東京大学陸上運動部ブログ

現役部員が競技生活・日常生活を思い思いに綴ります。

134. .أَلتُّفَّاحَةُ جَمِيلَةٌ 瀬川@長2

※以下の内容はたかが一学生が授業を受けて得た知識をそこはかとなく書きつくったものです。「ホンマでっか!?」という姿勢でお楽しみください。くれぐれも真に受けたりせず、この中の内容を紹介する時は、一次情報の確認をし、それが困難であれば、「あくまで瀬川という一学生の戯言なんだけど…」と必ず前置いてから話してください。よろしくお願いします。なるべく正確性は期してなんども確認しましたが、真偽のほどは責任を負えません。

上の題名は、「りんごは美味しいです。」と書いてあります。至って平凡な文ですね。間違っていたらご指摘ください。

こんにちは。長距離2年の瀬川莉玖といいます。多分まともに自己紹介したことがないですよね。レポートに追われていたら(ターム制の物性化学という授業をとっていて、昨日までがS1タームだったので提出期限が迫っていました。)、ブログ投稿が遅れてしまいました。日常に何も起こらなさすぎて書くこともないので、題名から察せられる通り、言語の話か何かをしようかな、と思いつつ、「硯に向かっている」次第です。徒然なってはいませんが…。ちなみに私はりんごというより梨派です。

そういえば、硯に向かうといえば皆さんご存知、兼好法師の徒然草です。今この徒然草を読む授業をとっていて非常に興味深いのですが、なんでも、兼好法師、全然暇じゃなかったみたいですよ。友達もかなり多かったらしいし。徒然、というのは、やることがない、みたいな意味ですから、もし暇じゃなかったなら序段も序段、初っ端から嘘つきなわけです。というかあの時代、あんな雑談めいたことを、貴重な紙に書くなんて普通じゃないみたいで、知り合いと話して終わり、みたいな感じだったみたいです。まあ理解できますよね。しかも、「硯に向かう」という表現も違和感があって、つまり、硯っていうのは本来文字を書くための手段でしかないのだから、それが目的化されてることに違和感があるみたいなんですよね。実際、この表現は古典の中に一つぐらいしか出てこないらしくて、この表現が使われたのが、源氏物語らしいです(紫式部日記にもあったっけな、とにかく少ないです)。何か伝えたいことがあるから書くのではなく、何かを書きたいと思ってとりあえず硯に向かう。現代の我々がツイッターでしょうもないことをつぶやく感じに似ています。で、じゃあなんでそんな嘘までついて書いたんだとか色々あると思います。これには、彼が出家をした仏教徒であった、というところに起因します。仏教というのは執着をなくす必要がありますから、後世に残すためになされる文学、というのは似つかわしくないんですね。しかし、何かを書きたい、そう思って、”誰か”に仮託して文学を始めたわけです。土佐日記で、かなで和歌を書きたかったから女性仮託した紀貫之みたいなもんです。文字を書く時は仏教徒であることを脱したわけです。その時の苦し紛れの言い訳だったのでしょう。「暇だったからとりあえずtwitter開いてみたら、なんかつぶやける気がして色々つぶやいてみたら狂おしいほどの気持ちになった。」現代風にいうとこんな感じになると思います。つまるところただのツイ廃です。で、アプリを閉じて、無意識にまたtwitterを開いている、と。硯に向かうというのはこういうイメージみたいです。で、誰に仮託していたのかというと、授業によるとあの、「光源氏」らしいです。(前半の段だけの仮託で、後半は兼好法師そのまんまだったはずです。なぜ前半だけだったのかは、確か、前半である程度完結していたからだったはずです。これは源氏物語との関連性を見ていくとわかります、確か。)これには色々理由があって、さっき、「硯に向かうという表現が源氏物語に見られる」と話したことも関係していたはずですが、復習不足でまだ理解しきれていません。今から授業資料を見直そうと思います。気になった人は僕に直接聞くなり、来年開講されるなら日本文化論Iを取るなりしてください。中野先生、僕がここまで書いてきたことあってますか…?

冒頭で言語の話をすると書いたので一応言語の話もしておきますか?といっても自分は理系だし、ドイツ語とフランス語とアラビア語しかやってません。言語比較とかの話はあまりできないと思います。アラビア語なんてまだまだ序盤だし。

前に文字について調べた時知ったんですが、ラテン語とかそこから派生したフランス語とか、あとはゲルマン語族のドイツ語とか英語とかで使われている文字は基本ギリシャ文字が元になっているはずで、ギリシャ文字のさらに源流から二手に分かれたうちの一つの流れにアラビア文字があったと記憶しています。あ、画像見つけましたこれです。下に出典先のpdfも載せておきます。p.8にこの図があります。もし掲載NG等あればこの記事の該当部分を削除いたしますのでご連絡ください。

Screen Shot 2020-06-01 at 11.41.57

出典:http://moji.gr.jp/script/arabic/Arabic.pdf

そんなわけで、自分が今季履修してるアラビア語って割と異質なんですよね。キリル文字もギリシア文字系列みたいですから、すごく変わった文字に見えるあいつらとも一線を画しているわけです。母音が現れたのも確かギリシア語からですしね。(アラビア語には母音字がありません。子音字のみで構成されています。発音する際には母音付きで発音されますが、どんな母音が来るかは知識がないとわかりません。ちなみに、アラビア語で用いられる母音は、短母音a i u と長母音ā ī ūだけです。「え」や「お」の音をアラビア語で表現したい(人名など)場合は、口の開き方が近いi、uで代用するみたいです。)ちなみに左から右に書くようになったのもギリシア文字から、だったはずで、なんだかロマンを感じますね。日本語もかつては右から書くのが普通でしたが、あれは漢文の流れを汲んでいるのでしたっけ。そもそも漢字はどういう起こりなんですかね。また別の系列からの発生であるとしたら、文字って起こるときは右から左に向かって表記されるように開発されるのでしょうか。(あ、でもヒエログリフとかは左から右に書かれていましたっけ…。)面白くないですか。別に僕は面白いとは思っても専攻しようとは思いませんが。いつか誰か一生懸命研究して教えてください、というスタンスです。これに関しては。その研究を理解できるくらいには勉強したいとは思います。

りんごは美味しいです。という文は、英語で書くと Apples are good. でフランス語で書くと Les pommes sont bonnes. 、ドイツ語で書くと Die Äpfel sind lekere. となりますか?この辺の文法構造は大体似通ってますよね。英語で定冠詞が落ちるのと形容詞が変化しないことくらいが特殊でしょうか。英語は比較的新しい言語だったはずなので、そういう変化があってもまあ理解はできます。英語は特殊だよなあ、と思うようになっただけ、言語をいろいろやった甲斐がある気もします。発音も英語は例外多いし。これは印刷技術の発展あたりの話とも絡んでくるらしいので本当に、言語というのは生きてるんだなあ、とありふれた感想を抱きます。ちなみに題名にあるアラビア語は、أَلتُّفَّاحَةُ の部分が「(その)りんご」で、جَمِيلَةٌの部分が、「美味しい」(の女性形)です。えっ、アラビア語って動詞ないんですか、って話なんですけど、英語でいう第二文型の形の文で、かつ肯定文には動詞が必要ない、というのが僕の理解です。僕はまだ習ってませんが、否定文においては、英語のbe動詞にあたる語も出てくるらしいです。じゃあどうやって文を構成するかという話ですが、これはアラビア語で「名詞文」と呼ばれるもので、限定語と非限定語を組み合わせることで文を作ることができます。

例えば、
أَلتُّفَّاحَةُ جَمِيلَةٌ
という先ほどの文では、りんごの方に定冠詞がついていて、美味しいの方には定冠詞がついていません。こういう時に、「りんごは美味しい。」という文になります。
تُفَّاحَةٌ جَمِيلَةٌ
という風にすると、何が変わったかわかりますか?さっき「(その)りんご」だ、と紹介した語からأَلという先頭の部分が抜けています。この先頭についていたأَلというのが定冠詞なので、これは「りんご」と「美味しい」どちらにも定冠詞がついていない、つまりどちらも非限定語だということになります。こういう風に非限定語が並べられると、「(ある)美味しいりんご」というただの形容された名詞(名詞句)になります。文にはなりません。アラビア語はフランス語のように後置修飾なんですね。ここで勘のいい人は気づかれたと思いますが、
أَلتُّفَّاحَةُ أَلْجَمِيلَةُ
というように限定語を並べると、「(その)美味しいりんご」という名詞句になります。つまり、名詞句が限定か非限定かは、両方に限定詞أَلがついているか否か、で決まっているんですね。で、名詞は限定だけど、形容詞は非限定、みたいにバランスが崩れている時には文になるわけです。面白くないですか?あと、こっそり書いてましたが、名詞文でも名詞句でも、形容詞と名詞で性数格一致が起こります。これはドイツ語と似ていますね。ドイツ語は基本、句のはじめの方の語しか格変化しませんが(句の後ろにも格変化が残存したりもします)。でも英語でいう第二文型の時はどちらも主格で書きますよね。
ちなみに定冠詞أَلがつく時に、発音される母音や子音が少し変化するのですが、それに関してはやや複雑なのでここでは言及しません。上の三つの例文の中でも、文字についた点々とかが少し変化していることに気づいた方もいるでしょう。
文字についている点々は母音符号と呼ばれて、その子音にどのような母音がつくか、あるいはつかないか、などの情報を表している記号です。自転車でいう補助輪みたいなものです。教養のあるアラブ人はこの母音符号がない文字列を平然と読むらしいです。意味わからん。コーランは神の言葉ゆえ絶対なので、読み間違いを防ぐために全文字に母音符号が振られています。

とまあここまで、くどくどと徒然草やアラビア語について徒然なるままに書いてきました。なるべくわかりやすく、かつなるべく正確性を期そうとしたらかえってわかりにくくなってしまった嫌いがありますが、いろんな言語との関わりを見ながら面白さを感じていただけたら嬉しいです。

ここまでお付き合いして下さり、ありがとうございました。
次の人はコメント欄で指名します。

133.短2旅行@金沢 永本@跳3

こんにちは!

最近は何もできない日がずっと続いていて、みんなのブログもそういう感じなので、少し前に外出をした話をほのぼのと書いていこうと思います!

春休みに入ってすぐのことなので自粛期間中に行ったわけではないということだけ誤解しないでください。

馬上くん、増田くん、石飛くん、植松くん、高村くんと今思うと香ばしいメンバーでの旅行でした。






まず最初の思い出は行きの夜行バスです。
前日にしっかり眠れるようにとUの字型の枕をわざわざ買ったのですが、バスの下の荷物にいれてしまったうえに、コンタクトの洗浄液とケースも一緒にしまってしまったので、一睡もできませんでした。
いい思い出です。


他の思い出としてはやっぱり食べ物ですね。

金沢のどぐろの旅_200525_0013
金沢のどぐろの旅_200525_0079

近江町市場というところでおいしい海鮮のお店がいっぱいありました!
ぼくは食べ物には少しケチなのですが、あまりにもおいしかったので3日間の中でだんだんと使う額が増えていきました。

短3は常日頃から、ラーメン派vsラーメンアンチ派や、食べログ評価派vsコスト派の対立がおきているのですが、今回はのどぐろを食べに行くか行かないかというところでバトルしたり、晩飯をラーメンにするか自炊にするかというところでバトルしたり、温泉に行くか行かないかということでバトルしたりしました。多様な価値観とは素晴らしいものだ思います!





あと初めて雪を見ました!

金沢のどぐろの旅_200525_0201
金沢のどぐろの旅_200525_0131

僕は純粋に雪や景色を楽しんでいたのですが、やんちゃな増田君や植松君が雪を固めてぶつけてくるので大変でした...


あと21世紀美術館なるものにも行きました!
現代アートって奥が深いんだなぁと思いました!


深い意味とかは無いですがJD短3
Inked金沢のどぐろの旅_200525_0015_LI
いいしゃですね~


最終日は温泉派とカフェ派に分かれたのですが、温泉派はこいつの運転で死にかけたらしいです。

Inked金沢のどぐろの旅_200525_0158_LI
香ばしいですね。




最後ですがやっぱりコロナが収まって早く練習で再会できたらうれしいです。

次の人はコメントに書きます。

132.恥の多い生涯 田中@中2

こんにちは。佐藤先輩から回していただきました。中距離2年の田中です。

 

最近は全然出歩かないので、近況といってもあんまり出来事がないです。でもその分小さな出来事でも結構心に残っていて、気づくと3日前のバイトでの失敗を思い出して恥ずかしがっていたりします。感情というのは色々ありますが、僕の中では昔から恥じるという感情が一番強烈で、恥ずかしい思いをしないという目的のために自分の思考法や習慣を意識的に作ってきたような面があります。面白いことに今考えるとそうした努力は完全に裏目に出ていて、そのせいでより一層恥ずかしいことになっている気がします。

 

例えば小学生の僕にとって一番恥ずかしいことは人前で泣くことでした。小学生が泣いてしまう理由といえば大人に怒られるか同年代と喧嘩するかくらいしかないと思っていたので、それらを回避するために頭をひねりました。一つ目は簡単で、優等生になればいいのです。勉強を頑張って、「悪いこと」をしなければいい。あの頃はいたずらをして先生に怒られてばかりいる同級生を、あいつらは自分の欲求を抑えることもできないのかと冷ややかに見ていました。でもそんな風に思っていられたのは最初だけで、中学生くらいにもなれば人並みに反抗心も芽生え、優等生なんてかえってダサいと思いはじめます。しかし人の目が気になって結局何も変わらず、大学生まで来てしまいました。なんだかんだ優等生の方が将来的にはいいんだろうなという損得勘定もあったように思いますが、それも自分への言い訳なのかもしれません。

 

友達との喧嘩の方は、自分の感情をコントロールしてなるべく表に出さないことで回避しようとしました。誰かにからかわれたりちょっかいをかけられたりしても、自分はこの程度で心を乱すような人間ではないと思い込む。たとえ怒りが湧いていてもそれを見せないであえて仲裁する側に回る。この戦略はうまくいって、僕は喧嘩で泣いたり泣かせたりした経験があまり記憶にないです。しかしその弊害というか、自分は怒りの感情が人に比べて弱い気がします。それだけならまだいいのですが、長年感情を押し殺してきたせいで、喜怒哀楽の全てが麻痺してしまっていて普通よりも弱く、感情表現も下手くそです。さらに悪いことに、恥という感情は押し殺すどころか発生もしないように必死になって回避してきたので、耐性ができていません。そのせいで、ちょっと失敗しただけで、恥をかいてしまったと考えて大ダメージを食らってしまいます。

 

この歳になってしまうとこんな自分の性格はもう変わらないと諦めてしまっているので、なんとかうまく利用する方法を考えています。ありきたりですが、他人からの目線を恥の基準にするのではなく、基準を内面化することによって自分を律する、とかいうことです。もっとも意志が弱いせいで全然できず、最近は陸上に対する取り組みもうまくいっていません。やはり他の部員に刺激を受けながら練習ができる環境が早く戻ってきて欲しいです。

 

つまらない自分語りになってしまいましたが終わります。次の人はコメントに書きます。

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