2014年03月06日

雑草魂 石川光久・アニメビジネスを変えた男

雑草魂映画監督押井守は、プロダクションIG社長・石川光久をこう評する。
「初対面の印象は、ただのバカにしか見えない(笑)。それはいまだに変わんないね。アイジーの社長という肩書きをはずして会えば、ただのトッポいヤツにしか見えないし」
あんまりな言いようである。しかし、こうとも言う。
「ハリウッドにとって、間違いなくあいつは組みたい相手なんだよ。会社ではなく個人として評価される。日本人には珍しいタイプだね」


世界に名を轟かせる、日本を代表するアニメーション制作会社プロダクションIG。この会社を取り仕切っている石川光久はどんな人物なのか。
石川が生まれたのは東京都八王子市。山と田んぼに囲まれた、40世帯前後の小さな村で生まれ育った。貧しい農家で、3人兄弟の末っ子。米農家だったが、家族の食卓はいつも麦ご飯。「米は売るもの」という認識だった。
貧しい暮らしで、家では畑仕事の手伝いばかり。成績は低かったが、親からは勉強しろとは一度も言われなかった。ただし、いつもこう言われていた。
「おふくろからは『上を見ずに、下を見ろ』と言われて育った。人におだてられても舞い上がるな、いつも周囲に気を遣え」
石川少年は、親の教えを素直に守り通した。人を立てるのが好きで、周りが笑ってくれていると幸せを感じる。何人かで歩いていると、必ずみんなの後ろを歩く。そんな少年に育った。
勉強もスポーツも駄目な劣等生だったけど、そのうちにもみんなが石川を頼るようになった。学級委員長に選ばれ、野球部ではキャプテンだった。石川は、みんなが「この人を頼りたい」と思える人物だった。

高校卒業後は明星大学を受験。奇跡的に合格するが、大学にはほとんど通わず、バイトに明け暮れ、お金ができると放浪の旅をした。バイクに乗り、計画も立てず、ふらりと行き当たりばったりに進む。行き着いた場所で住み込みのバイトをして、お金ができたらまたどこかへ行く。これを繰り返して、何ヶ月も家に帰らない。そんな生活だった。
旅はそのうちにも海外へと足を伸ばしていく。インドやタイ。パキスタン、アフリカまで行くこともあった。
アフリカで紛争に巻き込まれたり、盲腸を切った……という武勇伝を持っているそうだが、
「それは押井さんが、勝手に言っているだけ」
だ、そうだ。
ただし、本当に医者かどうか怪しい人の元で、麻酔なしで虫歯を引っこ抜いた……という武勇伝は本当だったようだ。

そんなある日、フーテンの暮らしを一変させる出会いがあった。たまたま福生の市民会館で見た「文楽」の公演である。これに感動を覚えた石川は、地元の車人形一座に転がり込み、その日のうちに弟子入りを決めてしまう。
本当の転機は次の事件だった。1981年、石川が22歳の時だ。車人形の一座が海外公演へ行ってしまい、石川は1人、日本で留守番をすることになった。その間にアルバイトでもしよう、と思って何となく求人広告の中から「タツノコ・プロダクション」を選んだ。
当時の石川はアニメなんて何も知らない。家が貧乏だったから、テレビなんてほとんど見せてくれない。社名に『プロダクション』とあるから、劇団関係の仕事をしているのだろうと思った。石川はアニメの世界に「迷い込んできた」のである。
ところが、石川はあっという間にこの業界に魅せられてしまう。
「世の中って、すぐに浮かれちゃうじゃない。でも、自分はひたむきに生きる人間が好き。ひたむきに一生懸命に働く人の姿は美しいって、子どもの頃から思っていたし……。アニメーションの現場で働いている人もみんなひたむきなんだよ。純粋で無垢でコツコツ仕事をしている。こういう人に囲まれて働く環境が最高にいいなあって思う。すごく楽しいし、救われる。石川の場合、アニメーションが好きというより、アニメーションを作っている人間が好きなんだよ」
※ 石川光久は、自分のことを「石川」と呼ぶ。
石川の最初の仕事は制作進行。制作進行とは、予算やスケジュール管理をする人のことで、アニメーターに仕事の指示を出したり、各会社との関係を取り持ち、カット袋を回収しに行ったりする人のことである。現場になくてはならない運営役である。
石川は、この制作進行の仕事に特別な才能を発揮し始めた。周りを立てるのが好きな性格と、方々を旅して回ったときの交渉能力がこの仕事の役に立った。そのうちにも、「石川がいないと仕事が回らない」というくらいにまで信頼されはじめ、アルバイトから正社員へ、制作デスクへと昇進する。学級委員長で野球部のキャプテンだった石川は、アニメ業界でも「みんなが頼りにしたいやつ」だった。残念ながら車人形一座は破門になってしまったが、石川の想いはすでにアニメ業界の中にあった。

そんな時だった。タツノコが、社員のリストラをしようという話が上がってきたのだ。
石川は奮起した。誰もリストラなんかさせない。会社が黙るくらいの凄い作品を作ってやる!
石川は自らの足でスタッフを口説き、集めて回った。そうして集まったのは西久保瑞穂、後藤隆幸、黄瀬和哉、沖浦啓之といった錚々たるメンバーだった。後に、日本を代表する最強のアニメーターと呼ばれる人達である。この陣容で、石川は『赤い光弾ジリオン』を制作。低予算作品にも関わらず、そのクオリティは業界から注目を集め、批評的も商業的にもまずまずの成功を収めて終わった。
だが石川にとって本当のご褒美は、この時に集めたスタッフが、「石川について行きたい」と言ったことだろう。この声を受けて、石川は独立。後藤隆幸率いる作画スタジオ「鐘夢(チャイム)」と合流し、『有限会社アイジー・タツノコ』を設立する。Iは石川、Gは後藤のイニシャルである。

その後は多難であった。下請けばかりの生活。仕事はつらいのに、収入は僅か。『ジリオン』の勢いで会社を興したものの、前途は暗かった。
が、わずか1年後には転機が訪れる。『機動警察パトレイバー』の劇場版の制作が、アイジー・タツノコに決定したのだ。
設立してわずか1年、フリーのアニメーターが数人いるだけの小さな会社である。ありえないような抜擢だが、実は『ジリオン』で目をつけていた押井守監督の指名であった。
『機動警察パトレイバー』の劇場版第1作目は、リアルな背景描写、インターネット社会を予見したようなストーリー、いま振り返っても驚異ともいえるクオリティの高さで、後々、長くファンの間で語られる作品となった。アイジーは押井が要求するクオリティを完璧な形で応えてみせ、その後も、押井に「ここを拠点にしよう」と決心させるほどだった。

パトレイバー2その第2作目『パトレイバー2』の制作には暗雲が付きまとった。
押井は『パトレイバー2』の制作に4億円を要求した。だがバンダイはこれを拒否。「押井の映画は絶対にコケる。そんなお金は出せない」の一点張りだった。
そこで石川は、アイジーから5000万円を出資すると言いだした。それはつまり、アイジーが作品の権利を持つという意味でもある。設立5年目の小さな一介の制作会社が、権利を主張するなど、当時ありえない話だった。
この条件に、バンダイは了承。『パトレイバー2』は制作スタートとなった。
バンダイその他周辺の人達の読み通り、『パトレイバー2』は興行的には失敗だった。だがこの名作は、長く長く売れ続け、アイジーに安定的な利益をもたらし続けている。短期的には失敗だったかも知れないが、長期的には大成功だったのだ。
制作会社が権利を主張する。今においても画期的な話である。この一件で石川の先見性について語られることは多いが、当人にはそんなつもりはまったくなかった。率直な気持ちで「押井さんの映画が見たい」という思いで資金の申し出をして、それが後の大成功を引き連れてきたのである。

いい仕事は、次なるいい仕事を引き連れてくる。仕事に対するひたむきさと誠実さが、よりよい仕事と才能を引き寄せてくる。そうして、数人のアニメーターでスタートしたアイジーは人数を増やしていき、社名を『プロダクションIG』に変更。子会社『ジーベック』を設立し、海外支店も作った。
イノセンスそれでも、アイジーは次なる段階へと挑戦する。大作『イノセンス』の制作である。
この作品の制作で、石川は覚悟を決めた。自分たちだけでやる。だから権利を持っていたバンダイビジュアル、講談社、MANGAENTERTAINMENTの3社から手を引いてもらう。その上で、自分の足でハリウッドを回り、出資を募る。
前作『GHOST IN THE SHELL』が名刺代わりになった。石川と押井の2人組でFOX、ワーナー、ドリームワークスを回ったが、どこへ行ってもトップが会ってくれる。いい仕事がチャンスを引っ張り込んでくれた。その結果、ドリームワークスと契約し、前作の4倍の資金を確保。
日本ではあの人に宣伝の協力を仰いだ。スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫である。鈴木敏夫は、元々は『GHOST IN THE SHELL2』でスタートしていた映画のタイトルを『イノセンス』に変更させた。キャッチコピーである『魂の乱交』という印象的なフレーズも鈴木敏夫の発案である。
さらに鈴木敏夫軍団が宣伝に集結。徳間書店、日本テレビ、ディズニー、電通、東方、三菱商事といった面子である。鈴木敏夫の一声でこの人材が集まり、絨毯爆撃というほどの宣伝攻勢が始まった。ドリームワークスが出資しているのに、犬猿の仲であるディズニーが宣伝する、という異例の体勢だったが、鈴木と石川の人望のおかげで不問となった。
『イノセンス』はカンヌ映画祭コンペティション部門に正式招待され、風向きがこちら側に強く吹いていた。
しかし――『イノセンス』は何の賞も与えられなかった。日本国内の興業収入は10億円。観客動員数は70万人。米国では104万ドル(1億2000万円)。制作費すら回収できなかった。
石川はこの結果を、
「興行的に見ても、こんなもんでしょう」
と語っている。
0号試写の時に、
「押井さん、これは回収に10年かかるよ。……もう腹くくったから」
と押井に伝えていた。
『イノセンス』の興業は失敗に終わった。しかし、プロダクションIGの企業としての名声は高まっていく。この揺るぎない傑作が、今も新しい仕事を引き込んでいる。

石川光久は、ある時こう語った。
「その人の良さを引き立てるっていう意味なら、石川は鏡みたいなものかもしれない。相手をきれいに映すのが仕事なんだよ」
『上を見るな、下を見ろ』と親から教えられ、人を立てるのが好きで、ひたむきに仕事に打ち込むアニメーターが好きな石川。そのアニメーター達にいい仕事を与えようと思ったから、プロダクションIGの今がある。
数人でスタートしたアイジーは、劇場作品を軸に仕事を回し、下請けから元請けに昇進、作品の権利も多数獲得し、優秀なアニメーター達と信頼関係を築いた。もちろん、アニメファンもアイジーと聞けば作品に一目を置く。
それでもアイジーは立ち止まってはいられない。今も次なるステージを求めて、歩み続けている。


著者:梶山寿子
編集・出版:日経BP社



vitogensyutain at 20:43|Permalink アニメ関連書 

2014年02月28日

結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?

タイトル 本のタイトルが、そのままテーマになっている。
「結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?」
著者の板越ジョージは、実際にアメリカで日本のアニメ、マンガを販売する仕事に従事し、その実体験的な立場から本を書いている。それでお題目に掲げられている「儲かっているのか?」という問い。この問いに対しては、残念ながら「NO」である。あまり儲かっていない。
では受け入れられていないのか? と問われるとそういうわけではない。
「アニメやマンガに関するコンベンションでの集客数や、実際アメリカに住んでいての肌感覚では、日本のアニメの人気の衰えはまったく感じません。むしろ、世代から世代へと、時代とともにアニメに慣れ親んだ分母は増えていっていると思います。」(32ページ)
それだけ支持されているのに、しかしビジネスとしては成功していない。それは何故なのか? 板越ジョージは、当事者の目線からその謎を解き明かしていく。

本の視点は「アメリカでは……」というところから始めているけど、日本のアニメに対する支持は、今や世界スケールである。世界のユーザーは、日本のアニメ・マンガがローカライズされた状態を望んでいない。つまり、それぞれの国に合わせたストーリーやキャラクターの改変を望んでいない。可能な限り、オリジナルのまま接したいと思っている。それくらいに、日本の作品に対する信頼や愛情は深い。
それでも、ビジネスとなるとまるでうまく行かないのだ。
理由の第1に、マーケティングにかける予算が少ない。アメリカでは、制作スタッフとマーケティングスタッフの割合は3:5。対する日本は、7:1。アメリカでは、マーケティングスタッフが多い。それくらいに、マーケティングに賭けているものは大きいのだ(しかも、日本はマーケティングスタッフに、英語を話せるというだけのビジネスの素人を立ててしまう場合が多いそうだ)
第2に、アメリカの書店事情。アメリカのコミック専門店は、新刊コミックのスペースが小さい。出版社は単行本売り上げによる利益を重要視していないので、人気作品でもあまり多く刷らない。アメリカのコミック専門店へ行くと新刊コミックはほんの僅かで、あとは古本が中心。ファンは、古本の中から、お目当ての作品を探すわけである。
そういった場所に、翻訳本を大量に送りつけても「どこに置けばいいんだよ!」という話になる。
それに日本のマーケティングスタッフは、「これはいいものなんです! ぜひ置いてください」と情熱的に説明する。同じ日本人なら「そうか、わかった。では様子見でいくつか……」となるけど、アメリカ人だと「何だお前」みたいになる。「これはいいものなんです」なんて説明されても、中身のわからないものは店に置けない。
第3に、知的財産に詳しい弁護士を雇わない。アメリカでは弁護士は100万人いると言われ、エンターテインメント関係を専門にしている弁護士は2万人もいる(アメリカは弁護士多すぎると思うけど)。対して、日本は知的財産を専門にする弁護士はやっと1000人ほど、と言われる。
著作権の絡む契約の時に、弁護士を雇わないケースが多く、結果として不利な約束を押しつけられてしまう場合がかなりあるそうだ。それで、本来得られる利益が得られていないという。
海外での販売売り上げ推移
(画像出典:世界のエンタメ業界地図2013年版)
第4に挙げるのが、ナショナリズム。別のデータを見ても、2006年を境にして、日本のアニメビジネスは大きく後退している。2006年に何が起こったのか? 板越ジョージは「カルチュラル・エコノミック・ナショナリズム」であると指摘している。
アメリカが危機感を覚えたのは、2000年頃に起きた『ポケモン』ブームだった。私もその当時、ハリウッド映画のウイークリーランキングをリアルタイムで見ていたのだけど、『ポケモン』の映画が見事興業ランキング1位。しかも数週間ランキングトップに居座り続けていた。
この時、2位だったのはリック・ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』。本来ならば確実に1位だったはずの『ジャンヌ・ダルク』は『ポケモン』のせいで全米1を獲れなかったのだ。
翌年に公開された『ポケモン』映画の続編もやはり興業ランキング1位を獲得。貫禄の人気を誇示してみせた。アメリカでの『ポケモン』爆進に、私も無邪気に喜んでいた。
だが、これがアメリカ人の危機感を募らせてしまった。ポケモン人気が後退すると同時に、店舗の棚から日本の作品を撤去。「日本外し」が始まったのだ。それがデータとして明確に現れたのが2006年だった……というわけだ。
こうしたナショナリズムはアニメに限った話ではなく、ゲーム業界も影響を受けている。今、批評誌を中心に、「日本のゲームより欧米のゲームのほうが面白い」という見解が普通になってきている。これにも“裏”があるらしく、アメリカのレビューアが、日本の作品を低く書き、アメリカの作品を高く書いているから……というらしい。
「アメリカは自由の国。才能と意欲を持った人が成功する国」と評され、アメリカ人自身もそのように語る。だが実際には人種や民族に対する差別が強烈な国だ。違う国のエンターテインメントが勢力を持ってくると、危機感を憶え排除しようとする。そういう性質を持っていることを忘れてはならない。
その後は2008年にリーマンショック。この影響で2009年にはアメリカでDVD販売を請け負っていたサーキットシティが会社の清算。2010年には日本の作品を多く取り扱っていた大手書店ボーダーズが倒産。アメリカでの「売り場」が減っていく事態に直面している。

マスメディアはデータ上の数字を見て、「日本のアニメはもう海外では受け入れられない」なんて書いたりする。しかし始めに書いた通り、日本をテーマにしたイベントを開催すると、ファンが多く集まり、その数は年々多くなっている。筆者の肌感覚として日本の作品をリスペクトする人は確実に増えている。
単に、ビジネスとして成功していないだけで、その理由は一杯ある。
まず日本側が現地リサーチを全くせず、精神論で押し通そうとすること。知的財産に詳しい弁護士を雇わない。売れ始めてもナショナリズムという障壁に阻まれてしまう。
半分くらい日本側のオウンゴールという気がしないでもないが、ビジネスとして成功しないだけの理由はあるのだ。

板越ジョージは、成功するためにどうするべきか? という提唱をはじめる。
アメリカでは、2000年頃の保有規制撤廃によりメディアのコングロマリット化が進んだ。例えばウォルト・ディズニーは、放送局のABCとスポーツチャンネルのESPN、メジャーリーグのロサンゼルス・エンジェル、アニメ製作会社ピクサー、映画会社のタッチストーン・ピクチャーズとミラマックス・フィルム、コミック出版社のマーベル・コミックを傘化に収めた。2012年、『スターウォーズ』の権利を買収したことは、記憶に新しい。
これだけの複合体としての強みを活かして、世界展開を押し進めている。日本のコンテンツの海外輸出率がわずか5%であるのに対し、米国は17.8パーセント。海外売りに力を入れているのがわかる。
板越ジョージは日本も同様にコングロマリット化すべきだと提唱する。確かに別資料でも、アニメが海外展開しない理由を「そもそもそれだけの資力がないから」と挙げられている。今のままではあまりにも脆弱だ。
(巨大化すればそれだけ動きが鈍くなるのでは……新しい発想が生まれなくなるのでは……という懸念もありそうな気がするけど。しかしアニメ制作だけではなく、出版、音楽、グッズ制作などの事業を1社で縦横に連携を取れる会社を作ることができたら、きっと強力だろうな……と私もよく夢想する)

それからプロデューサーの育成だ。
「ディズニーはすばらしいプロデューサーであり、手塚は優秀なディレクターである」(140〜141ページ)
これには多くの意味を含んでいるように思える。アメリカは確かにプロデューサーの国だ。アメリカ人でも優秀なディレクターはいるけど、プロデューサーとしての存在感が際立っている。だから、色んな国から才能をかき集めて、大きなものを作ることに長けている。
例えば、世界興業収入1位2位を独占しているジェームズ・キャメロンはカナダ人だ。映像派の代表者リドリー・スコットはイギリス人。重量感ある映像を作るウォルフガング・ペーターゼン監督とローランド・エメリッヒ監督はドイツ人。ニュージーランド出身のピーター・ジャクソンも忘れてはならない。
対して、日本はディレクターの国だ。日本を代表すべき映画監督は多く、海外からは日本そのものが尊敬の対象になっている。アニメーションの品質は最高だけど、そのほとんどが国内の才能だけで作っている。なぜそんなに作れるのかといえば、日本人だからだ、というしかない。
才能と技術はある。支持もされている。決定的に足りないのはプロデューサーだ。作品はそのままで、プロデュースできる人を発掘、育成していくことが、今後の課題になっていくだろう、と板越ジョージは語る。

現在進行形で、少子化は国内のマンガ・アニメビジネスに深刻なダメージを与えている。漫画のメインターゲットはやはり少年少女。その人口が減っていくという現状は、漫画の文化そのもののを弱くしてしまう。
もう1つ、アニメーターの給料がいつまでたってもよくならないという問題。こちらの理由はシンプルだ。アニメを制作するにはお金がかかるが、儲けは少ないからだ。よくピンハネがどうこうという話は出てくるが、実際にアニメ業界にいる人は、誰も得していない。「アニメ業界に大金持ちはいない」というくらいだから。
今はアニメビジネスは好調といわれるけど、天井は見えているし、少子化の影響で目減りしていくのは確実だ。
だからこそ、海外売りに鉱脈を見出す。その方法を考える時が来たのかも知れない。


著者:板越ジョージ
出版・編集:株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン



vitogensyutain at 18:16|Permalink アニメ関連書 

2013年10月13日

凪のあすから 作品紹介

『凪のあすから』は朝の風景から始まる。少年が慌ただしく朝食の準備をしている。上半身裸なのはきっと暑い夏だからだろう。
ごく普通の日常的な風景に見えて、何かがおかしい――。空中を魚が漂っているし、テレビの中では天気予報の代わりに“潮予報”が流れている。少年は籠の中に入れた青い炎をコンロに移して、強火にしている。それに、画面がじわりと青い。
少年が家から外に飛び出した瞬間、違和感の正体が明らかになる。空一杯にただよう魚の群れ。空の向こうには水面が描かれ、さらに向こう側に“地上”がちらりと見える。
そう、そこは水の中。少年たちは水の中に街を作り、住んでいる人達だったのだ。

『凪のあすから』は地上と水中、二つの世界が交差する物語である。地上の街は間違いなく現実に存在すると思われる日本の街だ。一方、水中の「海村」は絶対にあり得ない空想の街でありながら、どこか非現実と言い捨てるわけにはいかない高密度に作られた世界観である。
海村はかなり傾斜のきつい町で、正面から見ると瀬戸内に見られる町のように全体が立ち上がっているように見える。接近してみると、入り組んだ階段が斜面を這うように登っていて、尾道を連想させる。白漆喰を中心にした風景に、青いペンキと茶煉瓦が少しずつ混じって、色の印象は爽やかだ。配色は笹倉鉄平の絵画を感じさせるものがある。町の外縁に建設途中で放逐された高速道路の柱が描かれているが、これがクロード・ロランの絵画に描かれるギリシャ風柱を連想させる。高速道路としては柱が細すぎるので、おそらくはオブジェとして描かれているのだろう。
町全体のシルエットはイタリアのアマルフィ海岸が参考にされていると推測されるが、細部は明らかに日本のもので作られている。日本の植物に、日本語の表記の入った、日本でよく見られる標識や看板、日本的な衣装を着た人達、石畳も日本で見られるものが使われている。全体のイメージはイタリアのアマルフィ海岸やクロード・ロランの絵画といったものが参考にされているが、細部はあくまでも日本のもの、日本に極めて近い文化様式を持った風景が作られている。様々なものを参考にしながら、描き手の理想がそこに込められた世界となっている。
地上の世界は間違いなく実在する日本の風景だ。海村は異世界でありながら、その日本の風景と現実的な地続きを感じさせる空間として構築されている。日本と深い関連を持ち、明かな接点を持って発展していきながら、しかし地上とは明らかに異なる文化様式が創造されている。
トールキンが完全な異世界を作り上げ、自ら“準創造”と呼んだが、『凪のあすから』が試みた創造は、それよりもかなり現実世界と接点を持った、シミュレーション的な発想で世界が作られている。このあまりにも見事な創造に、私は手放しの賞賛を送らねばならない。

海村の住民は一見するとごく普通の人間として描かれているが、細かなところで地上人物との差異が作られている。
まず目の色。瞳も縁の線も、青で描かれている。少し緑が混じった青だ。BLブラックが使用されていないので、少し色が抜けたような淡い印象がある。これが制服の青の色彩と関連を作り、なかなか美しくまとまっている。
瞳の中には3種類のハイライトが使用されている。瞳のもっとも暗い部分と重なる一番大きなハイライト。最近、色んなアニメで見かけるようになった表現方法だ。点々と打たれたハイライトは2つの色パターンが使われている。
海村キャラクターの中でもっとも瞳が大きく描かれるのは向井戸まなかだ。向井戸まなかが斜めに顔を向けた時、瞳の形は水滴を連想させるような歪み方をする。向井戸まなかのような大きな目を持った生き物の瞳がこのように歪むと思えないが、瞳の内部に描かれた瞳孔、ハイライトで立体的なイメージが表現されている。アニメ特有の様式的な表現といえるだろう。
水中世界は全体が青みがかった色調が使われる。おそらくは仕上げまでは通常に作られ、撮影段階で全体を青くするフィルターが使われていると推測される。同じ色を比較してみると、下の画像のように海の世界がやや青くなっているのがわかる(向井戸まなかの肌の影色を比較している)。実線はもちろん黒で描かれているが、このフィルターを使った場合、不思議と線が青く浮き上がってくる。どういった効果によるものなのかはわからないが、海世界独特の雰囲気が演出されている。
凪のあすから 作品紹介 (5)


一方、地上世界は海岸沿いの風景らしく、夥しい量の錆で覆われている。この錆は、美術スタッフの手によるものではなく、デジタル貼り込みによるものではないだろうか。錆だけではなく、雨の跡や、海風でかすれた看板文字や、様々なものが一杯に貼り込まれた上で完成形にしている。
P.A.WORKSを印象づけているものといえば、高品質な背景であり、背景美術の見事さが、作品の品格を間違いなく底上げしているといえるだろう。もちろん、個々の美術スタッフのポテンシャルの高さがこの世界観を支えているのは間違いないが、やはり撮影スタッフの存在を、あるいは撮影スタッフの連係プレーを無視して語るわけにはいかないだろう。
 P.A.WORKS作品には常にどこかしらに光が当たり、深くはないが爽やかな印象を持ったコントラストが描かれているが、この光の効果も撮影スタッフが底上げしているものだろうと考えられる。この光の効果が的確だから、平面上に書かれた絵画に過ぎないものを実写的な印象にしているのだろう。
細かく見てみると、光は太陽の位置だけではなく、壁や床に当たって反射しているところまで作られている。コントラストも場面設計に合わせて再調整されているようだし、奥行きにもピントの調整が加えられている。これらが元々完成度の高い背景美術をより高品質なものにしているのだろう。
  それから雲の描き方だ。同じ場面では同じ雲が描かれ、雲の位置でキャラクターがどの方向を見ているかわかるし、またキャラクターと雲がどのような連携を持つかでシーンの心情を表現している。雲が単に書き割りではなく、シーン全体の設計に対して重要な役割が与えられている。

物語は波路中学廃校のため、海村の少年少女が陸上の学校、美濱中学校に通うようになったというところから始まる。そこで向井戸まなかが木原紡と“特別な出会い”を経験してしまう。
これは中学生――思春期の少年少女の物語だ。古里の海世界を離れて地上に出るというシチュエーションは、外の世界に歩み出そうとする少年少女の身体的心情的移り変わりを表現したものだろう。
そこで、向井戸まなかは木原紡という風変わりな少年に恋をする。しかしまなかはうろこ様に呪いを受け、膝に奇怪な魚を付けられてしまう。これはおそらく、初潮の暗喩だろうと考えられる。初潮でなくても、向井戸まなか自身にコントロールできないものの芽生えの象徴――すなわち“性欲”である。
またこの呪いが、神さまポジションのうろこ様が与えるもの、というところも象徴的である。人間の理性ではどうにもならぬもの、内なる声=神、というわけだ。
もっとも、そういった性的なモチーフが露骨に描かれているわけではない。膝に受けた魚の呪いは、先島光には明かせるけど、他の誰にも明かせない。この段階では二人だけの秘密として描かれていた。二人だけの秘密、という絆の強さというモチーフでも利用されている。この秘密を共有して、先島光は喜んでいる。
しかし、向井戸まなかは不本意とはいえ木原紡にこの秘密を明かしてしまう。向井戸まなかは木原紡がこの秘密を受け入れたことに喜ぶ。2人きりだけの秘密だったところに木原紡が割り込んできて、先島光は怒りを覚える。この怒りははっきり嫉妬だ。
『凪のあすから』はオーソドックスな恋愛ストーリーと見てもいいだろう。しかし現実的に見えるこの物語はファンタジーでもある。海村の人間が地上の人間に恋をすると、追放されるのである。その暗い実例を、先島あかりというキャラクターに演じさせている。現実的な世界を背景にしているが、少しずつ非現実的なルール付けが物語に混入しているのだ。そういうところで、ファンタジー空間を作り出したことに意義が現れてきている。
思春期の恋愛と性――。第2話で、先島光は寝ようとする直前に向井戸まなかの姿を想像する。ただしその姿は裸。裸が描かれたのはただのイメージではないだろう。先島光が向井戸まなかに抱いている性的な欲望……もっとも、それが光自身に明確な自覚として現れているかまだわからないが。
海と陸の異文化恋愛。日本が古来から描いてきた異類婚姻譚の物語であり、思春期の性と恋愛の物語であり。性に関するモチーフがどこまで描かれるかわからないが……最後まで暗喩程度の描写になるか、どこかで表面的な理性が転落して性欲に飲み込まれるか……しかし芽生え始めた性に対する感覚が、恋愛をはじめようという行動と無関係ではないだろう。
異類婚姻譚というファンタジーであり、現実的な思春期の恋愛を描いた物語であり。『凪のあすから』は思った以上に多重的に世界観を構築する狙いがありそうである。

『凪のあすから』は恐ろしく入念に作り込まれた世界観に裏打ちされた映像作品である。一見すると、海の世界はなんのために作られたのだろうか――と思わせるが、異世界というモチーフが『凪のあすから』を標準的な恋愛物語から少し特殊なものに変えている。恋愛をすると追放されるという罰が与えられるという不安。それはお伽話的なルールだけど、高度に作り込まれ考証が行き届いた世界観だから、現代の物語として自立可能なものにしている。
お伽話を、現代を背景にした世界観の中で再現する。もちろんそこには現代的な視座も加えられている。思春期の葛藤や苛立ち。お伽話的な異類婚姻譚でありながら、青春ストーリーという要素も絡みついてくる。より複雑化し、現代的な高度さを持ったお伽話、というふうに表現するべきかも知れない。
『凪のあすから』のストーリーが、もしかすると日本人がずっと深い所に抱き続けていた精神を呼び起こすかも知れない。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足


作品データ
監督:篠原俊哉 原作:Project-118
シリーズ構成:岡田麿里 キャラクター原案:ブリキ
キャラクターデザイン・総作画監督:石井百合子 キーアニメーター:高橋英樹
美術監督:東地和生 美術設定:塩澤良憲 撮影監督:梶原幸代
色彩設計:菅原美佳 3D監督:平田洋平 特殊効果:村上正博
編集:高橋歩 音楽:出羽良彰 音響監督:明田川仁
アニメーション制作:P.A.WORKS
出演:花江夏樹 花澤香菜 茅野愛衣 逢坂良太
   石川界人 名塚佳織 鳥海浩輔 小松未可子 石原夏織



vitogensyutain at 09:23|Permalink アニメ 
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