2011年01月28日

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Genealogy+last+page+2


2011年1月28日の今日をもって、
ブログ「なれるか、学生メディエイター」
の更新を終えさせていただきます。

2008年、当時2年生にスタートしたこのブログ、
大変多くの人にご覧いただいていたようで、
まさに情報を伝えるメディエイターとしての
責任感と緊張感を感じながらも、
自分のマイペースを崩さずに素直に感じたことを、
出会った日常を私なりに書いてきたつもりでおります。


誰のためというのではなく、
何より学びの多い学生生活の日々を、
こうして書いておいたことで、
何よりとても自分のためになりました。
プライベートな日記を書くのでは得られない、
常に日々を客観的に「自分の人生どうだ?」と
振り返る姿勢がさらに自分を成長させたように思います。



卒業論文をブログに掲載しました。
論文と言えるものではなく、
自分の4年間を振り返るエッセイのようなものです。
自分のことを書くというのは勇気のいるもので、
とくにブログにアップするかどうかはとても悩みました。
自分の弱さも浅さも儚さも露呈させてしまうことになり、
大変見苦しく読み苦しいもので大変恐縮です。
しかしながら、私のメディエイターとしての
4年間の挑戦をリアルタイムで残し続けてきた
このブログの締めくくりにふさわしいのではないかと
一部カットして掲載しました。

上野はこんなことがやりたかったのか、
全然できてなかったじゃないか、
なるほどこんな視点でひとつの軸が通っていたんだ、
どれだけ自分のこと語るのがスキなんだ、
いろんな感想と共に読んでいただければ幸いです。
関心をもってくれたこのブログを一度でも
訪れてくれたすべての人に、感謝の気持ちです。
ありがとうございました。
maru1

さて、ブログはセカンドステージに進みます。


http://blog.livedoor.jp/visionnaire-maru/



4月から始まる商社での勤務生活。
もう一度新しいスタートラインに立ちます。


新しい環境で何に出会い、何を学び、
どんな世界を切り開くかは自分次第。

敢えて未知の世界を選んだ分、
波瀾万丈、苦しいことも感動することも、
人一倍多いのではないかとワクワクしています。
そんな日々の出会いをお届けします。


引き続き、今後ともよろしくお願い申し上げます。
新ブログ「マル。」で合いましょう(*´`*)
maru3



上野なつみ
2011.1.28




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ブログ「なれるか、学生メディエイター」
思い出のあの記事



FIRST SEASON "CHALLENGE"

20080525 念願叶って、ブログ開設
20080619 メディエイターのカタチ
20081015 無言という美徳
20081123 話を聞くこと=ものを知ること
20081128 クロスオーバーしていく。
20081214 追う者と追われる者。
20090201 ちょっぴり近況告白。



SECOND SEASON "DISCIPLINE IN NY"

20090205 #001 動機と決意
20090214 #004 程よいプレッシャーで
20090227 #015 1週間がたちました
20090228 #016 art in NY
20090307 #020 TOO HOT
20090324 #025 人と生きる
20090330 #026 本物を知る
20090414 #031 今を伝える方法論
20090415 #033 仕切り直そう



THIRD SEASON "CONFRONT"

20090527 自己投資する方法
20090718 アツイ人間です
20090821 最強で最高な2週間と60人。
20090904 江ノ島と[ ]YAG。
20090916 笑顔不足。
20091018 境目。
20091125 5+1=6?
20091216 report The six!
20100127 やりきる。
20100203 残された時間を意識する
20100207 就職活動のありかた



FOURTH SEASON "DECISION"

20100501 [1]貫きたい一本の軸
20100502 [2]自分を限定しない
20100503 [3]必然に変えていく姿勢
20100504 [4]覚悟と好奇心
20100505 Golden Week
20101005 今しかできないこと




FOURTH SEASON "LOOK BACK"

20110128 「編集の考察」第一章
20110128 「編集の考察」第二章
20110128 「編集の考察」第四章
20110128 「編集の考察」第五章



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カヤック卒制採用2011卒

2011年初ブログのようです。
明けましておめでとうございます。
更新サボってごめんなさい!

どんなふうにこのブログを締めくくろうかな、
そんなことを考えていたらなかなか手がつけられずに、
あっというまに1月が終わろうとしています。


今月、私なりの4年間の集大成として、
卒業論文『編集の考察』をかきあげました。
私にとって、卒業論文は本当に集大成でした。
これまで4年間に学んできたことも、
経験してきたことも考えてきたことも、
すべてをひとつの軸のもとに行なってきた、
就職活動以上にきちんと振り返ることができました。



美術大学にいると卒業論文というのは珍しくて、
他のみんなは自らの制作の集大成として、
卒業制作に取り組んでいます。
この時期は卒制展ラッシュで、
新生アーティストたちのアイデア溢れる作品に、
やっぱり美大生ってすごいなぁとつくづく感じます。

卒業制作って、他の課題と違って、
4年間の制作の集大成で、
そのときのベストをみんなが尽くそうとしていて、
勝ち負けは当然ないのだけど、挑む気持ちは
サッカーで言えばワールドカップのようなものな気がする。
人によるんだろうけど、作品からそう感じることはある。




卒制に目を向ける活動というのはこれまでもたくさんあって、
もちろん学校が主催して行なっている卒業制作展
学生団体のイベントとして行なわれている「てつそん」、
各学科ごとに学生が主体的に場所を借りて行なう卒制展

ギャラリストさんや美大の先生たち、
美大に入りたい高校生や予備校生、
アートが大好きなアートファン、
これから花開きそうな作家を探すコレクターさん、
いろいろな人が足を運んでいると思う。




そんな卒業制作に、企業が目をつけた。
http://www.kayac.com/recruit/sotsusei/

面白法人カヤック。
自己PR不要!志望動機不要!
内定者は4月から入社可能!

面白法人カヤックは、卒業制作をがんばったあなたを積極採用いたします。
卒業制作に打ち込みすぎて就職活動が終わってた!そんな方も大歓迎です。
私たちの経営理念は「つくる人を増やす。」
つくることに打ち込んで、力のこもった作品を生み出したあなたと、一緒に働きたいと思っています。



本当におもしろいことを次々にやってくれるね(笑
美ナビをやっていたこともある私にとっては、
カナーリ興味深い取組みだなぁとみています。
おもしろいという声が多いみたいだし、
友人にどう思う?って聞いたら、
ものづくりを一生懸命やってて
すっかり就活時期を逃した美大生にとっても、
ものづくりを本当に頑張っている
クリエイターを採用したい企業にとっても、
ニーズを満たすWIN-WINの仕組みだから魅力的って。

私も凄く魅力的だと思うし、
やはり社会に出て「ものづくり」をする経験って
美大を卒業するクリエイターにとって
とても有益なことなのではないかと思う。
ましてカヤックのように新しいことに挑戦できる
柔軟な環境はとてもいい場なのではないかと思います。


ただ、私なりに気になった点も2点ほど。

ひとつには、すごく魅力的な採用方法ではあるけれど、
この採用を受ける美大生の姿勢がどうかは気になります。
やっぱり私にとっては就職するかどうかも含めて、
就職活動というのは単に進路を決めるというのでなく、
自分がどう生きていきたいかとか、どんな人と仕事をしたいか、
どんな価値を世の中のどんな人たちに提供したいのか、
そういうことを考えるとてもいいきっかけだったから、
キャッチコピーにあがる「志望動機不要!」は不安。
実力主義になりすぎるのも、違うのかな?って。

企業に所属することで「つくる」環境が整うし、
もちろん就職することは積極的に勧めるのだけど、
「つくる」人に求められるのは技術だけじゃない。
それを採用する側がきちんと理解して卒制を観れるかどうか。



そう、ふたつめはその採用基準。
卒業制作を見てどのように判断するのかな、ということ。
どこまでいってもどこの企業も社員として採用するからには
単にものづくりのクオリティだけでの判断はしていなくて、
多くはアート職でも面接を重視しているはず。
どんな人が採用されていくのか、とても気になります。

きっとカヤックの新しい採用方法は、
いろいろな会社に刺激を与えて、
もしかしたら新しいスタンダードになるのかもしれないけど、
そのとき、各企業がどんな採用スタンスをもって
このシステムを導入するかがキーになりそうな予感がします。




就職活動のあり方も年々変化している様子。
商社も来年からは一気に採用の時期を遅らせるそう。
このカヤックも、4月から働く社員を今から募集。
時期を替える意味は、学生の時間の使い方が変わること。
だけど、この就職難の時期に遅くすることで、
かえって就職のための学生時代をダラダラと続けることに
ならないといいけどな、なんて心配もしてみたり。

手探りでも、挑戦を続けるカヤック、興味深いです!
既存に凝り固まらずに新しいことに取り組む姿勢のある会社には、
クリエイターの自由でユニークな活動が活きる
環境が待っているのではないかと思います(*´`*)

美大の4年生で進路が決まっていない方は、
ぜひチャレンジしてみては?


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「編集の考察」第五章

※卒論「編集の考察」の一部を抜粋して掲載しています




5.今後の「編集」の可能性




(1)「編集」発展性・可能性と、時代に求められる「編集者」


●4年間の経験で学んだ「編集」
 前章で述べてきたように、私は大きく3つの「編集」を実際に経験してきた。第一に、雑誌の編集に代表される情報の編集。第二に、展覧会に代表される空間の編集。第三に、地域活性に代表される人との関係の編集である。
 『PARTNER』の制作を通して情報の編集に挑戦したときには、テーマに沿ったコンセプトを編集者が設定し、それに基づいた情報を取捨選択するという「編集」の実践を行なった。ここでの「編集」は、従来の編集概念とあまり変わらない。私は既存の編集概念に忠実にフリーマガジンを編集することに、一から挑戦したのである。しかし、この経験の中で、それまでには実感をもって気づかなかった新たな編集者の役割を見出しはじめる。インタビューなどの情報収集の段階で新たな情報を引き出す力、デザイナーやカメラマンとの仕事の中で彼らの才能を引き出す力、タイアップ広告などで学んだ企業ニーズを引き出す力、そして読者のニーズを読み取る力である。
 そして、「THE SIX」や多摩美術大学の展覧会設計で展覧会企画に挑戦したときには、場所の選び方やコンセプトメイキング、作家の選び方や作品プロポーザルの設計などのプロセスで、編集的な視点を発揮しながら、ひとつの展覧会をつくりあげるという空間の「編集」を実践した。ここでの「編集」は、それまで書籍や文字情報においてのみ意識されてきた「情報を集めて編み直し具体化する」という既存の編集を、調査、企画、展覧会の実施という3つのプロセスに対応させることでより立体的に展覧会を実現したことにある。この経験を通して、キュレーターという名の編集者が人とモノの出会いを仲介し、単にコンセプトに基づいた展覧会を実現することの固執するのではなく、むしろ帰納法的なプロセスを経て新しい価値を創出するという、新しい「編集」プロセスを学んだ。これも編集者に求められる能力のひとつであった。そして、これらの展覧会を企画するという経験をもって、実際に「編集」の広義な可能性を探ることができた。
 さらに、地域活性のプロジェクトにおいて、単に展覧会を編集するということではなく、地域のよさを街の人や訪れる人々に再認識してもらえる仕掛けづくりで「編集」の実践を行なった。ここでの「編集」とは、単に情報として捉えられる地域の歴史や名産品などの、特性だけでなく、地域の人々との関係性を築き上げる中で新たな声を引き出す、これまで以上に手間と時間のかかる調査が必要とされた。そして、そこにアート作品や作家との出会いをセッティングする。そうすることによって、それぞれに凝り固まった価値観に多様な視点を提供し合うことができた。地域活性アートプロジェクトでは、それまで以上に具体的な目標設定があったために、成功と失敗が明確に分かれたようにも思う。アートのためでも作家のためでもなく、またお客さんを楽しませるというエンターテイメントでもなく、地域活性という高次元の目的だからである。いかにアートのコンテクストのなかで魅力的な展覧会を開催しても、それが地元の人々に還元されるものでなければ意味がない。こうした、情報でも空間でもなく、魅力の再発見や関係の構築における「編集」は、私にとって「編集」の広義性を確信させるものとなった。

●「誰もが編集しながら生きている」
 以上のように、この論文では私が大学4年間で挑戦してきた活動をケーススタディーとして、自らの姿勢や取り組みが編集的であったかどうかに焦点を当ててきた。あらためて「編集」という視点から自分の大学生活を振り返ってわかってきたのは、松岡正剛と後藤繁雄、2人の編集者が説く「誰もが編集しながら生きている」が真理であるということであった。「編集」は、松岡がいうように、情報を集め、並べ、選択して関係付ける「関係の発見」でもあるし、後藤がいうように、モノや人や情報を「集め」、組み合わせ、そして「編んで」ゆくことでもある。このようにとても広義に捉えられる言葉だからこそ、「編集」にはどんなことにでも当てはまる汎用性がある。第二章で私が定義したように、食事を作ることでさえ、音楽を聴くことでさえ、ネットを回遊しながらブログやウェブマガジンを読んでいくプライベートの時間でさえ、すべて編集的なのである。そして、松岡や後藤は、このそれぞれの「編集」のなかにあるプロセスや特徴を抽出することによって、「編集」が、「方法」や「機能」として誰にでも生活や人生のなかに取り入れられるものであるかが示されてきた。
 しかし、その真理を発見したことが大切なのではない。それだけでは、単に世の中で起こっている事象を「編集」であると意味付けした形而上のものに過ぎないからだ。松岡と後藤が指摘してきた「編集とは何か」の議論は、それを提示するためのものではなかったはずである。彼らの仕事は「編集」とは何かを定義することではなく、その「編集者」の第一人者として、よき「編集」を実践し先導すること。「編集」であるかどうかの問いではなく、むしろ特筆すべきは、「編集」とはあらゆる仕事の中で使われる「発想法」であり「方法論」であるということである。それゆえ、編集的な考え方を知り、「編集」とは何かを意識的に理解しておくことが、人々の生活のあらゆる場面で支えになるのである。
 このことは、実は4年間のプロジェクトでは語りにくいので、個人の生活や生き方における「編集」の実践をした就職活動のエピソードを紹介しようと思う。
 同世代の近しい人のなかにも、受動的に日々を過ごしながら「やりたいことが見つからない」と嘆いている人や、「草食系」という言葉にも見受けられたように内向的な人も多いように感じることがあった。現代日本人の傾向として、みんながそうであるとは言うことはできないにせよ、中学受験や高校受験をし、いい大学に進学して優良企業に就職するのが成功だという考え方や、逆に自分はその型に当てはまりたくないとフリーターをしながら中途半端に居心地の良い環境で生きている若者が多いことは、依然として変わらない。彼らに共通するのは、自らの生き方や、日々の生活や人との出会いですら、偶然ではなく自ら引きつけるべきであるということを意識せず、受動的に待ち構えている点ではないだろうか。もしくは、計画段階ばかりが長くて行動に移すのを後回しにしている点も、指摘できるかもしれない。
 私は、まさに「生活編集」を心がけて、4年間のプロジェクトも仮説と実践を繰り返しながら取捨選択してきた。一見他人からは関係性のない活動に手当たり次第取り組んでいるように見えたかもしれない。しかし、広義に捉えた「編集」によって、とりとめもなく幅広い活動のなかにも、自らのテーマ設定や試してみたい課題があった。意図的に、異なるジャンルの活動にも顔を出すようにして、ひろい価値観を構築できるように心がけた。そうして実に様々な人たちに出会ってきた。これは、偶然でも必然でもなく、自らがどういった経験をしたいのか、その経験をするためにはどういった環境を探せばいいのか、常にこの編集的な視点で物事を考えてきたのである。
 だからこそ、就職活動もいきなり始めた訳ではなかった。他の選択肢にもきちんと向き合いたいと、海外の大学や大学院を3ヶ月の短期留学を通して検討したり、ベンチャー企業でのインターンを通して起業ないしフリーランスで働くという道も検討した。様々な企業の説明会に足を運ぶ際にも、なるべく社員の人とのコミュニケーションの中から、会社の良さや人の良さを自らが培ってきたインタビュー力で引き出そうと試みた。そうやって生まれた「出会い」を大切に、多様な視点をもって可能性を考える。長いスパンで自らの人生どうありたいかとともに、何を学びたいかを考えながら、調査を繰り返す。これは、私が培ってきた個人の「編集力」とでも言うべきものであったのではないかと振り返る。
 だからこそ、私は2人が主張した「誰もが編集しながら生きている」はその通りだと思う。自分の生き方をどう演出するかということにも、「編集」は非常に重要な考え方を提供する。何に出会い、誰と出会い、そこにどんな関係性を築くのか。自分というひとつの「メディア」に、どんな情報を取捨選択し蓄積させていくのか、そして自分の過ごす時間を何にあててどんなことを感じながら生きるのか。個々人における「編集力」の必要性を説くのは、こうした場面で必ず求められる力だからである。

●自らの価値観を守るための情報編集力
 そしてもうひとつ、現代において個人に「編集」が必要である理由がある。松岡正剛によって主張されていた、メディアリテラシーとしての「編集」である。
 この数十年、モノが爆発的に増え、東京に集まる人口も爆発的に増加したことに加え、ネット社会によってさらに拍車をかけられたことにより、無数の情報が世の中にどっと流れ出した。情報の大洪水のなかで、商品が売れにくくなった各メーカー企業は、広告代理店と手を組んで、さらに人々が商品という情報に辿り着きやすいように、数多くの仕掛けづくりに勤しんだ。差別化という「編集」が必要になったのだ。その結果として、世の中には松岡がいう「アクティブフラッグ」が蔓延し、自ら動き出さなくても受動的に情報を手にすることができる時代になってしまった。あくまで編集者が取捨選択して築いてきたものにすぎなかったと、相対化されてしまったのである。至れり尽くせり、手を伸ばせば何でも手に入る便利な生活が出来上がって、こだわらなければ与えられるものだけを受け取っていれば生きていける時代だ。一時期日本人のメディアリテラシーの低さが問題提起されたこともあったが、きちんと自らの目で情報を見抜く力、それを見抜くための「編集」の仕組みを理解する必要が高まっているのは事実である。
 編集を広く伝えていこうという松岡や後藤のスクール運営という試みは、それぞれの目指す方向性や思想が多少なりとも違うにせよ、賞賛に値すべきことだと思う。なぜなら、そうして道に迷った生活者たちが、自らの「編集術」「編集力」を鍛えることによって、自分で自らの生き方を取捨選択することができるようになる可能性が高いからだ。誰もが仕事と平行しながら受講し、単に文章の編集ということではなく、幅広い意味で「編集」を共に考え、実践し、学ぶことができる場はとても貴重な環境である。もちろん、「編集」は万能ではない。しかし、そこに個人の趣向や思想が生まれてくるという意味でも、均一化されていく世の中の価値観に歯止めをかけるために一石を投じることができるのではないだろうか。

 上述したように、「編集者」になろうと思えば、職業形態を問わずどんな人でも実現できるかもしれないが、誰もが「編集者」になる必要はない。繰り返しになるが、大切なのは自分の人生に対して、編集的な思考でもって積極的に向き合えるかどうかということ、そして自らの周りに溢れる編集的な活動や行動に自覚的になるかどうかということだ。「編集」はどんなところにも潜んでいて、知らず知らずのうちに勝手に生活の中でやっていることである。だからこそ、「これもだ!」という気づきが重なり、そこに現れた共通項を紡ぎ合わせることで「方法」が見出せたとき、ただ流れてくる情報を受け取るだけの毎日が少し能動的に積極的に変わるのではないかと思う。そして、「編集者」の意図が、世の中の端々に見受けられ自らその意図をよけて通ることができるようになるのではないかと思う。これらが、編集を広義に捉えたいと考察を続けてきた所以であり、私が「編集者」に限らず、だれもが「編集力」をもつべきだと感じている理由である。自らの価値観を多様に保つために取り組み、本論文で改めて考察することによって「編集」に見出したいと願ってきた「可能性」なのだ。

●よき「編集者」に求められるもの
 さて一方で、これを生業とする「編集者」は「編集」をするだけではよき編集者とは言えない。「編集者」の枠も、かつてのように、出版社に務める書籍や雑誌の編集者にとらわれなくなり、映画や音楽など、少しずつではあるが認識の上でも広がってきたように思われる。未だに書籍の編集に限定されているとすれば、一刻も早く広義に「編集者」を広めてよいと思う。しかし、無論、肩書きとしての「編集者」を広めたところで意味がない。松岡や後藤のようなマルチで、自らが「編集とは何か」を体現するような編集者が増えるべきだというのでもない。そうではなくて、第二章で紹介したような「編集」的な仕事をしている編集者それぞれが、「編集」的な視点で自覚的に仕事に取り組むということに真義がある。
 ここでいう編集的な視点とは、私が4年間の経験で体験してきたことから見出せる。単に机上の空論になって、単にアイデア勝負になってしまったり、どんな情報をピックアップするかの取捨選択に終わってしまったり、発信したい情報をターゲットに届けるということに終止するのではだめだということだ。
 まず第一に「出会わせること」。そのためには相手を知り、自分がメディエイターになるからこそ可能となる「出会い」を提供し、化学反応をたのしむことが求められる。それは、出会うことのなかったはずの街の人と作家を出会わせた地域活性プロジェクトのように、PARTNERという媒体を通した出会いを機に、そこから独立した形で様々な活動が生まれていったように、である。
 第二に、それぞれの良さを「引き出し、引き立てる」ということである。編集者はよく縁の下の力持ち、黒子だと称されることがあるが、その通りだと思う。『PARTNER』のデザイナーの能力をうまく引き出し、栃木の街に通いながら、彼ら自身があたりまえになって気づかなかったよさを、引き出していく。
 そして最後に、「多角的な視点」を絶えず持ち続けるバランス感覚。その引き出しの多さが、松岡に観られるような魅力的な編集者の要である。多ければ多いほど多くの出会いを生み出すことができるし、それが多様的であればあるほど、誰もが創造もしていなかった化学反応を起こすことができ、世の中に新たな価値を提示することが可能になる。

 だからこそ、よき「編集者」とは、単に「アクティブフラッグ」を立てて情報を目立たせ、商法に用いるような編集者ではなく、多様な視点をもってそれまで創造もしなかった出会いをセッティングし、互いのよさを引き出し合いながら新しい価値を創出する人ではないだろうか。そんなターゲットへの思いやりも忘れない編集者が増えてくれればと願う。

 そんなよき「編集者」が次々に誕生していくこと、主体的に「編集」を通して自らの意志を掴んでいく日本人が少しでも増えること、そしてそのひとりひとりにとって毎日が「関係の発見」という好奇心に満ちあふれた日々であることを願って、「編集」の考察を終えたいと思う。



(2)私が目指す「編集者」としての生き方

 あとがきにかえて、4年間の美大生活の中で「編集」をキーワードに様々な活動に取り組んできた私が、卒業後の長い人生の中でどう「編集」と関わっていきたいと考えているかを少しだけ書いておこうと思う。
 先に少し述べたように、私は進路選択にあたって大学院や海外への留学なども視野に入れた上で、就職活動をすることに決めた。それは、これまでも自分が一番成長できたのは、社会での実践的な取り組みのなかであったし、知識を蓄える学びよりも、現実に人に出会い成功と失敗を繰り返しながら身体で学ぶことのほうが性にあっていたからである。そしてもうひとつ、10年後の自分には、「編集」で世の中に的確な価値を提供できる人でありたいと漠然と思った。こうして、私は就職活動をはじめた。

 この論文に観てきたように、大学1年生のころに編集長を名乗り、まがいなりにも取り組んできた雑誌『PARTNER』での編集経験は、出版業界への興味を掻き立てた。そこで、いくつか雑誌の編集や冊子の編集をアルバイトもやらせてもらってきた。自分が企画した展覧会のカタログや、その宣伝用タブロイド紙も含めると15以上の媒体を編集したように思う。しかし一方で、自らがコンテンツ制作に携わる難しさも痛感した。それは、松岡や後藤のようなある意味で知識人でなければ務まらない仕事であることがある。好奇心が耐えてしまった瞬間に「多様な視点」は失われ、「出会わせる」ことができなくなってしまう、非常に刹那的に入れ替わっていく時代の流れを掴むことに追われるような気がした。そんな時代を作っていくだけの知識とクリエイティブ能力が求められる雑誌編集の仕事は自分に合っていないように思われた。そして同時に、様々な媒体での編集を経験した私にとって、なにか特定の媒体に限定して「編集」を続けることは、もったいないような気がしていた。その意味において、本来私が目指していた「出会わせる」「魅力を引き出す」「多角的な視点で捉える」ことから、むしろ離れてしまうような気がした。
 そこで次に興味を持ったのは広告の仕事だった。無数にある情報のなかから、どうやったらその商品やサービスに魅力を感じてもらえるか、ターゲットに出会わせることができるか、時代的にも広告の先行きが危ぶまれ、既存メディアでの広告に行き詰まりが叫ばれる昨今だからこそ、「編集力」が非常に求められる絶好のフィールドだと強く感じていた。もちろん、ここでも「編集」的な視点が求められていることは間違いなかった。いずれの広告会社を回っていても声を揃えて「アイデアを」、「ユニークさを」と嘆いていた。飽和状態になったメディアバイイングのビジネスモデルを見直し、発想力に新しいビジネスモデルを見出そうとしていることが伺えた。編集の視点から言えば、現に私たちが情報に出会っている手段のほとんどが、この広告によるものであることは間違いない。しかしながら、アイデアやユニークさといった一発屋、「今おもしろくて、業績が伸びればOK」という考え方は相容れなかった。だからこそ、良質な編集を行なってくれる広告マンが増えてほしいと思う。
 きっとこんな風に、「編集」的な考え方は世の中のあちこちで必要とされている。就職活動を通して改めて感じた。だからこそ、もっと中長期的なスパンで、世界や日本のなかに価値観を形成したい、人やモノやお金をダイナミックに「編集」してみたいと思った。これは、私が達成できなかったが使命感を強くもって取り組むことのできた地域活性アートプロジェクトの経験によって生まれた志かもしれない。「編集」が世の中の問題解決にいかに作用できるのか、(そしてもうひとつ、そこでアートは人々にどのような影響力をもつのか)これからも自分なりに実践を通して学びたいと感じていた。
 それは松岡が取り組んできた情報や知識の「編集」でも、後藤が取り組んできた世の中に共感を生み出す「編集」でもない。私が取り組みたいのは、途上国がどのように先進国の力を借りながら国を発展させていくのか、その過程で「編集」はどのように働き、どのように土地の文化や魅力を残しながら彼らの生活を豊かにしていけるのか、第一線で考えるということである。その経験から、日本が発展の過程で失ってしまったと言われている何かが、一体どんなものであったのか、そしてそれは、これからどんな「編集」が加えられれば蘇らせる(または再構築する)ことができるのかをじっくり考えてみたい。
 冒頭で述べたように、「編集」は一歩間違うと権力である。だからこそ、きちんと行使されるべくところに身をおいてみたい。そうして選んだのは出版業界でも広告業界でもなかった。自らの価値観をこれからも広げ続けられる環境、そして自らが何かのご縁で「出会い」を得た企業、総合商社に就職することを決めた。
 これが、「編集」と「キュレーション」を4年間学んできたひとりの学生が、「編集者」としての生き方として出した答えである。




参考文献
[A]『知の編集工学(朝日文庫)』松岡正剛著 朝日新聞社 2001/02
[B]『7歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義』松岡正剛著 春秋社 2006/12
[C]『僕たちは編集しながら生きている』後藤繁雄著 中央公論新社 2004/3
[D]『新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に』小林弘人著 バジリコ 2009/4
[E]『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』梅田望夫著 筑摩書房 2006/2
[F]『東京の編集』菅付雅信著 ピエブックス 2007/12
[G]「現代アートと地域活性化〜クリエイティブシティ別府の可能性〜」株式会社日本政策投資銀行 大分事務所 2010/9
[H]「瀬戸内国際芸術祭2010 総括報告」瀬戸内国際芸術祭実行委員会 2010/12
[ I ]「File1/キュレーターの仕事」長谷川祐子著 多摩美術大学芸術学科 批評キュレイトリアル講義テクストより 2008/4
[J]「展示空間 21世紀に向けてー美術館の変容について」長谷川祐子著 多摩美術大学芸術学科 基礎連鎖講座講義テクストより

参考映像
[1]『情熱大陸〜松岡正剛(編集者)〜』毎日放送 2010年07月04日放送
[2]『デザイン特講〜松岡正剛〜』NPO法人デザインアソシエーション http://www.design-channel.jp/


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「編集の考察」第四章(3)

※卒論「編集の考察」の一部を抜粋して掲載しています




(4) 地域活性アートプロジェクトにみる「編集」

●地域活性アートプロジェクトの実態 
 単に美術展を企画運営するだけでなく、ひとつの大きな命題を抱えて取り組んだプロジェクトのひとつに、地域活性を課題に設定した地域活性アートプロジェクトがある。2008年2009年と、それぞれタイプの違うふたつの地域活性アートプロジェクトに携わった。このプロジェクトで取り組んだ新たな「編集」を考察する。

 はじめに、国内の地域活性アートプロジェクト事情について簡単に紹介しておく。アートをひとつの取っ掛かりとする地域活性のプロジェクトは、高齢化社会がますます進行し、人口減少や過疎化などの問題が現実的になってくるにつれて近年あちこちで盛んに行なわれるようになった。日本で注目されるようになったのはここ10年程の話であるが、ヨーロッパなどでは、こうした試みは1980年代から産業構造の転換をきっかけに多くの都市で実験的に行なわれてきていた。バルセロナやボローニャは、そうした都市再生戦略のなかで芸術文化のまちとしての地位を確立した都市だという。
 日本国内の地域活性を目指したアートプロジェクト、ないし、美術・アートを取っ掛かりとして設定し地域の抱える様々な問題を乗り越えようとする試みも、大小問わずあちこちで行なわれてきた。なかでも、横浜市や金沢市が「クリエイティブシティ(創造都市)」としての構想をいち早く掲げ、積極的な取組みを進めてきたこと、越後妻有で行なわれている「大地の芸術祭」などは、その大きな動きとして注目されている一例である。
 横浜では、2005年から「創造性が都市を変える」をキャッチコピーに、様々な試みが実現。横浜で3年に一度開催されている横浜トリエンナーレ、横浜の街を挙げてアートプロジェクトに積極的に取り組み、行なわれる黄金町バザール、ZAIM・BANK ARTの運営など、市を挙げてお金もエネルギーも注いできた。
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 金沢にも2004年、金沢21世紀美術館が誕生。「工芸を中心として伝統文化が継承されているこの都市において、これらの既存の文化と文化多元主義以降の新たなアートの同行をいかに接続できるか」を課題に、美術館でありながら、誰もが公園として、市民会館として、憩いの場として集まってくることのできる、街の人たちにオープンな場を目指して、建築・コンセプト共に斬新な美術館が実現した。設立当初から市民との討論を重ね、金沢の工芸やデザインへの理解、更なる文化育成の土壌を目指す方向性など、市民への理解を獲得していった。まさに市民との対話のなかで生まれた、新しい文化都市となり、現在でも金沢美術工芸大学の学生たちの実習や発表の場として、大学と美術館が共に文化育成に取り組んだり、地元の人たちの集う市民ギャラリーや会議室の利用なども継続的に行ない、都市の文化施設として人々から愛されている。都市計画、経済効果の側面からも評価が高い。
 越後妻有の大地の芸術祭は、「地域に内在する様々な価値を アートを媒介として掘り起こし、その魅力を高め、世界に発信し、
地域再生の道筋を築いていくことを目指す『越後妻有アートネックレス整備事業』」の一環として、2000年以降3年に一度行なわれてきた芸術祭だ。「地域再生」をうたいスタートしたアートプロジェクトであったが、住み込みで作品を制作するアーティストが地域の税金でやってきたこと、農家の生活にとって「関係ないもの=アート」であったことなどから、当初地元の人々からは反発の嵐だった。しかし、3年に一度、若者が都会からボランティアとして街にやってくる、それを3回繰り返すうち、地域の人々と若者が一緒に作品をつくり始め、よその人の目により街の価値が再発見され始めた。外からたくさんの観光客があつまる大きなイベントになると、まちは自主的に地域の食材を活かしたレストランやショップを開業、雇用は拡大、観光スポットの拡大でまちに変化が生まれた。プロジェクトは街の人たち、そして、あちらこちらからやりがいや生き甲斐を感じて集まってきたボランティアによって、ますます加速して繁栄していく。そして、過疎化で増える空き家が、「空家BANK」として再利用されるプロジェクトや、寄付金をあつめる「ふるさと納税」もスタート。消えてつつあった妻有の昔のモノが蘇った。3度目にして、少しずつやろうとしてきたことの意図や成果が、カタチとして見え始めている。

●栃木蔵の街かどアートプロジェクト 
 さて、そうした事例が生まれるか生まれないかの2008年、縁があって地域活性を目標にしたプロジェクトに携わることになった。内閣官房の地域活性化統合事務局が2年ほど前から取り組んでいたイベントのひとつ、栃木県栃木市の地域活性である。栃木県というと日光や宇都宮が有名で、なかなか栃木という場所に客足が伸びない。目立った温泉地というわけでも、特別な名産品があるわけでもなかった。そこに、なにか見どころをつくって街の魅力を再認識してもらえるような試みを実現できないか。街の魅力にもう一度スポットを当てることはできないか。地元の人たちに、自らの住む街に誇りを持って生きてもらうことはできないか。そして、栃木を地域活性の成功モデルとして確立し、日本中に展開することができないか。名実共に、国が積極的に取り組んできた地域活性であった。
 2007年から始まった栃木市の地域活性プロジェクトは、当初「栃木蔵の街かど映画祭」としてスタートした。川越には及ばないものの、栃木市は現在でも大正に建てられた数多くの蔵が残っている街。蔵が両脇に建ち並ぶ川沿いは、この街の顔でもあった。ここに目をつけたプロデューサーが、この蔵一軒一軒を映画館として利用し、映画祭期間中に様々な映画を見て回れる文化的なイベントを企画したのである。映画の告知とタイアップを兼ねて、監督の舞台挨拶や主演俳優のトークショーなど、様々にコラボレーションを実現しながら、映画ファンを栃木市に呼ぶ、秋の一大イベントとなった。入場者は数千人規模にのぼり、新たなターゲット層を街に呼び込む貴重な機会となった。
 しかしながら、地域活性とは一時的な盛り上がりに終わってしまっては意味をなさない。持続的に街が賑わい、外部の力を借りなくとも街の人たちが自主性と高い意識を保ち、自らの街への誇りと愛情を持って、その担い手となれるかどうかが鍵である。そこで内閣官房のプロデューサーは、映画に限らずジャンルを一気に広げ、多角的に地域を考える試みを始めた。農業、食、芸能、国際交流、そこにアートが加わった。街とアートとの出会い、そしてアート作品のなかでどう地元の人たちが、自らの街を再発見できるかが課題であった。
 私が声をかけたのは、いずれもジャンルを問わず、しかしながら自らのテーマではなく、きちんと場所との対話、人々の対話のもと、自信なりの咀嚼を経て作品制作に挑んでくれると確信した5名ほどの美大生。それに、運営スタッフを2人加え、7人ほどの小さなチームができあがる。私たちは東京から栃木に通うことから始めた。地元の人たちに街を案内してもらい、彼らの自慢の場所を紹介してもらった。カメラとメモを片手に、思い思いに幾度となく街を巡った。現地の美味しいものも、美しい町並みも、古くて廃れたシャッター街も、おじちゃんおばちゃんのたまり場になっている銭湯も、私たちにはすべてが新しく、魅力に溢れている。しかし、たしかにそこには、一昔前の賑わいを微かに感じさせながらも、今ではすっかり人気の少ないシャッター街になってしまった、静かな町並みもあった。
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 次に私たちは、蔵を1棟貸して下さることになった80歳のおじいちゃんを尋ねた。そして、大正に建てられた古い蔵の掃除を始めた。マスクをしても、口の中が埃だらけになるほどの、蓄積した埃を2日間かけて掃除する。真っ黒になりながら、そこを小さい美術館にするために、徹底的に掃除した。その2日間の滞在は、街の人たちとの貴重な交流の場にもなった。80歳のおじいちゃんとの理解を通わせる大切な時間にもなった。こうしたプロセスを経て生み出された5作品は、いずれも街の人とのコミュニケーションを目指した作品となっていた。情報デザイン学科の学生は、駅からこの期間限定の蔵の美術館までの道のりを、川沿いにスケートボードに乗って映像を撮り、展示では鑑賞者がそのスケートボードに乗って動かすと目の前のスクリーンでそれを追体験できるというインタラクティブな作品として完成した。油絵学科の学生は、川に浮かぶ舟を、現地の雑草や野草を使って彫刻化した。現地のこどもたちが大いに楽しむことのできる作品が集まった。
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 私たちのつくりあげた「美大蔵」は、300〜400人が訪れて終わった。きっと映画祭の集客からしたらその10%未満だったかもしれない。しかし、嬉しかったのはそこに足を運んでくれたのは、それまで関わってきた街の人たちだった。あのアーティストたちは、どう栃木を観たのだろう、一体どんな作品をつくってくれたのだろう、すべての作品について作家からレクチャーを受けたあと、満面の笑みで帰っていく姿は、アートが架け橋になれるのではないかと強く感じることのできる「可能性」そのものだった。

●赤坂メディアアート展2009「アーティストインレジデンス」 
 2つめの案件は、東京都港区の赤坂地区総合支所の依頼だ。2008年の赤坂アートフラワーというイベントが記憶に新しいが、毎年赤坂ではアートのイベントを「赤坂メディアアート展」として開催を続けている。港区民から徴収する税金の一部を、区民に還元すべく、文化的な取り組みを実施しているとのことであった。しかしながら、予算が限られていることもあり、なかなか大々的なイベントに発展せず、TBSが資金面で出資をして大規模に開催した2008年の赤坂アートフラワーというアートイベント以外には、なかなか認知もされていない。赤坂アートフラワーでさえも、話題性も高く、来場者数もそれなりに稼いだものの、区民に還元されるイベントとしての評判が振るわなかったということで相談を受けたのである。
 依頼内容のポイントは以下のとおりであった。第一に、区民に還元されるイベントであるはずのものが、2008年の赤坂アートフラワーでは商業イベントとして位置づけられるにすぎなかったということ。そしてもうひとつ、同じ港区、お隣の六本木がアートの街として名高く、森美術館や国立新美術館をはじめとして都内でも有数のアートスポットである以上、正面からそれと対抗するような同等の内容のイベントを開催する意義が感じられないということがある。以上を考えて、もう少しずっしりと地域と根ざしてコミュニケーションをとり、共にひとつのイベントを築き、また一方で、単にトレンドの作品を集めるのではなく、そのイベント自体がアーティストの育成、ないし成長・発展など、社会貢献性のあるイベントにするべく、若いアーティストたちの活躍の場として開放したいという2009年の方針が告げられた。
 ここで私たちが企画したのは、赤坂アーティストインレジデンスだった。栃木で感じた、街の人との深い関係性と、アーティストの試みをオープンに提示していくことによる共感や理解こそ、地域活性のアートプロジェクトに不可欠だという経験を活かし、街に住み、街でつくり、街で発表するプロジェクトを始動させた。作家の選出は、「THE SIX」の歴代出展作家のなかから、全員異なる表現であること、2週間で何らかの作品として完成させること、そして制作のプロセスがアートに詳しくないまちの人にもわかりやすく興味をひけるものであることを条件に6組を選出。日本画、油絵、彫刻、デザイン、アニメーション、インスタレーションの6ジャンルを一同に集めることができた。間もなく、廃校になった小学校の体育館がアトリエとして開放され、2週間の制作期間が設けられた。そのうちの1週間は、ウィークリーマンションを提供してもらうことになり、作家は実際に赤坂に住んで制作に打ち込むことができた。また、町内会やあちこちの自治体から招きを受けて、街の人々とトーク集会を開いたり、写真ワークショップと名付け、それぞれが赤坂の魅力を写真に撮って持ち寄り、講評し合うなどのイベントも実施した。
 しかしながら、大きな落とし穴があった。ここは東京、どうやって客足を伸ばすかという課題だ。まさしく、六本木の隣町、イベントごとには困らない秋の盛り、まだまだアマチュアな若手作家の小さなイベントには注目など集まる由もなかった。地域は外部の手で活性化しなくても、飽きるほどに情報で溢れ、若者やビジネスマンでごった返し、冷暖房・温水プールまで備わった小学校、温室育ちの子どもたちが住む高所得者の街、赤坂だった。街のケーブルテレビや広報誌、新聞の取材などは積極的に行なくれたが、残念ながら客足は増えなかった。一番期待していた、レジデンス期間のお客さんも残念ながら少なかった。ここに栃木の試みでは気づくことのできなかった、アートの役割や魅力、「編集者」「仕掛人」としての課題を突き付けられることとなった。私にとって苦い経験である。

●ふたつのアートプロジェクトを経て
 ふたつのアートプロジェクトは、同様に街に滞在して、街とのコミュニケーションのなかから若手作家が制作をし、外部からのお客さんを招くというものである。さらに、街の人たちに様々な気づきや感動、そのプロセスを経ながら街の魅力を再認識してもらう、そして作家自身も、単に自分個人のテーマへ向かっていく制作ではなく、外部の要素に準じた作品制作を行なうという点で、地元の人たちと作家の両者にとって刺激的で意味ある活動となった。栃木の人たちはアートの認識が変わったとメディアアートを存分に楽しみ、赤坂のアーティストインレジデンスには美大を志すという高校生が美大生とのコミュニケーションを楽しんでいた。作家はそんな鑑賞者のリアクションを、学びに変えて帰っていった。
 このようなプロジェクトにおけるつなぎ役、「プロデューサー」や「マネージャー」は、自身が間に介在することでどんな化学反応が起こせるか、どんな「出会いの提供者」となれるかが鍵となる。しかしこれは簡単なことではない。なぜなら、たしかに栃木の例では、街に滞在しながらコミュニケーションを図り、それを作品に昇華すること、そしてそれを街の人に還元して気づきを持ってもらえたことが何よりの功績であったのだが、これは静かな街で起きたイベントごとであったから成立し得たにすぎない。現に、赤坂の例では、同じような試みをより計画的に実施したにもかかわらず、情報の溢れた東京ではこれがまったく人々の関心を引くことができなかったのである。赤坂の例ではむしろ、プロデューサーは作家と街の人とのコミュニケーションから一旦離れ、そのコミュニケーションがいかに客観的におもしろいか、ターゲットに魅力を語り興味関心をひくという意味で、ターゲットとの関係性を重視するべきであったのだ。栃木とちがって、鑑賞者と街の人が必ずしもイコールではない。赤坂の街はオフィス街で、日中街ゆく人のほとんど、赤坂に住んでいる人ではない。だからこそ赤坂に特別な愛着もなければ関心もない。プロでも、こうしたイベントを多くの人に認知されるところまで広報することは難しいと言われてはいるものの、「編集者」や「キュレーター」に求められるリサーチや調査の甘さ、仮説と考察の浅さは大きな敗因となった。あたりまえに編集者として大切なこの役割にいち早く気づくべきであった。「キュレーター」として赤坂で生むべき化学反応は、鑑賞者との間に生まれるものだったのだろう。
 また、学生が運営する難しさも痛感した。なぜならば、内閣官房がずっと大切にしてきているとおり、地域活性は長期スパンで継続的に持続する必要がある。何度も回数を重ねることによって、それが少しずつ街の人々に浸透し、妻有の大地の芸術祭のように、土地の人たちが自ら立ち上がり行動に移すようになる。彼らの笑顔が人々を惹きつけ、若者たちが妻有に移住するようにもなってきた。そういうことの積み重ねでしか、本来地域活性は実現しないのだ。一発屋で「お祭り」として終わってしまっているものがほとんどであり、私が取り組んだアートプロジェクトもそのひとつにすぎなかった。だからこそ、栃木や赤坂の例からもわかるように、こうしたプロジェクトは公的機関の出資で成り立っているのが現状である。
 そのたとえとして、最後にひとつ、2010年に開催された瀬戸内国際芸術祭を紹介しようと思う。2010年7月から10月までの105日間に行なわれたこの瀬戸内国際芸術祭もまた、総務省、経済産業省、国土交通省、観光庁、といった組織が後援として名前を挙げた。これもまた大規模な国家プロジェクトだったのである。「海の復権」をテーマに、直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島および高松港周辺を会場に開催したこのアートプロジェクトは、当初30 万人の来場者見込みでスタートしたところ、最終的には、見込みの3 倍以上となる約93 万8 千人に達した。20代から30代の女性、特に東京や大阪などの都会からの来場者がメインだったことを踏まえると、やはりアート観賞という以前に観光としての位置づけが大きかったように思われる。また、注目すべきはボランティアとして現地でイベントを手伝った「こえび隊」の登録者数が2600人を超えたほか、芸術祭関連の雇用創出として300人以上が新規雇用されたことである。実行委員会から発表された報告書に記載されている島民へのアンケートによると、「芸術祭が終わった現在、芸術祭は地域活性化に役立ったとお考えですか」という質問に80%以上の人が「大いに役立った」「少しは役立った」と応えている。若者、観光客と話ができて生き生きしたという声が多く、当然105日間もの長期で普段では考えられないほどの観光客が訪れて「疲れた」「休む間がなかった」などの声もあがったものの、島民、観光客共に満足度の高い好評のアートプロジェクトとして幕を閉じた。私自身は、アートを楽しむことはもちろんのことながら、普段体験することの少ない島を船で渡り歩くことや、田舎暮らしのおじいちゃんやおばあちゃんの生活を垣間みること、街が一体となって観光客を受け入れる姿勢を見せる点などは、とても充実した体験となった。これは、アートイベントという以前に、地域活性を目指したイベントだからこそ体感できたことなのかもしれない。
 エンターテイメントに溢れている昨今だからこそ、街のありのままの良さをアートと共に見せ、共に考えるイベントとしてこうした事例が蓄積できたことは少なからず価値があると思う。そしてまた、美術館での美術鑑賞でしかアートと触れる機会を得られなかった日本人にとって、あらたなアートの楽しみ方を提示したという点で、プロデュースの視点から見てもおもしろかったのではないかと思う。作品の質や「キュレーション」の観点から考えれば、必ずしも作家の選出方法や内容については万全ではなかったにせよ、このプロジェクトが国家の地域活性プロジェクトである以上、高い評価が下されてしかるべきではないだろうか。
 今後もますます地方の過疎化は進んでいくことだろう。そのなかで、地域活性は逃れることのできない課題かもしれない。しかし、地域活性のアートプロジェクトが全くの無力でないことは、越後妻有の大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭などの試みで実証されつつある。莫大な予算と、尋常ならぬ運営関係者の数を汎用性ある規模に少しずつ縮小して、他の地域でもうまく実現できるようにすること、そしてまちの人たちがある程度主体的に動くことによって、持続的にこれを続けていくことが不可欠だ。これを踏まえて、アートによる地域活性がどういった方向に進展していけるのか、どう持続可能なモデルとして定着させることができるのか、いよいよこれからの10年間がその本番となることだろう。


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「編集の考察」第四章(2)

※卒論「編集の考察」の一部を抜粋して掲載しています



(3)展覧会設計にみるアートの編集「キュレーション」

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 私は多摩美術大学芸術学科の教授であり、東京都現代美術館のチーフキュレーターである長谷川祐子教授の開講するゼミに所属することを決める。もともとは書籍の編集に興味があった私が、キュレーションの勉強をしようとおもった理由には、まずひとつに、かつてから長谷川教授が「キュレーターとはメディエイターであり、プロデューサーである」と語り、アートに限らず、世の中のあちこちで求められ必要とされる役割であるとして、広くメディエイター・プロデューサーを育てようという姿勢をもっていたことがある。それは、私がこの論文で述べてきた「編集」というものに非常に似た側面をもっていると感じたのである。そしてもうひとつ、実践的な取り組みにチームで取り組めること、そしてそれを業界第一人者の長谷川教授の指導の元に挑戦できるということである。(考えてみると、それまで取り組んできた「編集」的な実践のほとんどが、手探りで独学、誰にも指導を受けことがなかった)現に、長谷川先生のほどよく放任的なゼミの方針で、場所や作家の選定、コンセプトやテーマ、作品の内容や見せ方に至るまで、基本的には学生たちの自主性に任され、各々の得意分野や興味関心が尊重されていた。そのため、私にとってはまたも「編集」を実践するいいフィールドとなったのである。
 展覧会設計は、別名CPUE(Curatorial Practice in the Urban Environment)とも呼ばれるキュレーションの実践を行なうゼミである。年に一度、秋におこなわれる展覧会を目標に据えて、半年間かけて展覧会の準備を重ね、実現する。展覧会設計で行なわれる実践的なキュレーションは、都市での展覧会設計をテーマに、展覧会の会場を探して選ぶところから始まる。会場には毎年美術館やギャラリーといったいわゆる美術展を実施するスペースではなく、個性やメッセージ性の強い会場を選ぶ。特に、たいていは普段美術に出会わないような日常的なスペース。一般的に「美術・アート作品は美術館にいくもの」という日本人の固定観念を払拭する、現代美術ならではの試みである。私にとって1年目となる2009年の展覧会「5+1:ジャンクションボックス」展は裏原宿にあるVacantというスペースにて開催。原宿ならではのコンセプトメイキング、街とのコラボレーションが大きな課題となった。2010年の展覧会「陸離として〜glistening light〜」は、商業施設代官山ラ・フェンテ内にあるsedonaというスペースを利用させていただいた。いずれも人通りの多い街中で、ギャラリースペースとしてではなく、様々なイベントに利用される特殊なスペースである。これらの展覧会を、10人〜18人ほどの学生で準備してきた。

 この展覧会設計は、入学してからこれまでの長谷川教授の講義で学んできた「キュレーターの仕事とはなにか」がベースとなる。ここにも、私が「編集」という観点をもちながらキュレーションを学んできた理由を伝える大切なキーワードがあるので紹介しておく。
長谷川教授によれば、キュレーターは、「美術作品に関する知識と判断力をもった専門家であると同時に展覧会企画者であり、さらに作家と場、作品と観客などの間の関係を形成していくインターメディア、触媒でもある」とある。これは他の業界においてはプロデューサーといわれる役割とほぼ等しいのだが、日本では戦後この展覧会のプロデュースが、「キュレーション」という言葉として独立した。プロデューサーという役割のなかで、出版に特化したのが「編集者」であることを考慮しても、やはりキュレーターの担う役割は「編集者」の仕事と非常に親和性が高い。
 なかでもキュレーションの具体的なプロセスは非常に「編集」と似ている。長谷川教授によれば、キュレーターの仕事は大きく3つに分けることができる。調査、企画、展覧会の実施である。これは後藤繁雄のいうところの「モノや人や情報を『集め』、そして組み合わせ、『編んで』ゆくこと」であり、それを書籍の編集であれば書籍として実現させることを加えてこの3つに対応することになる。
 ひとつめの「調査」のフェーズでは、まず作品をできるだけ多く見ることが土台になる。様々な展覧会に足を運び、「この作品が好き」「この作家とは相入れない」、そういう個人的な感情も大切にしながら作品に向き合って考える。なぜ好きで、なぜ嫌いなのか。「質の高い展覧会をできるだけ見ること、(中略)いい作品、展覧会に巡り会うためのセンサーを自分の中でも養うこと」が必要だという。現代美術は特に、情報戦になっている傾向が強く、その点でも量ではなく質のいい情報を仕入れることが求められるが、同様のことが書籍の編集にも言える。無数に雑誌が発行され、さらにはインターネットメディアの興隆により即時的に情報が出回るなかで、いち早く最新の情報を取り入れることはもちろんのこと、それだけ情報が充実したなかでも人々が他メディアでは収集できない情報や、ある情報の対象に対する新しい視点を提供できるかどうかが問われる。目まぐるしく変わりゆく時代のなかで、早ければ半年、長ければ2年も先の展覧会にどういった展覧会が相応しいのか先見性をもって考え、最終的には自らが見たもののなかで決断・判断をしていかざるを得ない。だからこそ、自らの足で足しげく作品を見てまわり、自分なりに作品と対峙して考えながら、同時に自分の好きとか嫌いとかいった作品に対する感想が揺るぎない動機となる。

 ふたつめの「企画」のフェーズでは、まず第一にコンセプトが必要となる。いかなる角度から作家の仕事と、作品のもつ魅力をみせていくかである。「作品の選択、展示構成、カタログデザイン、テキストすべてがこのコンセプトの下に統一されることによって展覧会の強度が増す」ため、コンセプトははじめにキュレーターが考えて設定すべきことである。
 私たちの展覧会設計では、展覧会会場を決めたのち、「調査」のフェーズで集めた街の特性や魅力のもと、その場所を通りかかったり訪れたりする人にどんな展覧会を届けたらいいかを考える。同時に作家の候補をピックアップしながら、自分たちにどんな展覧会が作り出せるのか模索していく。これが揺るがないコンセプトになっていく。概念的なコンセプトから具体的な作品や空間、展覧会構成に落とし込むことができれば、「編集」の観点からは理想の展覧会が作れるのかもしれない。しかしながら、ここで私たちはアートで実現できる可能性を見極めつつ、帰納法的なプロセスも取り入れながら進めざるを得ない。なぜならば、現代美術の作家の作品は、共に作り上げるものであり、展覧会の会期本番になってみなければどんな作品が現出するかわからない。作家との対話や様々なコンディションを読み解く中で、むしろそこに集まってきたものを編み直してコンセプトや概念に昇華していくことが多く求められた。
 2009年に選んだ原宿Vacantは、裏原宿と呼ばれる地域に位置する小さいスペースで、人々が用がなくてもふらっと立ち寄り集まる場所を目指して、その年の春オープンしたスペースだった。まだまだ認知度は低い場所であったものの、この地域にはたくさんの若者が集まり、ファッションや音楽、美容に興味の高い人々が集まっていた。そしてまた、古着屋だった当時の内装がそのまま活かされた、赤い床と木製の壁、自然光があまりはいらない暗い室内に生きる白熱灯のあたたかい空間も、Vacantの魅力的な点であった。コンセプトメイキングに並行して、原宿のフィールドワークから「ファッション」や目まぐるしくかわる「変化」といったキーワードを元に、私たちは作家を探し始める。まさに演繹と帰納を使い分けて、迷い確信を掴めないままに進めていかざるを得なかった。そして、もうひとつVacantの欠かせない特徴に焦点が当たる。1階が誰でも自由に立ち入ることのできるオープンスペースになっていて、カウンターでコーヒーを頼んでお茶をするもよし、たくさんならべてあるZINを立ち読みするもよし、並べてある雑貨を買っていくもよし。訪れた人たちが円形のテーブルでなんということもなく会話を楽しんで帰ることもあるという特徴である。ターゲットを知り、空間の特性を知る。そうして私たちは、会期中に「変化」を生み出す作家や都市と空間の特性から、「対話」をコンセプトに設定した。
一方で2010年の代官山sedonaは、空きテナントになるべく手を加えず、もともとある空間に、極力何もしない「商業のエコ化」という都市に根ざした明確で強いコンセプトをもった場所であった。さらに、その展示空間は三角形でそのうちの一辺が弧を描き大きさの違う5枚のガラスに囲まれた特殊な建築空間であった。私たちは、ガラスから自然光が入りこんでいることに着目し、この自然の光を人工的に変容させる展覧会を目指し「光」をコンセプトに設定した。
 こうしたプロセスは、読者ターゲットを分析して行なう雑誌編集と非常に親和性が高かった。しかしながら、繰り返し述べている帰納法と演繹法との使い分けの重要性は、それまでの私の「編集」の実践では気づくことができなかった、この展覧会設計で学んだ一番大切なことである。なぜならば、私がそれまで『PARTNER』や『THE SIX』その他のプロジェクトのなかで実践してきた大半のことは、コンセプトを決め、それに当てはまる材料を、取材や投票やリサーチを経て集めてくる。これを素材としてどのようなメッセージを包含し、どのような表現で媒体に載せて伝えるかというプロセスに固執してきたし、それでこそわかりやすくて伝わりやすいものができあがると信じ込んできた。しかしながら、現代美術のキュレーターは答えがわかりきった展覧会を企画するようなことにはならない。「20世紀末から解釈者としてのキュレーターから状況がかわり、これを変容させるという意味でのインターヴェンション(介入)的な動きにキュレーターの役割が変わっていることは指摘されるべきだろう」と講義で語られたように、予測できない相互作用のなかに自らも巻き込まれながら、作家もこれに巻き込みながら、サイトに対する新たな解釈を行ない、作品をつくっていくことになる。昨今の現代美術のキュレーションの傾向として大変強く表れているように思う。また、私たちの展覧会設計もまさにこの方法で進められてきた。これは、単に作家とともに展覧会をつくりあげるといった単純なものではなく、コンセプトのもとに作家との関係性のなかで偶発的に生まれる自由な展覧会の出来上がり方を楽しみながらも、キュレーターとしてその行く末を可能な限りで予測し、自身の意図の範囲に集結させ、展覧会としての目指すべきゴール地点にことを運ばなくてはならないのだ。そのためには、時代を明確に読み解き「従来の価値観や言説を次の段階に進めようという明らかな意図と、この意図と背後から押し出す時代の趨勢」が必要とされる。それがまさに、上記で述べてきた、帰納法と演繹法の使い分けであり、作家を先に決める、作品のプランを先に決め込んでしまうのでもなく、逆に展覧会のコンセプトやテーマを丁寧に決め込んでそれにあった作品だけを抽出するということでもない。巧みにこれらを使い分ける展覧会の作り方こそ、現代美術の歴史を共に築き上げる上で欠かせない点であるように思う。

 さて、3つ目の「展覧会の実施」では、長谷川教授は第一に「ヒト、モノとの関係」を挙げている。「展覧会のコンセプトは作家への”拘束”ではなく、出品参加を承諾した作家への制作の動機付け、しかもその作家が自発的にかかわることを欲するような動機づけとして存在する」この指摘に従えば、キュレーターが求められるのはそのプロジェクトの実現のなかで、作家の能力を最大限に引き出しながら共に最終形態を磨いていくこと。単に出来上がったものを並べるだけでは成立しないということである。
展覧会設計の実践のなかでも、キャリアの深いプロの作家を相手に、まずは展覧会に興味をもって出品参加を承諾してもらうこと、そして彼らの新作制作に対する意欲を引き出し、これまで見たことのない作品の創出を目指して共に関わることの難しさを痛感した。一番難しいことは、新しい作品を作る上でのプロポーザルの検討であった。作家なりにサイトを読み解いて提案してくるのだが、そのプロポーザルは、必ずしも私たちの期待に沿うものばかりではない。上がってきたものに対し、「NO」を言いながらも制作意欲を掻き立てて、より展覧会の方向性に重なる作品を引き出すことは、限られた時間と作家のモチベーションとの間で非常に難しい試みだ。長谷川教授のアドバイスを受けながら、時に作家に悔しさを掻き立てながら新作のプロポーザルにその想いをぶつけてもらうように言葉をかけることもあれば、どういう作品をと具体的に指示するのではなく、キュレーター側がサイトから読み取った分析を事細かに伝えることもある。状況に合わせてカードを切っていく判断は実に難しく、長谷川教授がキュレーターとしての経験値のなかで築き上げてきた判断基準であった。これはまさに「ヒト、モノとの関係」の実践であり、実践を通してしか学ぶことのできないものであった。
 また、会場構成において長谷川教授は編集者と重ね合わせながら求められる素質を語っている。「プロデューサーとしての総合的な能力は、展覧会を構成していくプロセスが終始共同作業であることと結びついている。(中略)空間、状況をはかるセンスはそういった面ともかかわっている。むろんむしろ編集者感覚で空間を立体の本のように知的に構成していくキュレーターもいて、それはそれなりにその人の空間感覚が反映されている」ここは表現方法ともいうべき範囲で、どのように作品を配置するかの議論は感覚的なものも影響を及ぼす。テクニックとして、明るい部屋と暗い部屋の明暗による緩急の付け方や、作品のメディア、形態(絵画作品なのかインタラクティブに鑑賞者も作品に関わることのできる作品なのかなど)のバランスに工夫を凝らした展覧会構成の方法論はあるにせよ、限られた予算のなかでどの作品をどう効果的にみせるかというのは、複数人でキュレーターを名乗る展覧会設計においては一番意見の別れる論点となった。しかし、この議論こそ人を魅了させることができるか、納得させることができるかという大切な関門であり、より深い議論を重ねるからこそ、様々なケーススタディーを経て展覧会を迎えることができた。

 2年間の展覧会設計は、世の中の数多くの展覧会とは規模も異なり、社会的影響力は弱いかもしれないが、それでも確実に、一般の美術館ではできない試みを実践してきた。それは長谷川教授がキュレーターに求められる素質として語っていながらも、私が日頃見に出かけているような既存の制度化された美術館のなかではなかなか実現が難しい、キュレーター、作家、サイトが共に共鳴し合い、互いに議論を重ねあいながら、その議論の元に作家は作品を練り直し、キュレーターはその作品をよりよく見せる工夫を凝らし、互いに干渉しあいながらつくっていく展覧会である。
 展覧会をもひとつの作品として捉えることさえできる試みであり、これはキュレーションを考え直す上で学生であることを抜きにしても、大変貴重な出来事だったのではないかと思う。そして、こうした試みにこそ「編集」の観点からも学ぶべきことがたくさんあるように思う。
 これらのキュレーションの実践ならびに、第一線で活躍する長谷川教授の講義を通して学んだキュレーションのなかに見出した「編集」の大切な要素を3つにまとめて述べたいと思う。ひとつには、先に述べた編集のプロセスにおいて、対象となるヒト、モノ、サイトとの対話のなかで生まれる偶発性を積極的に巻き込みながら、演繹法と帰納法と使い分けて変容させ、従来の価値観を次の段階に進めるような試みを、編集の「編み直す」プロセスでも実現できるかどうか。大変大きなヒントになるのではないかと思う。またもう一点、長谷川教授が授業の最後に述べた「いわゆるキュレーターと呼ばれる人たちは、丹念なリサーチと作品への記憶力、作品をいかに解釈し、伝えるかという言語化において秀でた人であり、未知のものにふれることを恐れない知性と、芸術に対する愛と欲望に溢れた人々である」という言葉は、まさしく広い意味での「編集者」が持つべき姿勢であるように感じる。編集者がその大半の時間を企画でも執筆でもなくリサーチに費やすという言葉の通り、リサーチの重要性と、そこから何を選び抜くのかという判断力は共通して不可欠な能力であるように思う。そして最後に、私はこの展覧会設計のなかから、編集は後藤繁雄が述べたように「『編集』とは文字通り、モノや人や情報を「集め」、そして組み合わせ、「編んで」ゆくこと」でありながら、さらによりよい「編集」を目指す過程では、「間に入ることによって新しい出会いを互いに提供し、それぞれの良さを引き出し引き立てること」も求められるのではないかと感じた。それでこそ、人と人との間に立ち、関係を形成していくインターメディア、触媒としての役割であるように思うのだ。
 こうして私は、さらに異なるプロジェクトへと進んでいく。それは、単に作品を一同に集めて鑑賞者に届ける「THE SIX」のような総合展覧会でも、ひとつのコンセプトの元にメッセージを伝えるためにキュレーションした「展覧会設計」のような展覧会でもなく、潜在的な魅力をお互いに引き出しあうような「仕掛け」を生み出す「編集」である。



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