2009年04月22日

なにをかこうかな

『なにをかこうかな』
マーグレット&H・A・レイ作
文化出版局 (1984/9/16)

 今年から地元の図書館にちょくちょく通っているのですが、自分で読む本を借りるついでに、娘に見せる絵本も借りてくることがあります。今回は絵本の内容がちょっと面白かったので取り上げます。

 うさぎのビリーがキャンバスに絵を書いています。何かの動物の絵を書いているようで、体をだいたい書き終え、これから頭を書こうとしたときに、犬のペニーが通りかかり、「いい絵だねぇ。でもあたまがないよ」と言って、頭を書き足します。でもそれは犬の頭。
 次にアヒルのグレタが通りかかり、「足がないよ」と言って、アヒルの足の水かきを書き足し、さらにやまあらしが通りかかって、体に針を書き足し、にわとりが来てとさかを書き足し、フクロウが翼を書き足し、ねずみが尻尾を書き足たし、最後は象が来て鼻を書き足し・・・・結果、キャンバス上には得体の知れないモンスターが召還されておりました。泣き出すうさぎのビリー。

 既に心が汚れている大人の私は、この話を聞いて、「仕事でも似たようなことが起こるよなぁ」、なんて思ってしまいます。いろいろな人(お客だったり、上司だったり)が好き勝手なことを言って、結果とんでもないシステムができあがってしまったり・・・。

 ちなみに絵本では、みんなでそれぞれ好きな絵を書こうよ!ということになって、キャンバスを人数分用意してみんなで絵を書いた(そして、ビリーは自分自身の絵を本当は書きたかった)、というものなんですが、仕事じゃそうはいかないもんなぁ。



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2009年04月14日

N響アワー

 3月から娘が保育園に通いだしたのですが、さっそく風邪を貰ってきてしまい、それが家庭内にも伝染、最近まで家族揃って体調不良で大変でした。ようやく回復してきたので、サボっている読書もぼちぼち再開いたします。

 N響アワーですが、4月から司会が池辺さんからから西村朗に変わりました。なかなかお話が面白いです(ダジャレはないです^^;)。次回のテーマは「名曲の難所・急所」とのことで、何がチョイスされるのか興味深いところです。



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2009年03月26日

どっちだ?

某新聞社のサイトのニュースタイトル。

燃費アップの新型プリウス」

燃料を余計に食うようになったのか、それとも燃費「効率」がアップしたのか、良く分かりません・・・。
記事を読んだら、あたりまえですが後者でした。タイトルのつけ方、頭悪すぎ。大新聞社なんだからたのみますよ。



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2009年03月22日

誰がヴァイオリンを殺したか

『誰がヴァイオリンを殺したか』
石井宏
新潮社 2002/3

 今日演奏されているいわゆる「クラシック音楽」は、作曲された当時に演奏された状態とはまったく別物である、大衆化・商業主義にのっかり、演奏形態も、また楽器そのものも改造が繰り返され、そこにはもはやかつての豊かな響きは残っていない、という内容です。
 いささか懐古主義のみというか、現状をただ嘆くだけで前向きな話があまりないのが残念でした。
 前から思っていた、何億円もするヴァイオリンに関する疑問については、過激なまでにズバリと答えてくれました。
 ストラディヴァリウスについた億単位の値段は、楽器としての性能に対するものではなく、あくまで骨董品としての価値である、と著者は断言しています。もし、50億のストラディヴァリウスと、300万の精巧なコピー品を並べ、目隠しして聞き比べをしたとき、区別の出来る人間はまずいないだろうと。
 「いい音のする楽器」という言い方自体が、日本人しかしないものだそうです。音を決めるのはあくまで奏者の技量であり、奏者の動作に機敏に反応し、奏者のポテンシャルを体現するキャパシティがどれだけ広いかが、楽器の良し悪しである、とのことです。言われてみれば確かにそうですね。



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2009年03月15日

反音楽史

『反音楽史』
石井宏
新潮社 (2004/2/18)

  何に対して「反」なのかというと、ドイツ音楽中心で語られる音楽史です。音楽の教科書には、バッハから始まって、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン・・・とドイツの作曲家がずらりと並ぶわけですが、クラシック音楽がドイツ中心に発展したかのように語られる音楽史は虚構であり、後世のドイツ人が、政治・経済・文化すべての面で、ヨーロッパにおいて後進国であった忌まわしい過去を払拭するためにでっちあげた偽りのものである、という主張を行っています。
 文章にみなぎるドイツ音楽への反骨精神とでもいうべき執念は相当なものです。ドイツ人によって歴史から「抹殺」された音楽家、などの過激な表現が並んでいます。
 三つの章から構成されており、まず第一章では、モーツアルトが、イタリア人ではないがゆえに、就職活動で大変苦労したという履歴を丹念にたどることで、音楽史における大部分の時代において、その中心はあくまでイタリアであったということを述べています。
 第二章では、バッハ、ハイドン、ベートーベンといった作曲が、当時国際的にはほとんど評価されていなかったという事実を述べています(一方で、彼らの音楽が素晴らしいものであることは著者もきちんと認めています)。印象的だったのは、バッハ親子の話です。今日「大バッハ」とされる、ヨハン・セバスティアン・バッハは、当時はドイツのローカルな音楽家でありまったく無名で、一方息子のヨハン・クリスティアン・バッハは、オペラの作曲で国際的名声を得ており、父親とは比較にならない成功を収めていたのにもかかわらず、後世のドイツ人が、ドイツ中心の音楽史をでっちあげるにあたり、イタリアに媚を売りオペラで名声をなした息子は邪魔であるため、ドイツ人の書く音楽史書においてクリスティアンは「抹殺」され、記載がほとんどないんだそうです。
 第三章は、ドイツ中心音楽史がどのように作られたか、を述べています。著者はそのムーブメントの端緒を作った人物として、作曲家であると同時に文筆家でもあり、数多くの音楽批評を行ったシューマンに着目しています(個人的には、シューマンの音楽は結構好きなんですけどね・・・)。
 今後は、ドイツ偏重の音楽史によって不当に抹殺された、バロック音楽やイタリア音楽をもっと聞いてみようかと思いました。



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