受験&教育byベリタス

ベリタスは、東京都町田市南町田(小1~高3)と東京都町田市原町田(小1~中3)にて学習塾を展開しています。学院長と教室長が、生徒・父兄と接して感じたことや教育関係の問題について思うことを綴っています。

勉強法

入試前日の過ごし方

いよいよ明後日は、都立高校の入試である。泣いても笑っても、あと一日しかない。そこで、今日は、入試前日の過ごし方について考えてみよう。

まず、朝起きるのだが、何時に起きるつもりだろうか。都立高校入試は、8時30分集合である。その時刻に自分が受験する高校に到着しているためには、何時何分に家を出るのか、既に把握しているだろう。その時間に家を出るには、何時に起きればいいかも分かっているだろう。だが、人間の頭脳は、起きてから2時間半から3時間はしっかり働かないと言われている。だから、起きるのは、家を出る時間にあわせるのではなく、試験開始時刻マイナス3時間ないし2時間半。つまり6時から6時30分の間にするのが賢明だ。受験生たるもの、当然、1ヵ月くらい前から、そういうつもりで毎日6時台に起きて、コンディション作りをしてきたことと思うが、そうしてこなかった人は、せめて前日くらい、その時間に起きてみよう。部活の朝練やNHKのラジオ講座を聴くのが日課で早起きに慣れている人もいれば、毎朝遅刻ぎりぎりのタイミングで起きている人もいるだろう。後者の人は、とにかく、どのくらい大変か、起きてみないことには分からないからやってみよう。眠いし寒い。

早起きしたら、冷たい水で顔を洗って、歯を磨いて、身支度を整えるわけだが、朝食までまだ間があったら、とりあえず勉強だ。短時間で出来る漢字とか計算とか英単語をやるといいだろう。朝食まで50分の時間があれば、過去問を解き直すのもいい。食事前の空腹時は集中しやすいと言われている。

朝食を済ませて学校に行ったら、休み時間に朝の勉強や過去問の採点をして、間違えたところを復習しておこう。授業がなくて、自習になっている中学もあるようだ。遊ばないで、過去問をやり直すか、理社の問題集をやるかしよう。もちろん、朝の続きの漢字、計算、英単語でもいいだろう。たいていの中学が45分授業だから過去問をやるには5分足らないが、そこは、休み時間に食い込んでも50分間集中したい。

朝の勉強や学校の自習時間に解いた問題の復習は、学校で済ませておきたい。済まなかったら、帰宅後にやろう。いつも言うことだが、問題を解きっ放しにするのが一番役に立たない。解いたら、採点して、復習する。周辺事項まで掘り下げて、疑問点を解決しておく。そうすれば、類似の問題が当日に出題されても問題ないが、そうしておかないと、練習で解けなかった問題は、本番でも解けない。気が焦るのは分かるが、新しい問題に取り組むのではなく、既にやった問題を完全に仕上げておくことの方が重要だ。

帰宅後、復習が済んで、やることがなければ、朝と同じ、漢字、計算、英単語か、理社の知識の確認をしておこう。ベリタスでは、過去20年分の都立入試に出題された漢字問題のプリントや、数学の大問1の各小問別のチェックシート、動詞の不規則変化パターンや曜日、12ヶ月などのシリーズ名詞、絶対出る構文のプリント、理社の単元を網羅したチェックシートなどを用意して、生徒諸君の最終チェックに利用してもらっている。もう何度もやってあるプリントだろうが、もう一度やっておいて欲しい。また、過去問付属のCDでリスニング問題をやるのもいいだろう。

やれることをやったら、明日の持ち物をそろえておこう。朝になって、あれがないこれがないでは洒落にならない。あとは、おいしい食事をし、家族と楽しくおしゃべりをして、お風呂も入って、リラックスして、早めに床に就こう。実は、この早く寝るためにも、朝早く起きてもらったのだ。十二時前の眠りは深い。ぐっすり眠って体調を整えよう。そうすれば、明後日は頭も冴え渡る。起きれば、いよいよ本番である。健闘を祈る。

<原町田教室>

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

英語の勉強法(2) 単語は動詞から

筆者担当のブログは「英語の勉強法(1)」というタイトルのエントリーから始まった。(1)というからには、(2)以降が続くはずであった。ところが他の科目についての記事を書いたり、日々の雑感を書いたりしているうちに、すっかり通し番号のことを忘れてしまったのである。しかも、最初の計画では(6)まで続く予定であったが、そのうちの(3)と(4)の内容は、既に番号を付さずにエントリーしてしまっている。それも(4)に当たるのは先週のエントリーである。そこで、今日は、飛ばした(2)を書いておこうと思う。なお、既にアップ済みの英語の勉強法シリーズに当たるエントリーは下記の通りである。これらも参照いただければ幸いである。

英語の勉強法
 (2)単語は動詞から 本稿

それでは始めよう。

まず、単語の意味が全部分かって、発音が出来て、書けるようになることが必須だと、第1回では書いたわけだが、2年以上の月日が経ってしまい、単語の積み残しが大量にあるとどこから手を着けていいのか、途方に暮れる向きもあろう。そんな人は、ずばり、まず動詞から完璧にして欲しい。

動詞だけを、3年分(中3の場合)の教科書から拾い出して行く。全てを拾い出してもたいした数ではない。次に、拾い出した動詞を規則動詞と不規則動詞に分類する。もし読者が、中学1年生で、過去形が未習ならば、分類は必要ない。中2以上なら、分類したら、まず不規則動詞から勉強を始める。なぜなら、不規則動詞の方が圧倒的に使用頻度が高いからだ。不規則動詞を拾い出したら、その原形ー過去形ー過去分詞の変化をきちんと覚える。もちろん読めて書けて意味が分かるようにするわけだ。受動態や現在完了が未習の中2生は、原形(現在形)と過去形だけでもいいが、どうせ、すぐに覚えることになるので、過去分詞まで一緒に覚えてしまうといいだろう。中1なら、原形の意味と読みと筆記を完璧に練習し、三単現のSの付け方までを完璧にする。既に現在進行形まで習っていれば、ingの付け方も完璧にして欲しい。中2、中3の諸君も、当然、三単現のSやingの付け方は出来ていなくてはならない。もし怪しければ、過去形、過去分詞と同時に復習しておこう。

筆者は、中1から中3までの教科書に登場する動詞を全て抜き出したプリントを作成して授業で使用している。不規則動詞は、原形(ABAとAAA)型、過去形(ABB)型、過去分詞(ABC)型の3類型に分類したうえ、さらに変化のパターン別にまとめてある。これまで、いろいろな参考書を見たが、不規則動詞をパターン別にまとめたものにお目にかかったことがない。たいていが類型別に4つに分けられているだけだ。だが、この4類型は暗記の役には立たない。筆者のパターン別分類は、原形を見れば過去形や過去分詞が類推出来るようになる優れものである。規則動詞の場合、語尾の形によってedの付け方が決まると教えるのに、不規則動詞は一つずつ覚えろと言うのは、いかがなものか。やはり不規則動詞にも変化に決まりがあるのだから、それをちゃんと教えてやるべきだと、筆者は考えている。

実は、中1用に、原形と過去形だけの変化パターン別不規則動詞プリントも用意してあって、こちらは、過去形の変化に特化して覚えやすいものにしてある。これでしっかり覚えておいてもらうと、中2の過去分詞を覚える段階での苦労が半減するようになっているのだが、中2、中3で今から、過去形の積み残しを清算しようとするなら、過去分詞の変化パターンに即して覚えてもらうのがいいだろう。

いずれにせよ、語尾がeakなら過去形はokeだとか、ellならoldだとか、同じパターンで変化する動詞をまとめて一緒に覚えて行くのが効率的である。自分で調べて、自分で整理すると、いろいろな発見があって楽しいと思う。また、なぜ「話す」と「壊す」や「言う」と「払う」の語尾は同じなのか?なんて疑問もわいてくるだろう。あるいは、fight は find の仲間なのか buy の仲間なのか、どちらに分類しようかと頭を悩ますかもしれない。筆者は、keep と leave と meet は同じパターンで変化しているとにらんでいるのだが、諸君はどう考えるだろうか。一見似ていないように見えても共通の特徴を有していると気づけるかどうか。それが発見である。自分で発見したことは深く記憶に刻まれて決して忘れない。

動詞は、「英語の第一法則」により、英文の2番目に登場する。そして、述語を形成し英文の意味を決定づけるので、非常に重要なのである。1番目に登場する主語は、代名詞か固有名詞が使われることが多いし、普通名詞であっても難しい単語は少ないから、訳せないで困ることはあまりない。とすると、動詞が出来れば、その文の骨組みが判明して、何が言いたいかだいたいのところが想像出来るようになる。それゆえ、重要度が高い。そのうえ、三単現、進行形、過去形、受動態、現在完了など多くの単元が動詞の変化を問題とするため、出題に絡むことも多い。よって、単語を覚えるなら、まず動詞からということになる。単語が全然覚えられなくて苦労しているのなら、まず、動詞だけでいいから、じっくり向き合って、ここを固めて欲しいと思う。そうすれば、その先の道筋が見えてくるはずだ。

<原町田教室>

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

ノートはお金で買えるけど、時間を買うことはできない。

だから、ノートを消している暇はない。時間の無駄である。ついでに消しゴムももったいない。さらに、大量の「消しカス」を掃除する時間が残念だ(笑)

そこで、一生懸命解いたけど、途中で間違いに気づいた時は、それを全部消すのは諦めて、全体に斜線を入れるなり、横線で区切るなりして、その下に「やり直し」と書き込んで、間違えた部分とやり直した部分の区別がつくようにしておけばよい。

そうすれば、復習のときにも、何をどう勘違いして間違えてしまったのか検証可能だし、(算数・数学の場合)既に解いた部分で計算済みの数値は、そのまま流用も出来る。さらにいうと、答え合わせの段階で、実は、間違えたと思った方が正答に近く、やり直した方が見当外れだったなんてこともないとは言えない。そのときにも、どうして正しい方を間違いと思ったか、何故、間違っているやり方を正しいと思い込んだか、両方を見比べながら考えることが出来る。

国語の場合でも、何文字以内で書けというタイプの問題で、字数が多い場合、下書きが必要になることもある。あるいは、書き終えてから数えたら字数が多過ぎたということもある。そんなとき、ご丁寧に全部消してやり直している生徒もいるが、そんな必要はない。最初に書くときに、一行おきに書いておいて、あとから、言葉を付け足すときに、挿入記号とともに書き込めるようにしておけばよい。不要な語句は、抹消線で消せばよい。こうしておくと、ノートに自分の思考過程が残されるから、あとで見直すときに、やっぱりこっちの表眼の方がよかったとか、消してしまった語句がキーワードだったので、復活させようとか、いろいろ便利なのである。

ついでに印刷物の校正用語の「イキ」というのを覚えておくとよい。いったん消してしまった語句を復活させたいときは、既に抹消線の引かれた語句の脇に「イキ」と書いておく。それで、その部分は消していないことになる。この方法を使えば、一度、線で消してしまった語句も書き直し不要に出来る。

結局、消しゴムを使用する場面というのは、非常に限られることになる。ちょっとした書き損ないや誤字を消す。数字が雑で誤読を誘引しそうなときに書き直すために消す。その程度しか使用する必要がない。というより、使用すべきでないと言った方がいい。だが、特に、0と6や9と7のように雑に書くと区別をつけにくい数字は、雑に書いてしまったら、きちんと消して書き直さないといけない。自分の書いた数字を誤読して計算を間違える例は非常に多いのだ。

計算で思い出したが、算数・数学で、筆算をした後に、それを消してしまう生徒が非常に多い。だが、これもいけない。消してしまった後に、計算ミスが分かったとき、もはや検証の方法がない。また、はじめから計算のやり直しである。それで正解が出せたとしても、元の計算をどこで間違えたか確認できなければ、後々同じようなミスを繰り返すことにもなる。消す時間だけでなくやり直す時間も余計にかかり、復習も非効率になる。

そういうわけだから、間違いは消さずに、改めてやり直す。ノートには、自分の間違いと正解を、あとで見ても分かるように書きこんでおく。そういう習慣をつけて欲しいと思う。

<原町田教室>

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

知っていることは、使わなきゃ。

たとえば、紙を切ろうと思ったとする。はさみを持っていれば、それを使うだろう。持っていなければ、手で千切るかもしれない。けれども、はさみを持っているのに手で千切ってしまう人がいる。それは、はさみを持っていることを忘れている人だ。

算数や数学の応用問題は、これに似ている。基本的な知識は既に持っているにも関わらず、解くことが出来ない。なぜだろう。はさみを持っているのを忘れているからだ。はさみを持っているのを忘れている人は、引き出しからはさみを取り出せない。だから、使えないのだ。応用問題を解けない、あるいは、苦手だと思っている人も、やはり基本知識を持っていることを忘れている。だから、脳の引き出しからそれを取り出せない。よって、基本知識を使えない。当然、応用問題は解けないのである。

そもそも、応用問題というのは、基本知識を応用して解く問題である。基本知識があれば、解けて当たり前なのである。応用問題で暗礁に乗り上げている生徒がいたとする。教師が、順序よく、基本知識を問いかけて行く。すると、生徒は、その全てに答えられた。と同時に、その応用問題も解けてしまう。ということはよくある。必要な知識は、既に全部持っていたのだ。けれども、それを忘れていて、使おうとしないから解けないのである。あるいは、その使いどころがわかっていないので、使えないと言ってもよいかもしれない。

使いどころがわからないのは、基礎知識に対する理解の浅さが原因である。たとえば、二次方程式  ( x - a )( x - b ) = 0 の解は、x = a または bであるが、なぜそうなるのかが分かっている生徒は意外と少ない。積が 0 になるのは、掛ける数のどちらかが 0 の場合だという、小学生でも知っている知識が基になる。括弧と括弧の間に符号がなければそれは掛け算をするという意味だというのは、中学1年の始めに教わる、これまた、基礎知識である。どちらも、知らない子はまずいない。そして、方程式の解き方を説明する教師で、理由を説明しない教師もまずいない。なのに、二次方程式の解き方を習ってしばらくすると、生徒たちは、表面的な操作には習熟するけれど、なぜ、そういうことになるのかは、きれいさっぱり忘れてしまう。彼らは、括弧の中の数字(上例では a と b に当たる)の符号を逆にしたのが解だと理解する。その結果、どうなるかと言うと、x ( x - a ) = 0 が解けなくなる。括弧が一つしかないので困ってしまうらしい。ところが、この問題は、上例のタイプより先に習う、より簡単なパターンで、最初に教わったときに出来ないで困る子はまずいないのである。だが、そのとき、彼らは、「解の一つはいつも 0 」と理解しているのである。原理原則から思考していないのである。だから、前者の括弧が並ぶパターンをやったあとに、後者のパターンが出てくると立ち往生してしまうのである。なぜそうなるのかを、より深く、考え抜かないで、答えが合ってればそれでいいという態度に終始している限り、いろいろな場面で同様のことが繰り返される。つまり、これは、数学の問題を解く以前の、勉強に対する態度の問題なのである。

考えるということは、頭を整理するということである。引き出しに、教科書やノートや文房具、果てはゲーム機やらカードやらをぐちゃぐちゃに押し込んであったら、それは、なにが、どこにあるかも分からないし、目的の物を取り出すのにも苦労するだろう。しかし、きちんと整理してあれば、取り出しやすい。右手で使う鉛筆は、引き出しの右の方に、教科書やノートは左の方に、よく使うおもちゃは手前に、たまにしか使わないコレクションは奥へと、整理するためには、配置を考えることになる。習ったことを、知っていることを、よくよく考えて、その意味を問えば、その知識は、自然と正しい位置に配置され、整理される。そうすれば、応用問題を解くにあたって、必要な基礎知識は、頭脳から順序よく取り出せることになる。「これは、どういうことかな?つまり、こういうことだな。とすれば、あれが使えるな。」という具合に思考は進むのである。これを論理的と言う。応用問題というのは、基礎知識を論理の糸で繋げて解くものなのである。先に「教師が、順序よく」と書いた。この「順序」が論理である。

論理的に考えなきゃいけないから難しいんじゃないかという意見もあるかもしれない。が、非論理的に考える方が、圧倒的に難しい。考えるということ自体が論理的な行為なのに、それを非論理的にやろうなんて、普通の人にはまず出来ない。たとえば、ある商品を買おうとして値段を見る。A店は500円、B店は525円だとする。両方見て、B店を選ぶのは難しい。さらに、所持金が510円だと判明したとして、なお、B店を選べる人がいるだろうか。非論理的に考えるというのは、そういうことだ。不自然過ぎて常人には無理なのだ。

基礎知識があっても応用問題が解けない子供たちは、論理的に考えることが難しいから、解けないのではないとすると、なぜ解けないのか。それは、考えていないからである。全く考えていないから、目の前の数字を、適当にいじって、答えを求めているのである。まぁ、ものの見事に、全く考えていない子が多数存在する。考える能力がないのではなく、考えようという発想がないのである。

基本知識を既に自分が獲得している自覚がない。基礎知識の意味を考えたことがない。だから、どういう場面でそれが使えるか分かっていない。つまり、頭の中で整理されていない。よって、それを使おうという発想が出てこない。ということなのだ。そこから脱却する方法は、ただ一つ。考えて考えて考え抜くこと。といっても、難しく考える必要はない。習ったことの意味と理由を自分なりに振り返って理解すればいいだけのことなのだ。それが、何であるか、なぜなのか、自分なりに考えてみて、自分なりに分かればいいのである。些細なことを一つ一つ考えて行った先に、応用問題が氷解する瞬間が待っているのである。

<原町田教室> 

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

昨日は涼しかったですね。夏バテ注意報発令中?

塾ベリタスは、夏期講習の真っ最中です。受験学年は、連日の講習と暑さに、ばて気味かもしれません。昨日の涼しさは、疲労回復の役に立ったでしょうか。かえって疲れが出てしまうこともあるから、気をつけてください。

夏バテの回避策は、とにかく、食べることと寝ることしかありません。三度の食事をきちんと取ってください。暑さで食欲が落ちることもあるでしょうが、量をきちんと取りましょう。こつは、よく噛むことと食事中にむやみに水分を取らないことです。よく噛んでいれば自然と食物は喉を通っていきます。食事中の水分の取り過ぎは、胃を一杯にしてしまうし、消化液を薄めてしまいますからよくありません。水分は食事を終えてからとるようにしましょう。ただし、食事前から脱水気味で唾が粘つくようなら、先に取る必要がありますから、その辺は気をつけてください。脱水対策には、塩分の摂取が重要なことも覚えておきましょう。

暑い夏は、睡眠も浅くなりがち。空調をうまく使って寝付きを良くし、長めの睡眠を取るよう心がけましょう。塾から帰宅後に15-30分ほど昼寝をするのも効果的です。昼寝でリフレッシュしたら、当日の復習と宿題を明るいうちに済ませて、夜は早く寝ましょう。

受験生は、勉強マシーンになったつもりで、毎日規則正しく、決まった時間に起きて、決まった時間の勉強をこなし、決まった時間に就寝する、ワンパターンの暮らしを繰り返すことが大切です。そうすれば、夏期講習の効果を最大限に引き上げることが出来ます。勉強には、気まま気まぐれが最大の敵です。気分が乗ったから夜中まで勉強するとか、昨日は遅くまで勉強したから今日は午前中は寝ててもいいやとか、日によって違うやり方をとることはお勧めできません。

目標があるなら、その実現のために、この夏ぐらい、勉強だけに己を捧げてもいいと思います。来年からの3年間が、その努力に報いてくれるはずです。ロンドン五輪も気になるでしょうが、ダイジェストを見るくらいにとどめておきましょう。

<原町田教室>

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

授業中に習ったことは、授業中に覚えてしまおう。

そんなの無理!という声も聞こえてきそうだが、本当にそうだろうか?たしかに、覚えきれないことはあるだろう。しかし、要は、その場で覚えようという気があるかないかだ。今、覚えてしまおうと思って授業を受けているのと、あとで覚えればいいやと思っているのとでは、結果は自ずと違ってくる。自宅の番地や電話番号を覚えていない人がいるだろうか。まずそんな人はいない。では覚えるのにどれくらいの時間を要したろうか。たいてい一発で覚えてしまったはずだ。番地や電話番号というのは、全く意味のない数字の羅列に過ぎない。意味の無いものほど覚えにくいものは無い。にもかかわらず、簡単に覚えられるのはなぜか?それは、覚えようとして覚えるからだ。覚えなければ非常に困ったことになるから、必ず覚えなければならないと思って、本気で覚えようとする。だからこそ、あっという間に覚えられるのである。

勉強も同じである。今、この場で覚えてしまおうと、本気で思って、授業を受けていれば、その場で覚えられるものだ。覚えようとして授業を受ければ、気迫も違うし、集中力も高まる。あとで覚えればいいやと思っているから、集中が途切れ、理解が曖昧になるのだ。だいたい、学校の授業で1時間弱、塾だと2時間半ほどの時間を費やしているにも関わらず、何も覚えられず、習ったことは家に帰ってから、復習して、理解して、覚えますでは、無駄もいいところだ。そもそも、それだけの授業時間に習ったことを覚える為に、また授業と同じ時間をかけようと思っているのだろうか。そんな時間をどうやって捻出する気なのだろうか。むろん、ひねり出せるわけが無い。結局、覚えられずじまいになるのである。

時間は誰にでも平等に与えられている。勉強に使える時間は、誰しも大差ない。それなのに、出来る子とできない子に分かれてしまう。人はそれを、頭の善し悪しのせいにしたり、家庭での勉強量の差のせいにしたりする。けれども、成績の良い子の話を良く聞いてみると、案外、勉強時間が少ない。まるで勉強していないこともあるほどだ。それでは、ものすごく頭が良いかというと、そうでもない。成績の悪い子との一番の違いは、授業中の集中度にある。成績の良い子は、必ず授業に集中している。その時間に目一杯集中して、授業時間を無駄にしない。極端な話、授業中に理解し覚えてしまえば、家庭で勉強する必要は無い。その時間を部活にでも趣味にでも費やせる。もちろん、授業中ですべてが覚えられるわけではないから、家庭で、軽く復習し、授業を思い出して、知識を整理し、覚えきれなかったところを補充したり、問題を解いたりする必要はあるし、宿題もやらなければならない。だが、授業中に何も覚えていない生徒に比べれば、家庭でしなければならない作業量は圧倒的に少ない。授業中に理解し覚えてしまった量が多ければ多いほど、後でやらなければいけない勉強量は減る。そうして浮いた時間を問題演習や参考書で知識を深める作業にまわすことが出来る。そうすれば、授業で習ったことをまた一から家庭で覚え直している生徒との差はどんどん広がるし、成績もどんどん上がっていく。

授業中に習ったことは、授業中に覚えてしまおうと、本気で思って授業を受けているかどうか。そう思っていれば、授業の受け方は自然と変わっていく。ノートの取り方や話の聞き方、質問の仕方まで変わっていく。どうすれば、授業中に覚えてしまえるかを考えて、工夫するからだ。それこそが、成績を上げていく上で重要なポイントなのである。

<原町田教室>


東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

成績を上げるのは簡単だ。

このエントリーを見ているのが、生徒本人なら、事は簡単だ。先生にいわれた事を言われた通りにやればいい。その積み重ねによって必ず成績は向上する。成績が上がらないのは、言われた事を言われた通りにやっていないからだ。嘘だと思うなら、一度やってみるといい。まず、自分が、先生から何をやれと言われたか、メモする。そのメモを見ながら、それをやる。やったら、言われた通りやったかどうかチェックする。言われた通りに出来なかったら、やり直す。

そうすると、たいてい、言われた事をきちんとやっていなかった事に気づくだろう。さらに、やったとしても、言われた通りのやり方ではなかった事に気づくだろう。言われた事を言われた通りにやるのは、案外、面倒だ。どうしても我が出て、自己流になる。だが、自己流でやるならば、わざわざ教わる理由は無い。教わっているのは、大げさに言えば、人類がその歴史を通じて練り上げてきた、最も効率の良い、正しいやり方を身につけるためだ。教師は、「生徒の発達段階に応じて」という但し書きがつくけれど、その一番いいやり方を生徒に伝授している。簡単に言えば、先生が教える方法が最もいい方法で、それ以外はだめな方法だ。あなたの自己流でも出来るかもしれないが、それよりもっと良いやり方があると先生は教えている。まず、それに従うべきだ。そして、もし、先生の言う通りに出来るようになったうえで、もっといい方法があると思ったなら、その方法を試して、教師に問いかけてみると良い。そのやり方のどこがどう良くないか教えてくれるだろう。時には、その方が良い方法だと認めてくれる事もあるだろう。後者の場合、教師は、生徒が最初に教えたやり方を理解したら、次の段階として提示しようとしていたやり方である。たとえば、算数の鶴亀算で解ける問題は、数学の一次方程式でも連立方程式でも解ける。どの方法が最良かは、生徒の発達段階や知識、能力によって異なるのである。いずれにせよ、まず教師の示した方法に習熟する事が先決だ。

自己流でなく、先生の言う通りにやるには、素直である事が最も大切だ。そして、常に、言われたとおりにやろうという意識を持ち続けなければならない。いつでも、言われた通りにやろうと意識していないと、正しいやり方は身に付かないものだ。さらに言えば、それが出来るようになったら、もっといい方法はないか、考えてみるともっと良い。

成績を上げたいと思って、このエントリーを読んでいるのが、親や教師だったら、その上げたい成績は、自分のではなく、他人(子供や生徒)の成績という事になろう。これは、ちょっと骨の折れる事と覚悟して欲しい。馬を水場に連れて行く事は出来るが、水を飲ませる事は出来ないと、昔からよく言われる通りだ。

親であれば、まず、子供の生活時間の管理から始めると良い。「管理」というと聞こえが良くないが、「規則正しい生活」と言い換えても良い。これなら、どこの小学校でもお題目のように唱えている。最近の小学生は、夜更かしや朝食抜きなどが、問題になっているけれど、それでも、中高生に比べたら、ずっと規則正しく暮らしているように見える。中高生となると、ちょうど今、春休み期間だけれど、こういう長期休暇期間には、とてつもなく不規則になって、昼夜逆転の生活になる事も珍しくない。けれども、それは、結局成績向上につながらない。それどころか、必ず悪影響を及ぼす。

休暇中は、まず、きちんと、朝早く起きて、朝日を浴びること。朝食をしっかり取ること。午前中に勉強すること。昼食後に十分な休憩時間を取る事。夕食前にもう一度勉強すること。寝る前にも今一度勉強する事。勉強時間の目安は、午前3時間、午後2時間、夜1時間。これで、計6時間の勉強時間が確保できる。学期中の休日も同様に過ごすと良い。とはいえ、これくらいやれるのは受験学年ぐらいだろうが、その他の学年でも、午前中の3時間ぐらいは、しっかり勉強するように、生活時間を管理してやると良い。

小学生の場合は、勉強している間、不即不離の間合いで、そばにいてやるのが効果的である。勉強というのは、孤独な作業で、小学生にとってはかなり寂しい事なのだ。近くに親の気配を感じていると、子供の集中力は高まる。ただし、口出しは無用。「できたの?」とか「こんなのもわからないの?」とか、言われるとたちまちやる気が失せてしまう。まず、朝起きて朝食をきちんと取るようにさせたら、午前中は勉強する約束をして、その事を納得させておかないといけない。納得すれば、きちんとやるものだ。強制は反抗を生む。これは、年齢が上がるほど顕著である。中高生の場合、じっくりと話し合って、納得のうえ、子供の勉強のタイムキーパーとして協力してやるという形をとるのが望ましい。

最後に、教師の場合だが、これが最も難しい。本人との関係が遠くなればなるほど、やる気を出させるのが難しいからだ。だけど、教師は、勉強の専門家である。まず、出来るようにしてやること。出来なかった事を一つずつでいいから、出来るようにしてやる。そのためには、繰り返し練習させるしか方法はない。スポーツのコーチングと同じだと思う。なぜこれをやらなければならないかを納得させて、粘り強く、辛抱強く、反復練習をさせる。そうして、一つ出来るようになる。そうしたら、次へいく。最も重要な部分から、基礎を作り直してやる。どこから始めてどのような道筋でやっていけば良いかを、明確に指示してやる。それが当たり出せば、生徒は教師を信頼し、応えようとする。そうなれば、しめたものだ。自然と生徒はやる気を見せ出す。

春休みも半ばまで来た。新年度は好成績を収めたいと思うなら、生徒諸君は、とにかく、先生にいわれたことを言われた通りこなすと言う意識を持って、それをやり抜いて欲しい。とにかく、やるだけだ。親には、きちんとした生活時間の管理をお願いし、教師には、何をどうやっていったら良いか、明確な指示を求めると良い。やり抜けたら、きっと、驚くような結果が待っているだろう。

<原町田教室>

東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。

問題「を」勉強するんじゃなくて、問題「で」勉強する。

問題を解くのは勉強をするためのはずだが、どうも、生徒諸君のやり方を見ていると、あまり勉強になっていない気がする。どのような心構えで問題を解いているのだろうか。

問題を解く。答えが出る。答え合わせをする。正解だった。終了。残念ながら、これでは何の勉強にもなっていない。その問題は、解いたことがなかったとしても、テストに出れば、正解できるだろう。問題を解いたことによって学力が向上したとは言い難い。もし、不正解だったら、このブログ上で何度も述べているように、それを出来るようにすることで、幾ばくかの進歩がある。とはいえ、不正解の脇に、正解を写して終わりにしているだけなら、やはりたいした向上は望めない。正解を写しただけでは、出来るようになったとはいえないからだ。もう一度解き直して自力で正解に達して初めて出来るようになったといえるので、間違えた問題は必ず解き直して欲しい。

問題を解くと、生徒諸君の関心は、合っているか間違っているかに集中してしまうが、実は、勉強という観点では、そんなことはどうでもいいのである。その問題の正解が何であろうと、同じ問題が出題されることはまずない。もちろん、学校の定期考査では、授業中に解いた教科書や問題集と全く同じ問題が出題されることはある。だから極端な話、問題と答えを暗記しておけば正解することが出来る。だが、これで満点を取ったとしても、誰も実力があるとは思わないだろう。諸君の勉強法は、ここまで極端ではないにしろ、これと似たようなことになっているという印象を受ける。

たとえば、英語で空欄に関係代名詞を入れろという問題を解く時に、先行詞と空欄の後の数語のみを見て解答を出すだけで、その文を訳しもしない。たしかに、早く解けるだろう。限られた時間内で解かなければならないテストではそういう解き方が必要なときもある。だが、勉強もそんなやり方でしていては、あまり身にならない。その問題文を訳そうとすると、訳せないときもある。知らない単語が使われていた。知っている単語ばかりだけれどイディオムが使われているから訳せない。あるいは、単語の繋がり方が分からずに訳せないということもあるだろう。分からない、出来ないというときこそ、勉強のチャンスである。知らない単語やイディオムは、意味を調べ、読み方を調べ、書けるようにするため練習をする。そうすれば、この1問で単語力も向上する。単語の繋がりが理解できないときは、その部分の文法知識が欠落していることになる。とすれば、同じ文法事項を含む問題が出たら、どれも出来ないということだ。文法事項を確認して訳せるようにしておけば、その文法事項に関わる問題全てに正解する基礎ができることになる。だが、直接問われている関係代名詞が合っていたので、この問題は良し、という態度で解いていたら、この1問は正解できたが、別の何十問を出来ないまま放置することになってしまう。前者は、1問で何問分もの勉強になっているのに対して、後者では、その1問のみの勉強にしかならない。さらに、その問題文に登場した単語やイディオムの類義表現、反意表現、発音、アクセントなどを確認したり覚えたりすれば、1問でさらにたくさんのことが学べる。単語や漢字は反意語や同意語を一緒に覚えてしまう方が、一つずつ覚えていくより効果的である。これが、問題「で」勉強するということである。つまり、問題を使っていろいろなことを学ぶのである。ところが、生徒諸君は、問題「を」勉強しているだけで、その問題が解ければ、出来ている、あるいは、出来るようになったとして、終わりにしてしまう。先の例で言えば、関係代名詞が先行詞と格によって、どう変化するかだけは習得したかもしれないが、それ以上は何も学んでないのである。さらにひどいときは、なぜ、この問題の場合に、この関係代名詞が選ばれるのかという仕組みさえ理解せずに、当てずっぽで選んだ関係代名詞が当たったことに満足して、出来るようになったと思っている子すらいるのである。テストであれば、点になりさえすれば何でもいいとも言えるが、勉強においては、それでは何の意味もない。

問題「で」勉強するというとき、問題は勉強のための素材に過ぎない。その素材をどう料理するかは、料理人の腕次第である。1問の問題からたくさんのことを引き出せる達人もあれば、問われた事項そのものしか引き出せない凡人もある。生徒自身の独学では、自ずと限界があるのは、自明のことである。ここに教師の必要性・存在意義があるわけだ。よい教師は、1問からたくさんの関連事項を引き出して、既習事項を確認させ、関連知識として新しいことを教えてくれる。当該問題以前の部分でつまずいていることがあれば察知して、そこから教え直す。だから、生徒諸君も、問題の正解のみに心を奪われず、その問題からどれだけのことを学べるかに意識を集めて欲しい。

要は、勉強はやり方次第だといういつもの結論に落ち着くのだけれど、兼好法師も「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」(徒然草第五十二段)と述べている。ちょっとしたことでもそれに精通した水先案内人のような人が欲しいものだという意味である。何を勉強するか以上に、どう勉強するかを教えてくれる教師を選びたいものである。

<原町田教室>


東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。 

「淡麗」じゃなくて「端麗」だぞ。間違えやすいCMの罠。

「淡麗」は、キリンビールが発売する発泡酒の名前である。そもそも発泡酒ということ自体、ビールと間違いやすいわけだが、その名前も紛らわしい。容姿端麗というときは「端麗」と書くのが正しい。端麗というのは、姿形が整っていて美しいことである。この言葉に引っ掛けて発泡酒の名称は付けられたのだと推察するが、子供たちには迷惑な話である。自分たちは、まだこの商品の対象年齢に達していないにもかかわらず、毎日のようにテレビでそのCMを見せられている。これを間違うなという方が無理かもしれない。最近は、漢字テストにこれを出題すると、まずほとんどの子が間違えて書く。


筆者の子供のころは、「危機一発」というのがあった。ご存知007シリーズの一作である。この映画の初公開時(1964年)のタイトルが「危機一発」だった。そのせいで、この四字熟語をかけない子供たちが激増したため、日教組と文部省に猛抗議を受けたという事実は多分ないと思う(笑)が、1972年には「ロシアより愛を込めて」と邦題を改めて再公開されている。だが、1974年にはブルース・リー主演の「ドラゴン危機一発」公開され、翌年、「黒ひげ危機一発」という玩具が発売されるに及び、子供たちの頭には、完全に「危機一発」が刷り込まれてしまった。もちろん正しくは、「危機一髪」である。髪の毛一本ほどのごくわずかな差で窮地に陥る瀬戸際という意味である。映画の配給者は、きっと銃弾一発という意味を掛けたかったのだろうが、言葉を学ぶ過程にある子供たちには、迷惑な話である。当然、筆者も漢字テストで間違えた苦い記憶がある。


もうだいぶ前のことになるが、とある家庭教師派遣会社のCMでは、「"mother"、mを取ったら、"他人"です。」というキャッチコピーが使われていた。mを取るとotherである。otherに他人という意味があるとは寡聞にして知らない。他人と訳すのは、othersの場合である。この会社の最近のキャッチコピーは「トライしてますか~?」である。tryは、後ろに不定詞を取る場合と動名詞を取る場合とで意味が異なる。前者は「しようとする」後者は「してみる」である。「しようとする」だけでは、実際にするのか否か分からない。家庭教師を雇って、我が子に勉強させようとしても、やってくれるかどうかは、わからないというわけだ。後者であれば、一度試してみるということになる。一度ぐらいなら間違いを覚えることもないが、何度もこのCMが流れたことで、間違えて覚えてしまった子は多かったのではなかろうか。


筆者の場合、「小森のおばちゃま」にやられた。彼女がよく使う「モア・ベター」というフレーズにだまされた。比較級を強調するときの修飾語はmuchである。しかし、当時、彼女はテレビで「モア・ベターよ」を連発していた。彼女の決め台詞であったのだ。彼女としては「はるかに良い」よりももっと良いと言いたかったのかもしれないが、英語を習いたての中学生が、始終こんな言葉を聞かされていれば、テストで間違えずにはいられない。筆者もご他聞に漏れずしっかりバツを頂いたものである。


毎日毎日、頼みもしないのに大量に流されるCM。その教育効果は侮れない。子供たちの流行語もCMから生まれることが多い。繰り返し同じものを見せられると、覚えようとしていなくても自然に記憶に残り、いざという時に脳裏から呼び出されてくる。そして誤答を引き起こす。ゆめゆめ油断してはならない。あのヒトラーの宣伝大臣を務めたゲッベルスは嘘も繰り返し言えば真実になると言ったと言われる。人々はそれを信じ込むからだ。だが、テストの採点は、マルにならない。


ところで、このCM効果を逆から見てみると、大事なことが分かる。毎日聞かされるから、覚えようとしていなくても覚えてしまうのである。それが間違いだからたちが悪いというだけのことである。もし、正しいことを毎日繰り返し聞いたら、どうだろう。苦もなく、正しく、記憶に残るのである。これが復習するということである。覚えなければならないことは、毎日短時間でいいから繰り返す。これが学習のこつであり、最良の教育法なのである。


<原町田教室>


東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。

勉強は、午前中に片付けろ。

「春は あけぼの」で始まる清少納言の枕草子第一段は、「冬は つとめて」と述べる。「つとめて」とは、早朝のことである。冬の凛とした冷気に包まれた早朝は良いものだと彼女はいうわけだ。勤務のことを「おつとめ」というのは、この「つとめて」から来ている。そもそも、朝廷というのは、早朝に政務を行ったことが、その名の由来であり、宮仕えの役人たちの勤務も当然「つとめて」になる。これが「おつとめ」語源である。世のお父さんたちが、朝早くから出勤しなければならないのも、むべなるかなである。


古代から、仕事が、朝に行われてきたのは、なぜなのか。もちろん、当時は照明が貧弱というか、無いに等しかったのであるから、夜に仕事をすることはできなかっただろう。だが、朝早くからやらなくても、午後からだってよかったはずだ。にもかかわらず、朝早くから行われたのは、朝の方が能率が上がるという経験則があったからではないかと、筆者は愚考する。それに、朝の間に仕事を済ませてしまえば、残りの日中を有効に活用できる。


そこで、生徒諸君にお勧めしたいのは、勉強は、午前中に済まそうということである。もちろん、平日は、学校にいるので、そういうわけにいかないが、問題は、土日祝日の使い方である。どうしても、休日の前の晩は、夜更かししてしまい、翌日は、朝遅く起きて、眠い目をこすっているうちに昼になり、午後から活動開始となりがちではないだろうか。ここで、一念発起して、休日も平日と同じ時間に起きて、一時間目が始まるぐらいの時間から机に向かってみたらどうだろうか。きっと、昔の人が早朝に執務した理由を実感できると思う。午前中にしっかり勉強すれば、午後は、リラックスして、買い物に行くなり、スポーツをするなりしてもいいだろう。休日を十二分に活用できると思う。


いやいや、うちは両親が平日の「おつとめ」で疲れていて、休日は遅くまで寝ているから、無理。なんて言葉も聞こえてきそうだが、朝早くから勉強したって、ご両親の朝寝の邪魔にはなるまい。「でも、朝ごはんが・・・」そうだね。朝食を抜くのは、健康のためにも学習効率のうえでもよろしくない。それなら、休日の朝食は、君が用意したらどうだろう。パンを焼いてバターを塗って、カップスープとハムエッグを作るくらい、君でもできるだろう。ご飯が炊けている家なら、みそ汁を作って、生卵や納豆で済ませればいい。遅く起きてきたご両親も食卓が既に用意されていたら、きっと喜ばれるであろう。お小遣いがアップするかもしれない(笑)


冗談はさておき、早朝の学習には、実戦的な意味もある。都立高校入試の1限目は午前9時スタートだ。この時間に、頭脳が全開になるためには、遅くもその2時間半前には起床していないといけないと言われている。つまり、6時半起床だ。だが、人間には、体内時計というのがあって、普段の生活時間が刻まれているから、普段と違う時間に起きると調子が出ないものだ。したがって、入試の日だけ6時半に起床しても普段の起床時間が遅ければ、あまり効果は上がらない。オリンピック選手などは、自分の出番の時間に合わせて、大会前から練習時間を調整するというくらいだ。だから、中学3年生になったら、平日はもちろん、休日だって6時半には起きて、ウォーミングアップの勉強を始めるようにしたいものだ。


<原町田教室>


東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。

語弊があるのであまり言いたくはないのだが(笑)、いくら教わったって、できるようになんかならない。できるようにするのは、自分自身なんだ。

先週の水曜日に、勉強ができないのは、やり方が悪いからだと述べたが、今週は、「教わること」と「できるようになること」の違いについて考えてみたい。


塾に通う生徒は、塾にさえ来ていれば、自然に成績が良くなるものと思っている節がある。たしかに、来ないよりは来た方が良くなるのは間違いない。全く勉強しない生徒が、塾に来ている時間だけでも勉強するようになるわけだから、0が、4.5ないし7(時間/週)になるわけで、一定の効果はある。


しかし、塾に来ているだけで成績が上がるなら、誰も苦労はしない。松井秀喜にホームランの打ち方を教われば、誰でもホームランが打てるのか、本田圭佑にフリーキックを教われば、誰でもあの無回転ボールを蹴ることができるのか、考えてみて欲しい。考えるまでもなく、誰だってそれは無理だと思うであろう。ところが、勉強は教わればできるものと思っている。だが、それは大間違いだ。運動も勉強も同じだ。やり方を教わったら、それができるようになるまで、何回も練習しなくては、できるようにはならない。


塾で演習問題を解く。あるいは、家で宿題を解いてくる。それを勉強だと思っている生徒が多い。しかし、それは、勉強ではない。勉強の為の準備にすぎない。問題を解いて、答え合わせをする。合っていたなら、その問題は、次に出題されても、また、できるだろう。それ以上勉強する必要のない問題だ。しかし、間違っていたら、正しい答えをノートに書き込んで「はい、終わり」でいいのだろうか。果たして、それで、次に同じ問題が出て、解けるのだろうか。生徒諸君は、胸に手を当てて自問して欲しい。解けるわけがない。次も、同じ間違いを犯すに決まっている。結局、最初に問題を解く作業というのは、勉強すべき問題と、する必要のない問題とを峻別する作業に他ならない。そして、間違えたところから、勉強は、始まる。


勉強とは、できない問題をできるようにすることだ。生徒が間違えた問題を、教師は見る。そのノートを見分し、何をどう間違えたか、どこがわかっていない為に間違えたのか、どのように教えたら、わかってもらえるか、それらの点を考慮して、授業を展開する。そうして教われば、生徒たちは、よくわかった気になる。だが、実際は、それだけで、できるようになるというのは、なかなか難しいものだ。もう一度自分で解いてみたら、解けなかったというのはよくあることだ。


だから、教わったら、必ず、もう一度自分で解いてみなくてはならない。そうしなければ、本当に理解したのか、自分でもわからないし、できるようになったとも言えない。よく「間違い直し」という言葉が使われるが、間違った部分を書き直して終わりと誤解している向きが多い。そうではなく、間違えた問題は、もう一度、はじめからやり直さなければいけない。だから「解き直し」というべきだと思う。


問題のどの点に着目して、どう思考して、どう解くか、教師は、生徒に即して、懇切丁寧に教えている。だから、生徒もわかった気になるのだが、わかったからと言って、できるわけではないのは、先にも述べた通りだ。だから、生徒は、授業中の解説を思い出して、自力でもう一度、できなかった問題に取り組まなくてはならない。そうして、その問題が解けるようになっていたら、そのときはじめて、勉強したと言えるのだ。もし、教わったのにできなかったら、そのときは、ノートを見て、授業中に教わった解法を、なぞって解く。その上で、また、翌日、自力で解いてみるという作業を繰り返す必要がある。


結局、教わるということは、できるようになる為の、これまた、準備にすぎない。裏を返せば、教師には、生徒ができるようになる為の準備をしてやることしかできないのだ。教わったことをできるようにするのは、生徒自身の努力にかかっているのだ。

語弊があると、表題で述べたのは、「教わってもできないのなら、塾なんか行く必要ないじゃん』と結論されても困る(笑)からだが、塾ベリタスの教師は、生徒が、わかるまで、とことん教える。手を変え品を変え、どこまでも教える。だから、ベリタスにおいては、「教わる」と「わかる」は、同じだと思ってもらってかまわない。だけど、もう一度言おう。「わかる」と「できる」は、違うのだ。わかってもできるとは限らないのだ。だから、教わったことは、わかったと思っても、できるようになるまで、自ら学ばければならない。


今日で、ベリタスの夏期講習は、前半を終了し、お盆休みに入った。生徒諸君は、後半が始まるまでの間に、前半で、できなかった問題を、残らず解き直して、後半に望んで欲しい。そうしなければ、せっかくの夏期講習が、何を勉強したのかわからないものになってしまう。諸君の奮励努力を期待している。


<原町田教室>


東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。

正解を答えなくてはならないという強迫観念につぶされるな。

いったい、どうして、こんなにも、子供たちは、正答することにこだわるのだろうか。

間違っていたっていいじゃないか。そこから勉強が始まるのだから。


間違うことは、「恥」だろうか。恥ずかしいかもしれないが、けっして「恥」ではない。その答えが自分の頭で考えたものなら、胸を張っていい。


解答を読み上げて正解するより、自分の頭で考えて、間違えた方が、ずっとよい。頭を使った分だけ賢くなるのだから。もちろん、自分の頭で考えて、正解したなら、それもいい。だけど、どっちが、よりよいかといえば、間違える方がいいのだ。だって、間違えた場合は、なんで、間違いなんだ?どこが、間違いなんだ?どうして、間違えたんだ?どうすれば、よかったんだ?といろいろ考えることがある。それだけ賢くなれる訳だ。ところが、正解だった場合は、それでおしまいだ。それ以上は考えることがないから、それ以上に賢くなれはしない。


じゃぁ、全部間違えなきゃいけないかって? いやいや、それでは、進みが遅くなりすぎるから、正解できたら、正解して、先に進みましょうよ。わざわざ、できる問題を間違えろと言ってる訳ではないですよ。念のため(^^)


つまり、間違えた数だけ、頭が良くなるんだから、間違えるのを恐れずに、自分の考えを発表しようじゃないかということだ。


自分の頭で考えたなら、発表しなくても同じじゃないかと思う人もあるかもしれないが、そうではない。間違えるということは、やはり、一種のショックである。ショック、すなわち、心に衝撃が走ることで、記憶はより鮮烈になる。悔しい思いをするから、理解しようという意欲がわく。そういう効果があるから、やはり答えは発表するべきだ。それに、教師の側からすると、答えを発表してくれなければ、その生徒が、何をどう間違えて、どこが分からないでいるか、理解できない。それでは、情報不足で、教えようがなくなってしまう。教師は、生徒がどう間違えたかで、どこでつまずいているか、ほぼ的確に判断できるものだ。だから、あっている自信がないからと、答えないより、間違えても答えた方が、ずっとよいのだ。


できなくて、怒られた経験があるのか、生徒たちは、いつも正解を答えなくてはならないと思い込んで、自らを追いつめているような印象を受ける。だが、そんなことはないのだ。むしろ、「間違えてよかったね」なのだ。間違えることが勉強の始まり。失敗は成功の素なのだから。


<原町田教室>



東京都町田市にて学習塾を展開している<ベリタス>のホームページも是非ご訪問下さい。


プロフィール

ベリタス本部



QRコード
QRコード
最新コメント