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観たり聴いたり行ったりしたものの感想をだらだらと。。。

『足跡姫』〜時代錯誤冬幽霊〜

『足跡姫』〜時代錯誤冬幽霊〜ときあやまってふゆのゆうれい(2017)

poster

2017.02.19.
NODA・MAP 第21回公演
『足跡姫』〜時代錯誤冬幽霊〜
鑑賞状況:良好
14:00 @東京芸術劇場 プレイハウス ¥9,800
uzazo評価:★★★★☆



長期公演の中盤。
これからご覧になる方も沢山いると思いますので
詳細な内容に触れる感想は避けようと思います。

ただ早い段階で「中村勘三郎へのオマージュ」として
作られた舞台である事は野田秀樹氏自身が語っている。

その意味でこれからご覧になる方は
野田秀樹さんが中村勘三郎さんへ贈った弔辞を今一度思い返して
観劇するとこの物語がより魅力的に感じる事ができると思う。

当時このブログで文字おこしを投稿してあるのでご参考まで。

野田秀樹弔辞全文

また『足跡姫』を観る上で未見でも問題はないけれど
弔辞の中でも触れられている「野田版 研辰の討たれ」は
観劇前でも後でも機会があれば観てみる事をオススメしたい。


「肉体を使う芸術、残ることのない形態の芸術」

という舞台芸術そのものに言及する内容を
中村勘三郎オマージュと銘打って披露された作品。

宮沢りえ演じる“三、四代目出雲阿国”の姿や
物語上の立場の変遷には十八代目 中村勘三郎が重なり
妻夫木聡演じる筋を書く弟“淋しがり屋サルカワ”には
野田秀樹の姿が透けて見える。

そんな芝居のラストシーンはどうしたって
胸にグッとくるものがある。

またこの作品で野田秀樹氏が演じる役が
“腑分けもの”である事も興味深い。

ボク自身は今回1公演しか観ないので
内容に触れる感想に関しては
TV放送などあればその時にでも書きたいと思います。


中村勘三郎と野田秀樹。


ボクのブログには追悼としてのエントリーはホボ無い。
記憶に残る範囲では一度だけだろうか。

好きなアーティストの訃報に触れると
なにがしか想いを書きたくなるのだけれど
ボク以上に想いを馳せている方の存在を考えると
「ボクごときが…」という想いが先に立ってしまい
なかなか書く事が出来ないでいる。

中村勘三郎さんの訃報に触れた時もボクなりの想いがあった。
中村勘三郎さんの舞台は何度も拝見している。
しかし歌舞伎に関してボクはヨメに連れて行かれる程度で
足繁く通うファンとはほど遠い。

やはり「ボクごときが…」である。


昨日。12月28日。
中村勘三郎さん本葬の様子がTVで放送されていた。
生中継という事もあって弔辞を送るシーンも未編集で放送された。
ボクは事前に知っていた訳ではないのだが
野田秀樹氏も弔辞をのべその様子ももちろん放送された。

中村勘三郎さんと盟友関係であった野田秀樹氏。
訃報に関してメディアを通して伝えられた
野田氏の言葉は決して多くなかった。
野田秀樹ファンとして初めて、肉声で
その想いに触れボクは涙が止まらなかった。


野田秀樹弔辞全文

 見てごらん。列をなし、君を見に来てくれている人たちを。

君はこれほど多くの人に愛されていた。そしてきょう、これほど多くの人を残して、さっさと去ってしまう。残された僕たちは、これから長い時間をかけて、君の死を、中村勘三郎の死を越えていかなければならない。

 いつだってそうだ。生き残った者は、死者を越えていく。そのことで生き続ける。分かっている。けど、いまの僕にそれができるだろうか…。君の死は僕を、子供に戻してしまう。これから僕は、君の死とともにずっと、ずっと生き続ける気がする。

 芝居の台本を書いているときも、桜の木の下で花を見ているとき、けいこ場でくつろいでいるとき、落ち葉がハラハラと一枝を舞うとき、舞台初日の舞台本番前の袖でも、ふとしたはずみで、君を思い出し続けるだろう。

 たとえば、君が、僕に歌舞伎のホンを書かせてくれたとき。初日、君の出番寸前で、歌舞伎座の君の楽屋で、2人で不安になった。もしかしたら、観客から総スカンを受けるんじゃないか。つい、5分前まではそんなことをまったく思いもしなかったのに、君が「じゃあ舞台に行ってくるよ」。そう言った瞬間、君と僕は半分涙目になり、「大丈夫だよな?」「大丈夫、もう、どうなっても…、ここまで来たんだから」。
 どちらからともなく、同じ気持ちになりながら、君が言った「戦場に赴く気持ちだよ」。やがて、芝居が終わり、歌舞伎座始まって以来のスタンディングオベーションで、僕たちは有頂天となり、君の楽屋に戻り、夢から覚め、しばし冷静になり、「よかった。本当によかった」と抱き合い、君は言った。「戦友ってこういう気分だろうな」。そうだった。僕らはいつも戦友だった。

 僕らはいつも何かに向かって戦って、ときには心が折れそうなとき、大丈夫だと励ましあってきた。君が演じる姿が、どれだけ僕の心の支えになっただろう。それは、僕だけではない。君を慕う、あるいは親友と思う、すべての君の周りにいる人々が、君のみなぎるパワーに、君の屈託のない明るさに、ときに明るさなどを通り越した無謀な明るさに助けられただろう。

 君の中には、古き良きものと、挑むべき新しいものとがいつも同居していた。型破りな君にばかり目がいってしまうけれども、君は型破りをする以前の古典の型というものを心得ていたし、歌舞伎を心底愛し、行く末を案じていた。とにかく勉強家で、人はただ簡単に君を天才と呼ぶけれど、いつも楽屋で本から雑誌、資料を読み込んで、ありとあらゆる劇場に足を運び、吸収できるものならばどこからでも吸収し、そうやって作り上げてきた天才だった。

 だから、役者・中村勘三郎。君の中には、芝居の真髄というものがぎっしりと詰まっていた。それが、君の死とともにすべて、跡形もなく消え去る。それが、悔しい…。

 君 のようなもの は残るだろうが、それは君ではない。誰も、君のようには二度とやれない。君ほど愛された役者を僕は知らない。誰もが舞台上の君を好きだった。そして、舞台上から降りてきた君を好きだった。こめかみに血管を浮かび上がらせ憤る君の姿さえ誰もが大好きだった。

 君の怒りは、いつも酷いことをする人間にだけ向けられていた。何に対しても君は真摯で、誰に対しても君は思いやりがあった。

 そして、いつも芝居のことばかり考えて、夜中でもへっちゃらで電話をかけてきた。「あの、あれ、どう、絶対に頼むよ。絶対だよ」。主語も目的語もない、わけの分からない言葉でこちらを起こすだけ起こして切ってしまう。電話を切られた後、いつも深夜のこちら側には、君の情熱だけが残る。
 いまの君と同じだ。僕の手元に残していった君の情熱を、これからどうすればいいのだろう。途方に暮れてしまう。

 そして、君はせっかちだった。エレベーターが降りてくるのも待てなくて、エレベーターの扉を両手でこじ開けようとした姿を僕は目撃したことがある。勘三郎。そんなことをしてもエレベーターは開かないんだよ。待ちきれずエレベーターをこじ開けるように、君はこの世を去っていく。
 お前に安らかになんか眠ってほしくない。まだ、この世をウロウロしていてくれ。化けて出てきてくれ。そして、ばったり俺を驚かせてくれ。君の死は、そんな理不尽な願いを抱かせる。君の死は、僕を子供に戻してしまう。

 『研辰の討たれ』の最後の場面。君はハラハラと落ちてくるひとひらの紅葉を胸に置いたまま、「生きてえなぁ。生きてえなぁ」と言いながら死んでいった。けれども、あれは虚構の死だ。嘘の死だった。作家はいつも虚構の死を弄ぶ仕事だ。だから、死を真正面から見つめなくてはいけない。
 でも、いまはまだ君の死を、君の不在を真正面から見ることなどできない。子供に戻ってしまった作家など、作家として失格だ。でも、それでいい。僕は君とともに暮らした作家である前に、君の友だちだった。親友だ。盟友だ。戦友だ。

 戦友に諦めなどつくはずがない。どうか、どうか、安らかなんかに眠ってくれるな。この世のどこかをせかせかとまだウロウロしていてくれ。



非常に抑制の効いた声で述べられながらも
感情が溢れだしており、こちらにも
その無念とどうしようもない喪失感が
画面からひしひしと伝わって来て胸が痛くなった。


中村勘三郎と野田秀樹。
二人が初めてタッグを組んで披露された「野田版 研辰の討たれ」。
当時のボクは感想を書き残していなかったのだが
2008年八月納涼大歌舞伎 「野田版 愛陀姫(あいだひめ)」 の感想に
想い出として書き残している部分があったので自己転載する。

いきなり想い出話に飛びます。w
--
初めて歌舞伎座で野田秀樹氏の歌舞伎が上演されたのは7年前。
「歌舞伎座で野田秀樹」というのは衝撃的ニュースでした。
歌舞伎座と言えば総本山的な場所ですしタブーとまではいわなくても
現代劇作家を迎えること自体が「歌舞伎座ではやらない事」だった。

その時の演目「野田版 研辰の討たれ」は高校生の頃から
追っかけてきた野田芝居の中でもベストアクトの一つに入ります。

歌舞伎の素晴らしい出来はもちろんですが
歌舞伎ファンの方も野田ファンの小僧(ボク)も一緒に
舞台の美しさに感嘆の声をあげ、小気味のいい台詞に笑い
素晴らしい出来に歌舞伎座の屋根が吹き飛ぶんじゃないか?と
思うほどの拍手を贈る
そんな空間に涙が溢れてきたのを今でも鮮明に思い出します。

「野田版 研辰の討たれ」の千穐楽。
オールスタンディングのカーテンコールの中、
勘三郎(当時・勘九郎)さんが客席を指さし
何かを書くような身振りをしました。
その指さした場所が見えない所に座っていた方には
「?」だったと思うのですが
実はそこには三谷幸喜さんが座っていて「次は君が書く番だよ」と。
三谷さんは恥ずかしそうに片手をあげ、勘三郎さんが喜び拍手を送る。
なんとも素晴らしい光景でした。。。

しかし後の三谷さんのインタビューでは
「ボクには無理です。という意味で手を振ったんですが。」と。w
まぁそういいながらもその後三谷さんも歌舞伎を書き
蜷川さんの「NINAGAWA 十二夜」もあり。
渡辺えり子さんも新作歌舞伎を書いたそうです。
7年前とは歌舞伎をとりまく環境というのは随分と変わったと思います。


上記の想い出話でも書いているけれど
この「野田版 研辰の討たれ」での劇場体験は
ボクにとってこれまでの人生でもっとも衝撃的な体験の一つだ。

素人観客のボクなんて舞台を気楽に楽しめばいい。
しかしコレが事件であるという事は明らかだった。

ボクなんかが生意気ですが
中村勘三郎さんの最大の功績を端的に言ってしまえば
「歌舞伎」を「歌舞伎」にした事だと思う。

庶民の娯楽であった歌舞伎が時を経て「伝統」という冠を振りかざし
一部のマニアに囲われてしまっていたものを
庶民の手に取り戻した事。本来の歌舞伎の姿を取り戻した事。

誤解無きよう念のため書いて置くが
「古い物・伝統をないがしろにして良い」という事では決してない。
「新しい物  あるのが自然な姿だろう」という意味だ。

現在の古典演目も遠い昔は
筋書きなど読まずとも楽しめた「新作」であったハズだ。
伝統的な装置としての回り舞台、セリ、スッポンだって
最初に取り入れられた時には観客を驚かす最新の装置だったハズだ。

ならば現代劇作家が演出する新作があることも
ライティングシステムを駆使したシルエット演出も
舞台前の池に役者が飛び込む事もラップを歌い出す事も
全て「今の歌舞伎」のあるべき姿の「一つ」であったと思う。

そして前述の「野田版 研辰の討たれ」は紛れもなく歌舞伎であった。
古き型と新しい試みを体現できたのが 役者・中村勘三郎 であった。


野田秀樹氏の弔辞。
TVで見ていたときに唐突に感じる、というか引っかかる 部分があった。
その事を念頭に全文を読み返してみるとある妄想がもたげてくる。

この野田秀樹の弔辞は精一杯の宣戦布告ではないだろうか。

広義の意味での演劇界における埋めがたい大きな損失。
戦友を失ってもなお敗走する訳にはいかない演劇人が
何人もいるハズでその一人は野田秀樹氏だろうとボクは思う。

この世のどこかをせかせかと
まだウロウロしているであろう勘三郎さんと共に
一素人観客としてその戦の行く末を見守らせていただく。

表に出ろいっ!

NODA・MAP番外公演
表に出ろいっ!/(2010)

nodamapdai

2010.09.21.
鑑賞状況:良好 14:00~ @ 東京芸術劇場 小ホール1 7,500-
uzazo評価:★★★★★(5じゃ足りない。カンペキ)
「違う」という同じ事。
「同じ」という違う事。


いやっ参りました。
野田秀樹はやっぱりスゴイ。
野田芝居は間違い無くROCKである。


まずはオフィシャルサイトの
イントロダクションより
--
信じるとは何なのか?
これは一夜にして崩壊する家族の物語。


人間のレゾンデート(=存在理由)を思索する
哲学という学問が廃れてしまった。
けれども、人間は何かしら生きる意味を見いださないと、
生き難い。その空白を埋めるために、
自らの趣味嗜好に過剰な価値を置く。「はまる」という現象。
何かにはまっていないと生きている気がしない
換言すれば、偏愛。

しかも、その歪みにも気付かない。疑うことすらない。
これはすでに信仰に近い、ただの趣味嗜好なのに。

アミューズメントパークを偏愛する父、
アイドル系を偏愛する母、
ファーストフードを偏愛する娘。

そんな3つの偏愛が混在する、
鎖でつなぎ合わないと成立しないほど、
バラバラな家族の物語である。
--

とにかく素晴らしい芝居だったのですが
やはりストーリーに触れてしまうので
これから劇場へ行く方はココまでという事で。



中村勘三郎を迎えての3人芝居。
今でこそ現代劇作家が歌舞伎を書く事はよくある事になったが

野田秀樹が歌舞伎を書く。しかも歌舞伎座で。

というのは当時衝撃的なニュースだった。

今回は野田秀樹のフィールドでの勘三郎。
いったいどんな芝居になるのか期待マンマンで劇場へ。

まずビックリしたのは完全な喜劇であった事。
90%は笑いの要素で構成されていると言ってもいい。
ココまで笑いに振り切った野田芝居は初めてでは無いだろうか。

もちろん劇場に足を運ぶ観客は前のめりなので
「リアクションがいい。」という大前提ではあるが
お笑いの舞台を見に行ってもあんなに笑い声が絶えない
1時間半というのはそうそう体験できないのではないかと思う。

ハイテンションをさけてスカした事がカッコイイという風潮。
そんな流れを一切無視し、いいオトナが
しかも巨匠がこれでもかのハイテンション。
「静かな演劇」ならぬ「うるさい演劇」。
これは笑わざるおえない。(笑

さて、どんな話かといえば
「留守番を巡るいざこざ」である。

家族同然である愛犬が出産間近の状況。
アイドルのコンサートへ行きたい母。
テーマパークのパレードを観たい父。
ファーストフードショップのグッズが欲しい娘。

誰が留守番をすべきか。
互いに「信じているモノ」が違う3人が
互いの主張を繰り広げぶつかりあうという話。

そしてこの3人をそもそも縛っている事。
「家族同然として飼っているペット」
これ自体も趣味嗜好の偏愛。


この時点でボク的にはヤッタッという感じ。

前回の本公演「ザ・キャラクター」。
地下鉄サリン事件がモチーフになった芝居。
その事件・団体自体がキャラクター性が強いので
この「信」という事は「他人事」の様に
とらえられてしまったのでは無いか?という心配があった。

これは見事なアンサーとして機能する芝居だ。

3人が偏愛している事は自分の身に置き換え可能であるし
「自分がが信じるモノ」への過剰な偏愛。
「他人が信じるモノ」への非寛容。
趣味嗜好の対立構造はまさに価値観の対立。
これは文化や宗教の対立と全く同じ構造なのです。

これを喜劇に完全に昇華している。
笑えば笑うほどこの構造が浸透していく。

ここまででもボク的には大満足の内容だった。
しかしこの物語の核心は明確に提示される。

90%抱腹絶倒。

残りの10%で
ざくりと心を抉ってくる。

ファーストフードショップへ行くのだ。と言っていた娘は
本当は「書道教室へ行く」というのである。
前作「ザ・キャラクター」で語られる書道教室。
(もちろん前作を観ていなくてもわかるように出来ています)

この時、それは違うという「言葉」を持っているだろうか?

あなたが信じている事は「違う」
違う事を信じているが「同じ」

実は人が信じているモノを「違う」と説明すること、
そしてまた自分が信じている事を疑うが非常に難しい事に気がつく。

そして最後に何が残るのか。

ここを見事に描きながらも
笑いとしてオチをつける。

お見事っ! である。

そしてそもそも3人を縛っていた要素、
出産間近がった愛犬の行く末。
これは一切描かれない。 と、いう事。

お見事っ!


家に帰ってパンフレットに目を通す。
「信じる」を巡る3部作の構想があるそうだ。
「ザ・キャラクター」
「表に出ろいっ!」
に続く次の一本。

これは否が応でも期待してしまう。
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