感想文を提出いたします。(別館

観たり聴いたり行ったりしたものの感想をだらだらと。。。

怒り

怒り(2016)
20171001_01

2017.10.01.
鑑賞状況:やや寝不足
wowow放送 14:00~
uzazo評価:★★★★☆

原作・吉田修一、監督・李相日という『悪人』と同様の組み合わせ。
『悪人』は好きな作品なのでいつか観てみたいと思っていた。

そう思いつつ何度も何度も見る機会はあったのだけれど
サゲサゲマインドで中々気が乗らず先送り。

何気にあわせたwowowで調度放送が始まったので
途中で逃げる気マンマンで視聴開始。

事前情報で「今は気分では無い」と逃げ腰になっていた訳ですが
実際、ズッシリとのしかかってくる重い内容・テーマではあったものの
グイグイと引き込まれて結局最後まで視聴。
素晴らしい作品でございました。


原作小説未読なので映画としての感想。

内容に触れない範疇の感想としては
出演されている俳優さんの素晴らしい演技、
緊張感のある絵づくり、
そしてなによりもミステリーとしての面白さを保ちながら
重厚な群像劇・人間ドラマを描いた見事な作品だったと思います。


ネタバレは避けますが内容に少し触れます。

ある殺人事件の犯人が逃亡している中
3つの場所に現れた素性の知れない3人の男と
その男達に関わった人々を描いた群像劇。

疑念が膨らみ続ける物語の最後に描かれるのは
タイトル通り「怒り」であるのだけれどその怒りの矛先は
「信じた者」と「信じられなかった者」で大きく変わる。

信じられなかった者は自分に怒りの矛先向け
信じた者は裏切られた対象に怒りの矛先を向ける。
向けるべき矛先を失ってしまった怒りは叫びへと変わる。

この物語が秀逸なのは視聴者は登場人物達と同様に
素性の知れない3人の男への疑念を膨らませ
「信じる」という事の難しさを体感し
その意味を深く深く考えさせる部分にある。

この物語は
「信じる事は難しいけれど信じる事が美徳」などという
薄っぺらで甘っちょろい結末を迎える事は無い。

一見すると

「信じられなかった者」の自らに向ける怒り
「信じた者」が裏切られた対象に向けた怒り

の様に見えるこの物語。
しかしちょっと思いを馳せると
決してそう単純な事では無いという事に気がつく。

「信じられなかった者」は自らに怒りを向けるが
「信じてもらえなかった側」は怒ってはいない。

各々状況も結末は違うものの乱暴にザックリと言ってしまえば
信じられなかった事に自らに怒りを向けるほど
その相手と真に向き合った結果であって
向き合ってもらえた相手は決して不幸であった訳ではない。

一方「信じた者」は裏切られた対象に怒りを向けるが
その「信じた事」は対象自身を信じていたのではなく
自身の抱える問題の共有者(共犯者と言ってもいいかな?)として
信じていたのであって実は自己中心的な理由だったりする。

つまり言葉にすると同じ「信じる」でも
その形は多種多様で訪れる結果も全て違う。

そして物語を見終えた後わからない事がいくつか残る。

その最たるものは殺人犯の「怒」は何に向けられていたのか?

しかし物語を見てわからない事は描かれていないのではなく
「わからない」という事が描かれている。

『悪人』と同様一言で片付けられない「何か」
形にしがたい「何か」を人々の関係性の間に
浮かび上がらせる素晴らしい作品でした。

現実にあった事件を想起させる設定である上に
非常に重苦しいテーマを扱った作品で
救いの無い部分も残るのですが
全く救いが無い訳でもなく
絵的な説得力で視聴者をある程度解放してくれる
バランス感覚がスゴイと思いました。

オススメします。

野田版 桜の森の満開の下

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先週末、歌舞伎座にて八月納涼歌舞伎の第三部
「野田版 桜の森の満開の下」千秋楽を観てきました。

昔、自らを坂口安吾の生まれ変わりとうそぶいていた野田秀樹氏が
夢の遊眠社 時代に坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を
モチーフに作劇した「贋作・桜の森の満開の下」の歌舞伎版。
ボクは 夢の遊眠社時代・NODA・MAPでの再演を観ていたので
内容は知っていたのだけれど美しく・素晴らしい芝居である事が再認識できた。

歌舞伎で「桜の森の満開の下」と聞いたときに
まず思い浮かんだのは十八代目 中村勘三郎。

20年以上前になると思うが
当時の中村勘九郎の密着ドキュメントの番組の一コマに
「本当に来ちゃいました」と照れながら楽屋挨拶に訪れた
野田秀樹氏の姿が映されていた。
初対面以来、二人は盟友となり勘三郎さんが野田さんに
「歌舞伎を書いてくれ」と依頼したり、
酔っ払った勢いで二人で真夜中の歌舞伎座に忍び込んでみたり、
といろいろなエピソードが漏れ伝わってきたのだけれど
その一つに「桜の森の満開の下」がある。

現代劇として作劇された作品でありながら
歌舞伎の世界観と重なる部分も多いという事で
「歌舞伎で「桜の森〜」を」という話題がお二人の間で出ていた。
その後、作・演出 野田秀樹の歌舞伎は別の形で実現する事になる。
今となっては現代劇の作家・演出家が歌舞伎に関わる事は珍しい事では無くなった。
けれど当時、歌舞伎の総本山ともいうべき歌舞伎座で
現代劇の作家・演出家(しかもそれが野田秀樹氏)が関わるというのは事件だった。

後に勘三郎さんが何度も語っていたが野田氏の書いた台詞にあった
「ジェラシー」というカタカナ言葉を
歌舞伎座の舞台で言って良いものか…とかなり悩んだそうだ。
「型破り」なんて言葉がついて回る勘三郎さんであっても、
こと歌舞伎座という舞台ではたった一つのカタカナ言葉に悩む。
当時はそういう状況だった。

野田版歌舞伎が産まれる以前から話題に出ていた「桜の森の満開の下」は
残念ながら中村勘三郎主演で実現する事はなかったが
長い時を経てついに歌舞伎座での上演が現実のものとなった。
勘三郎亡きあとにも新しく産まれた歌舞伎の流れは
一代限りで途絶えること無く流れ続けている。
その事を確認できた素晴らしい舞台だった。

「ジェラシー」という言葉に悩む時代はとうに過ぎ
事件であった新しい歌舞伎の形は今や普通の事になった。
そしてこの新たな流れが脈々と続いていく事でやがて伝統の一部になる。
その後にはまた新たな事件が起こるのだろう。

いつか近い将来、新しい事件を自ら企て
それでも歌舞伎を歌舞伎たらしめる事ができる
古き型と新たな試みを同時に体現する事ができる役者が存在するのか。

「野田版 桜の森の満開の下」。

主演を務めたのは六代目 中村勘九郎。
彼の演技には確かに中村勘三郎が宿っていた。
この舞台で最も難役であろう夜長姫を見事に演じきった中村七之助。
二人のその姿に脈々と紡がれていく伝統の先端を観る事ができた。

一方、野田氏が直近でNODA・MAPの新作として発表した『足跡姫』は
出雲阿国から始まる脈々と紡がれる演劇の流れを描いた作品であり、
次に上演される「表に出ろいっ!(英語版)」は
勘三郎さんが野田氏の現代劇のフィールドに乗り込んできた作品の再演。

弔辞で
「いまはまだ君の死を、君の不在を真正面から見ることなどできない。」と語った
野田秀樹氏も何かを乗り越えて新しい場に向かおうしているように見える。

一演劇ファンとして脈々と紡がれていく行く流れの一端に
立ち会えたのは非常に喜ばしい。



さて「野田版 桜の森の満開の下」の感想。

前述の通り素晴らしい内容で出演者の皆さんの熱演はもとより
脚本の持つ強固さを再認識する事ができました。

ただ好みの問題もあると思うのですが
少々不満に思う事もなきにしもあらず。

それは観劇後の後味があまりにもNODA・MAPに似ていた事。
もちろん「桜の森〜」が歌舞伎と相性が良かったために
そういう印象に仕上がった部分もあると思う。

しかし特筆したいのは音楽の部分。

散々書いて来ましたが誤解無き用にあえて書きますが
なんとなく受け継がれてきた慣習、タブーなどは
野田版歌舞伎において気にする必要は無いと思います。

野田さんが演出する上で
「歌舞伎を歌舞伎たらしめている部分以外はそぎ落としてやろう」
「現代劇と歌舞伎の距離を一気に詰めよう」
という哲学を持って演出されているのであれば
そういう方向もあるのだと思う。

しかしラストにババ〜ンと感動を煽るような音楽が
スピーカーから流れ、さらには夜長姫の声もスピーカーから。。。

個人的にNODA・MAPの音楽の使い方も
好きではないという部分もあるのだけれど
それを差し引いたとしても鳴り物がある歌舞伎の舞台では
不自然に付け足されたモノに感じてしまった。

NODA・MAPの初期に見られた
観客の想像力を信頼し舞台上にあるものを最大減に活かして
魅せる演出が好きなボクから見ると、あるのにあえて使わない
不自然さが今回の「桜の森の〜」の減点箇所のように思う。

音楽にしても声にしても「生」である事はそれだけで
情動に訴えかけるモノがあると信じているボクからすると
どうしてもガッカリポイントになってしまう。
(エッグの感想でも同じような事を書きましたが…)

しかしまぁ、
それもこれも野田さんなりの哲学があってそうしているのであれば
素人風情がやいやいいう事では無いと思う。

ただ野田秀樹氏と中村勘三郎さんであれば
お互いに演出についてよりよいものにするために
「慣習という曖昧なタブーの破壊」VS「歌舞伎としての美学」のような衝突が
あったのではないかと想像すると勘三郎さんがいなくなった事で
パワーバランスが崩れた結果NODA・MAPに似た後味になったのならば
以降の野田版歌舞伎の行く末が心配になってしまう。

そんな事を思いながら帰路につきました。

浅瀬から見る「憲法」と「地政学」 @モーリー・ロバートソン チャンネル【終】

  • June 07, 2017
  • TV
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公開されているアノ映画やコノ映画を観に行かねば、
撮りためているアノ映画やコノ映画を観ねば、
と思っているのですが現在サゲサゲマインドで
中々外に足が向かずブログ更新停滞中。

なので本日はオススメの番組。

と、言ってもニコ生の番組で
しかももう最終回を迎えてしまった
「モーリー・ロバートソン チャンネル」

TVへの露出も多くなっているのでご存じの方も多いと思いますが
彼がニコニコ動画で持っていた番組で先日最終回を迎えました。
独自の切り口・ゲストで様々なテーマを扱っていた番組で
モリーの聴き手としての知識量とゴキゲンオジサンな感じが
非常に楽しく毎回楽しく見ていました。

8月(だったかな?)過去アーカイブも消えてしまうという事で
個人的に面白かった回を2つほどご紹介。


このエントリーのタイトル「浅瀬から見る〜」からして
腰が引けていますがワタクシ学が無いもので
難しい話題は苦手です。
あくまでも番組を紹介しているだけですので…

過疎ブログだから大丈夫だと思いますが
コメント欄とか炎上しても総スルーの構えです。(笑


番組では時事ネタを扱う事も多いのですが
内容的にはタイムリーな憲法の話。

井上達夫×モーリー
「護憲派と憲法の涙」…リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください



この番組は安保法制が話題になった時に放送されたのですが
憲法について語られているので改憲論議が盛り上がっている
今見ても非常に楽しいと思います。

ゲストは右にも左にも怒りまくる「怒りの法哲学者」井上達夫さん。
とにかく面白いんですが井上先生の言っている内容が
ボクが高校生の頃から思っていた事とピッタリ重なってビックリ。

もちろん学の無いボクが同じレベルで考えているという訳がありせんし
おこがましいですが理屈とスタンスが同じである事がウレシくスッキリ。

もちろん難しい問題でイロイロなスタンスの人がいると思いますが
番組を見ると右・左、改憲派・護憲派、などザックリとした塊ではなく
細分化されているそれぞれの立場とそれぞれの欺瞞が見えてきます。

憲法については今後もズット話題になり続けると思うので
考えの手引き的な内容だと思いますので是非に。




もう一つはタイムリーとは言い難いですがとにかく面白い

高橋洋一×モーリー
「地政学で振り返る2015年の世界NEWS」



この番組のゲストは財務省の幹部に
「高橋は三回殺しても殺し足りない」と言われた
経済学者・数量分析者である高橋洋一さん。

地政学とは地理的な環境が国家に与える
政治的、軍事的、経済的な影響の事ですが
そんな事より何より初対面の2人(高橋さん・モリーさん)が
ぐんぐんドライブしていく対話が面白いです。

典型的な天才、高橋さんに負けない知識量の
聴き手としてのモリーさんの良さが最大減に発揮されていると思います。

前半に出てくる中国に民主主義を広める方法や
中盤の中国の覇権主義を表す「い・た・だ・き」というワード、
終盤のギリシャ危機に対する見解。

とにかく爆笑の連続です。



「新たな場を求めて」という前向きな終了だそうですが
面白い番組だったのに個人的にはザンネン。
過去動画が見られるウチに他の動画も見直してみようと思っています。

マジカル・ガール

マジカル・ガール(2014)
Magical Girl

20170512_02


2017.05.12.
鑑賞状況:やや寝不足
wowow 録画視聴
uzazo評価:★★★★☆


劇場公開当時、大変良い評判を聞いていて
観に行けなかった「マジカル・ガール」。

wowowで放送されていたので録画視聴してみました。


なるほどっこれは面白い。


どんな内容なのか知らずに観ていると
アレよアレよと全く知らない場所へと連れて行かれてしまう。
ストレートなフィルム・ノワールの傑作でした。

ニヒリズム的なユーモアを交えながらも
物語で巧妙に省略されている部分を想像させられ
ショック描写がほとんど無いにもかかわらず
見終わった後にはとても陰惨な物語を見た気分になる。

先が見えない暗闇の中を進んで行くような
この物語は詳細を知らないで観た方が楽しめるので
まだご覧になっていない方はココでお別れです。

wowowメンバーズオンデマンドでも配信されていますので
wowowに加入されている方は是非に。



余命わずかな娘の希を叶えたい父親が
金策に奔走する事でホンの少しのズレから歯車が狂いはじめる。

別に難しい話でもなくホントにストレートに面白い物語です。

フィルム・ノワールってファム・ファタールに
翻弄されてとんでもない世界に足を踏み入れてしまう物語ですが
見終わってみると2人のファム・ファタールの物語。

冒頭の

完全な真実というのは
常に答えが同じであり
つまり 2+2 は 4 なのだ


ジグソーパズルの最後のピースのありか

余命わずかな娘・アリシア と その父親・ルイス。
バルバラ と ダミアン

4人の運命のピースは常に答えは変わらない。と
冒頭で暗示させている事を思うとぞゾクッとしてしまう。


そしてどうしても「まどマギ」が重なって見えてしまう。

「まどマギ」のネタバレ入るのでご注意を。

「まどマギ」は魔法少女が成長すると魔女になる訳ですが
物語冒頭、少女として登場するバルバラは成長して魔女になります。
一方余命わずかな少女アリシアは魔法少女になった。

円環の理に導かれていく4人の物語。

そんな風に見えました。


そして物語冒頭、魔法少女であったバルバラ。

教師であったダミアンに授業中に持っていた
メモを読み上げさせられ「そのメモを渡しなさい」と
命じられるも渡す事は出来ないという。

「なぜなら持っていないから」

と、手を開くとメモが消えている。

ラスト・ダミアンは対になるように

「携帯電話を渡せない。なぜなら持っていないから。」

と手の平から消す。


ここで2人は対等の立場になれたのか?

決して対等にはなれていない。
なぜなら冒頭で少女バルバラが見せた魔法は
メモを手の平から消すことではない。

あの時に読み上げた言葉なのです。

読み上げるよう命じられたメモには
実は何も書いていない。

彼女の使った魔法は言葉そのものなんです。


この冒頭シーンを観た時に引っかかって
視聴後再度一時停止しながら確認しちゃいました。


これはボクが引っかかった印象的な部分なんですが
スミからスミまで丁寧に演出されていて
グイグイと物語に引き込まれてしまう。

名作だと思います。

マーベル展 @ 六本木ヒルズ展望台 東京シティビュー

20170504_01


世の中GWらしいではありませんか。

「混んでいる時に出掛けるのは愚策」という持論を展開したのですが
ヨメ氏に「混んでない時も出掛けないではないかっ!」と軽く論破され
イソイソと出掛ける事にいたしました。

とはいえ何も考えていなかったので美術館巡りっ

のハズが GW の混雑を見くびっておりました。。。

最初に訪れた「マーベル展」で疲労困憊。
予定していた他の美術展はまたの機会に。

六本木ヒルズ展望台にて開催されていた「マーベル展」。
なんと入場まで1時間弱かかる大盛況。

入場するとあり得ない程の大きさのアイアンマンお出迎え。(写真:左)
シンボルとしてはいいのですが 1/1 を超えてしまうスケールに違和感。
と、思っていましたらちゃんと 1/1 スケールの展示もありました。(写真:右)

この2箇所は撮影OKエリア。

20170504_02


で、展示の内容なんですが

各アメコミの原画・掲載誌。ヒストリー。
映画撮影に使用された衣装・コスチューム。
映画各作品のコンセプトアート。

といった感じ。

情報展示の側面が大きいので激混みの状況では
正直「展示を楽しみきる」というのは難しい。

できれば空いている時に行くのが良いですね。

混んでいる時は体力勝負になってくるので
ワタクシ達体力無し夫婦はザザッとめぼしい所を見て終了。

まぁでも楽しかったです。


で、開場を後エスカレーターを下りますと
期間限定の MARVEL ホットトイズストア。

ストア内には 1/1 マーベルヒーローがお出迎え。(写真)

20170504_03


写真には納めていませんが販売している商品も
キレイにディスプレイされていて
イグジット・スルー・ザ・ギフトショップならぬ
美術展本編の延長戦といった感じ。

ワタクシ模型趣味でありながら模型イベントに行った事もないので
ホットトイズの商品をこんなまとめて見る機会は初めてでした。

ストアの方も美術展と同じぐらい楽しめました。


他に行こうと思っていた美術展は機会があれば…といった感じなんですが
一つ絶対に見ておきたい展示があるのでそれだけはなんとしても会期中に…

ちゃんと見に行けたら感想書きます。
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