ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著・宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)に目を通しているのですが、ある程度、読み進めてみると色々な問題提起が為されているなと認めざるを得なくなってきている。まだ、第二章までしか読み進めていないものの、余りにも色々な問題提起が隠されている。
例えば、斎藤幸平氏が「脱成長コミュニズム」を掲げている訳ですが、「資本主義は明らかに過剰であり、修正が必要である」という部分については、やはり、『アンチ・オイディプス』は対応している。資本主義を精神分析の観点で非常に、この分析は機械論的な分析なのだけれども、かなり現代社会そのものを抑圧的なものにしているというテーマが含まれている。やはり、現代人の中で狂気ではない者は存在しないであろう的な指摘も為されている事が確認できた。
そして、フロイトの性理論、殊にフロイトの提唱したエディプス・コンプレックス(エディプス⇒オイディプス)についての批判が為されている。また、表題の【アンチ】という語についても、それは日本語にした場合の「反」なのか「偽」なのかという問題を孕んでいる。
「去勢コンプレックス」は本当だろうか? また、「ペニス羨望」は本当だろうか? その辺りの問題にも深く切り込まれている。とはいえ、例えば、日本神話の「イザナギ・イザナミ」の神話にも有名な一節がある。
「吾が身は、成り成りて成り合はざる処、一処(ひとところ)あり」
「我が身は、成り成りて成り余るところ、一処(ひとところ)あり」
神話に何かを求める必然性についても『アンチ・オイディプス』は批判をしているものの、これなどは正しく、ヒトは自らの身体の外見を自覚している事を神話をつくった時代から認識していた実の証拠にもなっている。大袈裟に述べていますが、つまり、幼児だとして男児は自分のおちんちんに関心を抱くのは極めて自然であるし、仮に女児が男児におちんちんがついていることを知れば、私にはそれが無いという具合に〈欠損〉として認識する可能性は低くないように思う。少なくとも男児の場合は殆んどのケースで「ついているか」「ついていないか」が幼少期の性自認と大きく関係していると考えられる。これは体験的というか経験的にも多くの者が合点できる事であろうと思う。
つまり、ファロス(男根)の有無に幼児が頓着するのは極めて自然なことであろうと思う。また、女児にしても父親や男兄弟があれば、自ずとファロスの有無に気が向き、「私にはついていない」のように或る種の〈欠損〉を感じるというのも、さほど飛躍を感じない。
また、幼少期でも男児は勃起をしますな。これは経験として知っている。神社の裏にある林の中に幼稚園児の頃に白人女性のヌードグラビアを隠している園児がいて、その子と一緒に隠れるようにしてヌードグラビアを見ていた記憶がある。「うわ、えっちな写真だ。おちんちんが大きくなるよね」、という感覚も共有していたと思うし、また、誰に注意されたワケでもなく、きっとオトナにバレると怒られるであろう事も予測できるので、そういう雑誌を秘密の場所に隠して、仲良しの友達とコソコソと隠れるようにして、そういうものに振れていた。少なくとも私ぐらいの年代だと、そういう感覚であったと思う。また、幼稚園児であれば女児もいる訳ですが女児のハダカで性的興奮をしていたかどうかは非常に微妙だ。もっといい具合のというか、例えば、女子高生とか女子大生ぐらいの年齢の女性のハダカに対して性的興奮をしていたのだと思う。そういう意味ではアニメ「クレヨンしんちゃん」のうまく幼児の性を描けていると思う。「ねねちゃん」よりも「ななこおねえさん」に性的関心が向かう。
『アンチ・オイディプス』で、「これは鋭い!」と感じたというか、それが同著の主眼なのかも知れませんが、「パパ、ママ、わたし」という三位一体信仰を指摘している事であった。フロイトがつくってしまったのが、実は「パパ、ママ、わたし」というトライアングルである。確かに多くの幼児は、父親や母親を最も身近な異性として接するので、そのようにフロイトが仮説を立てた事を、猛批判しても仕方がないのだけれども、そのエディプス・コンプレックスの基礎理論に用いられている三位一体構造は、その解釈として、男児は母親を独占しようとするが父親に阻まれ、また、同様に女児は父親を独占しようとするが母親に阻まれ――という仮説は怪しいといえば怪しい。
ドゥルーズ&ガタリは、そこでデカルトの「コギト」を持ち出している一節があった。フロイトの解釈だと、「パパ、ママ、わたし」のトライアングルを神聖視するので、すべてがすべて父親の影響とか母親の影響という具合になってしまうが、「それは本当か?」という批判をしている。ホントは、コギトの「我、思う故に我あり」というのが自己認識のはじまりであり、別に父親や母親にそんなに固執していないのではないか――と突き付けていた。また、この「パパ、ママ、わたし」が強固に集団幻想として信じられてしまっていることによって、或る種の核家族ロール(役割)モデルになってしまっているのではないか?
裏返してみる。その子は別に誰々の子とか誰々の孫というアイデンティティーを背負って生まれて来るのではないのだから、当然、その子にとっての自己認識のはじまりとは、「父親と名乗る親切そうなおじさん」と「母親と名乗る親切そうなおばさん」に接しているだけではないのか?
いやぁ、これを言い出すと余計に社会がアトム化してしまう訳ですが、考えてみると怪しい気がする。近年でも、「親ガチャにハズレた」のように話す若者たちが話題になった。勿論、それは親子関係などとうものはゲームのガチャみたいなものだと認識しているという事の証でもある。残念ながら私の両親は私の両親であるが、あの大スター夫婦の家の子に生まれれば、もっと遺伝子的にも経済的にも恵まれていたかも知れない等と、割と軽薄に捉えているものなのなのかも知れない。いや、そうじゃない、親子の絆を否定してはいけない、親への感謝、親への愛情のような事を言い出す事も可能ではあるが、それらは一定以上の年齢になってから、そのように言い出すというのがパターンであるような気がしないでもない。
ザ・ブルーハーツに「首つり台から」という楽曲がある。
♪
生まれたときに
迷い始めた
地図も磁石も信じちゃないさ
帰り道なんて覚えてないさ
何処へ行くのか 何処へ行くのか
これはコギトの世界観でしょうねぇ。生まれ落ちた瞬間から、その者は独立した存在としての自意識を持ち、その生まれ落ちた瞬間から迷い始める。勿論、地図や磁石なんてものは持っていない。頼りになるのは自分だけだ。自己保存本能によって自らを生かす為には、その眼の前にある適当なものを味方にして、エサを運ばせる必要がある。これはヒヨコなどが眼の前の動くものを追い掛けてエサを催促するするという行動、インプリンティング(刷り込み)に似ているような気がしないでもない。勿論、念頭に置いているのは利己的遺伝子論だ。しかし、我々が機械的に設計されているのだとしたら、そのようなインプリンティングのソフトを用いて設計した方が実は簡単にして簡便なのではないのか?
実際に『アンチ・オイディプス』では、極めて独特な概念(説明は省きますが「器官なき身体」と「モル的分子」)で説明しているものの、基本的には集合体の中で捉える自意識と、そうではなく極めて個体分子的な自意識とがあるというような立場から論じている。この場合の個体分子は、その個体分子と、その周辺によって形成されているのに対して、社会的で器械的な集合体とは別個のものと解釈しているように読める。
また、「集団幻想」という単語をよく目にする事になる。察するに吉本隆明の「共同幻想」にも似た概念であろうと思われる。平たく言えば、或る種の〈思い込み〉が強く作用して集団幻想を生み出し、その価値体系に沿って世界が出来上がっているという視座のように思う。
興味深いと感じた一節を引用します。(引用中にある【モル的】について、ここでは【分子的】と解して差し支えない。)
男性は、単に、その中で雄の部分が統計的に優位にある人間にすぎず、女性は、単に、雌の部分が優位にある人間でしかない。したがって、基本的に組み合せのレベルでは、少なくとも二人の男性と二人の女性がいて多様性を構成し、この多様性の中で横断的なコミュニケーションが、もろもろの部分対象と流れの接続が成立する。一男性の雄の部分は、一女性の雌の部分と交わることができる。しかしまた、一女性の雄の部分とも、あるいは別の男性の雌の部分とも、あるいはまた、この別の男性の雄の部分とも交わることができる。ここでは、あらゆる罪責感は消滅する。〜略〜
私たちは、統計学的あるいはモル的には異性愛者であるが、しかし、個々の人物としては、それと知らずに、あるいはそれと知りつつ同性愛者でもあり、根源的あるいは分子的には、結局〈横断性愛者〉である。(2025年版『アンチ・オイディプス』083頁)
先ず、戸惑う可能性があるのが「二人の男性」と「二人の女性」の部分であるが、それは異性愛者としての一組のカップルを前提にしている。男性の中にも雄的な部分と雌的な部分があり、女性の中にも雄的な部分と雌的な部分とがあるという事を「二人の男性+二人の女性」という意味で表現している。それらを前提にして、マンツーマンの人間関係を捉え、それを個々人の問題に修正すると、誰しもが実は横断的性愛者(トランスジェンダー)であるという主旨の事を述べている。この『アンチ・オイディプス』の初版は1972年なので、かなり昔から、そうした視点があった事に気づかされる。
これはホントは極めてシンプルな話であり、統計的には9割以上の者が異性愛者であるが、一個人を分子的に眺めてみれば、その者の中には男であれば女であれ最初からオス的な顔とメス的な顔とがあり、それらを器用に使い分けて人間関係を構成しているという話をしているとしか思えない。謂わば、誰しもがトランスジェンダーの要素を秘めている。発現するか発現しないかの差? この問題は私自身も実際に考えた事があるし、野坂昭如の『エロトピア』でも取り上げられていた問題のような気がする。
トランスジェンダーという概念よりも、基本的にはすべての者はバイセクシャルである可能性が高いが、仮に、それが真理であったとしても、結局、誰一人として認めたがらないであろうという問題がある(笑 そんな事が仮に明らかになったとしても基本的には誰一人として利益があるようには思えない。だから、そういう問題については語られない。
仮にですよ、あなたが男性だとしましょう。そこへ相手が現われる。一人目は渡哲也に似た風貌をしているが中身は女性であるという生物学的な女性だ。素晴らしい性格で愛さずには居られないような女性である。そして、もう一人は今田美桜さんのような風貌をしているが中身はナイスガイな男性で生物学的にも男性であるとする。そのような状況を考えれば、倒錯的な感覚が起こるであろう事は容易に想像できるではないか。また、この例えは極端に性別を強調した例だ。実際問題としての我々が有している人間関係とは、そういうものではないのだろうか? その意味では我々は物凄くレッテル貼り効果に弱く、或る種の集団幻想・共同幻想の中に存在しているという事ではないのだろうか。
とはいえ、先に触れたように実は「成り成りて成り余るところ一処あり」の感覚は、それが即物的な実体に即して生じるものであろうから、ファロスを結合すべき場所に結合させたいという具合に物事を発想し、それが性衝動に繋がっているであろうと考える事は極めて自然的な事であるようにも思える。こう展開すると『アンチ・オイディプス』に反しているようであるが、『アンチ・オイディプス』では生体を器官に分類し、器官は〈切断〉と〈排出〉によって次の器官へと〈接合〉するという論法も用いられている。食べ物を歯や口唇で切断して体内に取り入れる。口の役割はそこまでで、その次には次の器官である食道や胃へと流されてゆく。その流れを追えば〈切断〉と〈排出〉のような機械論(器官の話)になる。映画「アバター」あたりでも確か尻尾の先が電気自動車の充電ソケットみたいなものがついていて、そのソケットを接合するんじゃなかったかな。
そして、その器官とは別に、器官とは切り離されて自我のようなものがある的な。まぁ、どのように説明しても、いい解釈にはならないのだろうけど、そんな風に読んでいるかな。
例えば、斎藤幸平氏が「脱成長コミュニズム」を掲げている訳ですが、「資本主義は明らかに過剰であり、修正が必要である」という部分については、やはり、『アンチ・オイディプス』は対応している。資本主義を精神分析の観点で非常に、この分析は機械論的な分析なのだけれども、かなり現代社会そのものを抑圧的なものにしているというテーマが含まれている。やはり、現代人の中で狂気ではない者は存在しないであろう的な指摘も為されている事が確認できた。
そして、フロイトの性理論、殊にフロイトの提唱したエディプス・コンプレックス(エディプス⇒オイディプス)についての批判が為されている。また、表題の【アンチ】という語についても、それは日本語にした場合の「反」なのか「偽」なのかという問題を孕んでいる。
「去勢コンプレックス」は本当だろうか? また、「ペニス羨望」は本当だろうか? その辺りの問題にも深く切り込まれている。とはいえ、例えば、日本神話の「イザナギ・イザナミ」の神話にも有名な一節がある。
「吾が身は、成り成りて成り合はざる処、一処(ひとところ)あり」
「我が身は、成り成りて成り余るところ、一処(ひとところ)あり」
神話に何かを求める必然性についても『アンチ・オイディプス』は批判をしているものの、これなどは正しく、ヒトは自らの身体の外見を自覚している事を神話をつくった時代から認識していた実の証拠にもなっている。大袈裟に述べていますが、つまり、幼児だとして男児は自分のおちんちんに関心を抱くのは極めて自然であるし、仮に女児が男児におちんちんがついていることを知れば、私にはそれが無いという具合に〈欠損〉として認識する可能性は低くないように思う。少なくとも男児の場合は殆んどのケースで「ついているか」「ついていないか」が幼少期の性自認と大きく関係していると考えられる。これは体験的というか経験的にも多くの者が合点できる事であろうと思う。
つまり、ファロス(男根)の有無に幼児が頓着するのは極めて自然なことであろうと思う。また、女児にしても父親や男兄弟があれば、自ずとファロスの有無に気が向き、「私にはついていない」のように或る種の〈欠損〉を感じるというのも、さほど飛躍を感じない。
また、幼少期でも男児は勃起をしますな。これは経験として知っている。神社の裏にある林の中に幼稚園児の頃に白人女性のヌードグラビアを隠している園児がいて、その子と一緒に隠れるようにしてヌードグラビアを見ていた記憶がある。「うわ、えっちな写真だ。おちんちんが大きくなるよね」、という感覚も共有していたと思うし、また、誰に注意されたワケでもなく、きっとオトナにバレると怒られるであろう事も予測できるので、そういう雑誌を秘密の場所に隠して、仲良しの友達とコソコソと隠れるようにして、そういうものに振れていた。少なくとも私ぐらいの年代だと、そういう感覚であったと思う。また、幼稚園児であれば女児もいる訳ですが女児のハダカで性的興奮をしていたかどうかは非常に微妙だ。もっといい具合のというか、例えば、女子高生とか女子大生ぐらいの年齢の女性のハダカに対して性的興奮をしていたのだと思う。そういう意味ではアニメ「クレヨンしんちゃん」のうまく幼児の性を描けていると思う。「ねねちゃん」よりも「ななこおねえさん」に性的関心が向かう。
『アンチ・オイディプス』で、「これは鋭い!」と感じたというか、それが同著の主眼なのかも知れませんが、「パパ、ママ、わたし」という三位一体信仰を指摘している事であった。フロイトがつくってしまったのが、実は「パパ、ママ、わたし」というトライアングルである。確かに多くの幼児は、父親や母親を最も身近な異性として接するので、そのようにフロイトが仮説を立てた事を、猛批判しても仕方がないのだけれども、そのエディプス・コンプレックスの基礎理論に用いられている三位一体構造は、その解釈として、男児は母親を独占しようとするが父親に阻まれ、また、同様に女児は父親を独占しようとするが母親に阻まれ――という仮説は怪しいといえば怪しい。
ドゥルーズ&ガタリは、そこでデカルトの「コギト」を持ち出している一節があった。フロイトの解釈だと、「パパ、ママ、わたし」のトライアングルを神聖視するので、すべてがすべて父親の影響とか母親の影響という具合になってしまうが、「それは本当か?」という批判をしている。ホントは、コギトの「我、思う故に我あり」というのが自己認識のはじまりであり、別に父親や母親にそんなに固執していないのではないか――と突き付けていた。また、この「パパ、ママ、わたし」が強固に集団幻想として信じられてしまっていることによって、或る種の核家族ロール(役割)モデルになってしまっているのではないか?
裏返してみる。その子は別に誰々の子とか誰々の孫というアイデンティティーを背負って生まれて来るのではないのだから、当然、その子にとっての自己認識のはじまりとは、「父親と名乗る親切そうなおじさん」と「母親と名乗る親切そうなおばさん」に接しているだけではないのか?
いやぁ、これを言い出すと余計に社会がアトム化してしまう訳ですが、考えてみると怪しい気がする。近年でも、「親ガチャにハズレた」のように話す若者たちが話題になった。勿論、それは親子関係などとうものはゲームのガチャみたいなものだと認識しているという事の証でもある。残念ながら私の両親は私の両親であるが、あの大スター夫婦の家の子に生まれれば、もっと遺伝子的にも経済的にも恵まれていたかも知れない等と、割と軽薄に捉えているものなのなのかも知れない。いや、そうじゃない、親子の絆を否定してはいけない、親への感謝、親への愛情のような事を言い出す事も可能ではあるが、それらは一定以上の年齢になってから、そのように言い出すというのがパターンであるような気がしないでもない。
ザ・ブルーハーツに「首つり台から」という楽曲がある。
♪
生まれたときに
迷い始めた
地図も磁石も信じちゃないさ
帰り道なんて覚えてないさ
何処へ行くのか 何処へ行くのか
これはコギトの世界観でしょうねぇ。生まれ落ちた瞬間から、その者は独立した存在としての自意識を持ち、その生まれ落ちた瞬間から迷い始める。勿論、地図や磁石なんてものは持っていない。頼りになるのは自分だけだ。自己保存本能によって自らを生かす為には、その眼の前にある適当なものを味方にして、エサを運ばせる必要がある。これはヒヨコなどが眼の前の動くものを追い掛けてエサを催促するするという行動、インプリンティング(刷り込み)に似ているような気がしないでもない。勿論、念頭に置いているのは利己的遺伝子論だ。しかし、我々が機械的に設計されているのだとしたら、そのようなインプリンティングのソフトを用いて設計した方が実は簡単にして簡便なのではないのか?
実際に『アンチ・オイディプス』では、極めて独特な概念(説明は省きますが「器官なき身体」と「モル的分子」)で説明しているものの、基本的には集合体の中で捉える自意識と、そうではなく極めて個体分子的な自意識とがあるというような立場から論じている。この場合の個体分子は、その個体分子と、その周辺によって形成されているのに対して、社会的で器械的な集合体とは別個のものと解釈しているように読める。
また、「集団幻想」という単語をよく目にする事になる。察するに吉本隆明の「共同幻想」にも似た概念であろうと思われる。平たく言えば、或る種の〈思い込み〉が強く作用して集団幻想を生み出し、その価値体系に沿って世界が出来上がっているという視座のように思う。
興味深いと感じた一節を引用します。(引用中にある【モル的】について、ここでは【分子的】と解して差し支えない。)
男性は、単に、その中で雄の部分が統計的に優位にある人間にすぎず、女性は、単に、雌の部分が優位にある人間でしかない。したがって、基本的に組み合せのレベルでは、少なくとも二人の男性と二人の女性がいて多様性を構成し、この多様性の中で横断的なコミュニケーションが、もろもろの部分対象と流れの接続が成立する。一男性の雄の部分は、一女性の雌の部分と交わることができる。しかしまた、一女性の雄の部分とも、あるいは別の男性の雌の部分とも、あるいはまた、この別の男性の雄の部分とも交わることができる。ここでは、あらゆる罪責感は消滅する。〜略〜
私たちは、統計学的あるいはモル的には異性愛者であるが、しかし、個々の人物としては、それと知らずに、あるいはそれと知りつつ同性愛者でもあり、根源的あるいは分子的には、結局〈横断性愛者〉である。(2025年版『アンチ・オイディプス』083頁)
先ず、戸惑う可能性があるのが「二人の男性」と「二人の女性」の部分であるが、それは異性愛者としての一組のカップルを前提にしている。男性の中にも雄的な部分と雌的な部分があり、女性の中にも雄的な部分と雌的な部分とがあるという事を「二人の男性+二人の女性」という意味で表現している。それらを前提にして、マンツーマンの人間関係を捉え、それを個々人の問題に修正すると、誰しもが実は横断的性愛者(トランスジェンダー)であるという主旨の事を述べている。この『アンチ・オイディプス』の初版は1972年なので、かなり昔から、そうした視点があった事に気づかされる。
これはホントは極めてシンプルな話であり、統計的には9割以上の者が異性愛者であるが、一個人を分子的に眺めてみれば、その者の中には男であれば女であれ最初からオス的な顔とメス的な顔とがあり、それらを器用に使い分けて人間関係を構成しているという話をしているとしか思えない。謂わば、誰しもがトランスジェンダーの要素を秘めている。発現するか発現しないかの差? この問題は私自身も実際に考えた事があるし、野坂昭如の『エロトピア』でも取り上げられていた問題のような気がする。
トランスジェンダーという概念よりも、基本的にはすべての者はバイセクシャルである可能性が高いが、仮に、それが真理であったとしても、結局、誰一人として認めたがらないであろうという問題がある(笑 そんな事が仮に明らかになったとしても基本的には誰一人として利益があるようには思えない。だから、そういう問題については語られない。
仮にですよ、あなたが男性だとしましょう。そこへ相手が現われる。一人目は渡哲也に似た風貌をしているが中身は女性であるという生物学的な女性だ。素晴らしい性格で愛さずには居られないような女性である。そして、もう一人は今田美桜さんのような風貌をしているが中身はナイスガイな男性で生物学的にも男性であるとする。そのような状況を考えれば、倒錯的な感覚が起こるであろう事は容易に想像できるではないか。また、この例えは極端に性別を強調した例だ。実際問題としての我々が有している人間関係とは、そういうものではないのだろうか? その意味では我々は物凄くレッテル貼り効果に弱く、或る種の集団幻想・共同幻想の中に存在しているという事ではないのだろうか。
とはいえ、先に触れたように実は「成り成りて成り余るところ一処あり」の感覚は、それが即物的な実体に即して生じるものであろうから、ファロスを結合すべき場所に結合させたいという具合に物事を発想し、それが性衝動に繋がっているであろうと考える事は極めて自然的な事であるようにも思える。こう展開すると『アンチ・オイディプス』に反しているようであるが、『アンチ・オイディプス』では生体を器官に分類し、器官は〈切断〉と〈排出〉によって次の器官へと〈接合〉するという論法も用いられている。食べ物を歯や口唇で切断して体内に取り入れる。口の役割はそこまでで、その次には次の器官である食道や胃へと流されてゆく。その流れを追えば〈切断〉と〈排出〉のような機械論(器官の話)になる。映画「アバター」あたりでも確か尻尾の先が電気自動車の充電ソケットみたいなものがついていて、そのソケットを接合するんじゃなかったかな。
そして、その器官とは別に、器官とは切り離されて自我のようなものがある的な。まぁ、どのように説明しても、いい解釈にはならないのだろうけど、そんな風に読んでいるかな。
