3月2日のニコ生論壇で、ワタミの過労自殺に関するディスカッションが行われた。
ディスカッションでは日本の雇用慣行からブラック企業の見分け方など幅広い内容であったが、ここでは番組中で本田由紀が取り上げた「能力主義の個人化」について考えてみたい。

「能力主義の個人化」とは労働環境が苛酷だったりするのにかかわらず、個人の精神が「弱い」などと本来は環境や社会に帰結する問題が個人の資質の問題に帰結するという概念だ(と解釈している)。

元々、能力主義は日本的雇用慣行の一部だった。
前回の記事でも取り上げたが、日本的雇用慣行では具体的な職務による契約が行われない。
職務によって給与査定が行われないとなると、いったいどのような人事査定をしているのかというと「入社からの年功」と「能力主義的人事査定」で評価が行われる。

この能力主義的人事査定では、「できる奴は、やらせれば体外なんでもできる」「できないやつはやらせても体外できない」などという全人格的な評価が行われる。
これは職務に基づいた求人を行っていない日本的雇用では致し方ないことといえる。
職務を規定していない以上、採用の際も「一般的能力」や「潜在能力」ではかるしかなく、職務分析を行っていないために、人事査定も一定部分は主観的に成らざるをえないのだ。これは職務が人から分離していない日本的雇用に特有の考え方だ。

そしてこの能力主義は、いつのまにか戦後日本、ましてや2012年に生きる人々の価値観に深く染みいることとなった。
経済産業省が「社会人基礎力」という総花的な能力基準を設定しようとしたり、スポーツの世界でも「人間力」という言葉を当たり前のように使うようになった。(特にサッカー日本代表選手の自己啓発本では○○力がついてない本を見つける方が難しい。)さらには「女性らしさ」の指標として「女子力」という言葉が使われるようになったりするわけだ。
「ニート」や「フリーター」はこうした全人的な能力に欠けると「想定」され、「人間力」という不可解な概念を高めるために公官庁主催の合宿に参加させるはめにはったりする。
こうした「能力主義」が、社会構造の変化を主眼とする客観的な議論を阻ませるわけだ。

雇用慣行の一部だったはずの「能力主義」が、労働の場を離れていまや人々の価値観に深く入り込んでいるということは、一体雇用慣行がこうした価値観を構成したのか、元々の全人格的能力信仰的な価値観が、雇用慣行に反映させたのか疑わせるものである。それでも全人格的能力信仰がそもそも日本人の思想に存在したとして、それをビジネスに応用するような非合理的な考え方をもっていたとは考えにくい。そうなると前者が正しいのだと思わせるが・・・。
もし雇用慣行が人々の価値観に深く浸透するのだとすれば、日本政府が「国際競争力(笑)」を高めたかったり、「グローバル人材」を欲しい企業は日本的雇用を段階的に解除したほうがいいだろうし、現にそうしている企業もふてえているはずだ。
極端に価値観が違う人間同士が一緒に働くと、思わぬミスマッチやコストがかかる。それも日本だけスタンダードからはずれてしまうとなると、国際化がおくれている日本で、「日本的雇用慣行」を続けるメリットは、年々低下していくはずだ。