私の履歴書

2006年10月31日

私の履歴書その5【最終回 お仕事編】

イタリアでのドルチェ・ヴィータを終え、住まいを引き払い、再び日本へ大荷物の引越し。

東京にもイタリア料理教室ジャルディーノを開いた。まず、日比谷線の神谷町に。

東京半月、名古屋半月の生活が始まる。

階段で5階、エレベーターなし、というスゴイ物件だったが、キッチンスペースが広かった。
本当は広尾で物件を探していたのだけれど、広尾から地下鉄で2つ目、駅の真上という利点が良かった。

すぐに3年後、今の広尾に教室を移すことになるのですが。

広尾には大使館が多く、外国食材の豊富なナショナルスーパーや明治屋、ちょっと車でいけばNISSINという食材調達に欠かせない店へのアクセスが良い。

この頃、この手のプライベートサロンの教室が、あちこちに出来始めている頃だった。今もそのブームは加速度を増しているようだ。
でもHPという媒体ができたことで、イタリア料理教室ジャルディーノの知名度も徐々にUPしてきた。

イタリア料理教室をやっている関係で、レストランの立ち上げや、食器のコーディネート、メニュー開発などの仕事が舞い込むようになる。

人のレストランの立ち上げを数軒手伝っていたら、だんだんと自分でもレストランをやってみたくなったし、自信もついた。

そこで、六本木に、30坪の『リストランテ・ヴァレンツァ』をオープンした。これもイタリア時代の友人たちの多大なる尽力のお蔭だった。

同時に、出版の話も持ち上がり、約100メニューを載せた、初著書のレシピ本
『岸摩弥子のイタリアン92』を出版した。
3日間で100メニューを撮影するという激ハードな撮影でしたが、持ち前の体力で乗り切った。

同じ頃、名古屋のイタリア料理教室も実家から、名古屋市栄という繁華街へ移した。
同じ年、東京のイタリア料理教室も神谷町から広尾へ引っ越した。

事を一気に進めた上に、TV番組の撮影も毎月のようにこなしていたから、本当に忙しく、寝る間も無い程、忙殺された日々。

何故これがこなせたのかと言えば、その頃私には勢いがあって、とにかく前に向かって走っていける気力と体力があったから。
一生走り続けるなんてことはないのだから、頑張れる時には頑張っておいた方がいいという気持ちだったと思う。
出会いやチャンスやタイミングもあると思う。
乗れるだけのウォーミングアップはしておいたほうがいいのかもしれない。

その頃出会った、名古屋のお料理教室を手伝ってくれた戸田和寿子ちゃんは、私が出会った中で最初の素晴らしいアシスタントだった。
アルバイト募集もしてない頃の話で、自ら売り込みに来たという意欲的な女の子。
その後、イタリアに魅せられて、イタリアへ渡り、今もイタリアで生活する彼女は、この時、実によくフォローしてくれて助けられた。とても感謝しているし、今も大好きな大切な友人だ。

これが、私の人を雇うという初めての経験。

その後レストランやイタリア料理教室を通して、実にたくさんの方々を面接し、雇用し、一緒に仕事をしてきたけれど、本当に人が財産だということを、骨身にしみて、感じるように。

経理やマネージメントなどの仕事も、すべて一人でこなしていたため、忙しく、全てが完璧にこなせなかったストレスはあったものの、多くのことを学ぶ良い機会になった。

どこかに弟子入りするか、店に勤めるのが、近道だろうが、私は、あっちに頭をぶつけ、こっちに頭をぶつけと、すべて独学という遠回りをした。
だからこそ、これからの人たちの質問にはなるべく応えたいし、もっと近道を教えてあげたい。遠回りも捨てたものじゃないけれど(笑)。

レストランを閉じることになり、再び私に時間ができた。
軽井沢で、ジュエリーを作り、東京と名古屋でイタリア料理教室をするという生活。

今も、3箇所の移動で、いつも何処にいるかわからない私に、
『忙しそうだね〜』と言う人もいるけれど、
今の私にしてみれば、どうってことない。

あの頃に比べれば、今はものすごくゆったりとした日々だ思う。

とは言っても、日々の事務作業に忙殺される時もたまにあり、バタバタした姿をお見せすることも(笑)。

物づくりというのはゆったりとした心の余裕があって、創造出来るものだから(理想だけど)、これからはこの時間をなるべくジュエリーに注ぎたいと思っている。

この時間も東京と名古屋でイタリア料理教室ジャルディーノを支えてくれる、気のいいスタッフがいるお蔭に他ならないと、日々感謝している。
時間が出来たお蔭で、料理教室の生徒さんの方々とのコミュニケーションがとれるようになって、さらなる人という財産が豊かになりつつある日々だ。

長いことオーダージュエリーでやってきたけれど、このところ、工場生産ベースのジュエリーデザインという選択肢もでてきて、これからのデザイナー人生の道の進め方をじっくりと模索中の毎日です。

イタリアから戻って仕事を始めたのが10月30日
会社の創立記念日が平成11年11月11日
神谷町に料理教室をオープンしたのが10月30日
なんだかいつもこの時期が私の事始なのかもしれないなって、
ちょっと思いました。

最後まで読んでくださってありがとう。

2006年10月30日 岸 摩弥子


valenza1 at 00:01|PermalinkComments(4)TrackBack(0)

2006年10月30日

私の履歴書その4【ドルチェヴィータ編】

日本に帰国が決まってからは、日本での仕事の企画で胸が浮き立つ日々。

形から入る私は、アトリエのネーミングを考えたり、機械や道具を買い揃えたり。
だからイタリアからの引越し荷物は大変だった。

そしていざ日本へ。
すると急にはそんなにやることがない。暗中模索の日々。
今思えばその時こそ、いろんな下準備ができた貴重な時間をたくさん持った私だったのに。とその時の時間を返して欲しくなることがある(笑)

工房を整え、ジュエリー作りを始める。
名古屋の実家の家の前にちょこんとかわいい看板を置いて。

するとそれを地元新聞社発行のミニコミ誌の記者が見つけてくれた。
地元では読者率の高いそのミニコミ誌の評判で、お客様がついた。

それまで親戚、友人の紹介のお客様の依頼でなんとかやっていたところ、
初めての外部のお客様。

そうは言っても、かかりきりになるほどの忙しさではない。

ジュエリー工房と一緒に掲げていたのがイタリア文化教室の看板。

ご近所の人にイタリア語とイタリア料理を教える教室としてのスタート。
本来、ジュエリーのお客様を増やすための、広告宣伝の目的で始めたから、お教室での儲けは度外視。

それよりもイタリアのことでは伝えたいことがあまりにも多く、ある種の使命感のようなものでやっていたのかもしれない。
ミニコミ誌の記者の方にイタリア文化教室の方も取材させてくださいと言われて、記事になったら、少しずつ生徒さんが増え始めた。

そこでさらなる一撃
私って、なんてイタリアのことを知らないのだろう

教えるという立場になって初めて知った、自分の無知さ加減。
留学中はそれこそ勉強ばかりで、イタリア中を旅して周る余裕なんかない。
旅行はイタリア国外ばかりだった。

日本でイタリア料理を教えるということは、イタリア全部について知らないといけない。言うならば、私をイタリア博士かなんかだと思って、みんなは聞いてくるからだ。

その期待に応えなければならない。と日々思いは募る。
そして再びイタリアの地を踏むことに。
今度は大好きだったフィレンツェに飛んだ

その頃はもう仕事を始めていたから、フィレンツェに居を構え、夏2〜3ヶ月、冬1〜2ヶ月というペースで、日本とイタリアを行き来しはじめた。

イタリアの住まいはアルノ川沿いのフェラガモのビルの並び。
窓からはポンテベッキオが見えるし、それはもう酔ってしまうほどの景色。
創作意欲も湧くし、思いっきり気分転換にもなる環境。
ここへたどり着くまで実に何回もの引越しをしているのですが(笑)

昼は石留め職人のところへ通い、夜はイタリア在住の友人たちとフェスタ(パーティー)三昧。今思うと、留学中とはちがって、最高に楽しい毎日。
私の人生の中でまさにドルチェ・ヴィータ(甘い生活)の期間である。

そんな中で、イタリアに料理修行に来ているコック達と知り合うことになる。
そこで、イタリア料理のさらなる奥深さを知る。

最初はレシピを何個か仕入れては日本へ帰るということを繰り返していたが、だんだん、イタリア全土の料理に興味が湧いて、地方地方の料理の特色がこんなに違うのかということを、旅を通じて知った。

これは大変なことになったなと。

自分の足で、イタリア中を歩き、各地の名物料理を調べては食べて歩く。
気に入ったレストランでは作り方を教えてもらうなどの日々を、夏、冬と
イタリアへ行くたびに繰り返し、イタリア全土の料理の特徴について、調べ始めた。
これは現在も引続き研究中のテーマです。

イタリアと日本を行き来する日々の中で得たものはすごくたくさんあって、その中で一番大切なものは友人。

ジュエリーでは、銀座で十数年活躍する大先輩とイタリアで出会いすごくいい影響を受けた。
その頃からオーダージュエリーを専門としてやっていた私は、まだ個展を開いたことがなく、自分の作品の色というものを持ってなかった。
すると、何でも屋さんのように、お客様の言うままに何にでも対応しなくちゃならない。そうすると、デザイナーとしては、矛盾して、壁にぶち当たることも。
そんな悶々とする私に解決の糸口を与えてくれた。

後にその彼女も交えてフィレンツェでジュエリーと絵画のグループ展を開くことになる。

イタリア料理のコック仲間もとても大切な友人。
類は友を呼ぶで、周りはあっという間にコックだらけに。
パーティーを開けば、昼からまかない食まで作る力の入れよう。
各レストランに潜入してるから、情報も入る。
一緒に手伝うから作り方もおのずと覚える。
そんなこんなで、とっても勉強させてもらった。

そして、とうとうお料理教室を東京にも開くことになったのです・・・・・つづく



valenza1 at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年10月29日

私の履歴書その3【帰国決意編】

イタリアはピエモンテ州ヴァレンツァにそのジュエリー学校はある。
国立の美術学校でベンベヌート・チェッリーニという伝説級の彫金師の名前がついている。

入学試験は外国人向けのイタリア語テストで、何とか無事合格。
入学登録料を支払って、授業料の連絡を待つこと一年。
授業は始まれど、一向に催促が無い。
あとで聞いた話によると、国立の学校は外国人はタダとのこと。
あ〜芸術に寛大なイタリアに感謝

フィレンツェの3ヶ月で快楽にまかせてお金を使い切った私はここから試練の仕送りの身となるのです。

ピエモンテの寒さは厳しく、尋常じゃない。
北国で育った経験もない私には寒さだけでも試練。
おまけに学校はジュエリーの勉強だけではなく、
国語、算数、理科、社会、おまけに体育まであったのだ。

連日連夜、翌日の授業のところの教科書の該当ページを翻訳し、
宿題(幾何学図法やデザインなど)をこなし、
人生でこれほどまでにちゃんと勉強したことはなかったかも?
というくらい、机にしがみついていた。

でもテンションっていうのは途中でやっぱりプチッといっちゃう時もある。
一週間学校をズル休みし、パリに逃亡したことも。
でもやることといったら、パリ中の美術館を朝から晩まで見て歩くこと。

帰ってから先生に叱られるかと思いきや、

『それはいい勉強をしたね。』

と褒められ、イタリアの教育方針にこれまたビックリ。

100年に一度、レオナルドダビンチがでればいいのだそうだ。

課題があまりにも簡単だったので、勝手に別のモチーフにトライしていても、先生は怒らない。出来がよければ褒めてくれる。

そんなカルチャーショックを受けながらのヴァレンツァ生活も後半、やや焦りを感じる。消費し続ける身に焦りを感じたのだ。

日本を出発する前はジュエリーを仕事に、などという大それた考えはまるでなく、

『朝から晩までジュエリー作らせてくれる学校がある

それなら行きたい!!という軽い気持ちだった私に転機が訪れた。

日本に帰って、これを仕事にしようと。

イタリアに何となくいると、帰国のタイミングが見つからず、帰れなくなるという人をいっぱい知っている。
その頃、もっとイタリアにいて、別の学校に転校するという話や、帰国して、仕事をするという選択肢で揺れていて、かなり悩みましたが、私は思い切って、帰国を決意。

その前にやり残したことが一つだけあった。
留学中に行ったパリで感じたことになるけれど、フランス語はイタリア語と単語はもの凄く似ていて、メニューをみてると、意味はわかるけど、発音がわからないために通じない。
話したいのに!!というジレンマを何度も経験した私は、とてもフランス語が勉強したくなったのだ。

辞書をとりにだけ、ちょっとだけ日本に帰り、すぐにフランスへと旅立った。
パリに1ヶ月、ニースに1ヶ月住んでフランスの語学学校へ通った。

今でも、そんなフランス語経験が料理メニューを理解する上で、イタリア料理においても、とても役に立っている。
料理の技法をとてもシステマティックに確立しているフランスの言葉は、世界中の料理にたくさん出てくるから。

それで心置きなく日本に帰国。

そこからはまた暗中模索の日々がつづくのです。・・・・つづく



valenza1 at 00:01|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2006年10月28日

私の履歴書その2【イタリア編】

6月のボーナスをもらってすぐ旅立ったので、夏真っ只中の7,8月をフィレンツェで過ごした。最近あまり思い出すことも無いけど、あの冷房もないイタリアの暑さといったら・・・

最初の3ヶ月はフィレンツェの語学学校(私立)へのつもりが、ジュエリーの学校が9月に始まるとの連絡を受けて結局、語学学校は2ヶ月で修了するのですが。

いきなり2ヶ月間のイタリア語学校だけで、大丈夫なのか?との質問はよくあります。
はっきり言って、3ヶ月あれば誰でも、日常生活は大丈夫です。
日本で半年イタリア語を習いましたが、週1で一回2hでは文法くらいしかわかりません。
長い間英語を教育されてきた日本人としては、日本のイタリア語の先生に、

『1年くらい、語学学校に通って、それからジュエリーの学校にいきたいと思います。』

と相談したところ、

『語学学校は3ヶ月で充分だから、すぐにジュエリーの学校にいきなさい

と言われました。

どうしても信じられなかった私。
でも今考えると、先生の神の一声がなければ、私は相当な時間を棒に振ったことでしょう。(感謝)

2ヶ月でどれだけの語学力がついたかというと、(身振り手振りも含め
ジュエリーの学校がある、街の不動産屋さんに電話で
アパートを用意しておいてくれるよう頼めるくらいです。

ちなみに私が行った語学学校の1ヶ月先輩は一緒にいった市場で冗談をいいながら、
買い物してました。

冷房もない、時刻表も複雑な不便なイタリアで、これだけのめんどくさい思いをして、自分の意思を貫けたのは、ひたすら、最初から持ち続けた

『熱い気持ち』

それだけです。

これからイタリア留学やその他の人生における重大なイベントを計画中の皆さまに申し上げたいのはこの『熱い気持ち』を持ち続けて欲しいということかしら。

鉄は熱いうちに打てです。

時を逸してしまえば再びその気になることはもう無いかもしれないのです。



とはいえ、ここはイタリア。

買い物天国、食天国。とにかく楽しいこともいっぱい

語学学校付属のお料理教室は
初めて私にイタリア料理を教えてくれた。
お料理を習う、という体験をしたのも、ここイタリアが最初。

だから今でも私の料理のスタイルはすべてイタリアが基本。

本来、ここは外国での一人暮らしが始めての学生にむけた、
言わば『生きていくためのイタリア料理教室』。

スーパーに行って、何を買ったらいいかわからないような、
学生までいっぱいいるから。

ここで2発目の一撃
そのお料理の教え方のすっごいラフなスタイルは目からウロコ。

素敵なイタリアの田舎風のキッチンで、
いかにも、イタリアのマンマ風といった先生が、
まな板も使わずにナイフ一本で
トマトをあっという間に、細かくきって、
ボールに放り込んでいく。

ワインを飲みながら、豪快に笑って。

それでいて、出来た料理は、
本当にまさにイタリア料理だー
っていう美味しい料理なんだから。

生徒はみんな、イタリア料理が最終目的なわけではないので、
参加態度のゆる〜い感じが、またいい。

今思えばイタリア料理に携わることになるきっかけはココなんだけど、何の気負いもなく、生きていくために作っていたイタリア料理であって、いかにも自然に私の中に侵食していったのでしょう。

でもまだその頃の私は、次に行く、ジュエリーの学校のことで、期待と不安で頭がいっぱいだったのです。
なんと入学試験があるという・・・・つづく


valenza1 at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年10月27日

私の履歴書その1【留学決意編】

日経新聞に、私の履歴書というコラムがあるのをご存知でしょうか?

あちらとはレベルが相当違いますが、私の経験をお話することでお役にたてるなら、と思い、こんな題名。

『教室を開きたいのですが・・・』
『今の教室を開くにあたって、どのような道を歩まれたのですか?』

という質問が最近やたらと多いのです。

なるべく一人一人にお返事を出していたのですが、もう対応しきれないくらい、その手のメールが来るように、生徒さん方から相談を受けるようにもなったので、ついにブログ上で私の経験をお話することに。

今までTV番組や雑誌取材、Webなどで、プロフィールをお話しなければならない機会は数えきれないくらいありましたが、

その度に『どうだったっけ?』と考えさせられる場面があって自分でもびっくり。

ただ単に、どこで勉強してどこに住んで、とかじゃなく、

『その時どういう思いでそこへ行きましたか?』

とか、

『その時一番大変だったことはなんですか?』

とか、質問はかなり突っ込んだところまで。

そうなると、もう『どうだったっけな〜』と思い出さなくてはならないわけです。

でも質問者の意図は、まさにそこにあり、たんにプロフィールみればわかることは、聞いてはいないのよね。

というわけで、なるべくそういうところを含め、お話していきたいと思います。

大学卒業してからOL生活をしてたというと大抵の人がとても驚く。
それもそのはず、辞めてからの方が長いから、お気楽人生っぷりが身に染み付いてしまったのでしょう。

大学は大阪教育大学というところで小学校の先生になるための勉強をしていたから、今の職業とはぜんぜん違いますね。
卒論は専門が保健だったので、コーヒーに関する研究。こちらはちょっと食にかかわるかも?

そして時代も時代、親のコネでさらりと商社勤務が決まり、勤め始めて1年目の12月頃、会社生活にも余裕ができて彫金スクールに通い始める。

そこでまず最初の一撃
2時間があっという間に経つ。
世の中にこんな楽しいことがあったのかと開眼。

ここからは省略して、いつもはイタリアの学校に話は飛ぶのですが、今回はじっくり書きます。

OL2年目。仕事は事務職で、ルーティンワーク。すると慣れる=つまらなくなる、というお決まりの図式に私もハマり、転職活動をすることに。

転職活動をするうちに、自分を見つめなおしたのでしょうね。
単に気分を変えるための別業種への転職か?キャリアアップか?結婚か?
当時の私は若かったのに年齢へのもの凄い焦りを感じていたような気がします。

OL3年目、私は転職ではなく、学校へ行くという道を選んだのでした。
当時、選択肢は2つあり、アメリカのGIAかイタリアの国立美術学校。

言葉の壁もありましたが、そんなことは大した問題ではありませんでした。
当時クラッシックなデザインが好きだった私は、歴史的建造物のたくさんある、イタリアを感覚的に選びました。

そこからが大変。その頃はE-mailの時代ではなく、ひたすら、手紙を出す。返事が来るのに2ヶ月待つ。そんなやりとりでした。
今でもそうですが、私立の学校だったら、ビザだけとってそのままお金持って旅立てばいいのですが、国立の場合はちょっとちがう。

まず、イタリア文化会館というところを通して、履歴書をイタリア語で作る。
高校、大学、彫金スクールの卒業証明書を法定翻訳し、はたまた予防接種の関係で母子手帳まで!!!
それを大使館を通じてイタリア本国に送り、返事をまつ。
日本にあってもそこはイタリア。夏には担当者が1ヶ月バカンツァに入り、連絡がつかなくなる。

そんなこんなをしていたら、入学手続きに1年もかかった

それはそれで、当時の商社の給料は高かったので、その1年間で貯蓄額は300万を越し、充分な体力がついた。

まあこのお金も最初の3ヶ月で使い果たすことになるのですが(笑)・・・・つづく



valenza1 at 11:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)