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初恋

香港徒然でくさ

私上野徹の私小説です。
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あの三億円事件の実行犯。

2006年07月

2006年07月27日

火の玉事件

 5年生の頃と思う。
 今年のGWの松山会でもこの事は一番の話題になった。
 私たちは夏休みのある日私とやっちんと佐藤安信、文俊、島津君と火の玉遊びをした。竹ざおの先に針金をぶら下げその先に脱脂綿を結び油を染み込ませて火をつけ空中を浮遊させる。
 遠くから見たら火の玉に見えるに違いないと考え、始めはボタ山の上で遊んでいた。
 しかし、それでは人の反応が見えないから面白くないと言うことで山を降りた。
 長い夏の日もすっかり暗くなった頃我々は松山の墓がある坂まで行き人が来るのを待った。
 安信を大野の石屋のところのヤマモモの木がある所で見張りをさせた。
 この坂道は大人でも怖い場所らしい。
 果たして見張りの安信から人が来たとの伝令が入る。
 私は坂道まである程度はみだした木の枝の上で待機していた。
 ポケットからマッチを取り出した。
 当時の小学生ならマッチと小刀(肥後守)は常に携帯していた。
 少なくても肥後守(ひごのかみ)は男の子なら必需品であった。
 数人のおばさんの声が聞こえてくる。
 多分、この人たちも怖いから大きな声で喋りながら夜道を歩いているのだろう。
 事実頂上付近でかつて殺人事件があったのだから。
 私はおばさん達が真下へ来た時、脱脂綿に点火し、流すように下へ放った。
 瞬間、ギャッーと言うけたたましい悲鳴が聞こえガチャーンと何か金属が壊れる音がした。
 「出たーッ」
 私はあまりにも効果が大きかったことに寧ろびっくりした。
 みんな慌てた。
 「逃げろ」と言い私と島津君と安信は柿山の方へ逃げ、豚飼いの金さんのとこの崖を滑り落ちるようになるべく人目のつかない方へと逃げた。
 井上の横の線路への細い崖のような坂道をものすごい速さで駆け下り線路をひたすら走った。
 青年学校(炭坑の若者達の私営の訓練校のようなもの)まで走り、足を止めた。
 島津君は家に帰ると言い、一人引き返した。
 私と安信の二人きりになった。
 誰も我々の仕業と分かるはずがないと思ったが、帰るのが怖い。
 松山には戻れないと思い、私達二人は大野浦小学校の横のバス通りを歩き配給所まで来た。
 「風呂でも入ろうか」と私は言い、手ぶらで風呂へ向かった。
 炭坑の風呂は24時間開いている。もちろん無料である。
 タオルは無いが夏だから直ぐに乾くので、思いついたら風呂に入ることがあった。
 
 炭坑は24時間稼動であり、真っ黒になって坑内から上がってくるのだから坑員達は家に帰る前に風呂に入る。
 土人のように真っ黒でどこの誰だか分からない。
 風呂で知っている人に会っても顔を洗うまで誰かは分からないほどである。
 浴槽は二つ大きなのがあり、洗い湯と上がり湯とに分かれている。
 前日の上がり湯が翌日洗い湯になる。
 365日風呂はいつも沸いていなければならない為、片方づつを洗う。
 一つの浴槽に二日間で何千人か入ると思う。
 上がり湯は透明だが洗い湯は白濁である。
 炭坑の実態を知らない人は白濁の温泉かと思う者もいる。
 要するに二日間でそのくらい汚れてしまうのである。
 
 それが原因で病気になる人など皆無である。
 

2006年07月18日

竹島先生

 父は退院後、松葉杖をついて仕事に行った。
 歩けないので原田のロバ引きのおじさんに途中まで乗せてもらってた。
 その間、家計はどうなっていたのだろう。
 会社員のように補償もないし、数ヶ月大変だっただろうと思う。
 父は女癖は悪かったが仕事は実にまじめだった。
 賭け事も全くしないし、仕事以外にプロ野球に熱中するくらいだった。
 当時、福岡は西鉄ライオンズが人気だったのに熱狂的な巨人ファンだった。

 5年になるとぴかぴかの新校舎に移った。
 この年から全校生徒が同じ校舎に揃ったのである。
 クラスも3組になり竹島克彦先生になった。
 兄も5-6年で竹島先生だったのですごくいい先生と聞いていたので楽しみだったが、実際は聞いていたより素晴らしい先生だった。
 子供が好きでよく可愛がられた。
 それも分け隔てがなくどの生徒に対しても同じだった。              しかし叱る時は今までの先生よりビンタがすごかった。
 それでも先生が好きだった。
 私などはよく叩かれたのだがそれでも好きだった。
 一度こう言う事があった。
 私は5年になって後藤健二と言う親友が出来ていた。
 「上野、後藤ちょっと来い」と言われ職員室に呼ばれた。            「お前たち昨日帰りに落書きをしたやろ。それを二人で全部消して来い」と言われ雑巾とバケツを渡された。
 前日チョークで学校から帰る途中にいたる所に落書きをして帰ったのである。
「なんで俺たちて分かったんやろか。」と言いながら二人で消して回った。
 実は二人して(後藤のバカ)(上野のバカ)と書きあっていたのである。
 学校を出て直ぐの電柱にこの矢印をたどれば宝物があると書きその順序はまさに我々の通学路であった。
 選炭場の前の石垣の割れ目に「この穴の中に宝物はある」と書き麦の穂を入れていた。
 そしてその横にお互いのバカを署名したのである。
 先生はお前ら二人しかいないと思ったらしい。
 しかし、その矢印を最後までたどっていった先生は素晴らしいと思った。
竹島先生は独身で子供が好きな人だった。

 音楽は苦手なので音楽の時間は嫌いな海老だった。
 家庭科は6組の斉藤ひとみ先生で、その時間は体育の得意な竹島先生がそれぞれのクラスの体育を受け持っていた。
 3組は月に一度誕生会をやった。その日は劇などをやるから私たちの教室には舞台の幕がとりつけられていた。5年生のときは新1年の沖先生のクラスの掃除をやらされていたので、その1年の生徒を招いて劇をやったりした。
 ずっと後、結婚して知ったのだがその1年のクラスには今の我が妻の妹の恵子ちゃんがいたらしい。
 佐藤の久美子がいたのは覚えているが。
 私はいつも劇では主役をしていた。台本も書き演出もした。
 勉強以外はいつも主役であった。
 いじめっ子の塩川善孝、健がいなかったので5年6年は学生時代でもっとも楽しい時代であった。
 いつも私がクラスの中心にいた。
 このままいつまでもこのクラスでいたいと思った。



2006年07月13日

父ちゃんの入院(小学4年)

 祖母が死んで8人家族が7人になった。
 六畳と四畳半の狭い我が家だが当時一人欠けると広く感じた。
 やがて私は4年になり今まで中学校の間借りから旧校舎に戻った。
 そこは4年と新一年生の二学年だけである。
 私たち4年がそこでは最上級である。
 妹の江里子が新一年生になった。
 よく妹と登下校をした。
 小学校では二年間同じクラスなのでクラスは1組のままだったが先生が海老誠一郎先生に代わった。
 ボケタは転任で他校へ移ったか死んだかは誰も知らない。
 とにかく長い学生時代でこの先生ほど慕われない先生も珍しい。
 
 私は海老先生はもっと嫌いだった。
 最初の授業の時「俺がほっぺたをはると飛んでいって壁にぶつかって戻ってくる。それをまた叩く、そしてまた戻って来たのをまた叩く。いいか永遠に続くぞ。俺のビンタは」と言い笑いを誘う。
 調子に乗っていつまでも笑っていると何故笑うと言って叩かれる。
 音楽と書道が上手かった。
 字だけはこの海老のを好きだった。
 黒板がいつも綺麗に書かれていて見やすかった。
 贔屓がひどいので有名だった。
 町の有力者とか金持ちの子を叱ることは殆ど無かった。
 特に大塚裕子、山本博子に対するそれは目に余るほどだった。
 よく悪さをすると顔に習字の朱色の墨でたくさんいろんなことを書かれて全校を一周させられる。
 それはまだ良い。こちらが悪いときは仕方が無いと思う。
 しかし、私に対しては何もしていないのにやられた事が多い。
 「上野やろ。」と言われて「違います」と言っても「いいや上野がやったに違いない」と言われて顔に朱を塗られて行進させられたことは何度でもある。
 一度家庭訪問の時、そのことを母が先生に言うと。
 「それは仕方が無いでしょう。上野君は殆どの事件に関係していますよ。」と言っているのを私は隠れて聞いていた。
 私はこの先生をボケタよりずっと嫌いだった。

この年の夏 父が両足骨折で貝島病院に入院した。
 父の仕事は土建業で家の解体作業の最中スレートの屋根の釘を抜いている時一枚のスレートの上で最後の一本の釘まで抜いて、そのまま落下した。
 見事両足を複雑骨折した。
 大黒柱である父の長期入院は当時相当の痛手だっただろうと推される。
 しかし、間抜けなもんである。
 父は手術をすごく怖がっていたらしい。
 しかし、全身麻酔での手術は怖いも何も無く目覚めたらベッドの中だった。
 「いやあ、大したことなかったよ。」と嘯いていた。
 夏休み中だったのでよく見舞いに行った。
 家からはかなりの距離だったが病院バスで行った。
 病院バスとは貝島病院までのバスで無料である。
 停留所は西鉄バスと同じ場所だった。
 ただし病院バスは病院まで行くためにあるので、病院の手前で降りるのは基本的に出来ない。
 いつも鳥打帽をかぶったおじさんだった。
 方向指示器が手動で黄色い菱形をしたものが曲がる方向へピョコンと出てピカピカと点滅する。
 運転手が戻すのを忘れるといつまでも水平に上がった方向指示器がピカピカと点滅しながら音をチッカチッカとさせる。
 日常生活の中でバスに乗ることなど殆ど無いので私はこの小旅行を楽しんだ。

 現在の実家がこの病院のあった場所のすぐ上の段にある。
 父の病室は崖の上の見晴らしのよい部屋だった。
 埴安の商店街が見下ろせる位置にあった。
 病院の横の坂を下ると商店街である。
 私達は坂を通らず崖を滑るように降りていったものだ。
 私はよく看護のために病室に泊まった。
 暫くの間父は小便にも行けないので、尿瓶で世話をした。
 付添いには母と交代でよく行ったが、そのうちとんでもないことが起こった。
 時々、志乃と言う女が来るのである。
 この女性は父のとこで働いている人夫であるが、以前より父の女と言うことは何となく知っていた。
 彼女と私が一緒のときは私が床に御座を敷き寝るが彼女は父と一緒のベッドで寝るのである。
 私は子供心にいつも母にばれなければ良いのにと心配していた。
 ある日、家にいたとき母が「志乃が病院に来よるやろ。母ちゃんは別れようと思うばってん、徹は父ちゃんについていくか母ちゃんにか。」と聞かれた。
 私はどちらを選ぶと言う決断は出来かねるが母について行くと答えた。
 私は志乃を恨んだ。
 その後も志乃とは長く続いていたが母は別れることも無く、いつもと変わらぬ態度だった。
 正月の餅つきをした時も父に志乃の家に持っていってやれと言われ、自転車でつきたての持っていってやったことがある。
 何でめかけの家まで餅を持っていってやらなければならないのかと頭にきていた。しかし父には逆らえない。
 怖い父だった。志乃とはその後も私が中学生まで続いていた。
 私たち兄弟は春休みとか夏休みとかになると土方を手伝わされたので志乃はよく知っている。
 仕事の上で志乃はよく働く人だった。
 親父に逆らわず従順だった。
 父も仕事のときは厳しかったので志乃もよく叱られていた。
 
 ある日病院の売店で買い物をしていたら海老先生が窓から侵入してきた。
 私は目が合うと面倒なので逃げるように病室に戻った。
 父に話すと売店の婆さんは海老先生のお母さんらしい。
 母一人子一人らしい。


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