なるほどの素

小中高校生のみなさんがよく理解できていないこと、今更質問しにくいことをいろいろな角度からまとめてあります。 若い教育者の方々の参考になればとも考えています。

歴史

幻の都、恭仁京跡を訪れる

奈良時代というと都は奈良(平城京)にあったはずなのですが、
聖武天皇は5年の間に都を転々と移しています。

740年10月末、聖武天皇は平城京から東国の伊賀・伊勢に出かけ、
さらに美濃から近江に回った後、山城の国(現在の京都府)の
恭仁郷に来て、ここに都を造り始めた。
ところが、都が未完成のまま、744年2月に難波宮(現在の大阪府)
に移り、さらに745年2月には紫香楽宮(現在の滋賀県)に
移っています。
紫香楽宮にはごく短期間だけの幻の都となり、745年5月には
平城京に戻っています。

まるで何かに追われるかのように、転々とした理由ははっきりとは
していません。
740年に藤原広嗣が九州の大宰府で反乱を起こした時期とちょうど
重なることから、藤原広嗣が平城京に攻めてくることを恐れたと
いう説があります。しかし、藤原広嗣が捕らえられ処刑された後も
遷都を繰り返していることから別の理由が考えられます。
唐の制度にならって複都制を取り入れようとしたという説もあります。
恭仁京と紫香楽宮は同時に造営していることから、複数の都に
それぞれの役割を持たそうとしたことも考えられます。

さて、今回は京都府木津川市に残る恭仁京跡を訪れてみました。
JR大和路線の加茂(かも)駅の少し北側に木津川が流れています。
恭仁大橋を渡り北西の方角にさらに進むと木津川市立恭仁小学校の
校舎が見えてきます。その近辺が恭仁京跡です。

加茂(かも)駅から恭仁京跡までは歩いて約30分です。

恭仁京の地はその後、山城国分寺が造られ、その礎石が発掘されて
います。


「恭仁京大極殿跡」

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「山城国分寺址」
国分寺


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◆「海住山寺(かいじゅうせんじ)」
 恭仁京跡がある辺りからさらに30分あまり北の方向に歩くと
 山の中腹に海住山寺という真言宗智山派の寺院があります。
 国宝の五重塔があり、恭仁京跡まで来たらぜひとも足をのばして
 訪れておきたい所です。

「海住山寺」

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「海住山寺・五重塔(国宝)」
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【アクセス】
恭仁京跡や海住山寺へはJR大和路線・加茂駅が最寄りの駅になります。
午前中と夜は1時間に2本ですが、午後は1時間に1本とやや不便な所です。

加茂駅~恭仁京跡は約2km。
加茂駅~海住山寺は約4km。

舗装道路で車でも行くことができます。



【ハイキング】🐾🐾🐾
海住山寺の北側には三上山(さんじょうやま)があり、
海住山寺に寄ってから山道で三上山に登るハイカーも少なくありません。

三上山から西に下山してJR奈良線の棚倉駅に抜ける道もあります。


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【参考図書】
 小笠原好彦「聖武天皇が造った都」(吉川弘文館)他

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藤原定家ゆかりの京都嵯峨野・常寂光寺を訪れる

藤原定家は百人一首の撰者、あるいは「新古今和歌集」の撰者の一人として知られている。
同時に私的な日記である「明月記」の作者であることも忘れてはならない。
ただ、素人が「明月記」を読むのは難しいので、解説書で垣間見るといいでしょう。

【参考図書】
「藤原定家『明月記』の世界」(村井康彦)
岩波新書
定価=880円+税


藤原定家は平安時代末期から鎌倉時代初め(1162~1241年)の歌人。

同時代の鴨長明(1155~1216年)は少し年上ということになります。
平家が滅び、鎌倉幕府の時代へと政権が変わっただけでなく、
「方丈記」に見られるように、大きな災害が続き、人々が不安な
生活をした時期でもあります。

1177年安元の大火
1180年治承の竜巻
1181~82年養和の飢饉
1185年に京都に大きな被害が出た大地震(元暦の地震)

また、明月記を書き始めた前後からの出来事を見てみると;
1177年 鹿ヶ谷事件 平氏打倒の動き
1180年 以仁王・源頼政が反平氏の挙兵
    源頼朝・義仲ら挙兵
    平清盛が福原に遷都
1183年 吉仲が京に入る
1185年 壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶ
1192年 源頼朝が征夷大将軍になる
1213年 和田義盛の欄
1219年 源実朝が殺される
1221年 承久の乱が起こり、後鳥羽上皇が隠岐に流される
 
源氏と平氏の戦いがり、その後も北条氏と御家人の争いがあるなど、
騒然とした世の中で、定家は要領よく生き抜いたとも考えられます。

この大混乱の時代に定家は「紅旗征戎非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」
と、世の中が騒然とする戦のことは自分には関わりのないことだという生き方をします。
そして、末っ子の為家には親馬鹿にさらに形容詞を付けてもいいほど可愛がる様子が見られます。
また、かなり“自己中”な性格も見られます。

そんな定家の人物像を「明月記」を通して調べてみるのもおもしろいのではないでしょうか。

定家による自筆原本の「明月記」は子孫の冷泉家に伝わり、国宝に指定されている。
1180~1235年の56年間にわたって書かれた私的な日記とはいっても自分のためのダイアリーではなく、儀式の様式を子孫に正確に伝える目的が強かったとも考えられる。
実際、定家自身は権中納言だったのに対し、息子の為家は権大納言、孫の為氏は大納言と官位が高くなっている。

「明月記」には珍しい天体現象も記録されていて、天文学でも重要な資料とされている。
特に1054年の「客星」はかに座の超新星とされているが、定家が生まれる前の天体現象にもかかわらず、記録が残っているのは、天体の異常な現象は不吉な出来事の前兆と考えられていたからと考えられる。
また、1204年の「赤気」は後の研究で京都でオーロラの現象が見られたとされている。

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今回は定家が百人一首の編纂をしたとされている「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」を訪ねてみました。
渡月橋から嵐電・嵐山駅付近は観光客でにぎわう喧騒を残し、
嵐山公園からJR山陰本線を越えて北に進むと、二尊院や落柿舎がある
静かなたたずまいの地域に出ます。この嵯峨野の一画に常寂光寺があります。


「常寂光寺・山門」

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「常寂光寺・境内」
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「小倉百人一首編纂之地」の石碑
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「常寂光寺・多宝塔」
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「常寂光寺・時雨亭跡」

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笠置山と元弘の変

今回は1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府側と戦った笠置山(かさぎやま)を訪れてみましょう。

1331年から1333年に建武政権の樹立されるまでの一連の全国的な内乱を「元弘の乱」と呼び、「元弘の変」も同じ意味に使うことも多いが、ここでは1331年の笠置山の戦いを中心に紹介します。

文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位した後、天皇は父の後宇多天皇の政治路線をさらに朝廷への中央集権化を進めた。
正中元年(1324年)、鎌倉幕府打倒を計画したという疑いで後醍醐天皇は六波羅探題によって捕縛された。これが正中の変(しょうちゅうのへん)。このとき、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。
その後の1331年、密告によって後醍醐天皇の倒幕計画が露見するが、天皇は三種の神器を持って笠置山に逃げ、ここで倒幕の挙兵をする。笠置城で1か月ほどは持ちこたえたが、笠置山一帯が焼かれ圧倒的な幕府軍の攻撃に敗北。翌年、後醍醐天皇は隠岐の島に流された。
しかし、1333年に島を抜け出し再度挙兵した天皇に足利尊氏、新田義貞など鎌倉幕府に不満を持つ有力な武士達が天皇方につき、140年以上続いた鎌倉幕府は滅びることになる。

後醍醐天皇(1288~1339年)=第96代天皇(南朝初代天皇)
            在位=1318~1339年
大覚寺統の天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したが、
まもなく建武の乱で足利尊氏に敗れて、吉野に逃げて南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。


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JR笠置駅前にある人形。ちょっと作り物っぽいですが、元弘の変で天皇方の弓で戦う武将は足助重範と巨岩を敵に投げつけようとしている般若寺の怪力僧・本性房のイメージを表すモニュメント。
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「笠置寺」ここから入ります。

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「弥勒石」
 元弘の変の時に表面が焼け落ちたと言われています。
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「虚空蔵石」
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笠置山一帯には後期白亜紀にマグマで地下深くで冷えてできた
花崗岩の巨石があちこちに見られます。
地殻変動のすごさを感じさせられます。
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笠置山から木津川を見下ろす眺め
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「笠置山」(標高288m)
  京都府の南端、現在の京都府相楽郡笠置町
  最寄駅=JR関西本線の笠置駅
  JR大和路線の加茂駅の次の駅だが、まだ電化されておらず、
  ディーゼルカーが走る単線で昼間は1時間に1本だけの運行。
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◆楠木正成の戦い
 笠置山の挙兵に呼応するように楠木正成が河内国
 (現在の大阪府千早赤阪村)下赤坂城で挙兵したが、
 笠置山の戦いで天皇方が敗北した後、下赤坂城も
 敗れるが、楠木正成は逃げその後の戦いに功績を挙げた。

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「吉野山」
  大覚寺統の南朝が拠点とした大和吉野
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「明日香村」を散策

現在の明日香村一帯は、694年持統天皇の時に藤原京(橿原市)に
都が移されるまで、政治の中心地だった所です。
古くは蘇我氏の勢力拠点であり、大化の改新(乙巳の変)など
歴史の重要な舞台でもありました。

明日香一帯も訪れる人は多いのですが、京都市内や奈良市内が訪れる
観光客が多いのに対し、広々としてゆったりとした雰囲気を心行くまで
満喫することができます。

歩いて回るもよし、レンタサイクルで回るもよし。
特に春・秋の晴天の日には爽快な気分になることができます。

「明日香村の段々畑」
石舞台古墳から県道155号に沿って200mほど南東に歩くと分かれ道があり、その辺りから南側に広がる明日香村の段々畑が見渡せます。
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「石舞台古墳」
 蘇我馬子の墓とされる。石室まで入ってみることができます。
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「岡寺」(龍蓋寺・りゅうがいじ)
 石楠花が咲き誇る花の寺としても有名

岡寺

「岡寺・本堂」
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「酒舟石」
SAKAFUNE

「亀形石像物」
KAEMGATA

「飛鳥寺」
飛鳥寺

「首塚」
 
飛鳥寺のすぐ横にある蘇我入鹿の首塚
首塚

「伝飛鳥板蓋宮跡」
板葺

「橘寺」
 聖徳太子(厩戸皇子)が誕生したとされる場所
橘

橘寺

「亀石」
KAME

「天武・持統天皇陵」
 檜隅大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
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「鬼の俎(まないた)」
天武・持統天皇陵から200mほど西に歩いた所の石段を上がると
この「鬼の俎」があります。
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「鬼の雪隠」
 元は「鬼の俎」と同じ場所にあったと考えられます。
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「高松塚古墳」
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「キトラ古墳」
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「キトラ古墳展望台から見る明日香村の眺め」
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「甘樫の丘」
  甘樫丘から西側にある畝傍山を見る風景。
 遠くには二上山も見えます。
 甘樫丘は公園として整備されていて、大和三山や明日香村一帯が
 眺められます。
甘樫

「水落遺跡の礎石」
mizuoti

「飛鳥川」
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「万葉文化館」
 万葉文化館には広い駐車場もあり無料(月曜日以外)で利用できます。
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「天の香具山」
 これは明日香村の北側にある橿原市の藤原京跡から見た
 天の香具山です。
香具山

 
【アクセス】
近鉄電車吉野線の岡寺駅また飛鳥駅が最寄の駅。
橿原神宮前駅から「赤かめ」と呼ばれるバスの便もあります。
キトラ古墳は壷坂山駅が最も近い。


【案内マップの入手先】
「明日香村観光マップ」
http://ai-l.jp/HtAsuka/Asuka/asuka_map14.pdf

●近鉄てくてくまっぷ(奈良-21) 飛鳥コース(1)
(高松塚古墳~石舞台古墳~岡寺)
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara21.pdf 

●近鉄てくてくまっぷ(奈良-22) 飛鳥コース(2)

(甘樫丘~飛鳥寺~板蓋宮跡)
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara22.pdf

【参考図書】
 「古代飛鳥を歩く」(千田稔)中公新書

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「英語対訳で読む日本の歴史」

冒頭の PREFACE(はじめに)の中に;
You can kill two birds with one stone!
日本語では「一冊で二度おいしい」とあります。

日本史と英語の学習を一度にできる確かに “一石二鳥” です。

発行=実業之日本社
定価=本体762円+税


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この本の利点を;
「英語を話す外国の方や日本人の帰国子女には、本書で日本の歴史を学んでもらうことができます。」
としています。
確かに、幼少期から海外で育った子女は日本史を習う機会がほとんどないでしょうし、英語の方が理解しやすい場合も少なくないでしょう。
また、外国の人に英語で日本の歴史を説明するのは意外に難しいものです。
京都・奈良を案内したときにも、英語で説明できると便利でしょう。

ある事項にはかなり詳しく記述がある一方で、行基・菅原道真・大塩平八郎については名前すら出てこない。限られたページ数で日本の歴史すべてをカバーするのは不可能でしょうから、日本史のおおまかな流れをつかむあるいは復習する目的に利用するのがいいかと思われます。

1冊本棚に保管しておいて、あの事件は英語でどう説明すればいいんだろうか思ったときに見直してみるように利用するのもよさそうです。

英文は中学校レベルの英文法で読めるように工夫されてあります。
熟語は高校レベルのものもありますが、その都度覚えていくとよいでしょう。
難しい単語には日本語訳が付いています。

【熟語の例】
 according to
=~によると
 on the other hand =一方で
 be in full flourish = 最も栄えた
   come into power =力をのばした
 give up his seat to =~に位を譲る
 bring about =(戦いなどが)起こる
 keep watch on =~を監視する
 rise in arms =兵を挙げる
 come into question =問題となった
 warts and all = ありのままに
 become at its best = 盛んになる
などなど

「浦島太郎」を英語では "Urashima and the KIngdom Beneath the Sea" としているのはなるほどと思います。日本人ならだれでも知っている物語でも、ただ単に "Urashima Taro" だけではどんな話なのか想像もつかないでしょうから。

もう一つ英語対訳の利点は、読み方が分からなかったり自信がない人名や用語も英語(ローマ字)表記にされているとふりがな同様に読むことができることです。
[例]
天寿国繍帳=Tenjukoku-shucho
太政大臣=Daijou-daijin
清少納言=Sei Shonagon (清/少納言で切れる)
さらに、日本語をそのままローマ字にした部分は斜字体で印刷されています。
そのため、no は英語の "no"  で、no は日本語の"能" だと区別することができます。

Column が3点あって、おもしろい知識が載せられています。
映画やドラマでは戦国時代の武将が立派な馬に乗って登場することがあります。
しかし、もともと日本の馬は高さが約1.2m、5世紀頃に中国から伝わった馬でもせいぜい1.4mくらい。
現在の競走馬に見られるような脚がすらりと長く1.6m以上もあるサラブレッドなどの立派な馬は戦国時代には日本には居なかったのです。

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この本で少し残念なのは、年表や図、写真がまったく無いことです。
人物の関連図や写真などが欲しいなと思う単元もあるのですが、まあペーパーバックでこの価格に抑えるためにはやむをえないところでしょうか。できれば事項・人名のさくいんも欲しいところです。
最近は千円でおつりが来る参考書類はほとんどありませんから。

今回購入した同書は2019年12月の初版第11刷発行。
11回重刷できるということはそれだけ人気がありよく売れているということでしょう。
(英語の誤植で気付いたのは1箇所だけ)


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もう1冊同じように「英語対訳で学ぶ日本の歴史」という本があります。
高校レベルの英語力でより詳しく日本史を学習するにはこの本がお薦めなのですが、残念ながら、こちらは重刷されず現在は販売されていません。
古本で入手するか、蔵書で残してある図書館があれば一読をしてみるといいでしょう。

重刷されなかった一つの理由は、英語の校正が不十分だったようで、つづりのミスが目立ちます。
ただ、主に日本語の固有名詞を英語(ローマ字)表記にするときの間違いがほとんで、大勢に影響はありません。気が付かずに読み飛ばしてしまう程度です。
英語対訳の年表もあって、学習の整理に役立ちます。

bungei



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