VAGDIK 関根悠介べ

----------------------------------------主に雑感

いまさらながら『乳と卵』。


 いまさらながら、『乳と卵』(川上未映子さん)を読んだ。

 まずは、微妙かも……、と思ったところ。外側から。


 評価として、芥川賞でよいのか、ということ。

 純文学にしては内容がないよう……に感じられた。

 いや、ないわけではないのだが、それがホームドラマのレベルではないのか、と思ったのだ。

 それでいいのか? あくたがわしょう。みんながそう思っているはず。

 
 さて中身。随所随所に関西弁の活字化の限界のような部分があり、

 標準語圏で育ったおれには、そこが少し苦しかった。例えば……と、

 具体例を出そうとぺらぺらとページをめくっていたら、なんだよおれ、

 すごく楽しんで読んでいたのではないか。いやね、これね、楽しかった。

 構成がかなりしっかりしていて、川上さんは優秀な人なんだなって思った。
 
 しかも軽々と書いてるでしょ、これくらい。すごい才能あるんじゃないかな。

 批判しているひとたちは、この饒舌さが気に入らないんじゃないのか。

 たしかに「泣き笑い文学」って言葉があるなら、その程度かもしれない。

 切ないけどなんか滑稽で笑える、みたいなクライマックスだったし。

 おれは川上さんにだまされてもいいと思った。

 「排水溝に渦巻ってゆく音のみっつを聴きながら」

 「「や、普通っていうのはどの意味においても本来、ないので」」

 未映子おー! ありがとう! よい作品だったよー! おれの詩集も読んでねー!
 

『音の静寂 静寂の音』(高橋悠治)引用 その2


 古代の詩人は歌い手だった

 いまも アジアやアフリカに 即興詩人 吟遊詩人 叙事詩の歌い手がいる

 歌は 世界の響からききとったものを声に写す

 途切れない響の相はメロディーとして 変化する群の相はリズムとして そして乱反射する
 
 智慧の光は 音色であることばとして

 古代の音楽論は 詩の音韻論だった

 中国での樂記 ギリシャのアリストクセノスからペルシャやインドの理論家にいたるまで 声
 
 の抑揚や韻律を論じている

 たとえば空海の声字実相義

 
  五大皆有響
  十界具言語
  六塵悉文字
  法身是実相

  五つの元素にみな響あり
  十の世界にことば具わる
  六つの対象はことごとく文字
  あるがままこそ教えの身

 
 歌がことばになったとき 文字が生まれた

 書き文字は メロディーを手の運動に置きかえる

 メロディーはまた 声調言語の場合は あたまのかすかなうごきと結びついた声の上下とし
 
 て再生する

 文字が痕跡になり 運動や時間とはかかわらないで済む記号になったとき メロディーはう
 
 しなわれ それが指ししめす意味からは リズムがうしなわれる

 ことばから抛り出された要素があつまって 音楽になる

 詩も音楽も 世界にたいして閉じている



 対象化し 実体化したことばや音は 主体によって操作される

 そこに技術が介入する

 楽器が 世界の響をききだすための装置ではなく 手や声が外部に実体化したもの 主体
 
 の延長であり 表現の道具となったとき 技術は自立し 専門化する

 専門化の蔭には やはり選別と排除の権力構造が見える


 さあ ここまで書いてきて これがいったいどういうことになるのか

 文化のシステムは ここにあり 国家 民族 言語 経済の交錯する境界のなかに押し込
 
 められている

 われわれは 資本主義の恩恵のもとで生きているのだから 貧困の文化をとなえるのは 
 
 もうひとつのぜいたくにすぎない

 歌を復元するこころみ 文化の根源にさかのぼろうとする意図は ナショナリズムでなけれ
 
 ば 異文化収奪に終わるだろう

 エストニア生まれの作曲家アルヴォ・ピャールトがロシア正教の司祭に音楽をもって奉仕し
 
 たいと申し出た という話をきいたことがある

 司祭は言った その必要はない 典礼の音楽はすでにある


 
 生きることのたとえによくつかわれる 皿を洗うという例がある

 よごれた皿を洗わないわけにはいかない

 洗ってしまっても なにかをなしとげたわけではない

 皿はまたよごれ また洗わなければならなくなる

 皿洗いのアルバイトをして生計を立てていたとしても 皿洗いのために生きているとは言い
 
 にくい

 では 生きるために皿を洗っているのだろうか

 そう言い切るにも ためらいがあるだろう

 皿を洗うのは とりたてて言うほどのたいしたことではない そして生きることも

 目的は皿を洗うこと 手段は皿を洗うこと つまり目標もなければ方法もない

 でも 時間をかけ ていねいに洗えば 皿はきれいになる

 そのように 詩も音楽も その時になれば 向こうからやってくる

 われわれにできるのは よけいな自意識なしに やってくるそれにまかせること

 呼吸についてよく言われるように

 長いこと会わなかった友人を迎えるようにうけいれ 帰っていく親類を見送るように送り出す

 こうして息にはじまり 息に還る

 人間は 吹きさらしの木偶
 

『音の静寂 静寂の音』(高橋悠治)引用


 池の水面にさかさまに映る木々の影
 
 木がゆれると影は散らばり砕ける

 影は水面を染めている
 
 影が水を動かすことはない

 (中略)

 東京に暮らしていて 音楽を語ることはない

 こんなにたくさんの音楽家がいて

 音楽することに何の意味があるのか

 だれも知らない

 それとも言いたくないのか


 かつてはみんなが貧しかった時代があった

 そのとき音楽することにはたしかに意味があった
 
 それは何だったのか

 かつての仲間たちが功績をたたえられ

 賞をやりとりしむなしい誉め言葉に囲まれて

 慣れた手つきで次々に手繰り出す音楽の

 なにものも究めず学ぼうとしない姿勢

 没落する経済と老化する社会の現実をよそに

 国家支配の小道具である近代オーケストラと

 資本主義の繁栄のしるしであるグランドオペラに魅入られて


 若い音楽家たちとなら

 いっしょに音楽することができると思ったのも

 幻想に過ぎなかった

 若いのは外見だけでほとんどは

 いまなおヨーロッパの規範に追随して技術をみがき
 
 洗練されたうつろな響を

 特殊奏法やめずらしい音色や道化芝居でかざりたてて

 利益と地位だけが目当てのものたちばかりだった

 いまコンサート会場に音楽はない
 
 きそいあう技術や書法や確信にみちた態度

 持てるものがもっと持ちたいという欲望

 そのための神経症的な努力

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 現代詩にも通じるところがある。

ジェフリー・アングルズさん&新井高子さん朗読&講演会(JIPS June Event)


 (※下記イベント終了まで、この記事がTOPに表示されます。
 最新記事はこの記事の下にアップされていきますので、
 どうぞ宜しくお願いいたします。)


 詩集『ぶひゃひゃひゃひゃ』の帯文を書いてくださった、

 詩人で翻訳家の湊圭史さんが講演会をなされます。

 俺も行きます。都合の良い方は、こちらまでご連絡ください。

 info♪vagdik.com

 以下、詳細になります。。


ジェフリー・アングルズさん&新井高子さん朗読&講演会(JIPS June Event)
6月12日(土)、ジェフリー・アングルズさんをお招きして、朗読・講演会を開催させていただきます。

アングルズさんは、日本文学の翻訳者として大活躍中。多田智満子の英訳本によって、昨年、権威ある the Japan-US Friendship Commission Prize for the Translation of Japanese Literature (コロンビア大学のドナルド・キーン氏の名を冠された日本学研究所が主催)を受賞されています。また、伊籐比呂美氏や新井高子氏など、現代詩の翻訳にも尽力されています。

今回は、特別ゲストとして新井高子氏にもご参加いただき、日英両言語での朗読と講演をお楽しみいただこうと思います。


<日時>

6月12日(土) 13:00〜17:00


<場所>

キャンパスプラザ京都 第1会議室
 JR京都駅から徒歩5分
http://www.consortium.or.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=368


<主催>

The Japan International Poetry Society
http://jipsociety.wordpress.com/


詳細は下のチラシをご覧ください。
こちら


■拍手コメントありがとうございます。

Kさん<ブログの再開、よかったです!

関根<ありがとうございます。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。。

※拍手コメント、お気軽にどうぞ。

傘が降るでしょう/顔のない女

 
  (傘が降るでしょう)

  
   【鴨川周辺にて】


 銀歯の光る女の子――響子――がパンを食べていて、

 鳶、

 そのパンを掻っ攫い、

 響子はヘルメットをかぶって傘が降る。

 「津波の心配はありませんが、

 傘が降る可能性がありますので、

 ヘルメットをかぶってお出掛けください。」

 お天気姉さんの顔だけ裸。

 「ニッポンの下半身では、

 傘が降るので、

 蛙は鳴かないでしょう。」

 たしかに、

 顔だけ裸はそう言って、蛙の

 卵を割ったら鶏肉だった。

  
  公衆便所の壁には、バカです。林です。森です。マカオのオカマです。

 と、イレズミをした体が通り過ぎる。手をつかむ。暴れる。欲情する。抵抗する。

 口を塞ぐ。大人しくなる。ヘルメットはかぶっていない。傘を差しているバカです。

 林です。森です。マカオのオカマです。げ、オカマでしたけど犯しましたけど。

 響子はそれを目撃しちゃいましたけど。

   
   【バス停から鴨川小学校まで】


  「バスの中では皆が痴漢。」と躾けられた響子も勿論痴漢であった。

 傘が突き刺さった男の子を視姦したのち、その傘をねじって止める。この作業が男の子には、

 えらくありがたがられた。腸内洗浄のあとのようにすっきりとした心持ちになるらしい。

 響子にとっての痴漢行為が、他者にとっては痴漢行為ではない、

 というなんとも言い難い気持ち悪さが、常に響子に付きまとっていた。

 響子はその度にヒステリーを起こし、広辞苑でオナニーをしながら、六法全書にラーメンを吐瀉した。


   【鴨川小学校にて】

 
 校庭の隅にある鉄棒から、

 少し離れた砂場の脇で、

 統合失調症のラジオがひとり、

 喋り続けている。

 響子がおびえながら逆上がりをすると、

 ひゅるひゅると傘が降ってきた。

 その傘には少し苦い、ねばねば。

 響子は逆上がりした拍子に、ヘルメットを落としたので、

 髪の毛には少し苦い、ねばねば。


 春三月 縊(くび)り残され 精子舞ふ


   【捜索願】

 
 〈女の子を捜索中です。少女らしい大人の女の子です。

 小学校に一人で行けるくらいですから、

 もう一人前の立派な響子の顔面にねばねば。打破。〉


   (顔のない女)


   
  派手な女の下着が干してあった。御免をしようと思ったが、御用になるのもいかがなものか
 
 と思い、ぎりぎりの所で踏みとどまった。が、その家の周囲を何度も行き来した挙句、顔の
 
 ない女と出会った。


 顔のない女には、

 腕がある、脚がある、乳がある、

 滑らかな尻がある沢尻エリカを敷いて食べる。

 食パンのカスや、

 煮物の汁が飛び散り、

 顔のある沢尻エリカを敷いて食べる。

 ――それは儀式だ。……

 茶のあぶくが弾けた。沢尻エリカは裂けて消えた。そして、

 汚物に塗れた顔のない女体が

 どろどろと立ち上がる。


 公衆浴場のぬるぬるが気持ち悪くて裸足で、

 穴だらけの女体が何十体も行き来している2010年3月6日、

 沢山のハゲタカが火を噴く。

 消防隊員は傘を避けながら消火活動をしているが、

 響子の悪戯で消火器の看板は、

 放火器になっていましたけどねー。打破。

 コーヒーが泡を吹く。

 人影が東へと伸びてゆく。

 ――脱走したぞ!

 その声を録音してひとまず複製。(続くかも)

 

自白


 私は生理的に女性を受け入れる事が出来なくなった。最近では彼女に似た女性を見ると、右目の下が痙攣する。そのうち三叉神経痛、又はベル麻痺が生じても異常ではないと思う程だ。聊か大仰な言い回しかもしれないが、この過度に妄想的な不安、或いは論理的根拠の無い怠慢な形容が、私を更なる不安に陥れる。「生理的に」という言葉が顕著にそれを物語り、私をグリグリと追い詰めるのだ。仮令専門家に分析され、治療を始めた所で結果は見えている。頭は既に末路へと到達しているのだ。当然そこに体は無い。
 今でも鮮明に記憶しているのは、高校三年の秋口。
 私は彼女が登校拒否をするまで虐め抜きました。何故なら彼女は私が憑依する様に私になりたがったからです、鬱陶しい。私は運動も勉強もそれなりに熟す事が出来ましたし、異性にも不自由しませんでした。勿論そこには私なりの戦略が有り、その為の努力も惜しまなかったからです。然し彼女は何の努力も無しに私の戦略を盗み、私の言葉を盗み、終いには私そのものを盗もうとしたのです。ギャアと思いましたが気付くのが少し遅かった。私は彼女の鈍さ故にプライドをズタズタにされる言葉を浴びる事になったのです。「二人って最近チョー似てきてるんだけどぉ」という昔からの旧友の言葉でした。私はその瞬間物書きの方がよく使う「世界」という言葉の意味が少しだけ分かった様な気がしました。「世界」が傾き、私は平衡感覚を失い、重力に隷属し、奈落の底まで行ってしまう様な、行ってみたい様な錯覚に溺れ、その陶酔の心地良さに失神して果ててしまいたい、と逃げ腰になる前に、彼女を奈落の底へと突き落としてやりたいと思い覚醒し、その旧友から順に洗脳する事に決めました。洗脳は難しい事ではなく「まぢぃ? ヤバくねぇ?」と言わせれば完了です。それから私は「受験勉強忙しくなってきたね。」と彼女とは少し距離を取り、男子生徒に嘘偽りなく、また飾り気なく彼女がどういう女性かという事を丁寧に話しました。男子生徒に話せば嘘偽りなく話した事はいつしか妄想によって脚色され、それが女子生徒にまで及ぶとなればもう彼女は奈落の底。私に頼る事しか出来なくなってしまう。何故ここまで鈍いのだろう。彼女はやはり私にすがり相談してきました。初めのうちは「そうだね、そうだよね。」と聞いていましたが最後に「でも本当の事だからしょうがないと思うよ。長い付き合いだから正直に言うけど、なんか生理的にダメになったかも。ごめん。」と彼女に告げました。
 風が嫌いであるという一点に於いて、私と彼女は確かに共有出来るものがあった。然しそれがどうした。私の体を返せ。

消化不良


 書ける時に書いておかないと 薬の副作用で健忘症気味なので

 
 ……音楽と詩(文学、美術も含め)俺にとって根っこは一緒

 しかしたまにはその境界線を引いてみることによって

 または

 ずらしてみる事によって

 なんらかの動きを伴うのではないかと思っている

 ――ボーダーライン……


 自らの消化力の無さ または遅さに嫌気がさす

 言葉や音に対する消化不良

 速度を上げねばならない


 「頭の中でメロディー(俺は言葉と解釈)が流れているだけでは、思想には繋がらない。」

 ……――


  y.yamamuraさんの個人詩誌『kanpinue』を読む

 〈kanpinue〉とはアイヌ語で「手紙」という意味らしい

 11ページほどのお手軽なサイズ 

 中身は詩が二篇とエッセイ そして後記

 俺自身はこのお手軽さがなんとも上手だと思った

 すぐに読めてしまうし それこそ読者に負担をかけない

 見習わなくてはならないなーと えらく勉強になった

 『手紙』という詩篇で好きだな と思った部分(あくまで部分)は

 「封筒に描かれた金魚鉢から/金魚が消えた手紙です」

 「通り雨に打たれる真っ赤なトマトに/眠り込んだ金魚がまぎれています」

 『断られるために』では

 「雷鳴が空を叩く バスも叩かれる」

 『断られるために』はとても深みのある詩篇

 俺はまだ消化出来ていないと思うので 感想は宿題



 ……――


 最近買った本 『音の静寂 静寂の音』(高橋悠治)

 帯の「東京に暮らしていて 音楽を語ることはない/こんなにたくさんの音楽家がいて/

 音楽する事に何の意味があるのか/だれも知らない」

 という言葉に釣られて

 『かくも不吉な欲望』(P・クロソフスキー)

 すんごいタイトルだけど 中身はニーチェのパロディに関するエチュードだったり

 「バタイユの「不敬虔な」『C神父』は書かなければならなかった」

 という冒頭に釣られ 買ってしまった

 バタイユには昔からシンパシーを感じる

 精神科医の薦めで読み始めたのだが

 

なぜ書くのか。


 たしかサルトルもこの問いについては、書かなかった、って誰か書いてたな。

 どのようにして書くのか、ということは書いたみたいだけどうろ覚え。

 最近、なぜ書くのか、又はなぜ詩を書くのか、なぜ表現するのか、

 という問いに戻ってきている。

 今までは読者の心を豊かにするもの、観者の心が喜ぶものが書けたら、表現出来たらいいなーと

 そんな事をぼんやりと理想としながら音楽や詩をやってきた。

 でも今は違う。

 まず、気質というものがあって、例えば詩人気質とか音楽家気質とか。
 
 その上、自分自身が驚くものが書きたい。表現したいと思う。

 既視感の無いもの。白紙の上にそれが言葉によって創造される楽しさ。

 はっきり言って、自分自身が驚かないものに他者が驚くとは思えない。

 


 
 書く、それは予見することだ。

    ※

 どれほどの人は自らを知らずにいるか、自分の書いたものを読みかえして初めて気づく。

                     『ヴァレリー文学論』



 最近つくづく言葉は怖いと思う。遊び心、出来心で言葉をいじるとホント痛い目に遭う。

 文体、ということに関して考えている。このブログも暫くは見苦しい、

 文体の実験小屋みたくなりそうだが、謝らない。


 「人は必ず死ぬ」 はい ごもっとも

 しかし それよりも真なることがある

 それは
 
 いま生きているということだ

 「生の拡充」を読むと そんな気分にもなる

 ……


 話は戻るが 表現者たちに訊いてみたい

 なぜ 表現するのか

 「なぜ 表現するのか?―1000人の芸術家に訊きました―」

 そんな本を出したら売れるかもね あは


 

 俺に欠けてるのは競争心かな。もっと勝ち負けにこだわる人間になりたや〜。

はたして十二指腸潰瘍か!?

 五月の頭に神戸の旧グッゲンハイム邸で、

 千野さんのライブを聞いてから、

 今まで自分のやってきた、

 「ピアノの即興+詩の朗読」というスタイルを考え直してみた。

 ピアノの即興と言っても調性も拍子も一定ではなく、

 抽象度の高いもの。

 そして、詩の朗読と言っても歌う手前、喋りながら歌いながら喋る、

 というような、これまた抽象度の高いもの(叫びや吃音も含む)。

 うーん、これはこれでひとまず置いておきたい。

 
 
詩人にあっては、
 
 耳が語り、
 
 口が聴く。
 
 知恵と警戒が子を生み、夢をみる。
 
 睡眠が眼を利かせる。
 
 イマージュと幻覚が観察し、
 
 不足と欠陥が創造する。

 『ヴァレリー文学論』



 反対に、具体物をばしばし出してくる、バッカナルさんは

 うまいと思う。

 詩もそうだけど、ザ・社会派ってなっちゃうと、

 極端につまらなくなる。これはぼくの感性がそう言っている。

 最近、自分の感性に合わないものを聞くと、

 ヤニクラみたいに気分が悪くなって、

 本当に吐いてしまいそうになる。
 
 意図的ならばそんな表現もありかなー。

 実際、ぼくの詩集の第二部なんて、

 読者に対しては物凄い拒絶感だと思うし。


 ぼくの詩集は目の良い人からは、「求道的」

 という批評がよくされていて、

 あまり自覚がないんだけど、それだったら嬉しいなー。

 ぐだぐだ書きましたが謝りません。おやすみなさい。


 ■拍手コメントありがとうございます。

 Mさん<mixiで読みました!おめでとうございます!

 せきね<ありがとうございます。高野の近くに引っ越しましたので、暇なときは遊んでくださいね。


沢尻エリカを


沢尻エリカを敷いて食べる

ひじきや

クリームシチュー 納豆などを

沢尻エリカの上で食べる

それはあたかも女体盛りの図であるが

沢尻エリカを敷いて食べる晩飯は

ほんの少し儀式めいている


長澤まさみでは駄目

上戸彩でも駄目

綾瀬はるかでは意味が変わってくる

宮崎あおいではかわいそう


沢尻エリカを敷いて食べる晩飯は……と俺が何度もほざいていると

傍から現実の手が伸びてきて

沢尻エリカに落書きをするのだ

(初稿4/26)

これからもっと手を入れて、コンセプチュアルな作品に仕上げる予定。
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