。どちらも批判的に取り上げている。他にも鈴木大拙や福沢諭吉の名前も挙げてありましたが、どうも熊楠は井上円了は西洋哲学に沿って仏教を再定義してしまったのは誤まりだと言いたかったと思われる。ありとあらゆる不思議を西洋哲学で解明できるかのように井上円了は妖怪退治をしてしまったが、「あれが全てではない」旨、熊楠は展開させていた。何しろ、熊楠は幽霊に導かれて未知の粘菌を発見している人物であり、熊楠の場合は自ら確信している何かだったのだ。

確かに思うところがある。井上円了は「コックリさん」等の事象を明らかにした。そして狐憑きや犬神憑きについても取り上げていた。狐憑きや犬神憑きも、西洋思考で理解してしまうと結局は或る種の自己暗示という事になってしまう訳ですが、そういう部分に天理教の教祖の中山みきの話を持ち出しているのだ。今日、書店にある書籍でも実際に中山みきの神懸かりについては「てんかんであったということだろう」という具合の解説をしている宗教学者もいる。信じていないのだ。しかし、よくよく中山みきの話を掘り起こしていくと、不可解が残る事は自明だ。これはシャーマニズムに対しての誤解とも関係していて、自然界と通じようとする試みや、宇宙と一体化しようとする試みは、野生的な回路を通じて、何かと通じてしまう可能性を否定できない。何しろ、ヴェーダの哲人たちはシャーマニズムのような神懸かりをしながら、ブラフマン(宇宙)とアートマン(個我)は一体であるという哲学体系を構築していたのだ。どういう回路か判然としないものの、トランス状態になった者の中には宇宙との合一を実感するような、そういう感覚を持っていたと考えざるを得ないのだ。

その部分を熊楠はきちんと「それが全てではない。西洋思考では理解できない領域がある」と述べていたのだ。まぁ、井上円了は井上円了で「宇宙全体が霊体である」と『霊魂不滅説』の中で述べているし、そちらも凄い。熊楠の言っている大日(大日如来)の真理とは、結局は「宇宙全体が霊体である」という感じのニュアンスだ。

我々は自分たちが認識できるものだけを頼りに、物事を認識している。しかし、植物が揮発性化学物質を分泌して、植物同士や昆虫相手にもコミュニケーションをとっていたことを、現に我々はナンセンスと嘲り笑ってきたのではなかったか。しかし、どうしようもないバカは我々の文明の常識の方であったという事ではないのかな。目に見えない力、我々が認識できない力がホントに在ったという事だし、自然界には非言語コミュニケーションらしいものがあったって事だから。

今、ロスアンゼルスでは山火事で大変な事になっている。しかし、この『超・進化論』によると、自然界というのは不思議で、山火事が発生した際に特殊な化学物質「カリキン」が発生し、そのカリキンが地中に埋もれている特定の種子に対して「芽吹け」と命令している事が分かっているという。

植物の発する言葉には、他にもさまざまな種類があることが明らかになりつつある。たとえば、森で山火事が発生すると、燃えた木から立ち上がる煙に、植物のある会話物質が含まれることが確かめられている。その会話物質の名前は「カリキン」。森一帯がカリキンを含む煙にさらされると、地中で眠っていた特定の草木の種が一斉に発芽するという。実は、これらの植物の中には、いくら光などの条件が整ってもそれだけではほとんど発芽せず、カリキンがあって初めて発芽する促進する植物もあるという。(『超・進化論』35頁)

結局、動物だけではなく、草も木も虫も菌類、これには腸内細菌みたいなものも含みますが、全部が全部、実はどこかで繋がっていて互いに支え合っていたというの究極的な解なのでしょう。人類だけが愚かで狡猾にもオイシイところだけを独占し、他者から搾取する事も許されるのだと手前味噌な弱肉強食型の進化論解釈をやってきてしまったというだけで――。

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現在、確認されている地球上の生命体は200万種なのだそうな。しかし、全ての生命体を把握でてきる訳ではなく、推定では870万種の生命体が地球に棲息していると考えねばならないのだという。実は25%以下しか確認できていないという事になる。

確認されている200万種のうち、哺乳類は約6000種あり、植物は40万種あり、昆虫ともなると100万種を超えるという。つまり、200万種の生命のうち、その半分以上は実は昆虫が占めているという事になる。植物が植物同士で意思伝達をし、且つ、植物と昆虫との間でも

「緊急速報を発表します。緊急速報を発表します。現在、私は迷惑な虫に葉っぱを齧られています。この虫を大好物にしている昆虫諸君、至急、救助下さい!」

のようなコミュニケーションがとられている事が明らかになってきている。その自然界ネットワークは、複雑な音声や文字といった言語のよってのみ意思伝達をしている地球上の唯一の存在であるホモ・サピエンスよりも、本当は賢いという事ではないのだろうか? 自然ネットワークに反するような人類の行動とは、そもそも天にツバを吐くような行為ではないのか? 自然界の住人でありながら自然を破壊している厄介者こそが現代の文明人なのではないのか?

まぁ、パンスペルミア説は一先ず、脇に置いておくとして、地球に起こった生命革命をおさらいすると、以下のようなものになる。

4億5千万年前、それまでは水際に棲息していた植物は陸地へと進出した。まだ、その頃の地球上の陸地は砂と石がどこまでも広がっている不毛の大地だった。陸上へ進出した植物の中から、やがて根、葉、茎の区別を持つような複雑な植物が出現した。その構造を獲得した事で植物は乾燥地にまで生活の場を広げていった。

地球上の生命史に大変革が起こるのは恐竜時代後期の白亜紀の頃だと考えられているという。生物の種数が劇的に増えた。何が起こったのかというと、植物と昆虫の同盟が始まった事と関係している。植物は花を持つようになり、花粉を有し、その花粉をあちらこちらへと便利に運んでくれる昆虫が登場した。

少しNHKスペシャル取材班・緑慎也著『超・進化論』(講談社)から引用します。

当時、地球には、最初の森林が広がっていた。高さ5メートルにも達する巨大なシダ種子植物(裸子植物でありながら、原始的な花粉を持ち、種子を作る植物。約1億4500万年前から約6600万年前。白亜紀に絶滅し、現存していない)が大地を覆い、その幹を大きさ1センチメートルほどの昆虫が行き来していた。まだ、種類も数もごくわずかで、シダの原始的な花粉などを食べていた。

翅はなく、飛ぶことができないため、歩いて花粉のある目的地まで移動しなければならなかった。
(『超・進化論』94頁)

昆虫が陸上に現われたのは推定4億年前だという。これは脊椎動物の祖先よりも4000万年も早い時期に昆虫の祖先は陸上に進出していたという意味だという。4億年前に陸上に現われた昆虫は5000万年ほどの時間をかけて、自在に空を飛行できる〈翅〉を獲得した。言い換えると翅を持った昆虫は今から約3億5000年前に登場した。

おさらいします。植物は4億5千万年前に陸上に進出した。まだ、その頃の植物はシダ種子植物のようなものであった。植物に遅れること5千万年、昆虫が陸上に登場する。これが4億年前。その昆虫は更に5千万年かけて翅という名の自由の翼を手に入れた。これが3億5千万年前。ここからは想像がつくでしょう、花は花粉を持ち、花粉を食べる昆虫が登場し、昆虫は自由に飛行するので植物は花粉を昆虫に運んでもらい、昆虫は積極的に花粉を運んだ。植物と昆虫は、気が遠くなりそうな遠大な歴史の中で、密かに意思伝達回路を打ち立てて、その自然界ネットワークの研鑽をはかってきていたのだ。

どうやって? 人間には感知できない揮発性化学物質を分泌して――。

人類の登場は前掲著によれば、500万年前だという。新参者の人類は植物や昆虫たちがつくった地球上のルールを知らず、なんでもかんでも好き放題に破壊してしまっているって事なのでしょう。じっと大人しく我慢して5千万年ぐらい経過すれば、人類も何かの拍子に翅を獲得して、手塚アニメのフウムーン(新人類)みたいにテレパシーと翅を有する生き物になれたかも知れないのに。


話は極私的な視点に変わります。ここのところ「中山ラビ」の歌声に魅了されていた。しかし、生憎、CDを借りようにも利用しているレンタルショップで検索をかけてもCDはヒットしなかった。その代わりにヒットしたのがドキュメンタリー映画を収録したDVD「9.11-8.15 日本心中」(以下、「日本心中」)であった。

「日本心中」は、美術評論家にして文芸評論家の針生一郎(はりう・いちろう)和光大学名誉教授の思想を追ったドキュメンタリー作品であった。思想的には戦前には右翼少年であったが戦後に左翼に転身したという。天皇制が現在も残っている事に対してのやるせなさを語り、NY同時多発テロが発生した事にはショックを受けたが、それでいて戦前・戦中の記憶がある事でわだかまりのようなものがあるという。テロは許されないというが、テロのようなものが起こらない限り、世界は変わらないのではないのか等と訥々と自らの思想を語っていた。重信房子の娘である重信メイ(命)さんも出演していたという意味では、かなり左翼色の強いドキュメンタリーであり、長時間の視聴はきつい内容でもあった。

しかし、これが途中で興味深い内容に転じた。文芸評論家の観点からか、韓国の詩人にして思想家である金芝河(キム・ジハ/故人)の話となり、その金芝河の評については鶴見俊輔も映像作品中に登場して「日本には登場しなかった大変な才能の持ち主ですよ」と大絶賛していた。そしてドキュメンタリー映画ながら、重信メイが金芝河に会いに行き、両者が対面するという展開が待っていた。

この金芝河については、偶々、知っていた。過去にジョニー大倉の主演作品「異邦人の河」を視聴していた。実は韓国の民主化運動上では大きな影響力を持っていた抵抗詩人の一人であり、朴政権下では弾圧に遭った人物でもある。そして、この金芝河の思想は1970年代までは民主主義想であり、それで弾圧されて獄中生活となった訳ですが、この金芝河の詩が政治運動の象徴となっていった。が、1990年以降になると宗教色の強いものに変節していったと評されている人物であった。

重信メイがバラックを訪ねると、金芝河がバラックへと迎え入れる。さて、この金芝河(キム・ジハ)が何を語るのかと思ったら、ホントに意外な事を話していたので驚いた。若く、そして日本赤軍のリーダーであった重信房子の娘であると自己紹介した重信メイを前にして、金芝河は当初は、「あなたとわたしがこうして、ここであっていることは凄い偶然の巡り合わせだ」のような事を言って歓待している。年寄り連中が大絶賛している伝説的な詩人とバラックの中で座して対峙して緊張気味の重信メイ。その重信メイを前にして、金芝河は意外な事を話していた。

「イギリスの考古学者にE.R.ローレンスという人が居ます。その人の書いた本の中にオモシロい話がありました」

イギリス人考古学者の「E.R.ローレンス」とは、いわゆる「アラビアのローレンス」の事だ。

「ローレンスは世界中を旅していたが、9月に或る地方を旅をしていたときに、これまでに嗅いだことのない奇妙な匂いに気づいた。ローレンスは非常に鋭敏な人物だったので、その嗅いだことのない不思議な匂いの原因を確かめようとして、匂いの原因を探った。匂いを発しているのは、その土壁ではないのかと思い、土壁を削り取ってイギリスに持ち帰った。土壁を調べてみたところ、その土壁には呪術で使用するような擂り潰した植物が魔除けとして練り込んであった。普段は匂いを放たないのにモンスーンの吹く9月になると、その土壁から魔除けに効果があるという匂いがするように、その地の人たちは工夫していたのだ」

金芝河が何を言わんとしているのかと呆気にとられてると、次に金芝河は「西洋思想にはない東アジアの思想がある」という話につなげていった。それは結局、自然と調和して生きる知恵が、この東アジアにはあるという主旨の話になっていた。「イスラエルの人たちとパレスチナの人たちとが和解できると信じることができますか? きっと難しいでしょう。でも、もしかしたら可能かも知れない」と話を紡いでいた。

この話の文脈からすると、ローレンスがモンスーンで呪術で魔除けに使用されている植物が練り込んだ土壁の話というのは俄然、興味深い一節である事が分かる。単に博学だという話ではない。植物の匂いが実際に魔除けになるという事を知っていたであろう、非科学的な古い伝統や慣習が自然に即したものであったという事を述べていたとしか思えないのだ。モンスーンの季節にだけ作用するよう魔除けの植物を壁に練り込んでいたという事なのだ。おそらく、それは魔除けというよりも、虫除けだ。あたかも自然界ネットワークに介入する方法を知っていたかのような、その知恵について述べていたのだ。

我々は自分に理解できない事を話している者を「狂人」と認識してしまう。あるいは理解を超えた発言をしている人を目にすると「この人は宗教を語っているらしい。なんだか分からないけど、近づかないでおこう」のように身構えてしまう。しかし、どうも自然界ネットワークの中には既知の知識では理解できない次元の事柄として〈感じ取る能力〉の優劣があるのも確からしいなと感じた。

ああ、針生一郎氏は「神話を左翼が取り返さねばいけない」のような事を言っていた。神話なんてものはどうでもいいと思ってきたが――という訳です。実は思想を突き詰めてゆくと、神話次元や自然回帰になっててしまうという事ではないのかな。

拙ブログ:映画「異邦人の河」から
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朝日新聞あたりでも官僚批判の際に「シロアリ」という表現をしていたのを記憶している。「シロアリを退治しなければならない」のようなニュアンスで使用していたのだったと思う。思えば、シロアリというのは全方位的に嫌われ者だよなって思う。

しかし、シロアリさんは、自然界にとっては欠かせない大事な仕事をしていた事が明らかになってきたという。先ず、シロアリさんは枯木や朽木を分解して土に戻すという役割をしており、その土の再生があるので新たな植物を育てているのだそうな。更にシロアリさんは草食動物の糞も食べて分解して土に戻しているのだという。何故、そこら中が草食動物の糞だらけにならないのかというと、シロアリさんが掃除してくれているという訳です。

更にシロアリさんには、干ばつの際、シロアリが居住している区画と、シロアリが居住していない区画とでは、土壌の水分量に差異があるという。シロアリさんが居住している区画では、居住していない区画に比べて土壌の水分量が3割多く、幼木の生存率も高い事が分かったのだそうな。つまり、シロアリさんは干ばつのような気候変動から土壌を守るという役割を負っていた――と。

木造家屋の多い日本では、シロアリなんてものが出たら即座に駆除しなければならず、徹底的な嫌われ者である訳ですが、自然界というのは巧い具合に出来ているらしく、嫌われ者のような存在に限って、重要な役割を果たしているのかも知れない。


岡林信康の「山谷ブルース」の歌詞みたいなジレンマを見い出せる。

♪
人は〜 山谷を悪く言う

だけど〜 俺たち居なくなりゃ

ビルも〜 ビルも道路も出来ゃしねぇ

誰も分かっちゃ くれねぇか〜


NHKスペシャル取材班+緑慎也著『超・進化論』(講談社)から少し引用します。

4億年も前から、あらゆる環境に適応し、地球を支えてきた昆虫。その地球環境をわずか500年前に誕生した私たち人類は、破壊し続けている。昆虫のほとんどは、まだ発見されておらず、実際の種数は400万とも1000万とも言われる。どの種が、どんな働きをしているのか。まだまったくと言っていいほどわかっていない。そんな中、人間の活動によって、毎年2.5%のスピードで、昆虫が姿を消しているという。(『超・進化論』115頁)

昆虫ではありませんが、アクネ菌なんてものもニキビの原因になると嫌われてきたが、このアクネ菌も実は良い働きをしている事がわかってきたという。アクネ菌は毛穴にまで入り込んで、黄色ブドウ菌などの病原菌の攻撃から、その人の肌を守ってくれる役割を負っていたという。簡単に、我々は悪者をつくりだして忌み嫌ってきた訳ですが、案外、何かしらの意味があって、この世界というのは、そうなっているのかも知れない。

昔から日本には【無用の用】という言葉があって、出典は荘子ですが、一見すると存在価値がないもの、無用なものに思えるものがあるが、実は重要な役割を担っているという格言であり、なんで荘子は、そういう本質を指摘するような言葉を残せたのだろうと改めて思ったりする。あの「男はつらいよ」シリーズの中でも、阪神・淡路大震災の復興の手伝いを、あの寅さんがやっていて、テレビ中継に映り込んでいるとして、とらやの面々が騒然とする中、前田吟演じる諏訪博(すわ・ひろし)が「無用の用」について語るシーンがあったと思う。或る時代までの日本では、比較的多く使用される言葉でもあった。

それが現在ともなると、「排除の論理」であろう、キャンセルカルチャーの大発動時代に突入してしまっている。あんな人は居なくなってしまった方がいいとか、あんな奴は追放してしかるべきとか、あんな会社は無くなった方が社会の為であるとか、オワコンの業種はさっさと倒産すべきとか、排除の論理を発動する方が、まるで正義のような状態になってしまっている。

橘玲著『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書)は、まさしく現在の日本でも吹き荒れているキャンセルカルチャーをテーマとしている。これは、やはり行き過ぎたリベラルが惹き起こしているものであるという。

マイケル・サンデルに続いて、エマニュエル・トッドもリベラル化によって登場してしまった能力主義社会の問題を取り上げている。リベラル思想の実現によって能力主義が徹底されてしまうと、実はありとあらゆる格差が拡大してしまうという不都合な事実があるという。何しろ、唯一の判断基準は能力主義によるスコアだという事になってしまうので、当然、苛烈な学歴競争になる。教育のコストが高騰する。アメリカでも韓国でも中国でも、この現象は起こっている。橘玲氏は、もっとシビアかも知れない。この能力主義になってしまった事で、結局は両親から受け継ぐ遺伝子の差異が大きくなってしまうとも述べている。

行動遺伝学の多くの研究によって、社会がリベラルになるにしたがって遺伝の影響が強まり、男女の性差が大きくなることが一貫して示されている。

これは考えてみれば当たり前で、「自分らしく生きられる」社会では、もって生まれた才能を誰もが開花させられるようになるが、知識社会に適応する能力にはかなりの個人差がある。その結果、社会がゆたかで公平になればなるほど、環境(子育てなど)の影響が減って遺伝による影響が大きくなるのだ。
(『世界はなぜ地獄になるのか』9頁)

まぁ、冷静に考えれば、そういう事になるのでしょう。その者の努力よりも継承した優れた遺伝子というシビアな社会になってしまうのだ。サンデル教授の能力主義批判もそれに繋がる能力主義批判であった。数年前に「親ガチャ」というワードが日本でも話題になった。「なんで、母ちゃん、オレを生んじまったんだよ」と、親を恨みたくもなるが、恨んでどうなるものでもないので、恨んではいけない。本当は運不運は明確に存在しているのだ。

これがキャンセルカルチャーと繋がっているとしたら? またまた引用します。

興味深いのは、キャンセルカルチャーが、「アメリカの中でも最も進歩主義的な地域(ニューイングランド地方と西海岸)の、進歩的な政治思想で知られる大学」で猛威をふるっていることだ。これらの大学は、「進歩的かインクルーシブな社会政策」をどこよりも熱心に推し進めてきたにもかかわらず、あるいはそれゆえに、はげしいキャンセルの嵐に見舞われたのだ。(同85頁)

あ。意識高い系の問題か?

橘玲(たちばな・あきら)氏の見解と若干ズレてしまうかも知れませんが、私はEテレで放送されていた「世界サブカル史」の流れに沿って、それらを「過剰」の問題と解釈している。パンクロッカーがメジャーになってしまい、「反逆のカリスマ」ではなくなってしまうと、もう後は死ぬことになってしまう的な転倒と関係している。「行き過ぎ」や「過剰」、「背伸びのしすぎ」と関係していると思う。

普遍的正義なんてものは、そうそう簡単に見つかるものではなく、他人に押しつけていいレベルの普遍的な社会正義なんてものは、せいぜい4〜5件ぐらいしかないような気がしている。

全員が全員を社会的正義だと信じる社会的正義の観点で他人を監視し、問題アリと思えば容赦なく排除の論理を発動する。これは地獄ですな。普通に考えれば。そら、私も個人的には「フジテレビの放送免許なんて剥奪しちまえばいいのに」と心の中では思っている方かも知れませんが、わざわざ、そういう気持ちを意味ありげに発言したり、行動に移したりはしない。罰を下す当事者に自分がなる必然性がないと自覚するし、それが「身をわきまえる」という事であろうと思う。

おそらく、事実関係も明らかにならない内から即座にキャンセルカルチャー発動になってしまうというのは、精神的余裕もなく、寛容の精神もない事と関係している。そして物事には運不運が付き纏うものであるという基本的な感覚が希薄化してしまっている事とも関係している。
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【自然】とは、戸外にある景色のような自然のみを指しているだけではない。私やあなたを含めて、ヒトは自然の存在である。我々は建物の中に居て家電製品に暮らしているので、自然とは距離を置く存在のつもりになっているが、実は文明人を自称している者も含めてヒトというヒトは、すべて自然の存在なのである。

クリスティン・オールソン著・西田未緒子訳『互恵で栄える生物界』(築地書館)で紹介されている、ジャック・ギルバート(カリフォルニア大学サンディエゴ校の小児科学と海洋学の教授)へのインタビューしたものが、まとめられており、その箇所を引用します。

ギルバートによれば、人間が一時間あたりに放出している細菌は三八〇〇万個、菌類は七〇〇万個にのぼる。「人が息を吐き出すごとに、その皮膚からも髪の毛からも細菌と菌類が落ちている。椅子に座っているなら、それらは尻から外に出る。私たちは微生物の痕跡を残しながら動いているわけだ」(クリスティン・オールソン著『互恵で栄える生物界』99頁)

ヒトは神によって神に似せて造られた特別な存在ではなく、実際には自然界の住人に過ぎない。そもそもヒトの人体は微生物だらけで構成されているという。能く「人体という名の小宇宙」のような比喩表現が使用されますが、小宇宙どころか個人個人が一つの宇宙のようなものだ。微生物たちによって織りなされている相互作用する叢(そう/「草むら」の意)を微生物叢というが、それは以下のようなものであるという。

私たち一人ひとりがもつ微生物叢は、三五兆個ほどの細菌と――人体の細胞の数は、それら細菌細胞の数とほぼ同じだ――、菌類、原生動物、ウイルス、その他の微生物で構成されている。人体に備わった生息場所は腸内だけではなく口、肺、目、脇の下、尿生殖路、皮膚など、数百はなくても数十にのぼり、そこでは細菌をはじめとした微生物がその領域を健康に保つ作業に加わっている。(同100頁)

引用箇所を、おさらいすると、一つの人体が有する微生物叢は、35兆億個の細菌、その他に菌類、原生生物、ウイルス、その他の微生物によって構成されている。そういう話をしている。それが口、肺、目、脇の下、尿生殖路、皮膚、それと女性の場合は膣にも微生物叢があり、その微生物叢は人体の健康維持の為に働いていると考えられている。かつては「ばい菌」のように思われた細菌類も、どうも実は免疫系に加わっていて、その者の健康を守る役目を担っていると考えられるように変わってきている、という。

引用します。

科学者たちの考えによれば、人間の微生物叢は出生時に産道を通った瞬間に身につくもので、母親の膣内から生命力の源となる滑らかな微生物を得て生み出される。看護スタッフが新生児の体をどんなにきれいにふいても、大腸菌はわずかに残ってしまうからだ。

微生物学者グラハム・ルックは、「動物のほとんどの種は、生まれている最中の赤ちゃんにウンチをかける」と言う。「コアラの赤ちゃんはお腹の袋から身を乗り出して、母親の特別なウンチを食べる。母親の微生物叢を子に伝えるのは非常に重要なことなのだ」
(同100頁)

微生物叢を子に伝えるのは、それが、その子の免疫系などに必要不可欠なものだからという事になる。赤ちゃんに強固な微生物叢を伝えると、その子は母親の微生物叢を取り入れて自分の微生物叢とするので結果として強固な免疫系が構築される。ヒトの場合は3歳になる頃までには成人と同等の規模と多様性を備えた微生物叢を構築するという。

ついでに述べると、母乳で育てられる赤ちゃんの微生物叢は生まれてすぐに急増するような仕組みになっているという。母乳にはオリゴ糖が含まれており、オリゴ糖を人体は消化できないが人体と共生している微生物はオリゴ糖を大好物にしている為だという。

また、先に母親の膣内から滑らかな微生物を得て赤子が産まれてくるという説明があった。そこには注意が必要だ。

帝王切開で生まれた赤ちゃんの場合は出生時に身につける微生物叢が少なくなるが、一部の見識のある医師は母親の膣から流出する液を塗りつけることによって不足分を補おうとする。また母乳を与えられない赤ちゃんの微生物叢には、短期間であっても、自然が用意した特別な栄養素が不足する。(同109頁)

と続く。

つまり、我々の体は微生物と共生して構成されているのだ。ヒトはヒトとして単体で存在しているのではなく、自然と共に存在している。ヒトという存在は自分たちの力で自立する形で存在しているのではなく、微生物たちとの共生関係の中で自然界に存在しているという事だ。

自然界の存在でありながら、その自然を超克しようとしたり、或いは支配してしまおうと発想している現在の科学文明は「神をも畏れぬ不届き者」であり、「天に唾を吐く」ことをも厭わない真の愚者だという事になりやしまいか。


思想を語ったり、宗教を語ることは、現代では非常に困難になっている。単刀直入に言えば、警戒されてしまうのだ。現代人の思考コードからすると、思想は理屈っぽく、それが宗教がかってくるともなると敬遠したくなったり、忌避したくなるものだ。それも自衛本能の為せるワザで仕方がないところがある。しかし、真理を探究したり、自己の指針を見つけ出そうとするなら、思想も宗教も欠かせないのが人間のリアルではないだろうか?

1998年10月、日本の国会で当時の韓国大統領であった金大中(キム・デジュン/きんだいちゅう)が演説をした。その演説の中で、金大中はアジアの三大民主主義思想として、仏教、儒教、それと東学思想を挙げたという。東学思想とは、我々、フツウの日本人が言うところの「東学党の乱」、あの東学党の乱の原動力になった東学思想を指している。

こう述べても、金大中は韓国の大統領だった人物なので、或る意味では手前味噌に東学思想を過大評価していると見てしまうものだ。また、実際に鶴見俊輔が大絶賛した抵抗詩人の金芝河(キム・ジハ)についても同じだ。「金芝河」を事典類で引いて掲載されている場合でも、その思想については自然信仰を基にした思想である事は認められているが、それに付け加えて「宗教色がある」という風に解説されてしまうので、結局、日本人は軽んじることになってしまう。しかし、何のことはない、実は金芝河は東学研究に於いて韓国を代表する権威だったという。

また、東学思想が興った時期には、日本でも天理教をはじめとして様々な新宗教が興ったという。秩序的な危機に瀕した状況の中で、そういう事態が実際に頻発していたのではないのか。(新宗教の興りは後に教祖となる人物が実際に〈神懸かり〉するという形で発生する。中山みき、出口なお等。)

東学思想が軽んじられてきた理由も解き明かされつつある。西洋発の西洋の学術体系に対抗して「東学」と名乗ったので、或る種、西に対抗する為の思想で、実質的には疑似宗教のようなものであるという具合に受け止められてしまったのだ。また、そこに自然崇拝が絡んでいるので如何にもそのように受け止めやすい。しかし、アジアに興った民主主義思想であるという部分までもを簡単に片づけるべきではない。日本で自由民権運動に尽力しながら、生涯を足尾鉱毒事件に捧げた田中正造は、実際に東学思想を高く評価していたという。実は、その頃が日本で藩閥政治から民主主義へと舵を切欠となった自由民権運動とも繋がっているのだ。また、秩父事件などとも構造が似ており、その時代、欧化が東アジアに押し寄せる中で民衆の中に沸き起こった抵抗運動、その中核思想だったという事になる。

我々が学校で習った「東学党の乱」は現在は「甲午農民戦争」や「東学農民戦争」或いは「東学農民革命」のような呼称に改称されているという。そして、その東学党の乱・東学農民戦争は当時の朝鮮半島に芽生えた東学思想に根差したものであった。中塚明・井上勝生・朴孟洙著『東学農民戦争と日本』(高文研)を参考にして東学思想を要約すると、以下のようになる。

まず、「侍天主」(じてんしゅ)という概念があったという。これは「すべての人は誰でも自分の中に天主が存在している。天主とは特定の神様を指しておらず、宇宙万物の生命の根源を指している」だそうな。更に、この東学思想は農民蜂起の起爆剤になった思想で、いわば農民たちの思想であった訳ですが「万民平等」を原則としていた。

その他には「輔国安民」(ほこくあんみん)があり、これは字義で読めそうだ。そして「斥和洋」(せきわよう)は「大日本帝国と西洋列強とを斥けよ」という民族主義的なものだ。清王朝時代の中国で発生した「義和団の乱」では大混乱の中で反乱を起こした人々は「助清滅洋」や「興清滅洋」という旗印を掲げていたものに似ている。

(中国の場合は「アヘン戦争」、「太平天国の乱」、「義和団の乱」を調べると、如何に西洋文明の圧迫が東洋文明を締め付けていたのかが分かりますが、朝鮮半島の場合は、西洋列強だけではなく、帝国化を遂げた当時の大日本帝国も脅威の対象に加わっている。)

アヘン戦争…1840〜1842

太平天国の乱…1851〜1864

義和団の乱…1899〜1901

甲午農民戦争(東学党の乱)…1894

秩父事件…1884

足尾鉱毒事件…1901年に田中正造が明治天皇へ直訴

この悲劇的な近代の幕開けによって、本来的な日本思想やアジアの思想は見えにくなってしまっているが、大衆が起こした抵抗運動は確かにあった。

そして東学思想には「有無相資」(うむそうし)という言葉があり、これは経済的に余力のある者が経済力の無い者を資(たす)けるという意味合いだという。

宗教がかっていると評される金芝河は、先述したように東学研究の権威でもあったので、東学思想の「侍天主」を合言葉にして生命を尊重していくという市民運動に発展させていったのが1980年代以降だったという。その中には「天地万物、莫非侍天主」という言葉があり、それは「天地万物のすべてが、自分の中に聖なる存在を持っている」という思想であったという。考えようによっては、その言葉は「梵我一如」であり、「宇宙とは宇宙であり、私の中に宇宙がある」と同じように響く。そして思想は、政治闘争よりも哲学的なものになってゆき、生命を尊重することが如何に大切かを闘争することなく展開したという。

そして最終的に行き着いたのは「近代の行き過ぎた産業文明が世の中を荒廃させ、生命を殺しているという前提に立ち、そうした今日の状況を打開していくための価値観の確立と、それに基づいた新しい生活様式の創造」であったという。この箇所などは、全世界的に行き詰まっている中での、現況そのものかも知れない。


次から次へと明らかになってゆく自然界のネット―ワークがある。それが自然界の姿で宇宙をも含めて自然界だとも言えそうだ。そしてヒトも膨大な量の微生物たちと共生しながら生きている宇宙のようなものだ。「寄生」、「パラサイト」、「依存」等とは言ってきたものの、実はヒトの存在そのものが細菌類たちとの共生によって成立している。ヒトに限らず、多くの生物は他の生物と共生関係を持ちながら存在しているという。相互に利益のある「相利共生」もあれば、実は片方だけが利益を得ているのではないかという「片利共生」と呼ばれる奇妙な共生関係もあるという。

我々が現に存在している事だって、掘り下げてしまえば神秘そのものだ。何で存在しているのかを説明できる者はいない。生物界にあるネットワークの研究者らが発見しだしているものは、共生と競争から編まれている生物世界で、可能な努力によって何かを克服している進化論の解釈よりも、生命活動の雌雄を決しているのは〈運命〉の比重の方が大きいのではないかという世界だという。
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ブリタニカ国際大百科事典で【保守主義】を引くと次のように記されている。

既存の価値、制度、信条を根本的に覆そうとする理論体系が現われたときにこれに対する対抗イデオロギーとして形成される。「保守主義の宣言」ともいわれる『フランス革命に関する省察』を著わしたE.バークは、人間のあらゆる制度の基礎は歴史であり、具体的な文脈のなかで長い時間をかけて培われてきたものだけが永続性をもつため、抽象的な哲学原理に基づく革命は挫折を運命づけられているとしている。バークは決して変化を拒絶しないが、それは既存のものの漸次的改良と果たさねばならないと考える。歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴であるが、これは現代のF.ハイエクやM.オークショットにもみられる考え方である。

改めて引用しましたが、例えば西部邁のグループはそのような言説をきちんと踏襲していたのを記憶している。実際にある選択肢とは革新にしても保守にしても「漸進主義」であり、これが意味するところは急進主義の対義語になっており、つまり、本当は唯一の道は穏健に少しづつ価値観や制度や信条を変えてゆくという漸進主義しか成立しない。

また、付け足せば「未来から学ぶ」という事は不可能だ。物事を認識する場合、現在・過去・未来という時間区分があり、物事を認識するにあたり起点となるのは「現在」という名の点になるが、「未来」から何も学ぶ事は出来ない。実は我々は「過去」からしか学べないのだ。そして、それを〈歴史〉と呼んでいるのだ。

アメリカはこうだから模倣すべきであるとか、フランスではこうだから見習うべきだとか、スウェーデンでは、ノルウェーでは、OECD加盟国では…のような理屈は、すべて時間的なタテ軸ではなく、空間的に水平なヨコ軸なので殆んど失敗するというのが現実ではないだろうか。隣の家が新車を買ったから我が家も新車を買うとか、クラスメイトのAちゃんが新しいスマホを買ったからボクも勝ってとか、そうした空間的に水平のヨコ軸に流されまくっているのが、現代の日本人の真の姿だろうと思う。

「時代遅れだ、アナクロだ。そんな時代遅れはダサいのだ。あれ買って、これ買って、ぜんぶ買って。だって、みんなが持っているんだもん」

「ええーい、黙らっしゃいっ! 隣のウチとウチとでは経済状態も違えば、現時点に到るまでの歩みのプロセス、つまり、実際に持っている歴史がヨソとウチとでは全然違うというのに、何故、それが分からんのだっ!」

まるでピノコとブラックジャック先生とのあいだで交わされている会話のような、そういう戦いが現代日本社会を覆い尽くしている。


空中に浮遊する微生物の存在を明瞭にしたのはパスツールだ。おお、パスツール、懐かしい。見た目としては空っぽのフラスコの中に微生物が存在し、その微生物が発酵や腐敗という現象を起こしている事を証明し、それ以前の自然発生説を否定した。17世紀頃までは自然発生説が科学的な常識になっていて、小麦粉からネズミが湧くように発生し、腐敗した肉からウジが湧くと考えられていた。パスツールが微生物の自然発生を否定したのは、そんなに大昔でもなく19世紀後半の事だ。

その後も微生物の研究は継続されていて高度1万メートル上空の空気から採取した試料にも微生物が存在している事が分かり、最新事情ともなると、更に凄いことになっているという。

クリスティン・オールソン著・西田未緒子訳『互恵で栄える生物界』(築地書館)から引用します。

科学者たちが極限環境、地熱噴出孔、異臭を放つ硫黄泉、南極の氷、途方もない水圧のかかった海底――を探すと、どこにでも細菌が見つかった。実際、何もないと思える場所でも、道具の精度を上げてみると必ず生命の豊富さに驚かされることになる。二〇一八年にはあるグループが、地表からおよそ五〇〇〇メートルの深さに推定二三〇億トンの微生物が集まった広大な地下生態系が存在することを明らかにした。人類すべてを合わせた重さの数百倍にのぼる重量をもつその生態系は、光のない環境で想像を絶する高熱と高圧に耐えており、そこには食べるものもほとんどない。なかにはウラニウムで呼吸を保っているものもある。また、一部はこの暗闇に閉ざされた超高温の世界で、ある種の仮死状態になって生きているようだ。テネシー大学の科学者カレン・ロイドは「ガーディアン」紙に、次のように語っている。「不思議なのは、一部の生命体が一〇〇〇年もの間生きられることです。それらは代謝的には活性を保ちながら静止状態で、私たちがこれまで生命を維持するために必要だと考えてきたエネルギーより、少ないエネルギーで生きているのです」(『互恵で栄える生物界』85〜86頁)

福岡ハカセこと福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』は、かなり古い本になってしまいましたが「ウイルス」と呼んでいるものが、そもそも従来の生命の定義を揺るがす存在である事を紹介して話題になった。また、南方熊楠や昭和天皇が熱中していた「粘菌」は死物と生物との境界を行き来するような不思議な生態を持っていた。実は、生命の誕生は地球上とは限らないのではないかという意味で勢いを増しつつある汎スペルミア説にしても、地熱噴出孔から生命体が発見された事や、アンモニアや硫酸といったものがある環境でも生存している生命体が発見された事で勢いづいてきている。カール・セーガンの時代までは何かしらの電気ショックによる刺激でアミノ酸が生成されるという事柄に重きを置いて、ずっと生命起源の謎を探っていたが生命とか生命体の前提が変わって来てしまっているのだ。

さて、その生物なのかどうかも微妙なウイルスについての記述も『互恵で栄える生物界』にあったので、少しだけ引用します。

細菌と同様、ウイルスも信じられないほどいたるところにあり(数の上では細菌よりも多く)、人間の世界でもとても活発に動きまわっている。科学者たちの最近の計算によれば、この地球上には一平方メートルごとに毎日およそ八億個のウイルスが降り注いでおり、〜略〜細菌のようにウイルスもまた吹き上げられて世界の空を飛んでから、目に見えない雨のようにシトシトと地上に振り続ける。(同95頁)

うわぁ…。我々は人類は「ウイルスまみれ」、「細菌まみれ」って事ですよ。

正確ではないのでしょうけど、おおよそ、微生物は推定38億年前から地球上に生息していたと考えられるのだそうな。そしてヒトを含める動物(真核生物)の細胞質の中にはミトコンドリアが存在している。そのミトコンドリアは独自のDNAを持っていて自己増殖する。この細胞内にあるミトコンドリアがエネルギーをつくってくれているので、真核生物は効率的に高次化し、今日的な進化経路を辿ったと考えられている。謂わばミトコンドリアと真核生物とは共生関係にある。

相互に利益がある場合の共生を「相利共生」といい、そうではない場合を「片利共生」と呼ぶが、ミトコンドリアの場合は典型的な相利共生だという事になる。このミトコンドリアのように微生物は色々なカタチで他の目に見える大きさの動物たちと共生関係を結んでいる。そのような膨大にも膨大な進化上の歴史を重ね続けながら現在があり、ヒトを含めた生命体は、それらの歴史を背負って存在している――。
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NHKスペシャル取材班+緑慎也著『超・進化論』(講談社)から引用します。

実は、地球全体のうち微生物が担う光合成はなんと約50%。陸の植物全体に匹敵するほど微生物が貢献しているという。

空気中の窒素を植物の栄養分に変える微生物も上空で見つかった。その微生物は特殊な化学反応を起こし、窒素から自然界にあるアンモニアや硝酸のほとんどを作り出す。もしそれを肥料にトマトを育てれば、実に1京個分が育つほどの量だ。

このように地球の生態系に欠かせない二酸化炭素、酸素、窒素の多くは微生物によってコントロールされているのだ。
(『超・進化論』170頁)

光合成をしているのは植物だけではなく、約50%は微生物が行なっているらしい。因みに「微生物」とは、前掲著によれば「目に見えない生き物」全般を指すので、細菌のようなものも含まれる。ウイルスの扱いが生物かどうか微妙ながら、多くの学者はウイルスも生物に分類すべきだろうという声がクリスティン・オールソン著・西田未緒子訳『互恵で栄える生物界』(築地書館)の方では記されていた。

そして『互恵で栄える生物界』では微生物の登場は約38億年前と記されていたものの、『超・進化論』の方だと約40億年前と記されている。まぁ、差し引き2億年ほどの誤差があるじゃないかと気付いたものの、悠久にして膨大な時間の流れからすれば、2億年の誤差なんて問題にはならないかも知れない。とにかく、その悠久にして膨大な歴史を経て、我々人類を含むすべての生命体が現在も存在していて、そこには悠久にして膨大な共生の歴史がある。その事を否定できない。思えば、カール・セーガンがヒトの脳の進化の過程を前提として、我々の脳内には小型哺乳類で恐竜から逃げ回っていた頃の習性も現代人の脳内に影響していると指摘していたのを思い出しますが、もう否定しがたい歴史として、我々は微生物と共生している。

体内にも腸内細菌はじめ、微生物叢を抱え、我々が住んでいる地球にしても、微生物をはじめとして植物や昆虫などのありとあらゆる生命体が共生している惑星が、実際の地球なのだ。

では、どのようにして共生が起こっているのか? これを説明するのが中々に難しい。コロナ禍の折、ウイルスの進化する速度がベラボウに早いという話がありましたが、基本的にはそれだ。生物全般に共通して、親から子へと世代交代を重ねる度に一定の確立で遺伝子に突然変異が起こるという事はよく知られている事だと思う。ウイルスを含んで細菌類ともなると、その世代交代のスピードがヒトと比べると桁違いに速く、しかも大量に発生しているので、よく言われるように「耐性」を獲得したウイルスや細菌が登場する。まぁ、環境に適応して薬品に対しての「耐性」を獲得してしまうという訳です。

そこまではオドロキもありませんでしたが、微生物の世界には性行為を伴わずとも隣り合わせになっている個体のDNA配列を交換できてしまうのだそうな。

ここは重要な箇所なので引用します。

細菌は、数が多くて多様なだけではなく、高度な適応力をもっている。短時間で繁殖する(なかには二〇分に一回ずつ増えるものもある)が、動物の場合とは違い、遺伝的な多様性を拡大するために交尾と生殖の必要はない。その代わりに、互いに密集して暮らしている細菌は(多くの場合は互いに身を守る大規模なコロニーを形成するが、人の腸内で見られるように、一定の空間にひしめき合うように集まっていることもある)、ただ周囲にいる仲間と力を合わせ、特定の問題に対処するために必要なDNAを交換することができる。〜略〜性行動も生殖も関係なく隣の細菌からDNAをもらうだけですんでしまう。これを、遺伝子の水平伝播と呼ぶ。実際には、それが最初の性行動だった。(『互恵で栄える生物界』90頁)

親から子へと遺伝子(DNA)が伝播する事を「垂直伝播」といい、これが多くの生物の性行動であり、交尾なり性行為を以って生殖としている。しかし、細菌の世界だと集団内の仲間同士のDNAを交換したり、もらい受けたりできるという。そちらを遺伝子の「水平伝播」という。垂直⇔水平。

細菌の世界ともなると、単に遺伝子伝播のスピードが速いだけではなく、圧倒的な多様性を誇っているという事ではないのだろうか? ノミとゾウとで、その一生涯に行なう呼吸数は大体同じであるという話がありましたが、サイズが違えば、自ずとスピードに差が出る。細菌の繁殖する量も速度も、ヒトのそれと何桁も違うという事になる。

科学者たちは今では、細菌をはじめとした単細胞生物が力を合わせて真核細胞を作り出し、それがやがて(植物、菌類、動物を含む)生命の領域になったとするリン・マーギュリスの仮説を信じているだけでなく、植物界、菌界、動物界の内部で継続している進化の多くは微生物によって推し進められているとも確信している。この考えによれば、私たち真核生物はゲノムコード化された形質と能力だけに基づいて進化したわけではなく、私たちと環境と微生物叢の間の、複雑な相互作用を通して進化してきたことになる(同91頁)

引用している『互恵で栄える生物界』が独走してしまっている可能性もあるので、『超・進化論』と読み合わせていますが、「垂直伝播」と「水平伝播」は合致している。進化を決定づけているのが微生物であるという物言いは『超・進化論』には見当たらないものの、おそらく、最前線では、そのような状況になっている可能性がある。この地球全体、我々も参加している生物界全体とは、どうも、そのような仕組みになっているらしい。

そそっかしい私が勘違いをしている可能性もあるので補強材料の為に『超・進化論』からも少し引用しておきます。

進化を引き起こす原動力として、垂直伝播だけではなく水平伝播や別種との交配も重要な役割を果たしてきたのなら、生物進化のイメージは系統「樹」よりも系統「網」のほうが実像に近いかも知れない。枝は分岐してそのまま別々の道筋を進むこともあれば、分岐してしばらく後、枝同士が再びつながるような関係で結ばれることもあるからだ。(『超・進化論』235〜236頁)

上記の引用文中には「別種との交配」という箇所がありますが、ノーベル賞を受賞したスバンテ・ペーポ教授の功績に掛かっている部分で、ホモ・サピエンスの遺伝子にネアンデルタール人の遺伝子の一部が受け継がれていた事を指している。「別種との交配」。そして、従来の進化論の説明は系統樹で解釈され説明されてきた訳ですが、系統樹ではなく、系統網として捉える必要性があるという話をしている。

偉大なるかな、この自然界ネットワークの世界!

西洋文明は歴史上、一神教が支配的になってしまったので「神とは大自然そのものである」に気づくまで、スピノザの登場まで待たねばならなかった。一方、東洋文明は不思議を不思議のまま、自然信仰からスタートしてシャーマニズムを基にして神仙思想が萌芽し、老荘思想に道教的呪術、仏教的な理法と新仏教として密教と禅が入り、更にはグノーシス主義などにも近いと思われる要素が詰まったマニ教までもを取り入れてきたので、日本ともなると未だに汎神論的な習俗を残している。「初日の出」に手を合わせ、使い古しの針を供養しようとし、神は単独の創造主があるのではなく、それぞれの神、八百万(やおよろず)の存在である事を感覚的に知っている。
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【earth】とは「地球」を意味していながら、それは大地(ガイア)であり、産土(うぶすな)である。旧約聖書・新約聖書では〈土〉から最初のヒトであるアダムを神に似た姿として造ったという。この際、アダムはどうでもよくて「ヒトは土から造られた」の意になっている。

しかし、その土の事を我々はあまり深く知らない。土とはガイアであり、産土であり、地球を意味しているにもかかわらず、だ。

スコップを片手に土を掘り返しているところをイメージしてみれば、そのスコップが掘り起こすものは土くれ(土塊/つちくれ)と、粒状になっている土粒と砂粒だ。ごろごろっとしているのが、土くれだ。何故、土は土くれ状態になっているのか考えた事があるだろうか? あの〈土くれ〉は団粒構図(だんりゅうこうぞう)と呼び、ミミズなどが土を食べて糞にすることで団粒構造になるのだという。また、掘り返した土の匂いを嗅いでみると、そこで嗅ぐ事のできる独特な土の匂いがあるが、あの匂いは土の匂いというよりも放線菌類と呼ばれる菌類が発している匂いだとEテレの某番組で説明していた。

実は我々が「土」と呼んでいるものは単なる粒(つぶ)なのではないのだという。単なる粒なのであれば、砂粒のようにサラサラとしている筈で、それは単なる粉(こな)だ。しかし、我々が土と呼んでいるものは「湿気がある」というべきか、「粘りっ気がある」というべきか、つまり、そういうシロモノなのだ。何故に土は単なる粉ではないのかというと、土には腐植(ふしょく)という生物が腐って分解されたものが混じって土壌となっているからだという。繰り返しになってしまいますが、土の粒がサラサラとしていない理由は、土の粒に粘土と砂粒と生物遺体に由来する腐植が混合しているからという事になる。

藤井一至著『土の生命の46億年史』(ブルーバックス)に沿って、この問題を展開させている。著者の名前はフジイ・カズミチ(藤井一至)と読む。

この話が盲点になってしまうのは、実は我々が地球と呼んでいる太陽系第三惑星に最初から土が存在していた訳ではないという事を説明する為に重要な話だ。原初状態の地球、生まれたての地球には土は存在していなかったのだ。一口に土と呼んでいるが、土が土として成立するには生物遺体に由来する腐植がなければ、それは土とは呼べないし、多くの生命を育む土壌という概念も成立しないのだ。ここは思案のしどころですが、生命の遺体がなければ、この地球に土は存在していないという事でもある。勿論、微生物が存在していて微生物の生命活動があって、微生物が酸素を二酸化炭素にしたり、或るは発酵という現象を起こしたりして土を作っているのだ。

土を高性能の電子顕微鏡で観察すると、そこには微生物の死菌体があるという。生存状態の微生物は腐植の2%に過ぎないが、細菌細胞の死体の欠片からなる死菌体は腐植の80%にも上るという。つまり、腐植とは細菌の遺体の残骸なのだ。最近まで、腐植は枯葉などの残骸や分解されたものだと考えられていたが、どうも土とは微生物の遺体だらけのものだという。

引用します。

生きている微生物は腐植の2パーセントにすぎないが、死菌体はその40倍にもなる。2パーセント��40倍=80パーセントで「最大で腐植の8割は死菌体由来」という計算だ。〜略〜今まで枯れ葉の残骸程度に思っていた土が、つい最近まで生きていた微生物の遺体かもしれないという衝撃的な仮説は全世界(ただし、土壌学界に限る)を駆けめぐった。土は生きているようにすら思えてくる。(『土と生命の46億年史』81頁)

これは非常に衝撃的な話であると思う。我々が「土」と呼んできたものは、どうも単なる小さな土の粒ではなかったという事になる。そして土が土壌となって陸上では大自然を育んでいる。「土壌」という概念があったので土を土として掘り下げて来なかったが、実は土が地球上に現われるには膨大な歳月がかかっていたと考えられる。微生物及びその死菌体が存在しなければ土は成立しないのだから、サラサラの粒状の粉と、そのサイズの関係によって湿気を呼び寄せて湿り気を帯びている粘土、それらとも土は少し異なる性質を帯びたものだったらしい。(※腐植の8割が死菌体由来であるというう箇所は、死菌体由来は4〜6割程度と考えられるように数字が現在は修正されてきているという。)


前掲著を参考にしながら、土が地球上に登場するまでについて、以下に記していく。

46億年前のこと、小惑星同士が衝突をした。これが地球になってゆく。小惑星は宇宙塵と呼ばれる1mm以下の固体粒子の集合体で、その小惑星と小惑星とが衝突した拍子に「地球の素」ができた。微粒子の集合体である小惑星と小惑星が衝突した事によって、運動エネルギーは熱エネルギーに変換され、その熱は6000度以上の高熱となった。その高熱が微粒子を溶かし、マグマを生み出し、そのマグマが小惑星を呑み込むようにして巨大化し、惑星の形になった。その頃にはマグマが地表までもを高熱によって溶かしており、惑星の表面はマグマ・オーシャンと呼ばれるマグマがたぎる海のようなものに覆われていた。

膨大な時間が経過すると徐々にその惑星は宇宙空間へと放熱し、徐々に表面から温度を低下させていった。惑星の深い部分にはマグマを煮えたぎらせているが、地表は冷め、彗星や小惑星を起源とする水蒸気は水となり、その水は海をつくった。この海ができたのが小惑星衝突から2億年後の事であり、現在から遡ると、まだ44億年前だ。

マグマの一部は微粒子へと戻ったが、多くは冷めて岩石となった。この岩石にしてもすりつぶせば微粒子になるように、微粒子の集合体である。この岩石は陸上で風化するなどして削れてゆけば粉となり、それは鉱物が粉末状になったものであるが、それは論じて来たように〈土〉ではない。マグマが冷えて出来上がるのが玄武岩や花崗岩であり、玄武岩や花崗岩などの造岩鉱物と呼ばれる岩石や岩山が風化して粒状となり、ようやく「土の素」が出来上がったに過ぎない。

岩石を何十年、何百年と放置しておくと岩石は崩壊して石の欠片や砂粒、そして砂粒以下のサイズの粒になる。微小のものは粘土になる。「粘土」とは、その字の如く粘る土であるが、この粘りや湿り気は、土のそれとは異なる性質である。粘土の解説は本旨から逸れてしまうので簡単にしか触れませんが、粘土は分子構造上、マイナス電気を帯びており、例えばカルシウムイオンのような陽イオンを吸い寄せて吸着する。その陽イオンは自らの取り巻きの水分子も同伴してくるので、粘土の表面は薄い水の膜が覆う事になる。この原理によって粘土は粘り気と湿り気を獲得している。しかし、それは先述したように腐植によって湿り気や粘り気を持っている土とは違う原理からなる湿気と粘り気という事になる。

陸上にある土や土壌が形成される以前に、微生物が登場している必要性がある。何故なら土には死菌体が混じっているから。つまり、土が、この太陽系第三惑星の地表に登場する以前に生命体が登場していなければならない訳だ。なので、粘土が生命体を発生させたのではないのかという仮説があるという。粘土の直径サイズは2マイクロメートル以下であり、細菌のサイズは直径1マイクロメートルでサイズ的には釣り合いが取れており、粘土は薄い水の膜で覆われているので細菌が住処にするスペースを提供できたのではないかという。しかし、そのような材料が揃っているからといって生命体といったものが突如として出現するのは、やはり、論拠としては弱いように思う。

この話を突き詰めていっても、〈生命体が発生する〉とか〈発現する〉というのは、何某かの飛躍がある。例によって電気ショックによってアミノ酸が形成されるという話も紹介されていますが、それは例え微生物であったとしても生命体であり、その生命体が何かの奇跡によって現出したという風に持っていくという仮説には無理がある。唯物的な思考体系からなる科学的思考、物理的思考では、どこかに限界があるのかも知れない。結局、前掲著でもパンスペルミア説についての解説にも触れられていましたが――。


『土と生命の46億年史』の「はじめに」の箇所にギリシャ神話の中に「私たちは腐植からできている」という言葉があるのだという。本文中にも出てくる。この場合の腐植は微生物の死菌体というよりも植物の遺体が腐乱したものの意でしょうけど、これも考えてみれば「アダムは土からつくった」に通じるものがある。

また、南方熊楠が紹介する役目をした「9世紀の支那のシンダレラ」という、我々がグリム童話で知っている「シンデレラ」の原形ではないかという中国唐代の伝奇「葉限」(しょうげん)がある。この『葉限』には、何でも望みを叶えてくれるという魚の骨が、土くれの中に捨てられているという表現があった。「土くれ」と和訳されているものの、実際には糞と土が混じった土くれの意味である事が注釈にあった。魚の骨については、クリスティン・オールソン著・西田美緒子訳『互恵で栄える生物界』(築地書館)に実は気になる記述があった。『互恵で栄える生物界』は微生物たちが豊富な土壌を形成しているという主旨の話をしていたが、サケの遡上に言及している箇所があった。「何故、サケはわざわざ川を遡上して産卵するのか? そして、そこで死ぬのか?」という問題も取り上げられていた。

死んだサーモンによって海からもたらされる窒素の恩恵を受けるようになる。「ミンク、ムナジロカワガラス、コヨーテ、カワウソをはじめ、多くの動物たちがサーモンの死骸を川から森へと持ち出します。すべてのものが癒しを求めているのです」と、エンゲルマイヤーは言った。(『互恵で栄える生物界』246頁)

上記の引用部分は、理由は判然としないながらも、豊かな森林には窒素が足りず、サケが川を遡上して森林の中にある渓流でサケが大量に死ぬ事になる。そのサケの死骸を森の小動物たちが川に拾いにきて森の中に持ち込むという話をしている箇所である。その研究者は、自然界ネットワークは非常によく出来ているという話をしていて、つまり、森林の豊かな土壌を育むには窒素が必要になるがサケが大量に死に、その死骸を小動物たちが森に持ち込むので森林内の土壌が豊かに保たれていたのに、近年はサーモンが遡上してこれなくなり、森林の自然環境が変わって来てしまっているというのだ。

また、そういう理由で森林の中で魚の骨が見つかるという。「9世紀の支那のシンダレラ」こと、『葉限』の願いを叶えた魔法の「魚の骨」は、糞の紛れた土くれの下に埋まっていたという記述は、まるで21世紀に明らかになった自然界ネットワークが如何によく出来ているのかという、その万能性をまるで示唆していたかのような記述にも思えてくる。死体や糞といった汚物こそが、実は自然環境を守っているのだ。

拙ブログ:「9世紀、支那のシンダレラ」について

わざわざサケが渓流に遡上するのは、そこで死んで自らの亡骸が鳥や動物たちの胃袋を潤わせ、森林にある植物の肥やしになり、そして微生物たちによって分解される事までもを、まるで知っているかのような行動なのだ。転じて、サケは実は森林に不足している窒素を運び込んで、そこで腐乱しても豊かな土壌にしている――となる。きっとコンピューターによってプログラミングされている訳ではないのだろうから、きっと自然知という名の知性の為せるワザなのでしょう。言い換えれば、そうしたものこそれ神の御業であり、大日(如来)と呼ばれる宇宙の持っている根源的な力という事ではないのだろうか。
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藤井一至著『土の生命の46億年史』(ブルーバックス)によると、「土は人間には創れない」という。どんな科学技術を以ってしても、土を創れないし、土壌というものを造ることもできない。おそらくは生命体も創れない。考えてみれば、土を創るには前節で説明したように生命体が必要になる。その生命体が生命活動の中で酸素を二酸化炭素に変えたり、タンパク質をつくったりして、また、その生命体が死んで遺体となると、それを微生物が分子構造を分解して循環からなる自然を形成している。決定的なものは〈生命〉という事になる。

以下、『土と生命の46億年史』を参考にして地球創世と人類誕生までの流れについて。

46億年前に小惑星と小惑星とが衝突して太陽系第三惑星が誕生する。小惑星と小惑星とが衝突した運動エネルギーが熱エネルギーに変換され、6000度以上の高温の中で地球の素をつくる。徐々に熱は宇宙へと放熱され、2億年が経過した44億年前頃から地球は冷えに転じてゆく。彗星や小惑星が運んできた水分は水蒸気となり、海ができる。

35億年前までには生命体である古細菌(アーキア)が誕生していた。この頃の海中は酸素が少なく、酸素を必要としない古細菌が生息していた。酸素を必要としない呼吸を嫌気呼吸と呼ぶとする。また、そうした細菌には嫌気性細菌という呼称もある。最初に出現したと思われる古細菌は硝酸を窒素ガスに還元する「脱窒菌」(だつちつきん)であったと考えられるという。酸素を用いずに微生物によって有機物を分解する仕組みを〈発酵〉という。

27億年前頃、細菌の方は硫化水素で光合成をする細菌が出現。光ををエネルギー源として水分子から電子を奪い、その副産物として酸素を生みだす微生物で、これを酸素発生型の細菌と呼ぶ。これはシアノバクテリアの祖先に当たるという。

この光合成をする酸素発生型の細菌は、酸素を大量に海中に供給した。この事で海中環境は変わり、発酵微生物(≒古細菌・嫌気性微生物)は姿を消し、酸素を用いる呼吸(以下、好気呼吸とする)が増殖した。発酵は、酸素ありの好気呼吸と比較するとエネルギー効率が低く、好気呼吸をする微生物はエネルギー効率が高かったので、一時的に嫌気呼吸をする微生物を駆逐するかのような状況になったと考えられる。

しかし、「酸素が非常に乏しかった環境」から「酸素のある環境」へと変化した事で、生物進化に大きな転機が起こった。

20億年前頃、古細菌が細菌を自らの体内に摂り込んで〈共生〉するという現象が起こった。これが真核生物の誕生だという事になる。(水素仮説という異説もあるが後述とする。)

ここで一度、時流に沿った話を止めて、現在の生物の定義を確認しておく必要がある。

現存する地球上の生物には〈原核生物〉と〈真核生物〉の2種類がある。裏返すと、この2種類しかないという意味だ。そして原核生物とは平たくいえば、それは古細菌と細菌の事を指している。そして、その意味では、全ての地球上の生物は、真核生物か、古細菌か、それとも細菌・藍藻(らんそうるい)かの3種類にしか分類できない。細胞の中に核を取り込んでいるのが真核生物であり、ヒトも勿論、真核生物だという事になる。

どのようにしてか〈共生〉という現象が起こった訳であるが、それは生物進化からすると、非常に画期的な出来事であったと捉える必要がある。異なる個体を持っていた生物と、生物とが合体結合したという事なのだ。

『土と生命の46億年史』では、2つの例が紹介されていた。

先ず1つ目。古細菌をスポンジで培養してみると、カビやキノコの菌糸のような触手を伸ばす事が確認されているという。その事から、古細菌は、その触手を以ってして好気性細菌を自分の細胞内に摂り入れて共生するようになったのではないか――という説が1つ。好気性細菌を自らの体内に取り込んだ事によって、古細菌は酸素を用いて効率的にエネルギーをつくる能力を獲得した。

2つ目。多くの生物は腸内に腸内細菌を持っている。植物は根の部分に根粒菌を持っている。それらは既に共生原理に基づいた存在であるが、そちら側から帰納的手法で組み立ててゆくと、そちらは細菌の仲間でありながら光合成の能力を失った細菌であるが、それらの細菌が真核生物になったのではないかという仮説になる。具体的には、水素仮説と呼ぶもので、水素と二酸化炭素と酢酸を生み出すプロテオバクテリアがある。そのプロテオバクテリアが生成する水素と二酸化炭素を燃料にして有機物を生産・提供できるメタン生成古細菌とが共生するようになり、最終的には古細菌の細胞の中に細菌が取り込まれるようになったのだろうとする仮説だ。

実は、この部分、何時間も何時間も考え込んだし、メモも4枚ぐらいになってしまった。というのも、これが我々人体の中の細胞の中にミトコンドリアが一器官として存在している事の、その仮説だという事になるのだ。

さて、時系列に戻ると以下のような流れになる。

20億年前頃に真核生物が出現した。

11億年前頃に植物(緑藻など)が出現した。

10億年前頃に菌類(カビ、キノコ)が出現した。

6億年前頃に動物が出現した。

4億8800年前頃に脊椎動物が出現した。

4億5千年前頃に植物は陸上へ進出した。

4億年前頃に昆虫が出現した。

3億5900万年頃に飛翔昆虫、両生類、爬虫類が出現した。

1億9900万年〜1億4500万年頃が恐竜天国で、恐竜が陸地に登場し、翼竜が飛行した。

6550万年前頃、恐竜が絶滅した。

500万年前頃に二足歩行をする人類が登場した。


というのが大まかな流れになる。(このタイムテーブルの一部はクリストファー・ロイド著『137億年の物語』(文藝春秋刊)にて補完してある。)

菌類よりも植物の方が先なのかと思ったが、初期の植物は緑藻などであり、これは真核生物の一群が細菌であるシアノバクテリアと共生するようになって、そのシアノバクテリアと共生する中で植物の一器官となったものが「葉緑体」だという事になるらしい。因みに、このシアノバクテリアは近年まで植物だと思われていたが、細菌であったという。

この地球に土ができたのは、我々がイメージするよりもかなり新しい。土には、多くの死菌体由来のものが混じっており、現在の土壌学では、土の4〜6割は死菌体由来のものだという。つまり、生い茂っていた植物が微生物に分解されたものが積もり積もっただけではなく、微生物の遺体由来のものがかなり多く混じっているという。既に6億年前頃に動物が登場したという触れたが、それは陸上の話ではなく、5億年前の地球の陸上には、まだ、土は出来ていなかったという。

つまり、土ができて土壌が形成され、その土壌に植物が生い茂るという豊かな大地の基盤は膨大な歳月をかけて連綿と繰り返されてきた無限に近い各々の生命の営みの積み重ねだという事になる。その膨大な歴史が培った土が、現在の地球を成立させている。もし、その豊穣さがなかったなら、原生林のような生物の楽園も登場しなかったという事になる。
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藤井一至著『土の生命の46億年史』(ブルーバックス)を読んでいて率直に「え? そうだったの?」と感じた事があった。

一つ目はウンコについてであった。ウンコの成分というのは腸内細菌の遺体と、その腸内細菌が住処にしている腸壁の粘膜なのだという。腸内細菌の遺体だというのは、どこかで耳にした事がありましたが、腸壁粘膜(これを腸内フローラと呼んでいる)については知らなかった。腸内細菌が生息しているのは腸壁の粘膜で、その腸壁の粘膜は剥がれ易くなっており、我々が思っている以上のスピードで新陳代謝が行われているらしい。

哺乳類は、細菌の定着した腸壁の粘膜ごと新陳代謝する。その結果、排泄物であるウンチは水と食べかすだけでなく、むしろ腸内細菌の遺体と腸粘膜を主成分としている。(『土の生命の46億年史』146頁)

【糞】という漢字を覚える際に「米が異なって糞になる」という風に覚える訳ですが、そのクソとやらの主成分は、腸内細菌さんの亡骸と、自分自身の腸粘膜であったとは…。

二つ目は原油についてであった。中学1年か2年の頃に社会科の授業中に、その社会科教師が「原油は恐竜などの動物の死体がどうにかなって出来たもの」という説明をしていた。それから40年近くが経過して数週間前に「原油を生成する微生物については、まだ、よく解かっていない」という一文を目にしていた。という事は「まぁ、きっと動物の死体を分解して原油にしてしまう微生物がいたので、原油が存在しているのであろう」という大味な解釈らしいなと考えていた。しかし、『土の生命の46億年史』では、もう少し詳しい見解が語られていた。

先ず、小手調べに石炭の方から。石炭は火力発電の燃料になっている訳ですが、前掲著に拠れば、石炭とは石炭紀と呼ばれる3.6億年前から3億年前にかけての約6千万年の期間に泥炭土が化石化したものだという。前掲著の著者による説明では、植物由来のリグニンという物質があるが、このリグニンを分解できる微生物は当時は存在しておらず、また、そうであるから植物はリグニンを自らの進化に利用していったという。そして陸上には膨大なリグニンが蓄積した。その期間は〈6千年ではなく、6千万年〉だ。陸上ではリグニンの分解が遅れていた。そこに超大陸パンゲアの地殻変動が重なって泥炭土が堆積物となって地中に埋もれた――となる。

原油(石油)については次のように説明してあった。シアノバクテリアなどの植物プランクトンが酸欠状態の度に大量死して赤潮となり、化石化した遺体が今日の中東の石油になった――と。動物の死体は死体でもプランクトン、赤潮を意味していたのかぁ…と知る事になった。

石炭と原油を並べたのは意味があって、その事は〈大気中の二酸化炭素が大量に地下に固定された〉という事を物語っている。酸素や炭素、二酸化炭素に水素といった元素は、確かに限られた分量で膨大な時間をかけて循環しているだけなのだ。石炭や石油を人類が燃料として使用しているという事は地下に固定されていた二酸化炭素を大気中に還元しているというか、大気中に放っているという事に過ぎないのだ。(そのような事をすれば、地球の環境に変化が起こるのも当然といえば当然だ。人新世の観点かも知れない。)

『ソフィーの世界』では、冒頭近くで「あなたの鼻の形成している元素は、マンモスの一部だったかも知れない」のような記述があったのを記憶している。あれは分かりにくい。或る種、なにもかもがモナド(微粒子)で形成されていて、実は元素レベルでは不変であり、「レゴブロックのようなものだ」という具合の説明がされたりしますが、そのテの喩えで語られてもピンと来ないものなのだ。意味が分からないのではなく、レゴブロック等と言ってしまうと、もう、そこからしてイメージが膨らまないのだ。

土壌が酸化するというのは、まぁ、なんとなく知っているような気もする。植物は土から栄養素を吸い取ってしまうので、人為的な農業をした場合、土壌が痛む。酸化してしまう。「ええーい、肥料を与えればいいんじゃ!」のような発想をする。人工的な農業というのは基本的には一ヵ所に一種類の作物を集中させて育成し、収穫する。しかも消毒剤なども使用してしまったりする。土壌を酷使してしまうのだ。職業ともなれば、必ずそうなる。仮に自然状態であれば、枯葉や朽木を微生物が分解し、見事な循環世界をつくりだし、土壌が痩せるという事が起こらない。

22日に再放送のあったEテレ「こころの時代」では、宮沢賢治が取り上げられていましたが、宮沢賢治が、まさしく、この土壌を研究していたと知り、驚いた。宮沢賢治の場合は法華経ですが、おそらく循環世界の仕組みについては強く意識していたのだろうなと思う。

クリスティン・オールソン著・西田美緒子訳『互恵で栄える生物界』(築地書館)を読み始めた際、冒頭の話は「明治神宮の森」の話に酷似していた。敢えて従来の科学主義を一回転させて、自然環境に近い自然保護区をつくるという話から始まっていた。「明治神宮の森」、これは「杜」とすべきか。

自然が有する力、例えば「再生する力」とか「適応する力」といったものが、如何に見事にできているのかを知っている人の思考方法だ。我々は自然界ネットワークの中の一住人であり、また、一個人にしても膨大な数の微生物の住処に過ぎないのだ。それは微粒子として捉えると、ホントに輪廻転生している。
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【土】とは【earth】であり、そのまんま、実は【地球】を意味している。知っていたが、詳しくは理解できていなかったなと思う。「土とは何か?」を考えてゆくと、結局、「地球は生きている」という事が生々しく理解できるようになってしまうのだ。

宮沢賢治が元素記号を書きながら農業をしていたらしいのですが、そういうところまで行ってしまうと、確かに地球が生きている事を実感していたかも知れない。宮沢賢治の場合は法華経なので、天国(浄土)も地獄もなく、謂わば我々が住んでいる現世こそが天国なのであり、この現世で、どう生きればいいのかと捉え直す事で、善悪のカルマから離れて「報われなくてもいいじゃないか」と開き直り、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズの境地に到ったという。

宮沢賢治的な考え方だと、死後に浄土があるのではなく、この現世こそが浄土であるとなる。生きている期間こそが重要なのであり、よりよく生きるようにしていればいいじゃないか的な。これについて、少し思い出した事があった。22日にNHKで「映像の世紀」第四集の再放送があった。その中で「怒りの葡萄」という映画に触れる一節があった。映画「怒りの葡萄」を視た際、私が印象に残ったのは、元牧師だという人物が、貧困にあえぐ農村の米国人が仕事とカネを求めてカリフォルニアを目指したが、途中で死んでしまい、その者を弔うシーンであった。弔うにあたり、格好がつかないので担ぎ出されたのが元牧師であった。字幕では次のような弔いの言葉が語られていた。

この老人は人生を全うした――

善人か悪人であったかは問題ではない――

�狎犬�とし生ける者みな神聖なり�瓩箸い�詩もある――

私は死せる者のために祈りはしない――

生きて迷える者のために祈りたい――


じい様には、もう迷いも苦しみもない――

行く道も定まってる――

さぁ、土をかけてあげよう――


やっぱり、何処かで仏教とキリスト教は通じているような気がしないでもない。


さて、土の問題だ。土は生きている。我々は「砂」と「土」との差異に無頓着すぎた。地球が誕生したプロセスを考えると、小惑星と小惑星とが衝突し、そこで運動エネルギーが熱エネルギーに変換され、高熱が生じてマグマの巨大が塊が出来たというのが地球のはじまりだ。熱は宇宙に放射されるので膨大な歳月をかけて徐々に冷えていった。ドロドロのマグマがどうなったのかというと、我々が言うところの岩石になった。基本的には玄武岩と花崗岩でいいらしい。【玄武】といえば、四神の一つの「玄武」であり、亀の姿をした神獣だ。亀の甲羅の上に地球があるという、あの図なんてのも偶然といえば偶然ながら、確かにその玄武が地球誕生に関係している妙がある。

そして岩石が風化作用によって石や砂や粘土、そして〈土の素〉になった。厳密には、まだ、この時点では〈土〉は誕生していない。〈土の素〉が〈土〉になるには腐植が必要であり、腐植が起こるには生命体(微生物や植物)の残骸が必要なのだ。土が石や岩になったのではなく、岩石、先述したような玄武岩や花崗岩が膨大な歳月の中で風化し、粉末状となり、それが腐植によって発生する栄養素を粉末の周囲にまとわせている土になる。まぁ、土というよりも「土壌」と呼ぶべきなのでしょうけど、それが我々が「土」と呼んでいるものだ。

山口百恵は唄った。

♪
何億光年 離れた星にも

寿命があると 教えてくれたのは

あなたでした


そう。星にも寿命があるように、土にも寿命があるという。

土壌には様々な微生物が住んでいて、また、土壌そのものが様々な栄養素を含んでいる。水分だけではなく、窒素、リン、硫黄、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄、その他の元素を含んでいる。人間文明が工場的農業を同じ土壌で繰り返すと土壌が痩せてしまう。「土壌が酸性化してしまう」という事だ。

そして土にも老化があるという。少し藤井一至著『土の生命の46億年史』(ブルーバックス)引用します。

人間の老化は腰痛や記憶力の低下として現れるが、土の老化は栄養分の低下として現れる。若い土は、スメクタイトやバーミキュライト、雲母などの粘土鉱物が多い。そこではケイ素・アルミニウム・ケイ素のトリオによって結晶構造が電気が保たれている。(『土と生命の46億年史』154頁)

ケイ素がアルミニウムを挟み込むような結晶構造になっていて、そこでは+イオンと−イオンとの関係があるので実は電気力が保たれている。また、粘土鉱物は水分(湿り気)と電気力によってやはり、様々なものを吸い寄せる力がある。そういう話をしているのだ。

しかし、土の老化が本格化するとケイ素が流出するので、アルミニウムを挟み込む結晶構造が維持できなくなり、老化が進行するとアルミニウム酸化物だけになるという。粘土は電気力を失う。

最後にはアルミニウム酸化物だけのソロになる。その間、粘土はマイナスの電気を失い続ける。粘土の電気がなくなると栄養保持力が低下し、肥沃な土ではなくなる。最後に残るのは、風化にしにくい砂(石英)とアルミニウムと鉄の酸化物ばかり。栄養分を失った赤土が固結するとラテライト、化石化するとボーキサイト(アルミニウムの原料)となる。(同155頁)

土にも死らしきものがある。老化していくとアルミニウム酸化物となり、もう粘土の電気力も喪失する。これは土の死でしょう。寿命の尽きた土は赤土の塊となり、それをラテライトと呼ぶらしい。赤っぽいのは酸化と関係しているらしいから、おそらくはサビだ。飽くまでイメージではありますが、イメージするにはオーストラリアのエアーズロックのようなものが、それだという。ああ、確かに赤っぽい岩でしたな。

土も死ぬのか…。というか、本当は死の状態である岩石と風しかない状態から地球は始まったという事かも知れない。どこかで生命が宿り始めて微生物たちが登場したのだろうという訳ですが、結局、その生命の起源については、やっぱり不明なのだ。

「やつらの足音のバラード」が頭をよぎった。アニメ「はじめ人間ギャートルズ」のエンディングテーマで、歌唱は「ちのはじめ」であるが、実は小泉今日子が同曲をカヴァーしている。

♪
何にもない 何にもない

まったく何にもない

生まれた 生まれた

何が生まれた

星が一つ 暗い宇宙に生まれた

星には夜があり 

そして朝が訪れた

何にもない大地に

ただ 風が吹いてた


この歌詞は正しかった。やつらの足音が聞こえてくる以前の地球、それも最初期の地球の状態とは、荒涼とした岩石だらけの大地に、ただ風が吹いていただけだったらしい。
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