どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:オトナの話 > アンチ・オイディプス

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著・宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)に目を通しているのですが、ある程度、読み進めてみると色々な問題提起が為されているなと認めざるを得なくなってきている。まだ、第二章までしか読み進めていないものの、余りにも色々な問題提起が隠されている。

例えば、斎藤幸平氏が「脱成長コミュニズム」を掲げている訳ですが、「資本主義は明らかに過剰であり、修正が必要である」という部分については、やはり、『アンチ・オイディプス』は対応している。資本主義を精神分析の観点で非常に、この分析は機械論的な分析なのだけれども、かなり現代社会そのものを抑圧的なものにしているというテーマが含まれている。やはり、現代人の中で狂気ではない者は存在しないであろう的な指摘も為されている事が確認できた。

そして、フロイトの性理論、殊にフロイトの提唱したエディプス・コンプレックス(エディプス⇒オイディプス)についての批判が為されている。また、表題の【アンチ】という語についても、それは日本語にした場合の「反」なのか「偽」なのかという問題を孕んでいる。

「去勢コンプレックス」は本当だろうか? また、「ペニス羨望」は本当だろうか? その辺りの問題にも深く切り込まれている。とはいえ、例えば、日本神話の「イザナギ・イザナミ」の神話にも有名な一節がある。

「吾が身は、成り成りて成り合はざる処、一処(ひとところ)あり」

「我が身は、成り成りて成り余るところ、一処(ひとところ)あり」


神話に何かを求める必然性についても『アンチ・オイディプス』は批判をしているものの、これなどは正しく、ヒトは自らの身体の外見を自覚している事を神話をつくった時代から認識していた実の証拠にもなっている。大袈裟に述べていますが、つまり、幼児だとして男児は自分のおちんちんに関心を抱くのは極めて自然であるし、仮に女児が男児におちんちんがついていることを知れば、私にはそれが無いという具合に〈欠損〉として認識する可能性は低くないように思う。少なくとも男児の場合は殆んどのケースで「ついているか」「ついていないか」が幼少期の性自認と大きく関係していると考えられる。これは体験的というか経験的にも多くの者が合点できる事であろうと思う。

つまり、ファロス(男根)の有無に幼児が頓着するのは極めて自然なことであろうと思う。また、女児にしても父親や男兄弟があれば、自ずとファロスの有無に気が向き、「私にはついていない」のように或る種の〈欠損〉を感じるというのも、さほど飛躍を感じない。

また、幼少期でも男児は勃起をしますな。これは経験として知っている。神社の裏にある林の中に幼稚園児の頃に白人女性のヌードグラビアを隠している園児がいて、その子と一緒に隠れるようにしてヌードグラビアを見ていた記憶がある。「うわ、えっちな写真だ。おちんちんが大きくなるよね」、という感覚も共有していたと思うし、また、誰に注意されたワケでもなく、きっとオトナにバレると怒られるであろう事も予測できるので、そういう雑誌を秘密の場所に隠して、仲良しの友達とコソコソと隠れるようにして、そういうものに振れていた。少なくとも私ぐらいの年代だと、そういう感覚であったと思う。また、幼稚園児であれば女児もいる訳ですが女児のハダカで性的興奮をしていたかどうかは非常に微妙だ。もっといい具合のというか、例えば、女子高生とか女子大生ぐらいの年齢の女性のハダカに対して性的興奮をしていたのだと思う。そういう意味ではアニメ「クレヨンしんちゃん」のうまく幼児の性を描けていると思う。「ねねちゃん」よりも「ななこおねえさん」に性的関心が向かう。

『アンチ・オイディプス』で、「これは鋭い!」と感じたというか、それが同著の主眼なのかも知れませんが、「パパ、ママ、わたし」という三位一体信仰を指摘している事であった。フロイトがつくってしまったのが、実は「パパ、ママ、わたし」というトライアングルである。確かに多くの幼児は、父親や母親を最も身近な異性として接するので、そのようにフロイトが仮説を立てた事を、猛批判しても仕方がないのだけれども、そのエディプス・コンプレックスの基礎理論に用いられている三位一体構造は、その解釈として、男児は母親を独占しようとするが父親に阻まれ、また、同様に女児は父親を独占しようとするが母親に阻まれ――という仮説は怪しいといえば怪しい。

ドゥルーズ&ガタリは、そこでデカルトの「コギト」を持ち出している一節があった。フロイトの解釈だと、「パパ、ママ、わたし」のトライアングルを神聖視するので、すべてがすべて父親の影響とか母親の影響という具合になってしまうが、「それは本当か?」という批判をしている。ホントは、コギトの「我、思う故に我あり」というのが自己認識のはじまりであり、別に父親や母親にそんなに固執していないのではないか――と突き付けていた。また、この「パパ、ママ、わたし」が強固に集団幻想として信じられてしまっていることによって、或る種の核家族ロール(役割)モデルになってしまっているのではないか?

裏返してみる。その子は別に誰々の子とか誰々の孫というアイデンティティーを背負って生まれて来るのではないのだから、当然、その子にとっての自己認識のはじまりとは、「父親と名乗る親切そうなおじさん」と「母親と名乗る親切そうなおばさん」に接しているだけではないのか? 

いやぁ、これを言い出すと余計に社会がアトム化してしまう訳ですが、考えてみると怪しい気がする。近年でも、「親ガチャにハズレた」のように話す若者たちが話題になった。勿論、それは親子関係などとうものはゲームのガチャみたいなものだと認識しているという事の証でもある。残念ながら私の両親は私の両親であるが、あの大スター夫婦の家の子に生まれれば、もっと遺伝子的にも経済的にも恵まれていたかも知れない等と、割と軽薄に捉えているものなのなのかも知れない。いや、そうじゃない、親子の絆を否定してはいけない、親への感謝、親への愛情のような事を言い出す事も可能ではあるが、それらは一定以上の年齢になってから、そのように言い出すというのがパターンであるような気がしないでもない。

ザ・ブルーハーツに「首つり台から」という楽曲がある。


生まれたときに

迷い始めた

地図も磁石も信じちゃないさ

帰り道なんて覚えてないさ

何処へ行くのか 何処へ行くのか


これはコギトの世界観でしょうねぇ。生まれ落ちた瞬間から、その者は独立した存在としての自意識を持ち、その生まれ落ちた瞬間から迷い始める。勿論、地図や磁石なんてものは持っていない。頼りになるのは自分だけだ。自己保存本能によって自らを生かす為には、その眼の前にある適当なものを味方にして、エサを運ばせる必要がある。これはヒヨコなどが眼の前の動くものを追い掛けてエサを催促するするという行動、インプリンティング(刷り込み)に似ているような気がしないでもない。勿論、念頭に置いているのは利己的遺伝子論だ。しかし、我々が機械的に設計されているのだとしたら、そのようなインプリンティングのソフトを用いて設計した方が実は簡単にして簡便なのではないのか?

実際に『アンチ・オイディプス』では、極めて独特な概念(説明は省きますが「器官なき身体」と「モル的分子」)で説明しているものの、基本的には集合体の中で捉える自意識と、そうではなく極めて個体分子的な自意識とがあるというような立場から論じている。この場合の個体分子は、その個体分子と、その周辺によって形成されているのに対して、社会的で器械的な集合体とは別個のものと解釈しているように読める。

また、「集団幻想」という単語をよく目にする事になる。察するに吉本隆明の「共同幻想」にも似た概念であろうと思われる。平たく言えば、或る種の〈思い込み〉が強く作用して集団幻想を生み出し、その価値体系に沿って世界が出来上がっているという視座のように思う。

興味深いと感じた一節を引用します。(引用中にある【モル的】について、ここでは【分子的】と解して差し支えない。)

男性は、単に、その中で雄の部分が統計的に優位にある人間にすぎず、女性は、単に、雌の部分が優位にある人間でしかない。したがって、基本的に組み合せのレベルでは、少なくとも二人の男性と二人の女性がいて多様性を構成し、この多様性の中で横断的なコミュニケーションが、もろもろの部分対象と流れの接続が成立する。一男性の雄の部分は、一女性の雌の部分と交わることができる。しかしまた、一女性の雄の部分とも、あるいは別の男性の雌の部分とも、あるいはまた、この別の男性の雄の部分とも交わることができる。ここでは、あらゆる罪責感は消滅する。〜略〜

私たちは、統計学的あるいはモル的には異性愛者であるが、しかし、個々の人物としては、それと知らずに、あるいはそれと知りつつ同性愛者でもあり、根源的あるいは分子的には、結局〈横断性愛者〉である。
(2025年版『アンチ・オイディプス』083頁)

先ず、戸惑う可能性があるのが「二人の男性」と「二人の女性」の部分であるが、それは異性愛者としての一組のカップルを前提にしている。男性の中にも雄的な部分と雌的な部分があり、女性の中にも雄的な部分と雌的な部分とがあるという事を「二人の男性+二人の女性」という意味で表現している。それらを前提にして、マンツーマンの人間関係を捉え、それを個々人の問題に修正すると、誰しもが実は横断的性愛者(トランスジェンダー)であるという主旨の事を述べている。この『アンチ・オイディプス』の初版は1972年なので、かなり昔から、そうした視点があった事に気づかされる。

これはホントは極めてシンプルな話であり、統計的には9割以上の者が異性愛者であるが、一個人を分子的に眺めてみれば、その者の中には男であれば女であれ最初からオス的な顔とメス的な顔とがあり、それらを器用に使い分けて人間関係を構成しているという話をしているとしか思えない。謂わば、誰しもがトランスジェンダーの要素を秘めている。発現するか発現しないかの差? この問題は私自身も実際に考えた事があるし、野坂昭如の『エロトピア』でも取り上げられていた問題のような気がする。

トランスジェンダーという概念よりも、基本的にはすべての者はバイセクシャルである可能性が高いが、仮に、それが真理であったとしても、結局、誰一人として認めたがらないであろうという問題がある(笑 そんな事が仮に明らかになったとしても基本的には誰一人として利益があるようには思えない。だから、そういう問題については語られない。

仮にですよ、あなたが男性だとしましょう。そこへ相手が現われる。一人目は渡哲也に似た風貌をしているが中身は女性であるという生物学的な女性だ。素晴らしい性格で愛さずには居られないような女性である。そして、もう一人は今田美桜さんのような風貌をしているが中身はナイスガイな男性で生物学的にも男性であるとする。そのような状況を考えれば、倒錯的な感覚が起こるであろう事は容易に想像できるではないか。また、この例えは極端に性別を強調した例だ。実際問題としての我々が有している人間関係とは、そういうものではないのだろうか? その意味では我々は物凄くレッテル貼り効果に弱く、或る種の集団幻想・共同幻想の中に存在しているという事ではないのだろうか。

とはいえ、先に触れたように実は「成り成りて成り余るところ一処あり」の感覚は、それが即物的な実体に即して生じるものであろうから、ファロスを結合すべき場所に結合させたいという具合に物事を発想し、それが性衝動に繋がっているであろうと考える事は極めて自然的な事であるようにも思える。こう展開すると『アンチ・オイディプス』に反しているようであるが、『アンチ・オイディプス』では生体を器官に分類し、器官は〈切断〉と〈排出〉によって次の器官へと〈接合〉するという論法も用いられている。食べ物を歯や口唇で切断して体内に取り入れる。口の役割はそこまでで、その次には次の器官である食道や胃へと流されてゆく。その流れを追えば〈切断〉と〈排出〉のような機械論(器官の話)になる。映画「アバター」あたりでも確か尻尾の先が電気自動車の充電ソケットみたいなものがついていて、そのソケットを接合するんじゃなかったかな。

そして、その器官とは別に、器官とは切り離されて自我のようなものがある的な。まぁ、どのように説明しても、いい解釈にはならないのだろうけど、そんな風に読んでいるかな。
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フロイトとユングが決裂した理由について最も多く目にするのが「フロイトがなんでもかんでも性の問題に還元してしまう事に対してユングは違和感を抱いていた」というタイプのものであった。どこか漠然としていますが、そのフロイトとユングが決裂した決定的な問題は、ユングの次のような指摘だった? ――そう思った箇所がジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著・宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)の中にあった。

引用します。

フロイトには、ユングの単純な冗談が我慢できなかった。ユングはこういったのだ。未開人でさえ、自分の母や祖母よりも、若くて美しい女を好むのだから、オイディプスがほんtのうに現実的存在であるはずがない、と。もしユングがすべてを裏切ったとしても、しかしそれはこの冗談のせいではない。(『アンチ・オイディプス』130頁)

実は、私も、そのユングの単純な冗談を支持したいような気がする。勿論、幼児期の話であるが幼児期に母親を対象にして性衝動を持っていたであろうというオイディプス(エディプス・コンプレックス)の仮説は、感覚的には信じがたい部分がある。(また、実はドゥルーズ&ガタリも似たような指摘をしている。)

今一度、確認すると男児は母親を独占しようとするが父親にそれを阻まれ、女児は父親を独占しようとするが母親に阻まれ、そういう近親相姦願望が抑圧されるところからフロイトのエディプス・コンプレックスは形成されている。極めて基本根幹的な部分であるが、「それは本当だろうか?」という感覚がある。

アニメ「クレヨンしんちゃん」が説明に適しているので、クレヨンしんちゃんベースで話せば、しんのすけが発情するのは同じ園児である「ねねちゃん」ではなく、二十歳前後と思われる「ななこお姉さん」である。勿論、母親である「みさえ」ではない。むしろ、しんのすけは母親のみさえに対しては「三段腹ですなァ!」のようなセリフを浴びせるばかりである。(余談ながら、しんのすけは、優等生キャラのカザマくんの耳に息を吹きかけて頬を赤らめたりする。)

勿論、この「クレヨンしんちゃん」の設定にしても、フロイトの「エディプス・コンプレックス」で説明する事は可能でしょう。というのは、無意識次元でエディプス・コンプレックスは発生する。本人に自覚はない。もっともっと幼い頃に、そのような抑圧(心理学用語では無意識に発生する)を経験しており、近親相姦は禁忌であるという事を学習しているので、しんのすけは赤ん坊の頃に、禁忌を学習して、そのような性的志向を獲得すると展開する事もできる。

しかし、直感的にはおそらく多くの者が疑念を感じる。ヒントになるのは「ねねちゃん」ではないだろうか? 幼稚園に通う男児であったとしても、確かに欲情する対象は園児ではなく、もっともっと年上の中学生以上の「おねいさん」であり、出来ることなら「二十歳以上のおねいさん」であったような感覚がある。そして自分が中学校に上がる頃には、やはり、女子高生や女子大生といった年代の女性のヌードを見たいと欲していた。そういう記憶がある。当時は、現在と違ってロリコン雑誌も野放し状態でしたが、中学生の男子児童として欲していたのは女子高生風のヌードか女子大生風のヌードであったような記憶がある。これは記憶とか感覚と述べていますが、その実、経験として観察できた事柄でもある。

「母親」というのは徹頭徹尾して母親であり、そこに性衝動の入り込む余地なんてなかったかのような気がする。友人の母親に対して「美人だなぁ」のように本気で思った事はないし、スケベな妄想を掻き立てられたという事もない。「かあちゃん」は「かあちゃん」であり、そこは、もう動かしようもないぐらいに固定化されていたのが実際であったような気がする。テレビドラマ「俺たちの旅」の中では、中村雅俊演じるカースケが、田中健演じるオメダの隣で

「オマエのかあちゃん、美人だよなぁ…」

と語り出すシーンがあった。オメダの母親役は当時の八千草薫が演じており、確かに分類上は年増だけれども「美人」と分類せざるを得ない。なのでカースケは、その後も妄想を続けてオメダの母親とデートをしたらどうのこうのとニヤケながら話し始める。すると、隣で話を聞かされていたオメダは、カースケを小突いたか、足裏で蹴り飛ばすという展開になった。オメダ曰く、「ひとのカアちゃんで、変な妄想すんなよなっ!」、と。さりげないシーンでありながら、何か納得のいく感慨があった。まぁ、基本的にはそうなるでしょう。「母親」というのは「母親」という括りになっているので、そもそも欲情する対象からは除外された領域であったような気がする。自分の母親は勿論、自分の友人の母親もだ。それは「かあちゃん」であったり、或いは40代以降になるとテレビの影響なのでしょう関東地方でも「オカン」と呼ばれたりするが、既に枠として欲情する対象の別枠であるような感慨がある。

さて、ここからがドゥルーズ&ガタリのオイディプス批判になる。ドゥルーズ&ガタリは、「パパ、ママ、わたし」というフロイトがつくり出してしまった三位一体構図の三角形を徹底批判している。幼児が発達していく過程で実際に対峙することになるのは、母親と父親であり、だから、当該幼児は「パパ、ママ、わたし」という三角形によって外世界を認識する事になる。しかも、先の近親相姦の禁忌がルールとして刷り込まれ、そこから様々な禁忌が当該幼児の中に組み込まれてゆく。しかし、その三位一体構図が過剰に信じられ過ぎている、とする。しかも批判は精神分析全般に及ぶ。精神分析体系そのものが「パパ、ママ、わたし」を過剰に信じてしまっており、何か成人以降になって発症した症例があっても、必ず幼少期の体験の中で、つまり、父親がどうであったとか母親がどうであったという問題の中から、その当事者の症例になる原因を見つけ出すものになってしまっているが、本当は違うことは歴然ではないのか――と、問い質している。

かなり饒舌に語られており、フロイト、ユング、ラカン、ニーチェ、スピノザ、カント、ベルグソン、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、ゲーテ、ルソー、ルター、フーコー、フレイザー、レヴィ=ストロース、ピエール・クラストルその他といった具合に網羅的に語られている。

批判の核になっているのは、どうやっても「パパ、ママ、わたし」の三位一体構図に押し戻してしまう事であり、実際に、その症例が現われている当人が実社会の中で接する原因によって症例が発現していても、原因を社会の中での人間関係に求めるのではなく、家族関係の問題が尾を引いている本人の不適応の問題にされてしまう事だ、と指摘している(と思われる)。正確を期した物言いだと分かり難くなってしまうので、そこを排除して簡略化して述べれば、その者が直面している実世界の方に問題の原因があるのに、なんでもかんでも幼少期の体験、それも「パパ、ママ、わたし」という家族問題の問題へとすり替えられてしまっている――という批判である。

しかも、それは悩ましい事に抑圧される事に適応するので、そのまま、隷属する事が平常と思考するような者と、そうではない者との階層をつくり出してしまっている、という。この箇所は私自身は少し異なる見解を持っているのですが、ドゥルーズ&ガタリは徹底的な無神論者であり、唯物論者であり、ニンゲンを機械論的に取り扱っている。

引用します。

政治哲学の根本的問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒは再発見した)。すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」。どうしても人は「もっと税金を! もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためではなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。(同43頁)

この箇所は、ひょっとしたら現在の自由主義諸国で起こっているポピュリズム的な混乱の真相を突いている可能性がある。引用箇所の後段はファシズムの成功についての言及があり、まさしく、その問題である。

何故なのかというと、隷属的になるように仕向けられているからであり、その問題にエディプス・コンプレックスが関係してしまっているというのが『アンチ・オイディプス』の主要な論旨の一つになっている。

宗教にしても神話にしても、或る種の禁忌を定め、そのようにして秩序を形成している。ある者は自発的に抑制する訳ですが、多くの者は意識的に抑制しているのではなく、無意識レベルで発生する抑圧に晒され、その抑圧を無意識レベルで抱えているが故に隷属的に受け入れてしまっているので、フロイト的な家父長制に従順で、その家父長制を延長していった〈国家〉や〈社会〉に対しても従順である事に疑問を抱かないのである――という主張になっている。

国家や社会に依存する事に抵抗する気力が失せている21世紀とは少し事情が違ってしまっていますが、根本的な部分では通じている。主体的に物事を思考しないように、或る種の文明的な〈去勢〉が現代人には当然のものとして、施されてしまっているという意味合いだ。

ひょっとしたら我々は自ら進んでダマされに行くような習性がある? どうもその問題とも関係しているかも知れない。支配者階級と被支配者階級とであれば、我々は後者に自らを置く事に慣れてしまっているというか、そのような思考枠の中に閉じ込められてしまっているという問題になってくる。

その思考の極めて基礎的な部分に皮肉なことにフロイト及び精神分析学体系がつくりだしてしまったオイディプス的な〈パパ、ママ、わたし〉に還元してしまう三角形があるという。確かに家族ロール(役割)モデルの原型ににあってしまっているのは確かでしょう。しかも、成年になって心身を病んだ際には、精神分析によって「あなたは幼児の頃、✕✕だったのではありませんか?」と幼児期の生育環境に原因を探し出そうとする事が正しい対処法であるという体系になってしまっている――とドゥルーズ&ガタリは批判している。その三角形から抜け出せない限り、禁忌を禁忌として父親(母親)から受け入れるように飼い慣らされるのであり、それらの構図は宗教レベルでは神への忠誠心、社会レベルでは家父長的なリーダーへの忠誠心、家族内では父親への忠誠心をつくりだしている的な。

『アンチ・オイディプス』は完全なる無神論なので、そこでは「神殺し」も「父殺し」も果たすべき理想として、肯定的に論じられている。この部分が問題で、システム的な事を述べれば、あるいは、そうなのかも知れない。しかし、それでも問題を感じない訳にもいかない。というのは、その先が山田太一らが主張していた事柄になってくる。つまり、そうした無神論的な機械論的な主張は、システムの解明という意味では、そうなのだけれども、だからといって、そのように社会を改変してしまうと、個人個人は完全にアトム化してしまい、それまで信じられてきたような年長者を敬う価値観が崩壊したり、あーだこーだ衝突たしたり煩悶しながらも助け合っていく家族像などは、滅びゆく、かつての美しいものになってしまうが、いいのでしょうか?――的な。
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『アンチ・オイディプス』は、フロイトのエディプス・コンプレックスを批判する事に主眼を置いている。今回は核心とも関係が深そうな近親相姦の問題に焦点を絞ってみる――。

男児の場合、母親を独占しようとし、そこには性衝動も関係しているが、そこには父親が存在しているので母親を独占する事は叶わず、これが男児にとっての抑圧になる。この場合の抑圧とは精神分析体系の意味合いの〈抑圧〉を意味しており、男児のケースでは母親を欲したが欲せなかったという体験が無意識下でしこりとなり、それが定着する。母親への性衝動を伴う欲求は心理的に〈去勢〉される。自らの意識で抑制しているのではなく、無意識下であるが、それは「抑圧されている」のように解釈する必要がある。

しかし、そもそも本当に男児は母親に、女児は父親に対して性衝動を伴って欲しているという仮説は本当なのか?――という疑念がある。

(ひょっとしたら単に面倒見のいい乳母を欲しているだけという事はないのか? まぁ、リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論を一定程度でも理解していれば、この辺りの事情は50年以上も昔に記された『アンチ・オイディプス』よりも少し進んだ観点を持って眺めることができそうだ。)

利己的遺伝子論の話は脇に置くとして、近親相姦批判の箇所を引用します。

禁止とは、母と近親相姦すること、父の地位を占めることを禁ずるのである。ところが、ひとは奇妙な推理によって、それは禁止されているがゆえに、まさにそれは欲望されている、と結論するのである。(『アンチ・オイディプス』84頁)

単純明快に述べられているのは、この箇所であった。しかし、この指摘は他の箇所でも【ダブル・バインド】(二重拘束)として繰り返されている。というのは、オイディプス(エディプス・コンプレックス)の理論では、どう足掻いても最初から「近親相姦願望がある」という結論にならざるを得ないというカラクリがある。つまり、近親相姦願望の問題というのは、何かしら実証されるような事柄ではないが、そうでありながら否定する事が予め不可能なままに定説化されている。

オイディプスは神のごとくあり、父は神のごとくである。問題が解決されるのは、私たちが問題と解答を廃棄する場合だけである。(同96頁)

神は死んだのか、死んでいないのか、また父は死んだのか、死んでいないのか、結局それは同じことである。なぜなら、こちらでは生きている神あるいは父の名において、あちらでは死んで内面化された神あるいは父の名において、同じ抑制や同じ抑圧が続くからである。ニーチェはこう言っている。重要なのは、神が死んだという知らせではなくて、この知らせがもろもろの成果をもたらすのに要する時間である、と。(同122頁)

【ダブル・バインド】の問題については先に触れましたが、今度は【神殺し】と【父殺し】の話が展開されている。もしかしたら戸惑う可能性もあるので補足説明すると、フロイトがオイディプス理論で展開させた〈去勢〉という概念、それが「パパ、ママ、わたし」という三位一体方式の三角形になっていて、それは神が人々に禁忌(タブー)を命じた抑圧原理に比定して、そうなっている。

十戒に代表されるような禁忌を神は人々に強いる。エディプス・コンプレックス原理中の父親も、その〈神〉と同じ構造で、「神も父も実は抑圧者である」という訳です。そして、そこに隷属する者の世界が登場するという訳です。この世界は支配する者と支配される者とから形成されている、と。

本当に近親相姦願望を幼児は持っているのか? 生まれ落ちた瞬間、その子はコギト(我思う故に我あり)状態かも知れない。その子を抑圧するのは、フロイトに倣えば「パパ、ママ、わたし」という三角形であり、そこで発生するオイディプス原理である。そこで幼児は無意識に抑圧され、母親もしくは父親と近親相姦関係を築く事を禁忌だと教え込まれる。それがイコールで〈去勢〉の意味になる。その上で、我々は神にかしずくように去勢され、父親にかしずくように去勢され、そういう力の原理によって世界や社会が構築されている――のように導くのが『アンチ・オイディプス』の論法である。しかも無神論の立場と、家父長制に対しての批判になっている。だから「神」も「父」の領域は侵すべからぬ領域となる。しかし、そこを果敢に批判しているのが『アンチ・オイディプス』である。

そのように考えてみると、確かに「ホントに近親相姦なんてものを我々は、たとえ幼児期であったとしても欲しているのか?」という問題になってくる。

おそらく、ユングは直感・直観的にフロイトの矛盾に気づいてしまっていた可能性がある。少し本論から脱線しますが、精神分析に関しては面白い箇所があるので引用しておきます。

家族や愛を問題にする若者のためにはフロイトの方法、社会的適応を問題にする、それほど若くない人びとにはアドラー。そして、〈理想〉を問題とする大人や老人のためにはユング……。(同145頁)

余談ながら、この部分の指摘は、なるほどなぁ…と感じた。昨今の日本ではメンタルケアを掲げる論陣はアドラー推しになっているよな、と内心では感じている。フロイトは否定されたり肯定されたりで、ユングの場合はユングは多方面から否定されがちであるが、その実、ユングこそが最もマトモだったのではないかというのが世評のように感じている。

問題は〈近親相姦〉であった。

アドラーとカートリーが引きだした結論は、以下のようなものだ。「神話の中の近親相姦の関係は、もともとこうした関係が可能であり、どうでもいいことだった世界への欲望あるいは郷愁の表現とみなされ、あるいは社会的規則の転換の構造的機能の表現として、近視やその侵犯を基礎づけるための機能の表現とみなされるのが普通である…いずれの場合にも、神話によって語られ説明されている秩序のまさに出現であるような事態が、既定のこととして認められているのだ。言葉をかえるなら、あたかも、神話が、父、母、息子、姉妹と定義された人物たちを登場させているかのように、ひとは推論しているのだ。ところが、これらの親族の役割は、禁制によって定めれた秩序に属する……。すなわち、近親相姦は実在しないでのある。」(同177頁)

以下の見解が『アンチ・オイディプス』の著者たるドゥルーズ&ガタリの見解である。

近親相姦は運動に似て、そもそも不可能なのだ。それが不可能であるのは、現実界が不可能であるという意味ではない。まったくその反対であり、まさに象徴界が不可能であるという意味である。

しかし、近親相姦が不可能であるということは、いったい何を意味しているのか。自分の姉妹や母と寝ることは、可能ではないのか。近親相姦は禁じられているのだから、可能にちがいない、という古くからの議論をいかにして斥けたらいいのか。しかし問題は別のところにあるのだ。近親相姦という概念が可能であるためには、人物と名前が、つまり息子、姉妹、母、兄弟、父が必要だろう。ところで、近親相姦の行為において、私たちは人物を手に入れることができるが、この人物たちは自分の名前を失うのである。これらの名前は、彼らを性的パートナーにするを禁じる禁制と切り離せないからである。

〜略〜ありえないことを欲望することが、欲望の固有の性質ではないのか。ところが、すくなくともこの場合、こうした陳腐さには真実のかけらもない。禁止から、禁止されるものの本性について結論を引きだすことが、いかに不当なことであるかを思い起こそう。なぜなら、禁止は、それを犯したものの名誉を辱めることによって、すなわち現実に禁止され、あるいは欲望されているものについて、歪曲され置換されたイメージを引きだすことによって作動するからである。まさにこのようにして、抑制は、抑制によって自分の力を伸長させるのであり、抑圧なしに、抑制は欲望を掌握しえないであろう。
(同177〜178頁)

分かったような、分からないような話のような。

この辺りについては利己的遺伝子論や他の学術分野の方が明解な解答を得られそうだ。また、現代人は例外なく病んでいると考えれば、近親相姦の問題などは禁忌にされているから、その禁忌を敢えて侵そうとする者が登場してしまうというのが、ひょっとしたら現代人の変態事情なのかも知れない。
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2月21日と28日にBSテレ東「一柳良雄が問う日本の未来」という番組に前日銀総裁の黒田東彦(くろだ・はるひこ)氏が出演していた。どういう番組編成なのか2週に亘って同じ場面を視聴させられる羽目になりましたが、黒田前日銀総裁は「或る世代については消費支出がガクンと少ない世代があるんですよ」と語り出す。それに続けて「調べてみると、その世代だけ収入も随分と少ないんですよ」と述べた。それは是正すべき格差の問題があると踏み込んだシーンであった。この格差の問題とは平たくいえば「世代間格差」であり、政策によって正規雇用と非正規雇用が生じた事に起因する事は今更、言うまでもない。更に、黒田前総裁は「その世代も間もなく年金を貰う年齢になる訳ですが、その階層の人たちは年金受給額も少なくなる。本来であれば、何かしら手を打つ必要性がある」のように続けていた。第二次安倍政権で「黒田バズーカ」で名を馳せた黒田東彦氏から、そういう言葉が出た事に意外性を感じた。

しかし、それ以前の問題として黒田東彦前総裁は、文藝春秋3月号に掲載されている対談記事の中で「いまは金融も財政も引き締めるべき時です」と語っていた事であった。いわゆる異次元緩和によって日本は日経平均を上昇させる事に成功したが、その反面、膨大な借金を抱え込む事となり、財政を大幅に赤くしてしまった当の張本人がそのように言及している事にも、何やらやり場のない感慨を抱く事になる。まぁ、積極財政は、積極財政のままでは収拾不能になるのは歴然であり、仮にケインズ学派であったとしても、「え? いつまで異次元の財政出動を続けるんですか?」と考えるのは本当は歴然でもある。しかし、現実問題として日本は「責任ある積極財政」を掲げている政権を誕生させてしまったというのが現況だ。

「責任ある積極財政」というフレーズは或る意味では面白い。そのフレーズそのものがパラドックスになっていて、ホントの事を言えば無責任もしくは野放図な積極財政策を意味しているが、マス民衆は、そうしたパラドックスに頓着せず、或る種のイメージ(表象)で物事を認識してしまうものなのだ。情動・感情を切り離して理性的に物事を考えねばらない訳ですが、情動・感情を切り離して物事を認識できないという人は多い。しかも、意外と知識人層の中にも案外、多いというのが実相かも知れない。情動的反応を切り離せない人たちは、何を認識するにも何を判断するにも情動に左右されてしまい、そのレベルに達していないマス大衆ともなるとすべての認識は快不快という二元論にされてしまう。「多数決なんて取ったって、マトモな解決策は得られないのではないですか?」と問われても、そうした思考型の人たちは情動が優先するので「多数決こそが民主主義原理なのです」と訴えたり、「上から目線なのは不愉快です」のように反応してしまう。しかし、それら衆愚論の本質が「本当は我々は大バカ者なんじゃないですか?」という問い掛けである事には思いが及ばない。自分が侮辱されたとか、自分がバカにされたと受け止めてしまうのだ。プライドだけを異常に肥大化させてしまった末期的な人類の姿であると、それらを暗示しながらフランシス・ベーコンは『新アトランティス』を著わした――そのようにピーター・ティールは述べていると説明しても、それを謙虚に受け止めるだけの度量を有していない。これが、どうしようもなく現実であり、我々が存在している世界の真の姿なのだ。

或る意味では「絶望の系譜」のようなものかも知れない。橘玲氏であれば遠慮なく言い放っており、。「バカは自分がバカである事を理解できない。何故ならバカだから」となる。自分が間違っている事は実は謙虚さがないと認識できないのだ。確かに、こうした問題は既に西側諸国の自称「民主主義を支持する人たち」の世界を覆い尽くしてしまっている。単なる多数決にありとあらゆる全ての命運を託すことこそが正しいのである、と本気で信じ、本気で希求している。

これらの一連のプロセスの中で、指針の転倒もしくは転換が起こっている。いつの間にやら「多数決に従う事が唯一の正しさなのである」という価値観に転倒・転換されてしまっている。多数決が間違うことだってあろうし、この多数決を競い合って政治化してしまう事が最適解を導くことの障害になっている事は蔑ろにされてしまう。そういう問題がドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』に目を通していると繰り返し繰り返し出てくる。ある分野に置いて任意に一つの公理系が確立されてしまうと、その公理系だけが唯一の正義化されてしまうので、本来的な議題や目的はヘンテコな方向へ向かう事になってしまう旨の指摘がある。フロイトのオイディプス的な性理論が正しいのだろうという状況が生じると、そこから先は全てが性理論に沿って語られる事になってしまい、その任意の一分野で通用するだけの公理系が全てを支配できるかのような錯覚が発生する。これは錯覚であろうが、大勢の人が同時に錯覚してしまえば、それは錯覚ではなくなってしまう。それがヒトの認知能力もしくは価値観全般についての究極的な答えであるかも知れない。

彼等は未開人たちのシャーマニズムや、前時代的な宗教を時代遅れであると小バカにしながら、自分たちが信仰している拝金教という名の新宗教こそが究極の正解であると信じて疑わない。世界中の人たちが金銭的価値こそを至上の力と信じている限り、この新宗教は破滅するまで継続する事になるのも知れない。しかし、金銭的価値を担保しているものはルールがルールとして機能する事が必要だし、ルールが機能するには信頼関係が重要になってくるが、そういう部分は蔑ろにされてゆく。どんどん、それらの交換プロセスの中が発生してくる〈力〉、その諸々の〈力〉を「全能の神」へ隷従すべきであるという話に変換されてしまう。これが現世だ。もし、どこかに落とし穴があるとすれば、それらを支えている信頼関係が崩壊するという状況になるのでしょう。

人々は自ら喜んで、それら〈力〉に従う。率先して〈力〉に従おうとする。多大な犠牲を払って自分自身や、場合によっては自分の仲間を人身御供として〈力〉に差し出す事も厭わなくなる。

『アンチ・オイディプス』の考察には、35〜40年前に浅田彰を通して広まって「スキゾ」と「パラノ」の話も出てくる。その浅田彰の考察の土台になったものが『アンチ・オイディプス』であったのだなと気づかれた。というのは、このまま、資本主義体系から抜け出せることもなくなれば、人々は極論すればパラノイアとして存続するか、もしくはスキゾイド(スキゾキッズ)になって生きていくかという二択になっていくであろう事が記されている。パラノイアとは神経症気質を意味しており、一方のスキゾイドが周囲との人間関係を極力遮断して生きる分裂症気質を意味している。勘のいい方は既にお気づきでしょう。スキゾとは「オタク」であり「インドア派」を意味しており、パラノとは何事にも神経質な反応を見せ、そういう神経質な人たちが大挙して登場するので社会派集団ヒステリーを起こし、相互監視を強めていくのような世界を招く。このことなどは、或る意味では「的中した予言」の話にもなってくる。予言というか予見であったのだけれども。そして終局に近づけば終局に近づくほど、人類は神経症と分裂症に二分されていくだろうと1969年の時点で語られていた事に気づかされる。

パラノイアは固着してしまうので自分が正しいと信じ込み易く、そこに偏執があっても自分自身では偏執に気づかない。中年以上の男性に多いとされていて、妙にポジティブなので意中の女性から好かれている、好かれていない筈がないという具合に妙な自信を持ってしまっていたりする。まぁ、そういう人じゃないと生き難い社会になってしまっているのかも知れませんが、まぁ、確かにそういう事例も多そうですかねぇ。別に恋愛感情の勘違いだけではないし、中年以上の男性に限定したものでもない。固着してしまい、偏執的になる傾向が現代人にあるという話だ。反省をしなくなったり、傲慢に陥りやすいと言い換える事も可能だ。既に世界はパラノイアが支配的になっていると仮定すると、妙に納得できる部分がある。

他方のスキゾイドは、極端な例を挙げれば「引きこもり」であり、オタク化する。変な話ですが、もう社会に期待するものはないので限定的な空間で生きようとする。それぐらいしか実は選択肢はないのだ。その問題については『アンチ・オイディプス』は資本主義と関連づけて論じている。では、資本主義をなんとかすればいいのかというと、そうでもない。おそらく、文明そのものが初期の段階から生産性を希求しているので資本主義から逃れようはなく、また、資本主義下の文明では個人も社会も欲望、それもリビドーを原動力にしているので、抜け出せるはずがないと50年以上前に記している。
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筒井康隆の原作を吉田大八監督が俳優・長塚京三を主演で映像化して映画「敵」(2025年)を日本映画専門チャンネルにて視聴。色々と話題になっていた作品でしたが確かに楽しめた。モノクロ作品。

温和なフランス文学の第一人者であったという設定の老教授が主人公であるが、その平穏な老後生活は徐々に綻び始める。道端に落ちている犬のフン。その犬のフンを巡って誰彼かまわず当たり散らしている隣人。そんな様子を老教授は冷静に眺めているが徐々におかしな妄想が介入してくる。仕舞いには、敵が攻めてくるという妄想を強めて、妄想と現実の狭間で死ぬ。

また、途中には面白い逸話も仕込まれていた。(老)教授には、当時、お気に入りの教え子(瀧内公美)、つまり、女子大生があった。教授時代、色々と頼みごとをし、付き合わせてしまったからとディナーを一緒にとっていた。その教え子とは教授を引退してからも関係が続いている。数十年も経過している恩師と恩師を慕っている教え子との関係である。しかし、高齢となって独り暮らしをしている主人公は、その夢や妄想の中では、その教え子と性的関係を持っている。また、これも妄想上の存在であるが元妻(黒沢あすか)は、主人公が、その教え子を相手にスケベな妄想をして勃起していた、と指摘する。確かに否定もできない。夢の中では教え子と性交渉をしている。主人公の老教授は「そんな事はない。✕✕君と私の関係は良好な師弟関係であり…」と自覚している。実際にそうなのであるが物語が進展してゆくと、その教え子からも「昔のことですけど、あれはハラスメントでしたよ」と言われ、主人公の老教授は打ちのめされる。

フランス文学なんていう小洒落たものを研究してきた老紳士、その老教授が自らの中に築いていた世界観はガラガラと音を立てて崩壊してゆく。

このクダリはパラノイアの理屈が理解できていれば、凄い秀作であると気づける筈だ。その者の認識とは、そのように形成されているものであり、その虚構が崩壊していくと、ヒトの原動力になっているものはリビドーでしかないという暗いくらい現実が転がっている。非常に知的で温和でフランス文学なんぞを研究してきた紳士、その老後に訪れる悲劇として描いてある。丁度、『アンチ・オイディプス』を読んでいる最中だったので、パラノイアについての記述が多々あり、心の中では「おおっ!」と唸らされた。


日本映画専門チャンネルにて深作欣二監督作品の映画「狼と豚と人間」という古めかしいモノクロ作品を視聴。これは殆んどノーマークの作品であったが、視聴した感想は衝撃だった。

三國連太郎、高倉健、北大路欣也は戦後直後の豚小屋同然のバラックで暮らしている兄弟である。三國連太郎が長男で、次兄が高倉健であり、三男が北大路欣也である。長兄はブタ同然の生活から抜け出すべく、町へと出てヤクザとなり、その地元ヤクザ組織の中でちょっとしたボスにまでのし上がる。次兄もブタ同然の生活から這い上がるべく悪さをするが刑務所へ入る。三男は二人の兄をバカにしながらもバラックから脱出しようとしている。

ムショ帰りの次兄・高倉健は郷里へと舞い戻って、今度は江原慎二演じる男と組んで、地元ヤクザの裏金の強奪計画を実行する。強奪計画には人出が足りないので三男(北大路欣也)の仲間たちを利用する。強奪計画は成功し、三男が二千万円の現金を持って逃亡するが三男は約束したアジトに帰って来ない。「あの野郎、裏切りやがったな」という次兄と三男との骨肉の争いが始まる。次兄(高倉健)の相棒(江原慎二)は、三男と三男の友人たちに容赦がない。拷問してでもカネの在り処を聞き出すのだとして、三男に吐かせる為に三男の友人たちの指を万力で締めあげ、つぶし始める。拷問されてもカネの在り処を吐かない若者たち。

それを尻目にして高倉健演じる次兄は実弟らの事を「世の中のこと知らない世間知らず」と吐き捨てる。「拷問されてもオレたちは仲間との約束を守るのだなんて、甘っちょろい事を抜かしやがって!」というニュアンスである。

映画のコンセプトが明確になる。狼と豚と人間。高倉健が言い放つ。

「この世の中は、食うか食われるかなんだよ!」

豚小屋から抜け出すには食うか食われるのか殺し合いに勝利するしかない、の意だ。次兄と三男とがカネの強奪事件に絡んでいると親分から知らされた長兄(三國連太郎)は、その意を決する。ケジメをつけるにはカネを取り立ててくるしかない。兄弟の絆なんてものは、あってないようなものだ。高倉健と江原慎二が、北大路欣也たちを閉じ込めて拷問しているバラックに、とうとう三國連太郎演じる男が大勢の子分を引き連れてやってくる。

長兄(三國連太郎)はバラックの山の上から、弟たちへ呼び掛ける。

「おい、俺たちは実の兄弟じゃねぇか。悪い事は言わない。盗んだ金を返せ。応じなければ、お前たちを殺さねばならない」

豚小屋に住んでいる不良が敵うような相手ではない。大勢が拳銃を構えている。その状況下になって弟たちは意外な返答をしてみせる。

「カネの在り処が知りたきゃ、こっちの出す条件を飲めっ! 条件を飲めば教えてやるっ!」

「どんな条件だ?」

「アニキが俺たちの仲間になれ。そこに引き連れている子分たちを裏切って、アニキ一人が、こっちに来いっ! そうしたらカネは山分けにしてやるっ!」

この展開には驚いた。それまで拷問する側と拷問される側に分断されていた高倉健と北大路欣也が土壇場になって兄弟の絆を取り戻すかのような事を言い出すのだ。兄ちゃんも俺たちと一緒になってカネを持ってズラかろう――と提案しているのだ。しかし、これは深作作品だ。兄弟仲良く終わるという大団円にはならない。

この「狼と豚と人間」は実は名作の部類だなと感じた。三國連太郎&高倉健&北大路欣也というキャストの妙もあるが、全体的に映像が安定していて視やすく、それでいて演出やアングルに冴えも感じた。必要以上に細工をしているのではなく、いい感じの細工が施されていて、回転するレコード盤の映像がBGMのフェードアウトに呼応して画面を薄くなってゆき、モダンなバーの入口の映像に切り替わる等、ホントにニクい演出が為されていた。

この兄弟であっても殺し合いをしてしまうという粗筋、また、オオカミなってブタを食い殺さない限りは、そのブタ小屋からは脱出できないという物語の背景というのが実は『アンチ・オイディプス』的であった。資本主義世界に於いては、一つの公理系としての資本主義原理が鉄則として貫徹しており、その公理系の下に存在している限り、その公理系からは逃れることができない。その公理系から逃げ出そうとするには脱領土化をして再領土化をするが必要になるが、それを実行するのは不可能に近い。何故なら資本主義さえもが覆しようのないものになっているから。(【脱領土化】や【再領土化】というワードは観念上のもので、既存の〈領土〉を心理的に抜け出して、心理上で〈領土〉を再編成しなければならないのような意。)

そして、この世界は行き詰まれば行き詰まるほど、両極化し、神経症(パラノイア)になるか分裂症になるしか選択肢がなくなってゆく。

「この世の中は食うか食われるかなんじゃ!」とは「オオカミになるかブタになるか」の二択問題に集約される。これは表象として現れる一つの極である。それを否定すれば「いつまでもブタ小屋同然のバラック住まいから抜け出せない」という問題に押し戻されてしまう。ブタ小屋の生活から這い上がりたいのであれば、オオカミになるしかない。それらは狂気であるが、それら狂気は「心の病」に変形され、狂気は科学や芸術をも併呑してゆく。そして既に令和は末期であろうと思われる。

映画俳優の渡辺謙さんがワールド・ベースボール・クラシックのゲスト解説に呼ばれて、選手を「君付け」で呼んでいた事に「馴れ馴れしい感じで違和感を感じた」や「上から目線で違和感があった」、「✕✕選手と呼ぶべき」のような具合のケチがつき、そんな些細なことでもSNS上の出来事がインターネット上のトピックスになってしまう時代になっているのだ。これなどはホントに社会全体がパラノイア化してしまっているという証拠だよなぁ…。どうでもいいよ。馴れ馴れしいと感じる事も想像できるし、上から目線だと感じる人がいるらしい事も理解できる。それでも、どうでもいい。だって、他人の事じゃん。不愉快だと感じた選手本人が「僕を君付けで呼ぶのは勘弁して下さいませんか」というのは分かる。でも第三者がそういう事を言い出すのはおかしいじゃん。その人の中で不快に感じたとしても、そんなことで他人を責める方向へ持っていくのは、人間として基本的な部分からしておかしい気がするよ。他者に意見する、意見するというよりも注意するには相応のハードルを設けて然るべきである訳でさ。何もかもが自分の思うようにならないと「不愉快だった」と表明するのは物凄く人としての基本的な振る舞いに係る事柄であろうと思う。ごくごく親しい間柄の人間関係の中で、そういう評をする事は有り得るが、インターネット上のトピックスに上げられてしまうというのは社会全体が相互監視社会になっている証拠だろうなぁ…と思う。

「先生、昨日の下校時に✕✕君たちがゲームセンターで寄り道をしていました」(どうかお仕置きをしてやって下さい)

と、告げ口しているようなものだ。

昭和50年代までは、「あの人はおしゃべりだから、こういう複雑な話は言わないでおこう」(内緒にしておこう)のような感覚が実際に存在していたと思う。内輪で済ませるべき事柄の話を、わざわざ町内の人たちに広めてしまう人の事を「あの人はおしゃべりだから敬遠しとこう」となり、陰では「放送屋」というニックネームなどをつけていたのが日本人の平均的な感覚だったと思う。しかし、現在ともなると、その人がおしゃべりだから敬遠されているのに、その部分は切り捨てられてしまう。また、その人は「私は悪くないのに仲間ハズレにされた。不当に除け者扱いされました」のように被害者意識を拗らせて騒ぎ出して訴える。「そんなもん、知らんがな」と第三者が捨て置けばいいのに、残念な正義論しか持っていないオトナたちが厚顔無恥にもズケズケと介入してきて、そうした被害者意識を拗らせたかのような訴えは〈肯定〉されてしまう。そうして社会が有していた本来的な人間関係の自然な結束力はズタズタに切り裂かれ、ヒステリックなパラノイア人たちがつくり出す恣意的な正義が、「世論」という名の空気の主導権を掌握してしまった――というのが実際の風潮の流れであったような気がするかな。

つまり、最初から無理筋で出来ているのが現代社会なのだ。

エプスタイン文書の中に幼児性愛の痕跡みたいなものがあるのもゲンナリですが、国内でも現役の歯科医が少女に目隠しをした状態で舌を出すように指示して自らの陰茎を舐めさせ、その様子をスマホで動画撮影していた――であるとか、もうホントにリビドーをコントールできない狂人がそこら中に蔓延している世界になっているのかもね。空気に呑み込まれて集団で神経症に感染になるか、そんなパラノイア人である彼等と距離をとって分裂症的な引きこもりになるかの二択になってしまうという訳だ。もう世も末だと考えざるを得なくなってきているのであって。
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年甲斐もなくジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著・宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)に挑戦して、あと30〜40頁で読み終える感じ。ネット上の書評に「大学生の頃に読もうとしたが高くて諦めたのを思い出して、あれから30年が経過して挑戦する気になりました」という具合のカキコミがあったので、「へぇ。そんなものか。オレも挑戦してみようかな」と軽い気持ちで手を出してしまった。

二段組で400頁超、文庫本だと上下巻なので結構なボリュームでしたが、終盤まで読んでみて、これは本格的に絶望の系譜だなと感じる事になった。こう言っていても、なんだかんだいって眠れなくなることなどはないタイプの人間なのですが『アンチ・オイディプス』は著者に賛同する見解ではなくとも、「ああ、それが世界の実相であったか…」という部分には思いは到ってしまい、この数日、寝つきが悪くなった。結局、世界とか人間といったものは絶望に帰結するものだったのだなぁ…と思うと本格的な虚無感に襲われる。

長塚京三主演の映画「敵」については既に触れた。究極的には人の人生とはアレだ。殆んどは当事者の思い込みによって形成されている虚構だ。本人は本人なりに一生懸命に人生を歩み、その本人の認識に基づいて世界を形成している。自分の人生は素晴らしくもなかったが最悪でもなかっただろうのように認識し、なんとなく自己を自己として維持している。しかし、それが虚構のようなものである事に深刻なレベルで気づいてしまえば、冷静では居られなくなる。究極的にはリビドーという名の衝動に突き動かされていただけだったのではないかと気づいてしまったら、確かにヒトは重篤な狂気に到って狂い死にしてしまうものかも知れない。

しかも逃げ場はない。この世界そのものが生産と再生産を繰り返す流れを有しており、それに沿って資本主義が根付いてしまっており、資本主義原理に都合のいいようにしか世界は変化しない。そして目的や目標のようなものも、その中で多数派にとって都合のいいように形成されてしまうので服従せずとも限りなく服従に近いカタチでしか存在していられない。しかも資本主義が進行すれば進行するほど、人々は無理を強いられているから抑圧を受け続ける。リビドーはあれども、自らのリビドーを抑圧しながら個々人は存在している。欲すれど叶わなかった欲望は、その者の無意識レベルの中に固着して鬱積してゆく。そして、その固着した鬱積が人々の心理を分裂症にしたり、神経症にしたりする。そしてドゥルーズ&ガタリに拠れば、多くの現代人は文明社会による抑圧によって神経症、つまり、パラノイアになっているが、このパラノイアは基本的には癒えることはなく、解消されることもないのだという。つまり、パラノイアは不治の病であり、現代人とは基本的にパラノイア人なのだ。

些細な事に嘆き、苦しみながら生きる。それを乗り越えるには病的な強い自己肯定感が必要になる。本当に誇るべき自己肯定感を備えているような人物であれば、実体と自己肯定感との均衡もとれるのでしょうけど8〜9割方は、そうではない。いや、もしかしたら99%の人間は負け組であるような気さえする。資本主義原理によって形成されている社会そのものが、そのような仕組みになってしまっているのだ。そんな世界では、ある程度の自惚れがなければ均衡を保てず、多くの者は誇大妄想とは言わずとも半ば自分を盛って自己認識せざるを得なくなる。どうでもいいような些細な事にも腹を立てて他罰しようとする他罰感情は、20年もしくは25年前ほどから急激に日本社会に蔓延した何かでしたが、おそらく無縁ではない。どんどん資本主義が煮詰まって来ていて、個々人への抑圧が強まってきた中で人々は鬱憤を蓄積し、無自覚なままに他人を攻撃して鬱憤を晴らすという人たちが増加したのでしょう。本当は他罰感情の露顕であるが、パラノイア人は気づかない。気づいてたまるかと構える人たちなのだ。

では、どうなるのかというと、彼らは自らの他罰感情を「正義」に置き換えてしまう。だから、Aさん自身には全くモラルがないのに、そんなAさんはやたらと他人のモラル批判には厳しいのようなシーンを目撃させられることになる。いっそ、ド正論パンチをブチかましてやりたいという衝動も起こるかも知れませんが、そんな事をしても意味はない。その場合のAさん本人が描くAさんの自己像では「自分はモラリスト」なのだ。そういう虚構の世界を人々は生きている。各自がそんな塩梅なのだ。

他人の気持ちなんて理解できっこない。分かったような気になる事は可能であり、それが同情とか共感である訳ですが、それでも他者の気持ちと同化できる訳がない。何故なら個人個人は異なる自己像を持っており、育った環境も違えば、そもそもからして経験や知見にも大きな差異を抱えている。

「あんたなんかに分かりっこないっ!」

「勿論、わかりっこない。わかってもらおうとなんて思っているのが悪いっ!」

そういう悪罵に悪罵で応じるようになったのが、比較的近年であり、2020年代の現代人だ。


ヒストリーチャンネルやディスカバリーチャンネルでは、気が付けば宇宙について解説する番組が流れている。ある学者は、手にした皿を落下させて皿を割って「秩序が崩壊しました」と説明する。皿の状態の時には量子レベルではしっかりとした秩序が保たれていたが、割れた皿は無秩序状態であるという説明であった。それがビッグバン仮設のはじまりだという訳です。別の学者は、ビッグバンに始まって広大な宇宙に飛び散った塵状の量子が永い永い年月をかけて引力や磁力といったものの力を受けながら塵やガスが塊になって整列をし始める。宇宙に存在している4つの力が作用して、新たな秩序を形成しはじめる。太陽系なら太陽系のように、「そこにCOSMOSが形成されるのです」という具合に説明していた。カオスがコスモスになった。この話も秩序状態と無秩序状態の話だ。一つの秩序体系が崩壊して無秩序状態になり、また、(長い年月をかけて)別の秩序体系が形成される。思えば、宇宙ダルマ(宇宙の法)も生産と再生産の法則性を持っている。

人類文明のはじまりには近親相姦禁忌(インセストタブー)があっただろうと考えるられるという。レヴィ=ストロースら人類学者らの発見によるところが大きいものの、『アンチ・オイディプス』もその系統に言及している。というか、フロイトが「エディプス・コンプレックス」という概念を提唱してしまったが、既に、そこに近親相姦禁忌が刷り込まれているという。しかし、この問題、よくよく考えてみると文明を起こした祖先は「近親相姦を当たり前にしていたのではないのか?」という問題になってくる。ドゥルーズ&ガタリは神話の検証は大嫌いという感じですが、ギリシャ神話でもエジプト神話でも解釈してゆくと支配者階級は近親相姦を当たり前のようにしていた節がある。勿論、エディプスとはオイディプスであり、このオイディプス王もギリシャ神話の逸話であり、実の父を殺して実の母と性交してしまった王の話である。といっても、これは難題だ。近親相姦だって物理的には可能であろうが、少なくとも推奨されるような事柄ではないというのが実際に我々の常識であり、人類学がこれを発見したというのは未開人部族などでも近親相姦は多くの場合、タブーなのだ。そもそも、この【タブー】という単語そのものがボルネオ諸島か何かの現地語だ。

中沢新一や柄谷行人は当然にモースの『贈与論』を重要視する。おそらく太古より、女は物々交換する為の特別の道具であり、贈与するものであっただろうという訳です。物々交換の発展形として政略結婚のような概念が芽生えた。酋長の娘が隣の部落の酋長に嫁ぐ的な。しかし、何故かドゥルーズ&ガタリは『贈与論』は軽んじる態度である。私自身も贈与論が正しいような気がしますかね。そうやって縁戚関係を増やし、仲間を増やし、氏族が形成されていったと仮定すると分かり易い。「政略結婚」などというと因習めいていて「古めかしい!」と眉を顰める一時期がありましたが、年月が経過してみると当事者同士の自由恋愛なんて謳っている方が「古めかしい!」になってきている。一般論で言えば、女性は男性に年収や資産を求め、男性は女性に年齢と容姿を求めている。なんて即物的な価値観なんだろうとも思うが、それが現実だ。しかし、『アンチ・オイディプス』は1972年が初刊なので思潮的には「ありとあらゆる抑圧は不要ではないのか」ぐらいの勢いと、そうしたフラット化を希求するイデオロギーを秘めている。少なくとも私には、そのように読めた。

インセストタブーの話に戻ると、元々は近親相姦をしていた支配者階級があったが、支配者階級でも近親相姦は良い結果に繋がらないようだと気づき、世界各地で自然的に生じた原初的なタブーであったのかも知れない。また、フロイトのエディプス・コンプレックスになると、母親と性交渉を持つ事が禁忌とされるのと並行して父殺しもタブーとなる。そこに『アンチ・オイディプス』は批判を加えている。フロイトの唱えたエディプス・コンプレックスこそが、母親との近親性交をタブーとし、同時に父親殺しをもタブーにしてしまっているが――と続く訳です。しかし、そこを引っくり返してしまったら、どうなるものか分かったもんじゃない。

既に幼児教育では「叱らない子育て」が日本では厚労省の策謀によって完全に定着していますが、幼少期に抑圧を受けないで育った人間が将来的にどのようになるのかという問題については、結構、ビミョウな気がする。理不尽な状況に対しての耐性、こらえ性、我慢強さ、辛抱強さのような部分には影響してくるかも知れないし、実社会には社会的抑圧が実際にあるのだから、それへの耐性が脆弱になる可能性だって考えられる。直近の統計でも、何故か若年世代の自殺が増加しているんじゃなかったかな。


最早、現代社会というのは実質的には地獄なのではないだろうか? 8日付の朝日新聞の教育面(20面)には明治大学の堀口悦子准教授のゼミに在籍する2人の4年生が「性的同意」についてのアンケート調査を実施したという記事があった。摘まみ食い的に引用します。

2人は性的同意が「身近で大切なこと」だと感じる一方、「気軽に話せる話題になっていない」とも感じた。他の学生と語る機会は、ほとんどなかったからだ。

話すハードルを下げようと、性的同意を周知するパンフレットの作成を計画、作成にあたり、学生の意識を知ろうと25年6〜7月、同大学生らのアンケートを実施した。

計154件の回答があった。性的同意を「知っている」は86.1%。「必要か」と聞くと、「必要ではない場合もある」が35.2%で、理由に「雰囲気がある」「カップルならなくてもよい」などが挙げられた。性的な話題の話しづらさを「感じる」は63.5%。理由に「恥ずかしい」が多い一方、「タブーの風潮がある」「教育でも忌避されている」もあった。

見えてきたのは、性的同意を実践できていないこと、性に後ろ向きな印象があることだ。


まぁ、もう法律で不同意性交罪というものが出来てしまっている。できることなら「日本の不同意性交罪に該当するものが他の国にあるのか?」とAIに尋ねてみる事をオススメする。

おそらく女性に対しての社会的な抑圧を排除して女性を守ろうとして、不同意性交罪のようなものを考え出したのでしょう。しかし、実際問題として性交渉に及ぶ前に「性的同意」の確約をとらねばならないというルールってのは迷走だなと思う。また、現実問題として無粋だし、このようなルールを設定してしまうあたりにパラノイア的な迷走を感じる。異論もあるでしょうけど、実は数字に如実に表れている気がする。

また、それ以上に重要なのが『アンチ・オイディプス』的な観点だ。「タブーな風潮」と「恥ずかしい」が挙げられている。当然といえば当然だ。おそらく、この文明世界は羞恥心によって行動をコントールしている。性行為を秘め事とし、恥ずかしいか恥ずかしくないかという羞恥心によって個々人を抑圧する事で秩序を秩序たらしめている。もし仮に「恥ずかしいから」と性問題を避けてしまっていたら、その者は大きな損失を被る。映画「ベロニカは死ぬことにした」では、後半に自殺願望のある真木よう子演じる主人公が男性の前で思い切ってハダカになってオナニーをしてみせるというシーンがある。ドキリとするかも知れませんが当たり前といえば当たり前であり、リビドーは女性にもあるという事は今更、隠しても仕方のない事でもある。むしろ、欲していながら満たされなかった場合に、その欲求不満が固着して蓄積すること、心の中のシコリになってしまうという部分こそが重要なのだ。精神的不調は、そういう部分にあるという。しかし、一方で社会生活を送る中では羞恥心を維持せねばならないのだから、或る意味では、そこで現代人はダブルバインド(板挟み)に遭っているのだ。男性の側がガツガツしていてくれた方が、好都合だったという部分も深部にはあるのかも知れない。昨今ともなると男性は草食化していると思われるので、そういうナイーブな問題がある筈なのだ。ああ、映画『存在の耐えられない軽さ』とか、ホントは色々とある筈なのだ。

現在の病んだ文明の中に生息している現代人は、例外なく病んでいると考えるべきなのだ。

男性は自分が女性を選んでいるつもりになっているが、実は逆である。どうもヒトザルの場合はメスがオスを選んでいると考えられる。近年、「非モテ」という言葉が登場しましたが、この「非モテ」に分類される人たちは、おそらく実質的な意味合いで、生殖市場からもセックス市場からも締め出されている可能性がある。モテ要素がなければ、当然にそうなる。しかし、そんな彼らにもリビドーはある。そしてリビドーは諦めさせる都度、それは固着してシコリとなってその者の心の中に残る。きれいに消える事はない。

その先については『アンチ・オイディプス』からの引用で記す事とします。

私たちは、精神分析が神経症を治療すると主張することを何ら考慮する必要はない。精神分析にとって治療するということは、無限の対話や無限の諦め、また、去勢による欲望の獲得を意味するからである……。そしてまた、患者が独身、不能、オナニーでくたばるよりも、むしろ患者自身が自分の子孫に病気を分散し移すことができるような条件を確立することであるからである。そのうえ、繰り返すが、治療できない唯一のものとは神経症であるということが、おそらくはいつか明らかになるだろう(だから精神分析には終わりがないのだ)。(『アンチ・オイディプス』381頁)

この引用箇所などはホントは反出生主義にも対応していると思う。既に世界は煮詰まってしまっており、グダグダだ。その世界に生きている者は、絶えず自らのリビドーと向き合いながら生活している。そして男女ともなのかも知れませんが実は非モテは常に強い抑圧に晒されながら生きていると考えられるのだ。欲しては諦めさせられる。その繰り返しなのだ。その繰り返しは生きている限り無限に継続する可能性がある。欲しては諦めさせられるという無限回廊を彷徨う。そんな世界では超ド級の変態野郎が出現してしまうというのも当たり前なのかも知れない。確かに絶望的な世界になっている可能性がある。可能性があるというよりも、その可能性が高い。

――俳優の原田芳雄が「ブルースで死にな」というカッコいい曲を歌っている。いた。クセになる歌声だ。もう究極的にはそういう事だ。もし非モテだ非モテだと深刻に悩んでいる友人がいたら、その友人を勇気づける為に言ってやれ。できることなら原田芳雄のような野太い声でブルース調で唸るように唄ってやれ。

裏腹な〜 人生〜

裏腹な〜 生き様〜

肌をさらすなら、それなりに

オナニーで 死になァァァ〜


ってね。変な性犯罪に走るよりも、よっぽど人間的だ。
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ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著・宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)を読了。2本の「訳者あとがき」まで目を通して納得できましたが、『アンチ・オイディプス』は猛批判を浴びた書籍であるという。ドゥルーズの生誕百年を記念して改めて発刊されたというものであった。

読んでいる途中に気付きましたが「神殺し」に「父殺し」、そして無神論であり、精神分析学には実は意味がない、芸術も資本主義下では資本主義の影響を受けた芸術しか生み出せないという主旨の事柄まで述べられている。しかし、饒舌・雄弁であり、網羅的だ。「訳者あとがき」に倣えば、無意識論であり、欲望論であり、精神病論であり、身体論であり、家族論であり、国家論であり、世界史論であり、資本論であり、貨幣論であり、記号論であり、芸術論であり、権力論であるという。まぁ、凄まじいレベルの知的裁断である事は否定しようがない。

ニーチェの系統であろうなという印象も強いのですが、これは最終的には「世界は虚無である」に陥りそうにも感じた。だから多くの者は抵抗を感じる筈だ。しかし、「世界は虚無である」という結論こそが大正解の可能性が高いのだけれども。また、「訳者あとがき」によれば、『アンチ・オイディプス』は左翼にしてはアナーキー過ぎて取り扱いに困り、近年では右翼の枠で取り扱われているという。兎に角、扱いの難しい内容だ。


14日に放送のあったNHK総合「未解決事件」は半世紀以上も昔に週刊誌やワイドショウを賑わせた「赤ちゃん取り違え事件」を題材とし、「赤ちゃん取り違えの深層」と銘打たれていた。ベビーブームで急激に病院での出産が増え、赤ちゃん取り違えが多発していた。しかも衝撃的であったのは「赤ちゃん取り違え事件」は表面化しているのは氷山の一角に過ぎず、潜在的にはかなり多く起こっていたというのが深層だという。となると、最早、取り違えられて育った者は既に60代になっており、その年齢になってから「え? オレは父ちゃんと母ちゃんのホントの子じゃなかったの?」と知る事になるかも知れないというから大問題だ。血縁のある親子関係が大事なのか、それとも血縁はなくとも実際に親子関係を築いていた親子が大事なのかというのは大問題でもある。

番組では貴重な事例を紹介していた。6歳まで我が子だと思って育てていた娘に取り違えがあった事が発覚。病院に連絡すると実際に取り違えが判明。親たちは話し合いを持ち悩みに悩んだ末に、血縁関係を重視して互いに娘を交換する事になったという。こういう週刊誌記事があったのをなんとなく記憶しているし、テレビドラマがあった事も記憶している。「生みの親」か「育ての親」かというテーマは昭和50年前後には、しばしば話題になったテーマであった。しかし、実際に取り違え事件に遭った親と娘がテレビカメラの中で50年以上も昔の話を回想しながら語る映像となると、また、生々しいものとなる。先方へ送り出そうにも6歳の娘は拒絶して母親にしがみついたといい、また、実の子だとして迎え入れても最初は「知らない家に放り込まれたような感じ」で何もしゃべれずに、居間でずっと体育座りをしていたという。そのケースでは、その母親と実の娘、更には6歳まで育てた娘とが一緒に収まっているスナップ写真があり、ああ、年月が良好に問題を解決したのだなぁ…と感じ取ることになった。

何故、このテーマに執心したのかというと、しばしば昔は「お前は本当はウチの子じゃないんだよ」のように言い聞かされたり、或いは「お父さんとお母さんが離婚したら、どっちに引き取られたい?」のように尋ねられたりしたものであった。何度も何度も、そんな事があったかな。別に私の家の家庭環境が劣悪だったと劣悪自慢をしたいのではなく、私ぐらいの年代までは、どこの家庭でも、そのような子育て環境であった。押し入れに閉じ込められる、物置に閉じ込められる、柱に縛りつけられる、修辞法ではなく実際にタバコの火で「お灸を据えられる」なんてのは、近所の子供たちや同世代の間では半ば常識だったのだ。これを現在の感覚で言うと「児童虐待」だなんだと大騒ぎになってしまうのだ。実際問題、私の場合は「お前は踏み切りに包丁と一緒に捨てられていた子だった」と言い聞かされていた。憐れな捨て子だったのをお父さんとお母さんが拾って育ててやっているのだから親の言う事を聞きなさい、という訳だ。これなどは実は完全に『アンチ・オイディプス』の内容である。何度も言うようだけれども、これは私が特殊な環境に育ったのではなく、総じて、そういう子育てが半世紀前までは実際に行なわれていたのが事実なんですよ、という指摘だ。考えるに、きっと、子供をしつける為の知恵だったのでしょう。親が子に「いつまでも泣いてると、泣き虫買い(人買い)がやってくるよ」等と平然と言っていたのが戦前・戦中の日本だったのだ。

何故、これが『アンチ・オイディプス』と関係しているのかというと、ドゥルーズ&ガタリはフロイトのオイディプス論は「パパ、ママ、わたし」という三位一体の三角形を大前提にしていて、それが家族モデルとなり、家父長制を既定し、更には、そこで発生する近親相姦タブーが、宗教的な従属、或いは国家に対しての従属、更には資本主義に対して従属する態度に繋がっていると猛批判する。『アンチ・オイディプス』の中核的な内容は、その部分であった。

しかし、この問題には直ぐに人々は反応できるでしょう。もし、親子関係や家族関係といったごくごく基本的な事柄を否定し始めてしまったら、そもそも家族関係は愚か、ありとあらゆる人間関係が成立せず、完全なるアナーキズム状態になってしまう可能性がある。神は存在しておらず、また、親を親と思わずとして、その者がどのような人間に成長していくのかと考えると怖ろしい話でもある。しかし、現実問題として現在の日本では「叱らない子育て」が法律によって規定化されており、実際問題としては親子は友達関係に近いフラットな関係となり、教師と児童・生徒との師弟関係にしてもフラットか、もしかしたら接待役の教師と接待される側の児童・生徒という関係性になってしまっている可能性だってある。

何が言いたいのかというと、半ば『アンチ・オイディプス』が示していたような方向性になってしまっているという事であろうなと思う。勿論、これはジェンダー問題全般にも関係してくる。しかし、そこまでして秩序体系という秩序体系を破壊してしまう必要性が、そもそも在るのかという話になってきてしまうのだ。

また、破壊してしまえば人間関係は複雑さを増してしまう。そして、そんな中で唯一残るものが階級制であり、結局は上級国民か下級国民かになってしまう。能力至上主義(メリトクラシー)を徹底し、「機会の平等」を実現する事で「平等だ」とリベラル体系は謳ってきたが、そもそも、それは本当に人類が理想としてきた平等なのかは非常に怪しい。どう考えても究極的にはカネ持ちと、そのカネ持ちに重宝がられる能吏の側の幸福を実現する社会体制であり、多くの者、これはパーセンテージにしてしまえば8割とか9割になるものと推測できますが、殆んどの者は搾取される者となる。「同じ搾取される側の者でも、オレはアイツよりはマシだろう」のように考えるので、なんとなく人々は労働奴隷として生きる自分に相応の満足をする事になる。しかし、冷静に考えると、この資本主義体系は常に支配者の側は支配者であるというだけで被支配者から搾取が可能になっている、それは当然の事なのであるという価値体系の固定化と関係している――となる。

敢えて擁護すれば『アンチ・オイディプス』の破壊性は、そういう部分に向いていると思われる。余りにもアナーキー過ぎて左翼の範疇に収まりきらない理由とは、こういう部分だ。しかも殆んど虚無だ。何故って、神も宗教も親や家族さえも信じない状態とは、信じるものが皆無であり、そうなると虚無になってしまうから――。


インセストタブーとは近親相姦禁忌を意味している。おそらく近親相姦は物理的には可能だ。「敢えて、その根源的なタブーを侵す」という性的逸脱も有り得るかも知れない。オイディプス王の場合は、自分が禁忌を侵すと指摘されてしまったので放浪の旅に出たが、その旅の途中で自分の父親を自分の父親だと気づかずに殺害してしまう。更に自らが王となるにあたっては先代の王の妃を自らの妃にし、姦淫する。オイディプス王は知らずして自らの実母と性的関係を持つが、しかし、その時点では自分の母親だと知らない。後に事実を知る。実父を殺し、実母を姦淫した自分に嫌気が指して自らの両眼をえぐり出して放浪の旅に出る。(その後、スフィンクスを退治する。)フロイトが、これをエディプス・コンプレックス(オイディプス・コンプレックス)と命名した事にも噛みついている。おそらく、オイディプスに関わる逸話は創作であり、信じるに値しない神話の類いである――と。フロイトは家父長制及び、その家族関係の中の家父長制が雛型となって、抵抗する意欲を失った去勢された世界を築くのに一役も二役も買ってしまっているではないか――と。

芸術という芸術にしても、そして精神分析及び精神分析学も似たような構造を持っており、その体系からは、その体系に則したものしか産出されない――と。

まぁ、きっと、そのあたりが文明の発祥と関係しているのでしょう。禁忌を受け容れるか受け容れないかというのが現生人類を現生人類ならしめたのかも知れない。もし、禁忌を受け容れていなかったなら、人類は一年中欲情しっぱなしのハダカのサルであったような気がする。

「暴論だよな」と切り捨てたくなるものの、「記号論」や「シニフィアンとシニフィエ」等の精緻な分析が実際に為されている。ジャック・ラカンにも関係してきますが、単なる表象と、その表象に込められた意味がある。我々は生真面目だから「きっと意味があるに違いない」と捉え、〈意味〉を言語(ロゴス)として解釈しようとする。しかし、実は、そんなに〈意味〉には意義や価値はない。その者が解釈したいように解釈してしまうものなのだ。

「人生にはどんな意味があるのか?」や「私には目的がある」や「私には目標がある」といった問題は、すべて虚無だ。ホントは何もない。生きている意味なんてものもない。生きているから生きているのであり、存在しているから存在しているだけで、それ以上のものはない。

とはいえ、実際に社会と呼ばれる何かの中で人間関係を構築しながら生存している我々は、何かに頼ったり、何かに依存しなければ生きていけない。生きるというのは究極的には自己保存本能であり、消去法的に死ねないから生きているようなものかも知れない。そういう世界で生きていくには足掛かりになるようなものが必要になるのではないか。おそらく現代人にとって、その重要な足掛かりになっているのは任意の単位でもある「家族」なのでしょう。この家族を分解してアトム化してしまうと、おそらく無味乾燥とした虚無の荒野しかないかも知れない。

『アンチ・オイディプス』の中にも「世界は砂漠化していく」という指摘がありましたが、つまり、現代人とは砂漠を行くラクダだ。荒野よりも砂漠という表現の方がニーチェ的だ。宮本輝の原作をテレビドラマ化した「青が散る」の中で挿入歌として「♪ 大都会という名の砂漠に人の駱駝が生きていた」と唄った大塚ガリバーの「人の駱駝」(作曲は長渕剛!)は、このニーチェの砂漠化の話を意味していたのでしょう。宮本輝と秋元康の作詞になっていますが、まぁ、ニーチェを引用したのは宮本輝の方でしょうねぇ。

そして『アンチ・オイディプス』に倣えば、我々は単なる欲望する機械でしかなく、この世界も社会も欲望する機会でしかない。「希望」なんてものは、そもそも我々が勝手に創り出してしまっている幻影に過ぎない。
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Eテレ「こころの時代」で3〜4週ほど前の放送でヴィクトール・フランクルの特集が放送されていた。このヴィクトール・フランクルとは『夜と霧』のフランクルであり、つまり、ユダヤ人収容所に収容されていた経験を持つ精神科医であった。

フランクルは1972年に来日し、国学院大学で講演をしたという。その頃、フランクルが特に主張していたのは、次のような事柄であった。

ドイツ、スイス、オーストリアでは20%の人が「生きる意味を見い出せない。空虚である」と回答し、これが当時はベトナム戦争問題が影響したこともあり、アメリカともなると実に60%の人が「生きる意味を見い出せない。空虚である」と回答したのだという。この傾向をフランクルは豊かな生活を実現しても現代人は〈意味の喪失〉に苦しんでいると解釈した。現代人を覆い尽くしている空虚感は、物質的な豊かさでは満たされぬ何かである――と。

その物質的に恵まれた環境に生活していたとしても現代人を覆ってしまう空虚感とは何ぞや、それは「意味の喪失」にあるという訳です。しかし、同じ頃、奇しくも1972年が『アンチ・オイディプス』がフランスで発刊された年になりますが、『アンチ・オイディプス』になると、そもそも人生に意味なんてものは殆んどないであろうという立場である。意味を探し、意味づけて理解しようとするのがヒトのサガである訳ですが、実際問題としては違い、単に意味を欲しているだけではないのか――となる。これはラカンが本家なのか、スラヴォイ・ジジェクにもみられる指摘で、その辺りについてはシニフィアンとシニフィエの差異を考えれば、そうなる。

更に『アンチ・オイディプス』が過激なのは、精神分析学に存在意義があるのだろうかという部分にまで言及してしまっている事だ。これも神経症の原理を理解できていれば自明だ。神経症は原則的には治らない。満たされなかった欲望は、その者の心の中に固着してしまうものだと定義づけられており、おそらく、辞典類で【神経症】を引けば実際に、そう記してあることに気づける筈だ。では、確かに何故、心理学や精神医学は、現在のように拡大してしまっているのか――という問題にもなってくる。ある仏教学者は「仏教が人々を幸福に出来ないのであれば、仏教には存在意義はない」と語って厳しく批判していた。それに比べると、確かにサイコな分野というのは非常に曖昧な領域だ。

昨今ともなるとAIがカウンセリングをしてくれるという。しかし、どういうプログラミングになっているのかというと、基本的には相談者の御機嫌取りをするようなプログラミングになっているという。その為、自殺願望のある者、最近はそれっぽい雰囲気を出す為なのか「自殺願望」と言わず、「希死念慮」と呼ぶようですが、自殺願望のある者のカウンセリングをするAIは実際には相談者にノーと言わず、共感者であり続けようとするという新聞記事を目にした記憶がある。つまり、これは裏を返すと、カウンセリングとは相談者に共感することであり、ただただ相談者の癒えることのない症候に延々と共感するふりをしてみせて付き添っているだけ――という意味でもある。まぁ、こういう現実を突きつけてしまうのは残酷なのだけれども、或る意味では知的裁断の正しいカタチなのかも知れない。

確かに或る時期から頻りに教育現場にスクールカウンセラーの配置が提唱され、実施されてきた訳ですが、そのような体制に移行したことによって、児童や生徒の自殺が減少したであるとか、或いはいじめが減少したといった具体的な数字が検証されたという話は聞いたことがない。労働現場に導入された「ストレスチェック」などにも同じ事が言えてしまうかも知れない。こう真正面から言ってしまうと猛反対されてしまうというのは自明だ。しかし、『アンチ・オイディプス』は1972年にそれをやってしまっている。また、著者はドゥルーズ&ガタリの共著であるがフェリックス・ガタリの方は精神分析家という肩書きも持っていた。そうでありながら、そのような不都合な問題にも触れてしまっている。現在の定義がどうなっているのか知りませんが、辞典類では精神科が用いる「寛解」は、例えば3ヶ月以上、その症状が治まる事と記してあったりする。つまり、心の中に負った傷そのものは癒えることはないし、わだかまりがキレイに治癒する事は無いのだ。「寛解」と「完治」の差異を理解する必要がある。

そうなると、近30年ぐらいに発生したトラウマという概念の拡大、ジェンダー問題の過剰、北米で発生したビリー・ミリガンらの多重人格の問題、米国を中心に発生した両親への虐待脅迫訴訟問題、日本で発生した新型うつ病のケースなども、ごっそりと、「ホントは、そんなに重要な問題ではない」と指摘する事が可能だったのではないだろうか? 

君は「生きている意味が見い出せない。意味の喪失だ」って嘆くけれども、だって、そんなものないって『アンチ・オイディプス』に書いてあったぜ――と言えば、それで済んでしまった問題だったような気もする。相手は怪訝な反応をするだろうが、構わずに「嘘だと思うなら読んでみなよ」とゴリ押しすれば、それで済んだような気がしないでももない。何故って、それこそが真理に近い可能性がある事は否定できそうもないから。

水木しげるの漫画にも、大手製薬会社の社長が「どんな病気でも治してしまう万能薬なんてものを発明されたら困るっ! 我が社は商売あがったりになってしまうじゃないかっ!」と騒ぐ短編漫画があったと思いますが、構図は似ている。精神分野の病気とは、そういう事を意味していたのかも知れない。基本的には時間が経過して症状が沈静化するのを待つだけとか、単に薬剤を与えて症状を沈静化させるぐらいしかホントは効果は望めず、一般人がイメージする「治る」という具合の終着点はない。むしろ、精神分析の分野では、対象者の症例の治癒を望むべくもない分野であろうと推測できてしまう。しかし、何故か、そちらの市場シェアは大きく大きく拡大したのが、日本の元号でいえば平成と令和の時代なのだ。

まぁ、それでも何かしら悩みを引っ張り出してしてきて悩むのが人間であり、現代人ともなると全員が全員、文明下でパラノイア(神経症)を抱えているとなるのだけれども。確かに、そこに何らかの抑圧は存在し、抑圧されているのだから何らかの症候を人々は抱えている。「この人は精神を病んでいます」というのは嘘ではないし、実際に何らかの治療は必要になるのでしょう。そして学者も医者も製薬会社も、そして病める人々にしても、次から次へと精神疾患が精神疾患として承認される方が都合がよい、「誰にとっても都合がよい」という事情から、当該問題参加者全員によって〈共同正犯的な関係性〉が出来上がってしまってもおかしくはない。おそらく、そんな構造があるような気もするかな。

「それは病気です」と言って欲しい患者があり、「それは病気です」と言いたい医者があり、出来る事なら長く通院して欲しいというインセンティブを、その医者は抱えてしまっている。更に、「その症状にはこの薬が効果があります」と言いたい製薬会社がある。誰にとっても不愉快な話であるが、実は世の中のカラクリは、そういう部分にあるのかも知れない。軍産複合体の理屈と、そんなに変わりない。今後も自分が物質的な豊かさを享受していく為には、目先では奇麗事を吐きながらも殺し合いをする戦争に突入していくしかない。自分は殺し合いに直接的に関与したくないので誰かに汚れ役を負わせたい。国家の原理もしくは帝国の原理とは、このようなものではないのかと『アンチ・オイディプス』でも言及している箇所があった。

理には理で応じなければいけない訳ですが、実際問題として多くのシーンでヒトは快不快で反応し、快不快で反応した自らの気持ちを自論とし、その自論を補強する為に言語を弄している。快不快で反応するのは〈理〉ではなく〈情〉で反応してしまっているという事なのですが、本人はこれに気づかない。元よりヒトは不完全な生き物であり、この〈情〉と〈理〉との軋轢が衝突を生む。

引用します。

分裂分析の主張は単純である。欲望は機械であり、諸機械の総合であり、機械状アレンジメントであり、つまり欲望機械なのである。欲望は生産の秩序に属し、あらゆる生産は欲望的生産であり社会的生産である。だから、私たちは精神分析がこの生産の秩序を粉砕したこと、この秩序を表象の中で逆戻りさせたことを非難しているのだ。無意識的表象という観念は、精神分析の勇気を示すものどころではなく、始めから精神分析の破綻そしてこれが放棄したものを示している。つまり、もはや生産するのはなく、信じることに甘んずる無意識といったものを想起している……。無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法を信じている……。おそらく精神分析家こそ、信仰とは厳密にいえば無意識の行為ではないと最初に言うのである。何かを信ずるのは、常に前意識なのである。そうならば、信じているのはまさに精神分析家であり、私たちの中の精神分析家なのだとさえ、いうべきではないのか。(『アンチ・オイディプス』315頁)

引用文中に【前意識】という単語が登場しているので少しだけ補足すると「無意識」と「意識」との中間に「前意識」がある。「何かを信じる」ということが生起するのは無意識の領域ではなく、前意識の領域であると指摘している。オイディプス・コンプレックスの理論体系とは、その体系を信じる者だけの限定的な公理系の世界であるという主旨の事を述べている。

更に引用します。

精神医学あるいは反精神医学の真の政治は、したがって次の二点に存するだろう。第一点、狂気を心の病に変容してしまうあらゆる再領土化を破壊すること。第二点、あらゆる流れにおいて、流れを脱領土化する分裂質の運動を解放すること。ただしその性格は、もはや狂気の流れとして特殊な残滓を規定するのではなく、労働、欲望、生産、認識、創造の流れの最も根本的な傾向に浸透するのだ。狂気はもはや狂気として存在することがないだろう。狂気が「心の病」に変容されてしまったからではなくて、むしろ逆に狂気が、科学や芸術の流れも含んで他のすべての流れの寄与を受けとるからだろう。――狂気が狂気と呼ばれ、狂気として現れるのは、狂気がこの寄与を失って、ただ自分だけで脱領土化を普遍的プロセスとして証明しようとする事態に陥るからである。狂気を狂気たらしめるのは、狂気自身の力を超えた不当な特権なのだ。フーコーはこの意味で、狂気が消えてゆく時代を告知していた。それは単に狂気が心の病の管理された空間の中に(「大きな生ぬるい水槽」に)入れられてしまうからではなくて、むしろ逆に狂気が指示する外部の環境が、あらゆる側面で管理を逃れ、私たちを巻き込む別の流れによって乗り越えらえるからである。(同339頁)

更に更に引用します。

時代の風潮の中で〜略〜家族は精神分析の教えにあまりにも耳を傾けすぎたという印象を、私たちはしばしばもつのだ。家族は、オイディプスごっこをしている。それは崇高なアリバイなのだ。しかし背後には、経済的状況が存在している。母は、家事労働に、あるいは家の外で、面白くもない辛い労働にしばられている。子供の未来の状態は不確実なままで、父はみんなを養うのにうんざりしている。要するに、外部との根本的な関係というものがあるのに、精神分析家は、これを素知らぬふりをして、彼の客たちがよく遊んでくれることだけに熱心なのだ。〜略〜

ひとが勃起するのは、流れと切断によるのだ。誰かが精神分析をしてもらうことになる動機を、少しでも考えてみるといい。問題は、欲望にとって耐え難いものとなった、あるいは欲望の備給にとって葛藤にみちた耐え難いものとなった、あるいは欲望の備給にとって葛藤にみちた経済的依存の状況である。精神分析家は、治療において金が必要であることについては多くを語っているが、〈誰が払うのか〉という問題には完璧に無関心である。
(同375〜376頁)

これらの話を拡張・延長してゆくと、何故、ファシズムが台頭したのか等の問題にも対応できるようになってゆく。【リビドー】という概念の解釈にはフロイトとユングとでは少し幅があるものの、我々の考えるものの大半はリビドー由来の〈欲望〉であり、謂わば欲望の系譜で編纂された世界を我々は世界と認識している。この辺りの話については利己的遺伝子論で説明してしまう事が殆んどであるが、改めて『アンチ・オイディプス』を眺めてみると、それに酷似した指摘が為されていた事に気づかされる。
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加藤喜之著『福音派――終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)に目を通していると、近年、話題になっている「福音派」について詳細が記されていた。この「福音」とはギリシャ語で「良い知らせ」を意味する「エヴァンゲリオン」であり、その福音を信じる人たちという意味での福音派になって【Evangelicals】になるのだという。

その発祥は、「神殺し」と関係している。ダーウィンの『進化論』がある種の転機であったと考えられるという。引用します。

十八世紀以降発展した近代科学の提示する宇宙観は、奇跡――つまり、自然を超越する存在者による介入――を拒否する。宇宙は精巧に作られた機械、あるいは自己生成する有機体のようなものだからだ。したがって、設計者としての卓越した知性の存在を容認できても、聖書が示すような断続的な神の介入を認めるわけにはいかない。

〜略〜旧約聖書の『創世記』にみられるような、神による人類の始祖アダムとエバの創造物語は、誇大オリエントに伝わる多くの神話の一つに過ぎない。このことを進化論は白日の下へ晒したのだった。
(『福音派』6頁)

この「神殺し」を受け容れられない人々は当初は「原理主義」(ファンダメンタルズ)のように呼ばれていたが、その原理主義者の中から「福音派」を名乗る人たちが登場した。ここも引用します。

原理主義者たちは、一九四二年に「全国福音派教会」(National Association of Evangelicals:NAE)というロビー団体を首都ワシントンに設立。同会の使用した「福音派」というネーミングこそが、現代の「福音派」という名称の直接的な由来である。(同16頁)

ここで述べている「神殺し」とは神に変わって、神に変わって科学主義信仰が主流になったという意味合いである。また、現在の福音派は、原理主義と呼ばれる人たちの一部が生み出したものであると述べられている。

では、「原理主義」と「福音派」との差異はどうなのか? この部分も引用します。

同時代の原理主義者たちの時代遅れな考えや差別的な言説から自分たちを区別するために、「原理主義」という名称ではなく、福音派という新しい名称を使用したのだ。要は、米国市場で高級路線を打ち出すために「トヨタ」が「レクサス」を名乗ったようなリブランディングである。

もちろん違いはある。福音派を名乗る人々は、積極的にアメリカの主流文化に影響を及ぼすために、ハーヴァードやイェールなどの名門大学に師弟を送り込んだり、広く社会問題を扱うメディアを始めたり、原理主義者たちの聖書学校とは異なる高等教育機関を設立するなど、手法において独自路線をとる。分離主義的で反知性的な原理主義のイメージを払拭するためだ。
(同20頁)

なるほど。しかし、この話にしても根底には信じてきたものがダーウィンの『進化論』によって引っくり返されてしまったが、それに抵抗する人たちが、これまた厄介な事に「終末論」で結びついてしまい、今日的な状況になっている。確かに体感する限りでは誰しもが、もう世界は滅びるんじゃないのと感じるほど荒廃している。

――と、その問題はドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』からも考えられる観点であった。『アンチ・オイディプス』は単なる神殺しに在らず、おそらくオイディプス批判は実質的には父親殺しであり、家父長制を基軸として成立してきた「家族制度」、更には、その先にある「国家」といったものが単なる虚構のようなものではないのかと指摘してしまっている。人々は禁忌を与えられて去勢され、抑圧されている。抑圧されているから精神的な苦しみが生じる――という訳です。あまりにも過激な指摘なので左翼思想にも収まり切らないという。しかし、そうでありながら実際にはニーチェあたりが頻繁に引用されている。利己的遺伝子論と照応すれば、この全てをぶっ壊してしまうような「機械論」はあながちデタラメとも言い切れないというジレンマを我々にもたらせる。

実際に時代がどのような方向へ歩んだのかというと、実は『アンチ・オイディプス』は正しかったように思う。近代化とはオートメーション化であり、分業化であった。何かを効率的に生産する為の体制が善とされ、その基本デザインに則って構成されている。勿論、それでも理想的と考えられる家族像があった。しかし、その家族制度は近代以前のものだ。或る意味では、エマニュエル・トッドが家族制度を軸にして人類統計学を展開している事などは、まさに最先端の研究と言えるかも知れない。そう、現代人が直面している問題の大きな問題は「家族」だ。しかし、『アンチ・オイディプス』的な分析に倣えば、それは当然に家族制度のようなものは崩壊してゆく。そこで語られている単位は、個人という単位なのだ。つまり、一個人を分子として認識する体系なのだ。

2012年に世界中の映画監督らが「映画史上で最も評価されるべき作品は何か?」という企画で投票を行なった結果、その第1位に選出されたのは小津安二郎の「東京物語」だったという。クロサワでもなく、スピルバーグでもなく、なんとオズだったらしい。そして、この小津安二郎の問題を考えてゆくと、小津作品が高評価を得るようになったのは80年代後半頃であった事が分かる。山田洋次や山田太一も殆んど同じような事を語っていたのを記憶している。元々は「そんなに小津安二郎作品がいいとは思っていなかった」が、80年代半ば以降になって、やはり、凄いなぁ…と感じるようになったという主旨であった。では具体的に小津作品に何が描かれているのかというと「家族の崩壊劇」だ。滅びゆく美しいものが小津作品には描かれている、そういう反応が起こったという事だ。

この事はEテレがテレビ番組化した「世界サブカルチャー史〜欲望の系譜」及び、その番組の種本になったジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著/栗原百代訳『反逆の神話』にも克明に記されていた。本ブログ的には映画「アメリカン・ビューティー」と映画「バックマン家の人々」、或いは「ローズ家の戦争」あたりを取り上げましたが、まさしく、それらは米国に於いて、美しい米国的な家族像もしくは夫婦像の崩壊劇が描かれている。当時もぼんやりと時代の進化の中で「美しい家族だなんて虚構だよな」という意識はあったものの、これを2026年の現在に視聴してみると、既に絶望的な崩壊の兆しがあった事に気づくことになる。邦画であれば森田芳光監督の「家族ゲーム」でしょうけど、ホントはそのまんまだ。しかし、我々はそんなに危機意識を抱かなかった。

テレビドラマであれば、山田太一は「岸辺のアルバム」で家族でありながら家族がてんでばらばらな方向を向いている事を描いた。山田太一作品の多くは家族であったり、当時は踏み込むのが相当に難しかったであろう現代人の性の問題に果敢に取り組んでいた事に驚かされる。私個人の場合は「ふぞろいの林檎たち」というドラマを非常に疎ましく感じていた。「ふぞろいの林檎たち」のテーマは、表層的に言えば青春群像劇であるが、実際には「落ちこぼれたちの青春群像劇」である。バブル期の中で、しらけにしらけまくったのは落ちこぼれ達であり、その落ちこぼれ達の満たされぬ実像をコメディ風に描いていた。家族が壊れているというよりも、個人もおかしくなり、世の中全体がおかしな方向へ突っ走る中、取り残されてしまったかのようなシリアスな若者像が、そこにある。

「ふぞろいの林檎たち」では、以下のような配役であった。

谷本綾子…中島唱子

西寺実…柳沢慎吾

仲手川良雄…中井貴一

四流大学に通っている仲手川良雄、西寺実らは、女の子と知り合う為にワンダーフォーゲル・サークル「オリーブ」を立ち上げた。四流大学なので女子学生らは誰も相手にしてくれない。恥の上塗りのようなものだが、まぁ、「オリーブ」を立ち上げた。そこにやって来た最初の女子学生が谷本綾子である。この綾子は東洋女子大の一年生という設定で、自分が肥っている事がコンプレックスなので一生懸命に勉強して名門大学に入ってはみたものの、自分だけが浮いてしまい友達も、そしてボーイフレンドもできないでいる。そんな時に仲手川(中井貴一)からビラを手渡されて、「オリーブ」へと入会するという経緯を持つ。しかし、男どもからすると綾子は所謂「ブス」であり、敬遠すべき対象になっている。

第5話「親友は誰ですか?」から少し引用します。舞台は西寺実の実家のラーメン店の前であり、つまり、実の実家の前まで谷本綾子がやってきているという設定。

綾子「あの」

実「なに?」

綾子「少し、歩いたりしませんか?」

実「――」

綾子「(一礼)」

実「俺はよ、はっきりしねえの嫌えなんだよ」

綾子「はっきりって?」

実「訳わかんねぇじゃねえか」

綾子「なにが?」

実「仲手川ンとこへ、薬なんか持って行っちゃってよ。そいでもって、こっちへも来るってんじゃ、どういう気持ちか分かんねえだろ」

綾子「はい」

実「そこンとこはっきりしねえで、どうやって付き合えんのよ。率直にいって、あっちが好きなの、俺が好きなの? はっきり、ずばり、ちゃんといってくれよ」

綾子「仲手川さんが、好きですよ」

実「へーーえーー(傷つく)」

綾子「だけど、私なんか相手にするわけないでしょう」

実「俺なら、相手するっていうのかよ?」

綾子「そんなこといったら失礼だけど」

実「失礼だよ、ものすごく失礼だよ」

綾子「でも、わりと合ってるんじゃないですか?」

実「そ、そうかねえ(ものすごく遺憾)」

綾子「人間、希望通りにはいかないし、つり合わないと、よくないっていうし」

実「俺の何処がよ? 何処が、あんたとつり合ってるっていうんだよ?」

綾子「ユーモアあるし、やさしそうだし」

実「やさしい? 俺の何処が、やさしいってエのよ?」

綾子「ほんとは、やさしい人だって」

実「冗談じぇねぇよ。俺はね、やさしさ売り物にするような、そんなヤワな男じゃないのよ」

綾子「でも、心の底では」

実「ケーッ。俺の心の底を、どうして知ってんのよ? どうして知ってんだよ?(と押す)」

綾子「――――」

実「え? どうして――(と押す)」

綾子「(悲しくなりカッとなり)そういうとこ、直してくれるといいと思います(とひっぱたく)」

実「(ふっとんで、何処かへぶつかり)――なによ、やんないでくれよ、そういうの(と泣きそうになる)」


この谷本綾子と西寺実は典型的な三枚目の役どころである。別に本人たちはユーモラスな存在として存在していたい訳ではないが、当事者からすれば自分のような者は、そのようにやっていくしかないという悲喜劇に固定されて生きている。「つり合ってるんじゃないですか?」と言われて、「そ、そうかねえ(物凄く遺憾)」なんていう感覚を描いているあたりに感心して、笑ってしまった。実は仲間同士でも足の引っ張り合いみたいなものを意地悪だなと思いながらも演じてみたり、或いは不貞腐れてみたり、そういう感情が描かれている。

確かに真実であっても正視できないのが人間かも知れない。

綾子から好意を寄せられている仲手川良雄(中井貴一)は、新宿歌舞伎町のマッサージ店に入り、そこで思いも寄らず伊吹夏恵(高橋ひとみ)の接客を受けることになる。良雄からすると、夏恵は遠目に憧れていた女子大生(設定では東京外語大学)である。良雄は「どうして、あなたのような人が、こんなところで、こんな仕事を?」という驚きがあり、且つ、好意を持っていて出来る事なら交際して欲しいと思っているが故に「こんな仕事は辞めるべきだ!」のような感情も持っている。しかし、夏恵は、あからさまに迷惑そうな態度をとる。良雄は裸でベッドの上に寝そべりながらも尚もジタバタと抗議をしてくる。純情な良雄はウッウッと嗚咽混じりで泣き出してしまっている。そうなってしまったので夏恵が「じゃ、よす?」と尋ねると、良雄はそれにも応じられない。つまり、夏恵にシテもらう。夏恵から「また来てね」と見送られる。良雄は半べそ状態のまま、マッサージ店から戸外へと出てくる。

リビドーを抱えた生身の現代人、そうでありながら既存の善悪的な価値観の中に生きている現代人の滑稽さがある。
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加藤喜之著『福音派――終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)を読み進めてゆくと、ああ、なるほど、それは覆い隠されていた問題だったのかも知れないゾ、という気分になってくる。

引用していきます。

八〇年七月一四日から一七日にミシガン州デトロイトで共和党の党大会が開催された。その場でレーガンは、「ともにアメリカを再び偉大な国にしよう!」(Let's Make America Great Again)という、奇しくも三二年後にドナルド・トランプが再利用するフレーズを唱え、保守的な公約を発表した。(『福音派』84頁)

知っていた人は知っていたのかも知れませんが、【MAGA】の原型はロナルド・レーガンにあったという事らしい。その32年後にドナルド・トランプが復活させたフレーズだったという事だ。そして、その「アメリカを再び偉大に」というフレーズは、レーガンの頃から既に福音派や保守的キリスト教徒から支持されていたのだという。

何故か? 何故なら世界全体、そしてアメリカ全体に既に世俗的人間中心主義の新しい波が押し寄せていて、それに抗う軸が必要になったから。「古き良きアメリカ」を取り戻したいと考えていた人たちが、福音派やキリスト教保守派に多かったから。

この問題はEテレが放送していた「世界サブカルチャー史」あたりでも、確かに取り上げられていた。「丘の上の街」を理想とする古き予期アメリカへ、おそらくは50年代のアメリカへ回帰すべきという主旨の、うねりがあった。実際に『福音派』の中にも「デニス・ホッパー」の名前が挙げられており、おそらく、「イージー・ライダー」あたりを指している。そして、その「イージー・ライダー」は先に挙げた「世界サブカルチャー史」でも、そして町山智弘氏の著書『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』でも取り上げられていた大きなテーマであった。自由を夢見てバイクで疾駆する二人の若者は映画の最後に非常に理不尽な死に方をする。解説を読まないと、よく理解できないような終わり方なのだ。しかし、あれが全てを物語っていたという事らしい。つまり、リベラル体系による世俗主義的人間中心主義は本来的な保守層からは凄まじく憎まれていたのだ。

ジェリー・ファルウェルという伝道師が存在していたという。元々は原理主義者であったが後に福音派となり、現在まで続く福音派に大きな影響を及ぼした人物であるという。そのファルウェルはテレビが普及しはじめた頃、1950年前後という事になるようですが、その新しい情報媒体が登場して間もなく、フェルウェルはラジオ局と協力して「昔ながらの福音の時間」(Old-time Gospel Hour)なる番組を開始し、間もなくテレビ局とも提携し、日曜日の17時30分から30分間の番組を持ち、パーソナリティーをしていたという。

「昔ながらの福音の時間」という番組名に色々な思いが込められていそうだ。古き良きアメリカへの郷愁がタイトルに滲んでいる。そして、それが日曜日の夕刻に放送されていたという事だ。日本人の生活パターンとしても、日曜の夕方には「笑点」という長寿番組があり、更には「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」、或いは「おじゃまんが山田くん」なんてものもあった。それらの番組のラインナップは、なんというべきか、もの凄く日曜日の夕刻を意識させるものがあった。別に「笑点」を特別にオモシロい番組だとは思っていないが「笑点」を視る事で日曜の終わりを認識する的な。隣接市のイトーヨーカドーへ買い物へ行って、帰宅してテレビをつけると「サザエさん」が放送されていて、「ああ、日曜日も終わりか…」と感じつつ、日曜の夜が過ぎてゆく。「昔ながらの福音の時間」という番組にしても、聖歌隊のコーラスで番組が始まり、男性歌手がバラードを披露し、ファルウェルがイエスへの回心と寄付を呼び掛ける言葉を添えるという番組であったという。ただそれだけ。

引用します。

五〇年代の人種統合への動き、六〇年代の公立学校での聖書朗読や祈りの禁止、七〇年代の私立学校への内国歳入庁の介入や中絶についての最高裁の決定。ほかにもフェミニズムや同性愛やベトナム反戦運動などあげればきりがないが、古き良きアメリカを少しずつだが確実に変えようとした一連の流れは、ファルウェルをはじめとする南部の保守的なキリスト教徒を自覚的に政治へ向かわせる原因となった。(同77頁)

保守的な人たちは、それらの変革の波に不満を抱えていたという事らしい。都市部で新しいムーブメントに抵抗なく順応できる人たちからすれば、それらの変革の波は至極当然の変革の波であり、その為、当たり前のように時代は変革されてきた。しかし、それを快く思っていない保守的な人々も実際には多かったというアメリカの両面史を捉えている。

懐古趣味的な性格があったと思われるファルウェルの番組は人気を博し、ファルウェルの教会は大きくなり、イベントを開催すれば多くの人を集めるようになった。1979年になるとファルウェルは「モラル・マジョリティ」というロビー団体を設立し、本部をワシントンDCに置いた。この「モラル・マジョリティ」という団体は、福音派・原理主義者たちに選挙登録をさせ、投票へ行かせる事に力を注いだ。これは本格的に政治に接近していったという意味だ。多くの福音派・原理主義者たちは、そもそも政治に関心がないし、投票にも行っていなかったが、それを変えるように動いたという事だったらしい。

引用します。

八〇年にファルウェルが記した、モラル・マジョリティについての文書がある。それには次のように記されていた。

合衆国はいま道徳的な危機に陥っている。映画やテレビや雑誌やエンターテイメント全般において、道徳的な退廃と精神的な堕落がみられ、これに対して神の裁きは間近に迫っている。もし、国としてこうした罪を神の前に悔い改めないなら、アメリカに神の裁きがくだるのは時間の問題である、と。

ファルウェルは続ける。合衆国が陥っている罪が五つある。中絶、同性愛、ポルノ、教育における神をも恐れない人間中心主義、壊れた家族。これらを悔い改め、アメリカを変えるためにできることが三つある。選挙登録、情報拡散、動員。
(同80頁)

これは、結構、深層に迫った話であるかも知れないな、と感じた。ここのところ、『アンチ・オイディプス』に言及してきましたが、『アンチ・オイディプス』も近現代思想の1つの大きな到達点であった。私が思うに殆んど全否定の世界であった。神を殺して無神論を徹底した機械論であった。確かにもう、どうしようもないだろという話になってしまう。また、フランスでも19世紀末から20世紀初頭にかけて「ベル・エポック期」と呼ばれる「黄金時代」があったという。もう、教会権力のようなものは要らないし、信仰も要らない。工業化によって近代を切り開き、人類は科学力で人類の明るい未来を拓けるだろうという楽観があった。しかし、楽観は長く続かなかった。チャップリンの映画『モダン・タイムズ』に描かれたようなオートメーション化がもたらせた分業制。

そして晩年の三島由紀夫も夢中になっていたというジョルジュ・バタイユが世の欺瞞を見抜き、自らの内的感覚に重きを置く思想を説き出していた。バタイユは現在の日本で言うところのヤングケアラーだったようで、梅毒に侵されていた父親の排便の介護をしていたという。人間そのものの持つ醜悪さや、人間社会が持つ根源的欺瞞に行き当たる中で「内的体験」に向かったものと考えられるという。

また、同じように近代化への欺瞞から退廃趣味が生まれ、ボードレールらの退廃をテーマとした文芸ムーブメントが発生したという。「自由」という理念を掲げているイメージが強いフランスであるが、その自由の裏側で無神論となり、世俗主義に重きが置かれたが、道徳・倫理に頼って社会が回っていくのかというと、そうはならない。何か精神的な規範の軸になるものないと、たちまち人間社会は腐敗が起こり、人々は精神的不安定を強いられ、或る種の狂気が生じる。社会全体は退廃を加速させてゆく。

(また、「壊れた家族制」という指摘も興味深い。映画「アメリカン・ビューティー」であり、映画「バックマン家の人々」であり、映画「ローズ家の戦争」であり、日本でも映画「家族ゲーム」なのだ。すべて「壊れた家族」がテーマだ。)

彼らがそんなに善人の筈がない事は自明なのだ。彼らが背伸びをしたがるのは、相手にマウントをとる為であったり、周囲の者から評価されようとして対外的に善人ぶっているだけで、それを『アンチ・オイディプス』では「リビドーの備給」という独特な言葉で表現している。【備給】という言葉が厄介ですが、それは【準備】に置き換えられる。すると、どれもこれも当て嵌まってしまう。周囲からよく見られたいのは、ホントは、その者の「リビドーの準備」の為だと解釈すると、諸々の辻褄が合う。或る意味では残酷な物言いであるが、それは「偽善」であるとか「イイカッコしい」である可能性が高いのだ。何故、ヒトは着飾るのか? 何故、ヒトは他者から良くみられたいと欲するのか? 

2026年の現在ともなると、アメリカはエプスタイン問題を抱えており、おぞましそうな実態が転がっている。更にはドバイの富豪たちも何やら性奴隷ゲームのようなことをしているのではないかと囁かれている。権力者は権力に溺れ、リビドーの虜になっているのかも知れない。権力者以外でも世界中にポルノ動画やスナッフビデオ(殺害映像)が溢れ、そして、この日本でも年初に中学や高校で発生したと思われる暴行動画がネット上で話題になり、すっかり偽善が身についてしまっている大人たちは「プライバシー保護」を逆に盾にして、問題の本質にメスを入れない。

なんだか単に信仰心や道徳心を捨てたというだけの話ではなく、もはや「良心の呵責」のような感覚、罪悪感も希薄化してしまい、快楽を追い求めているのが現代人の姿のようにも思える。世界は利便性を求めてイノベーションを肯定し、その際には道徳・倫理や人間関係を置き去りにして展開してきた訳ですが、どこへ行こうとしているのか確かに分からない。先に挙げたチャップリンの「モダン・タイムス」には機械によって自動で食事を食べさせてくれる自動食事マシーンが描かれているが、その描写は今日的な現代人の姿を描写しているように見える。そんなことに、そもそも意義なんてあったのだろうか――と。

別に福音派でも原理主義者じゃなくても、こうまで世の中がデタラメになってきてしまうと「こりゃ、そろそろ、世界は滅びるんじゃないの?」と考えたくもなりますワなぁ。
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