牧野智和「自己啓発の時代」読了。
「自己啓発メディアの社会的機能」を純粋に解き明かそうとする目的意識の高さと禁欲さに恐れ入った。
自己啓発メディアを作り出す複合的主体や、プルデューの引用など落とし所は禁欲的ながらも現実的であった。あとがきで触れているが著者自身も自己啓発に傾倒した時期があったようだ。自らの経験を糧・・というか動機にする姿勢には共感を感じた。多くの読書好きの人間や研究者もそうだと思うが、僕もアイセックでの経験が知識的欲求に結びついている。これは間違いない。

僕も自己啓発本をいくつか読んだことがある。(だから手に取ったのだが)なので、少し自己啓発について考えてみたい。
実際友人でも自己啓発書を読む人間はいるし、自己啓発メディアの市場規模は拡大しているとのことだ。そうなるとどうしても考えたくなるのは「なぜ自己啓発に対するニーズが拡大しつつあるのか?」であるが、これに関する社会的背景は僕は主に2つに分類できると思う。

①日本的教育システムによるルサンチマンの補填と新卒一括採用
日本的教育システムでは、年齢と偏差値の2つによって厳密な区分けがさせられる。ギャップイヤーや習得度合いによる小中学校入試時での留年や浪人はない。となると日本で年齢によって区分けがなされるのは唯一大学受験時であり、そこで浪人をした場合非常にわかりやすい区分けができてしまう。これがルサンチマンを生み、大学時代に「内面の技術対象化」に走ってしまう可能性がある。偏差値も同様にコンプレックスを生みだすが、日本では(特に文系では)大学在学中に研究や勉強に強制力がない。著者も触れているが、近年縮小気味の新卒一括採用における優位性の獲得という目的で「内面の技術対象化」に走る可能性がある。これは古市憲寿の「希望難民ご一行様」で登場したピースボートや各種学生団体、インターンシップなどの具体的な経験とセットで行われることが多いように思える。

②日本的雇用の属人的な能力主義と、中途半端な新自由主義の展開、国内市場の縮小による昇進機会の減少などの雇用・経済的要因
日本的雇用では、労働と人間が分離していない。総合職採用は職務範囲を曖昧にし、ジェネラリストを生むが専門家は作らない。年功を元にした賃金水準は属人的な性格を持ち、年功とセットにされる能力査定では「意欲・態度」などの感情労働的な側面が存在する。そのために労働に対する実務的な技術の向上ではなく「○○力」にはじまる抽象的な能力基準に対するニーズが作成される。
2000年代前半からの新自由主義の展開では、人材サービス業と非正規雇用の規制緩和や年功的な給与水準のカットを主目的にした成果主義の導入が図られた。これによって同一賃金同一労働の導入が図られないまま労働市場が一部流動化した。このため流動化に対する曖昧な危機感から「内面の技術対象化」に対する消極的なニーズが生まれた。

ただ、著者が示したように、メディアが「内面の技術対象化」をする理由を多元的に生み出すことで、それからの「逃げ道がふさがれていくような言説の布置」という恣意的かつ曖昧なメディア複合体の営業戦略がこうした状況を作り出すという点が非常に大きいとも思う。そもそも「内面の技術対象化」が存在しなかったことを思うと、このロジックは重要だと思うし、この発見こそがこの本の中核的主張であり、大きな存在価値になっているとも感じる。