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12:30
最後に勝つのは「アスリートファースト」で!

特に今日言わないといけないことでもないのですが、最近ずっと思っていたことがあります。先日、サッカー日本代表のハリルホジッチ監督が解任されたときのこと。いろいろな文脈が入り乱れていて、誰もが「総合的な判断」をしている状況ではありましたが、その文脈のひとつに「選手が反乱・造反」「戦術に従えない選手なら切ればいい」「選手が戦術にクチを出すな」的な物言いがあり、僕はそれに強い違和感を覚えていました。

確かに監督には選手を選考する責任があります。とあるコンセプトに沿って適切な選手を選び、並べることを託されています。その意味では、チームのコンセプトに基づいて、ときに「ある局面においてはとても優れている」選手を外すこともあるでしょう。カードゲームと一緒で、高額なレアカードだけを揃えても機能するデッキは組めません。そのコーディネーターとして監督には「機能するデッキ」を選考する責任があります。

一方で、そのコーディネーターの能力というのもまた審査されるべきです。この点では、今は総論的な話をするのが意図なので「ハリルホジッチ氏が有能だったかどうか」について改めて検討はしませんが、ダメならやっぱり替えないといけないでしょう。コーディネーターは絶対的な存在ではなく、問題があれば替えるのが当たり前です。

その判断をするときには「総合的」な判断をするわけですが、その指標のひとつに「選手の意見」を含めることそのものをアレルギー的に拒否している向きがあるように感じられ、そうしたアレルギーに対して僕は強い違和感を覚えるわけです。

もしかしたら選手はバカばっかりなのかもしれません。何もわかっていないバカが戯言を言っているだけなのかもしれません。迷信でも信じ込む人のように、根拠も知性も理性もないことをのたまって、有能なコーディネーターに反旗を翻している愚か者なのかもしれません。そう思っている人にとっては、「バカなことを言うな」という怒りもわくのでしょう。

しかし、やるのは選手です。4年に一度、人生の大勝負に臨むのは選手であり、リスクを抱えて人生を投じるのは選手です。コーディネーターでもなければ、協会でもなければ、ましてや見ているだけのファンなどではない。選手には自分の考えがあるのは当然であり、むしろ自分の考えを持たないような選手が大勝負に臨めるはずもなければ、結果を出せるわけもありません。動く意志のない駒が何かを起こせるはずはないのです。

もちろんチームスポーツにおいて試合中に突然「俺の考えは違った」とやり始められるのは困りますが、「こうしよう」を詰めているときに「俺の考えは違う」と提示することの何が悪いのでしょう。それをぶつけ合い、互いに一番いいポイントを見つけるのは普通の作業ではないでしょうか。その過程で「考えが違うのはお前ひとりだぞ…」となれば、そのひとり(※仮に山ロメンバーとする)を外すのがベストな解決法になるかもしれません。その逆で、総体として「コーディネーターの方針にはちょっと従えませんわ」となったら、コーディネーターを替えるのが解決への道でしょう。

もちろん、その「俺の考え」が「バカ」だと思う人は、懸命に選手を説き伏せようとするでしょう。理論を挙げ、データを提示し、言葉を尽くして説得するでしょう。その「言葉」を持つことはコーディネーターの最重要な能力です。それは単にプランを示して理屈を説くことばかりではなく、おだてたり、なだめたり、挑発したり、懐柔したりといったすべてが問われます。プロ野球の故・星野仙一氏などは戦術面では取り立てて秀でた印象はありませんが、その言葉、人たらしという面では特段の能力を備えていました。それもまたコーディネーターのチカラです。

ただ、どんなことにも一理はあるもので、完全に否定できるような意見というのはなかなかないものです。どれほど言葉を尽くしても折り合わない瞬間というのはあります。どちらも主張を曲げない、このままではどちらの考えもまともに機能しないという瞬間に至ったなら、僕は迷わず「選手」につきます。人生をかけてその勝負に臨む「選手」を支持し、進む道を後押しします。

やるのは選手、人生を懸けるのは選手。

選手に納得がない状態で送り出すことは僕にはできない。

スパイクだって、グローブだって、バットだって、ユニフォームだって、トレーニング方法だって、選手それぞれにこだわりがあるわけでしょう。段違いに優れた製品があれば世界中がそれに染まる瞬間もありますが、多くの場合は選手それぞれに好みがあり、事情があり、選ぶ理由があります。そのとき、メーカーオススメをそのまま受け入れることがベストでないのは当たり前のことです。

世界にひとりしかいない自分のためにアジャストしたものがほしいし、実際に選手たちは用具メーカーと何度も何度もやり取りと調整を重ねて、自分だけの用具にたどり着くものです。そのために「さっき丈を詰めたばっかり」のユニフォームを、徹夜で元に戻すような作業も用具メーカーはしています。選手が大勝負に臨む最後の瞬間まで対応できるように、宿舎の近くに機械と職人を据えて、いつ何時でも対応できるように待機します。それは商売でもありますが、商売だけではやってられない作業です。すべては選手のため、選手の「納得」のためです。

これがベストだ。

これなら勝てる。

これで勝ちたい。

そういう「納得」を持って大勝負に臨ませるために、商売を超えた対応で送り出すのです。メーカー的には「すでに最初の状態でワシらとしてはベストのつもりなのだが」と思っているかもしれませんが、理屈で語れないところまで付き合うのは「納得」のためです。納得があってこそ自信が生まれるし、納得があってこそ迷いを断ち切れる。迷いながら実践する正しい理屈は、迷いのないバカよりも脆いものです。苦しいときに迷いが首をもたげてくるのですから。

用具に「納得」があるように、戦術や指導者に対しても「納得」がなければ大勝負には臨めないだろうと僕は自然に思うのです。多くの偉大な選手は、自分の環境を自分で探します。たまたま家の近所にあったスクールの無名の先生がベストと思うケースもあるでしょうし、国境を超えて高名な指導者を訪ねることもあるでしょう。支援してくれるスポンサーと袂をわかってでも、放逐された指導者を追いかけるケースもあるでしょう。

僕はそれはいいことだと思いますし、そういう選手こそが強くなるだろうと思います。言われたことをただやるのではなく、どんなことを言ってくれる人かを見極めながら、自分にとってベストな指導者を探していくことは必要ですし、それが強くなるための道だと思います。用具と同じで、指導者にもこだわりを持つべきなのです。ほかならぬ「選手」自身が。

だから、新しい指導環境を求めて移籍をしたと聞くと、期待感がわいてくるのです。これまで身を置いていた環境も素晴らしかったかもしれないけれど、自分の「納得」を求めてトライすることは決してマイナスにはなりません。ダメならまた調整すればいい。ときに愚かな決断があるかもしれませんし、やっぱり最初の指導者がよかったと思うかもしれないけれど、納得を求めてトライすることを僕は支持します。やるのは選手自身なのですから。

人生を懸ける選手が「納得」をもって大勝負に臨めること。

指導環境も、用具も、さまざまなことすべてを「納得」して選べること。

それを優先順位第一位としてすべての問題を解決していくこと。

そういう気持ちですべてを見守りたいですし、東京五輪・パラリンピックの運営もそういうものでありたいと思います。選手自身が、大勝負にいたるすべての過程に納得し、これがベストだったと思えることが一番大事です。何度人生をやり直しても私はこうしただろうと思えるような日々の積み重ね。そこに結果がついてくれば最高ですが、勝ち負けは相手との関係性に過ぎません。人生の価値を決めるのは自分自身です。

なので、周囲の人はいつだって最後は折れてほしいと思うのです。言葉を尽くしてダメだったら折れてほしいのです。そして「アッチの先生のほうがいいと思ったんですが、やっぱ違いました…てへぺろ」と言ってきたら、それを受け入れるような度量であってほしい。造反だの反乱だの、ましてや裏切りだなどと責めるのではなく、内心で何を思ったとしてもグッとこらえて、選手が納得できるようにさせてあげる。丈を何度も詰め直す用具メーカーのように、何度も替えたり戻したりしても付き合ってあげてほしい。。

僕はそれを「アスリートファースト」と呼びます。

失敗したとしても、成功したとしても、選手が選んだ道にこそ価値があると信じて。






新しい環境を求める選手に幸あれ!納得できる時間になりますように!