2006年01月23日

スネオの夏 4


太陽はまた少し西に向かって進んだようだ。
夕日が少し、カーテンの隙間から漏れている。
スネオの横顔が照らされ、赤く染まる。
その赤だけが、彼の激情を表しているかのようだった。

「分かるだろう……」

スネオは不意に呟いた。
僕は突然のことに、えっ、と聞き返した。
その反応にスネオは、また口を醜く歪めて、笑った。

「のび太も分かってるんだろ……パパの会社が倒産したってことくらい。
僕らに残されたのは膨大な借金だけってことくらい」

淡々と語る彼の言葉に、初めて現実を直視させられた。
そのくらいのこと、薄々とは気づいていた。
しかし認めたくはなかった。
言葉にして、形にして整理するのが、嫌だった。
だけど僕が嫌ったそれは、今、当事者自身により、形にされた。

「どうして……そんなのって……ないよ……」

たまりかねて僕は呟く。
しかし言葉は、続かない。何も、言うことができない。
あれだけ再会を嘱望した友を目の前にして、僕のできることは、絶望的に、皆無だった。

「そんなのってない。そんなのってないよなあ……うん、僕もそう思う。
でもさあ、そんなのってあるんだぜ、のび太。現実に、今、僕らの前に」

スネオはより一層、醜く顔を歪めた。
西日の赤が彼の表情に影を落とし、スネオの狂気を一層強めたように感じた。

遠くでカラスが、かあ、と鳴き、近くでトラックが走りぬけた。
それ以外の音を、僕らは耳にしなかった。

「……お前、何しに来たんだよ」

スネオが、そう呟くまでは。

言われて、思った。
僕は、何をしに来たのだろう。
スネオに会いたかったから?
確かにそれは、ある。
ではもう、用事は終わり?
そんなわけはない。
じゃあ、どうしたいの?
前みたいに、昔みたいに、笑って、走って、一緒に−−−一緒に?

(僕は、スネオと、一緒に笑えるのだろうか)

今思うと、おそらくそれだけは考えてはいけなかった。
しかし僕は、実際にそう思い、そして微妙な表情の変化は、はっきりとスネオに伝わったのだ。

「なあ。もう無理だよなあ……僕たちはもう、違うんだもんなあ……」

ひひっ、と上ずった声でスネオは笑い、またすぐ真顔に戻ると、帰れよ、と息だけの声で呟いた。

「スネオ、違うんだ、僕はただ……」

「帰れっつってんだよ!!!」

怒号が、部屋に響いた。
同時に額から垂れた汗が、足元に落ちた。
この部屋が、ひどくむし暑いことを、思い出した。

僕らはお互いをまんじりと見つめる。
ドラエもんと諍ったあの日のように、時間の流れはやけに遅い。

チッ チッ チッ チッ

時計の音だけが、虚しく鳴り響いていた。

「……みんな、離れていったよ」

だしぬけにスネオが喋り始めた。

「パパの友達も、会社の人たちも、みんな離れていった。
パパの仕事が上手くいってる時は、ちやほやちやほやしてさあ。
骨川さん、骨川さん、ってさ。
そりゃあ、楽しかったよ。
でも、会社が潰れて……パパも潰れていく様子を指くわえて見てただけじゃなかった
あちこちに連絡して、いろんな人に助けを求めた。
でもさあ。誰も、何もしてくれないんだよなあ。
今忙しい、とか、電話は取り次げません、とか言ってさ
ある人なんて
『僕はお金を持ってる骨川さんが好きだったのになあ』
なんてハッキリ言いやがって……もう笑うしかないって感じだよな」

僕はスネオの言葉に、ただ静かに耳を傾けた。

「そんなもんなんだよな、所詮。人と人との繋がりなんてさ…ハカナイよな」

ハカナイ、という言葉が僕の頭の中で「儚い」に繋がるまで、少し時間が掛かった。
それだけ彼の声は平板で、だから余計に、説得力があった。

「……僕がこの2ヶ月間、どんな気持ちで過ごしたか、分かるのか?
何を思って、何を感じてこの部屋にいたのか、のび太、お前に分かるのか?」

分かる、だなんて言えなかった。
言葉にすれば、全てが嘘になるような気がした。
だから僕はまた、何も言えず、スネオの言葉をただ待った。

「……分かるわけないよなあ。のび太の家には、パパがいて、ママがいて、暖かいご飯があって、
柔らかい布団があって……そして、ドラエもんがいて」

最後の言葉だけ、一層暗い声でスネオは吐き捨てた。
そして僕は気づいた。
彼も期待していたのだ。ドラエもんに。彼の道具に。自分を不遇から救い出してくれることに。
おそらく。きっと。

「……なんで、今頃来たんだよ」

絞り出すような声で、スネオは言った。
なんで、なぜ、どうして……。
この2ヶ月間で、僕の頭の中を幾つの疑問符が巡ったのだろう。
そしてその幾つが答に辿り着いたのだろう。
僕は今また、その問いに答えられずにいる。

「……本当は、もっと前から心配してたんだ。
君が休み始めて一週間くらいの頃から……」

「聞きたくないね!」

叫びに言葉を遮られた。
思わず怯みそうになる。しかし、ここで言葉を折るわけにはいかない。

「本当なんだよ!本当に……僕は……僕らは……
6月のあの日、君の家に行って、『売家』って張り紙を見つけて、信じられなくて、
ジャイアンと二人して、泣いて……それで……」

それで?僕はふと思った。それで僕は何をした?

「それで現在に至る、って訳か」

スネオはまた、ひひっ、と上ずった声で笑った。
嫌な笑い方だ。前は、こんな笑い方をする奴じゃなかった。

「知ってて、何もしなかった、って訳か」

スネオは、今度は笑わなかった。
ぎょろっとした黒い目で、僕を覗き込んでくる。

(やめてくれ、そんな目で、僕を、見ないでくれ)

心で叫ぶ。言葉にはならない。してはいけない。
甘んじて受けなければいけない。そんな気が、する。

「……もういいよ。僕はもう、いい」

ふうっ、とため息をつきながらスネオはそう言った。
しかしその言葉は僕を許したことを意味したのでなく、
僕とスネオとを決定的に別つものだった。

「もう僕は何にも期待しないし、誰も信じない。
一人で生きるんだ。
のび太も見たんだろう?僕が……」

スネオは言葉を途中で切り、缶詰でぱんぱんに膨れ上がった鞄を一瞥する。

一人で生きていく……

彼の過ごした2ヶ月間は、彼をしてそう思わしめるに十分なものだった。
しかし、その結論を遵守するために選んだ手段が万引きであるならば……
悲しすぎる。あまりにも。

「……そういうことさ。まあ新しい玩具も漫画も手に入らなくなった今の僕に、
もとより人が寄ってくるとも思えないけどね」

「そんなことはない!!」

たまりかねて、僕は声を荒げた。

「そんなこと、あるもんか……」

視界が、霞む。スネオの顔が、歪む。
彼の意思ではなく、今度は僕の涙のせいで。

「確かに君には玩具も、漫画もないかもしれない。
でもこれまで過ごした僕らの時間は、今も残ってる。
少なくとも、僕の中には。
君と行ったコーヤコーヤ星を、僕は忘れない。
君と作った雲の王国を、僕は覚えている。
君と過ごした海底での時間は、まだ胸に残っている。
残っているんだ……。」

最後は、掠れた声で、言った。
スネオは、何も言わない。

そしてこの日最後の沈黙が、僕らの周りを包んだ。

「……じゃあ、助けてくれよ」

スネオもまた、泣いていた。
泣きながら、最後の言葉を、呟き始めた。

「この、最悪の現実から、僕を助けてくれよ!
できるんだろ!ドラエもんの力を借りれば!
僕の生活を!平和だったあの頃に!戻すことくらいできるんだろ!
してくれよ!今すぐに戻してくれよ!
なあのび太!なあ!」

泣き喚きながら、スネオは叫んだ。
彼は、この日初めて、自分の感情を露にした。
それも、もっとも見たくない形で。

「……できないんだろ」

スネオはぽつりと呟いた。
その目はもう涙に濡れてはおらず、また、絶望に彩られた目つきに変わっていた。

「……帰ってくれ。そしてもう、姿は見せないでくれ」

僕は何も言えず、何も言葉を掛けることができず、虚脱したような気分で、家に帰った。




vip9 at 21:09│Comments(1)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 名無し   2006年01月29日 01:21
重松 清だな

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