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07:00
相撲取りはバカなんですよ!

稀に見るバカな会見でした。横綱・日馬富士の引退会見、それはもう目も当てられない愚かさで、胸が締め付けられるような想いです。相撲が好きでなければ、日馬富士に対して好感を持っていなければ、「バカがバカをやって、バカの上塗りをした」と思って終わりなのでしょうが、僕はそのバカさ加減に目を覆いながら深く沈み込むような気持ちです。

まず、大前提としてこの引退は避けられないものです。事件のあらましは幾重にも積み上がった情報戦のフィルターにより、一層見えなくなっています。しかし、最初から最後まで変わらない一点、酒席で日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせたという「事実」は、横綱の品格を貶めるものです。横綱に下がる地位はありません。横綱が横綱たる資格がないとき、土俵を去るしかない。それが横綱です。ビール瓶であろうがリモコンであろうが、重傷であろうが軽傷であろうが、有罪であろうが不起訴であろうが、それは変わらない。

ならば、本来なら会見などしないほうが得です。すでに鳥取県警が傷害事件として捜査を進めるなか、無用な見解というものを明かす必要はありませんでした。すべてを「捜査中なのでお答えできない」とクチをつぐむほうが得なのです。「酒のせいではない」などと言う必要はなかった。もし裁判となったとき、「酒のせいだった。すまん」と情状酌量を求める戦略もあるでしょう。「礼儀・礼節を正すため」という釈明も必要なかった。ただただ平身低頭、申し訳ございませんと繰り返すほうが得だった。

弁護士と相談のうえ、被害者との示談・不起訴を目指すというのが、日馬富士の人生の損得だけを考えるなら最優先すべきことだったはず。何故あのような無用な発言で、退路を断つようなことをしてしまったのか。あのような会見に臨み、言わなくてもいいことを言い、質の低い質問者に苛立つような姿を何故見せてしまったのか。まるで「私どもは悪いことをしたとは思っておりません」と言うかのごとき態度を、師弟そろって何故見せてしまったのか。

日馬富士はもうモンゴルに帰るのです。このような形での引退となる以上、帰化もしておらず、夫人もモンゴルの方である日馬富士はモンゴルに戻るほかありません。相撲との縁を絶ち、ちょうど朝青龍のように「昔、横綱・日馬富士だったビャンバドルジ氏」になるのです。角界がどうなろうが、部屋がどうなろうがもう知ったことではない。ただただ平身低頭、土下座土下座土下座で起訴猶予を得たのち、モンゴルに帰ってから舌を出せばよかった。

にもかかわらず、このような無策な会見に臨み、バカの上塗りをした伊勢ヶ濱親方には怒りすら覚えます。今、言い返したってどうにもならないじゃないですか。弟子のことを本当に思うなら、今そこですることじゃないでしょう。過去の理事選での貴乃花親方との怨讐も含めて、このような事態に至った背景には伊勢ヶ濱親方の無能無策があると思わずにはいられない。

「お前は日本語が不得手なのだから、それを利用して、時間が過ぎ去るまでモウシワケゴザイマセンデシタとひたすら繰り返せ」と何故指示してやれなかったのか。ここで多少の自己正当化ができたところで、何もなかったようにもとに戻るはずもないのです。もしかして弁護士との相談すらしていないのではないか。報道からの2週間、何をしていたのでしょう。火に注ぐ油でも汲みに行っていたのか。僕の手元にカラオケのリモコンがあったら、伊勢ヶ濱親方に振り下ろしたいような気持ちです。そこで耐えなくてどうするのか……と。

<画面に向かってカラオケのリモコンを振り下ろすイメージ>


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この事件の背景には、古き角界の体質というものがあります。「かわいがり」と呼ばれる厳しい稽古。それはときに特定の弟子を、何度も何度も土俵にたたきつけ、心身を追いこむものです。それは「体罰」「いじめ」「シゴキ」「愛のムチ」など言葉を置きかえただけでまかり通る古き日本の伝統作法、有り体に言えば「暴力」です。

それが現代日本では到底認められるはずもないこと、そしてその暴力の果てに何が待っているかを、2007年の時津風部屋での暴行死事件で角界は学んでいなければいけなかった。いや、学ぶまでもなく、「殴れば人は傷つき、やがて死ぬ」ことは当たり前のこととして知っていなければいけなかったのです。

しかし、この問題がこのような経緯をたどったことは、角界のほぼ全域に渡り「殴って指導する」ことは、当たり前であり、OKであり、問題がない行為だという認識があったがゆえにほかなりません。貴乃花親方の報告が遅いなどと指弾する以前に、日馬富士の暴行の際に同席していた力士衆が本件を報告しなかったことが、そうした体質があることの何よりの証左です。

白鵬は、鶴竜は、照ノ富士は、静かに息をひそめている力士衆は、「これは決して許されない行為だ」と思わなかったのか。そういう意識がないからこその「本人同士の手打ち」であり、「協会への報告遅れ」であり、「報道によって事態が発覚する」なわけでしょう。それは腹の底に「この程度はよくあることですよね」という意識があったからでしょう。だからこそ、伊勢ヶ濱親方と日馬富士もあの態度なわけでしょう。

もしかしたら、日馬富士が学んだ日本、日馬富士が学んだ相撲とは、そういうものだったかもしれない。

日馬富士は、日本そして角界の「上下関係」を重んじる(儒教的な)礼節にいたく感銘していたといいます。それ自体は悪いものではないと思いますが、そこに「暴力を伴う悪しき伝統作法」が混ざり込んでいたのではないか。よい部分だけを遺し、悪しき伝統を改めることができていたら、日馬富士は最後まで土俵をまっとうできたのではないか。伊勢ヶ濱親方は「なぜこんなことになったか不思議でしょうがない」と言っていましたが、不思議で済ませたらあまりにも甲斐がない。

モンゴルから遠く日本までやってきて、日本と相撲を愛してくれて、類稀なる才能があり、それを努力で開花させ、幾多の名勝負を演じた力士が「暴力横綱」として去る。そのような事態に至らしめたのは、角界の古き悪しき体質が引きつづき残っているからにほかなりません。あの愚かしい会見で日馬富士が語った「礼儀・礼節を重んじる」という言葉。それを暴行の理由とする男に、正しいやり方を授けてあげられなかった。それは角界全体の問題として受け止めなければいけないでしょう。

立場が上のものは、年齢や地位によってそうあるのではなく、「品格、力量抜群」だからこそ上にあるのです。礼儀・礼節はその品格や力量への敬意から生まれるものであり、ならばなおのこと「殴って指導する」などというのは間違いであり、「殴って指導する」ような者に礼儀・礼節を保つことなどできようはずもない。その見本たる横綱が、師弟そろって品格・力量十分ではなかったことが、あの愚かしい会見を通じて一層痛感させられるようで、ただただ残念です。

ただ、そんな愚かさも含めて「全身全霊」である日馬富士への好感は、やはり消せないのだとも、僕自身は思います。あの笑顔、激しくもいたわりのある優しい取り口、理不尽を黙して受け止める潔さ、優勝後には必ず赤ら顔で翌朝の会見に現れるガキっぽさ、鋭く突き刺さる立ち合いからの怒涛の攻め、援護射撃で見せる一層の強さ、愛しい力士のひとりです。いい・悪いでは言えば悪いけれど、好き・嫌いで言えば好き。人情なので、それはどうしようもない。

宿舎に戻ったあと、天に向かって塩をまいた日馬富士。「チカラは神様からの預かりもの。精一杯使い切って、時がくればまた神様に返す」と常々語っていた日馬富士の、神様に感謝を捧げるいつもの作法です。日本の相撲は、日馬富士というチカラをモンゴルから預かりましたが、精一杯使い切ることなくお返しすることになりました。至らない部分が多く、申し訳ない気持ちで一杯です。別れを惜しむことすら満足にできず、申し訳ない気持ちで一杯です。

<空と大地に祈りを捧げる日馬富士の儀式>


<最後の優勝となった九月場所、いい相撲だった>
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公の裁きが決したのち、改めて力士としての別れを惜しむ機会を!

解雇された社員の送別会をやってはいけない、なんて決まりはない!

「暴行犯の追及」と「名横綱との惜別」は別口でやりましょう!

朝青龍だって引退相撲まで差し止められたわけではないのだし!

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