2007年10月07日

【お詫び券/解答編】

By utsumishinbun
12:26
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【解答】
一所懸命考えて、ただひとつだけ出来ることがありました。
それは、ひたすら謝ることだったのです。
これなら自分でもできる。
そして、私は「お詫び券」を考えました。
もしも、お客様にご迷惑をおかけしたら、このお詫び券を配ろう。
真中で切り取り線があります。
下半分には、クレームを言ったお客様のお名前とクレームの内容を書きます。
上半分にはお詫びが書いてあります。
「本日は大変申し訳ございませんでした。
次回お越しになるまでに、今回の件は改善しておきます。
今回のお詫びのしるしとして、次回はいくら召し上がっても何人でお越しになっても一切御代は頂戴いたしません。」と書かれてあります。
その後もやはり、クレームは続きました。ご迷惑をかけ続けたのです。
この券を配り始めたとき、お客様は驚かれました。
「こんなことをしたらお店つぶれるよ。」
でも私にはこれでしか謝罪の態度を示すことが出来なかったのです。
その後、券をお配りした中から何人かのお客様が再度来店されました。
こちらには控えがありますので、誰かがわかります。
「○○様、前回は大変ご迷惑をおかけ致しました。」
名前を覚えていてくれたということで、ほとんどのお客様は許してもらえました。
しかも、この店が流行ったのは、私が注意してあげたからだ。」とか「この料理は私のおかげで大変美味しくなった。」とか、そのクレーム客が宣伝を始めたのです。
これが判ったのは、かなり経ってからのことです。
私の手元にはクレーム客の記録が残りました。 

この内容を裏返して読めば、「こうしてほしい」
という本音の集大成だったのです。
ここには商品開発も販売促進もすべてのヒントが隠されていたのです。
最近、これをデータベースマーケティングという言葉で表現されるようになってきました。 
「顧客データの本音を汲み取り、いつも新鮮にしておくこと。」
ラーメン屋から20年後、私のライフワークとなっていました。






【お詫び券/問題編】

By utsumishinbun
12:22
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これから逃げ回ることしか私にはできませんでした。
「何を怒っているのか?しかたないだろう。悪気があってそうなったんではないのだからもう許してよ。」
それが私の本音でした。

スープがぬるい。
後から来た客に先に料理が運ばれた。
髪の毛が入っていた。
虫が入っていた。
店員の態度が悪い。
テーブルが汚れている。

きりがありません。
お店は観光地の宝塚市というところにあったので、一見の観光客のおかげで経営が成り立っていた
ようなものです。
もう、嫌になりました。

なりたくてなった訳ではない。
ある日、久しぶりの休日。
近くのファミリーレストランに行きました。
注文したハンバーグステーキが全然出てこない。

私は、ウェイトレスを呼びました。
「だいぶん前に注文したのにまだ来ないのだけれども・・・・」
ウェイトレスは、だまって戻っていきました。
しばらくして、そのウェイトレスは、注文した料理を持ってきました。
何もいわずボンッとして置いて戻っていきました

私はカチンときて、注意しようとしました。
そのときハッと気づきました。
これは、まさしく自分自身のことではないか?
私は今までの自分の行動が恥ずかしくなりました。
時間をとても無駄にして来たようにも思いました。
でもいくら考えても、美味しい料理をつくる腕もありません。
接客業の経験もなく何をどうしてよいのやらも判りません。
実は私は何も出来ないんだということに始めて気付いたのでした。

【問題】
一体、私は何であれば出来ると気付いたのでしょう?
そして、どんな戦略を考えたのでしょうか?





【★お詫び券】

By utsumishinbun
12:17
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発想の原点・・・
私が最も大切にする事です。
人の話を聞いていても必ず、その人の発想の原点を探します。
「何故、その仕事をしたいと思ったのか?」その発想に原点がないものは、持続力がない・・・と信じるからです。
どんなものでも、いつも順調に進むことはありません。
山あり谷あり、苦難の連続です。苦難に突き当たったとき、発想の原点がある人と無い人では、はっきりその差が出ます。

発想の原点があれば、次の解決策を見つけることができます。
他の模倣で、発想の原点がない人は、つぎにまた、他からアイデアを持ってこなくてはならなくなり、持続力がなくなり挫折してしまいます。
不遜ですが、その発想の原点は自分自身の足元に必ずあるということを私は信じています。
だから、好き嫌いをいわず、今の仕事に精進することが最高の近道であると信じています。
昭和50年代、私はラーメン屋のコックをしていました。
私は、家庭の事情で実家のラーメン店を手伝わなくてはならなくなりました。
当時はいやいや仕事をしていたといっても良いでしょう。料理を作ってもうまくできない。人に頭を下げる商売なんて大嫌いでした。
しかも、油にまみれて汚いし、休みも無く友人たちと遊びに行くこともできない。
こんな後ろ向きな考えでは、敏感にお客様にも伝わります。
よく叱られました。
なぜ叱られているかも自分では判らないのです。

大学では、毎日毎日、顕微鏡で人間の細胞を覗くのが専門で接客なんていうのは夢にも思わない世界です。
自分の頭ではどうしても理解できない、別世界なのです。
しかも対応するノウハウもないのです。
客には、苦情やいやみをよく言われました。




【ホームレスビジネス/解答編】

By utsumishinbun
12:13
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【解答編】
ホームレスのおじさんは決断のもと、あるシステムを導入します。
大きな袋に漫画本を詰め込んで運んでくる別のおじさんがいたのです。
漫画本の仕入れを別の人に外注し始めたのです。

今注目を浴びているアウトソーシングです。
当時はそんな言葉もありませんでした。
今では一般的になりましたが、漫画本を集める人、仕入れて売る人のすみわけが出来ています。
これによって、今まで以上の数の漫画本を仕入れることが可能になりました。
漫画本だけではなく、色々な出版物を扱うようになっています。
今から15年も前の話ですし、今のような漫画本のリサイクルビジネスなどまだなかった時代です

すでに最先端のビジネスモデルを考えついて実践されていました。
地下鉄の通路で、ダンボールを敷いて寝ていたおじさんは、まだまだ綺麗な漫画本をゴミ箱にすてていく学生やサラリーマンを何気なくずっと見ていて、漫画本の再販を思いついたのかもしれません。
商売のヒントというのは、人間の行動をじっくり時間をかけて定点観測するところから生まれてくるのかもしれません。



【ホームレスビジネス/問題編】

By utsumishinbun
12:11
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仕入れは駅の中のゴミ箱です。
ただで拾ってきたものを100円で売っているのですから、売り上げのすべてが利益です。
確かに、みんな漫画本は駅のキオスクのようなところで購入し、電車に乗っている間に読み終えてしまい、降りた駅のゴミ箱に捨ててしまいます。

そして、当たり前ですがほとんどが最新号です。

おじさんはそれを拾ってきて、綺麗に表紙を拭いて並べて売っている訳です。
おじさん一人で各駅のゴミ箱を回れば、数時間でここにあるくらいはすぐに集まるのだそうです。
私はまた尋ねました。
「ところでおじさん。これで一日いくら位の稼ぎになるの?」
私はその金額を聞いてびっくりしました。
「大体一日で2万5000円位になるかなぁ。」

毎日250冊は売っている計算になります。
しかも、ゴミ箱から拾ってくるので原価はゼロ。

このおじさんは、毎月50万円以上の稼ぎがあるのです。
私は、商売というのはいろいろあるものだなぁと感心しました。
そして、自分はまだまだ努力が足りない・・・と
大いに反省したものです。
私はこのおじさんをしばらく観察していました。

漫画本の量が急に増え出しました。
しばらくしてそのシステムの大幅な変更を発見することになります。


【問題】
順調に業績を伸ばしてきたホームレスのおじさんは、大きな問題にぶち当たります。
漫画本を拾い集めて、綺麗に拭いて、販売することが一日の仕事でしたが、忙しくて手が回らなくなってきました。
そこで、ホームレスのおじさんは、あるシステムの導入の決断をします。

いったいそれはどんな決断だったのでしょうか?





【★ホームレスビジネス】

By utsumishinbun
12:07
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私が東京で会社を創業した地は東京都千代田区の市ヶ谷駅近くでした。
オフィスは間借りで、しかも3坪くらいの小さなところでした。
社員は私一人で、あとは学生アルバイト達です。

市ヶ谷駅を使って通勤していました。
市ヶ谷駅は改札まで地下道を通り抜けます。
毎日、その地下道を通りますが、時々そこにホームレスのおじさんがダンボールを敷いて寝ています。
晴れた日はいませんが、雨の日は必ずといってよいほどそこにいました。

仕事が思い通りにいっていなかった私は、将来自分もこうなってしまうのかな・・・などと、少し不安がよぎったりもしたものでした。
何カ月かしたら、そのおじさんはいなくなりました。
いい仕事でも見つかったのかな?
何週間か経ったある日、またあのおじさんが戻ってきました。
でも今回少し様子が違いました。
それまでは、ただダンボールで寝ていただけなのですが、今回は地下の通路で古い漫画本を並べて商売をしているのです。

紙に「どれでも100円」と書いてあります。
最初は十数冊だったのですが、日が経つにつれてだんだん増えてゆきました。
そして、毎日結構売れているようです。
3カ月ぐらい経つと、その場所が2倍位まで広くなって、さらに本も増えています。本当はここでは商売をしてはいけないはずなのですが、駅員は何も言わないようです。

私は、おじさんに尋ねました。
「このたくさんの本はどこで集めてくるの?」
「秘密・・・」すぐに教えてくれませんでした。

何日も通ってやっと教えてくれました。
すべて駅のゴミ箱から拾ってきたのだそうです。

おじさんは、ビッグビジネスを発見したのかもしれません。
漫画本の再販ビジネスです。





【師範代/解答編】

By utsumishinbun
12:04
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【解答】

師範代は、その時こんな話をしてくれたのです。

『人十度、我百度(ひとじゅうど、われひゃくど)という言葉があるから、覚えておきなさい。こ
れは、人に十の事を言うには、自分はその十倍の百くらいのことができなければならない・・・という意味や。それだけ自分が努力して、力をつけることが第一。これは、普通の日常生活でもそうや。率先して自分がしてゆく姿勢が一番大切なこと。人は、言葉だけでは動かない。態度で示さないといけない。弟子は師匠の背中を見て強くなるんや。まず、とにかく自分が動け。しかもそれは人に見てもらうためやない。自分のためや。』

この先生は34歳の時に脳腫瘍で他界されました。
最後まで、その姿勢は変わりませんでした。
部下が安心感と信頼感を抱けるリーダーとは、
「いつも同じ目線で」
「いつも同じ姿勢で」
「いつも同じ信念」
を維持できる人なのだと気付きました。
私は、先生の意思を継いで人を育てる仕事に生涯をかけてみよう・・・
そう決心させる出会いだったのです。



【師範代/問題編】

By utsumishinbun
12:00
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練習が終わるまで後ろで椅子に座って見学しました。
人が宙に投げ飛ばされ、腕1本で男性をねじ伏せる。
先生が手とり足とり教えて回ります。
「本当にこんな事ができるんだ・・・。」
最初は怖い気持ちで一杯だったのが、だんだん憧れの気持ちに変わっていきました。
練習が終わると先生がこちらに走ってやってきました。
先生はひざまずき、しばらく私の目をじっと見据えました。
そして、私に言いました。
「お前は絶対強くなる。」・・・と一言。
そして「一緒にやるか?」
「・・・はい!」
とても短い会話でした。

少林寺拳法という武道と、私の生涯の師匠となる人との出会いの瞬間でした。私が13才中学2年生の時でした。
入門後も、先生は毎日一番に来て雑巾がけをしていました。
先生に負けじと私も早く来て雑巾がけに挑戦しました。
二人で競争しながらの雑巾がけでしたが、それが二人っきりで話ができる良い機会になりました。
「先生がなぜ雑巾がけですか?偉い人だから、もっと威張ってもいいのに・・・」
「それはな、これが俺流の威張り方やからや。」

「俺流の?」

「そうや、練習はきついか?」

「はい。キツイです。痛いし・・・でもおもろい!」
「なんで、きついし痛いのに・・・おもろいのや?」
「みんな一緒にきついからや。だれもサボってる人がおれへん。」
「良く気がついたね。この雑巾がけもおんなじや。」



【問題】
さて、この時師範代は、なぜ「俺流の威張り方」が「雑巾がけ」と同じだと言ったのでしょうか?

是非考えて見て下さい。

当時、師範代はいつも先頭にたって模範を示す人でした。





【★師範代】

By utsumishinbun
11:56
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中学2年生の春、私はいつもと同じように下校していました。
毎日通っている道なのにその日だけ、ある看板が目に飛び込んできました。
「金剛禅総本山少林寺」と墨で書かれています。

「なんだ?これは」しばらく眺めて家に帰りました。
帰宅した後、私はテレビのスイッチをつけました。
チャンネルはNHKでした。
「明日は君たちのもの」
という全国の中学生の取材番組でした。
その日のテーマが「少年黒帯拳士」。
中学校3年生で少林寺拳法の黒帯になったの高松の中学生の取材番組でした。
香川県仲多度郡多度津町。立派な道場の看板が映し出されました。
「金剛禅総本山少林寺」
これは、偶然にも、今日学校の帰りに見つけた看板と同じでした。
とても、私は不思議な気持ちになりました。
その偶然は、現実になってゆく事になります。
自分と同じ中学生が黒帯になっている事にとても驚きました。
「自分でもできるのではないか・・・けんかに強くなりたい!毎日いじめられてたまるか?」
私は近所の公民館にある道場を見学に行きました。
何人かの人たちがすでに練習していました。
剣道で使う竹製の朱色の胴を思いっきり蹴っています。
もの凄い音とともに胴が真っ二つに割れたのです。
私は恐ろしくてここに来たことを後悔しました。

道場の端の方を見ると、一人だけひたすら床を雑巾がけしている坊主頭の男の人がいます。
この人も黒帯ですが、まだ高校生くらいです。
何度も何度も行ったり来たりしています。
「黒帯でも年下の者はやはり雑巾がけなんだ。」
私は思いました。
「ドーン!ドーン!ドーン!」大きな太鼓が鳴りました。
大勢の人たち集まり道場が一杯になって全員が舞台に向かって整列しています。
その時、さっきまで一生懸命雑巾がけしていた高校生風の人が舞台の上に駆け上がったのです。
「礼っ!」
大きな声で号令がかかり全員がその人に向かって礼をしました。
最初、高校生だと思っていた男性がこの道場の道場長だったのです。若き師範代です。




【エルトゥールル号の遭難(4)】

By utsumishinbun
11:52
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この話には後日談があります。
その事件から100年近く経った1985年3月17日の出来事です。
イランイラク戦争でサダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす命令を下します。
イランにいる日本企業の人たちやその家族はあわててテヘラン空港に向かいましたがすべて満席で乗れません。
日本政府の対応も遅くパニック状態になったのです。
その時、2機のトルコ航空機が到着し、日本人215名全員を乗せて成田に向けて飛び立ちました。
タイムリミット1時間15分前でした。
なぜトルコ航空機が来てくれたのか?日本政府もマスコミも知りませんでした。
前駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は「エルトゥールル号の事故に際し、日本人の献身的な救助活動を、今もトルコ人は忘れない。そのご恩返しです。私も小学生のときに歴史教科書で学びました。
トルコでは子供たちでさえエルトゥールル号の話を知っていますよ。」
今度、是非この灯台を見に和歌山に行ってみようと思いました。



【エルトゥールル号の遭難(3)】

By utsumishinbun
11:49
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台風で漁ができず、食料はすぐに底をつきました。
「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう」一人の婦人が言いました。
「ニワトリが残っている。」
もうこれを食べてしまったら何もなくなる・・・

「大丈夫、お天とう様が見守ってくださる。」
最後に残ったニワトリを料理して水兵たちに与えました。
こうして、トルコ人は一命を取り留めたのです。

村人は遺体を引き上げ丁重に埋葬しました。
この遭難の報は和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇にまで言上されました。
明治天皇は直ちに医者、看護婦の派遣を指示し、さらに礼を尽くし生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還なされました。
日本全国から弔慰金が寄せられトルコの遭難者家族に届けられました。
当時この話に感動した「山田寅次郎」という人が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡られたそうです。
1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田さんは、当時の外務大臣サイド・パシャ氏に義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁しました。
山田寅次郎さんはトルコ側の要請で、そのままトルコに留まって日本語を教え、日本とトルコの友好親善に尽されました。

この時の教え子の中には、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ氏もいたそうです。
このような、日本人の献身的な行動がトルコ人の心を動かし熱狂的な親日国家となっていったのでしょう。
現在、国連でもトルコはいつも日本側について協力を惜しまないそうです。
なお、前回の日韓合同開催のサッカーワ−ルドカップでは、トルコ代表がユニフォ−ムを和歌山県串本町に寄贈されています。




【エルトゥールル号の遭難(2)】

By utsumishinbun
11:45
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灯台守は応急手当をしましたが、他の水兵の救助のための村人を呼びに戻りました。
電灯もない真っ暗な夜道、人一人がやっと通れる道をひたすら走りました。
村人たちと灯台に戻ってくると、10人ほどのトルコ人がいました。
全員傷だらけです。
この村は50軒くらいしかない貧しい村でした。

村人は総出で崖を降り救助をしました。
遠い国からやってきて、見知らぬ日本で死んでゆく水兵を見て、村の男たちは泣いたそうです。
「一人でも多く救ってあげたい!」
「死ぬな、元気を出せ!」
そして助かった人は69名でした。
この船の名を「エルトゥールル号」といいました。
救助された人は寺と小学校に収容されましたが、村には電気、水道、ガス、電話などありません。
井戸もなく、水は雨水を貯めて使っていました。

サツマイモとみかんを栽培していました。
これを串本でお米と交換して生活する貧しい村でした。
各家庭にニワトリを非常食として飼っていました。
このような村に69名の外国人が収容されたのです。
生まれて初めて見る外国人をどうしても助けたいと村人は思いました。



【エルトゥールル号の遭難(1)】

By utsumishinbun
11:41
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和歌山県の南端に「大島」という島があります。

この島には日本で一番古い石造りの灯台が今もあります。
明治23年9月16日、和歌山を台風が襲いました。
午後9時頃、大島の沖合で大きな爆発音がしました。
灯台守は、嫌な予感を感じました。
波は、海岸の岩場に打ち付けます。
その時、台風で舵の効かなくなった木造軍艦が灯台に向けて押し流されてきたのです。
全長76メートルあったといわれる大型船です。

しかも、板切れが流されるように、風と波でどんどん近づいてきました。

やがて、船は海岸の岩場に打ち付けられて真っ二つに裂けました。
エンジンにも水が入り、大爆発を起こしたのです。
乗組員は海に放り出され波にさらわれました。
真っ暗で荒れ狂う海にどうすることもできなかったといいます。
一人の水兵が岩に打ち付けられ傷だらけになりながらも岩場に打ち上げられました。
かすかな意識の中で、灯台の明かりが見えました。
「あそこにいけば助かる!」
急に力が湧いてきました。
40メートルもある崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着きました。
水兵は服はもぎ取られ、裸同然でした。
全身傷だらけで真っ黒に腫れあがっていました。

灯台守はその水兵を見つけましたが外国人で言葉が通じませんでした。
灯台守は「万国信号書」を見せて、この水兵がトルコ人であることがわかりました。






2007年10月04日

内海新聞をこちらに引っ越しました。

By utsumishinbun
16:52
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これからも宜しくお願い致します。



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