受験&教育byベリタス

ベリタスは、東京都町田市金井(小1~高3)と東京都町田市原町田(小1~中3)にて学習塾を展開しています。学院長と教室長が、生徒・父兄と接して感じたことや教育関係の問題について思うことを綴っています。

小学生の英語は、何を身につけさせるべきなのか。

中学入試が終わると、合格した子たちは、たいてい進学準備のために英語の授業を受けにきてくれる。もちろん、いつからでも始められるから、中学を受験しない生徒が春から受講していることもある。その場合は、進度は別々にしている。

ベリタスの小学英語は、基礎基本の反復練習をモットーにしている。聞くところによると、小学校の英語の授業は、会話中心というか、ゲームをしたり、歌を歌ったり、とにかく発声することだけのようだ。読み書きはやらないという。授業は毎週あるのではなく、ネイティブスピーカーの英語補助教員(ALT)が、時々やってきて行われるのだそうだ。したがって、英語に慣れるとか「外人」を見ても驚かないようになるとかという程度の効果しか期待できない。

ベリタスの小学英語は、筆記が中心である。まずアルファベットが大文字小文字ともブロック体で正確に書けるようにする。やる気のある子には、筆記体も教える。次に、厳選した易しい単語を覚えて、自分で単文を作れるように指導している。教材は、そのために開発したオリジナルの物を用いている。

中学生に英語を教えていて、最初の関門は、アルファベットをきちんと書けるようにすることである。最近の生徒は、以前と比べると、覚えるのが遅い傾向にある。中学1年生の4月から始めて5月末までに終わらないことすらある。小学校の国語の授業でローマ字をちゃんと教えていないのが一因のように思う。ローマ字の読み書きが出来ない子も多いのである。さらに小中学校での反復練習の少なさも原因の一つであろう。小学校低学年の漢字練習は、3回程度書かせるだけで終わりにするのが大半である。10回も20回も書いて覚えるということをしてこないので、彼らは、同じ文字を繰り返し書くのが苦痛で、反復練習を非常にいやがる。

そこで、ベリタスの小学英語では、アルファベット、英単語、英文のいずれにおいても、きちんと、反復練習をさせて、書くことをいとわない習慣を身に付けさせるようにしている。また、小学生のうちにきちんとアルファベットを書けるようにしておくことは、中学英語へのスムーズな導入となり、最初の時点で英語嫌いになるのを防ぐ意味も大きい。アルファベットを覚えるのに苦労した生徒はたいていが英語嫌いになってしまうのである。

中学から初めて英語に取り組む生徒の、次なる関門は、英語の語順である。彼らは、英文を読む時は、日本語と同じような順序で訳そうとするし、英文を書く時は、日本語と同じ順序に英単語を並べるようにしてしまう。何度言ってもなかなか直らない子も多い。単純な文ではきちんと訳せるのに、ちょっと文が複雑になって、「わからないなぁ」と思うと、たちまち英語の語順を無視して日本語の語順で訳そうとするのである。日本語は、原則として、「だれが・いつ・どこで・なにを・どのように・どうする」の順に並ぶが、その語順の自由度は高い。なぜなら、助詞によって、語句相互の関係を規定するからである。そのうえ、主語の省略も頻繁に起きる。生徒たちは、この自由度の高い日本語の思考から抜け出せないために、英語でも、意味が通じればいいとばかりに、適当な語順で訳そうと試みるのである。その結果、とんでもない訳が出来上がるのだが、その訳文だけを取り上げて見れば、一応意味の通る文になっていたりする。なかなかの才能であるが、喜んではいられない。
 
ベリタスの小学英語では、この英語の語順感覚が自然に身に付くように、教材を工夫している。英語は、語順によって語句相互の関係を表すから、全く同じ単語、たとえば「John」が、語順によって、「ジョンは」になったり「ジョンを」になったりする。簡単な英作文を反復しながら、早い段階で、これを体得させるようにしている。

中学生では、空所補充(いわゆる穴埋め)問題や並べ替え問題は出来るのに、日本語文を英訳する、いわゆる英作文問題になると、手も足もでないという生徒が多い。どこから訳し始めて、どのように並べたらいいのか、見当がつかないのだと言う。ベリタスの小学英語で訓練を積んだ生徒は、そういうことがない。英作文の基礎を反復練習で身につけているから、自然に、主語と動詞を日本語の中から拾い出して書き始めることが出来る。

ベリタスの小学英語は、学習塾の英語の授業である。中学校の英語で良い成績を収めるため、高校・大学受験で良い結果を得るために、小学生のうちに、どうすれば有利になるかを考えて設計されている。昨今の「英会話」が出来るようになるという目的に合わせてはいない。しかし、英作文の一つも出来ない子供が、英語で何か言いたいことが言えるのであろうか?動物の絵が描かれたカードを見て、その名前を英語で叫んだり、英語の歌を歌ったりしているだけでは、言いたいことを言えるようにはならない。まず、しっかりとした英作文の力があって、それをベースに話す力、聞く力を付けていくのが順当だと思う。

ところで、ネイティブスピーカーの発音を聞くことで、英語の正しい発音が自然に身に付くと考えている方も多いと思う。だが、これは、小学校入学前の幼児については言えるが、小学校入学後の児童には、当てはまらない。すでに、日本語の発音の型が身についてしまった児童はの発音は、容易に改まらないのである。かつて、ベリタスは、子供英会話教室と提携して、ネイティブスピーカーの教師に、幼稚園から小学校低学年の生徒を見てもらっていたことがある。そのときの経験から言うと、幼稚園児は、あっという間にネイティブのような発音を身につけたが、小学生は、いつまでたってもカタカナの発音のまま向上しなかった。小学生以上には、唇や舌をどのように動かすか、具体的に説明して、練習させないとうまくならないのである。アメリカの聾学校で行うような発音の教授方法が適している。ベリタスの小学英語では、この方式をまねた方法で、アルファベットや英単語の正しい発音を指導している。

<原町田教室>

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八千代銀行のロビーには日本史年表が置かれていた!

所用で八千代銀行の町田支店を訪れた。ロビーにソファーが置かれ、順番を待っている人のために雑誌や絵本が備えられているのは、どこの銀行でも変わらない風景だが、ここはちょっと変わっていた。吉川弘文館の日本史年表が置かれていたのだ。ちゃんと銀行のシールが貼ってあったから、客が忘れていった物というわけでもなさそうだった。来店客が時間つぶしに眺める本として、果たして適当なのであろうか。まさか大学の受験料を納めにきた受験生へのサービスということもあるまい。お金のことで頭がいっぱいの客が、同じ数字とはいえ、「ええと、室町時代は何年からだったっけかな?」なんてことを考えながら、ページを繰るとも思えない。だが、とにかく、本当に、そこには、高校生が授業で使用する日本史年表が置かれていた。

もちろん、筆者は年表と地図帳(そういえば、八千代銀行は、なんだかの記念品で地図帳を配ったこともあった!)が大好きなので、ぱらぱらとめくって眺めていたが、年表は、意外と暇つぶしに適していることに気がついた。ストーリーがあるわけではないから、どこから読んでもいいわけで、自分の好きな時代のページをあけて、眺めればいい。重要年代の語呂合わせを考えてもいいし、関連する史実を追いかけたり、関係ない史実の前後関係を比べたりしても楽しい。そこから思わぬ発見もあるかもしれない。そんなことを考えていたら順番が来た。

八千代銀行といえば、原町田教室を開業した当時の担当者を思い出す。同世代の人が起業するのを応援したいと言って、力になってくれた。あれから15年ほどになるから、きっと今頃は出世して偉くなっていることだろう。八千代銀行のルーツの一つは、町田町信用組合である。筆者の祖母は、近所の人たちと、創業時に乞われて組合員になったそうである。その証券がずっと残っていて、普銀転換の時に償還してもらったという。そんな町田生まれの銀行だから、市内の小中学校の給食費などの収納は、同行が一手に引き受けているらしい。市内を営業回りしても、八千代の口座を持っていない家はほとんどないので、成績が上がらないと、その担当者はこぼしていたものだ。

町田町信用組合の設立は、Wikipediaによれば、昭和16年(1941年)10月。太平洋戦争開戦の2ヶ月前である。いわゆる十五年戦争のまっただ中にあったが、日本経済は、1929年の世界恐慌のどん底から、1931年の満州事変、1937年の日中戦争(日支事変)を経て、軍備増強という財政出動によって景気を拡大させていた。年表の史実の上に、身近な歴史を重ねてみるのも面白い。

<原町田教室>


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納豆食うなら平城京

歴史を考えるには、年代の知識が不可欠なので、古来、いろいろな年代暗記法が考案されてきた。中でも語呂合わせによる暗記法はなじみ深い。

日本史でぜひとも覚えておかなければならない重要年代は、時代区分の頭か尻尾に当たる年代である。最低限これが頭に入っていないと話にならない。したがって、有名な語呂合わせは、そこに集中している。平安時代の始まりが「鳴くよウグイス平安京」ならば、奈良時代の始まりは「なんと見事な平城京」である。

「鳴くよ、ウグイス平安京」は、桓武天皇による平安京遷都の年、794年を「鳴くよ」であらわし、史実を述べる部分が「平安京」。ブリッジに当たるウグイスには特に意味はないが、七五調になっていて語呂が良い。平安時代以降「花」と言えば桜をさすようになったのだが、当初は、中国文化の影響で梅をさすことが多かったという。「ウグイス」はそれを想起させるので、悪くない。

一方、「なんと見事な平城京」では「なんと」が、710年と、奈良を表す「南都」に掛けてあるのが秀逸だが、筆者は、どうしても「ん」の部分がなじめなかった。それで、自分で考案したのが「納豆食うなら平城京」である。これは、「納豆」が710年の語呂合わせで、「平城京」が史実を表す。ブリッジに意味がないのは同様ながら、「なら」の文字が「奈良」の掛詞になっているので、なかなか良い出来である。と、自慢げに書いているが、この程度の語呂合わせは誰でも思いつくんじゃないかと思って、ググって(googleで検索して)みたら、やっぱりたくさんヒットしましたね。でも、筆者のオリジナルなので、やはり、ここで自慢しておく(笑)

ところで、「納豆食うなら平城京」と言うといつも頭をもたげる疑問がある。それは、本当に奈良で納豆が食えるのかということである。一般に、関西人は、糸引き納豆を食べないと言われている。実際、筆者の知人の関西人は、総じて「あんなもん食べれるかい」と言うが、中には食べる人もいる。学生時代、京都出身の友人がいたが、彼は、地元では食べたことさえなかったが、東京に出てきてはじめて食べて好きになったと言っていた。人それぞれである。

ともあれ、ネットで何でも調べられる時代である。またググってみた。すると、なんとなんと!その名も「だいぶつ納豆」なる商品があったのである。ロゴに東大寺の大仏の姿をあしらったパッケージ。今時珍しい大粒大豆の納豆らしい。奈良県葛城市の熨斗食品が製造していると言う。ネット上の評判は上々のようだ。東京だと、大粒の納豆は、神田明神前の天野屋が有名だが、奈良にもうまい大粒納豆があるようだ。ということで、「納豆食うなら平城京」は、正しかったことが判明した。

これで終わりにするつもりだったが、ググっていて、新たな疑問がわいてしまった。というのは、「奈良の浄福寺納豆」というものがあるらしいのだが、これが、どこで入手できるのかとか、食べた人の感想とかが、まるで見つからないのである。さらには、浄福寺という奈良の寺が複数あって、どの寺のことかもよくわからない。そもそも、この「浄福寺納豆」は、糸引き納豆ではない。塩辛納豆(塩納豆)あるいは寺納豆と呼ばれるものである。筆者は、たまたま昨年、京都の酬恩庵(一休寺)を訪れる機会があり、そこで、塩辛納豆を味見しているのであるが、独特の臭みがあり、塩辛い味噌のような味でやや苦みもあった。糸は引かない。お土産として販売されていた。それと同じようなのが、奈良にもあるようなのだが、いろいろなサイトで塩辛納豆の代表例とされているにも関わらず、正体がつかめない。どなたかご存知の方があれば、是非お知らせ願いたい。

糸引き納豆が文献に登場するのは室町時代以降とされるが、この塩辛納豆というものは、中国大陸から遣唐使によって伝えられたと言われていて、 平城京では実際に市販されていたようである。塩辛納豆について記載された木簡が平城京跡から出土していると言う。まさに「納豆食うなら平城京」である。ブリッジに意味がないどころか、どうも史実だったらしい。ちょっとびっくりである。この塩辛納豆は、僧侶によって寺の納所で作られたことから寺納豆とも呼ばれ、浜名湖畔の寺に伝わって当地の名物、浜納豆(浜名納豆)になったという。そして、江戸時代、日本橋の栄太郎が甘納豆を発売するにあたって、浜名納豆をもじって甘名納糖と名付けたのが、甘納豆の始まりだと言う。

意外なところで、甘納豆と繋がったが、やはり学生時代のこと、名古屋出身の友人の下宿で酒を飲んでいて、「納豆食うか?」と聞かれたことがあった。ウィスキーに、糸引き納豆は合わないだろうと思いながら、「食う」と答えると出てきたのは、甘納豆だった。糸引き納豆を常食しない地域では、納豆と言うと甘納豆のことらしい。というわけで調べてみると、甘納豆は全国どこにでもある様で、奈良県桜井市の天平庵や斑鳩町の祥楽がヒットした。両社とも東京にも出店している大手のようだ。画像を見ていたら、久しぶりに甘納豆が食べたくなってきたのは言うまでもない(笑)


<原町田教室> 2012年1月28日 加筆修正


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大学入試後半戦がスタートしました。

AO入試&推薦入試から始まり、センター試験のみで合否を決める入試が前哨戦(前半戦)とするなら、いよいよ私大入試(自校作成版)&国公立二次入試と言う天王山(後半戦)が始まります。

当然の如く、約一ヶ月くらいしか時間の残されていない現時点からstartするのはで遅すぎますが、学習事項の修正&補充をする時間はあります。ベリタスに通塾する生徒には、センター試験の結果が出て直ぐ一人ひとり細かに指導しました。文字で書けば簡単なことです。「傾向と対策」これに尽きます。唯、これを一人ひとりが受験する学校の問題の「傾向」をあぶり出した上で、これまた一人ひとりの苦手科目・領域と照らしあわせて「対策」をたてるのはなかなか骨のいる作業です。しかし、一ヶ月という限られた期間で、成果をモノにするにはこの方法しかないと思います。本ブログを読んでいる受験生は是非実践して下さい。この作業をするにあたって、他人を頼りたくなる生徒もいると思います。しかし、あなたの性格・将来の目標・受験科目の得手不得手・科目内領域の得手不得手・穴の空いている学習領域等、熟知している他人しか今回は当てになりませんから、周りの他人はほとんど当てにならないと心得て、自分で向き合って下さい。

さて、センター試験の結果(科目マーク抜けは考慮に入れない)、本年度のベリタス高校部の現役進学率は100%が確定しました(勿論、私大&国公立は残っていますが、自分が4年間通っても良い大学は確保したということです)。と言うのも、ベリタスの現役進学率の算出対象になる生徒は、入塾案内等にも記載の通り、「直接・10ヶ月以上・2科目以上」に渡って指導した生徒だからです。実は、9月以降に入塾した生徒が数名いますが、当該生徒についてはまだ確保できていません。私大入試・国公立大二次試験で何とか成功させようと、生徒・教師共に奮闘中です。

<金井教室>

上記、「傾向と対策」や「センター試験対策」、「都立高校入試対策」の為に、膨大な数の入試問題にあたらなければならなかったため、金井教室分は年末より休載させていただいていました。今後も、本業(入試&学習指導)に忙殺される場合、休載となりますので、よろしくお願い致します。

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歴史の学習に、年代暗記は必要か。

受験で正面から問われることはほとんどないのだが、歴史を勉強するうえで年代の暗記は重要だ。歴史を理解するには、事実の前後関係がきわめて重要だからだ。歴史に対する理解をもとに将来を見通そうとする時、過去の歴史的事実について改めて考察する必要が生じる。そんな場合に、何がいつ起きてその前後の事象がどうだったのかは、基本知識の部類に属する。これが、いちいち調べなければ分からない様では、使い物にならない。歴史教育において年代の暗記は、英語における語彙の修得と同じくらい重要だと筆者は考えている。暗記した年代自体に意味があるのではない。年代は、使うことに意味があるのだ。実用性のある学問として、社会科学の基礎として、歴史を考えれば、そういうことになる。

ところが、昨今の教育は、単純な暗記を「詰め込み教育」の象徴として排除する一方で、自ら調べ、理解し、創造する力を伸ばそうという試みを教育の中心に据えてきた。「ゆとり教育」の本当の狙いはそこにあったのではないかと筆者は考えている。ただ、現実には、そこに、教育公務員の労働条件の問題や激化する受験戦争の緩和、落ちこぼれや少年非行の問題、果ては日の丸・君が代の強制問題など種々雑多なものを「詰め込み」すぎて、「ゆとり」のない指導要領を施行せざるを得なくなったのではなかろうか。まぁ、それはさておき、暗記によって国民の教育水準を一定レベルに引き上げて集団行動を叩き込めば、事足りるのは、オートメーション、大量生産、大量消費に象徴される20世紀の工業化社会である。先進国に追いつき追い越せの時代は、それで済むのだが、自らがトップランナーに躍り出てしまうと、先進国はもはや先生ではなく、そこから習い、暗記するものがなくなる。それからは、自ら考えて新しいものを創り出していかなければならない。そのためには独創的・個性的な国民を育てる必要がある。これが教育方針の転換の一番大きな理由だったと思う。だが、30年以上にわたって行われてきたこの試みは、「学力低下」をもたらし、21世紀のIT化社会に乗り遅れ、我が国の競争力を削ぐ一因になっていると認識されている。(昨年の指導要領改訂は、その認識の上に立って行われたものと解される。)

筆者は思う。方針は正しい。しかし、やり方がおかしかったと。創造力とは考える力である。考えるためには、考える材料が必要で、それが知識なのである。材料も与えずに、ただその使い方を教えただけで何が創り出せるのであろうか。たしかに「詰め込み教育」には知識偏重の部分があったかもしれない。知識を知識として与えるだけでその使い方を教えてこなかったという批判もあろう。だが、それは指導要領上のことであって、教育現場は、自由研究や特別活動という形で、教員が主体的にそれを補っていた。筆者は、主に1971年の指導要領に準拠した義務教育を受けた世代であるが、これらの活動は学んだ知識をおおいに活用できる機会だったと感じている。そして、「総合的な学習の時間」は、これを指導要領に取り込んだものと考えている。だが、制度化しても、生徒に必要な知識が欠落しているために十分な効果を発揮できていないのではなかろうか。

さて、表題の話に戻ろう。年代は歴史を考えるための大事な材料であるにもかかわらず、「詰め込み教育」の象徴の一つとして、排除されてきたのだと筆者は思うのだ。実際、ある歴史的事実が起きたのは何年ですかと問うような問題はまず出題されない。そんな出題をすれば「知識偏重」と批判を受けるのが怖いのかもしれない。そのため、歴史に年代の記憶は不要という意見が聞かれることさえある。けれども、出題される問題を検討すれば、事実の前後関係を問う問題は、都立高校の入試をはじめとして、いくらでも出題されている。関連する事実関係であれば、どういう流れで起きたか理解しておけば良いし、何時代のこととか何世紀のことというおまかな知識で対応できる場合もある。しかし、まるで関係ない事象を時系列に並べさせる問題や同時代の違う地域を比較させるような問題では、対応しきれなくなる。結局、重要年代を確実に覚えておく方が、手っ取り早く、多くの問題に対処できる。全ての出来事の年代を覚えることは不可能だが、重要な出来事の年代を、なるべく細かく覚えておくことは、定規の目盛のように、歴史に目盛をふることになる。自分なりの歴史の目盛が出来ると、いろいろな出来事をその目盛にしたがって整理できるようになり、歴史の学習は非常に捗るようになる。理解も進む。

だから、筆者は歴史の学習においては、重要年代の暗記が必要だと考えている。これを軽視していては、歴史科目での高得点は望めないし、将来的にも役に立たない。大変ではあるが、生徒諸君には、ぜひ、最低限の重要年代は覚えておいて欲しい。何を覚えれば、最低限かというと…… それは授業でとくとお話ししよう。

<原町田教室>


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国語で最も大切なのは、言い換える力。

同じことを別の言葉で言い換える能力が読解力と言える。その語句とこの語句が同じことを言っていると分かれば読解問題は苦もなく解ける。そもそも説明するとは、ある言葉を他の言葉で言い換えること。だから説明文は言い換えの連続で出来ている。繰り返し、同意の表現が出てくる。その飛び石をわたっていけば、設問箇所と解答箇所とが離れていても対応できる。

文中のAという部分の意味を問う問題を解くには、Aと同じことを言い換えている部分Bを見つけることが必要だ。だが、「AはBである」のように主部Aに対する述部が解答になることはまずない。それでは簡単すぎるからだ。まず「AはCである」と書いてあり、別のところに「BはCである」という記述があって、そのBが解答になるというパターンは多い。ここでは、A=C, B=C, ゆえにA=Bという三段論法が成り立つ。出題者は、問題を難しくしようと思えば、この前提の数を増やしていけばいい。A=B, B=C, C=D, E=D, E=F ゆえにA=F というように、間に挟まる等式が増えれば増えるほど難問となる。しかし、丁寧に言い換えを追いかけていきさすれば、本文中の語句を抜き出したり用いたりする問いは楽に解けるのである。このような、筆者が「国語の公式」と呼ぶ言い換えの構成パターンはいくつもあるが、ベリタスの授業では、それらを図解して、生徒たちに分かりやすく、立体的に示している。テキスト上への傍線や矢印の入れ方なども指導して、本文を解答へ至る地図として利用できるように教えている。

上例の各英文字で表した部分は、名詞などの単語とは限らない。一続きの語句だったり、代名詞だったりする。また、辞書を引いても、同義だとは書いてない言葉である場合もある。その言葉が指す内容は、辞書的な意味を超えて、文脈に依存するからだ。たとえば、隠喩を用いれば、どんな言葉でも全く辞書に出ていない意味を持たせることが出来る。「雪やこんこ」で始まる文部省唱歌「雪」の一節「枯れ木残らず花が咲く」を本当に花が咲いたと解する人はいないだろう。「花が咲く」とは、ここでは「雪が載っている」という意味だが、辞書をいくら引いても、そんな意味は出ていない。読解における語義は、文脈が全てだといってもいい。前後の繋がりから最適な意味を探り出す必要がある。この場合、「雪が降る季節だから、花は咲かない」という論理的な思考と、花が咲く木のイメージと枝に雪を載せた木のイメージとを重ね合わせる感性が求められる。

言葉が持つ意味をイメージに置き換えて、そのイメージを再度言語化することができれば、本文中の言葉を用いなくても自分の言葉で解答を作り出せる。人が言い換えたものを探すのではなく、自分で言い換えてやる作業だ。これは、難関大学の入試問題には必要な能力だ。抽象的な表現を読んで、具体例を想起できなければ、解けないような問題もある。思いついた具体例をさらに抽象的に表現すると解答になるというパターンもある。この手の問題は相当な難関校でないと出題されないけれど、言い換える力がありさえすれば、必ず解くことが出来る。それには、いろいろな雑学的知識があると有利である。物事を知らなければ、抽象的な表現を見て、具体例を思い浮かべることは困難だからだ。国語の得意な子に物知りが多いのは、そういうことと関連しているのである。

言い換えるためには、多くの言葉を知らなければならない。多くの言葉を手に入れるには、日常生活以外の場に出て行くことが必要である。日常生活の範囲で手に入る言葉は、身の回りにある言葉でしかない。それ以上を手に入れるには、手を伸ばして、探し求め、つかみ取る以外にはない。それが、読書、新聞、インターネット、テレビ、ラジオといったものだ。この例示は、あとへ行くほど、効率が悪くなる。知らない言葉は、耳から入っただけではなかなか獲得できない。目に見える文字情報であることが重要である。その点でラジオはもっとも分が悪い。テレビはキャプションが出る事もあるが、すぐに消えてしまうし、そもそもこの二者で使われる言葉は、話し言葉であり、日常生活範囲の言葉の域を出ない。インターネットは、どんなサイトを見るかに大きく依存しているが、子供が自らの興味で覗くようなサイトには、あまり期待できない。話し言葉をそのまま文字にしたようなものが大半であろう。新聞は、子供にとっては、知らない言葉の宝庫だと思うが、中学卒業程度の国語力で読み取れるように書かれているから、レベルが上がっていくと役に立たなくなる。やはり、読書が、新しい言葉を手に入れるには最適のツールである。読書は、己のレベルと興味に合わせて作品を選べるうえ、各学年ごとに選定図書や推薦図書が豊富にリストアップされている。それを手当たり次第読んでいけば、多くの言葉を手に入れられるだけでなく、雑学的知識も増えていく。分からない語を辞書で調べる余裕もある。作家ともなれば、新しい語を手に入れるために辞書さえ読むという。ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、広辞苑を何冊かぼろぼろにするほど読んだと聞く。

入手した語は使ってみることで自分のものになる。使わなければ、自分のものにならない。自分のものになっていない言葉は、言い換える力を高めてはくれない。小さな子供は、新しい言葉を覚えると、すぐにそれを使う。変な使い方をして、周りの大人を笑わせる事もあるが、それによって、言葉を獲得していくのである。新しい言葉を使ってみるのに、おすすめは、日記である。もちろん日常の会話で試すのもいいが、日記を付けて、そこで試してみるのは、文章力も同時に高める事が出来て一石二鳥である。作文や小論文が課される推薦入試や中等教育学校入試の下準備となる。本格的な入試対策としては、それに特化した構成の立て方や記述の仕方があり、これは、ベリタスの得意とする分野である。授業でしっかりとノウハウを指導している。その中で感じるのは、最近の生徒は、そもそも文字を書くのに慣れていないという事である。筆者が小中学生の頃には、学校でしょっちゅう作文を書かされたものだが、近頃は授業時間数が不足していてそういう余裕があまりないようだ。そういう意味でも、日頃から短くていいので、日記を付けておくとかなり違う。三行程度の日記からはじめて、だんだん長くしていくとよい。ついでに言うと、なるべく漢字を使うようにするといい。うろ覚えの漢字は辞書を引いて正しく書く事で漢字力も高められる。

読解問題においては、言い換える力が最も重要だと述べてきた。だが、この力は、国語だけではない。算数・数学や、英語などの外国語学習においても威力を発揮する。算数・数学では、言葉を数式に置き換え、英語では、日本語を英語に置き換える過程で、別の日本語へ言い換える作業が必要になる事があるからだ。もちろん、英語自体の言い換え表現もまた頻出である。してみれば、言い換える力こそ学力そのものに他ならないのかもしれない。

<原町田教室>


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