うつろいゆく時代と共に

社会現象とりわけ経済問題を様々な科学的な切り口でユーモアを交えて分析しています。 管理人は、Coop LightsというGNUに対抗するライセンスをつくっている人です。

https://twitter.com/cooplights でもつぶやいてます。

最近はブログやSNSなどの普及により多くの人が自由に発信することができるようになり、表現の可能性がとても広がったように感じます。その一方で、荒らしや炎上なども後を絶たず、発信力という力とうまく付き合えていないのかもしれません。これは、例えば、車が発明された時に、事故が多発したように、まだ、社会の方が力をうまくコントロールできていないということなのかもしれません。

「ペンは剣より強し」という言葉がありますが、この元々の意味は「剣を持っていても権力を持って刑執行の書類にサインするペンを持った人には勝てない」という意味です。ペンをライターの如く使い火を点けて回って炎上させて回るような人もいますが、火炎放射器のような使い方はこの定義に近いのでしょう。こういう力を志向すると、あちこちで炎上させながら、炎上は力、力は正義(Right)、自分たちは権力(Right)というのような勘違いをして暴走しやすくなるのでしょう。さしずめ、Writerならぬ、「Righter」といったところです。

現在はこの意味が「暴力より学びの方が強い」という意味に変化しましたが、現在の定義では、ペンをライトセイバーの如く振り回して切り掛かっているような感覚で暴れている様が剣で、正しく使いこなせるようになってからペンになるのかもしれません。この言葉の定義が変遷したように、炎上というものも一過性のものとなり、力をうまくコントロールできる正しい言論がペンとなり、炎上も風化していくのかもしれません。fighterよりWriterは強し、という流れをうまく加速していきたいものです。

火を灯すライターはlighterと書きますが、火の発明というのは、暗がりの中に明かり(light)を灯すもので人類の発展に大変に大きな力を与えたものです。
この火が人類の文明を発展させましたが、その一方で焼畑農法などにより砂漠化も促進させています。
昔の風刺画に、お金にライターで火を点けて、ほら足元が明るくなっただろう、なんていうものがありましたが、そういう無駄な使い方ではなく、知的に質の良い使い方を心掛けたいものです。


若い頃の記憶は時間と共に美化されたりして不正確なものだったりしますが、ふとしたキッカケで色々なことが鮮明に思い出されたりします。

現在の自身の根源的なものが何かを知る上で過去を正確に知ることは意味があることで、多くの人生の選択が意外と少ない初期条件によると気がつくかもしれません。
一見複雑なカオスにみえることでも、初期条件というのは意外に少なく、歳をとってからも続く行動規範が形成される過程というのも、若い頃の実に下らないキッカケだったりするものです。

日本は学生の期間が長く、また、高校生くらいまではほとんど自由がない詰め込み型教育ですので、わりと近い価値観を共有している期間が長いですが、減点方式の日本型教育では価値観に個人差が付きやすい部分は失敗談のようなものでしょう。

特に酷い失敗や嫌な思い出や苦しい思いなんかは、ポジティブな面でもネガティヴな面でもずっと記憶や潜在意識に残って強い影響を与えたりします。

一般的なコースは、小学生、中学生、高校生、大学生というコースでしょうけど、ションベン小僧ではないですが、小学生の糞ガキ体験や、中学生くらいのチューのことばっかり考えてるマセ餓鬼のような体験や、高校生くらいで進学のことを真剣に考え始めて、柄にもなく急にみんなが親孝行とか言い始める体験や、大学生になって大学デビューしてからやらかしたウンコみたいな体験やら、この辺りでは個人差が大きかったのではないでしょうか。

人生において特に大きな影響を与えるのは、大病や戦争のような死を意識するような出来事であるといいますが、マイナス体験というのは、それをうまく受け止めることができれば自分の成長に繋がります。例えば、病気で苦しんだから、病気を根絶したいと思うようなポジティブな欲求というのは強力な学びのエネルギーとなります。

そういった悪い体験を消化できず他人へも苦痛を味合わせたいというような方向へエネルギーを向ければ、他人の足を引っ張るだけのような非常につまらない将来になるでしょうし、他人の足を引っ張っているつもりで、自分自身がそのトラウマに引き摺られることになるでしょう。

つまり、学生の頃の糞みたいな失敗体験も、学ぶことで、うまく発酵してやれば肥料となり芽が生えるキッカケになるのでしょう。
「○がクセー」存在としての「学生」ではなく、学んで生えて逞しく生きる学生であるべきでしょう。


よく業界や狭い地域の特殊さを「○○村」なんて表現をしますが、その特殊さがどこから来ているのかということを考えると、その村の人たちの都合のみで村の外と話して噛み合わない様を指すのでしょう。

同一の利害関係の人たちのみで集まるのが「村」の特徴ですが、利害という言葉は自分達の利は他人の害と表裏一体となる言葉で、村の民の意識は、村人たちの利益のために、外部から利益をぶんどってくるというものになりやすいのでしょう。村の中を味方、それ以外を敵というような二極的な考え方となりやすいように感じます。

良く村八分という言葉がありますが、同一の利害関係者の集団からみると、自分たちの方針に従わない人は敵なのでしょう。村というのは外部に対して閉鎖的な面もありますので、内部の意見の合わない人に対して攻撃を向けがちになり、村八分というのは、内部に近い外縁の人に向けられがちです。そうやって、村のボスの方針に従わない人は次々と排除されるため、村はますますボスの特殊な「論理」に染まります。

自分側の利のみを考えたフィードバックの無い論理というのはどこかで破綻します。論理が破綻しているのに権益を守ろうとすれば暴力的になります。その暴力が外部に向けば過激派ですし、内部に向けば内ゲバです。

人は長期的におかしな論理を押し付けられた時には、次第に考えないようになり、目の前の問題に盲目になります。村の中で村八分を繰り返し、村人内でおかしな論理を押し付けあえば、互いに盲目になります。民という文字は、目が潰れた人という意味ですが、ムラノタミというのは、ありもしない共通の利益を守ろうとして互いに目を潰し合っている様なのかもしれません。

村には考えのむらが必要なのでしょう。多様性としてのむらを許容する意味でのムラ、他人の価値観や立ち位置の差異に対して目を瞑れるタミ、であることが望ましいのでしょう。

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