<原町田教室>
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
ベリタスは、東京都町田市南町田(小1~高3)と東京都町田市原町田(小1~中3)にて学習塾を展開しています。学院長と教室長が、生徒・父兄と接して感じたことや教育関係の問題について思うことを綴っています。
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
「淡麗」は、キリンビールが発売する発泡酒の名前である。そもそも発泡酒ということ自体、ビールと間違いやすいわけだが、その名前も紛らわしい。容姿端麗というときは「端麗」と書くのが正しい。端麗というのは、姿形が整っていて美しいことである。この言葉に引っ掛けて発泡酒の名称は付けられたのだと推察するが、子供たちには迷惑な話である。自分たちは、まだこの商品の対象年齢に達していないにもかかわらず、毎日のようにテレビでそのCMを見せられている。これを間違うなという方が無理かもしれない。最近は、漢字テストにこれを出題すると、まずほとんどの子が間違えて書く。
筆者の子供のころは、「危機一発」というのがあった。ご存知007シリーズの一作である。この映画の初公開時(1964年)のタイトルが「危機一発」だった。そのせいで、この四字熟語をかけない子供たちが激増したため、日教組と文部省に猛抗議を受けたという事実は多分ないと思う(笑)が、1972年には「ロシアより愛を込めて」と邦題を改めて再公開されている。だが、1974年にはブルース・リー主演の「ドラゴン危機一発」公開され、翌年、「黒ひげ危機一発」という玩具が発売されるに及び、子供たちの頭には、完全に「危機一発」が刷り込まれてしまった。もちろん正しくは、「危機一髪」である。髪の毛一本ほどのごくわずかな差で窮地に陥る瀬戸際という意味である。映画の配給者は、きっと銃弾一発という意味を掛けたかったのだろうが、言葉を学ぶ過程にある子供たちには、迷惑な話である。当然、筆者も漢字テストで間違えた苦い記憶がある。
もうだいぶ前のことになるが、とある家庭教師派遣会社のCMでは、「"mother"、mを取ったら、"他人"です。」というキャッチコピーが使われていた。mを取るとotherである。otherに他人という意味があるとは寡聞にして知らない。他人と訳すのは、othersの場合である。この会社の最近のキャッチコピーは「トライしてますか~?」である。tryは、後ろに不定詞を取る場合と動名詞を取る場合とで意味が異なる。前者は「しようとする」後者は「してみる」である。「しようとする」だけでは、実際にするのか否か分からない。家庭教師を雇って、我が子に勉強させようとしても、やってくれるかどうかは、わからないというわけだ。後者であれば、一度試してみるということになる。一度ぐらいなら間違いを覚えることもないが、何度もこのCMが流れたことで、間違えて覚えてしまった子は多かったのではなかろうか。
筆者の場合、「小森のおばちゃま」にやられた。彼女がよく使う「モア・ベター」というフレーズにだまされた。比較級を強調するときの修飾語はmuchである。しかし、当時、彼女はテレビで「モア・ベターよ」を連発していた。彼女の決め台詞であったのだ。彼女としては「はるかに良い」よりももっと良いと言いたかったのかもしれないが、英語を習いたての中学生が、始終こんな言葉を聞かされていれば、テストで間違えずにはいられない。筆者もご他聞に漏れずしっかりバツを頂いたものである。
毎日毎日、頼みもしないのに大量に流されるCM。その教育効果は侮れない。子供たちの流行語もCMから生まれることが多い。繰り返し同じものを見せられると、覚えようとしていなくても自然に記憶に残り、いざという時に脳裏から呼び出されてくる。そして誤答を引き起こす。ゆめゆめ油断してはならない。あのヒトラーの宣伝大臣を務めたゲッベルスは嘘も繰り返し言えば真実になると言ったと言われる。人々はそれを信じ込むからだ。だが、テストの採点は、マルにならない。
ところで、このCM効果を逆から見てみると、大事なことが分かる。毎日聞かされるから、覚えようとしていなくても覚えてしまうのである。それが間違いだからたちが悪いというだけのことである。もし、正しいことを毎日繰り返し聞いたら、どうだろう。苦もなく、正しく、記憶に残るのである。これが復習するということである。覚えなければならないことは、毎日短時間でいいから繰り返す。これが学習のこつであり、最良の教育法なのである。
<原町田教室>
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
「春は あけぼの」で始まる清少納言の枕草子第一段は、「冬は つとめて」と述べる。「つとめて」とは、早朝のことである。冬の凛とした冷気に包まれた早朝は良いものだと彼女はいうわけだ。勤務のことを「おつとめ」というのは、この「つとめて」から来ている。そもそも、朝廷というのは、早朝に政務を行ったことが、その名の由来であり、宮仕えの役人たちの勤務も当然「つとめて」になる。これが「おつとめ」語源である。世のお父さんたちが、朝早くから出勤しなければならないのも、むべなるかなである。
古代から、仕事が、朝に行われてきたのは、なぜなのか。もちろん、当時は照明が貧弱というか、無いに等しかったのであるから、夜に仕事をすることはできなかっただろう。だが、朝早くからやらなくても、午後からだってよかったはずだ。にもかかわらず、朝早くから行われたのは、朝の方が能率が上がるという経験則があったからではないかと、筆者は愚考する。それに、朝の間に仕事を済ませてしまえば、残りの日中を有効に活用できる。
そこで、生徒諸君にお勧めしたいのは、勉強は、午前中に済まそうということである。もちろん、平日は、学校にいるので、そういうわけにいかないが、問題は、土日祝日の使い方である。どうしても、休日の前の晩は、夜更かししてしまい、翌日は、朝遅く起きて、眠い目をこすっているうちに昼になり、午後から活動開始となりがちではないだろうか。ここで、一念発起して、休日も平日と同じ時間に起きて、一時間目が始まるぐらいの時間から机に向かってみたらどうだろうか。きっと、昔の人が早朝に執務した理由を実感できると思う。午前中にしっかり勉強すれば、午後は、リラックスして、買い物に行くなり、スポーツをするなりしてもいいだろう。休日を十二分に活用できると思う。
いやいや、うちは両親が平日の「おつとめ」で疲れていて、休日は遅くまで寝ているから、無理。なんて言葉も聞こえてきそうだが、朝早くから勉強したって、ご両親の朝寝の邪魔にはなるまい。「でも、朝ごはんが・・・」そうだね。朝食を抜くのは、健康のためにも学習効率のうえでもよろしくない。それなら、休日の朝食は、君が用意したらどうだろう。パンを焼いてバターを塗って、カップスープとハムエッグを作るくらい、君でもできるだろう。ご飯が炊けている家なら、みそ汁を作って、生卵や納豆で済ませればいい。遅く起きてきたご両親も食卓が既に用意されていたら、きっと喜ばれるであろう。お小遣いがアップするかもしれない(笑)
冗談はさておき、早朝の学習には、実戦的な意味もある。都立高校入試の1限目は午前9時スタートだ。この時間に、頭脳が全開になるためには、遅くもその2時間半前には起床していないといけないと言われている。つまり、6時半起床だ。だが、人間には、体内時計というのがあって、普段の生活時間が刻まれているから、普段と違う時間に起きると調子が出ないものだ。したがって、入試の日だけ6時半に起床しても普段の起床時間が遅ければ、あまり効果は上がらない。オリンピック選手などは、自分の出番の時間に合わせて、大会前から練習時間を調整するというくらいだ。だから、中学3年生になったら、平日はもちろん、休日だって6時半には起きて、ウォーミングアップの勉強を始めるようにしたいものだ。
<原町田教室>
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
先週の水曜日に、勉強ができないのは、やり方が悪いからだと述べたが、今週は、「教わること」と「できるようになること」の違いについて考えてみたい。
塾に通う生徒は、塾にさえ来ていれば、自然に成績が良くなるものと思っている節がある。たしかに、来ないよりは来た方が良くなるのは間違いない。全く勉強しない生徒が、塾に来ている時間だけでも勉強するようになるわけだから、0が、4.5ないし7(時間/週)になるわけで、一定の効果はある。
しかし、塾に来ているだけで成績が上がるなら、誰も苦労はしない。松井秀喜にホームランの打ち方を教われば、誰でもホームランが打てるのか、本田圭佑にフリーキックを教われば、誰でもあの無回転ボールを蹴ることができるのか、考えてみて欲しい。考えるまでもなく、誰だってそれは無理だと思うであろう。ところが、勉強は教わればできるものと思っている。だが、それは大間違いだ。運動も勉強も同じだ。やり方を教わったら、それができるようになるまで、何回も練習しなくては、できるようにはならない。
塾で演習問題を解く。あるいは、家で宿題を解いてくる。それを勉強だと思っている生徒が多い。しかし、それは、勉強ではない。勉強の為の準備にすぎない。問題を解いて、答え合わせをする。合っていたなら、その問題は、次に出題されても、また、できるだろう。それ以上勉強する必要のない問題だ。しかし、間違っていたら、正しい答えをノートに書き込んで「はい、終わり」でいいのだろうか。果たして、それで、次に同じ問題が出て、解けるのだろうか。生徒諸君は、胸に手を当てて自問して欲しい。解けるわけがない。次も、同じ間違いを犯すに決まっている。結局、最初に問題を解く作業というのは、勉強すべき問題と、する必要のない問題とを峻別する作業に他ならない。そして、間違えたところから、勉強は、始まる。
勉強とは、できない問題をできるようにすることだ。生徒が間違えた問題を、教師は見る。そのノートを見分し、何をどう間違えたか、どこがわかっていない為に間違えたのか、どのように教えたら、わかってもらえるか、それらの点を考慮して、授業を展開する。そうして教われば、生徒たちは、よくわかった気になる。だが、実際は、それだけで、できるようになるというのは、なかなか難しいものだ。もう一度自分で解いてみたら、解けなかったというのはよくあることだ。
だから、教わったら、必ず、もう一度自分で解いてみなくてはならない。そうしなければ、本当に理解したのか、自分でもわからないし、できるようになったとも言えない。よく「間違い直し」という言葉が使われるが、間違った部分を書き直して終わりと誤解している向きが多い。そうではなく、間違えた問題は、もう一度、はじめからやり直さなければいけない。だから「解き直し」というべきだと思う。
問題のどの点に着目して、どう思考して、どう解くか、教師は、生徒に即して、懇切丁寧に教えている。だから、生徒もわかった気になるのだが、わかったからと言って、できるわけではないのは、先にも述べた通りだ。だから、生徒は、授業中の解説を思い出して、自力でもう一度、できなかった問題に取り組まなくてはならない。そうして、その問題が解けるようになっていたら、そのときはじめて、勉強したと言えるのだ。もし、教わったのにできなかったら、そのときは、ノートを見て、授業中に教わった解法を、なぞって解く。その上で、また、翌日、自力で解いてみるという作業を繰り返す必要がある。
結局、教わるということは、できるようになる為の、これまた、準備にすぎない。裏を返せば、教師には、生徒ができるようになる為の準備をしてやることしかできないのだ。教わったことをできるようにするのは、生徒自身の努力にかかっているのだ。
語弊があると、表題で述べたのは、「教わってもできないのなら、塾なんか行く必要ないじゃん』と結論されても困る(笑)からだが、塾ベリタスの教師は、生徒が、わかるまで、とことん教える。手を変え品を変え、どこまでも教える。だから、ベリタスにおいては、「教わる」と「わかる」は、同じだと思ってもらってかまわない。だけど、もう一度言おう。「わかる」と「できる」は、違うのだ。わかってもできるとは限らないのだ。だから、教わったことは、わかったと思っても、できるようになるまで、自ら学ばければならない。
今日で、ベリタスの夏期講習は、前半を終了し、お盆休みに入った。生徒諸君は、後半が始まるまでの間に、前半で、できなかった問題を、残らず解き直して、後半に望んで欲しい。そうしなければ、せっかくの夏期講習が、何を勉強したのかわからないものになってしまう。諸君の奮励努力を期待している。
<原町田教室>
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
いったい、どうして、こんなにも、子供たちは、正答することにこだわるのだろうか。
間違っていたっていいじゃないか。そこから勉強が始まるのだから。
間違うことは、「恥」だろうか。恥ずかしいかもしれないが、けっして「恥」ではない。その答えが自分の頭で考えたものなら、胸を張っていい。
解答を読み上げて正解するより、自分の頭で考えて、間違えた方が、ずっとよい。頭を使った分だけ賢くなるのだから。もちろん、自分の頭で考えて、正解したなら、それもいい。だけど、どっちが、よりよいかといえば、間違える方がいいのだ。だって、間違えた場合は、なんで、間違いなんだ?どこが、間違いなんだ?どうして、間違えたんだ?どうすれば、よかったんだ?といろいろ考えることがある。それだけ賢くなれる訳だ。ところが、正解だった場合は、それでおしまいだ。それ以上は考えることがないから、それ以上に賢くなれはしない。
じゃぁ、全部間違えなきゃいけないかって? いやいや、それでは、進みが遅くなりすぎるから、正解できたら、正解して、先に進みましょうよ。わざわざ、できる問題を間違えろと言ってる訳ではないですよ。念のため(^^)
つまり、間違えた数だけ、頭が良くなるんだから、間違えるのを恐れずに、自分の考えを発表しようじゃないかということだ。
自分の頭で考えたなら、発表しなくても同じじゃないかと思う人もあるかもしれないが、そうではない。間違えるということは、やはり、一種のショックである。ショック、すなわち、心に衝撃が走ることで、記憶はより鮮烈になる。悔しい思いをするから、理解しようという意欲がわく。そういう効果があるから、やはり答えは発表するべきだ。それに、教師の側からすると、答えを発表してくれなければ、その生徒が、何をどう間違えて、どこが分からないでいるか、理解できない。それでは、情報不足で、教えようがなくなってしまう。教師は、生徒がどう間違えたかで、どこでつまずいているか、ほぼ的確に判断できるものだ。だから、あっている自信がないからと、答えないより、間違えても答えた方が、ずっとよいのだ。
できなくて、怒られた経験があるのか、生徒たちは、いつも正解を答えなくてはならないと思い込んで、自らを追いつめているような印象を受ける。だが、そんなことはないのだ。むしろ、「間違えてよかったね」なのだ。間違えることが勉強の始まり。失敗は成功の素なのだから。
<原町田教室>
東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。
ベリタス本部