2006年01月23日

スネオの夏 5


帰路。足取りはひどく重かった。
とっぷりと日が暮れたころ、ようやくと僕は家に辿り着いた。
窓から洩れる光が、眩しい。
眩しくて、少し目がくらんだ。

スネオの家の暗さを思い出した。
彼の、真っ黒に落ち窪んだ目を、思い出した。

暗澹とした気分が僕を包む。

「ただいま……」

ふすまをガラリと開けると、そこにはドラエもんがいた。
珍しい。あの日からというもの、ご飯を食べる時と
必要に駆られて外出する時以外は、ほとんど押入れの中にいたドラエもんが。

何より僕を驚かせたのは、ただそこにいるだけではなく、ひどく機嫌が良さそうだったからだ。

「おかえり」

にこにこと笑って僕を出迎えてくれる。
彼の笑顔を見たのも、やはり2ヶ月ぶりだった。

「どうしたの。珍しいじゃない、押入れから出てくるなんて」

僕は直截にそう告げた。ひどく疲れた頭では、
思いやりのある言葉なんて、何一つ浮かばなかった。
しかしドラエもんは別段気にした様子もなく、
相変わらずにこにこと笑っていた。
僕は少し安心した。

「のび太くん!聞いてよ!四次元ポケットが返ってきたんだよ!」

四次元ポケットが返ってきた――彼のその言葉に、僕は少なからず驚いた。
しかし僕は何も言わず、黙ってドラエもんを見つめた。

「これでやっとスネオくんを探せるね!今どこでもドアを出すから、待っててね!」

そう言ってごそごそとポケットを探り始めるドラえもん。
その手を無言で制する僕。
ドラエもんは、きょとん、とした顔で僕を見ている。

「どうしたのさ、のび太くん」

「スネオは、見つかったんだ」

「スネオくんが?」

「そう、さっきまで会って、話してきた。だからもういい、もういいんだ……」

ぴたりと押し黙るドラエもん。
僕の言葉の外に、深刻な事情を感じ取ったのかもしれない。
ドラエもんは、黙ってタイムテレビを取り出すと、かちゃかちゃと操作を始めた。
おそらく僕とスネオとの、一部始終を知るために。

あの光景をもう一度見る気にはとてもなれず、僕は黙って庭の物置に向かった。

気づくと、眠っていた。夢のない眠りだった。
起きると物置の中は真っ暗で、僕は目を開けているのか、
それとも瞑っているのかさえ、分からなかった。

戯れに、闇に向かって手を伸ばす。

何も掴めない。何も触れない。

暗闇の中で、ただ僕一人が存在していた。

いや、本当に存在しているのかも、分からない。何も。


不意に一筋の光が差し込んだ。
後光を纏って、ドラエもんが扉の外に立っていた。

「のび太くん……」

アルカイックスマイル、とでも言うのだろうか。
底抜けに優しい微笑みを浮かべながら、ドラエもんはそっと僕の肩を抱いた。

手が、僕に触れた。
ひんやりとした手は、蒸し暑い夏に、ひどく心地よい。
でもそこから伝わる温もりは、もっと。

「今度こそ、僕は、力になれるかな。
君の苦しみと、悲しみを、半分にできるかな」

ドラエもんは優しく僕に語り掛ける。
僕は彼にしがみつき、声を上げて、泣いた。

部屋に戻り、僕とドラエもんは差し向かいに座った。
瞼が腫れぼったい。随分と泣いたものだ。
ドラエもんは、神妙な面持ちで何かを考えている。

「……ドラエもん、事情は分かっただろう?
お願いだ、スネオの為に、何かしてあげて……何か道具を出してあげてくれない?」

ドラエもんは、相変わらず厳しい顔をしている。
僕は構わずに続けた。

「もう頼れるのは君しかいないんだ。君の知恵と……君の道具に頼るしか…
僕にはそれくらいしか、もう……」

「事情は、分かったよ……」

ドラエもんは、一言一言かみ締めるように喋り始めた。

「でも、道具を出すことは……できない」

ドラエもんは、笑って、任せてよ、と言って、道具を出す。
そうだと思っていた。そうだと信じていた。
予想外の彼の言葉に、僕の心は大きく動揺した。

「ど、どうしてさ!君なら、君の道具なら、彼を今の状況から救うことくらい、
簡単じゃないか!それなのに、なんで……」

「確かに、簡単だろうね。スネオくんのお父さんの借金を消すことくらい、
何ともないよ」

ドラエもんは一旦そこで言葉を区切り、でも、と続けた

「……でも、それでスネオくんが本当に救われるのかな」

その言葉に、深い闇を帯びたスネオの目を思い出した。
泣きながら笑う、彼の顔を、思い出した。
一人で生きていく――決然とそう言いのけた彼の言葉を、思い出した

「もしもボックスで、借金を消すことはできるよ。
でも彼の心を、彼の闇を取り除くのは、タイムふろしきでも、無理なんだよ」

僕は、あっ、と思った。
借金が消えても、借金をした、という事実は消せない。
彼が経験した現実は、曲げることができない。
借金が消え、もとの生活に戻っても、スネオは、スネオだ。
それは、良くも悪くも、そうなのだ。
そして今のスネオは―――もう、誰にも心を開くことは、ないだろう。

「じゃあ、僕は一体どうすれば……」

悲嘆にくれる僕に、ドラエもんは、優しく言葉を発する。

「のび太くん、いいかい、ちょっと分かりにくい話かもしれないけど……
確かに僕の道具は便利だよ。君だってそれは分かっているよね。
そんな君だからこそ、一番わかると思うんだ。」

ドラエもんはそこまで喋ると一息ついて、また、ゆっくりと喋り始めた。

「道具のために人があるんじゃなくて、人の為に、道具はあるんだ」

僕には一瞬、それが何を意味するのか、よく分からなかった。
だから黙って、次の言葉を待った。

「人の為に道具がある……まず人がいて、道具がある……
だから、まず、その『人』そのものがきちんとしていないと、
しっかりしていないと、どんな便利な道具でもそれは何の意味もなさないんだよ」

ドラエもんはいつだって説教くさい。
この言葉にだって、手放しで「分かったよ」なんて言うことはできない。
スネオの今をまず救うこと、例えスネオが今まともじゃなくても……
まずは何かをしてあげること、それが大事だと、やっぱり思う。

でも、ドラエもんの言うことは、やっぱり正しいんだろうと思う。
スネオの、あの目を思い出すと、なおさらに。
彼の言葉は、正しい。よく分からないけど、たぶん。
上手く言葉にはできないんだけど、きっと。


「今、スネオくんは、道端でつまづいて、転んで、ひざ小僧から血が流れている。
泣いているスネオくんに、優しく手を差し伸べて、消毒してあげて、
絆創膏を貼ってあげることは簡単だろうね。」

曇り空の切れ間から、月が顔を出した。
今夜は、満月だった。柔らかな光りが、僕らの顔を照らす。

「でも彼は今、転んだまま、立ち上がろうとしていない。
そんな彼を無理やり立たせて、消毒させても、彼はきっと、何も変わらない。

ところでのび太くん、君はまだ、スネオくんのことを友達だと思っているのかい?」

突然、神妙な顔をしてそんなことを尋ねてきた。

唐突な質問に僕は一瞬言葉を失ったが、しかしすぐに、強い口調で、言った。

「僕とスネオは、今も、ずっと、これからも友達だ!」

キッパリと、言った。

ドラえもんは、すると、にっこり笑ってこう言った。



「君がしてあげることは、

消毒してあげることでも、

無理やり手を差し伸べることでもない

人は、転んでも、何度だって立ち上がれるってことを、教えてあげることなんだよ

それができるのは、のび太くん、きみしかいないんだよ」


ふと、懐かしい情景が蘇る。
僕はおばあちゃんっ子だった。
やさしい、おばあちゃんだった。
幼かった僕は、いつもおばあちゃんに甘えて、我侭を言って…そうやって過ごしてきた。

ある日のことだ。
僕は庭で遊んでいる時に、こけて、膝をすりむいた。
大きな声で泣き喚く僕は、おばあちゃんが優しく抱き寄せてくれるのを、ただ待った。

しばらくして、おばあちゃんはやって来た。
おばあちゃんはいつものようににこにこと笑って、僕を見ていた。

おばあちゃんは、しかし、僕を抱き寄せることをしなかった。
僕は、一層強く泣いた。

おばあちゃんは、片手に持っていた達磨を、僕の脇に放り投げた。
ころん、と転がる達磨。
ぐらぐらと揺れながら、けれど最後には、達磨は元のように立ち上がった。

「達磨さんも一人で起きれたよ。
のびちゃんも、一人で起きないとね」

そんな情景が。今蘇った。


今のスネオは、あの日の僕だ。
痛みに泣き、寂しさに喚き、抱かない祖母を恨めしく思ったあの日の僕だ。


だから僕は、達磨を、スネオにとっての達磨を、あげよう。


僕と、そしてジャイアンで、スネオに、達磨を―――


道具は、使わない。そう決意した。
でも僕は、ドラエもんに一つだけ「あること」をお願いした。

ジャイアンと連絡を取った。
夏バテと、スネオがいなくなった喪失感から元気がなくなっているのは声だけで分かった。
しかしスネオが見つかったことを告げると、彼は幾分元気を取り戻した……ように感じた。

「僕は、今からスネオと話をしに行こうと思う。
だからジャイアン……君にも付いてきて欲しい」

無言。しかし電話越しに彼が頷くのは、ハッキリと分かった。

月が、雲に隠れたり現れたりしながら虚空に佇んでいる。
星は、あまり見えない。
みんなで、様々な星へ行ったことも思い出した。
またみんなで、行けるのか、今は、分からない。
分からないけど、きっと。
きっと僕らは。

ジャイアンが家にやって来た。
若干痩せたようだ。目の下にも、隈が浮かんでいる。
しかしその目は強い決意と生気に満ち溢れている。
友を心配する光も、その目に少しだけ。



vip9 at 21:08│Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 土屋直毅   2006年02月03日 15:55
やっぽー
2. Posted by 今日子   2008年06月29日 18:04
5 泣ける

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