受験&教育byベリタス

ベリタスは、東京都町田市南町田(小1~高3)と東京都町田市原町田(小1~中3)にて学習塾を展開しています。学院長と教室長が、生徒・父兄と接して感じたことや教育関係の問題について思うことを綴っています。

授業

♪ 泣き虫小虫はどこの道 ♪ ん?

♪泣き虫小虫はどこの道♪

最近、こんなフレーズが頭に浮かんだ。メロディー付きでだ。童謡である。だが、これが歌詞だとすると意味が分からん。そこで、検索である。google先生に教えを乞う。すると、

♪仲良しこみちはどこの道♪  「仲よし小道」詩:三苫やすし

が、浮かんだメロディーに合致する正しい歌詞のようだ。だが、

♪仲良しこよしはどこの道♪

というフレーズもかなりヒットするが、これは、たぶん、

♪お馬の親子は仲良しこよし♪  「おうま」詩:林柳波

という童謡の歌詞と混同したのだと考えられる。昔、我が家には、この歌のSP盤のピクチャーレコードがあった。

では、「泣き虫小虫」はどこからきたのだろうか。こちらは、

♪泣き虫小虫挟んで捨てろ♪

という、子供の囃し言葉が由来らしい。節をつけて泣いた子をはやし立てた記憶が甦る。この文句に関しては、「泣き虫毛虫」とするものと「泣き虫小虫」とがあるようだ。たしかに「挟んで」捨てるには、細長い「毛虫」の方が適している気がする。「小虫」なら「摘んで」と言った方がよいかもしれない。が、筆者の子供時代は、後者を使っていたと思う。

まぁ、とにかく、2曲の童謡と1つの囃し言葉が、記憶の中で混ざり合って、表題のようなへんちくりんなフレーズとなって、筆者の口をついたのだろう。

さて、こんなフレーズが、思い浮かんだのは、他でもない。最近の子供が、妙に「泣き虫小虫」だからである。もちろん全員というわけではないし、厳しく叱れば、昔の子供だって涙を流したものだ。かつては、筆者も若く、血気盛んだったから、宿題をしてこなかった子を怒鳴りつけ泣かしたこともあった。中学受験をするというのに、集中しきれずにいる子には、「今日は泣かそう」と意図して、わざと追いつめ、泣いたところで、優しく諭すという小賢しいテクニックを弄したこともあった。いわば「泣き落とし」である。

だが、近頃目立つのは、普通に問題解説をしているだけなのに泣き出してしまう子供である。もちろん、声を上げて泣いたりしゃくり上げたりはしない。ただ話を聞いてるうちに、目が赤くなり、涙があふれてくるのである。実は、これは、塾だけで見かける現象ではない。筆者が週末に参加している少年野球チームの選手たちにも見受けられるのである。こうやって投げた方がいいとか、捕球の際にもう少し腰を落とした方がいいとか、そんな技術的な説明をしていると、いつの間にか目に涙をためているのである。あるいは、ノックを何球かこぼしただけで、怒鳴られたり怒られたりしているわけでもないのに、いつの間にか泣いている子がいる。指導者は選手が泣くようなことをした覚えがないので面食らってしまう。

どうしてなのだろうか。教わっているだけで泣いてしまうということは、彼らは、教わることは悪いことだと考えているのだろうか。出来ないことはいけないことだと思っているのだろうか。だが、教わる前から知っている人間はいない。教わっても出来るようにはならない。教わったことを繰り返し練習してはじめて出来るようになる。だから、筆者は、まず、この当たり前のことを、こんこんと説いて聞かせる。もはや、怒鳴りつけたり「泣き落とし」を使ったりする必要もない。ただただ優しく教え諭すのみである。

そもそも、塾へは、分からないから、出来ないから、通うのである。何がどう分からなくて出来ないか、教師は、問題を解かせて調べているだけである。分からないところ、出来ないところが見つかれば、その原因を除去すべく、教え導くのである。生徒の方から、ここがこのように分からないと言ってもらえれば楽であるが、分からないということは、何がどうして分からないかすら、本人に見えていないということなのである。分からないところがどこかが判る生徒は、実は、よく出来る生徒である。他がみんな出来ているから、出来ないところが判るのであって、あれもこれも分からない状態では、何が分からないか判然としないのが道理である。

これが分からないと判ったら、まずこれだけ出来るようにすればいい。あれも分からないと判ったら、次はあれだけを分かるようにすればいい。そうやって、一つずつ分からないところをつぶしていけば、いずれ、自分の分からないところが自分で判るようになる。そうすれば、自分で調べたり考えたりして、自分で分かるようにすることが出来るようになる。最初は、教師の手を借りて少しずつ出来るようになり、ある程度出来るようになったら、自分でやれるようになる。そのときにはかなり出来る生徒になっている。

ちょうど、自転車に乗る練習のようなものだ。最初は後ろを押さえてもらって走る。ある程度安定したら手を離してもらっても一人で漕いで行ける。転んでもひっくり返っても、泣いている暇はない。ひたすら前を向いて、自分の道を、漕ぎ続けるしかないのだ。

<原町田教室> 

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今はまだわからなくてもいいことがある

何年も前に聞いた話の、なんだかよく分からなかったことが、ある日ある時ふとした拍子に「ああ、あれは、そういうことだったのか」と謎が解けることがありませんか。ずっと前にテレビか何かで見聞きした話の疑問が、学校の授業で氷解して、得心がいくようなこと、ありますよね。

だから、筆者は、授業の中で、今、分からなければいけない話と今は分からなくてもいい話の両方をする。今、分からなければいけない話は、学校でも習うし、試験にも出る。分からなければ成績は上がらない。だが、今は分からなくてもいい話というのは、学校でも教わらないかもしれないし、試験にも出ない。けれども、それを知っていれば、知識に厚みが出るし、理解に余裕が出る。たとえ、分からなくても、それが心の片隅に引っかかって、時を経て、もう一度きちんと習ったときに、むくむくと甦ってきて、そのときの理解を助けてくれ、それをすとんと心の底におさめてくれる。筆者はそう考えている。

もし、それを以前に聞いていなかったら、きっと、こう素早くは納得できなかっただろうと思うことがある。前に聞いた時は理解できなかったことでもだ。熟成と言ったらいいのかもしれない。よくわからないまま聞いていたことが、熟成を経て、知らぬ間に心のうちで疑問点が整理され、理解のための準備が進んでいくものだと言えるのかもしれない。

筆者は、今日明日の成績を上げてやるのが生業の塾屋であるが、子供たちの成長を思い、長い目で指導というものを考えている。今は分からなくてもいいから、手間を惜しまずに語っておくことが、必ずその子たちの将来によい効果をもたらすと信じている。それは筆者の経験から出た信念である。

ところが、私の妻は、よく分からない話など全く覚えていないから何の効果もないと断じる。彼女は、彼女の経験からそう語るのだから、強敵である。そこで、判定は、学生時代の成績勝負に持ち込まれる。まぁ、当然のことながら、筆者の圧勝である。そして、結論である。成績のいい人は、分からない話も覚えていて、それが将来の理解を助けるが、成績の芳しくない人は、分からないことも覚えていないから、理解の助けを得られず、ますます苦戦する。

今は分からなくてもいい話は、少々難しいこともあるが、筆者の話は、決して難しくはない。ただ、ちょっと長いのである。今、分からなければならない話のついでに、今は分からなくてもいい話を、おまけに付けるから長くなる。そのうえ、少々難しい話を丁寧に分かりやすく説明するから、さらにもう少し長くなる。「先生の話は、きちんとストーリーが考えられているから、よく聞いているとすごくわかりやすい。けれど、長いので途中で集中が切れる時がある」と話を聞いている生徒たちも言う。こちらでも、集中が切れてきたのは、見ていてすぐ分かるので、そういう時は、冗談なんか入れて、リラックスして先へ進んでいくのだが。

今はまだ分からなくてもいい話、それは、余談の類いである。本線の授業とは一線を画しておく必要がある。けれども、それは授業に深みを与え、将来、生徒がそれを本格的に学ぶときに余裕を与える。よく分からないからこそ、生徒たちの心のどこかに引っかかったままの状態になる。分からないからと無視したり忘れてしまったりせず、そのまま温めていてくれることを願って、今日もそんな話を挟みながら授業をしている。

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その間違いを残しとけ。

生徒には、ノートをきれいに書きたい子と落書き帳と心得ている子がいるようだ(笑)

きれいに書きたい子は、解答だけをびしっと並べてくれる。答え合わせはとてもしやすいのだが、いかんせん。そこでおしまいだ。指導しにくいことこの上ない。そこには、生徒の思考の過程が全く表れていない。極端な場合、式すら書いてない。何をどのように考えて、その答えに至ったものか、教師には推測の手がかりが全くないからお手上げなのだ。「どうやって考えたの?」と尋ねてもたいてい要領を得ない。間違えた問題は、本人もよくわかってないから間違えるわけで、よくわからないものは、その途中の過程も記憶があやふやになるものだ。

こういう生徒は、わからない問題では、ノートに何も書かない。問題番号の後に適当な余白を空けて次の問題に移る。どうにかして解答を得ようと奮戦した跡すら残されていない。本当にやる気があるのか、いささか疑わしくなる。教師としては、悪戦苦闘の跡を見たいのだ。図を書き、その図をいじり倒し、どうにか式を得ようとした跡や、とにかくひねり出した式を必死に計算して、とんでもない数字が出てきてしまい、仕方なく白旗を揚げた跡を見たいのだ。それを見れば、どこまで理解していて、何がわからないでいるのか一目瞭然だ。かゆいところに手が届く指導も可能になる。

算数・数学の文章題では、問題文を読み、図を書き、式を立て、計算をし、解答を書くという過程がある。この各過程で間違いが発生する。ノートには、この流れに沿った記録が残されなければならない。だから、図はテキストのかたすみではなく、問題番号の次に大きく書いて欲しい。テキストの余白ではスペースが限られるから、必要な情報を網羅できなかったり、せっかく書き込んでも見落としたりすることになる。第一、再度解き直すときに、図が書いてあったら邪魔臭いではないか。問題文から全ての情報を図へ移したら、その図を見ながら式を立てる。式が出来たら計算だ。計算も、した順に式の下に並べておくべきだ。後で見直すときにも、間違いを探すときにも便利だ。これをノートの欄外や、テキストの余白やらにくちゃくちゃと書いたり、計算後に消してしまう子も多い。それでは、その筆算は何の役にも立たない。残してあれば、そこからどんな計算ミスを犯しやすいか、己の傾向もわかるし、間違えて覚えている事実も発覚する。答えが出たら、行を変えて答えを書き、下線を引く。こうしてみやすくしておけば、答え合わせの段階で答えを見失って遅れをとることもない。これも授業を受ける上で結構大きなポイントだ。

これらを、きちんと順序よく並べて、余白を十分に取ってあれば、見やすく、美しいノートが出来ると筆者は思っている。しかしながら、生徒たちは、どうも、図やら計算やらが雑然と並んで美しくないと思うのか、やりたがらない。

ところで、余白を十分に取ることには、ノートを美しく見せる他に、大事な効用がある。それは、答え合わせのときに書き込みをするスペースを確保するということだ。ノートを美しくしておきたい生徒たちは、そもそもバツがつくのをいやがるのだが、全部マルがつくようなら、塾へ来る必要はない。出来ないことがあるから、塾へ来ているわけで、バツの回避は不可能だ。だが、諸君は、試験の採点官ではない。自分の苦労の結晶の上に、大きなチェックを入れておしまいにしていては意味がない。自分が、何をどう間違えたか、後でノートを見たときによくわかるようにしておかないといけない。間違えた部分に赤でアンダーラインを入れ、その部分の何がいけなかったのか、どうすべきだったのかを書き込んでおく。たとえば、分数の計算を間違えていたなら、通分ミスだとか、約分忘れとか、原因を書き込んでおく。単なるミスの場合もあれば、それが理解できていない場合もあるだろう。理解できていなければ、「わからない」とメモすれば良い。帰宅してから、その「わからない」部分を調べ直しても良いし、その場で教師に質問してもいい。既に学習が終了している部分にわからないところがあるのは、恥ずかしいかもしれない。けれど、今、出来ないところが見つかったのはかえってラッキーなのではないか?もし、今見つからなければ、わからないまま受験の日を迎えてしまうかもしれない。どちらが自分にとって良くないだろうか?

だから、間違いを指摘されたときに、それを消しゴムで消して書き直してしまうのは愚の骨頂なのだ。その間違いは、その場で無かったことになってしまう。その間違いを反省することも、意識することも、やり直すことも、二度と出来なくなってしまう。学習のチャンスを失い、次もまた同じ間違いを繰り返す。消してやり直した結果にマルがつけば、ノートは、美しいかもしれない。だが、それは偽のマルであり、自分に嘘をつき、だましているのに等しいことになる。問題を解いているときに、机間巡視の教師に間違いを指摘してもらったら、鉛筆を赤に持ち替えて、そこにアンダーラインをして、何をどう間違えたかを書き込んでおこう。そして教わった部分は改めて赤で書いてから、その先を自分の鉛筆で続けて解こう。こうしておけば、本当に解けたのか、本当は解けなかったのか、ノートに正確な記録が残る。復習の際にも、自分の間違いを見過ごすことなく勉強できる。

夏期講習では、レギュラー授業をとっている塾生の他に、初めて来る講習生もいる。そういう子たちには、こういうノートの取り方をはじめ、授業の受け方、話の聞き方や受け答えなど、指導したいことは山ほどあるけれど、短期間で一気に教え込むことは出来ない。生徒は、教科内容だけでも手一杯なのに、そんな方法論まで消化しきれないし、いちいち自分のやり方を否定されていては、やる気さえ削がれてしまう。だから、一番大切なことだけは、きちんと教えるけれど、あとは時間をおいて指導することにして、とっておく。二学期からも継続してくれれば、勉強ができるようになる勉強のやり方、たっぷりじっくり教えて差し上げます。以前にも、当ブログに、塾にも新人教育が必要だと書いたけれど、企業の新人研修と違って、性急にやることは出来ないのだ。手厳しいことも言わなければならないから、何より生徒との信頼関係の構築が必要だからだ。

紙幅も尽きたので、ノートが落書き帳になってしまう生徒については、また後日としよう。

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せっかく考え始めていたのに、今、考えるの止めただろ。

たとえば、授業中に、生徒に向かって、この英文の訳はどうなるか尋ねたとする。生徒は一斉に、訳を考え始めるが、誰か一人を指名すると、残りの生徒は、たちまち自力で訳文を考えるのを中止して、待ちの姿勢になってしまう。指名された生徒が何て言うかに集中していれば、まだましな方で、一気にリラックスして、椅子に背をもたせる者さえいる。

まぁ、気持ちは分かる。自分が答えさせられずに済むのだから、訳を考える必要はない。お訳御免だ(駄洒落である)。だが、それでいいのだろうか?実は、ここが出来るようになる子とならない子の差である。出来るようになる子は、誰かが指名されても、考えるのを止めない。それどころか、指名された生徒が答える前に、自分の訳文を仕上げようと、気持ちのうえで競争している。そして、自分の中で完成させた訳文と、指名された生徒が答えた訳文を比較しながら、教師の説明に耳を傾ける。けれども、出来るようにならない子は、指名された生徒の訳をただ漫然と聞くにとどまる。同じ授業を受けながら、効果に歴然たる差が生じる瞬間である。

ベリタスは、今、夏期講習期間中である。講習は連続して実施するから、受験学年なら3週間、その他の学年も一週間は連続で顔を合わせる。筆者は、この時にしか出来ない、普段は出来ないことをやってやりたいと思っていて、塾生の弱点克服を目標の第一に掲げている。それぞれの生徒がそれぞれの弱点を抱えている。弱点は、生徒により様々だから、机の間を歩き回って、個別に対応する。そうしながら、どの生徒に対しても共通に感じることは、自分で考えていないということである。教えられたことを教えられた通りにやろうとはする。しかし、それが、なぜ、そういうやり方になるのか、どうして別のやり方では駄目なのか、自分は何を間違いやすくて、それを防ぐにはどうしたらいいのかというようなことを、考えようとしていない。覚えたことを思い出してそのまま答えようとする。だから、忘れてしまえば答えられないし、記憶があやふやだといい加減な答えになってしまう。覚えるのではなく、理解する。理解したことを出発点にして自分で考える。そうして答えを見つけ出す。そういうプロセスを踏めば、もっと自由に、もっと楽に、もっと楽しく、答えにたどり着けるのにと思う。

結局、成績を上げるには、考え続けるしかないのである。評定が、2であれば、基本的知識が不足していると言っていいだろう。教わったことを覚えるだけでも、3に上がれるだろう。だが、3になった生徒、すなわち平均点前後の点が取れるようになった生徒が、それまでと同じ勉強の仕方、つまり、覚えてそれを吐き出すだけに終始するなら、その先はない。4に上がるためには、なぜ、どうしてと自分で考えることが出来なければならない。4から5へは、更なる知識の上積みも必要となるけれど、さらに良く考え続けなければ上がっていけない。

何を、どのように考えるか、筆者は授業中、機会あるごとに説いているが、この夏の講習では、毎日毎日指摘して、気がついてもらおうと思って臨んでいる。耳の痛い生徒諸君もいるだろうが、自らの力で考え抜ける人物になって欲しいと筆者は心から願っている。

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みんな先生のおかげですよ(卒業生談)ーーーちょっと照れるな(笑)

先日、手伝ってもらいたい仕事があって、卒業生をアルバイトに呼んだ。今、高校生活をエンジョイしている連中である。塾生時代は、塾へお金を払うばかりだったわけだが、今度はお金がもらえるとあって、喜び勇んでやってきた。日当は安いが、仕事は、簡単な軽作業で昼食付き。まぁ、高校生のバイトには悪くないだろう。

仕事は作業の進行に合わせて断続的にあるので、休憩時間がときどき入る。その間、彼らだけにしておいたら、昔話に花が咲き、「先生に習ったことベスト3」なるものを黒板に書き始めた。その筆頭は、例の「英語の第一法則」。次いで「〜に到着する」の3つの言い方。3番目は、「〜だそうだ」(伝聞)の3通りの表現だと言う。書き上げて、わざわざ筆者を呼びにきて「先生、見てください」と自慢げに言う。

通塾していた頃には、いくら繰り返しても、ちっとも覚えなかったくせに、卒業したら、さらさらと黒板に書き出して、人の物まねまでして、笑っている。まったく、かわいい奴らである。ベスト3の他にもランク外で、目的語に動名詞をとる動詞だとか、「stop to smoke」だとかいろいろ出ていたが、「write to 人 ⇔ hear from 人」が出てなかったのは気になるな。これは「ちっとも覚えてくれないベスト3」に入るのだが(笑)

「高校に入っても、英語でいい点採ってます」「OC(オーラルコミュニケーション)が90点でした」「いやいや、みんな先生のおかげですよ」などと口々に言われると、お世辞だとしても嬉しいものだ。OC高得点の彼は、発音が下手で、何度も練習させたものだが、その甲斐があったようだ。中学時代、英語が苦手で、当塾に通い始めたもう一人の彼も、高校では英語を苦もなくこなせているという。本人によると「第一法則」のご利益らしい(笑)

そんなわけで、教えても教えても、ちっとも覚えてくれない生徒でも、何度も何度も根気よく繰り返せば、いつの間にか覚えてくれることを再確認できた週末であった。そんな彼らから元気をもらい、また、これからも、捲まず撓まず同じことを説き続けていこうと、気持ちを新たにすることができた。(同じこととはいえ、表現方法の改善やら最新学説の動向、入試問題の傾向などを取り入れて、年々バージョンアップしているのだが)

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授業中に習ったことは、授業中に覚えてしまおう。

そんなの無理!という声も聞こえてきそうだが、本当にそうだろうか?たしかに、覚えきれないことはあるだろう。しかし、要は、その場で覚えようという気があるかないかだ。今、覚えてしまおうと思って授業を受けているのと、あとで覚えればいいやと思っているのとでは、結果は自ずと違ってくる。自宅の番地や電話番号を覚えていない人がいるだろうか。まずそんな人はいない。では覚えるのにどれくらいの時間を要したろうか。たいてい一発で覚えてしまったはずだ。番地や電話番号というのは、全く意味のない数字の羅列に過ぎない。意味の無いものほど覚えにくいものは無い。にもかかわらず、簡単に覚えられるのはなぜか?それは、覚えようとして覚えるからだ。覚えなければ非常に困ったことになるから、必ず覚えなければならないと思って、本気で覚えようとする。だからこそ、あっという間に覚えられるのである。

勉強も同じである。今、この場で覚えてしまおうと、本気で思って、授業を受けていれば、その場で覚えられるものだ。覚えようとして授業を受ければ、気迫も違うし、集中力も高まる。あとで覚えればいいやと思っているから、集中が途切れ、理解が曖昧になるのだ。だいたい、学校の授業で1時間弱、塾だと2時間半ほどの時間を費やしているにも関わらず、何も覚えられず、習ったことは家に帰ってから、復習して、理解して、覚えますでは、無駄もいいところだ。そもそも、それだけの授業時間に習ったことを覚える為に、また授業と同じ時間をかけようと思っているのだろうか。そんな時間をどうやって捻出する気なのだろうか。むろん、ひねり出せるわけが無い。結局、覚えられずじまいになるのである。

時間は誰にでも平等に与えられている。勉強に使える時間は、誰しも大差ない。それなのに、出来る子とできない子に分かれてしまう。人はそれを、頭の善し悪しのせいにしたり、家庭での勉強量の差のせいにしたりする。けれども、成績の良い子の話を良く聞いてみると、案外、勉強時間が少ない。まるで勉強していないこともあるほどだ。それでは、ものすごく頭が良いかというと、そうでもない。成績の悪い子との一番の違いは、授業中の集中度にある。成績の良い子は、必ず授業に集中している。その時間に目一杯集中して、授業時間を無駄にしない。極端な話、授業中に理解し覚えてしまえば、家庭で勉強する必要は無い。その時間を部活にでも趣味にでも費やせる。もちろん、授業中ですべてが覚えられるわけではないから、家庭で、軽く復習し、授業を思い出して、知識を整理し、覚えきれなかったところを補充したり、問題を解いたりする必要はあるし、宿題もやらなければならない。だが、授業中に何も覚えていない生徒に比べれば、家庭でしなければならない作業量は圧倒的に少ない。授業中に理解し覚えてしまった量が多ければ多いほど、後でやらなければいけない勉強量は減る。そうして浮いた時間を問題演習や参考書で知識を深める作業にまわすことが出来る。そうすれば、授業で習ったことをまた一から家庭で覚え直している生徒との差はどんどん広がるし、成績もどんどん上がっていく。

授業中に習ったことは、授業中に覚えてしまおうと、本気で思って授業を受けているかどうか。そう思っていれば、授業の受け方は自然と変わっていく。ノートの取り方や話の聞き方、質問の仕方まで変わっていく。どうすれば、授業中に覚えてしまえるかを考えて、工夫するからだ。それこそが、成績を上げていく上で重要なポイントなのである。

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学習塾では、生徒にも「新人教育」がある。

塾にとって春先は忙しい。受験を終えた生徒たちを送り出し、新たな生徒を迎える。今年も、新人が入塾してくれた。

企業が新人教育を実施するように、塾では生徒の新人教育が必要である。授業の受け方、ノートのとり方、宿題のやり方等など、基本的な学習の進め方が全くできていないからだ。塾には初めて通うにしても、既に学校に通っているのだから、そんなことはないだろうと思われる方も多いと思うが、小中学校できちんと勉強の方法論を教えている先生は滅多にいない。そのうえ、後述するように、子供たち自身に、勉強はやり方が重要だという認識がないから、先生がそれを話していても、きちんと身に付けていないのである。

新人教育は、中学1年生や(中学受験生は事情が異なるが)小学生であれば、焦る必要はない。ゆっくりとやり方に習熟してもらうだけの時間がある。けれども、受験学年はそうはいかない。中学3年生になって初めて塾にやってきたような生徒には、出来るだけ早く方法論を身につけてもらう必要がある。それだけで効率が全く違うからだ。いきおい口うるさくなる。その結果嫌われてしまうこともある。

けれども、考えてみて欲しい、なんで塾に来たのかを。勉強ができないからきたのではないか。何をどう勉強したら良いか分からないからではないか。あるいは、効率よく勉強しようと思ったからではないのか。だったら、学ぶべきは、問題の解き方だけではないはずだ。学習そのものの方法論、心構えから学ぶべきである。

勉強ができないのは、頭が悪いからではない。やり方が悪いからだということは、前にも書いた。逆に言えば、正しいやり方さえ身につけてしまえば自然と出来るようになってしまうということだ。だから、教科内容自体よりも、方法論の方がずっと重要だと言える。けれども、授業中に、この方法論を述べても、それをメモする生徒はほぼ皆無である。それは、余談か雑談の類いと思っている。

だが、それも分かる。かく言う筆者も、子供の頃はそうだった。ノートというのは、問題の答えを書く物と思っていた。ページと問題番号を書き、式を書き、計算を書き、解答を書く。そして、丸を付ける。問題の合間に、板書を写す。それだけだった。けれども、成長するうちに、なんとなく、先生の言ったことをメモするようになった。初めは欄外にくちゃくちゃっと書いていたが、やがて、大きくスペースを割いて書くようになった。

勉強が難しくなり始めたことで、板書を写しただけでは、あとで分からなくなりそうな気がしたこともある。だが、最大の理由は、病気で学校を休んだあと、友人にノートを借りたことがきっかけだった。貸してくれたその友人のノートは、実に分かりやすくまとめられていた。板書だけでなく、先生の言った言葉が、板書の合間に挿入されていた。ついでに本人の感想まで書いてあった。それが実に分かりやすいのである。「ふーん、ノートってのはこういう風に取るものなのか」と感心した。それから、彼をまねてノートを取るようになったのである。そうしているうちに、自分の解答なんぞより、教師の言葉の方がずっと重要じゃないかと気がついたわけである。自分の解答は大きく見栄えよく書いてあるのに、先生の言葉がくちゃくちゃでは役に立たない。特に正解した問題なんて、二度と勉強しない。出来なかった問題と、その解法、とくに教師がここを気をつけろと言ったその言葉こそ、試験勉強の際に必要になるものだった。

だから、ベリタスの授業においては、何をどうノートに取るかは、かなりしつこく指導する。特に出来なかったり勘違いしていたところは、きちんとノートに書き込んだか、チェックしている。たいてい新人君は、そういうところをスルーしてしまう。そこで、いちいち「これメモして」と言わなければならない。すると、そんなの分かっているよという顔をされたりする。分かっていたら間違えてはいけない。間違えたってことは、ちゃんと分かっていないか、そこに自分がミスを犯しやすい何かが潜んでいるということだ。自分がいかなる時にいかなるミスを犯すかを自覚しないことには、ミスは減らせない。これは、ついこの間のエントリーにも書いた。だから、ミスを犯したところには、必ず何らかの書き込みをしておく必要がある。あとでノートを見た時に、ここでこんなミスをやらかした。理由はこうだと分かるようにしておかなければならない。上述のノートを貸してくれた友人は、そういうところに「またやっちまった!」というような感想を書き込んだり、読み落とした問題文の一節を書き込んだりしていた。流石である。

ノートは解答を書き込む物と心得ていると、生徒は解答しか書き込まない。空欄穴埋め問題では、空欄に入る言葉しか書かない。しかし、これでは、あまり勉強にならない。たとえば、ことわざの問題で「犬も歩けば□に当たる」が出来なかったとしよう。まぁ、これが出来ない子はあまりいないけれど。□に入る答は「棒」だ。だから、出来なかった場合、ノートに赤で「棒」と書く。それでは、「犬も歩けば棒に当たる」という言葉を覚えたことにはならない。「犬」の方を空欄にした問題には対処できないかもしれない。だから、きちんと全部書く方が良い。問題「を」勉強するのではない。問題「で」勉強するという意識を持つことが大事である。

英語だってそうだ。問題文全体を毎回書いている子と空欄に入る単語しか書かない子とで、三年間でどれだけの差がつくか考えてみると良い。書いた英語の量だけとっても、後者は前者の1割にも満たないことだろう。英語を書き慣れていれば、速くきれいに書けるが、書き慣れなければ、いつまでもスピードがつかない。入試は、時間勝負だから、遅ければ遅いほど不利である。たとえ、受験勉強でスピードをつけようとしたとしても、三年間かけて磨かれたスピードに直前の猛勉強だけで追いつくのは不可能だと言っていい。

英語では、驚くべきことには、問題文の意味を把握しないまま解答している生徒がざらにいる。その証拠に、正解した問題にも関わらず、訳させてみると訳せないことがしょっちゅうある。もちろん、わからない単語があっても正解できる問題もある。前後関係から類推するのも学力である。だから、そのこと自体を責めているのではない。問題なのは、訳せないにも関わらず、質問しないことだ。単語がわからないなら、訳させられなくても、その意味を尋ねるべきだし、わからない単語がないのに文の意味がよくわからなければ、この文はどういう意味か、なぜそういう意味になるのか、イディオムを知らないからか、構文が分かっていないからか、原因を探り出さないといけない。そうしなければ、次に同じような問題が出た時には対処できない可能性がある。けれども、自分が正解すると、それでOKにしてしまって、それ以上を学ぼうとしない。それでも平気でいられるのが不思議である。

だから、筆者は、授業中、いちいち訳させる。時間があれば、訳せて当然の簡単な文だって訳させる。訳す回数が多ければ多いほど、正確な訳が迅速に出来るようになるからだ。生徒が一人なら、全部の問題を一人で訳すことになるから、かなり力がつくこと請け合いだ。けれども、極少人数制とはいえ、完全個別ではないベリタスでは、一人に全部の訳が回ってくるわけではない。当然他人が訳しているのを聞くだけになる問題が出る。それを聞いていなかったり、自分で訳せなかった問題であるにもかかわらず何のメモも取っていなかったりする新人君もまたあとを絶たない。とにかく、解く時に自力で訳す。訳が怪しい問題は、印をつけるなり、自分の訳を書いておくなりする。そして、他人がその問題を訳したら、それを聞いて、書き取ったり、自分の訳を修正したりする。どうしてそういう訳になるか分からなければ、教師に質問をする。その場で質問すれば良い。教師は、そういう質問をいつも待っている。もちろん、こちらとてプロである。生徒がどこを間違えやすいかは百も承知である。したがって、質問されなくたって、先回りして解説してやったり、重要事項として知識を整理して板書したりしてもやる。けれど、本当に身に付くのは、自分から質問して、それに答えてもらった時なのである。そういう時、教師の解説は、その生徒にとってオーダーメードの解説になるのである。質問する前に解説してもらったら、それは既製服と同じ。誰にでもだいたい合うけれど、ぴったりではない。どうせなら、ぴったり合う服の方が良いだろう。服と違って、値段は変わらないのだから。

こういう問題の解き方、質問の仕方とタイミング、これらも、重要な新人教育である。それらを通して、極少人数制のクラスにチームワークを醸していくのが、この時期の教師の重要な仕事である。先に通っている生徒と新しく通い始めた生徒が、お互いのミスを、自分の物として共有し、糧にしていけるよう、笑っても馬鹿にしない、無視せず共感できる。そういう雰囲気を作っていかなくてはならない。

けれども、他人の失敗に我関せず、我が失敗は他人の為にせずというかのように、他の生徒への説明に耳を傾けず、自分が聞きたいことだけ聞いて、教師が説明したいことに耳を貸さないような生徒もまた多い。どのように授業を聴いたら、より多くを得ることが出来るか、教えていくのも新人教育である。

春期講習から、あるいは4月の新学期から二ヵ月ほどかけて、授業の中で折に触れて、学習の方法論を語ってきた。これからも、もちろん語り続けはするが、新人諸君も、ベリタスでの授業の進め方や家庭での学習のやり方は、ほぼ理解できたことと思う。これからは、その方法できちんと学習をこなしていって欲しい。正しいやり方を継続すれば、必ず結果はついてくるのだ。

<原町田教室>

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「詳しくはウェッブへ」なら、授業も15秒で終わるかも(笑)

先日の小学生の国語の授業中のこと。

「先生、『喜怒哀楽』って何ですか?」
「うん、『喜』は …(中略)… つまり、人間の感情とか気持ちってことだね。」
「それなら、『気持ち』って書けばいいのに。」
「そうだな。でも、いつも『気持ち』って書いてたらつまんないだろ。文章に深みも出ないし。」
「読めなきゃもっとつまんないよ。」
「そうだよな。だから、今、勉強してるんだよ。勉強は人生を楽しむためにあるんだ。あ、そういえば、これ、こないだブログに書いたんだ。『詳しくは、ウエッブへ』」
「ハハハ(^^; 」
「これ、いいなぁ。『詳しくは、ウェッブへ』って言えば、授業は15秒で終わるね。」

と、こんな冗談をいいながら、授業を進めつつ、考えた。

最近のテレビ・コマーシャル(以下、CM)には、この台詞『詳しくは、ウエッブへ』が多用されている。CMひとつの放映時間は、だいたい15秒だが、それでは、語りきれない内容を、ワールドワイドウェッブ(いわゆるインターネット)上に置いて、そちらを参照してもらうことで伝えようとするのだろう。だが、15秒で伝えたいことを伝えきるというのが、CM制作者の腕の見せ所だったのではないか。それを語り尽くせないからといって、さっさとウェッブへ逃げ込むのは、いかがなものか。制作者の腕の未熟を露呈しているような気がする。

教師も同じである。一コマの授業時間の中に、前週の確認と復習、宿題のチェックと解説、漢字や計算、単語などの小テスト、今週の単元の説明、問題演習とその解説、弱点の発見と補強などを要領よくおさめて、時間ぴったりに終わらせる。その日の生徒の状況に合わせて、どの部分を厚くするか、どこをはしょるか、考えながら、アクセントを付けて進行する。もちろん、生徒が飽きないように、途中に雑談やら冗談やらを挟むのも忘れてはならない。

当然、うまくいく日もあれば、うまくいかない日もある。生徒が遅刻してくれば、延長してやることもある。宿題をやってなければ、それが特に重要なときは、教室でやらせることもあるから、そこに時間を取られる分、どこかをはしょったり、予定していた進度を諦めることもある。やってない宿題は、次週に持ち越しにして今週の分と合わせて2倍の量を課すこともある。でも、全てをこなして、時間ぴったりに終わったときは、えも言われぬ満足感があるものだ。

授業は、生徒にとって、より良いのはどちらかという選択の連続である。この単元をもう一時間やって完璧にする方がいいのか、それとも、進度を確保した方がいいのか。また、やってこなかった宿題は、今やらせるべきか、次週に持ち越すべきか。頻出の重要単元であれば、「完璧にする」や「今やらせる」を選択するし、あまり出題されない単元では、「進度確保」「次週持ち越し」となる。けれども、出題されなくても、重要単元の理解に不可欠な基礎部分であれば、時間をかけようという時もあるし、弱点を引きずっている部分や苦手意識のある部分だったら、今解決しておこうとなる時もある。それは、そのときの生徒の状況次第で対応が変わっていくものである。たとえるなら、授業は、映画ではなくライブなのである。どの上映もみな同じものが流れるのではなく、お客の「ノリ」によって内容が変化するのである。

インターネットの既存メディアに対する優位性は、その双方向性にあるといわれる。いわゆるインタラクティブというやつだ。このブログでも、我々が発信すると、読者がコメントをつけられて、それに再びこちらが返信するという形で公開対話が出来るようになっている。それで議論が沸騰するのが「ブログ炎上」という現象だ。また、トラックバックという機能で引用し引用されるということもできる。CMが一方的な情報発信なのに対して、ウェッブへ誘導することで双方向性を確保できるわけだ。CMを流す企業は、消費者の意見を汲み取ろうとしているのかもしれない。

だが、ここは、授業と大きく違う。もともとインタラクティブ(interactive)という言葉は、教授法などが対話式であることを表す形容詞である。そもそも授業こそがインタラクティブの元祖だと言っていい。だから、授業が『詳しくは、ウェッブへ』では本末転倒なのである。授業には、ネットでは不可避のタイムラグがない。即時に情報交換が行われる。発信側にフィードバックされる情報は、ネットでは、テキストのみだが、授業では、生徒の表情や仕草、発言、ノートなど、多角的だ。ネットは、フィードバックに対して即時にコンテンツを修正できないが、授業はすぐ対応できる。授業では、教師と生徒がともに学び、問題点を発見し、ともに成長する。その双方向性は、インターネットなぞ足下にも及ばない。というわけだから、授業を15秒で済ますというわけにはいかないことは明らかだ。誠に残念ながら(笑)筆者はこれからも、ライブの授業を時間一杯続けていく。楽は出来ないが、リアルなライブは楽しいものである。

昨今はインターネットを利用した学習教材や授業システムの開発・販売が盛んになっている。そのどれもが双方向性を売り文句にしているように見える。居ながらにして、便利に、楽に授業を受けられるとも言う。ネットを利用するのはスタイリッシュでもあるかもしれない。だが、「学問に王道なし」である。楽に便利にお手軽に学んで得られるものは少ない。昔ながらのインタラクティブな授業、生徒と教師がお互いに見合って対話を重ねる授業が、最も効果的だと思うのである。

<原町田教室>


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個別対応グループ授業にチームワークの考え方を導入してみた。

塾ベリタスは、ごく少人数のグループ授業をその特徴としているから、集団授業であっても、一人一人の進度に合わせて授業を進めることができる。したがって、よくわからないのに、先に進まれるとか、休んだところが、すっぽり抜け落ちるというようなことは、避けることができる。しかし、年間の授業時間数は限られているので、遅れている生徒や休みがちな生徒は、どこかを端折らなければ、年間のスケジュールをこなすことはできなくなる。もちろん、生徒によって、目指すレベルは違っており、全員が100%やらなければならないわけではない。偏差値50未満の生徒であれば、まずは、50を超えることが目標で、その為に必要な内容は端折れないが、それを超える内容については割愛することができる。逆に、偏差値65を超えるような生徒であれば、学校で教わる程度の基本事項は、問題なくクリアしているので、基本事項を端折って、応用レベルを網羅するような形で帳尻を合わせることになる。


ただ、それでも問題はある。一人一人に合わせてもらえるので、安心してしまい、甘えが出てくるのである。宿題をやっていなくても、塾でやらせてもらえるからいいやとか、全体説明は聞いていなくても、あとで個人的に教えてもらえるからいいやとかと思っている節が見えることがある。前述のように、こちらとしては、その子に必要なレベルで、全単元を網羅するべく工夫を凝らしているが、それでは、結局、基礎レベルの子は、基本事項については重点的にやってもらえるが、それ以上には進めないし、応用レベルの子は、逆に、基礎の反復練習が不足して、やはり伸びきれないということになりかねない。集団授業の中で個別的な対応を行うことで、全員に最高の伸びを達成するという理想は、これでは達成が難しくなる。


そこで、筆者は、今年から、実験的であるが、チームワークの考え方を授業に導入している。授業の中で、先生に一人一人個別に見てもらえるという点は、そのまま維持しながら、クラスメイトへも目を配ってもらい、一緒に伸びていくという気持ちを持ってもらおうというものだ。まず、全体の進度を合わせて、その進度内で、各人が達成すべきレベルを設定する。それを超えるレベルについては、オプションとして、一緒に講義を聴いてもらう。オプション部分については、分かっても分からなくてもいいという程度でかまわないが、自分には関係ないと思わないで聞いてもらい、ノートも取ってもらう。目標レベルまでは、きちんと分かってもらうのは言うまでもないが、その先にどんな内容があるのかを感じてもらい、そのレベルで戦っている仲間がいることを刺激にして欲しいのだ。そのうえで、同じ目標に向かって進んでいる意識を持ってもらおうというわけだ。


ある部分が分からなくて立ち往生している生徒がいたら、場合によっては、その部分ができている生徒に説明してもらうようにすることもある。生徒同士が助け合う機会を作り、それで成績が上がれば、一緒に喜ぶ雰囲気を作る。また、宿題を忘れれば、その分、全体の進度に影響が出ることを理解させて、他の生徒に迷惑をかけないように、ちゃんと宿題をやろうと自然に思うよう、仕向けている。


チームワークは、仲間への信頼によって作られる。信頼は、おのおのが責任を果たすことから生まれる。野球であれば、投手は、野手が必ず点を取ってくれると信じるからこそ、無失点で押さえようと頑張るし、必ずバックアップの選手が来ていると信じられるから、思い切ってボールへ飛び込んでいけるのだと思う。これを、教室での学習に当てはめれば、みんなが宿題をやってくるから、自分もやっていこうと思うし、あいつだったら、これくらいの問題は出来だろうと思うから、自分もできるようになろうと思うのではないか。


そんなわけで、まだ実験段階なのだが、個人個人に合わせた授業を展開しつつ、生徒同士のチームワークを作り上げることで、より良い授業にならないかと、試行錯誤を繰り返しているのである。


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日本人は、授業中にもっと質問した方がいいと思う。

どうも日本人は、あまり授業中に質問しないらしい。概して、西洋人は、わからないことがあったら、質問するべきだと考えていると言われる。あちらの学校の通信簿にも、そういったことがよく書かれる。


授業中に質問するというのは、その授業を自分のものにするということである。自分の為の授業にするということだ。授業というものは、クラス全体に向かって行われるから、全体の平均的な理解度を想定して、そこへ向けて行われる。これは、言ってみれば、既製服と同じだ。平均的な体型の人を想定して作られ、だいたい、誰が着ても無難な見栄えになるよう計算されている。これに対して、授業中に質問するというのは、オーダーメイドの服を作るということに他ならない。自分の体の寸法に合わせて服をこしらえてもらうように、自分の理解度に合わせて、授業をあつらえるのが、質問という行為だと言えよう。


質問をすることで、自分がどのくらい理解していて、なにがわからないかを教師に伝える。すると、教師から、自分の為に答えが返ってくる。その瞬間、授業は自分の為だけのものになっている。もちろん、教師は、質問者の為だけを思っているわけではなく、そういう質問が出るということは、同じようにわからない生徒が他にもいるに違いないと考えて、クラス全体に聞かせるべく、答えているのだが、それは質問者にとっては、どちらでもいいことだ。大事なのは、自分の疑問を解消することにある。授業中に教師の説明がよくわからなかったら、質問しなければいけない。よくわからないまま、その先の説明を聞いても、わかるはずがないからだ。


「質問をするのが恥ずかしい」とか、「馬鹿がばれてかっこわるい」とか言う生徒もいるが、どうせ、クラスメイトも教師も、誰がどのくらいできるかは先刻ご承知だ。今更かっこわるいなんて言っても始まらない。それよりも、これまで授業に積極的でなかった君が、突然、授業中に質問を連発しだしたら、「やる気が出てきた」「このごろ頑張っている」というプラスの評価の方が大きくなるに決まっている。


「あまりにも初歩的な質問で、今更聞けない」「こんな質問をしてもいいものか」と悩むということもある。はては「授業の進行の邪魔ではないか」と気をつかう生徒もいる。だが、授業は、ライブである。演奏会が、演奏者だけではなく、聴衆とともに作り上げられるものだとは、よく言われることだ。すばらしい聴衆の反応が、演奏をよりすばらしいものにするのである。授業も、それと同じだ。生徒の反応もまた、授業を作る要素なのである。生徒からの質問が、授業をより深く展開させるのである。もちろん、そうでない時もあるが、そこは、教師側の責任だ。うまく捌いてこそ、教師だろう。ここは、生徒が遠慮するべき場面ではない。生徒は、既に完成されているCDを聞いているわけではない。目の前で演奏されるライブの聴衆なのだ。CDの演奏は、いくら手を叩いても変化しないが、ライブは客のノリによって変わるのである。


ところで、他の生徒の質問に答える教師の言葉を、自分には関係ないと聞き流してしまう生徒がいる。一人の質問への説明であっても、教師にしてみれば、全体へ聞かせようと思って話している内容がある。あるいは、その質問から、今まで触れていなかった内容が引き出されることもある。その質問のおかげで自分の誤解に気づかされることだってある。だから、他の生徒が質問した時だって、ちゃんと聞いていないといけない。そこから、新たな疑問がわいて、今度は自分が質問に回るかもしれないのだ。そういう授業になれば、それは、生徒にとっても教師にとっても、楽しく素晴らしい授業になるだろう。


ベリタスは、ごく少人数グループで授業を行っている。教師は、オーダーメイドの授業を心がけているし、生徒も質問しやすい雰囲気だから、心配はあまりない。こじんまりとしたライブハウスでのコンサートみたいなものだ。生徒たちと一体感のある授業ができていると思う。だが、学校の授業となると、生徒たちは、滅多に質問しないようなのだ。すでに、夏休みに入ってしまったが、2学期からは、学校の授業中も、わからないことがあれば、手を挙げて、どしどし質問するように心がけて欲しいと思う。


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「なにこれ」が「なるほど」に変わるというのが、わかるということ。

「わかる」ということは一大エンターテインメントである。表題にある「なにこれ」から現在放送中のテレビ番組の「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)を連想される方は多いだろう。同様に、かつて「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)という番組もあった。どちらも、「ナニコレ?」と不思議がらせ「なるほど!」と納得させることで、番組が成り立っている。「ナニコレ?」とフラストレーションを溜めさせておいて、「なるほど!」というカタルシスを与えるのである。だから、誰もがおもしろがる。「わかる」ということは、本来そういう楽しい作業なのである。


ところが、話が勉強となると誰もが楽しくなくなってしまうのだから不思議だ。それこそ「ナニコレ?」である。


おもうに、勉強が楽しくない理由は、2つある。一つは、わからないからである。頭の中を?が飛び交うばかりで、いっこうに解決が与えられないでは、フラストレーションばかりを溜め込むことになる。これは、かなりつらい。だが、筆者のように、教えることを生業にするものにとっては、わからせること自体は、それほど難しいことではない。一つの問題について、複数の解決方法を知っているし、その一つ一つの解決方法について、何通りもの教え方をもっている。ちょっと自慢が入っているが(笑)こう言ってわからなければ、こういう言い方もあると、いくつもの説明方法をもっているし、生徒の理解力、予備知識、興味の範囲などを把握して、大手門から攻め込んだり、搦手から攻めたりと、手練手管を弄することができる。


だが、「なにこれ?」とも思わない生徒には、苦戦を強いられる。そもそも解決への欲求がないのだから、フラストレーションを溜め込むこともない。よって、いくら解決手段を示してもカタルシスには至らない。わかりたいという欲求がわかないのは、興味を持っていないからである。興味がないところに、いくら解法を押し付けたところで楽しくなるわけがないのである。これは強敵である。そして、近頃は、そんな強敵が増えてきたと思う。先日、小学校時代のクラス会があったのだが、学校の先生をしている旧友も同様の感想を持っているようだった。


どうして興味を持たないのか。これは、子供たちが恵まれすぎているせいではないかと思う。衣食住に困ることもない。必要以上に面倒を見てもらえる。生活に不足を感じることもなければ、これ以上を求めることもない。だから、こうしたいとか、こうなりたいという気持ちもわかない。現状に満足しきっている。そういう状況で育てられているゆえに、外部への興味を持てないでいるのではなかろうか。


では、どうしたらいいのか。自分が暮らす狭い世界の中で満足しきっている彼らの目を、まず、外へ向けさせることが第一歩ではなかろうか。外には、広い世界が待っているのだと、外への興味を誘うこと。それには、現物に触れさせることが一番だろう。バーチャルではない本物だけが持つ無言の迫力が、彼らの目を見開かせよう。


たとえば、縄文時代の話を授業で聴いたり、資料集で見たりするのと、実際に出土した縄文土器をその目で見たり触ったりするのとでは、大きな違いがある。実物を見たり触ったりするだけでは、学習にはならないけれど、授業や資料集で学ぶ際に実物を知っているのといないのでは、興味の度合いが違う。理解や記憶の響き方も違ってくる。

だから、原町田教室では、縄文土器の破片や昆虫標本、採集用具などの実物を、授業の際に見せたり触らせたりという工夫をしている。しかし、見せられるよりも、見に行く方が、より強く心に残るのは疑いない。いよいよ夏休みである。明日からベリタスは夏期講習に入るが、講習の合間には、ぜひ、本物に触れる機会を持って欲しいと願っている。

もちろん、我々は、「なにこれ?」が「なるほど!」に変わる、楽しい授業を展開しようと準備している。その瞬間の子供たちの表情の変化は、教える者にとって、何物にも代え難いよろこびなのである。



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「きちんと」ノートを取れていますか?「きちんと」ノートを取れれば、必ず結果はついてくるのだと改めて生徒に教えられました。

一緒に入塾したA君とB君のことなのだが、ノートの取り方がだいぶ違う。A君は、答えだけをノートに書き留めるスタイル。板書も書きなさいと言わないと書き写さない。数学では、図を書かない。途中式も省略する。よって、教師がノートを見ても、どこで間違えたのか、何がよくわかっていないのか、何の情報も得られない。これに対して、B君は、対照的で、丁寧すぎるくらい。書けと言わなくても、板書は漏らさず写しているし、途中式もきちんと書いてある。だから、教師がノートを一瞥すると、何が分かっていないのかすぐ分かる。そこで、それを指摘してやると、口頭で言っただけでも、すかさずメモしている。

英語についても同様で、A君は、問題文は写さず、答えをノートに書くだけ。B君は、問題文を写し、訳までつけて、答えを書いている。教師が、同意表現や反意表現をついでに教えたり、重要なタームを板書したりすると、きちんとメモを取っている。A君は、答えがあっていても分かってないということが起きるのに対し、B君は、答えが間違っていても、授業を受けて分かるようになっている。

入塾したときは、ふたりとも、同じくらいの成績で、ややA君の方ができるなぁという印象だったのだが、ここにきて成績が逆転しだした。入塾後、まずA君の成績が順調に伸び始めたのだが、最近それが頭打ちになってきた。B君の成績は、なかなか伸び始めなかったのだが、ここにきてぐんと伸びてきて、ついに逆転ということになった。正直に言えば、理解力は、A君の方があると思う。だからこそ、途中式を飛ばしても答えに到達できるとも言える。吸収も早い。だが、それが災いしている。できるからいい。答えが合っていれば良い。そういう姿勢で、勉強していては、やはり、なかなか伸びていかない。テストなら、答えさえあっていれば、後はどうでも良いと言えるかもしれないが、勉強としては、そうは言えない。答えに至る筋道や、周辺事項、関連事項まで、よく理解する必要があるからだ。同工異曲の問題なら対応できても、ひねられた問題になると、思考の筋道や周辺事項とのつながりへの理解の有無がものを言ってくる。1問の問題を解かせることで、様々なバリエーションへ対応する力をつけてやろうと、教師は、関連事項との相違点など理解を深めるための話を一緒にしているわけだが、A君は、聞き流してしまい、B君は、すかさずメモしている。授業でのスピードは、そのため、B君の方が遅れ気味になるけれど、結果として多くを身につけているのもB君なのだ。

子供たちは、何が分かっていて、何が分かっていないのか、自分ではよくわかっていないものだ。結局、問題の答えが合っていればよし。あってなければだめ。という判断基準しか持っていないのかもしれない。だから、教師は、問題を通して、知るべき中身、分かるべき内容を伝えている。生徒が、何を覚えていなくて、何を理解していないのか、指摘もしている。だが、これらを聞き流されているのに、放置していては何にもならない。(もちろん、A君には、ノートの取り方や、何はメモしておけとか、これは書き込んでおけとか、いちいち指摘もしているし、間違えた問題の解き方も聞き出して理解していない部分の洗い出しもしているけれど )授業の受け方、ノートの取り方一つでも、結果に違いが出てくること。「きちんと」授業を受け、「きちんと」ノートを取るということが、どういうことなのか、改めて伝えていかねばならない。そんなことを今日は考えさせられた。

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