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08:00
この三日ほど反省しておりました。反省というよりは、自分自身がとても軽はずみであったと後悔していました。よく知りもしないことを、知りもしないままで想像をして、それを言葉にする。浅はかでした。申し訳なく思います。

反省をして、まず基本的な事柄を知ることから始めました。僕の白血病というものに対する知識は、ドラマや映画のなかで得たものであり、しかも遠い昔の話。「血液のがん」という呼び方でわかった気になっているだけで、その実、何がどうなっていて、どうつらい病気なのか考えたこともありませんでした。

インターネットを活用するのは無精かもしれませんが、それぐらい何も知らないのであれば、十分に助けにはなるでしょう。幸い、そうした人が活用できるように、国立がん研究センターでは一般の人向けの情報サービスを展開していました。それによると一口に白血病と言ってもさまざまな種類があるといいます。「がん」にも胃がんや大腸がんや食道がんがあるように、白血病にも種類があるのだそうです。

<白血病の分類>

●急性白血病
・急性骨髄性白血病
・急性リンパ性白血病/リンパ芽球性リンパ腫
・急性前骨髄球性白血病
ほか

●慢性白血病
慢性骨髄性白血病
慢性リンパ性白血病/小リンパ球性リンパ腫
ほか

●成人T細胞白血病/リンパ腫
●骨髄異形成症候群
ほか

https://ganjoho.jp/public/cancer/class_leukemia.html

総じて言えるのは「がん化した血液細胞が増殖する病気」であるということ。「がん」が「がん化した細胞が増殖する病気」であるように、それが血液細胞に起きることをして白血病と言うようです。がん化した血液細胞が大量に増殖することで、血液が本来果たすべき役割を果たせなくなることによる不調、がん化した細胞が臓器に浸潤することで起きる不調、というのが主な症状であるとのこと。

白血病と言う名前だからと言って血が白くなるわけではなく、また、白血球が顕著に増殖する場合もあればそうでない場合もあるそうです。血の赤は赤血球の色ですが、正常な赤血球の数が減少することで、本来よりも赤味が薄くなることもあるようですが、もはや名前自体にはあまり意味がないのかもしれません。

大きく分類される「急性」と「慢性」では、症状や性質にも違いがあるようでした。「急性」は病状の進行が早く、急に症状が現れることが多いもので、まだ成熟途中の細胞ががん化して無制限に増殖することが特徴である模様。一方、「慢性」は細胞はがん化しているものの成熟することはでき、本来の血液としての機能も果たすことができると言います。そのため症状の進みは比較的遅く、そのぶん単なる疲れや貧血と思ってしまい、発見が難しいとも。両者は性質が異なる別の病で、「急性」から「慢性」になったりするわけではないそうです(※「慢性」が急激に悪化することはある)。

そうした大きな分類に加え、成熟途上のどの段階の細胞が増殖しているのか、どんな要因で起こったものかによって細かく分類され、それぞれに治療法や症状も異なるそうです。まさに「人それぞれ」。「白血病」という同じくくりにおいてもひとりひとりで状況は異なり、だから過去の事例と引き合わせてもそれで何かを判断できるわけではなく、「あの人の場合は」「この人の場合は」といったことを考えても仕方がないように思われました。

だから、その点については、患者と主治医と家族とがわかっていればよく、周囲がいたずらに想像をふくらませるのはよくないだろうと強く思いました。よい想像も、悪い想像も、どちらも勝手なふるまいであり、よくないことであると強く思いました。楽観視することも、その逆も、想像でしかなく、それは適切な励ましや支えにはならないだろうと強く思いました。


治療にあたっては、いわゆる「がん」での外科的な手術による治療ではなく、抗がん剤や内服薬による療法や、「骨髄」「臍帯血」などによって血を造る幹細胞を移植する療法があるとのこと。血液がんは一般の「がん」よりも薬による治療の効果をあげやすいそうで、「通院しながらお薬をもらう」といった形で治療に取り組むケースもあるのだとか。

とかく「すぐさま移植を」と考えてしまいますが、移植にあたってはまず「大量の抗がん剤と放射線によってがん細胞を滅し」(※その際に正常な細胞も一緒に打撃を受ける)、そこに正常な細胞を移植して定着させる…という流れだそうで、患者への負担は大変大きいものだとのこと。そもそも移植に耐え得る状態であるかどうかといった問題や、型が一致するドナーが見つかるかどうかといった問題もあり、「総合的に」判断されるものであると。

そうした治療を行ないながら、「寛解」というがん細胞が存在を確認できないほどに減少した状態を目指していくのだそうです。近年の治療法の進歩によって、寛解率は高まっており、たとえば急性骨髄性白血病においては完全寛解率が80%とする研究結果も見られます。

ただし、「完全寛解」という「すっかりよくなった」かのように聞こえる状態であっても、それは完治とは異なり、そのままおさまっていることもあれば、再発することもあるもの。何兆個もの細胞がある人体ですので、見つけられないほど少なくなってもなお100万個といった規模のがん細胞が存在する可能性は残り、ずっと付き合っていく類の病であると言います。

だから、元気を取り戻し、社会復帰していても患者や家族には常に不安があるでしょうし、日常的な体調不良を病と結びつけてしまうこともあるでしょう。そのことを胸に留め置かないと、また勝手に「よい想像」や「悪い想像」をしてしまいかねないなと思いました。治療の効果は高まっている、けれど常に不安はある。「悪い想像」をするようなものではなく、けれど「よい想像」だけを膨らませてもいけない。そのことをずっと心に留め置かないといけない、と。


少し聞きかじったくらいでは何もわからないですよ。

でも、「わからない」ということをわかったことで、変化はありました。

僕は一番はじめは、今よりも少し「悪い想像」寄りに気持ちが傾いていました。その後、新聞の記事や似たようなケースの人々からの励ましの声を見聞きするうちに、今よりも少し「よい想像」寄りに気持ちが傾いていきました。けれど、そこからまたいろいろと聞きかじっていくうちに、「わからない」ということをわかり、自分の軽々しさを知りました。

世の中にはいろいろと辛いことがありますが、一番難しくて一番大切なのは「人それぞれ」である痛みや想いを尊重することだと思います。「私は今これがつらいのだ」という痛みや、「私はこうありたいんだ」という想いと見当違いのズレたところから何かをするのは、とても危ういし、よくないことだと思うのです。「頑張れ」という励ましの言葉がかえってつらかったり、同情や慰めに怒りを覚えたりすることがあるのも、「人それぞれ」の痛みや想いとズレているからだと思うのです。

コチラが勝手に何かを期待して、それが「人それぞれ」の痛みとズレていれば重荷となります。

コチラが勝手に何かを諦めて、それが「人それぞれ」の想いとズレていれば無礼でしょう。

そのズレが小さければ小さいほど、痛みや想いに寄り添った言葉や経験を伝えることができるわけですが、自分は到底それに及ぶべくもありません。その痛みや想いを知らない者が何かを伝えるなんておこがましい。それは似た痛みを知る経験者や、近い場所で想いを共有する家族・仲間だけが、ようやくできるかもしれないこと。わかりようのない痛みをわかったような顔で、軽々しく「よい想像」や「悪い想像」をしてはいけないし、ましてや相手の痛みを差し置いて自分の落ち込みを先に表明するなど。

そして、「私はこうありたい」の想いとズレないように一層の慎重さを持ち、「頑張る」と言うならば「頑張れ」と言い、「つらい」と言うならば「つらいな」と応じ、「応援してね」と言うならば名前を呼び、想いをそのまま受け止め、強すぎず弱すぎないチカラでその通りに後押しするようにしなければいけない。「ベストを尽くす」というのはその通りですが、そのベストは本人の想いに基づくものなのであって、それをコチラが勝手に決めつけてはいけない。そう肝に銘じて、努めていこうと思いました。少しでも痛みや想いに近づいていけるように。

こういうときは拍手と名前だなと思います。

「拍手」はいつでも、今その瞬間とそこにいたる時間を肯定し、そのままを讃えることができます。

「名前」は相手の想い次第で「頑張れ」にも「いいぞ」にも「大丈夫」にも「次こそは」にも聞こえる、ズレの少ない表現です。

今は心で拍手を送り、名前を呼びながら、どこかで直接それを送れる機会を待ちます。

いつでもいい、どこでもいい、という傾きのない気持ちで。

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