このエントリーをはてなブックマークに追加
Clip to Evernote
08:00
「日本とは」何なのか、見つけたい!

東京五輪・パラリンピック開閉会式の統括責任者に、狂言師の野村萬斎さんが指名されました。率直に言って、素晴らしい人選だと思います。リオ五輪・パラリンピックでのフラッグハンドオーバーセレモニーを経験し、素晴らしい式典を作り上げたチームをベースに、その統括の位置に萬斎氏が就くというのはより一層の期待感を抱かせる編成と言っていいでしょう。東京大会の開催が決まって以来、常に最大の不安材料であったセレモニーが、今は楽しみしかありません。


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

野村萬斎What is 狂言?装改訂版 [ 野村萬斎 ]
価格:2160円(税込、送料無料) (2018/7/31時点)



式典を作るにあたり、最大のテーマとなるのは「日本とは」というアイデンティティを改めて見つめ直すことです。もちろん純粋なエンターテインメントとして「日本」にまったくこだわらないというアプローチも可能ではありますが、そうしたアプローチを選ぶかどうかも含めて、この式典には常に「日本とは」がつきまとっています。

相手が期待するもの、自分たちが示したいもの。他者が思う日本と、日本が思う日本。そのバラバラなすべてをないまぜにして、最終的に提示されたものがどうしたって「日本とは」の解となるのです。否応なく。もっとわかりやすく言えば、「へー、日本ってこんな感じなんやなー」と少なからぬ影響を世界に与えてしまう、そういう式典です。どうあがいても「日本とは」の問いから逃れることはできません。

これは極めて難しい問題です。心はすぐに「和」に逃げます。しかし、安易に「和」を選ぶことは、必ずしも日本のすべてを表すものではありません。僕は髷を結わず、刀も帯びていません。サムライ、ニンジャ、すべては過去の話です。サムライは今の日本を的確に表すものではありません。歴史の一部として間違ってはいないけれど、日本=サムライはやはりウソです。

一方で「カワイイ」に代表されるようなポップカルチャーというのも、必ずしも日本のすべてを表すものではありません。ゲーム、アニメ、マンガ、頭はすぐにポップカルチャーに逃げます。コレをやっておけば今風だろう、と。しかし、これもまたサムライのようなもので、現代日本の一部として間違ってはいないけれど、日本=カワイイもやはりウソなのです。

だからこそ、総合統括の位置に野村萬斎氏がいることが何よりも心強い。

人間国宝・野村万作氏の息子として生を受け、当代きっての狂言師というバックボーンは、古典芸能を代表するにふさわしいものです。と同時に、狂言の枠にはおさまらずドラマ・映画・舞台にも積極的に進出し、シェイクスピアの戯曲やボレロのような楽曲も自身に取り入れ、現代日本と商業的な側面を含めて向かい合っているエンターテナーでもあります。一方だけが萬斎氏なのではなく、両方ともが萬斎氏である。

狂言師である萬斎氏が、伝統と宿命をその身に背負いながら、狂言が生まれた時代とはまったく異なる現代日本で問い掛けてきた「狂言とは」「古典芸能とは」「エンターテナーとは」の自問自答、それこそが2020年に日本が世界に示すべき「日本とは」の姿に近しいものであろうと僕は思います。答えはどこにもないかもしれませんが、当代の日本人のなかでその問いに深く長く向かい合ってきたひとりが萬斎氏であろうと思うのです。

変化し、うつろいつづける「日本とは」。それはさながら生き物の進化のように、かつては「恐竜」であったものが大きく変容して「鳥」になるような話。僕はサムライではないけれど、僕のなかにサムライはあるかもしれない。髷でも刀でもない形でサムライがいるかもしれない。あるいは実はサムライなどもう存在しないかもしれない。その実態のないものを見つめつづけてきた人であるだろうことにこそ、何よりも僕は期待を抱くのです。実態の見えない「和」の正鵠を射て、「現代日本」を結い止める。そんな射手であろうと。

提案はさまざま生まれるでしょう。アイディアは集合知によって加速するはずです。技術はもちろん萬斎氏が持たないものもありますから、すべてを独力で担うことなどできようはずもありません。ただ、千差万別にあり得る「日本とは」の正鵠を見定めて、決断する。最後に誰かが決めなければならないとなったとき、ぜひその「決」を萬斎氏にお願いしたい。それは伝統と宿命を背負い、かつ現代日本でエンターテナーとして生き抜いている稀有なる存在にしか託せない「決」だと思うのです。多数決などでは断じて決められない、最大公約数などない、鋭く細い「決」であろうと。

萬斎氏はこの東京大会にあたり、幾人かのアスリートととも邂逅し、影響を与えています。平昌五輪で金メダルに輝いた羽生結弦氏には、演目「SEIMEI」の縁があって出会い、ひとつひとつの型・所作に宿る意味と、羽生氏がその時点では所作の本質に迫り切れていなかった甘さを鋭く指摘しました。あの時間は「SEIMEI」の進化に大きく寄与したはずです。それだけに、「古典芸能の可能性を感じます」という平昌五輪後の萬斎氏の言葉は、何にも勝る褒め言葉として羽生氏をほころばせたことでしょう。

空手・形で当代一の実力者である清水希容さんには、狂言の型と空手の形とで通じ合いながらも、それぞれの動きや考えかたの違いを際立たせ、「場を支配する」という狂言師・エンターテナーとして培ってきた観衆との向き合い方を惜しげなく伝授しました。相手への敬意を決して失わず、けれど指摘すべき箇所はためらわずに鋭く突く姿は、単に文化人として関わるのみならず、ある種のコーチであるかのようでした。

上から言い放っても構わないであろうキャリアを備えながら、最後に「(自身の言葉が)害になりませんように」と慎むような、奢らぬ姿勢、自身の考えが及ばない世界もあると慮る姿勢。短い時間にも垣間見える奥深さは、こういう人物ならば、アスリートのための舞台であることを理解しつつ、素晴らしいエンターテインメントでもある式典を「選んで」くれるだろうと信頼できるのです。



かつてNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で見た一場面が、強く印象に残っています。「どうして自分は狂言をやらなければならないのか?」。それは萬斎氏自身が自分に問い掛けてきたことであり、自身の息子に狂言の稽古をつけながら息子から突きつけられた問いでもあるわけですが、萬斎氏は息子のその問いに「自分もそう思っている」と答えたと言います。それは即ち、「自分もまた、今もなお、問いつづけている」ということです。もっと有り体に言えば「いまだにわからん」ということです。

何が日本なのか、どこにもない答えに挑む。

そのために、長い人生に渡り問いつづけ、その答えの無さに向き合っている人を頼る。

それはとても誠実な道だと思います。わからんことを知ってなお挑む、そんな自覚を備えた道だろうと。

「機知に富んだ式典」という萬斎氏の所信表明、早くもそこにはワクワクする気持ちが生まれてきます。ロックスターを並べた強引豪華なセレモニーはできないであろう日本ではありますが、「機知」は無限大です。どこにもない答えを求めて、知恵を絞りつづけることはできます。だからこそ、いいものができそうな気がします。「サムライ」「アニメ」「ニンジャ」「ゲーム」といった型どおりのモノをハメこむのではなく、その本質をとらえ、「日本」として再構築してくれそうな予感が。「日本代表」チームの挑戦、楽しみです!



引き受けてくれたことに感謝!たくさんの機知を束ねてください!