あるスポーツ新聞の文化欄によりますと、この京都で光のCDがよく売れているというのです。ベストセラーといっていいほど。なぜかというと、それは不眠症の人のためにいいから、というのらしい。眠れない人が聞くといい。いま京都でどういう人が不眠症に苦しんで、光の音楽を聞いていられるのかを考えますが、そのうちいくらかはこの会議の事務局の人じゃないかと思います(笑)。

私もあまり本の売れない純文学の作家として、自分のために宣伝したいと思うのですが、光の音楽を聞いてなお眠れない人は、かれの父親の小説をお読みになるといいのではないでしょうか?(笑)音楽という世界言語は、ルネサンス期のラテン語に似ているかも知れないと思います。たとえば、エラスムスのラテン語を考えれば、それはヨーロッパという限られた世界ですけれども、やはりあきらかに世界言語だったのですから。いまクラシック音楽を聞く人たちの世界を、ルネサンス期にラテン語を話したり書いたりした人びとのそれに重ねてみてください。

そして、エラスムスとラブレーの深い友情、さらにいえば師弟関係というようなことを思いますと、フランス語という世俗の言葉、限られた流通範囲の言葉で書いたラブレーと、ラテン語で一生表現し続け、巨大な知的交通を開いたエラスムスとの関係が意味深く捉えなかしうるのではないかと思います。あわせてスピノザも、さらに徹底した世界言語の使い手といえるのではないかと私は思います。

じつは私は、いま書いている小説を書き終えましたら、もう小説は書かず、少なくとも何年開かスピノザを読んで暮らそうと思い立っていました。四目前まで私どもにとって、とくに私の妻にとって深刻な問題は、家庭のトがスピノザだけを読んで四、五年問すごすとすると、生活するお金をどうするかということでした。今は何万クローネかを持っていますから、スピノザを読んで暮らす条件はそろったのです。スピノザの、この世界についての根本的に楽観的な思想は、どうも正しいのじゃないかと思います(笑)。そのまま再び何も書くことはなしに死ぬことになっても、私個人は宰せだろうと思います。

私はもともと若いころからスピノザを読んで来たのですが、そのきっかけは独学の小説家らしく、バーナードーマラムッドの書いた、ロシアに暮らすユダヤ人をめぐっての『修理屋』という小説を読んだことからです。その最後に、スピノザの一句が引用されていました。《国家が人間性質にとっていとわしいやり方で行動する場合には、その国を滅ぼす方が害悪が軽微で済む。》