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観たり聴いたり行ったりしたものの感想をだらだらと。。。

野田版 桜の森の満開の下

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先週末、歌舞伎座にて八月納涼歌舞伎の第三部
「野田版 桜の森の満開の下」千秋楽を観てきました。

昔、自らを坂口安吾の生まれ変わりとうそぶいていた野田秀樹氏が
夢の遊眠社 時代に坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を
モチーフに作劇した「贋作・桜の森の満開の下」の歌舞伎版。
ボクは 夢の遊眠社時代・NODA・MAPでの再演を観ていたので
内容は知っていたのだけれど美しく・素晴らしい芝居である事が再認識できた。

歌舞伎で「桜の森の満開の下」と聞いたときに
まず思い浮かんだのは十八代目 中村勘三郎。

20年以上前になると思うが
当時の中村勘九郎の密着ドキュメントの番組の一コマに
「本当に来ちゃいました」と照れながら楽屋挨拶に訪れた
野田秀樹氏の姿が映されていた。
初対面以来、二人は盟友となり勘三郎さんが野田さんに
「歌舞伎を書いてくれ」と依頼したり、
酔っ払った勢いで二人で真夜中の歌舞伎座に忍び込んでみたり、
といろいろなエピソードが漏れ伝わってきたのだけれど
その一つに「桜の森の満開の下」がある。

現代劇として作劇された作品でありながら
歌舞伎の世界観と重なる部分も多いという事で
「歌舞伎で「桜の森〜」を」という話題がお二人の間で出ていた。
その後、作・演出 野田秀樹の歌舞伎は別の形で実現する事になる。
今となっては現代劇の作家・演出家が歌舞伎に関わる事は珍しい事では無くなった。
けれど当時、歌舞伎の総本山ともいうべき歌舞伎座で
現代劇の作家・演出家(しかもそれが野田秀樹氏)が関わるというのは事件だった。

後に勘三郎さんが何度も語っていたが野田氏の書いた台詞にあった
「ジェラシー」というカタカナ言葉を
歌舞伎座の舞台で言って良いものか…とかなり悩んだそうだ。
「型破り」なんて言葉がついて回る勘三郎さんであっても、
こと歌舞伎座という舞台ではたった一つのカタカナ言葉に悩む。
当時はそういう状況だった。

野田版歌舞伎が産まれる以前から話題に出ていた「桜の森の満開の下」は
残念ながら中村勘三郎主演で実現する事はなかったが
長い時を経てついに歌舞伎座での上演が現実のものとなった。
勘三郎亡きあとにも新しく産まれた歌舞伎の流れは
一代限りで途絶えること無く流れ続けている。
その事を確認できた素晴らしい舞台だった。

「ジェラシー」という言葉に悩む時代はとうに過ぎ
事件であった新しい歌舞伎の形は今や普通の事になった。
そしてこの新たな流れが脈々と続いていく事でやがて伝統の一部になる。
その後にはまた新たな事件が起こるのだろう。

いつか近い将来、新しい事件を自ら企て
それでも歌舞伎を歌舞伎たらしめる事ができる
古き型と新たな試みを同時に体現する事ができる役者が存在するのか。

「野田版 桜の森の満開の下」。

主演を務めたのは六代目 中村勘九郎。
彼の演技には確かに中村勘三郎が宿っていた。
この舞台で最も難役であろう夜長姫を見事に演じきった中村七之助。
二人のその姿に脈々と紡がれていく伝統の先端を観る事ができた。

一方、野田氏が直近でNODA・MAPの新作として発表した『足跡姫』は
出雲阿国から始まる脈々と紡がれる演劇の流れを描いた作品であり、
次に上演される「表に出ろいっ!(英語版)」は
勘三郎さんが野田氏の現代劇のフィールドに乗り込んできた作品の再演。

弔辞で
「いまはまだ君の死を、君の不在を真正面から見ることなどできない。」と語った
野田秀樹氏も何かを乗り越えて新しい場に向かおうしているように見える。

一演劇ファンとして脈々と紡がれていく行く流れの一端に
立ち会えたのは非常に喜ばしい。



さて「野田版 桜の森の満開の下」の感想。

前述の通り素晴らしい内容で出演者の皆さんの熱演はもとより
脚本の持つ強固さを再認識する事ができました。

ただ好みの問題もあると思うのですが
少々不満に思う事もなきにしもあらず。

それは観劇後の後味があまりにもNODA・MAPに似ていた事。
もちろん「桜の森〜」が歌舞伎と相性が良かったために
そういう印象に仕上がった部分もあると思う。

しかし特筆したいのは音楽の部分。

散々書いて来ましたが誤解無き用にあえて書きますが
なんとなく受け継がれてきた慣習、タブーなどは
野田版歌舞伎において気にする必要は無いと思います。

野田さんが演出する上で
「歌舞伎を歌舞伎たらしめている部分以外はそぎ落としてやろう」
「現代劇と歌舞伎の距離を一気に詰めよう」
という哲学を持って演出されているのであれば
そういう方向もあるのだと思う。

しかしラストにババ〜ンと感動を煽るような音楽が
スピーカーから流れ、さらには夜長姫の声もスピーカーから。。。

個人的にNODA・MAPの音楽の使い方も
好きではないという部分もあるのだけれど
それを差し引いたとしても鳴り物がある歌舞伎の舞台では
不自然に付け足されたモノに感じてしまった。

NODA・MAPの初期に見られた
観客の想像力を信頼し舞台上にあるものを最大減に活かして
魅せる演出が好きなボクから見ると、あるのにあえて使わない
不自然さが今回の「桜の森の〜」の減点箇所のように思う。

音楽にしても声にしても「生」である事はそれだけで
情動に訴えかけるモノがあると信じているボクからすると
どうしてもガッカリポイントになってしまう。
(エッグの感想でも同じような事を書きましたが…)

しかしまぁ、
それもこれも野田さんなりの哲学があってそうしているのであれば
素人風情がやいやいいう事では無いと思う。

ただ野田秀樹氏と中村勘三郎さんであれば
お互いに演出についてよりよいものにするために
「慣習という曖昧なタブーの破壊」VS「歌舞伎としての美学」のような衝突が
あったのではないかと想像すると勘三郎さんがいなくなった事で
パワーバランスが崩れた結果NODA・MAPに似た後味になったのならば
以降の野田版歌舞伎の行く末が心配になってしまう。

そんな事を思いながら帰路につきました。

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