このブログの初めの記事で、リーマンショック後の新入社員に対するアンケートに関する記事を書いた。
私は年功序列と終身雇用への回帰という旧来型システムの前提条件が崩壊した制度に対する残滓について注目している。前回は概況について言及したが、今回もこのテーマに対して議論を深めていきたい。
 高原基彰は本田由紀編「若者の労働と生活世界」内の「日本特殊性論の2重の遺産」という論文で、若年層の中でニート・フリーターに対する異様なまでの嫌悪・批判と、年功序列と解雇規制の中にいる既得権層に対する批判が共存していること。さらに職業への移行の解決策として、フリーランス化、非日本的キャリア構築への適応に対する準備ではなく、「企業の正社員になる」ということしか行わないことについて言及している。
そして高度成長期に見られた大企業・中小企業の構造からなる身分制を前提としての不平等性に対しては「開き直り」つつ、パイの減っていく保護対象の側になんとか滑り込もうとする姿勢にたいして疑問を呈している。

この言論は興味深かった。
「ニート・フリーター」に対する批判と、既得権に対する批判の共存は、確かに存在するように思える。既得権でも公務員や半官半民企業に対する感情的な批判についてはネットでもよく見かけるように思える。その批判よりもっとよく目にするのが「ニート・フリーター」に対する批判や嘲りとでもいうようなコメントだ。
おそらくではあるが、これは先細りする日本的雇用の中で長時間労働、感情労働を強いられる層が増加していることを意味するように思う。経済成長が見込めない状況では安易に転職などの選択肢が見つからず、たとえ衰退業界でもそこからの撤退に対して感じるリスクは大きい。このような逃げ場が見つからないような状況で、20代30代のネットユーザーが自己責任論を自ら内面化している可能性がある。
結局のところ多くの労働者は日本的雇用の中で濱口桂一郎がいう「メンバーシップ型正社員」という無限定的な責任や職務を与えられる。この中で価値観を再生産してしまうのも無理はない。

高原基彰はこの論文の数年後「現代日本の転機」で、戦後日本の政策や労働に対する議論の中で「競争」と「平等」という対立軸ではなく、「安定」と「(そのアンチテーゼとして)の自由」しか存在しなかったとして批判を行った。
この「ニート・フリーター」という自由と「既得権」という安定を代表する存在に対する批判の共存をさらに巨視的に解釈しなおす作業を行った。(読みやすく、これまでにない視点で書かれたもので価値のある言論だと感じる数少ない本だと感じている。)

ではなぜ「自由」と「安定」しか存在せず「競争」と「平等」という政策・職業的選択肢はでてこないのだろうか。
今月発売された雑誌POSSEでは大手アパレル会社「X社」を退職した労働者のインタビューが掲載されている。このX社は日本企業でもいちはやくグローバル化を重要視し、急成長を遂げた企業だ。「競争」という選択肢を重要視する労働者から考えると選択肢の上位に入りそうな企業である。しかしインタビューによれば過剰なほど忠誠心をもとめる研修・教育制度や長時間の残業、半年間で無理やり店長職まで教育する社内制度など、その企業風土に染まり、ソルジャーにならない限り適応できないような環境があるようだ。
「競争」に対して信頼感を失わせるような一つのケースであるが、労働者市場が形成されていない日本企業では、競争がこのような「内向き」の過当競争に向かい、労使の対等が前提となる他の労働者とのポジション・賃金獲得競争に向かわないのだろうかという仮説を思い浮かばせるのに十分なものだ。
逆に「グリー」や「モバゲー」のような新興企業では、その産業の特性もありエンジニアに対して同一賃金同一労働的な雇用慣行を行っているようだ。(他のソフトウェア産業では下請構造と総合職採用がスタンダードのようだが)

過当競争ではなく外部労働市場を前提にした「競争」を行うためには時間がかかるだろうが、先見性がある労働者はすでに行動をはじめているだろう。「競争」が定着すると今度は「平等」が求められる。職を失っても再教育されるような制度が必要になってくる。公正な「競争」を行うためによく考えなければならない。