アブラナ科のシロイヌナズナの葉をアオムシは好物にしている。なので、シロイヌナズナの葉をアオムシはむしゃむしゃと食べる。食べられているシロイヌナズナは、植物なので食べられていても何も感じていないのかというと、そうではない事が分かってきたという。シロイヌナズナは防御反応をする。齧られた部位ではグルタミン酸の濃度が上昇し、このグルタミン酸がシロイヌナズナの細胞の中にカルシウムイオンが流れ込み、結果としてシロイヌナズナの葉の細胞のカルシウムイオン濃度を増加させる。
これを可視化すると、シロイヌナズナは葉から茎を伝わってシロイヌナズナの全身にヒトの神経コードのように信号が伝わり、シロイヌナズナは全身中にあるカルシウムイオン濃度を増加させる――。
上気の話は既にNHKスペシャル「超・進化論」で取り上げられた内容ですが、改めてNHKスペシャル取材班+緑慎也著『超・進化論』(講談社)を参考にして、その分かってきた現象を述べると、そうなる。
まるで植物には心があるようだ。いや、明確に植物は、自然界とコミュニケーションをとっている。残念な事に、ヒトだけが言語に頼って他者を欺く技巧に走り、そのロゴスと再現性が確認されない限り、科学とは認めないという科学主義の知的体系をつくってきてしまったという事っぽい。
上記の話は、実はシロイヌナズナは音を聞いてアオムシに食べられている事を知覚していると考えられている。実は植物は音を聴いている? 勿論、これはヒトが音声を捉えるという手法とは異なり、おそらくは振動を読み取っているの意になる。アオムシがシロイヌナズナの葉を食べる。その際には咀嚼音が発生している。シロイヌナズナに、人工的な装置でアオムシの咀嚼音(振動)を聴かせると、実際にアオムシが葉を齧っておらずとも、シロイヌナズナは防御反応としてグルコシノレートという辛味成分を分泌するという。
では、シロイヌナズナは音(振動)でのみ、アオムシに食べられている事を認識しているのかというと、そうではない。植物は、自分を食べる昆虫や動物を、その食べられている箇所に付着する動物や昆虫の唾液から、相手を特定しているらしい事も分かってきたという。つまり、「誰だ、オレの葉っぱを食べちゃってる奴は! 至急、この唾液の主を分析せよ。判明したか? よし、この唾液はアオムシだ。ではアオムシに有効な毒物を生成してヤツが喰いつきそうな場所に張り巡らせておけ!」のような防御反応しているのだそうな。
更に、このシロイヌナズナとアオムシの話は続く。2鉢のシロイヌナズナを用意して、それぞれのシロイヌナズナの間には空気だけを通すような仕切りを施し、片方のシロイヌナズナにはアオムシに食べさせ、もう片方のシロイヌナズナにはアオムシをたからせないし、移動もさせない。なので、アオムシに食べられているシロイヌナズナが防御反応をとる事は予想できるが、実はアオムシに食べられていない方のシロイヌナズナも食べられているシロイヌナズナと同じように防御反応をとることが分かっているという。
実は植物はコミュニケーションを取っている。異変を察知したシロイヌナズナは揮発性化学物質を分泌し、自分だけではなく周囲の植物にも「私は虫に食べられている! ここに虫がいるぞ! みんなも気をつけろ!」というシグナルを発信しているのだという。
この自然界にある意思伝達ネットワークは、一体、なんだって思いません? 植物さん、実は心がないようで、心があるって事ですよ。いやいや、これはホントに「風の谷のナウシカ」とか「もののけ姫」の世界ですよ。実は、森の精は何もかも知っているって事かも知れない。ヒトと呼ばれる動物の種族が、破格のエゴイストで自然破壊ばかりをしているサタンである事を――。
ヤナギの葉をヤナギルリハムシの幼虫が食べる。このヤナギルリハムシの幼虫は、カメノコテントウという日本最大級のテントウムシの大好物である。カメノコテントウは多い時だと、1日で100匹以上のヤナギルリハムシの幼虫を見つけ出して食べてしまう。しかし、カメノコテントウの視力は大した能力がない事が分かっている。では、何故、カメノコテントウは、そんなに大好物のヤナギルリハムシを見つけ出す事ができるのか――という謎が残る。この問題も同じであった。植物は植物で同盟関係を締結しているのではなく、実は昆虫類とも「敵の敵は味方である」という論法で結ぶついているのだという。
ヤナギの葉が食べられると、揮発性のテルペノイドという化学物質が分泌される。そのテルペノイドは、ヤナギルリハムシの成虫が食べても幼虫が食べても分泌されるが、カメノコテントウは絶妙な嗅覚(厳密には嗅覚ではないかも知れない)が化学物質のブレンド具合によって嗅ぎ分け、ヤナギルリハムシの幼虫の居場所に駆け付ける。
つまり、ヤナギはヤナギルリハムシに食べられると揮発性化学物質で「SOS、SOS、今、ヤナギルリハムシに食べられています!」というシグナルを発信している。そのシグナルをカメノコテントウは嗅ぎ分けて「ほぅ。そないでっか。ワテの好物の幼虫はこっちでんな」と駆けつけている。
その自然界のネットワークでは、植物の発信したシグナルを昆虫は読み取れているという訳です。ここが理解できると、精霊信仰をしていた古代人やシャーマニズムが如何に優れた自然界と溶け合う手法であったのかに思いが到るかも知れない。
しかし、それ以上に気になったのは南方熊楠の指摘だ。「南方マンダラ」が、無数の因果律によって形成される球体となる量子論の立体図に酷似している事は既に述べた。本当は南方マンダラの方が、球体から外れたところにも因果律の線を引いているので、おそらく南方マンダラの方が今でも真理に迫っているとも言える。で、その「南方マンダラ」の解読方法が厄介な訳ですが、南方熊楠が土時法竜に宛てた手紙の中では――その手紙の解読も難解な訳ですが――、どうも宇宙には心象界と物象界との二つがあると述べている。量子だけが物質として宇宙に存在しているのではなく、物質と等しくして心があると述べている。しかも、それこそが真言密教の奥義だという解釈をしているのだ。我々が何かを確認するにも、思い描こうとするにも、そこには必ず心象界の影響を免れない。何かをしようと思った瞬間に、そこに〈意〉が生じる。何かを考えたり、何かを確認しようとしたとき、実際に〈意〉から逃れる事は出来ない。ここから唯識論に繋がってゆく訳です。
夜空に星を見ようとしない限り、星は見えない。そんなの当たり前だと考える。しかし、この問題は御存知の通り、では、夜空を見上げていない間、ホントに夜空に星は存在しているのかという問題にもつながってくる。結局のところ、識の限界があるので、きっと見ていない間にも星は存在しているのように補足しながら我々は世界を認識しているのだ。また、この問題が量子力学的な問題にもなってくる。
南方熊楠は、井上円了の妖怪講義に物足りなさを感じていたらしい事が土時法竜への手紙から読み取れる。『南方マンダラ』(河出文庫)の中でも二度ほど井上円了の名前を挙げていたと思う。どちらも批判的に取り上げている。他にも鈴木大拙や福沢諭吉の名前も挙げてありましたが、どうも熊楠は井上円了は西洋哲学に沿って仏教を再定義してしまったのは誤まりだと言いたかったと思われる。ありとあらゆる不思議を西洋哲学で解明できるかのように井上円了は妖怪退治をしてしまったが、「あれが全てではない」旨、熊楠は展開させていた。何しろ、熊楠は幽霊に導かれて未知の粘菌を発見している人物であり、熊楠の場合は自ら確信している何かだったのだ。
確かに思うところがある。井上円了は「コックリさん」等の事象を明らかにした。そして狐憑きや犬神憑きについても取り上げていた。狐憑きや犬神憑きも、西洋思考で理解してしまうと結局は或る種の自己暗示という事になってしまう訳ですが、そういう部分に天理教の教祖の中山みきの話を持ち出しているのだ。今日、書店にある書籍でも実際に中山みきの神懸かりについては「てんかんであったということだろう」という具合の解説をしている宗教学者もいる。信じていないのだ。しかし、よくよく中山みきの話を掘り起こしていくと、不可解が残る事は自明だ。これはシャーマニズムに対しての誤解とも関係していて、自然界と通じようとする試みや、宇宙と一体化しようとする試みは、野生的な回路を通じて、何かと通じてしまう可能性を否定できない。何しろ、ヴェーダの哲人たちはシャーマニズムのような神懸かりをしながら、ブラフマン(宇宙)とアートマン(個我)は一体であるという哲学体系を構築していたのだ。どういう回路か判然としないものの、トランス状態になった者の中には宇宙との合一を実感するような、そういう感覚を持っていたと考えざるを得ないのだ。
その部分を熊楠はきちんと「それが全てではない。西洋思考では理解できない領域がある」と述べていたのだ。まぁ、井上円了は井上円了で「宇宙全体が霊体である」と『霊魂不滅説』の中で述べているし、そちらも凄い。熊楠の言っている大日(大日如来)の真理とは、結局は「宇宙全体が霊体である」という感じのニュアンスだ。
我々は自分たちが認識できるものだけを頼りに、物事を認識している。しかし、植物が揮発性化学物質を分泌して、植物同士や昆虫相手にもコミュニケーションをとっていたことを、現に我々はナンセンスと嘲り笑ってきたのではなかったか。しかし、どうしようもないバカは我々の文明の常識の方であったという事ではないのかな。目に見えない力、我々が認識できない力がホントに在ったという事だし、自然界には非言語コミュニケーションらしいものがあったって事だから。
今、ロスアンゼルスでは山火事で大変な事になっている。しかし、この『超・進化論』によると、自然界というのは不思議で、山火事が発生した際に特殊な化学物質「カリキン」が発生し、そのカリキンが地中に埋もれている特定の種子に対して「芽吹け」と命令している事が分かっているという。
植物の発する言葉には、他にもさまざまな種類があることが明らかになりつつある。たとえば、森で山火事が発生すると、燃えた木から立ち上がる煙に、植物のある会話物質が含まれることが確かめられている。その会話物質の名前は「カリキン」。森一帯がカリキンを含む煙にさらされると、地中で眠っていた特定の草木の種が一斉に発芽するという。実は、これらの植物の中には、いくら光などの条件が整ってもそれだけではほとんど発芽せず、カリキンがあって初めて発芽する促進する植物もあるという。(『超・進化論』35頁)
結局、動物だけではなく、草も木も虫も菌類、これには腸内細菌みたいなものも含みますが、全部が全部、実はどこかで繋がっていて互いに支え合っていたというの究極的な解なのでしょう。人類だけが愚かで狡猾にもオイシイところだけを独占し、他者から搾取する事も許されるのだと手前味噌な弱肉強食型の進化論解釈をやってきてしまったというだけで――。
拙ブログ:2014年、南方マンダラの旅
拙ブログ:南方曼陀羅と量子もつれ
拙ブログ:縁の論理を踏まえて世界を表現しようとすると?
これを可視化すると、シロイヌナズナは葉から茎を伝わってシロイヌナズナの全身にヒトの神経コードのように信号が伝わり、シロイヌナズナは全身中にあるカルシウムイオン濃度を増加させる――。
上気の話は既にNHKスペシャル「超・進化論」で取り上げられた内容ですが、改めてNHKスペシャル取材班+緑慎也著『超・進化論』(講談社)を参考にして、その分かってきた現象を述べると、そうなる。
まるで植物には心があるようだ。いや、明確に植物は、自然界とコミュニケーションをとっている。残念な事に、ヒトだけが言語に頼って他者を欺く技巧に走り、そのロゴスと再現性が確認されない限り、科学とは認めないという科学主義の知的体系をつくってきてしまったという事っぽい。
上記の話は、実はシロイヌナズナは音を聞いてアオムシに食べられている事を知覚していると考えられている。実は植物は音を聴いている? 勿論、これはヒトが音声を捉えるという手法とは異なり、おそらくは振動を読み取っているの意になる。アオムシがシロイヌナズナの葉を食べる。その際には咀嚼音が発生している。シロイヌナズナに、人工的な装置でアオムシの咀嚼音(振動)を聴かせると、実際にアオムシが葉を齧っておらずとも、シロイヌナズナは防御反応としてグルコシノレートという辛味成分を分泌するという。
では、シロイヌナズナは音(振動)でのみ、アオムシに食べられている事を認識しているのかというと、そうではない。植物は、自分を食べる昆虫や動物を、その食べられている箇所に付着する動物や昆虫の唾液から、相手を特定しているらしい事も分かってきたという。つまり、「誰だ、オレの葉っぱを食べちゃってる奴は! 至急、この唾液の主を分析せよ。判明したか? よし、この唾液はアオムシだ。ではアオムシに有効な毒物を生成してヤツが喰いつきそうな場所に張り巡らせておけ!」のような防御反応しているのだそうな。
更に、このシロイヌナズナとアオムシの話は続く。2鉢のシロイヌナズナを用意して、それぞれのシロイヌナズナの間には空気だけを通すような仕切りを施し、片方のシロイヌナズナにはアオムシに食べさせ、もう片方のシロイヌナズナにはアオムシをたからせないし、移動もさせない。なので、アオムシに食べられているシロイヌナズナが防御反応をとる事は予想できるが、実はアオムシに食べられていない方のシロイヌナズナも食べられているシロイヌナズナと同じように防御反応をとることが分かっているという。
実は植物はコミュニケーションを取っている。異変を察知したシロイヌナズナは揮発性化学物質を分泌し、自分だけではなく周囲の植物にも「私は虫に食べられている! ここに虫がいるぞ! みんなも気をつけろ!」というシグナルを発信しているのだという。
この自然界にある意思伝達ネットワークは、一体、なんだって思いません? 植物さん、実は心がないようで、心があるって事ですよ。いやいや、これはホントに「風の谷のナウシカ」とか「もののけ姫」の世界ですよ。実は、森の精は何もかも知っているって事かも知れない。ヒトと呼ばれる動物の種族が、破格のエゴイストで自然破壊ばかりをしているサタンである事を――。
ヤナギの葉をヤナギルリハムシの幼虫が食べる。このヤナギルリハムシの幼虫は、カメノコテントウという日本最大級のテントウムシの大好物である。カメノコテントウは多い時だと、1日で100匹以上のヤナギルリハムシの幼虫を見つけ出して食べてしまう。しかし、カメノコテントウの視力は大した能力がない事が分かっている。では、何故、カメノコテントウは、そんなに大好物のヤナギルリハムシを見つけ出す事ができるのか――という謎が残る。この問題も同じであった。植物は植物で同盟関係を締結しているのではなく、実は昆虫類とも「敵の敵は味方である」という論法で結ぶついているのだという。
ヤナギの葉が食べられると、揮発性のテルペノイドという化学物質が分泌される。そのテルペノイドは、ヤナギルリハムシの成虫が食べても幼虫が食べても分泌されるが、カメノコテントウは絶妙な嗅覚(厳密には嗅覚ではないかも知れない)が化学物質のブレンド具合によって嗅ぎ分け、ヤナギルリハムシの幼虫の居場所に駆け付ける。
つまり、ヤナギはヤナギルリハムシに食べられると揮発性化学物質で「SOS、SOS、今、ヤナギルリハムシに食べられています!」というシグナルを発信している。そのシグナルをカメノコテントウは嗅ぎ分けて「ほぅ。そないでっか。ワテの好物の幼虫はこっちでんな」と駆けつけている。
その自然界のネットワークでは、植物の発信したシグナルを昆虫は読み取れているという訳です。ここが理解できると、精霊信仰をしていた古代人やシャーマニズムが如何に優れた自然界と溶け合う手法であったのかに思いが到るかも知れない。
しかし、それ以上に気になったのは南方熊楠の指摘だ。「南方マンダラ」が、無数の因果律によって形成される球体となる量子論の立体図に酷似している事は既に述べた。本当は南方マンダラの方が、球体から外れたところにも因果律の線を引いているので、おそらく南方マンダラの方が今でも真理に迫っているとも言える。で、その「南方マンダラ」の解読方法が厄介な訳ですが、南方熊楠が土時法竜に宛てた手紙の中では――その手紙の解読も難解な訳ですが――、どうも宇宙には心象界と物象界との二つがあると述べている。量子だけが物質として宇宙に存在しているのではなく、物質と等しくして心があると述べている。しかも、それこそが真言密教の奥義だという解釈をしているのだ。我々が何かを確認するにも、思い描こうとするにも、そこには必ず心象界の影響を免れない。何かをしようと思った瞬間に、そこに〈意〉が生じる。何かを考えたり、何かを確認しようとしたとき、実際に〈意〉から逃れる事は出来ない。ここから唯識論に繋がってゆく訳です。
夜空に星を見ようとしない限り、星は見えない。そんなの当たり前だと考える。しかし、この問題は御存知の通り、では、夜空を見上げていない間、ホントに夜空に星は存在しているのかという問題にもつながってくる。結局のところ、識の限界があるので、きっと見ていない間にも星は存在しているのように補足しながら我々は世界を認識しているのだ。また、この問題が量子力学的な問題にもなってくる。
南方熊楠は、井上円了の妖怪講義に物足りなさを感じていたらしい事が土時法竜への手紙から読み取れる。『南方マンダラ』(河出文庫)の中でも二度ほど井上円了の名前を挙げていたと思う。どちらも批判的に取り上げている。他にも鈴木大拙や福沢諭吉の名前も挙げてありましたが、どうも熊楠は井上円了は西洋哲学に沿って仏教を再定義してしまったのは誤まりだと言いたかったと思われる。ありとあらゆる不思議を西洋哲学で解明できるかのように井上円了は妖怪退治をしてしまったが、「あれが全てではない」旨、熊楠は展開させていた。何しろ、熊楠は幽霊に導かれて未知の粘菌を発見している人物であり、熊楠の場合は自ら確信している何かだったのだ。
確かに思うところがある。井上円了は「コックリさん」等の事象を明らかにした。そして狐憑きや犬神憑きについても取り上げていた。狐憑きや犬神憑きも、西洋思考で理解してしまうと結局は或る種の自己暗示という事になってしまう訳ですが、そういう部分に天理教の教祖の中山みきの話を持ち出しているのだ。今日、書店にある書籍でも実際に中山みきの神懸かりについては「てんかんであったということだろう」という具合の解説をしている宗教学者もいる。信じていないのだ。しかし、よくよく中山みきの話を掘り起こしていくと、不可解が残る事は自明だ。これはシャーマニズムに対しての誤解とも関係していて、自然界と通じようとする試みや、宇宙と一体化しようとする試みは、野生的な回路を通じて、何かと通じてしまう可能性を否定できない。何しろ、ヴェーダの哲人たちはシャーマニズムのような神懸かりをしながら、ブラフマン(宇宙)とアートマン(個我)は一体であるという哲学体系を構築していたのだ。どういう回路か判然としないものの、トランス状態になった者の中には宇宙との合一を実感するような、そういう感覚を持っていたと考えざるを得ないのだ。
その部分を熊楠はきちんと「それが全てではない。西洋思考では理解できない領域がある」と述べていたのだ。まぁ、井上円了は井上円了で「宇宙全体が霊体である」と『霊魂不滅説』の中で述べているし、そちらも凄い。熊楠の言っている大日(大日如来)の真理とは、結局は「宇宙全体が霊体である」という感じのニュアンスだ。
我々は自分たちが認識できるものだけを頼りに、物事を認識している。しかし、植物が揮発性化学物質を分泌して、植物同士や昆虫相手にもコミュニケーションをとっていたことを、現に我々はナンセンスと嘲り笑ってきたのではなかったか。しかし、どうしようもないバカは我々の文明の常識の方であったという事ではないのかな。目に見えない力、我々が認識できない力がホントに在ったという事だし、自然界には非言語コミュニケーションらしいものがあったって事だから。
今、ロスアンゼルスでは山火事で大変な事になっている。しかし、この『超・進化論』によると、自然界というのは不思議で、山火事が発生した際に特殊な化学物質「カリキン」が発生し、そのカリキンが地中に埋もれている特定の種子に対して「芽吹け」と命令している事が分かっているという。
植物の発する言葉には、他にもさまざまな種類があることが明らかになりつつある。たとえば、森で山火事が発生すると、燃えた木から立ち上がる煙に、植物のある会話物質が含まれることが確かめられている。その会話物質の名前は「カリキン」。森一帯がカリキンを含む煙にさらされると、地中で眠っていた特定の草木の種が一斉に発芽するという。実は、これらの植物の中には、いくら光などの条件が整ってもそれだけではほとんど発芽せず、カリキンがあって初めて発芽する促進する植物もあるという。(『超・進化論』35頁)
結局、動物だけではなく、草も木も虫も菌類、これには腸内細菌みたいなものも含みますが、全部が全部、実はどこかで繋がっていて互いに支え合っていたというの究極的な解なのでしょう。人類だけが愚かで狡猾にもオイシイところだけを独占し、他者から搾取する事も許されるのだと手前味噌な弱肉強食型の進化論解釈をやってきてしまったというだけで――。
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