2005年11月24日
心臓手術という大変な経験を経て無事生還出来た喜び
終わりに
9月30日・10月26日と外来診察を受け、生体弁も血管も身体に生着して良く機能しているし11月からはワーファリンも他の薬も飲まなくて少し様子を見ましょうと言われる。そしてこの生体弁・血管の取替え手術は生涯、身体障害者の一種、一級の相当しますので市役所に書類を持って行って申請する様、指導される。心臓の大動脈弁と動脈瘤の為の大動脈血管の取替えと云う大手術をうけて、殆ど私の人生も終わりかなと思っていたが、先生方のお力と家族の協力、皆様方の励ましで、三途の川原から無事帰って来る事が出来ました。10月から前の様に忙しく生活していますが、走っても階段を上っても息切れもなく、息も長く続く様になり、前より若返った様な気がします。本当に手術をして良かったと先生に大感謝です。有難うございました。 最後に飼い犬の「なお」は酷暑の中私の回復するまで頑張ってくれましたが、 10月9日私の元気なのを見届ける様に老衰の為、眠る様に息を引き取りました。お疲れ様。そして有難う。私も第二の人生頑張ります。さようなら
毎日殆ど寝ていて家事は主人まかせ少しずつ動く練習をしながらの療養
8月17日
退院して一週間、久し振りに主人の運転する車で病院へ行く。心臓外科で診察の前に血液・レントゲン・心電図と検査を受けその結果を持って診察に行く。一時間以上待ってやっと順番が回り、抜糸をして貰う。先生が少しチクリと痛いかも知れないよ、とおっしゃったが、覚悟をした割には殆ど何とも無かった。身体の方は本当に順調に回復しているので、先生もとても嬉しいとの事、あまり無理をしない様に、重い物を持たないとか、薬についての注意を受ける。車の振動が痛いと云ったら、それは仕方ない、時が経たないと中の方の傷(骨)が付かないので、大事にして下さいと注意を受ける。この一週間、家の中で殆ど寝ていたので、久し振りの外出は少し疲れた。家では寝ていると頭は相変わらず重く起きるのに苦労した。電話が鳴っても中々起きられなく、切れて仕舞うので、子機を横に置く様にした。家事は引き続き主人が全部引き受けてくれていた。動かないので食欲はあまり無い。次の診察は8月31日。
8月31日
手術から一ヶ月経ち、動きも大分良くなって来た。家でじっとしているのが苦痛になる。少しづつ家事も出来る様になって来るが、時間が凄くゆっくり流れて一日が長く思える。この二週間はとても長く感じられた。又主人の車で送ってもらい病院に行く、今回から診察は一人で付き添いは無し。血液検査をして30分程待って、結果を持って診察を受ける。先生は又本当に順調に回復しているので、これから薬が少しずつ少なくなり、もう何をしても良いとのお墨付きを頂く。車の運転をしても良いと云われたが、薬のワーファリンを飲んでいるので怪我とか傷には注意する様、出血が止まらないからと注意を受ける。そして次は一ヶ月後の9月30日に来る様、もし自分で可笑しいと思ったら、予約無しで何時でも良いから来て下さいと言われた。少し早く歩いても息切れも無くなり身体の部品交換も順調に行っている様だ。いよいよ完治する日も近いと感じる。9月は静養しながら徐々に身体を慣らし 10月から元の生活に戻ろうと思う。
順調に回復し思ったより早く退院の許可が出た
8月9日
朝の検査は何時もと同じ。朝食後は退院の為の荷物まとめ。たった二週間の入院で有ったのに、結構色々と物がたまるものだ。11時頃主人が迎えに来た。その後先生のお話を聞きに6階の診察室に行く。先生も本当に喜んで下さり、手術のビデオとか写真を見せて頂いた。自分の胸の中を見せられても、あまりピンと来なく、ただ大変な手術だったんだと云う事と先生に命を助けられたと実感した。まだ抜糸が済んでいないので、来週17日外来でするとの事。先生もびっくりする位順調に回復して、始め思っていたより、早く退院出来て本当に嬉しく思っていますと言われた。それから薬についての注意と、少しは動いても良いが、重い物を持たない事、あまり調子に乗らない様注意を受ける。病院のレストランで昼食。久し振りにお粥以外の食事をする、半分程しか食べられなかった。猛暑の中、主人の運転する車で我が家へ。入院の時とは全然気分が違うが車の振動が胸の傷に響いて痛かった。家に着くと犬の「なお」が元気でいてくれて、本当に嬉しかった。暑い中良く頑張ってくれたね。
2005年11月11日
ICUでの治療も順調に回復し、いよいよ一般病棟での入院生活に入る
8月1日
朝の回診で最後まで残っていた、心臓のぺ一スメーカー用の配線を取って貰う。又先生はrチクリとしますよ」云われたが、ドレンの時の様にグニャリと気持ち悪く痛かった。「傷はすっかり綺麗にくっ付いているのでガーゼは上半分は要りませんね」と無くなってしまった。後は心電図のモニター用の配線が貼り付けてあるだけ。1O時頃久し振りでシャンプーをしますと云われ、lCuの入り口近くに有る洗面台まで自分で歩いて行く。さっぱりしたら午後には6階の一般病棟の個室が空いたので移れるとの事。3時頃荷物を持って車椅子に乗り引越しをする。
新しい部屋に移り、ここが私の当分の住まいだと、感無量。良くあの無機質な部屋から出られたと思い嬉しさが込み上げる。窓のある部屋に移り目の前に見える小牧山と下の道を走る車を見て「ああー人間社会に帰って来た」と実感する。夜6時半頃夕食を食べていたら、病院から一般病棟に移ったとの連絡が有ったので主人がとても喜んで始めて病室に来てくれた。私がベットからするすると降りてトイレに行くのを見て、もう安心と云う確信が持てたらしい。
8月2日
6階の病室に移って始めての朝、6時頃より採血・血圧、体温、酸素、等測定。 7時朝食はお粥食。身体を熱いタオルで拭いてもらう。明日からは部屋の中に洗面台があるので、自分でしようと思う。その後外科の先生の回診、傷は綺麗に付いているからガーゼは無しにしましょうと全部無くなった。後は心電図のモニターの配線が身体に貼りついていて、その携帯無線機らしき物が首からぶら下がっている。午後に澤崎先生が来室。手術前以来始めて顔を合わせた様な気がした。先生から手術の経過とか病状の説明があり、改めて自分の身体が想像以上に悪かった事を知り、先生の言葉ではないが、良く生きていた、何時突然死しても不思議は無い状態で、本当に地獄の淵から生還したのだと実感する。同時に内科も含めて病院の先生方に大感謝。夕方4時頃は薬剤師の先生に薬の説明有り。不整脈とか心臓の薬、ワーファリンとか飲む様指示。ワーファリンは生体弁の場合三ヶ月位飲まなければ成らないとの事。そして納豆・青汁は厳禁と注意される。喉は相変わらず痛い。でも一人ポツンと居るのは少し退屈。先生にそう云ったら贅沢と叱られる。主人は相変わらず朝晩ニ回来て洗濯物を、取り替え持ち帰ってくれる。本当に感謝。
8月3日
6時頃より採血は無いが同じ日課が始まる。食事前に歯磨き洗面と熱いお湯で身体を拭く。食事の後で体重を量り、外科の診察は無し。胸の傷の痛みはあまり無いが、喉は相変わらず痛いし、頭も重い。ベットから起き上がる時はベットの上体を上げてからでないと直ぐには起きれない。平面の儘だと亀をひっくり返した様に手足にいくら力を入れても、バタバタしているだけで起き上がれない。昼間はベットの上体を起こしておく様にする。午後からお見舞い客が来て下さる。お話をしていると、とても楽しいし、嬉しいが声が少し出にくいし喉がとても痛かった。朝主人が来て、私の顔が細くなって首のあたりの皮膚が弛んでいる。少しスマートになった様と云った。スマートは嬉しいが、シワクチャはちょっとね。・・・・・夜の時、でも顔付きが生き生きとして、目の輝きが良くなって来たと云われる。やっぱり順調に回復している様で嬉しい。
8月5日
毎日同じ様な検査の日課で、順調に回復しているらしい。でも喉の痛みと頭の重さだけは相変わらずだ。午後澤崎先生が来室。この所外科の回診は殆ど無いが、先生は一日置き位に部屋を覗きにきて下さる。そして本当に順調に回復しているので、週明け月曜日(8日)に CT、その他の検査の結果により退院の期日を決めたいと言われた。
8月7日
一般病棟に移って一週間、検査は毎日同じ。食事は相変わらずお粥食、あまり美味しくない。喉の痛みは少しは減ったかなと思うが、頭は相変わらず重くて、平面での起き上がりは亀のひっくり返し状態。毎日大勢の皆さんがお見舞いに来て頂いて本当に感謝。でも手術の様子等しゃべり過ぎ、喉も痛いし少し疲れ気味。でも多分明日の検査で退院出来る様だと云うと皆びっくり。大丈夫かと心配してくれる。私自身は起きる時以外は本当に回復しているのが実感できるので、多分大丈夫と思う。主人も日一日と生き生きとした顔になって来たと言っている。やはり退院が待ち遠しいらしい。
8月8日
朝6時頃から採血。後は何時もどおり。10時頃はCTを撮りに一人で書類を持ってエレベーターで一階の検査室に行く。部屋に帰って来たら看護師さんがレントゲンも有ったのでもう一度一階へ行って下さい。と言われ、今度は車椅子に乗せられ一階へ行って来る。午後3時頃澤崎先生来室。検査の結果も順調であるので。明日午前11時半より退院についてのお話をしますので、手術前に話しを聞いた人に来て貰って下さいと言われた。すぐ主人に電話して、明日退院出来る事を伝えたが、今日私の父方の叔母が103才でお亡くなりになり葬儀の為、兄は来る事が出来ないと云われた。私はこの世に戻って来たのに。103才とはいえ、最後のお別れも出来ず、唯、叔母様のご冥福をお祈りするだけ。
30時間ぶりに麻酔から覚めこの世に戻ってきてICUでの闘病生活
美津子記 7月27日
誰かが有森さん・有森さんと大きな声で呼んだ様な気がして目が覚める。一瞬自分が何処にいるのか分からない。そうだ私は手術を受けに来たのだ。と思い出す。ここは手術室とは少し違うようだけど、まだこれから手術をするのかしら。? と思いそっと手を胸に当てたら、胸の上にガーゼが有った。終わっている、と思ったらとても嬉しかった。又少し経ってr有森さん分かりますか」と云う声で返事をすると、「そこの横に掛かっている時計の時聞は分かりますか」と聞かれる。真上を向いていたので頭が重くて顔が動かない。横目で時計を見て「4時10分過ぎです」と答えた。先生が本当に嬉しそうな声で「もう大丈夫だ」と叫ばれる。私にはそう思えた。続いて先生の声「自カ呼吸が出来ますので、人工呼吸器を外して下さい」とおっしやっているのが聞こえた。私は上を見ているだけで、周りの先生方が目に入らない。何か遠くの方から先生が、大声で叫んでいられる様な気がした。そうなんだ私は今まで自分で呼吸をしてなかったのか。・・・・・・…外して大丈夫かしら。と一瞬思ったが、先生方が次々と手早く外して下さり、とても楽になった。でも喉が非常に痛い。
義明メモ PM6時主治医の澤崎先生にお会いする予定でlCUへ行く。でも20-30分待たされる。その前に無菌室の中にいる美津子の病状を看にベットの前に行く。顔を見て驚いた、誰か分からない程人相が変わっている。露出している顔・首・手が異状に脹らんでいる、顔は丸く、首は無く、腕は肥っている。まるで人面魚みたいだ。でもこちらからの問いに返事をするので、この時点で手術は成功と確認出来た。ホットして涙が出るくらい嬉しい思いであった。先生の談話、想像以上に治りが早いので、ビックリすると共に大変嬉しく思っている。との事でした。
美津子記主人と兄夫婦が面会に来てくれた。私の居る部屋には窓が無いので、今は明け方か、タ方かと聞く。でも何日のの夕方かピンとこない。台風は如何だった?。と聞いたら全然影響なし。との事。犬の「なお」が無事で良かったと思う。教ちゃんが台風の事を覚えている様なら、もう本当に安心ね。と言われた。私は二日間に渡って眠っていたのか。と少し驚く。身体の方は動かなければ、あまり痛く無いが、鼻から栄養補給の為の管が胃まで入れて有るので、鼻が詰まって口で息をするのか口がカラカラになって、喉は痛いし、息苦しい、おまけに酸素マスクをつけられているので鼻ずまりがよげい酷い様な気がする。鼻をかみたいが、カを入れると胸が痛い。少し向きを変えたくても首から上がまるで動かない、頭がこれ程重い物とは思は無かった。身体には管や針が数え切れない程入っている。
'夜、中々眠られない。1O分おきに時計を見る。胸の上に置いていたティシュの箱をベットの下に落としてしまう。看護師さんの、呼ぴ出しボタンが首が回らないので、何処に有るか分からない。そうゆう時に限って鼻がかみたい。・…・・・・・・戻ってきた最初の夜は長かった。
7月28日
朝6時頃から色々の測定や点滴等、看護師さんが看に来て身体を横にして毛布を背中に置いてくれる。下半身はわりと動いても大丈夫。上体を動かさなければ比較的傷の痛みも無い。でも喉は非常に痛く、声が擦れてよく出なかった。昼過ぎ頃、楽のみに 3分の1程の薄いお茶を飲んでも良いといわれ、一口飲んで喉を潤した。とても美味しかった。タ方から高カロリーの栄養液を鼻の管を通して胃に流し込む。鼻の管はとても息苦しいが、片方の鼻をカを入れずに、少しずつかむこつを覚える。痰は出ないが、どろどろのはなを出すと息苦しさが少し楽になる。朝から小さい音で音楽が聞こえる。よく聞くと確かに琴の音色だ、曲目は分からないが小さくポロンポロンと鳴っている。隣の部屋のCDかな ? それともICUも癒しのBGMを流すのかな、私の為みたいでわるいみたい。でも琴の音色で癒され良く休めた。
朝晩2回主人が様子を看に来てくれる。洗濯機の使い方も知らないから、心配していたが結構やってくれている様で安心と同時に感謝。家のペツト達(犬3匹・猫3匹)も皆元気の様子で安心。
義明メモ AM7,40
1C∪の無菌室に入るのに、二重の消毒マスク・上着・テブクロと持ち物は部屋の外に置いて、面会に行く。回復は非常に順調で明日29日はベットから降りる訓練をするとの事。でも身体には色んな器具・配線が付いている。大丈夫かな・…・・・顔の腫れはあまり変わらない。 PM6時 今日2度目の面会。朝とあまり変化なし。洗濯物持って帰る。
7月29日
昨晩もなかなか眠れなかった。朝になって看護師さんが点滴とか、血圧・体温・酸素等検査してもらうとホットする。又熱いタオルで身体を拭いてもらい気持ち良かった。ベットに寝たままレントゲンを撮り、外科の若い先生に傷のガーゼを取り替えてもらう。ベットの上体を起こして座る練習をする。看護師さんに鼻の管が取れないかと聞いたら、自分で口から飲めたら取れますよといわれ、紙パックにストローを入れて飲んで見た。始めはそんなに不味くなく、これなら大丈夫と思ったが、半分も飲まない内に戻しそうで嫌になった。折角管が付いているので、やっぱりそれを使わして貰おうと申し出る。看護師さん「後4回ですからね」。・・・・・・・ 4回も飲まなくて済んで良かったと思う。
義明メモ AM7.0 本人、喉とその下が痛いと云っている。腫れは多少退いたかな・…? 洗濯物を置いて行く。 PM6.00 各務の義兄と面会に行く。昨日はベツトを降りる訓練をするとの事であったが、それは無かったらしい。酸素の摂取iが少ないのと、一般1CUの場所が無いからとの事。ラジオを渡して行く。
7月30日
昨晩は精神安定剤を一錠飲んで寝た。すぐに眠りに入り、夜中に看護師さんが血圧等測定してくれているのをおぽろげに知っていたが、殆ど無抵抗。薬の効き目に驚く。お陰で良く眠れたので気分爽快。身体を拭いた後、診察用の横にスナップが着いて上下に分かれる衣服から普通の寝巻きに着替える。喉は相変わらず痛い。琴の音色は相変わらず朝から途切れ途切れに聞こえて来る。後で分かったのだが、これはBGM等では無く鎮痛剤の為の幻聴であったらしい。
義明メモ AM7.45 今日はベツトでお茶らしきものを飲んでいた。まだ喉とその下の所が痛いらしい。腫れは大分減って、元の顔に近ずいている。洗濯物を持ち帰る。 PM6-15各務の姉と面会に行く。朝の時より一層、美津子の顔に戻っている。義姉も涙ぐんで喜んでおられた。
7月31日
今日は待望の鼻の管が外されて、朝食はお粥食、身体に付いていた点滴の針とかドレン等取って貰う。「少しチクリとしますよ」と言われたが、チクリよりも何とも現し様のないグニャと気持ちの悪い痛みで有った。でもとても身軽になり、ベットから降りて、ついでに車椅子に摑まって、部屋から出てlC∪の中を歩く訓練をする。澤崎先生がセンターの中から私を見て「最高に順調です」と言われた。その後尿管も外し、自カでトイレヘ行ける様になった。
義明メモ AM7.35
今日始めてお膳が出て、お粥・味噌汁・煮物・牛乳等の朝食が出ていた半分ぐらい食べて後は残していた。中スポを持って行く。ラジオが壊れたらしく持ち帰っていたが、まだ直っていない。 PM2.35 ラジオが直ったので、持って行く。身体に取り付けて有ったあらゆる管や配線がことごとく無くなっていた。一人でベットから降りて歩いてトイレに行った。そろそろ一般病棟へ移されるだろう。大変に嬉しい。
2005年11月10日
いよいよ手術。後は主人の看護メモより
7月25日
午後2時いよいよ入院。台風が近ずいているとの予報、飼い犬のrなお」は17才の高齢であるし少しボケも来ているので大丈夫かな?と少し心配。暑い時でもあるし、私が退院するまで元気でいてくれる様願う。主人に送られ車で病院に向かう。口から「ドナドナドーナドーナ・・・・・・・・・・・・♪♪」 いくら楽天家の私でも、刑場に連れられて行く羊の心境。
シャワー等明日の準備をして、タ食は普通食。夕方5時より先生から手術についての説明が有り、主人と兄(神戸)と3人で聞く。思ったより重症らしく、始めの予定より難しく、弁は石炭化して狭窄状態どころか全然動かない様で、時間も長く掛かるし、術後1CUには10日間、入院は3週間から一ヶ月程掛かるとの事。でも何故かあまりショックはなく、まな板の上の鯉の心境、先生に任せれば大丈夫とぐっすり眠る。
7月26日
朝8時頃より手術の準備。精神安定剤の注射とか、薬でのうがい、そして手術用の着衣。主人、兄弟夫婦等皆に見送られ、AM9時30分自分でストレッチャーに乗り看護師さんに付きそわれ、3階の手術室に向かう、入り口で主人が手を握ってくれた。皆も深刻な顔をして頑張ってねと励まされる。私はあんまり怖くなく、すぐ眠ってしまうのに、何を頑張るのかなと少し可笑しかった。手術室に入ると物々しい機械がいっぱい有る所で、まだ手術台では無いと思うが腕に注射しますと言われた。中々針が思う様に入ら無いらしく、右腕と左腕に交互に挑戦して下さっている内に眠りに入った。以後はわからない。次からは主人の介護メモから合わせて記そうと思う。
義明看護メモより
AM8.30神戸夫婦(義見・教子)と3人で手術前の面会に行く。病室には各務夫婦。梶田夫婦にも来て頂いた。 9.10分第一回目の安定剤の注射。9.20分二回目の注射。本人は10分おき位にトイレに行く。 9.30分手術の為ストレッチャーで3階に降りる。手術室の入り口で美津子の手を握ったら、かなり温かく感じた。一瞬これが最後の温もりかも・・・・・・・…・・!。でもすぐ打ち消す。 自宅で待機せよとの事で、病院にいても仕方がないので、電話番号を伝えて会社に戻る。 PM5.45分手術時間が約8時間と聞いていたので、少し早目に病院に行く。 6.00主治医の説明が有るとの事で、エレベーター乗降口前で待つ。中々手術室から出て来ない。 6.30頃6・7名のスタツフに囲まれてやっと出てきた。美津子の特徴の額が少し見えたが、すぐに通り過ぎて行った。 8-9時間では有つたが、一生の内の一番長い日に思えた。ガンバレ!美津子。 7.00主治医から手術後の説明が有り、切除した心臓弁及び動脈瘤のあった箇所の物体を見せられる。先生の説明によると今までにない悪い状態であると言われ、岩石のような物体におどろく。手触した所、石その物であった。手術は一応成功しましたが、大変難しい状態であったので、何がおこるか予測出来ない。明日午後、麻酔が覚めるまでは、何とも云えない。と言われる。夕食、家の近くの天ぷら食事処で義見さんに、ご馳走になる。
2005年11月03日
心臓外科で診察を受け大動脈弁だけでなく大動脈瘤の手術も必要と言われる
6月28日
内科最後の診察。手術の日が決まった事、先生に報告。咳きはすっかり止まっていた。先生はとても喜んで下さり、澤崎先生の予約が頂ければ50%は成功したも同然との言葉を頂く。益々自信が出てきて手術等そんなに怖く無いと思った。
6月30日
澤崎先生の指示により、手術前のCT検査を行う。診察は無し。
7月1日
心臓外科外来診察先生より前日のCT検査で、大動脈弁だけでは無く大動脈瘤が見つかったので、もう少し精密な検査が必要。手術を少し延期しますとのお話有り。上行大動脈は普通直径が2.5センチから3センチ位であるが瘤の部分が5.7センチも有るので、そのまま大動脈弁の手術をすると、破裂をする恐れが有るので、両方の手術をするとの事。その為にはもう少し精密な検査が必要ですので、造影剤をいれたCTを撮って下さいと言われる。私があまりガツカリした顔したのか、先生からそんなにガッカリしなくても大丈夫ですよ。と慰められる。 10日頃から先生はアメリカで学会が有るので、手術はその後20日に入院、 21日に致します。その間にCT検査をして置いて下さいと指示される。次の入院の時20日の午後5時から手術の説明をしますから、それまでは、診察に来なくても良いとの事。
7月12日
造影剤を入れたCT検査、そのまま帰宅。 7月に入り教室のお稽古等一切お休みにしたので、毎日家でぶらぶら、インターネツトで心臓の病気とか、手術について毎日勉強する。手術について知れば知る程怖くなるが、生来の楽天家と言おうか、何でも自分に都合良い方に考える性格の為か、先生に任せれば、大丈夫と言う思いがだんだん強くなり、多分自分は治ると信じてあまり深刻にはならなかった。でも胸骨、(肋骨のついている真ん中の立ての骨)の真ん中を首の少し下から真っ直ぐにお臍の上位まで切って機械で開くそうで、想像しても痛そう。先生は本人は麻酔が掛かっているから、痛くないよと前に言われた事を思い出し。それもそうだと少し納得。テレビでは毎日万博の賑わい等報じているが、私には全く関係ない遠い世界の事、でも9月の最後に、一度ぐらいは行けるかな。?・・…・・・まず無理ね。
7月19日
病院の心臓外科から電話が有り、緊急の重症の患者さんがお入りになり、先生の手が離せないので5日間、日延べをして欲しいとの連絡有り。私は何も異常がないので結構ですとお答えする。入院は25日。手術は26日と決定。家で寿命が5日延びたと笑って話す。
内科の先生より手術を前提としたカテーテル検査を受ける様言われる
6月14日
6月前半は演奏会が有り。10日から二日間、九州の有森家先祖のお墓参りに行って来る。どちらも無事に済ませたが、全体に動きが少し鈍い。少し早く歩くと息切れがする。胸が時々締め付けられる様に痛い。やはり手術は避げられないのかと覚悟する。内科の診察で先生に覚悟を決めましたと言ったら、そんなに悲壮に成らなくても大丈夫と慰められる。カテーテルの検査で二泊三日の入院をする様指示される。6月20日から入院の予約。
6月20日
PM2時検査入院 4時頃から何もする事が無いので、本をよんだり、テレビを見たり、ベットで横になる夕食は;昔通食。9時には就寝。2・3日前から風邪を引き咳きが出るので、同室の患者さんに迷惑が掛かるか気になって眠れない。
6月21日
7時朝食その日の検査が6番目だから、おそらくお昼過ぎになるであろうと看護師さんから言われる。昼食は検査が終わった後でするから、食べやすい様おにぎりを用意すると言われる。でも咳きがあまり出る様ならば、検査室に入って中止するかも知れない。と言われ、折角その気になったのに、何とか止まってくれないかと祈る気持。午後一時過ぎストレッチャーに乗せられ検査室に入る。不思議に咳きは止まっていた。一時間程で検査は終わり、絶対動かない様指示される。4時間程で出血が無い事を確認されるが、明朝までは動かない様、特に右足は絶対に駄目、起きる事も駄目、おまけに目の上にある机というか台に乗っているおにぎりとじゃがいもの煮っ転がし、手探りで楊枝に刺して口に入れ様としたら、ポトンと首の上に落ちて、煮汁がこぼれ気持ち悪い。体勢のせいで遅い昼食と夕食は殆ど食べられなかった。身体が動かせ無いという事は、腰は痛いし・背中も痛い、トイレにも行きたい。咳きも出るし一晩中本当に辛かった。
6月22日
朝から自由放免。病院内何処でも自由に歩いて良いとのお許しが出る。 10時頃主人が向かえに来てくれた。その後内科の先生から手術についてのお話が有り以後は心臓外科の先生にお話を聞いて帰って下さいとの事。そしてこの弁取替え手術は身体障害者に成るので、外科の先生に書類を貰って市役所に行く様指示される。午後4時頃心臓外科の澤崎先生に診察・手術の説明を受ける。先生のカッコ良さと自信に満ちた人柄にすっかり信頼する。この先生にお任せすれば大丈夫と安心。先生の診察中に又咳きがぶり返し引っ切り無し出ていた、先生はその咳きは心臓の方から来ている様であまり良い状態ではないので、注意する様との事、咳き止めと心臓の薬を貰い、7月7日に手術すると予約して帰宅。
内科の先生より心臓弁膜症と診断され手術を勧められる
4月27日
心臓のエコー検査をうける。この日は診察はなし。
5月10日
内科の診察。この前の心臓の薬で息苦しい状態はすっかり改善されていたので、治ったのでは、と自信を持って診察室へ入った。先生の言葉。「エコーの技師から即手術といって来てます。貴女は大動脈弁があまり開かない、大動脈弁狭窄症という病気で、これは薬では治療が難しく、手術以外の治療法は有りません。長生きしたかったら手術をして下さい」との事。
私はまたまたショック・・・…正に晴天の霹靂。心臓の手術なんて、考えても恐ろしい長生き等しなくても良い。・・・ でも心臓が何時まで持つのか。・・・・・・・・ 一ヶ月先か・一年先か。・・・・・・・・
5月24日
内科の診察。心臓の薬のお陰かすっかり元気になっていたので、手術はいやだなあ一と思っていた。でも先生は長生きしたかったら手術はした方が良いとの事。手術を前提としたカテーテルの検査をする様にといわれる。私は一途の望みをかけて、もしカテーテルで結果が良ければ手術は避けられますね。と聞いたら先生は少し笑いながらそうですね。と答えられた。私は今は状態が良いので、検査は6月半ばまでは少し忙しいのでその後にして下さいと申しでる。薬を貰って、あまり過激な運動等は避ける様注意を受ける。
風邪で喘息が出たと思っていたが夜眠れないほど息苦しくなる
平成17年4月24日
2ヶ月程前から風邪ぎみ、咳きこみがちで、夜、横になると喘息の様にゼーゼーいって息苦しい状態であったが、この2・3年前からこの様な症状はよく出ていたので、もう少し幸抱すれば良くなるであろうと、近くのお医者さんに喘息の薬を頂いて飲んでいた。箏曲の団体、正派東海支部の役員会に出ていた昼過ぎ、トイレに立った直後、3メートルぐらいも息苦しく歩けない様になった。5分程その場に跨っていたら何とか収まったが、これは少し異状だと思い近くの医者に診てもらった。心臓に雑音が有るので市民病院で検査を受ける様に指示される。
4月26日
紹介状持って市民病院の内科の循環器科で診察を受げる。レントゲン・血液・尿・心電図と検査を受けて内科の先生から心不全との診断をうける。 ショック…・・・・私は心不全は死ぬ時の症状と思っていたから。でも心臓の薬を貰い、次の診察までに心臓のエコー検査を受ける様、そして水と塩分を控える様指示される。