May 10, 2005
移動
March 18, 2005
インビジブル・ダイニング
有楽町線・要町駅ほど近くの『レッドピーマン』。
やっつけ感漂う店名もなかなかアレですが、店内に足を踏み入れれば、レジカウンター下のショーケース(?)には、売り物なのかどうかよく分からない、やけに意味ありげにディスプレイされた店名ロゴ入りの食器類。値札もポップもなんもなし。
内装もまた、右手の壁にピカソ、左手にキース・へリング、吊り下げ式のテレビモニター(2台)では船越英一郎の熱演、BGMはフェイ・ウォンと更に味わい深し。敢えて統一感を排したのであろう、籐・別珍・革張り・ソファの入り混じった座席の配置も、デカダンな雰囲気を一層助長させます。
ディナータイムだというのに
フードメニューは概ね500〜700円台、わりと量多め。ワインはデカンタで1000円未満と、価格設定は結構良心的。貸切予約可能、格安価格(1200〜1300円位だったか)で飲み放題あり、カラオケ完備。
豊島区にお立ち寄りの際は、是非。
March 13, 2005
ぼく藤子プロのなんなのさ
実に、誠に、ほんにひさかたぶりの更新でございます。人間、横着し始めるとズルズルと長引くもので。ゆうに一ヶ月以上のブランク。
直近のエントリが、いかにも惰性で書いた感丸出しの『カンフーハッスル』の話題ってのも「何だかなあ」って感じではあるが、まあいたしかたなし。
このひと月、それなりに記したい事が無いではなかった訳ですが、テキストってえものは、一旦お休みしてみると日増しに不精度を増していく物のようでして。
ご覧の文章もかくのごとく、歯切れの悪さが前面に出捲りの体たらくではございますが、ま、リハビリ的に小出しに記述していこうかなと思う所存です。
どうぞ、よしなに。
さて、再開一発目の雑記。
今月をもって、テレビ朝日『ドラえもん』のメインキャスト陣が降板するとのことで、俄に自分の中で「藤子不二雄熱」燃焼中。
早速書店に走り、
『ドラえもん/エスプリ編』、『ドラえもん/恐怖編』(コロコロ文庫)、『気楽に殺ろうよ』(小学館文庫)の3冊を購入。
『エスプリ編』『恐怖編』は原作本編からの選り抜きのようなもので、それぞれテーマに則って選別されたエピソードが、約20話ずつ収録されている。
自分にとっての『(原作)ドラえもん』原体験は、小一の頃通院していた外科医院の、待合室のカラーボックスに並んでいた数冊の単行本。
ページを繰る程に、あの待合室の消毒液の匂いと、革張りのベンチの感触、受付のおばちゃんの無愛想な声色までもがまざまざと甦ってくるようである
のみならず、時を置いて再読する『ドラえもん』にはまた別の趣もあり、子供の時分には気付かなかったプロットの妙や、何気ない毒気などに唸らされたりもする。
なかなかどうして、ショートショートの鑑のような作品。大人が読んでも充分楽しめます。特に上記の2冊はお薦め。「どくさいスイッチ」とか「悪魔のパスポート」なんて、ちょっとした寓話みたい。
『気楽に殺ろうよ』は、『藤子・F・不二雄[異色短編集]』として刊行された全4巻のシリーズの内のひとつ。タイトルからも窺える通り、もともと高年齢層を対象として描かれた、ノワールな感じの作品の集まりである。
堪え難い恐怖から廃人と化した予知能力者の話、世界の「定員」からあぶれた老人達が諦観しつつ死を待つ話、性欲と食欲の価値観が逆転し、殺人が容認された世界でひとり苦悩する男の話、など。
ブラックユーモアなりシニシズム的な視点というのは『ドラえもん』にも時折出てくるものではあるのだけれど、『ドラえもん』におけるそれがギャグあるいは教訓めいた「オチ」としてひとまず丸く収まるのに比べ、この作品を含めた『異色短編集』のエピソードには、総じて救いがない。
救済措置を施す存在というのも滅多に現れないし、克己心で逆境乗り越えよう、みたいな人物も希有。楽観的な夢オチみたいなものもまず、ない。
むしろ、より一層の破滅に向かって行く事を予感させるような、墜落一秒前で寸止めみたいな、そんな結末で話が締めくくられることが殆どなのである。正直言って、かなり後味悪い。
でも、それがまた癖になったりもして。なんにせよ、未読の方は一見の価値ありです。ハマるとなかなか抜けられません。
なんか趣味的な話に終始してしまった感がありますが、ひとまず今回はこれにて。
February 05, 2005
我愛無厘頭
ヤーヤー、でら凄い映画でした。
全編丸ごとカタルシスって感じで、力の抜きどころがない。箍の外れきったテンション。90分ぶっ続けの躁状態。「よくぞここまで」のくだらなさ(イイ意味で)。真摯にバカ。感動的なまでにナンセンス。
なんていうかもう、面白いとかつまらないとかそういうレベルの問題でもない。この映画について何か語る事それ自体が、ひどく無粋な事のように思う。
批評・分析なんて野暮というもの。ブルース・リー御大言うところの「Don't think,feel」ってやつだ。
天晴・周星馳。津田寛治にやや似の面構えも、不敵にしてステキ。
既に『カンフーハッスル2』の製作も決定、日本ロケも検討中とか。いやがうえにも期待は高まります。
『チャウ・シンチー VS. 東京大仏』とか希望。
January 25, 2005
漢たるもの、鮪で在れ
演劇にしろ、映像にしろ、なにがしかモノを作るときの心構えとして、変にこわばった感じの表現はしたくない、と思う。流動的というか、不定形というか。グニャグニャな感じでいたいのです。
「イイ感じに脱力するスキル」みたいなものを身につけたい。
力んではいけない。気張り過ぎてはならない。と言って、ただダラダラと、その場その場の思い付きを形にするというのでもない。
それは、非常に微妙な匙加減の上に成り立っているものだと思う。
だからこそ、敢えてそこを突いてみたいとも思う。
セオリー通りに安パイに張るより、大穴狙いのほうが配当も高いというもの。
イイ感じに脱力して穴を突く。つまりは女性上位ですか?
まあ、その、何でも書けばいいってもんじゃないな、とは思います。猛省。
January 22, 2005
病み上がり雑感
日々は過ぎて行く。徒然に。感冒に打ちのめされておりました。未だ完治しきってはおりません。
気がつけば、半月近くもblogが放置状態。なんてこった。
特記すべきことがなかったという訳ではなく、むしろ色々と書きたい事はあるのですが、頭がうまく働きません。カオスな感じです。
ひとまずそれらは後回しにして、こまごまとした事を数点記し、お茶を濁そうかってな所存です。すいません。
■池袋って街は、いつ歩いても居心地の悪いところだ。
なんでしょう、「治安が悪い」とか「美観に乏しい」とか「路上生活者が多い」とか、そういうレベルの問題ではなく、生理的な部分に訴えてくるものがある。
どんなにゴミゴミした街でも、必ず「避難場所」のような一帯があると思う。自分の場合、新宿ならば御苑付近、渋谷ならば新南口のあたりがそれに当たるわけだが、池袋には逃げ場がない気がする。
どこまで行っても池袋だ。池袋色に染まっている。池袋臭がつきまとう。
連れ込み旅館とトルコ風呂とオノボリさんと予備校生の街。
東京芸術劇場ってのもすごい。なんだろう、あの立地の必然性の無さは。山谷にシネコン建てたような歪み感がある。
異物が排除されることなく並立する街、むしろ異物だらけで組み立てられた街、腑に落ちないものだらけな街。池袋ってそんな印象。
新文芸坐は好きですけど。
■ある種の、「特殊な電車」にそそられる時があります。
タイヤで走る電車とか(ニューシャトル)、電線のない電車(山口線レオライナー)とか。
モノレールも結構好きです。あと路面電車。荒川線とか世田谷線とか。
ディズニーリゾートラインの「これでもか」って感じの内装も。
遊園地の敷地内周遊するSLモドキとか。
と言って、ホーム突端でひとり撮影会とか、時刻表見て脳内旅行とかするアレじゃないし、断じて自分は「鉄ちゃん」ではありません……と主張したいが。
大江戸線の不自然な狭さも結構ツボ。
■小劇場の女優が舞台で脱ぐ、という事について考える。
私見を述べれば、自分は小劇場のヌードについては否定的である。
映画や写真のように画として記録されたもの、既に完了してしまっているものと違い、舞台で見る裸はリアルタイムなだけに、どうしたって生々しくなる。本多劇場やらスペース・ゼロといったそれなりの劇場ならともかく、キャパシティ100人そこそこの、舞台と客席の境界線も曖昧な「小屋」なら尚更だ。
脱ぐことを決意するまでの葛藤とか、本人にとって果たしてメリットがあったのかとか、客席にいるであろう彼女の知人らはこれを見て何を感じるのかとか、どうしても、女優の素の部分というか、日常的な部分を透かし見てしまうのだ。
演出の意図がどうであれ、「女性が裸体を晒す」という行為自体にある種の意味が出てしまう事も否めない。実際、一時期の『毛皮族』は、連日ヌード目当ての中年客で桟敷席が埋め尽くされていたという。
純粋にエロとして裸を見せたいのならともかく、目的が別のところにあるのなら、脱ぐ事にはもっと慎重になるべきだ、と思う。
身も蓋もない言い方だけど、著名な女優が大舞台で脱ぐのと、無名の女優が阿佐ヶ谷辺りの貸し小屋で脱ぐのを、観客は同義の行為として捉えない。
一部の観客の、下卑た解釈をも受け容れる覚悟があるかどうか、ということ。
体調不良で苛立っているせいか、なんだか文面がささくれ立っているように思います。もっと茫洋とした心を持ちたいと思う冬の夜半。
January 08, 2005
脱・枠

【馬鹿と下世話のステキな邂逅】などと標榜しつつも、どうも馬鹿さ加減が薄いように感じるこのblog。
もっと馬鹿にならないといけない。いけないってこたないけど。くだらなさに浸りたいのです。
というわけで、TSUTAYAでラーメンズの『STUDY』を借りてきた。的外れな感じもするけど気にしない。
去年の春頃『CLASSIC』のビデオを見て以来のラーメンズだったが、なぜか、前ほどには笑えなかった。
けして面白くなかったって事ではないんだけど。それなりに笑ったし。でも、いまいち自分の中で盛り上がりきれなかった。
個人的に、『理屈っぽく頭よさげに作ってるようで、その実内容はくだらない』というのがラーメンズの面白さだったように思うのだが、『STUDY』に関しては、やや頭でっかちな印象を受けた。
ネタの構成がやけにシステマチックで、プロットの立て方のお手本を見ているような気分だった。「うまいなあ」とか「こなれてるなあ」とは思うんだけど、なんていうか、昂揚しきれない感じ。
「芸人」というより「職人」って感じなんですね。
小林賢太郎自身、そういうものを志向している部分もあるだろうが。いい意味でこなれきれてなかった、オンエアバトル時代や『home』『FLAT』『NEWS』の頃が、一番面白かったように思う。
『CLASSIC』のバニーボーイは結構面白かったんだけど。ぐだぐだしてくるやりとりとか、「死ねばいいのに」ってにべもないツッコミとか。
頭いいに越したことはないし、格好いいのはそれはそれでいいことだと思うけど、計算というかあざとさというか、「狙ってる感」のようなものがあまり透けて見えてしまうと、興ざめするのは否めない。
ギリギリ未完成な感じがいいのだ。不恰好さが仄見えるくらいがちょうどいい。
そこを踏まえて、今現在のモストフェイバリットは「さくらんぼブービー」。
構造的に作られているにもかかわらず、「計算高さ」なんて言葉とは無縁の、この上なく・どうしようもなくくだらないネタの連発。
予定調和すらも持ち味に変えてしまう力技。イイ。
馬鹿万歳。
January 03, 2005
テッテ的キネマトグラフ
予告通り、前回の続きを。昨年の9月、知人から誘いを受け、池袋は新文芸坐に『つげ義春の世界』を観に行った。
『リアリズムの宿』をウカウカと見逃してしまいガックリ来ていた自分にとって、この特集上映は渡りに舟だった。
いそいそと池袋行きの電車に乗り込んで、劇場に着いたのが22時半過ぎ。
場内は、いかにも『ガロ』や『アックス』読んでそうなサブカルチュラルな人たちで、ごった返すとはいかないまでも、まずまずの混み具合だった。
前日の夜更かしによる寝不足と、隣に座った客の独特な体臭(なんか給食の時間みたいな匂い)とで集中力の維持には若干の不安があったが、ともかく予告映像が終わり、『リアリズムの宿』の本編開始。
原作ありきの映画の場合、「どれだけ原作に忠実であるか」という部分が気になる人も少なからずいると思うが、自分の場合「小説・マンガと映画は、基本的に別モノ」という考え方なので、むしろ「原作がどのようにいじられているのか」ということのほうに興味があった。
感想から言うと、「原作の再現度にこだわる人からしたら、気に入らない点も多いんだろうなあ」という感じだった。
つげ義春マンガの映画化というよりは、翻案したオリジナル作品という印象。貧乏臭さや行き詰まり感のような、それなりの「つげっぽさ」はあれど、なんていうか、軽い。全体的に暗さがない。
でも、いち映画としては素直に面白い作品だった。山本浩司と長塚圭史の腹割りきってない感じとか、間の使い方とか、いい意味でテキトーな感じの演出とか、ヒロインぽい女の子のルックスとか、個人的にツボだった。この日見た四本の中では一番好きなテイスト。
気楽に観てられる感じです。好みは分かれると思うけど。
休憩を挟んで、二本目の『ねじ式』。以前ビデオで鑑賞済みだったので、やや中休みのような気持ちで観た。
浅野忠信はやはりミスキャストでは、と思った。何か淡々とし過ぎて。山本・長塚とは別のニュアンスで「軽い」。作品自体がドロドロこってりした雰囲気だけに、どうにも違和感を感じた。
それとは真逆の意味で、丹波哲郎もいかがなものかと。役がどうのという以前に、「衣装をつけた丹波哲郎がそこにいる」という風にしか観れない。存在感強すぎ。
あと、汽車の模型ちょっとショボい。NHK教育の人形劇にでも出てきそうな。
セパード役の俳優が、過剰にいやらしい演技で笑った。杉作J太郎はとても活き活きしていた。
三本目、佐野史郎主演の『ゲンセンカン主人』。
四本の中では、最も原作に忠実に作られている感じだった。表題作の『ゲンセンカン主人』は、駄菓子屋にたむろする老婆のメイクとか佐野史郎のヅラとか、低予算丸出しなところがちょっとアレだったが、『李さん一家』や『紅い花』、『池袋百点会』の佐野史郎の振り回されっぷりは結構良かった。
川崎麻世もなにげにハマリ役。
ラストの楽屋オチみたいなのは勘弁でしたが……
『ねじ式』もそうだが、石井輝男作品はエロ描写に気合い入りすぎてて、辟易させられる部分がなくもない。
「官能」と言うより、「肉欲」と言ったほうがしっくりくる。正直見疲れする。
大トリ、竹中直人の『無能の人』。
原作でも一番好きな作品。
氏の別の監督作『119』も好きだったので、それなりに期待しつつ観る。
方向性としては『リアリズムの宿』に近く、表題作ほかの短編をコメディ寄りにアレンジした感じ。
細かなエピソードや設定は原作とは異なる部分も多いが、『リアリズム』よりも、原作の持つ頽廃的な雰囲気を醸し出す事に重きを置いている印象。
四作品の中では、映画として一番バランスが取れている感じがした。コミカルさとペシミズムがうまいこと同居できているというか。
原作が、じわじわと破滅に向かっていくことを予感させるとすれば、映画版は一旦沈んでみせたのち、浮かび上がってくるだろうことをほのめかして劇終、というイメージ。
ひなびた風情の、ちょっと陰気なホームドラマといった感じでした。
ゴンチチの劇伴音楽も、作品の空気感にマッチしていて心地よかった。
全作品を観終わって、劇場の外に出た頃にはすっかり朝の空気だった。
喫茶店に入って連れと交わした会話は、映画の感想でも役者の寸評でもなく、「あっちの席で居眠りしてるおっさん、実は店の備品で、動力はニッカド電池2本」とか、なんかそんなくだらないことだったと記憶している。
January 02, 2005
後れ馳せながら、明けました
新年の御慶めでたく申し納めます。本年も、どうぞ宜しくお願い致します。
■元日、雑司ヶ谷の鬼子母神へ初詣に行って来た。
日も落ちかかった頃に行ったためか、参詣客もまばらで、出店も3〜4軒しか残っていなかった。
焼きそば・おでん・駄菓子まではわかるとして、4軒目の「カレンダー屋」というのがよくわからなかった。
やる気のない生鮮屋のようなダミ声で、「サーイラシャーセーイラシャーセーカレンダーイカースカー」と客引きをしていた。
参詣の行列に並んでいたら、後に立った男女の会話が聞くともなしに聞こえてきた。
「テキ屋のヤキソバってなんか買う気しないよね」
「そうだねー」
「やっぱ、もっとオリジナリティが欲しいとこだよね」
「そうだねー」
「俺だったら、ムール貝とかさ、何かあの、四角いパスタとか、そういう具材にこだわっちゃうところだね」
「そうだねー」
もう少し話にノってあげてもいいのじゃなかろかと思いました。
四角いパスタとは何の事だろう。ペンネ?ラビオリ?ラザニア?ていうかヤキソバに?
その夜はなんとなく、イタメシを食って帰った。
■何となく、藤子・F・不二雄の『異色短編集』が読みたくなって、蔵書数に期待の持てない近所の本屋まで出かけていったが、案の定見つからず、代わりに買った本は魔夜峰央の『パタリロ!』だった。何故だ。
■スパルタローカルズの『SUN SUN SUN』ばかり聴いている。
所謂ヘビーローテーション(瀕死語)というやつですか。
テンション高まってきたときの、アホらしいくらいの突き抜け感が面白い。
音楽にしても映画・美術・文芸などにしても、普通にカッコ良かったり、形良く作られたものよりも、どこかに「外し」のあるものに惹かれる。
野暮ったさや泥臭さの比重が大きすぎても、それはそれでちょっとアレなんだけど、ガチガチに体裁を整えられたものにはいまいち食指が動きにくい。
なにか隙間というか、遊びの感じられるものが好きだ。
ハンサムな感性には真似できない、二枚目半〜三枚目的センスにこそ魅力を感じる。
決して、ブ男のひがみではないのです。断じて。
■チャウ・シンチーの新作が絶賛?上映中です。
『食神』は自分的に、香港映画史に残る稀代の佳作である。
名作に非ず、あくまで佳作。むしろその「佳作」感こそがチャウ・シンチーの真骨頂である、と手前勝手に思っている。
今後ともこのままのスタンスで、香港映画のオルタナスターとしての美学を貫いていてほしい。
塚本晋也の『ヴィタール』もとても気になります。役者の塚本晋也も好きだ。『とらばいゆ』の気弱な亭主役にはシンパシーを禁じ得なかった、尻敷かれ体質の私です。
ああ、今無性に映画が見たい。見まくりたい。
■映画と言えば、数ヶ月前、池袋の新文芸坐に『つげ義春の世界』を観に行ったことを思い出した。
オールナイトで四本立て。『リアリズムの宿』が特に良かった。また明日にでも詳しく書こうと思う。
酷寒の三が日ですが、皆様どうぞご自愛ください。
December 31, 2004
The Watch-Night@2004
もう、あと数分で年が明けます。何やかやと、悲喜交々な一年でありました。
本年中は、様々な場面、様々な方々にお世話になりました。
皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します。
特にヒネリはありません。心静かに越年。
trage-comedy考
カトリーヌ・ブレイヤ の『ロマンスX』。キャロリーヌ・デュセイが分娩台に乗っかって、産科の医師達に局部をまじまじと観察される場面があるのですが、「あの時の微妙な表情が笑えてしょうがない」と友人に感想を述べたら、無言で深い溜め息をつかれました。
岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』。リンチ・レイプ・自殺・殺人と、なかなかに重苦しく湿潤なシーンの目白押しだったはずなのですが、何よりも印象に残ったのは、「稲森いずみ演じる主人公の母親について『芸能人でいうと誰に似てる?』と聞かれて、『うーん……稲森いずみ?』と答える中学生」でした。
よく、「ものの見方を履き違えてる」と言われます。
他にも「ヒネくれてる」「斜に構えすぎ」「素直さがない」「むしろ幼稚」「なんかさ……間違ってるよね、人として」など、それはもう散々な言われようです。
ご高説しかりごもっともでありまして、気分を害された知人各位には、「誠にスマンでした」と言うほかないのですが。
でもね。他意はないんです、ほんと。
偽悪を気取ってるわけでも、シニシズムに浸ってるわけでもなくて。なんか自然とそうなっちゃうんです。
痛々しいシーンほど、笑わずにいられない。
なんていうか、その、ノワール?な感じの雰囲気が苦手で、強引に面白ドコロを探してしまう。ありもしないコメディ要素を捏造する。(↑「稲森いずみ」は監督自身意図的でしょうが)深刻さや陰惨さが切迫してくるほどに、自分の中で茶化さずにはいられなくなる。
感傷に浸りたい人からしてみれば、水差されまくりもいいところ。ほんと面目ないです……とは思いつつも。
だけど、それもひとつの楽しみ方だと思うのです。
ショッキングな展開や悲惨な結末をダイレクトに受け止めて憐憫の情を催したり憤りを感じたり、それは全く正しいことなのだけれど、また別の感情の動き方もあるはず。
黒沢清の『ニンゲン合格』。
終盤、西島秀俊が冷蔵庫の下敷きになって、あっけなく昇天する場面。正直、初めて見た時は笑いました。あまりにナンセンスな、「ついうっかり」って感じの死にっぷりに。いくらなんでもそりゃないでしょって。
でも、それだけに、その空虚さになんか泣けました。カタルシスになりきらないために、かえって悲しみに底がないようで。
あの場面が、自殺であったり事故死であったり、(フィクションとはいえ不謹慎な言い方かもしれないけれど)呑み込みやすい形の悲劇としてしめくくられていたら、それほど記憶には残らなかったかもしれない。
ビョークの恍惚ぶりに失笑したがゆえに、直後絞首台で弛緩した彼女の姿が、ことさら衝撃的に映る。
稲森いずみネタの呑気なやりとりが頭の片隅にあるからこそ、少年達の辿る末路がなおさら救いのないものに感じられる。
「滑稽=笑える」とか、「悲惨=泣くしかない」とか、そんな単純な情動ばかりじゃない。と思うのです。
笑いの中にも「絶望」はある。
なんつって。
December 30, 2004
Lauf Meister Lauf 雑感
■佐藤雅彦の『毎月新聞』を読む。この人のスタンスは何かいい。飄々としてる感じがいい。
知性が厭味にならない。押しつけがましさがなくて、でも印象づけは緻密に計算されているようでもあり。
さっぱりしたインテリゲンチャ。
アナログな二進法ってイメージ。よくわからんが。
『クリック』も、マッタリと面白い感じがすこぶるいい。
『ピタゴラスイッチ』も好きです。
『KINO』も気になります。ビデオも出てるが、できればリバイバル上映切望。
■最近新たに知り合った人の、「高円寺居住率」がやけに高い。
ま、「だから何だ」と言われりゃそれまでの話なんですが。
高円寺に『高円寺』という寺があることは、案外知られていないらしい。
『仲屋むげん堂』は、みんなそれなりに利用しているらしい。
最近はやけに小洒落たカフェや雑貨屋が増えて、長年住んでる人からすると、なんか違和感を感じてしょうがないらしい。
余談だが、北口徒歩数分の『DOG BERRY』のカレーは実に旨い。
だから何だ。
■遊園地再生事業団+ニブロール『トーキョー/不在/ハムレット』に出演する岸建太朗氏の監督する自主映画、『最後の人間』のお手伝いをしています。
こういう言い方はかえって失礼というか、おこがましいかもしれないけれど、自主映画とは思えない程、映像のグレードが高い。
ドロドロしたテーマやストーリーでありながら、手法はスタイリッシュ。
自分も「編集協力」という名目で、誠に微力ですが参加致しております。
おそらく来年春あたりに上映会など行われると思うので、興味を持たれた方は是非。
岸さんの人となりについては、u-ench.com PAPERS内『不在日記』の『Dec.28 tue.「岸建太郎伝説」』で。
■18時吉祥寺。
敬愛する知人のひとりと食事をした。
お互い、相手の近況に対するダメの出し合いみたいになって、一時険悪な雰囲気になったが、最終的には談笑して丸く収まり、和やかに帰途についた。
指摘されたことに関しては、気付かされる点が多かった。
ここ数ヶ月、色々なことに対してモチベーションが曖昧になっていたと思う。
あれやこれやとプランをブチ上げつつ、なおざりにしていたことが多々あったと反省させられた。気付けばblogも放置気味だし。
しっかりしなければいけない。行動力。実行力。責任感。忘れちゃなりません。
年の瀬に、身のあるお叱りを受けたとむしろ晴れやかな気分です。
この場を借りてお礼を言いたい。ほんとにありがとう。
来年もどうぞよしなに。
December 23, 2004
ある意味ポルノグラフィー

遅ればせながら、トイカメラにハマっているのです。
lomographyのActionSampler Flash。
レンズ部分が上下に4分割されていて、シャッター1発で4連写、1コマに4枚の画が記録されるという代物。
アングルやポジション決めは二の次、手ブレもピンボケも何のその。計算無用・適当上等、偶発性に任せまくりといった感じで、小洒落感を狙うよりもハプニング重視、ネタに走りたいヒト向けという印象。
ちんまりチープなデザインや「シュバーッ」って感じのシャッター音含めて、いかにもな「お遊び感」にグッときます。
正に大人のおもちゃ。光学的セルフバーニング。黒光りするボディも淫靡よね〜★
品のない表現は嫌いです。
December 03, 2004
December 02, 2004
ヨーク・ザ・コンドマニア
今更な感じの話題で恐れ入りますが、去年、ややもすると一昨年あたりから、世間的には「お笑いブーム」ということになっているようで。毎曜日毎時間帯、来る日も来る日もどこかで誰かがネタ見せしてる、そういうご時世。
そんな中、世の趨勢に抗うがごとく「熱唱編」とかいう時期外れの似非ASAYAN的企画をぶち上げ、敢えてこの時期にお笑い特化番組としてのスタンスを捨てた「NHKオンエアバトル」には賞賛と心配を禁じ得ないのであるが、ここで本論としたいのはもっと別のことで、「ロバートで一番不要なのは山本と思われがちだが、馬場も実際出オチみたいなもんである」とか「虻川の存在でうやむやになってはいるが、伊藤のルックスも絶妙に微妙」とか「反戦デモじゃあるまいし、揃いのロゴTってどうなの」とか「堤下はとにかくがんばれ」てな「アンチ『はねるのトびら』考」でもないわけで、「ピン芸人の人たちが醸し出す既視感」についての話である。
ピン芸には、芸風が類型化しやすいという陥穽がある、と思う。
すべての人に当てはまるというわけではないが、「毒舌(あるいはこき下ろし)」と「小ネタ連発」、このくびきから脱してネタ作りができているピン芸人は、殆どいないように思われる。
「毒舌」のカテゴリーで実例を挙げるとすれば、近年では青木さやか・長井秀和・はなわ・波田陽区、過去に遡れば田上よしえ・スマイリーキクチ、ベテランどころで綾小路きみまろ・毒蝮三太夫・大喜利における三遊亭楽太郎など、この路線にはやや飽和状態の感がある。(↑厳密には非・芸人なヒトも含まれてますが)
「小ネタ連発」についても同様で、ヒロシ・マイケル・だいたひかる・ダンディ坂野、過去にはスケッチブックと合わせ技の鉄拳・小心者克服講座の頃のふかわりょうなど、演じ方に個々人の差はあれど、既出の印象は否めない。マギー審司なども、ネタの構造から解釈すればこの系統に含まれるだろう。
友近・劇団ひとり・ホリ・パペットマペット・陣内智則など、上記の範疇に当てはまらない、当てはめにくい芸風の人たちもいるが、友近と劇団ひとりの所謂「一人コント」はどうしてもイッセー尾形を彷彿とさせるし、ホリは持ちネタ自体が定型化している(キムタク・テリー・出川・えなりetc.)し、パペットマペットを見ているとジャリズムのバカドールシアターを懐かしんでしまうし、陣内智則はそもそも陣内智則自身が蛇足な感じがする。映像+ナレーションのみでやったほうが断然面白くなりそう。論旨からは外れるが。
閑話。とおことわりしてさらに本筋から逸れてしまうのだが、前出の田上よしえ。彼女の芸は本当に酷かった。ありゃほとんどいやがらせである。苦痛。
ネタの基本は、青木さやかや友近のような「女性の演じる一人コント」ってことなのだろうけど、なんというか、精度が恐ろしく低い。創意工夫の痕跡が微塵も感じられない。
青木にせよ友近にせよ、他の同系統の芸人らにせよ、シチュエーションの設定が前提にあってその流れの中で台詞を発しているわけで、笑えるか否かは別にしてもネタの発生に必然性があるのに比べて、田上よしえの場合完全にルール無用。その場の思いつきで毒づいてるだけという感じで、突拍子がないのでネタ同士が有機的に結びつかず、ひたすら空虚。ただ時間だけが流れていく。
オンエアバトルや人力舎のライブビデオなどで何回か見たが、いずれの観客の反応もおそろしく静かなもので、延々空回りし続ける山田邦子似のボイスだけがむなしく舞台に響いて、見てるこっちが不安になるというか、いたたまれない感じだった。あの人がどういう経緯でTV出演等々に至ったのか、今もって全く理解できない。自分の中で、ユリオカ超特急と並んで「ピン芸界のダークマター」の双璧だった。もう見かけなくなったから別にいいんだけど。
話を元に戻します。
「お笑い/ピン芸人」というジャンル区分の前提が共通項としてある以上、ある種の既存のパターンに落ち着いてしまうことは必然という気もするし、それ自体は可否を論じるような事柄でもないとは思う。既視感とは言い換えれば「普段から見慣れている」ということでもあり、唐突に未見の異質な芸を披露されるよりは、安心感を持って楽しめるという考え方もできる。
しかし、仮にも「お笑いブーム」と謳うからには、何と言いましょう、もっと種々雑多なピン芸人が登場したっていいじゃないかと思うのである。安全牌な芸人なんて現時点で腐るほど存在してるわけで、「お笑い」に対してある程度視聴者が寛容な(と思われる)この時期だからこそ、もっともっと無茶をしたっていいのじゃなかろうか。
長井秀和のシニカル漫談もいいし、ヒロシの自虐語録も嫌いじゃないし、友近の冗談みたいな体型も充分面白いんですが、あたしゃ正直もっとキワキワなものを見せてほしいのですよ。
かつて鳥肌実が、深夜とはいえ正月早々ブラウン管に登場して件の演説芸を披露し、聴衆を圧倒というか困惑させたというかなんかモヤモヤした気持ちにさせたような、あの種の現象をまた目撃してみたいのである。
その伝でいくと、今のところ猫ひろしはイイ線いってると思う。江頭某のように単なる半裸イロモノ芸人として中途半端に消費されることなく、変に小器用になって呑み込みやすい芸風に転化することもなく、あのままの調子で演芸界の彼岸に立ち続けていてほしいと思う。
それにしても、波田陽区の顔は、なんか質感がゴムっぽい。
November 10, 2004
垂れ流し的感想文ご容赦……『ロレッタセコハン』
『ロレッタセコハン』というバンドが好きだ。
ご存知の方がどれだけいらっしゃるのか不明だが、ともかく好きだ。
洒脱な感じのアートワークが好きだ。
「ロックソロール」だの「サティスフィクション」だの、人喰った感じのネーミングセンスが好きだ。
ヘタレな感じのボーカルが好きだ。
野暮ったい感じのサックスが好きだ。
無表情な感じのウッドベースが好きだ。
ポカスカポカスカなドラムが好きだ。
ドラマーが別嬪さんなのもまた、好きだ。
サクッと終わる尺の短さも好きだ。
気取ってんだかふざけてんだかわかんない感じが好きだ。
ニヒルと言うべきか単にヌルいのか迷う感じが好きだ。
比較的良心的な価格設定も好きだ。
理屈はともあれ、なんか、もう、好きだ。

ご存知の方がどれだけいらっしゃるのか不明だが、ともかく好きだ。
洒脱な感じのアートワークが好きだ。
「ロックソロール」だの「サティスフィクション」だの、人喰った感じのネーミングセンスが好きだ。
ヘタレな感じのボーカルが好きだ。
野暮ったい感じのサックスが好きだ。
無表情な感じのウッドベースが好きだ。
ポカスカポカスカなドラムが好きだ。
ドラマーが別嬪さんなのもまた、好きだ。
サクッと終わる尺の短さも好きだ。
気取ってんだかふざけてんだかわかんない感じが好きだ。
ニヒルと言うべきか単にヌルいのか迷う感じが好きだ。
比較的良心的な価格設定も好きだ。
理屈はともあれ、なんか、もう、好きだ。

November 09, 2004
ビートニク?
ピンポン翻訳にハマってます。と、いきなり切り出してみたところで「何のこっちゃい」という感じですが。
要は、Exciteやniftyなどの自動翻訳サービスで、原文入力→英訳→和訳→英訳→和訳→英訳→和訳……と交互に繰り返していくという、ただそれだけのこと。
それだけのことなのだが、上記のサービス、お使いになったことがある方にはお分かりかと思うが、ひとことで言ってものすごく「低能」なのである。
ワンセンテンス英訳するのにもいっぱいいっぱい。語彙力もなさそうだし、難しい漢字や熟語は認識すらできずにそのまま英文の中に放り込まれてたりする。英文→和訳についても言わずもがな。
なので、まず原文から英文に訳す段階で微妙なつまずきがあり、それを和訳しなおすことで的外れな和文が生まれ、さらに英訳するとより一層いいかげんな英文に変貌し……といった具合にデタラメのフィードバックが繰り返されることで、最終的に、えも言われぬ前衛的な文章が誕生するという寸法。
以下にいくつか実例を。それぞれ原文と、英訳→和訳を3往復繰り返した結果。
吾輩は猫である。 名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
↓ ↓ ↓
私は猫です。名前はまだありません。それは生産された場所です。あるいは、それは目指されます。それは必ずしも全く浸透されません。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない
↓ ↓ ↓
人々は生きています。更に、人々は落ちます。正しいそれ (ポイントを除いて内部への人々を救う、便利な近道、何もありません)
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
↓ ↓ ↓
奇妙な不吉な塊[圧え](ていた)--価格]----、私の心および通常の条件
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
↓ ↓ ↓
Kiso方法はすべて山にあります。ある場所は実行する崖の方法です。「1、ダース、どれ、谷の入口である、どれ、中間に含んでいる、Zを備えた場所およびある場所の後部、山、それ、海岸である、またKiso川、によって、どれ、深さ、伴われました。
どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう
↓ ↓ ↓
どっどどど どのように どど どのように どど それは青くなる[どのように、どれ] 一層の----(すっぱいかりん)(それはそれに遠方に終始それを吹くことができる)のカバー、それは遠方に終始それを吹くことができます どのように(どっどどど) どど--どのように どど--どのように
キリがないのでこのへんで。特に最後のやつは出色の出来だと、個人的には思う。
皆様、一度お試しあれ。→Excite エキサイト 翻訳
[出典:夏目漱石『吾輩は猫である』/坂口安吾『堕落論』/梶井基次郎『檸檬』/島崎藤村『夜明け前』/宮沢賢治『風の又三郎』]
November 04, 2004
November 03, 2004
オルタなバカ
唐突で恐縮だが、私、ポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」という映画が好きなのです。自分が思うこの映画のキモ、それはひとことで言って、その「バカ」っぷり。
と言っても、「オースティン・パワーズ」に代表される米国人の好みそうな「イキオイ重視の躁病的なバカ」や、「Mr.ビーン」に見受けられるような大英帝国お家芸の「利口の演じる逆説的なバカ」、あるいは一連のハリウッド産コメディに散見できるたぐいの「最終的にはちょっぴりハートウォーミングなバカ」のようなものではなく、この映画の醸し出すものは、なんというか、「手の込んだ無意味なバカ」という感じなのである。
例えば、作品中のワンシーン。士官候補生となって赴任先に旅立つ恋人を、主人公が
駅(?)のホームで見送る場面があるのだが、定石通りにいけば、
ゆっくりと閉じられたドア→おもむろに動き出した列車を小走りで追う主人公→窓越しに手を振る彼女、二人の距離はだんだん遠くなり→やがてホームの突端で余韻たっぷりに立ち尽くす主人公
てな感じになるんでしょうが、この映画の場合はそうはいかない。
ゆっくりと閉じられたドア→コンマ数秒で消える列車→早々にカット変わって次のシーンへ
なんたって人類が宇宙に移住している時代ですからね。電車も速いのなんのって、余韻もなにもあったものではない。
また別のシーン。演習中に誤って友軍の兵士を射殺してしまう主人公、その懲罰として全兵士に公開する形で刑が執行されるのだが、その内容が、半裸で吊るし上げられての「ムチ打ち100回の刑」。
突如としてオールドファッション。電車はマッハで走らせてたくせに。
ほかにも、劇中のプロパガンダCMに出てくる主婦のどうかと思うようなテンションの高さや、何もそこまでという感じの莫大な人数のエキストラ、はたまたエピローグ直前のニュース映像における蛇足としかいいようのない小ネタであったりとか、その種のアレには枚挙にいとまがないのだが、とにかくそれらの場面に一貫して共通しているのは、「ストーリーの本筋には殆ど関わりがない要素」だということで、言い換えれば「あってもなくてもいいのかもしれない」ということ、もっと端的に言えば「無駄なんじゃないの」ということである。
まあ、これはさすがに暴論に過ぎますが。でも、それと意識して見なければ、特に笑いどころとは気づかずにスルーしてしまいかねない程度のものだし、それ抜きでも作品が成立してるっちゃ成立してるのも確か。
しかし、実はバーホーベン自身、そういった微妙で無駄なディテールを作り込むことにこそ心血を注いでいるのではないか、それこそが作品の骨子だとでも思っているのではないか、ただ単にくだらないことやりたかっただけなんじゃないのか、じっくり観れば観るほどに、そう思えてきてならないのである。
一応作品の内包するテーマとして、軍事国家(アメリカ)のありようへの批判や、戦争という行為そのものの残酷さやグロテスクさに対する風刺、そういったシリアスな姿勢を見て取れないこともないのだけれど、しかしそれらも、結局のところ「微妙で無駄なディテール」を浮き彫りにするための、単なるお膳立てに過ぎないのではないかと思えてしまう。
言うなれば、手間暇かけた、結構な金を費やしたあげくの悪ふざけ。これこそが、この映画が製作された真の意味なのではないかと。
いや、まあ、あくまでひとりよがりな考えなんすけど。
で、こんなエセ批評の文章を長々と書いてまで何が言いたかったかと言うと、自分が一番好きな「バカ」は、「やたら景気のいいバカ」でも「ほんとはお利口なバカ」でも「ホロッときちまうバカ」でもなく、やっぱり「うまく言えないけど、なんかバカな感じ」なのだということ。
呑み込みにくいけど、明文化できないけど、「これ……もしかしてバカ?」っていうような。「バカ……なのかなあ。バカなのかもなあ。どうなんだろうなあ」みたいな。
練りに練ってはいるんだけど、素知らぬ顔してやってる「バカ」。媚びもしないけど気取りもしない、飄々としてそこに立ってる「バカ」。
カタカナやsolenzinの軸とすべきも、その種の「バカ」なのではないかということなのです。
別に、バーホーベンみたいなことがやりたいって意味じゃないけれども。しかしそこから学ぶべき部分は大いにある……はず。たぶん。たぶんね。たぶんだけどね。
脱・予定調和。おもねるべからずスタンダード。
既存の馬鹿にカウンター的な、そんな馬鹿を標榜したいのです。
標榜ってお前、そんな大げさな。
ともあれ馬鹿は曠野をゆく、おぼつかない足取りで。そのくせ妙に自信ありげに。前途洋々たることを希うばかりであります。
October 31, 2004
馬鹿と下世話のステキな邂逅
そのK君と会話していた折、ブログのタイトルについて「どういう意味?」という質問が。おくればせながらの解説。
なんかさも意味ありげな英字が並んじゃおりますが、
VECONO-CAH→ヴェコノカー→べこのかあ
BOB-RAYMOND→バブレイモン→ばぶれもん
土佐弁で、それぞれ「馬鹿」/「助平」の意。
身も蓋も無ぇですわな。そんな感じです。



