松永暢史の教育批評と芸術逍遥

受験プロの文学・芸術・教育談義

最終回

生きている人間にとって、一つの「遊び」が終わるということは、新たなる「遊び」が始まるということを暗示する。ここに新たなる「遊び」を試み始めたい。読者の皆様、これまで実に多くの人に目を通していただいたこのブログ、ついに無事終了の日を迎えることをここに謹んでご報告したい。今にしてみると、記憶に何も残らない「青春」。全て「冗談」ばかり書いて来た気が致しますが、筆者引き続き「Joker」の筆名で、究極の真理を現象学的冗談化によって捉えて行こうとする所存に変わりはありません。しかし、これからは、V-netにおける教育の話題をよりいっそう主体に据えて、同僚の先生方や読者たちとの意見交換と相互高まりの場として、多くの人の声を誘発する役目を担って行きたいと思います。ここに、当ブログ、これまでの読者、コメント諸氏の全ての方々に厚く感謝御礼の念を捧げつつこのブログを終了させたいと思います。皆様、多年にわたるご愛読誠にありがとうございました。なんちゃって、すぐ「復活」するかも。てなわけで、以下記述を、「苦笑」の上お許し願いたい。以上当然のごとく、最後まで「冗談」で書いた。 『職員会議中』:http://ameblo.jp/v-net-blogroom/

V-net職員会議

オバマ受賞についての多種コメントの中で、イランのモッタキ外相の「時期尚早だ」という意見は筆者以上に筆者が言いたい見解であった。私は、イラン人は嫌いではないがあまりにムスリム思想利用し過ぎのイラン政府は好きになれないので、不思議な気持ちを禁じ得ない。このことを、「現象学的『冗談』」で思惟すると、「イランもパレスチナもイスラエルもアフガンもアメリカも中国もソ連も、もっと人が死ななくても良い政策をとるようにすることが賢明でないか」という考えにすぐ行き着いてしまう。
今日、18日現在、日本のメディアではほとんど報じられないが、ノルウェーのノーベル平和賞委員会会長が、他ならぬノルウェー議会から、「反対意見が多数あったのに、恣意的にオバマ氏授賞を決定した」と、辞任を求められているようだ。そして、その中心的な理由は「時期尚早」である。
政治的な「無意味」で多くの人が死ぬことを容認するのであれば、それを知る我々が「主体的」に生きていることの意味はなくなってしまう。アフガンで死ぬ米兵の多くは、国際政治になんて全く関係のない運の悪い貧しき人たちであろう。彼らは何の「理念」もなく命を奪われる。だからこそ逆に、この「矛盾点」に、同じく殺害対象であるムスリムの「テロ」攻撃が起こるのだ。
実は筆者も「参加」しているが、「現行資本主義社会」は、貧富差拡大と環境問題で早晩行き詰まるだろう。自己の存在価値を、他者の利益によって逆照射する時、不必要な消費と下等労働を前提とする活動は確実にそれを狭める。だから、これからの「富者」は、これまでとは意味が違う世の中になったのである。
てなことを考えていると、V-net国語科の未田先生の提案で、ほとんど初めてだとは思うが、突如土曜夜、「V-net職員会議」が開かれた。各先生から、教育の現状の認識に基づいた見解と具体的新提案が次々に提起された。それは、ここに「抽象化」すると、「ナマの生徒たちの問題解決に向けて、考えうるかぎり新しく有効なメッセージを他に先駆けて提案して行こう」と言う、現実的かつ極めて前向きな提案へと至り、結果的に、よりリベラルアーツ的に強い人材、AOや面接で強い人材になりうる基礎教育の推進、実践を目指す中で、前方に現れる「これは!」というものを確実に見逃さずにとらえようとするという方向性が確認された。合わせて、最新受験に関する指導技術の錬磨も積極的に継続することも確認された。また、小生ブログの「職員会議中」への移行参加も承認された。
日頃書きあぐんでいる私からすると、この会は、大きなエネルギーを与えてくれる結果となった。それは「創造性」の確認と言っても良かった。おそらく、これほど「提案」が出まくる教育現場は他にないことだろう。新提案については、普通「沈黙」するのが教育現場の実態であろう。
2011年度入試は、入試史上の大きな転回点を迎えることになろう。中高一貫公立に圧される私立中高も、まともなところは「勝負」に出るであろう。それを読んでの「対処」が我々の仕事である。

火山英語劇

連休中は終日面談か指導、これが過ぎると、雑誌ゲラ、メールやり取りと終日デスクワークするが、肝心の懸案原稿に火がつかない。焚火をやっても火がつかない。どうもこれは月のせいかなんて思って夕方V-netへ授業のために顔を出すと、そこに驚くようなものが待っていた。
あれは確か先週のことだ。英語の上野先生と話すうち、V-netで英語劇コースを開くと面白いということになって、then and there即決した。そしてその明くる日、すでに立派な英語劇のチラシができていたのにはいささか驚いた。
「Theatrical English Class?英語の基本はセリフと演技から」
でもそれもむしろ当然か。何しろ講師の上野先生は、現役の劇作家で演出家で翻訳家でしかも日本人離れした英語発声の達人だ。先生にしかできないピッタリの仕事とはこのことかもしれない。すぐに応募する生徒があり、今週末から開講ということになった。私の座右の銘の一つに「出前迅速」というのがあるが、上野先生の場合は「電光石火」とも言うべき早業である。
しかし、今日驚いたのは、実は英語脚本テキストができていたことである。手渡した上野先生に尋ねると、「昨日自分で作った」と言う。これは、モーリス=センダックの“Where the wild things are”に、原作にはない会話部分を作ったもので、もちろん英語である。一部紹介すると、
I’ll do what I wanna do.I’ll do what I wanna do.I’ll make what I wanna make.I’ll make what I wanna make.
声に出してみると面白い。繰り返し読むと気持ちがよくなって来る。こういうことは日本語より英語の方がはっきり伝わる気がするから不思議だ。結構な文量で、原作を丁寧にカヴァーしている。この仕事の速さはなんなのだ。「電光石火」というより、まるで「桜島噴火」のようである。
近々HPでもお知らせするが、それまで待てない人は直接V-netへご連絡を。

ノーベル平和賞

こんなことが書けなくなって、いよいよ「職員会議中」に移行することになるのかもしれないが、我が国のメディアと同様、ノーベル平和賞もその「恣意性」によって無意味化した。オバマ氏は合衆国が選んだばかりの大統領である。そしてまだ「姿勢」だけで何も実現していない。彼の「業績」は、アフガン駐留問題などこれからの判断よって現実化される。それを「先認」するとは、誠に残念なことではあるがノーベル賞もおしまいである。オバマ氏自身が「正か否」を論じているのではない。今そのことをすることの決定的な無意味を主張するのである。これでは、チベットの平和安定化のために貢献したと胡錦濤氏(中国主席、この項ネット的制約を受けやすい)に賞を与えるのと同等であろう。ノーベル平和賞が隣国ノルウェーの国会議員5人によって選出される仕組みにまずい点があるのかもしれない。
アフガンでは今も戦争が続いている。その他のイスラム圏でも爆弾テロの話が途絶えることはない。イラクもアフガンも米国が仕掛けている戦争である。しかもこれがどう集結するのかはいっこうに見えて来ない。現地で死者が出続ける時に、戦争を行っている国の大統領に平和賞を与えることはどう考えても理解されない。私が知るところでは、ノーベル賞は、戦争で自分の開発した爆薬が多数の犠牲者を生み出したことを悔やんだノーベルの遺志によって莫大な遺産を基に始めたのであり、それが戦争をする国に賞を授与するのであるから、完全な本末転倒であろう。スターバックスコーヒーが生産地のエチオピア農民に正当な支払いをするように取り付けたビリー牧師のような人でも探せば良いのである。
我々は特定のプロパギャンダに拘泥するマスコミの態度がいやなのである。でも、ノーベル賞選考委員会はこれをやってしまった。ここには米国政府の強い働きかけがあったのは当然のことだろう。そして「西欧諸国」はこれを容認した。彼らは相変わらずムスリムの考えを無視するのである。彼らからすれば米国資本主義的考え方は完全に間違っていることになっていることだろう。これを辞退することを選ばないオバマは、「戦争」を選択したことになる。
そもそもノーベル平和賞は、我が国の佐藤栄作元首相受賞同様に極めて政治的であるが、今回の受賞はこれを決定的に認めたことになる。このことは、新聞が、そしてテレビがたどった道と同じ結果になると私は思う。恣意的な要素があるメディアはその役割を失う。これをはっきりさせたのが今回の受賞決定であろう。したがって、これからノーベル賞を受賞することは無意味ということになるから、ノルウェーの森が好きな「村上春樹」はイスラエルに行くべきではなかったかと今は思ったりしていることだろう。

『結婚できない男は12歳までに作られる』

ワニブックスプラス新書から『結婚できない男は12歳までに作られる』が発売された。これは、結婚できない男性が(女性も)増え続ける中で、どうすれば結婚=世代交代できる子供を育てられるかの解説を試みたものだが、読んでみると我ながらなかなか面白い仕上がりになっている。
すでに読んだお母さんからは、「これは結婚前の女性が読むべき本です」と言われて、「やっぱり女の人の方が前向きで強いわい」と再認識した。男の読者からは、「20〜30代の男性が読むと思う」と言われた。著者にとってこれは「耳聞き」良いことである。男の人にも女の人にも読まれそうだということだ。電車の中で、隣同士に座った男女が、つい同じこの本を読んでいることに気づくと想像するのも面白い。
是非ご一読願いたい。
ケータイサイト「ママニティー」での「子育て法」の連載は、10月5日から毎週月曜日に13回配信されることになった。こちらも評判上々らしくありがたいことである。
私の「ご家庭ご訪問、教育環境設定特集」(仮題)が掲載される「プレジデントファミリー」は、10月17日発売。写真を一杯撮られて恥ずかしい。
『こんな働く母が、子供を伸ばす!』(扶桑社)は、11月6日発売。これを書いている間に偶然装丁見本が届いたが、ピンクの色柄が優しく美しい。一目で働きながら子育てをする本だと分る印象。
以上合わせてよろしくお見お知り願います。
それにしてもものすごい風だ。
ナスもピーマンもオクラもインゲンも無惨だ。
強風を浴び続けて葉っぱの組織がボロボロになっているらしい。
野分またの日。私はすでに先の執筆を行っている。これは父親向けの本である。

「嘘」について

別にこだわっているわけではないが、「拍手」はつくが、「コメント」がゼロなのはオモロいことである。でもって、今後「職員会議中」になればおそらくますます書かなくなるこんなことを書く気になってしまう。
そもそも言語が不完全であるから、真面目に哲学することはほぼ無意味で、これに対しては「文学的冗談」を持ち込むしかないというのが筆者見解である。
では、「冗談」と「嘘」とではどう違うか。
サマセット=モームは、「生まれてから100回以上嘘をついたことがないという人間は嘘つきである」と喝破しているが、私もこれに同感である。人は人とつき合う時、本来不完全な言語を用いてそれをするのであるから、ADHDでなければ、場に相応しくない本音の吐露はしない習慣がつくのが一般であろう。また事実を伝えることにより相手に不要な怒りを生ぜさせるのを避けるために微妙にニュワンスを変えるのは良くあることだろう。
しかし、「吐露しない」は「嘘」ではない。「嘘」とはそこで「吐露」しながら、意図的に事実とは異なる印象を相手に与える「作業」を意味すると思う。「冗談」は、これをオモロくするためであるから「許容可能」であるが、自己立場的利益的嘘をつく人は、それがそうであると相手に知れた場合、自らの人格否定にも繋がる「冒険」であることに自覚的でない人たちの「集団」であるとも言える。
世には、私を含めて必ずしも「常識的な判断」をしない人たちがいる。
もし世の中に対して「常識的な判断」をするとすれば、それは「ある意図」による、集団的利益の確認がついて回る。だから「常識的判断」に盲目的に追従することは己をダマすことに繋がりうるのである。「盲目的」というのは言葉が失礼か、「非覚醒的」というのが相応しいか、「疲れるような気がすることに敢えてアタマを使わない習慣」というのが正しいか。
いずれにせよそういう状態に陥ることは、明らかに非常につまらないことであろう。なぜなら、そもそも「嘘」とは、もしダマすことが「有効」と判断してそれを行うとすれば、他人をダマすためのものだったはずで、自分を「ダマす」ためのものではなかったはずであるからである。習慣化した嘘に自覚的でない時、その人は自己の存在意義をも否定していることになる。
しかし、「責任」を逃れるために、「迷妄」を装うとするのは多分に良くあることでもある。もっとも、こんなことをする段階ですでにその人は「迷妄」なのであろうが、ここに「自覚」がない場合、その「救出」は、宗教的修辞以外に救いようがない宿命にある。
己をバカであると認識することも、「バカ」ではないと認識することもどちらも正しくない。
「己はこのようである」と認識し、その外へ出るにはどうするかを考えてそれを実行しようとする人たちが正しき人たちである。
「洗脳」は恐ろしい。「洗脳」は、その人たちが自ら主体的に生きることを滅却させる。
これは、目先の「価値」が充実した個人時間に優先されるという「錯覚」を呼び起こす。しかし、「洗脳」の実態は「意識」そのものに対することなので、我々は常に少なくとも一つのある「意識」に囚われていることになる。そしてそのことに自覚的になれない。だからこそ、あらゆる宗教は、政治的信条と同様、「ほぼナンセンス」だということになるのであるが。「神」もなければ、「来世」もない。あるいはそれがあるかないかは断言できない。でも、人には「宗教」が必要である。
論理の飛躍との批判を承知の上で言えば、「正しさ」は、個々人によって異なることが自明なので、その答えを一つに集約することはできず、つまりは個々人のその後の自覚的生き方によって逆認識されるということになる。つまり宗教ですらゲーデル的に不完全性を孕む。
人は、単独では生きられない。
たとえ生きたとしても、単体ではその世代で遺伝子的に「終了」してしまう。
人は、その周囲の人との「関係性」とその「結果」によってのみ生きる。
人間存在とは他との関わり合いの認識である。
それ以外のものはない。
もはや「外」へ出た以上、「胎児」の時の直勘独断的動物的認識は捨て去られたのである。
我々が、極限まで「個」に立ち返った場合、そしてそれが動物的な欲求と異なる場合、我々に残るのが、「感受」と「好奇」の二つしかないことは哲学的に明らかなことであろう。そしてこれに直結的であればあるほど我々は「主体的」であることになるのである。
「冗談」はこれに前向きであるが、「嘘」はこのことを曇らせる。
弱い心になってはいけない。そこから生まれる言葉がその人自身をダマすことになる。
どんなときでも、我々が人間であるかぎり、直感と決断と行動は、その人たちに主体的な「感受」と「判断」と「実行」でなければならない。
以上、当ブログにはアクセスしないある特定の人物に対して「冗談」で書いた。

教育困難

教員採用試験の倍率低下によって、さらに能力が低いものを採らざるを得ず、結果的に若手教師の離職率が高くなっているそうだ。これは考えようによれば、自分が教師に向いていないことを知って早目に辞退するのであるから、能力がないのに居座り続ける年配教員よりマシかもしれない。
「予想以上に仕事が大変」、「子供がこんなに扱いにくいとは思わなかった」と感じて辞めた人が大半だろうが、実はこの人たちは世間の情報や教育実習での体験からそのことを知っていたはずである。だから、能力が低くて他の仕事に就けないから倍率の低い試験を受けたら通ってしまったという人が相当数含まれると想像されるわけである。
我が国の文化や教育は、次世代教育に相応しい能力を持ったものを充分に育成することができないのである。この現実は重く受け止めるべきではないか。同時にやはり、少子化社会の子供の教育は思いのほか手がかかるのであるから、辞める人はかまわないから、子供に教えることができる人をどんどん主婦でも社会人でもバイトでも雇い、同時に教務と授業を完全に役割分担して生徒指導に全力を上げられる態勢を作ることが必要だと思う。
教師を辞めることを決断する基準は、「子供が好きになれない」にするべきだ。というよりも、教師の方が、目の前の子供を好きになることができなければ教師をしてはいけないと知るべきだ。
自分が教育現場に向かないことを知って辞めて行くものたちの裏に、生徒に大人気で毎日仕事が楽しくて仕方がないという新任女性もいる。こういった人にその理由を尋ねると、元気いっぱいに、「だって子供たちが本当に可愛いくて!」と口にするそうだ。
学校でも塾でも家庭教師でも、良い先生には、教える技術があることの他に、もう一つ共通点があると思う。それは、案外単純なことで、心から子供を可愛いと思っていることかもしれない。人間存在をありのままに受け入れる力があるかないかは、そのものの受けた教育による。しかし、それは筆記試験で図ることはできない能力である。また面接の基準にそれがしっかりと据えられることも忘れられていよう。
私事を言えば、ADHD的で自己中心的な活動を好む私は、そもそも子供が好きでもなければ相手をするのも苦手だったが、仕事を通じてだんだん子供が好きになり、相手をすることにも上達した。それなりの努力もしたが、まさか「天職」になるとは思いもよらなかった。しかしそれは、子供の相手がオモロいからであるに違いない。自分の子供が生まれてからは、他人の子供もいよいよ皆可愛く思えるようになった。皆これから将来すくすくと元気に楽しく過ごして成長し、それなりに苦労をしながら生きる知恵を身につけ、やがて結婚して世代交代してパパやママになる。その想像が子供の背後に起こるから何とも子供と向き合うことは面白い。こんなこというとなんだが、大人の背後に老後を想うのとはわけが違うのである。今急に思いついたが、これは実はコミュニケーションの能力、いやコミュニケーションの技術の問題だけなのではないのか。目の前の人の言動に好奇心を持つこと、相手の心音を感じようとすること、このコミュニケーションの基の、「自然意志」とも言える能力を人から奪っているのはいかなる生活習慣なのか。

秋のV-net

昨夏以来、コンスタントにほぼ月1回の割で行って来たV-net焚火の会は今回で11回目を数えた。各人思い思いの焚火と季節を確認する会話が燃え盛る。ゲーム少年は間近で焚火に当たっては、どこかでか倒れて眠る。倒れて眠ると蚊が来るので、火の近くのデッキチェアのところで火に当たりながら眠る。じっと火を見続けているうちに眠ったり目を覚ましたり、終いには靴と靴下を脱いで、焚火の遠赤外線を裸足の足の裏で気持ち良さそうに受けていた。鳥少年は、ウコッケイの美しいオスを取り押さえて、それを抱いてなでながら何かを言い聞かせてじっとさせてしまう。曰く、「鳥と心が通じ合った瞬間に、鳥が喜ぶ方向に持って行くことができるから鳥は逆らわない」と、達人のようなことを言う。温泉で潜る潜水艦男は、熊手で枯れ草を集めてはそれを火に投じることに興じている。
農家が提供した食物はとても美味しかった。
梨、柿、葡萄、トマト、生野菜、ふかし芋、お赤飯。どれも秋の実りを感じさせた。自作おでんも相変わらず好評だった。少し残った野菜とおでんが、各々トリとイヌのえさになるのが何とも悲しくも嬉しい。今回初めて、ソーセージを持って来たものがゼロだった。
こうして遠地点前の秋の焚火は穏やかに経過していった。ゆっくり入浴後解散した。
やや夏を思い出させる日も時折残るが、やがてそれも終わり、日が短くなって涼しさが増し、徐々に勉強に集中しやすい季節が深まって行く。V-netでも小学生たちのサイコロ道場とは裏腹に、厳しい試練を前にした高校受験の中学生、大学受験の高校生浪人生たちの、静かな戦いが進んでいる。英数国。各指導者の声が聴こえて来る。大学入試問題の英文の音読の声、現代文記述の質疑応答の声、数学理科の解説、音読法の指導。学生教師の個人指導。プロと学生の教師が入り乱れて思い思いの授業を繰り広げる。笑い声も叱り声も聴こえる。やっぱりV-netはにぎやかである。生徒諸君には、是非この活気を家まで持って帰って自ら主体的に学習して欲しいと思う。また我々もこれから来る人たちにも備えて元気でやって行きたい。こんな感じでだんだん「職員室風」になる?なんちゃって、なんて書けるのも今のうちか。いずれにせよ、最近新しい段階に入っていることをつくづく実感する。

V-netなど最近況

周囲に動きがあると見るのか、現在の私はさらに執筆と構想に比重を置く生活に移行しつつある。もちろん本業はやめられないが。とどのつまり、現在の私の仕事は次のアイデアを出すことなので、周囲に調整能力の高い人が現れれば、よりいっそうその仕事に専念できる。というよりも専念するために必要な焚火の回数を増やすことができる。
HPをやや大幅に改変しようとする作業に時間がかかっているとのことだ。同時にブログ欄の移行も決定しているが、すでにそのタイトルもだいたい決定している。ここに惜しむことなく公表すると、
『V-net職員会議中』
というのだ。
多くの方のご参加を期待したい。
てなわけで、いつか『職員会議中』になるまで、このブログは、それまでの移行措置変体過程を担うことをその役割をすることになろうか、なんちゃって、どうせ浮き世の暇つぶし。
最近V-netでは、「音読サイコロ道場」というコースを設けている。これは週三コマのどれかの時間に、小学生がカタカムナ音読とサイコロ学習を学ぶものなのであるが、実は最後にやるキャロムを目的に来ている子も多いのである。
この時間、子供たちがあまりにエネルギーを爆発させるので、他の授業はできなくなってしまった。終わった後はまるで台風が過ぎた後のようになる。子供たちはこの時間を「勉強」だととらえていない。ものすごくデカい声で音読して、夢中でサイコロをやって、真剣にキャロムをやる。帰って行く後姿はあースッキリしたというかのごとくである。「道場」をやめて、「音読サイコロ子供エステ」に変名した方がいいと思うくらいだ。音読とサイコロが充分になりつつある子から作文指導に移行する予定だ。
私は相変わらず多くの人の相談を受けているが、何とここのところお役人さんの相談が多くなっている。好きなことをやることと、勤めることより起業する方向性を優先するべきと説く私に、己をわきまえて常識的に安定職を選んだ方のお子さんに私はいったいなんて言えば良いのか。とにかく、公務員の方も自分の子供が受けている文科省教育にはあきれかえっているのである。それはそれで当然のことと理解される。
また、相変わらず「変わったタイプの子」も多く訪問する。私は自分が変わったタイプであるので変わったタイプの人とのコミュニケーションに優れる。こういう子供たちは、昔のように充分な時間をとって指導したいが、なかなかそうはできなくて残念である。周囲の大人や教師が理解できなかったばかりに順調であるはずの能力伸長ができない子供たちを、過ぎた日の自分の姿と重ねてしまう。
今企画中なのは、中高生のためのリベラルアーツコース。これは、論語、韓非子、ブッダ、ソクラテスなどを読んで、ワイワイ議論し、自分の考えをまとめてそれを文章化するコース。大人にも参加してもらって議論を盛り上げて行こうと思う。実行に移すには時間がかかろうが。
執筆が、プライバシーの問題など諸処ゆえあって、「ノンフィクション」から、「ややフィクションに」移りつつあり、それはそれで楽で楽しいなりにまた別の意味で「苦しい」。
私は、またしても、「不謹慎な表現」によって、「冗談文学」の烙印を押されることもなく、かといって「文学」と認識されることもなく、「園芸」の世界に身を染めるだけなのか。相変わらず、ピーマン、シシトウ、インゲン、オクラと収穫順調。そろそろ更新剪定したナスの実も大きくなっている。早取りした唐辛子はもう一度花をつけて実り始めている。
自分がオモロいと思ったことが他人にはあまりオモロく届かないということは、冗談家にとって、畢竟「沈没」を意味しよう。まるで私は、自分で整髪できず、「美容院」のお世話にならなければやっては行けない類いの人間のようである。
「常識がない」これまでどれほど多くの人間にそう言われ(思われ)て来たことか。「常識」を証明できない人がどうしてそう思うのかといぶかしむが、人をこうだとを決めつけることが「常識」だと誤解しているらしい。
私に言わせれば、「常識」なぞないのである。時代とともに常に変化するのが「常識」なのである。ゆえに、どのような場合においても、自己の好奇心と感受性に忠実に、主体的に時間を過ごすことが大切なのである。

民主党組閣

鳩山内閣文科省大臣に、川端達夫氏が就任することが決定した。この人は教育行政の専門家ではない。おそらくややフラットな立場で、「教育の機会均等」という、民主党の政策を粛々と履行していく役目を担うことになるだろう。現場の「傍観者」に落ちないことを願うのみである。一方で、「NEXT」と噂されて来た輿石東民主党参院議院会長は、安倍内閣で成立した教員免許更新制度の廃止を提案する方向性であることをすでに公言している。
私は文科行政の上から下までのひどい実態を一気に解決することは無理だと思う。文科省を解体して、「教育省」を設立し、その仕事を教育に関することに限定して、未来ビジョンを持って、教育内容/テキスト研究、システム解体再構築、人材の育成などに力を入れることが必要だと思うが、実は「教育省」は、未来ビジョンの呈示と、地方分権化して教育を地域の自由裁量に任せる地方分権的教育改革のシステム造りをすることだけをすれば良いと思う。
何も全国で同じことをする必要はない。日の丸君が代が好きな県はそうすれば良い。反対に、それが嫌なものは、はっきりとそれを主張して、各地域で民意を問えば良いだけのことだ。
上からやるから意味のないことをつぶせない。上は自らの利益の基である「システム」を壊されたくない。
だから、下から現場で意味のないことを次々につぶして行くしか方法がないと思う。
このことの結果は教師たちにとっては恐ろしい。現状では彼らの少なくとも25%の首切りをしなければならないと思われるからだ。しかし、彼らも生活があるだろうから、たとえ収入は減ってもそれなりの経験を生かして「世代交代」がかなうまでは協力してもらうしかなかろう。大切なのは、教師たちに、システムや社会事情のせいにはせず、自分にはできない仕事であることを自分から進言するように仕向けることだと思う。その基準は、子供の心をとらえることができるかだと思う。それは、教育を受ける子供とその親によって判断させるべきであろう。もしこれを偽ったとしても、子供の目には絶対バレる。だから、早目に自分にはできないことを表明しなければより不都合な状態になることが分るようなシステム造りも必要だろう。やはり資格試験に通っただけで実際は仕事の能力がないことが判明した場合、未来世代を考えて、潔く教職から下りていただきたい。
こう考えると、教育の改革には、裁判員制度同様、国民の参加が欠かせないことが見えて来るだろう。「モンスターペアレント」とは、もはや旧い言葉であるが、これからは市民の間でこれを議論し、この中からも貴重な意見を拾うべきだと考える。しかし、これからはただわめくだけではすまない。苦情ではなく提案していく姿勢こそが市民に求められる。もしそうできなければ、教育改革は未来永劫に実現できないだろう。そして、ここに、もしここで教育改革のための未来ビジョンの提案を、哲学者や教育学者たちがまたしても怠った場合、教師たちに先駆けて、これらを追放することを提案したい。
最後になるが、ジャーナリストは、これまで経団連が教育行政にかけた圧力について詳細に調べて発表し、この責任を問うべきだと思う。資本主義社会の教育なのに、なぜに就職を起業に優先するするように仕向けたのかを。

サピックス買収

サピックス中高等部が、代ゼミによって買収された。すでに東進が四谷をベネッセはお茶の水ゼミナールや鉄緑会などを傘下に。私見で思うに、どうも出版部門が充実した側がそうではないものを買収する傾向があるらしい。
私はかねてより日本共産党と創価学会の共通点は出版収入が大きいことではないかと思って来た。そして、さらにこれをより合理的に踏襲したのが幸福の科学だった。
しかし、予備校業界は、お客が宗教よりさらに活字に向かうことが前提の世界にあるので、気がつけば必ず印刷したものを提供することが仕事の本線になることになる。だからこそ、代ゼミを中心とした予備校業界は、有名講師の衛星画像と最先端の受験メソッドテキストの提供、つまり大量に作ったソフトをより広範に売るユニクロ的営業が正しいということになるのかもしれない。東進ナガセもビデオ授業を得意とする。
もし受験教育と出版物が大きな利潤を生み出せば、その利潤を何かに投資しなければ多大な法人税がかかる。で、この資本を投じてある中堅予備校を買収すれば、本社から要職を送り込んでテキスト制作の中枢部を研究し、それまでの評判と営業システムも取り入れた上で、本社の巨大システムで、全体的に作られた出版物やテキストを確実に多く売ることができることになる。巨大産業による顧客名簿と過去の集積的情報の吸収。
ソフトには、これを作る人と与える人が必要である。いくらソフトがあっても、実際に生徒たちにそのソフトを呈示したり、使い方を教えたり、その場所に連れて行ったりすることは人間のする仕事であろう。だいいちそれに必要な国語力はいったいどうやってつけるというのか。また、目の前の生徒たちの様子を見て、不安を取り除いたりヤル気にさせたりするのも人間の仕事だろう。それには技量と熱量がいる。つまり、人材が必要である。そしてその人材は「教育」によって育成されるはずである。それが紙やマスで可能だとするなら、教育とは限りなくコミュニケーションを情報に置き換えれば置き換えるほど利潤が上がることになろうか。でもそれでは「教育」ではなくなってしまう。
代ゼミはいったいいくらでサピ中高等部を買収したのだろうか?仮にその金額が200億円だとすれば、その株式の10%を持っている者は20億円得たことになる。
文科省から教育産業に天下る人はどれくらいいるのだろうか。でも、文科省官僚の3分の1が天下る先は、受験産業が生徒を送り込む大学であるから、もはや話はできているかのようだ。
私も教育と出版で生活して来たが、それがいかに卑しいことに繋がり得るかをつくづく「冗談」で考察させた今回の買収劇であった。

フラードームと焚火

フラードームと焚火
歴史の授業で生徒に聞かれることがある。
「どうして北九州で始まった弥生時代が奈良に移って政権を作るのですか?」
ソウルに行って確信した。それは周囲に良い山がゴツゴツとあるからである。
軽井沢はなぜ流行ったのか??それは浅間山があるせいである。
那須高原もどうして栄えたか??それは那須山が美しいからである。
でも奈良のように、美しい山々が周囲全体に連なる地域は、まずない。
衣食中足りた上で人が望むのは景色が佳い住処である。
いくら都会でベランダー菜園をやっても、目の前の景色が佳くなることはない。
また個人的な問題としては、焚火ができなければ生きている意味はない。
菜園と焚火と景色。
この3要素を見事に実現する人物に会った。
丹沢山系の端の山を目の前にする山の中腹にフラードーム。
つまらない建物もいくつか目に入るが、それもご愛嬌。
夜になれば目の前にシルエットで山が浮かび上がる。
庵主は其角研究の俳人の二上貴夫氏。
10月にホビット村で行う、宇野先生を偲ぶカタカムナの会についての事前確認が議題である。私は、「細かいことは良いから彼女の活動を含めて、カタカムナ相似象によって自分を高めた人たちがそのことを語る場を作ろうとするのが良いのではないか」と提案していた。
私は、一切の「所属」を拒否して生きることを選択した者である。カタカムナについても三ツ矢ならぬ「アウトサイダー」することは、傍観者ではなく、意識的に客観化する立場を貫く習性によるものであろう。私は日本国民であるが、同時に一切の組織に属さないことを選んだ者である。
庭には絶妙の石炉が円形に切ってあり、その中での焚火はこれ以上ないというほど理想的なものだった。燃え残った熾の光も素晴らしい。そして火から目を上げれば、そこに山がある。
私が得意の、竹を裂いて長い串を作って西荻「もぐもぐ」のソーセージを焼いて食べることを披露すると、庵主は、「これはいいね。良い考えだ。簡単だし美味しい。」と穏やかに感心する。私は様々なソーセージを試したが、このソーセージほど焚火であぶって美味しく出来上がるソーセージは今のところ他にない。
女子大前アテスウェイのケーキを食べて、七沢温泉に。泉質は良いがセンスがいまいち。
帰宅して執筆前にこれを書いた。

とりあえず「終了!

9月第1週を経て、懸案事項ことごとく終了。
『こんな働く母親が子供を伸ばす!』のゲラカンヅメにさらに加筆校正終了。
『結婚できない男は12歳までに作られる』の読み合わせゲラ完了。どうも相変わらず、筆者が読者サービスのつもりで書いた「冗談」は、あっさり削除されてしまう。
この間に雑誌特集2本こなし、土日は終日教育相談、多くは作文読み合わせ。
てなわけでただ今、「あとがき」まで全て終了。
まるで原っぱの草刈りを完遂した後のようにその達成感は手前味噌的に結構大きい。
実は私は、コンピューター90分、家事用事植物水やり&収穫60分のサイクルの人間である。この上で入浴瞑想?最近ではウナリを越えて、開けた窓に足を突き出して湯船に体を浮かし伸ばせて悶絶瞑想である。植物と瞑想。こうすれば執筆を連続的に行える。
先週以来、執筆の合間に編集者と打ち合わせゲラ読み合わせが多くて今までにない状態であった。その合間に次々と訪問客を受ける。その中でも東京コミュニティースクール校長の市川力氏は、私とはやや異なった教育の仕事の過程を経て、私と同様の教育的結論に至ったと思われる極めて印象深い人物であった。このブログ読者に、氏の最新刊、『探求する力』(知の探求社刊)のご一読をお勧めしたい。
本日は朝から、都合4軒の編集者と企画総談話がこの下の部屋にやって来た。全て予めのタイムスケジュール通りに収まった。私はゲラのやり取りを排して、読み合わせ校了をする方が時間の節約になると考えている。遠い満月も意外と良く現象した。
明日午後は秦野に焚火に出る。もちろん打ち合わせを兼ねてだが、自分の庭先で焚火ができるのは本当に羨ましいと思う。
ブログの終わりが近づいたが、移転するHPの準備が整うまで、読者諸兄姉にあらせましては、今しばらくこのサイトでおつき合いいただきたいとよろしくお願い申し上げる次第。
これからまた、さらにその先の新刊本執筆にかかる。そのタイトルは、
『反抗期の息子でも、これだけは伝えたい!』である。
これは、「亡き父に捧げる」所存で書く。

執筆の合間に

8月末から9月初頭現在ひどいことになってしまった。
教育相談等重なる中、PF紙の特集の取材のために編集者とカメラマンを伴って二軒訪問。
さらに他の雑誌企画原稿を要求される中、新刊本のゲラが上がるもこれがいまいちで全面改訂確定締め切り間際のために、台風の中突如長野山中雨中編集者とカンヅメ2日間。またこれに出発しようとすると、メールで別の新刊本のゲラが上がって来る。追々雑誌類のゲラも上がって来よう。
前者本ゲラ直し、ホテルで20時間を費やすも終了せず、この1日で仕上げなければならない原稿が六カ所派生。
その間に民主党が勝利していた。
帰宅後多数のメールやり取りのあと、執筆開始前にこれを記す。
明日も終日原稿予定。
その間にトマトとピーマンとシシトウも収穫しなければならない。
もう新しい作付けをする余裕はない。
精神的にも限界だ。
ブログ読者よ、「再開」までしばし待たれよ。

日本の教育3

最近、「冗談」や「変化球」や「地方特派員の投稿」がなくなったために、「このブログの面白味がなくなった」との声を聞く。だが、筆者は、不肖自らのペンネームが「Joker」と設定されているので、このブログのまともな読者は、その問いかけに意味がないと知ると思うものの仲間である。マジになるなよ!人を楽しませることが目的にこんなことを書いているのであるから!なんちゃって、「日本の教育3」。
どうして2にコメントも拍手も一つもつかないのか。私はこれをとても面白く思う。だから、今回でこの項仕舞いとする所存。あなたも私もバカなのヨン。
なぜ、日本の教育が現在のような状況になってしまったのか。それは、長く平和が続く中で世の中から「緊張感」がなくなってしまったからだと私は断言したい。
明治維新、日清日露戦争、大陸での戦争、第二次大戦戦争中のころはさぞかし緊張感があったろう。また食糧難と戦後復興期の第二次大戦直後もそれなりの緊張感があったろう。また高度成長期にさしかかる前にも何とかしてよりまともな生活をしたいという緊張感があった。
ところが、高度成長のピークを過ぎた頃から、大半の人々の生活は、贅沢さえ望まなければ喰うには困らぬ、また身の危険も感じない豊かな時代になった。子どもの数も減り、一人一人の子どもたちはまず飢えの心配がなくなった。もちろん戦争で死ぬ可能性はない。ここで、ユーラシアを支配した相撲好きのモンゴル民族帝国が百年足らずで滅びたことに「親近感」を覚えるのは私だけであろうか。
大人は子どもに、より良い生活のために社会的な地位や高学歴を得るために勉強するように求めるが、その実その日常生活には危機感がないので、子どもには努力する実感がわかない。こうした危機感がない中で、最も緩んだのが、公務員たる高級官僚、警察官、学校教師などであることは想像に難くない。彼らは会社員よりも緊張感がない。なぜなら適当にやっていても、大きな不祥事を起こさないかぎり、「クビ」になることがないからである。公務員の天下りや汚職、警察官や教師の不祥事は、彼ら全体が緩んだことによる氷山の一角が顕現しているととらえられよう。そして子どもたちは内外でそれを当たり前のように見ている。大人は働いているが、家へ帰ればビールでテレビ。休みの日はマックにディズニーランド。情報と娯楽にしか魅力を感じていない。
ここに緊張感のある競争原理を持ち込むには、受験戦争による新階級闘争しかない。世の中に緊張感がないのに、子どもたちは緊張感を強制されて勉強させられる。ついて来れないものが多く出るのも当然である。学校はと言えば、緩んだ教師、古びたシステム、ほとんど通う意味がない状態に近いところもある。そこでは「精神的向上」が捨象された。
しかし、現状対処するだけで未来ヴィジョンを持たない政府は何と当然のごとくこれを容認した。
子どもの教育には未来ヴィジョンの提案が必要なのに、そんなことはするのも面倒くさい実行不能のものだった。結果的に、労働能力に極めて劣る若者が世代を追って多くなって行った。また、上で学歴を得るものたちも、それがより経済的裕福を追求する以外に動機がないので、勉強ができるだけで人間的魅力には劣っていると言わざるを得ない人間であることを何とも思わないものたちになった。
つまり、尊敬できる、あるいは興味深い生き方をする「見本になる大人」がいなくなってしまった。これで子どもたちに勉強に励めと言うのが無理なことは誰でも察知することだろう。進学塾で勉強するものも、目の前の疲れ果てた進学塾の講師と同じ道を歩もうとは露ほどにも思わないことだろう。
『韓非子』によれば、世の中が安定している時は、被支配者は支配者が何をやっているのか分らない状態の時だという。自民党政治は終わりそうだが、これまで世はまさしくその通りに移行した。
しかし、アジアの歴史を鑑みれば、混乱状態の統治においては『韓非子』が有効であるが、安定して平和になった時には『儒教』が有効であったのが常である。だが、『儒教』は、兄弟数が多くて長兄への信頼と尊敬が前提の思想であるから、少子化社会では全く役に立たなくなった。だからこれ以外の思想を生み出さなければ前向きに生きる動機を子どもたちに与えることはできない。
新しい思想を育むのは、リベラルアーツであるが、それは「占領政策」によって捨象された。結果的に、今、「エリート」と言われる人たちは、「ヴィジョン」を持たない集団になりつつある。
紀元前5世紀、老ソクラテスはパクスアテナイの時代に、自らの思想を述べたがゆえに処刑された。
彼は言った。
「財産や社会的地位を第一義にして、自己の魂の永遠向上の可能性を追求しないものは人間とは言えない。」
第二次大戦後、幸福とは何かを深く考察したラッセルは、「幸福とは趣味が多いことである」と結論した。
趣味とは、自己の好奇心に基づく、自己向上の試みの機会の場である。
やや極論ではあるが、本能的な子どもたちから見れば、自己の魂の向上を目指さない大人は尊敬の対象ではない。
自己の魂の向上には、限られた手段しかない。
第一に、古えからの「型」と倫理観を学ぶ「道」である。
第二に、自己の純粋な好奇心に基づく「学」である。
第三に、自己の心情を伝達する「芸」であり、
同様に第四は、自己の精神を伝える「術」である。
そして、第五が、コンディションに関わらず確実に行うことができる「技」であろう。
つまり、伝統の核心を学び、自然科学的な精神を培い、芸術に打ち込み、何らかの技術を磨こうとすることが人間本来の姿であることになる。
私は26歳の時にこの「哲学」を知ったが、これまでこれを確実に知悉し自覚的に実行する人間に遭ったことは一度もない。もちろん不肖この私も遥か及ばないと自覚している。
これら五つは、自分を高めることの快感を教えてくれる。
「ヴィジョン」がなくなった時、真に子どもたちに与えるべきはこのことではないだろうか。
だが、危機感がない平時、これに反応するものはよっぽどの変わり者である。
しかし、私は、このことを伝えることをこそ自分の教育の核心にして来たのである。
実に「無駄」な営為であったかもしれないが、これからもこれをやめるつもりは毛頭ない。
教育とは、道学芸術技を通じて自己の高まりを教えることである。
もしそれが分れば、「学歴」なぞ、木っ端微塵も価値がない。

日本の教育2

もしも充分なお金と時間があったら人はどのような教育をその子どもに授けようとするだろうか。
社会のトップ層の多くは、現実的であると同時に理念的であることが意外と多い。「ノブレス•オブリージェ」(高貴なる義務)の香をまとっていると言っても良い。人は、社会的立場が高くなれば、何らかの形で自分が社会に寄与する存在であろうとする。巨額の寄付をするものもいる。もしそうしないと、社会内における自分の存在意義が感じられなくて不幸だからである。しかしなぜか、時代が下るたびに、政治家にも官僚にもそうした人が少なくなっているようだが。
超上層部では、躾やマナーにうるさい。挨拶や姿勢にうるさい。また、深い教養を持ち、語学に堪能であろうとする。議論をしても極めてまともで、しかも話に説得力があって面白い。文学や芸術への造詣も深い。このことから、超上層部ではリベラルアーツ的な教育が指向されることが必然ということになる。とりあえずあくせく働く必要がないのであるから、できるだけ人間的に大きくなることを心がける。
ではそのためにはどうするか。以下は私の考察に過ぎないが、御参考いただきたい。
先ず人生の源は健康な肉体なので、充分に身体が鍛えられるように、幼時より子どもを広い環境で活発に運動させる。同時に自然環境への接触を充分にし、虫や花などへの接触の機会を高め、景色の佳いところへ連れて行って、好奇心と感受性の基を与える。もちろん音羽に2000坪の土地があって軽井沢にも別荘があればこれは当然のように与えられる。スポーツを得意にする。良く走らせて、球技を得意にする。スキーにも連れて行く。武道のたしなみも与える。
次に勉強についてであるが、古典的な名文や傑作物語を多く音読してやり、音読させ、国語力の基を作る。お話を語らせ、想像力や表現力をつけさせる。
幼児教育においては、能力の伸長よりも良いご家庭や優れたお子さんとの接触相互交換をその目的として利用する。ピアノかバイオリンを習わせる。もちろんその前に、名演奏に親しませる。就学前後に語学の家庭教師を雇い、家族でも外国語を使って会話したり話しかけたりする。作文を書くことを重視する。そのための漢字学習を徹底する。そして、着々と読書の習慣を高め、常に質の良い読書を心がけるように仕向ける。
公立に通わせるのは世の中をよく見知るため。私立に通わせるのは優れた友人から良い刺激を受けるため。またそういったソサイエティーへの足場を作るため。
こうして、国語、外国語、数学がしっかりできるようになったら、中高一貫6年制の学校に進学させ、ホームステイを経験させた上で、本人の希望と実力があれば、高校からアメリカやイギリスのボーディングスクールやパブリックスクールに留学させる。あるいは、大学入学後に留学させる。大学院も視野に入れて20代後半までみっちり勉強させる。ご飯をどうやって食べるかは考える必要がない。芸術を選択することも可能だろう。
では、その下の層はどうするか。塾に通わせるお金はあるので、進学塾に通わせて、名門中学高校を経て一流大学を卒業させ、医師、弁護士、公認会計士などの高度の資格試験を通過させてやや高収入を得させようとする。ボーディングスクールは経済的にまず無理だろうが、大学時に留学くらいはさせられるかもしれない。資格を取る方向性ではなくとも、一流企業に就職させ、収入の安定化を図る。親の金だけでは面倒見切れないので、できるだけ早く自分で稼ぐように仕向ける。この層では、高級読書より試験得点が優先されることが多いだろう。そして、多くは企業戦士になって日本経済を支える勤め人となる。
ではその下の層ではどうだろう。私立に通わせられないから、公立を選ばざるを得ない。でも超上級層ができることの多くは親に自覚があれば実行し得るし、図書館や岩波文庫などを利用して読書に励めば、生活に苦労しているだけに、弱者のことを良く理解した才能豊かな知識人を目指すことも可能だ。良く努力した結果、フルブライトなどを利用して留学も可能である。しかし、そのためには、子供の時からの高い国語力の獲得が前提となろう。
しかし、親の収入と学歴に比例関係がある今日、この層の子どもたちが優秀な学歴を得るためには、ある種の「偶然」も必要であろう。
以上は全て親に教育の自覚がある場合であるが、共通点は、高い国語力と深い読書を伴った知性の獲得を目指すことだろう。
注意したいが、それは学校教育ではまず得られないということだ。だから、金があればあるほどそれが得られる可能性があるということになろう。しかし、この事実に多くの人は盲目的である。そして、世は、平和が続く中で、ジワジワと「階級」の整備が進められる。
ここでまた、世の中がそうなっていると了解するのにもまた国語力がいる。これは国民の望むことではないはずだが、政府はずっとこのことを意図的に放置した。そして、国民は決してそのことに本格的には気がつかない。
だから国家による教育に従うとは、国家にダマされることなのである。

日本の教育

民主党政権でも抜本的な教育改革はないことが明らかになったので、これからは日本の教育そのものを批判することが正しいことになるだろう。
教育とは、「支配者」が自分の都合の良くなるように行うものである。このことは政策的に免れ得ない。そのことを念頭において書いていく。
優れた子供たちに古典的教養や科学的知識を与えて議論させる。私は過去現在未来に渡りこれに勝る教育はないと思う。しかしこのためには、レベルの高い読み書きの能力が前提になる。
第二次大戦後、戦前戦後のエリートを輩出した旧制高校は廃止され、6•3•3制が採用された。この結果、現在では6年制の私立学校出身者がエリートやリーダーの多くを輩出するようになっているのは読者も良くご存知のことだと思う。
優れている教育機関であればあるほど、先の教養に基づき議論させる教育を多く要素に含むべきであるのは必然である。議論(「ディベート」と言っても良い)の教育は大学に入ってからでは遅い。高校以前に学び始めるべきことが必要だと思う。しかし、そんな教育を与えることに力を入れている学校なんぞ、これまで不思議なことだがほとんど耳にしたことがない。優秀な学校でも生徒たち同士が自発的にやっているのがせいぜい関の山だろう。
現在の日本の国語教育では、多くのものが岩波文庫を読めるようになったり自分の考えを文章で述べることができるようなったりしないのは明らかである。それは小学中学年で音読と作文の指導を軽視するからであり、そして大学入試の準備のために読書の時間を奪われるからである。
日本国憲法は言論の自由(表現の自由)を保障した。しかし、その「言論の自由」はそれを行使することができるものだけに「保障」されるのであって、国家が国民にその能力を与える義務があるとはどこにも書かれてはいない。つまり、言論の自由を保障する言論の能力の教育は国家には保障されない。だから自ら、あるいは何らかの教育によってこの能力を身につけたものだけが言論において自由を享受できることになる。
今裁判員制度が取り入れ始められているが、採用される人は最低限文章を読んで自分の意見を述べることのできる能力を要求されるだろう。もし一方で、多くの人が学校で日本語の読み書きの力をしっかり与えられ、その上で自分の考えを言葉で表現することができるようになる教育が行われないのであれば、この制度は平等権における大きな「矛盾」を明らかにしてしまうことになる。
他国が一国の存在を認めたまま「支配」するとは、一国の支配者層を抑え続けることになろう。そして高度の思考が可能な人間をできるだけ社会の一部に限定することであろう。
自国に将来有望な若者を留学させる。そして多くの学生に自国の言語の学習に膨大な時間を仕向ける。それもその言語で自由闊達に自己表現できるようにする教育ではない。テストのための暗記に時間を取らされる学習である。というよりも、他の教科の勉強時間を奪う学習である。特にリベラルアーツ型の読書がそれであろう。つまり、語学ができても教養がない。
私立に通うには金がかかり、しかもそこではリベラルアーツ的なダイナミックな教育はまず期待できない。しかも最早ただ東大に入るなんてほとんど実質的な意味を持たない。そこで、海外の学校、たとえばアメリカのボーディングスクールに通わせようとすれば、年間400万円以上の費用が必要である。この金額は、かなり恵まれた人しか出せない金額だろう。
日本国内からリベラルアーツ教育をできないようにすること。深い教養と思考力を持ち世情に欺かれない議論に強い人材を養成することができないようにすること。私が外部からやって来た日本の「支配者」であったなら、当然先ずそのことから手を付けると思う。
選択肢穴埋め暗記問題を増やすこと、できるだけ文章記述試験を行わないこと、あるいはその方向性を容認すること。戦後の私立大学の入学試験はどこの学校でもこの形を選んだ。上智はその典型である。試験が悪いというよりその準備のための勉強が無駄なのである。慶應も最初のうちはそうだった。
こうして深い思考力が奪われた学生たちが名門大学にゴロゴロいるようになった。東大や早慶でも人材の不足に嘆く。そして街は、コンビニとファーストフード店だらけになった。それに一掃されたのは国語力に欠けた弱小商人たちであった。
「支配」はたえずジワジワ進んでいるところがその特徴であり、国語力に劣るものはそのことに今さら対処することができないぐらいの国語力しか与えられない。月日が経ってから気づくことになる。
民主党が意味のあることに教育予算を使おうとしないのは、自民同様、アメリカ追従であるからではないのか。しかしこの数十年、日本よりアメリカこそが大きく代っているのはオバマの当選からも明らかではないのか(ちなみにオバマはリベラルアーツカレッジ出身)。
平和憲法と日米安全保障条約は一体である。そのことは誰でも知っている。「日本に再軍備を許さない代りに、これを攻撃することはアメリカが許さない」―世界中が認める第二次大戦勝利によるアメリカの「権益」である。すでにアメリカは、中国とロシアを資本主義的価値観の国家にしたことで、これに勝っているといえる。彼らの共通点は、民族的分裂こそ最も恐れる事態であるという、「多民族国家」であるということである。
中国は、外交的には「屈服」させることよりも「関係を深める」ことに意味を見出す国家である。だからそうしようとはしない国家と敵対する。しかし内部では宗教観の違いによりチベット•ウイグルの悲劇を引き起こす。対して、アメリカは、原爆投下やベトナムやイラク戦争のやり方を見ても「屈服」させることを求める国家である。「無条件降伏」なぞ、さもアメリカ人が思いつきそうな言葉である。しかし、人口4倍の中国がアメリカに「屈服」するわけがない。やがて世界地図は、中国、インド、そして場合によってはイスラム圏を含むユーラシア大経済圏と色塗られる可能性が強い。
資本主義的強弱は、市場と労働の大小によって決定される。資本主義では働くものの集団が金を集める。そんなことは当然である。少なくとも、より長時間働くものはより効率的に働くものよりも確実に収入を重ねる。「リストラ」は正にここに観点がある。
でも収入を得ても、今度は何かいるのかいらないのか分らないものを買わされるだけである。もちろん所得税と消費税も払わなければならない。せめて子供にだけは良い教育をと願っても、そんなものはほとんどないし、あったとしてもとてもお金がかかる。国民が働いたところから税を取って、国民が最も望むことであるはずの良き次世代教育を与える政策は全く行わない。国民の全体的知的レベルが下がることを望むかのような教育が国家の未来を保障しようとしているとは到底信じられないことである。経済を良くする前に先ず教育を良くしてみせろ。そうしないとますます多くの人間が真面目に働かなくなるよ。

ウマとピアノ

キュウリ、インゲン、トマト、ピーマンの成長には目を見張られるけれども、自分の文章はなかなか伸びずまた実りもつけないと嘆いていると、夏休みも後半に入り、そろそろ例年通り、作文の生徒が数多く訪れるが、いきなり見事な作文2連発でノックダウンされてしまう。
二つともまだ抽象構成法の手ほどきをしたばかりの小学生の少女の手によるものだが、「作文」というより「作品」と呼んでも差し支えないと思えてしまう水準である。
小学4年生の少女が書いたものは「ピアノの世界」。ピアノコンペに参加するための練習の様子が詳しく書かれている。課題曲のイメージと説明、大好きなピアノの先生についての描写、演奏の出来映え、会場で出逢ったお友達のこと。細部の描写の瑞々しさとピアノの世界の楽しさへの直裁的な表現が読むものの心を打つ。何度でも読み返したくなってしまう。
もう一人は小学6年生の女子。実はこの子もピアノを弾くが、作文の内容は初めての単独乗馬のこと、題して「元気くん」。元気くんは白毛のポニーで、彼女を乗せて斜面をどんどん駆け上がる。他の馬に追いついて前の馬のしっぽが鼻に当たるとヒヒ〜ンと鳴く。かと思うと今度は「道草」。急に立ち止まって草を食み始める。と思ったらまた急激に走り出すのでしがみついているのが超大変。あまりに元気なのでお尻が痛くなるまで1時間以上乗馬。最後に元気くんに「ありがとう」とお礼を言う話。最初のこわごわとした様子や、途中での面白い馬の観察。速く走るときの焦った様子。心から馬と一体になった快感を歌い上げる。そして馬への自然な感謝。これも繰り返し読ませる作文だ。どんな私立でもこれが書ける女の子は採りたいと思うだろう。
彼女たちにこれを書かせている元は、各々、音楽の営みの実際体験と、自然とのナマの接触体験であるが、忘れてならないのは彼女たちの純粋な感受性であろう。
で、私はと言えば、相変わらずだらだらちんたらと書き続け、調子が悪いと野菜の見回りを行い、そしてその成長ぶりのスゴさに繰り返し驚きあきれる日々である。

夏安居 木瓜実れど 筆立たず (冗)

「学校教育は吉本興業に負けた」

これは私が最近気に入っている自作キャッチフレーズである。
学校教師は生徒が話を聞く状態を作るのに苦労するが、吉本の芸人は最初から話を聞く状態を作ってしまう。なぜか。それは芸人たちがどんなときでもオモロい話をすることが義務づけられているからであろう。子供たちはこれから話されることがオモロい話に決まっているから最初から耳を傾ける。
人がオモロくない話を積極的に聞かない傾向があることはどなたも認めることだろう。
学校の先生は、子どもたちの前で話すことが仕事である。その時、役に立つことを話すだけでは子供は聞かない。役に立つことをオモロく話さなければ子供は聞かない。オモロいには、そもそもの雰囲気と、話の内容と、語り口の三つが同時に必要である。もちろん個々の一つ一つが滅茶滅茶オモロければ、それだけでもオモロかろうが、すぐ飽きてバカらしくなる。
学校教育はこのポイントを看過し過ぎたどころか最早手の届かないところまで流し去ってしまった。「芸」とはこころを伝えようとする技術である。教育養成大学は、表現力のあるオモロい人材の育成に力を入れなかった。そして教員採用試験は、暗記力が基準であり、人間的表現力を判断基準に持たなかった。判断力ではなくて追従力のあるものを採ることに恣意的であった。「ココロ」の抽象化ができていなかった。
対して吉本興業では、読者の皆さんも良くご存知だと思うが、各人の名を書いた20面体サイコロを使って、出た目の名の人がそこでできるだけオモロい話をしなければならない「すべらない話」というゲームを番組化するする。これは昔からあった雨の品定め的我が国古典的遊びであるが、関西では常識だろうが、人は他人に会う時に、一つくらいはオモロい話を用意するのが最低限のマナーであろう。顔の悪さは許されても陰気な雰囲気は失礼にすらなる。学校の先生だって、多くの生徒たちが待っているのだから一日一つはオモロい話を用意しても良さそうなものだ。寺の坊主が話が下手だったら寺は衰退する。自分にもその程度の宿題を課すことにも日教組は反対するのだろうか。いや、するまい。ちなみに吉本芸人の約28歳平均年収は約280万円とのこと。全体でも700万以上は17人しかいない。多くはアルバイトで糊口をしのぐという。これからしても、教師の採用の仕方がナンセンスであることは明らかだろう。そしてこれから先、このことを看過し続けた教員養成機関は、できるだけ早く自己懺悔しないかぎり「未来」はないと思っていただきたい。子供たちはあなたたち同様、吉本興業をテレビで視聴しうるのである。そしてこれが容易く肯定される今、子供に接する教師たちは、吉本興業以上に子供を惹き付ける能力を要求されていることになる。ただ一つオモロいことに勝るものがある。それは教師の熱意であるそうである。そして、オモロさの前提にも熱意があることが分る。
私は、教師が1時間目はぬいぐるみを着て授業することと、毎日職員会議で20面体サイコロを使って「すべらない話」を行うことと、教員採用試験ではカタカムナ音読とサイコロ学習と「すべらない話」試験を取り入れた政策をとることを、焚火教育、菜園教育に加えて冗談で次期政権に提案したい。

「休日」

夏休みで忙しかったが今日は久しぶりで事務所での仕事はなし。
午前7時起床。朝食のおにぎりを食べて、ロンドン演劇ツアーへ向かう娘とそれを見送る母親を駅まで送る。
帰宅後水撒きと収穫―キュウリ5本、ナス5個、ピーマン4個、大パプリカ1個、インゲン片手。洗濯物を干す。
入浴瞑想後、執筆。今日は9月末発売予定の『中学入試国語記述のコツのコツ』(主婦の友社)の文庫本のゲラ加筆とあとがき執筆終了。終了と同時にあとがきをメールで送ると、編集者から早速午後会いたいとtel。その合間に、新刊本の執筆も進めるが、これはいささか苦しい。私はこの本のこの部分で、「オモロい」を「役に立つ」に優先させた原稿を書こうとしているのである。しかし、「面白い」書くためのエネルギーの「遊び」や「人からの刺激」の不足を強く感じる。中年男にとっては、「オモロい」は、やや一般的ではないところにあるので、この表出は「独りよがり」になる可能性がある。というより、やはり若くはないので闇雲な面白さを追求するには分別があり過ぎるということになるのか。
その間に、前記野菜を持って母訪問。風邪気味とのこと。牛乳とアイスノンを乞われて持参。素麺茹でて一緒に会食。母は足の衰えを非常に気に病んでいる模様。友人家族から軽井沢の別荘へ来ないかと勧められている件につき同行を促されたが快い返事ができない。一泊はつき合おうと思う。
細かいことは書けないが、現在金策―借金返済に加えて税金の支払いーに苦しんでいる。住民税、健康保険の他に、法人税、所得税、予定納税、そしてまた消費税の支払いなどが毎月のようにあり、出す本の印税は全てこの支払いで消える。この後もずーっと税の支払いがあるから、最早完全に税を滞りなく支払うために執筆していることになり、手元に残る金は一切ない。娘は自分の貯金で渡航した。
午後1時30分、吉祥寺で編集者をピックアップ。自宅で打ち合わせを行う。これが終わると編集者を駅まで車で送って帰宅後、来年2月刊行予定の『反抗期でも息子にこれだけは伝えたい!』を執筆。これは苦しいのですぐやめて、午後4時水撒き。シャワーを浴びて吉祥寺ヨドバシカメラへ。Ipodとスピーカーをつなぐ簡易アンプを求めるがないとのこと。リンデでサンドウィッチを買って帰宅。空気湿って遠くでゴロゴロ。ポツリと来たので速攻で高井戸温泉へ。
露天風呂屋根の下でリラックスすると、願い通り驟雨。中年男たちは屋根の下、若い男たちは惜しげもなく肉体を雨に浴びせている。最近トレーニング中の「中観的瞑想」を行うと、隣の中年が真言密教のオンサラマンダを唱えるので、ウナリ瞑想でつぶしてやる。
帰宅後、執筆再開の前にこれを書く。

「支配」のための教育

お子さんをサピに通わせるクライアントの女性からご進言があった。
曰く、
―α1の生徒は、そもそもみんなそんなに努力しなくてもできる生徒たちがほとんどなので、別に自分ができることについて特別の気持ちがないと思う。だからえばるものはまずいないはず。しかし、α2になると、闇雲な努力をして上がって来たものたちが多くなるので、他人を見下してえばり散らす鼻持ちならない連中がでるようです。
この人のお子さんはずっとα1に通っている。しかも家ではほとんど勉強しないという。
サピ下位クラスで喘ぐ子供の親御さんから見れば、羨ましいこと限りないであろうが、彼女ははっきりと言う。
―サピはαだけまともで、教師の質が保障されている。そしてαに通う子供は、別に日能研に行っても同じ。どうせ皆筑駒か開成(悪くても麻布駒東)に進学する。だから本当は営業上α1に通っている子供たちは皆「奨学生」にして無料でもいいのよね。逆にお子さんがαに届かないレベルなら、ワセアカでも日能研でも自分に合った塾でそれなりのところを狙う受験戦術を取ることが正しいということになるんじゃあないですか。でなければ2学期以降プロの家庭教師を雇って志望校過去問の徹底対策練習をするとか。
こういう親は、塾も「洗脳」のしようがないだろう。
しかし、今確実に増えてきているのではないか。こういうタイプの親たちが。
そして、考えてみれば昔からそうだった。筑駒や開成に入れる親のほとんどは「情報通」であり、たいていは「資本」がある人たちだった。これは名門校ほどSEG利用者が多かったという事実からも立証されよう。
そもそもアタマが良くて、なおかつそれなりに裕福なご家庭のお子さんがエリートとなる。非常に分りやすいが、逆にそもそもアタマは悪くないが、適切な教育環境設定を受けることができなかったお子さんはエリートになれない宿命にあるということが演繹されはしまいか。全ての人に質の高い教育を平等に与えることはできない相談であるが、それが金があるかないかに大きく関わるというのは「不平等」である。でも、どうして国は、教育における「能力」の本質を分りやすく国民に伝えようとはしなかったのか。それこそが教育改革が実現しない本当の原因だったのではないか。
『韓非子』によれば、「支配者が何を考えているのか被支配者が分らなければ分らないほど支配はうまく行く」ということになる。これを、「王」ではなく、「民」が主権者である現代に置き換えれば、「支配者的クラスに入るものは、支配者層が何をしているのかをリアルに知りこれを実践できるもの」ということになるが、これをもたらすものは明らかにカネではなくてチエであるはずである。まあ簡単にいえば、支配層は非支配層あっての支配層だから、できるだけその比率を大きくすればするほど成功しているということである。
しかし、金があっても権力があっても幸せにはなれない。幸せになるには美しく生きることが必要になって来る。ということで、東アジアでは支配層には儒教を学ばせることになる。ちなみに「武士道」は優れて儒教的である。
闇雲な努力が傲慢さを、優秀な頭脳が世間的無知を呼ぶのであれば、正に「支配者」の思い通りの教育結果とも言えることになるだろう。こう考えれば、まるで闇が晴れたかのように陽の光を浴びる気分になれるかもしれない。

教育悲酒

自分をはるか及ばぬものと戒めれば戒めるほど、逆にうぬぼれぬように注意することはそれとは「矛盾」したことをしていることになってしまう。ここにこういう文章を垂れ流すことが「うぬぼれ」の一端であるのかもしれない。それとも、やはり、どんなことでも終わりが来るのが必然ということなのであろうか。まるで誰もの子供時代がいつしか過ぎて行くように。
大人になればなるほど自分がバカだということがよく分かって来る。いつまでも進歩しないままで来たことが数え切れないほどあるのが分る。そしてそれを忘れるためにルバイヤートー酒を飲む。そしてそれを繰り返して来た自分にまたしても己の進歩のなさを噛み締めるときも来る。人生の本質を知って、自分の過去生の生き方を肯定的に受け止めることができる人は幸福な人だろう。
いや、そんなことはどうでも良い。己の過去のことなんていまさら知ったこっちゃない。現にこうしてバカのままなんだからしょうがないではないか。―辛うじて息してるので充分なのが人間なのよ、そんな囁き声も聴こえて来る。そしてーそんなことは受け入れ難い、と思うことはまたしても新たなる「うぬぼれ」の始まりなのかもしれない。
民主党マニフェストの教育の項を読んだ。全体的に貧者が機会均等権を得る方向性の政策案で一見好ましいが、その必要予算は6兆円だという。それに対して即座にやるべき教育の現場改革については「充実を図る」とか「環境をつくる」などの述部の、具体的実効性に乏しい文章が並んでいる。ちなみにこの項のご予算は6兆円の100分の1の600億円である。この文章を民主党内のどこがつくったのかは想像に難くないが、どういうわけかこの項の見出しだけ、他の見出しの中で唯一抽象的な「全ての人に質の高い教育を提供する」である。バカヤロー!麻生に代ってオレが言ってやるわい。そんなことができるなら苦労はないわい。だいいち、その、「質の高い教育」ってのはいったいどこに見本があるって言うんでさ。でも関係ないんですよね。どうせ予算の100分の1なんですから。教育改革する気がないんですから。カネを配るのが政策なのか。カネを有効に使ってみせるのが政策なのか。良く考えて欲しいものだ。
まっともあれ、民主党政権になっても教育現場の本質的な改革はないことがはっきりしてしまった。現場の学校は混乱をさらに深め、「学級崩壊」から「学校崩壊」を飛び越えて、「教育崩壊」に陥ろうとしているのに。暢気なもんだね、フリースクールはどこも満杯よ。
かといって自民党ではもちろんできない。
だから総選挙の有る無しに関わらず教育の現状は改革されない。
民主党政権では日本教職員組合が支持母体の輿石東氏が文科省大臣に就任するというもっぱらの噂だ。たとえそうではなくとも、民主党の文科政策は日教組寄りだということになる。
日教組には良い先生もたくさんいるが、そうではない人もたくさんいる。日教組は、教師の労働組合であるから、待遇改善=「賃上げ」もしくは「労働の軽減」をその本線的な活動に置くのは当然である。だから、民主党が政権を取ると教師はもっと働かなくなる可能性が高い。尤も日教組の構成員ではないがそれを利用してできるだけ仕事にエネルギーを使わずにスまそうとする人たちの方がもっとヒドいのは当然だが。
つまり、前もって税金を払っているのにこの教育はないという批判に備えて教育負担を限りなく無償化しようと提案していることになる。タダなら文句はないだろうと。
だとすれば、それはアソーと同じ、バラまき的発想に他ならない。
この時点で自民党と同レベルであるとすると、非有権者である子どもたちの、「こんなにもつまらなくて、しかも意味のない学校をすぐに何とかして!」という断末魔の叫び声は全く無視され、やがて民主党政権下での教育行政の本格的な危機=「子どもの暴動」を招くことになるだろう。私はマニフェストに12歳以上に選挙権を与えることを提案したいくらいだ。
私はこれを恐れない政治家の無明さに本当に本当に驚く。
世は「いじめ」や「学級崩壊」の状態を通り越して、「不登校」が当たり前の時代に入っているのである。しかもその中心的理由は、「学校で教えていることは無意味で興味がわかない。教えている人に人間的な魅力を感じられない」なのである。ネットやゲームの中毒を生んでいるのは、まさに学校がつまらないからなのであることに自覚的でない。
バラまきを発想する連中は、自分が金持ちである連中に決まっている。貧乏人はひたすら節約に努める。その結果がインフレと増税ではやり切れない。
ここでも、麻生と鳩山の正体見たり、と言いたい気持ちになるのは私だけだろうか。彼らには教育についての未来ヴィジョンがない。
自民党が国民をバカにして来たことが明らかになったから民主党に入れようとすると、民主党も政権を取るためには国民をバカにしなければならないと思っていることが分ってしまう。「マスメディアと国民のレベル」と細田幹事長すればこれを批判しようが、やはり「支持母体」に怯えて、教育の本質報道をしないで済ませようとする「メディア」も、予想もしないことであったであろうが、新しいものにとって代られる宿命にあることを忘れてはならない。
するべきことは教師に能力給制度を導入することではないのか。それと‥…、あっまた酒のせいでついうぬぼれをこきそうになっちまったんで、それは直接聞いて来た政党にだけ教えることにして、ここは教育改革がなくなったことのどうしようもない悲しさを忘れる酒にしよう。本当に情けなくってやっていられない。

夏休み学習法

夏休みの初めということで、夏期中の過ごし方についてのアドバイスを求める方が多い。
人によって差はあるが、私はだいたい以下のようなことを話す。ここに簡単に紹介する。
―自分で勉強する習慣を付けるようにする。
それには現在の自分のアタマがより良く動くことができるようになることに強い好奇心を持つことだ。自分のアタマが変化して行くのはオモロいし快感ですらある。
教材はあり過ぎるほどある。何をやってもかまわない。
塾にそんなに通わなければ、時間の余裕ができるから、自分で前向きにテーマに取り組む。その際に特に注意するべきこと、そしてこれさえ上達すればどうせ上の学年で成績が上がるのは必至という、つまらない入試の合否を越える究極の学習ポイントがある。
それは、
1 文章力向上
2 暗記力向上
3 暗算力向上
4 疑問想起力向上
の四つである。
結局学歴を重ねるとは考察対象の記述表現ということに行き尽くし、言わずと知れた「支配」とは言語で行うものなのであるから、生きている間文章力は常に向上していなければならない。あらゆる資格試験も、最後は小論文に面接。言語によるコミュニケーション能力はビジネスを起こす場合でも不可欠である。つまり、これこそ、別に作家にならなくても近代社会で食べて行く飯のタネである。高学歴は文章力で決定される。だから、文章力の基本が備わらないのに上級校の受験勉強をしようとするのはナンセンスである。
文章力の向上にはまず言語センスを磨くことだ。それには古典名文の音読が良い。
毎日文章を書く。人に読ませるオモロいものを書く。どうしても伝えたい体験やその印象を書く。物語を書くのは理想である。
文章を書くと漢字力、特に抽象語が使いこなせる必要性が生じて来る。そのためには漢字の意味と綴りを一発で覚えなければならない。他にも覚えなければならないことをできるだけ一発で覚えようとする習慣。
暗記をする際の究極コアは、鮮明なイメージと、連結連想であり、これにより、強い印象を生み出すことができる。暗記力があれば将来我が国の試験では苦労がない。
次に暗算力。
たとえば、17×19×9を暗算で計算できるだろうか。
17×19=17×20―17=323(V-net流では、18×18−1=324−1とやる)
さて次に323×9であるが、これを暗算でやろうとすると、
323×10−323=3230−323を暗算でやらなければならない。
このままイメージで暗算できない場合は、2930−23を行い、2907を得る。
もちろん、23×9を207と出しておいて、これを覚えていて、300×9=2700と足して2907を得ることもできる。
お気づきであろうか。我々はこのような計算を暗算でする場合、先に計算した数値をメモリーしている必要性が起こるのである。この能力は、筆算ドリルでは絶対につかない。しかし、こうして頭の中にメモリーやイメージを持ちながら算数や数学を行うのは、地理の学習をするのに地図が読めることが前提になるのと同様不可欠な要素であることは誰でも分るだろう。脳内メモリーがなければ論理的な思考はほぼ不可能なのである。
最後の「疑問想起力」とは、「なぜ?」と発する能力のことである。この能力がなければ、将来理科系文科系、自然科学社会科学のどちらでも、それに取り組んで能力を向上させることはできないだろう。闇雲な暗記に走っても、着想力や感受性を劣化させるだけである
何の学習をしようが、常に以上の四つに留意しながら、具体的な題材に向かう習慣を付けることが学校から逃れることのできる夏休みの過ごし方になる。
夏休みは、登校拒否児は出席扱いになるのであろうか。だとするならなかなか面白い。

藤原命日

日本経済新聞社は、21日、東京•大手町の経団連ホールで「ゲームが開く学びの世界」をテーマにシンポジウムを開催したそうだ。
日経は、ここへ、あのリクルート出身、杉並区和田中学校の前校長の藤原和博氏が「ゲームと教育の融合」と題して基調講演したと報道。「ロールプレイング(疑似体験)などゲーム的な学びを授業に取り入れるべきだ」to述べたと言う。藤原氏は、ゲーム機や携帯電話のメールを使った授業の利点を強調したという。
私は、「写真判定」で、藤原さんはあんまりアタマが良くない人物だと見抜いていたが、サピ教師を使ってしまうという発想は、「合理的」で面白いと思っていた。でも残念ながら今回の発言で、彼は教育の世界では仕事をできない知能の人物であることが明らかになってしまった。この人は、東北大教授の川嶋隆太氏が、任天堂からもらった20億円以上のロイヤリティーを全額東北大に寄付したことをご存知なのだろうか。
まず、彼は実際のゲームやネットや携帯に依存し過ぎているものたちの問題を知らないかのように振る舞う。そんなことはあり得ない。中国ではすでにネット中毒に電気ショックも加えていたほど問題になっているのである。ゲームで平気な人たちもいる。でも一方で、確実にゲームによって害を受ける子どもたちがいる。ネットや携帯電話を有効利用するものがいる一方で、やり過ぎになっている自分に自覚的ではない人は意外と多い。
とまれ、各家庭で、「うちでは携帯電話は認めない」、「テレビゲームはやらせない」と決めている御家庭もあろうから、日経シンポのように、一律にゲームや携帯を使わせるように仕向けることは不可能なことであろう。
現時点で、儲かっている会社の筆頭の一つがゲーム会社。他の企業が不況に喘ぎ、広告などの費用を節減せざるを得ない不況下で、新聞社はゲーム会社と手を組むということらしい。子どもの頭を悪くすることに協力するのであるから、悪しきを告発して伝えるジャーナリズムとしての役割は最早過去のものとなっている。
後の判断基準のために、リアルな体験のみが必要な子どもたちに、可能なかぎり面白くしたソフトを売りつけようとすることによってその機会を奪う。
教室を面白くするためには機械は要らない。
教室を面白くするのは熱意のある人間のエネルギーである。
金八先生が流行って久しいが、そこにあったのは、「熱の強調」だけだったと思うのは私だけであろうか。
子どもが求めるものは、教師の熱と自らの追体験である。

洗脳

夏期講習料の納付締め切りを前に、「サピックスをやめたい」という相談が増えている。
その理由がちょっと面白い。
面接で、「このままでは志望校合格なぞ先ず無理。」と強く言われたからとのこと。この生徒に実際志望校の問題をやらせると、充分合格の見込みがあるにもかかわらずである。
模試における合格判定偏差値が甘いサピがこういう発言をするのは面白い。これは夏期講習参加人員を確保することを裏に持ったレトリックであると思われる。
私はかねてより、サピックスは暗黙のうちに、以下の作戦をとって来たと思う。
サピは母親を脅かす。その文言は、吉祥寺でも、練馬でも、自由が丘でも全く同じ。
「もし今やめたら、ヒドいことになりますよ」。
「もしこのまま通い続けると絶対に合格します」ではないことに注意を喚起したい。もし、「もしこのまま通い続けると絶対に合格します」と言えば「詐欺」になる可能性があるが、「もしやめたら、ヒドい結果になりますよ」ではぎりぎり「詐欺」にはならない。
女性を不安にさせる戦術。女性は本性的に、不安になればまず言うことを聞いてしまう。私は95%の女性がこの戦術に引っかかるのはエステや健康器具と同様と思う。女性は不安と寂しさには勝てない。
どの進学塾も多かれ少なかれ同様であるが、サピックスは全校でこれが徹底している。上からの指示か圧力である可能性が高い。小学校低学年から前倒しで知識の詰め込みを行うサピックスは、小61学期には入試に必要な課程をほとんど終了してしまう。すると、夏休み以降に「離脱」して、模試だけを受けて、後は御家庭で志望校向けの自立的な対処を行って経費を節約しようする親が多く出る。また、これ以上サピで子どもが疲れ過ぎるのも許容できないと考える親もいる。
サピに限らない。どこの進学塾でも、二学期以降志望校を限定した対処を掲げるが、実際はテキストの60%以上が共通である。志望校対処の中で最も重要なのは、過去問国語記述に関する指導であるが、これは1対多ではまずできない。ましてや中高一貫公立校の記述対処なぞで切るわけがない。だいいちそんな能力がある教師を、サピの標準的な給与水準で多く確保できるわけがない。
でも、もし2学期以降、もしくは冬休み以降、生徒が来なくなれば、先行投資をして拡張政策の塾の経営は苦しくなる。最後の最後まで、冬期講習まで、御家庭からカネをむしり続けなければ利益が薄くなる。そんなことは、その間も膨らんだ従業員に賃金を払い続けるのであるから当然のことである。
これまでサピは、「このままでは志望校合格は先ずないでしょう」と母親を不安にする戦術によって、入塾者を確保し、「今辞めたら入試は絶望的だ」と子どもを脅かすやり方で、顧客を確保して来た。思うに不況下、それが効きにくなって来た焦りから、自然と脅し作戦に力が入っていると思われる。
もはや麻布を初めとする有力進学校で、サピなどの進学塾で無理に力をつけた生徒の入学後の伸びが悪いから、できるだけ採りたくない意向であることは、東大進学率の低迷化でも明らかだと思う。私に言わせれば、中学以降順調に成績を伸ばすのは、どんな進学塾に通っていようとも、自立的に学習する、そもそもできる生徒である。つまり、できる生徒を育てるより、そもそもできる生徒をどれだけ含有するかが課題なわけである。
もしこの考察が正しいとすると、上位クラスにはいないが、入試成功を願うものや、最早知識やテキストは充分であるから後は自分でそれをこなして真の実力をつけようとするものは、とっとと塾をやめて自分なりの学習計画を立てて勉強することが正しいことになる。
来春以降、あたかもかつてサピ高橋がTAPから離脱したかのごとく、サピの有能教師たちが離脱しようとする可能性がある。でも上位のごく一部の経営陣はそれでもかまわないであろう。何しろ彼らはもう引退しても充分なだけのカネを稼いでしまっているであろうから。
私は、教育相談の仕事上、首都圏で、いまだかつてサピックスほど多くの「犠牲者」を出した進学塾を他に知らない。
個人塾ではなくて、チェーン店塾で、上からの指示で生徒を「洗脳」するのはどうもいただけないと思うが、いかがか。サピでは、上位αクラスの生徒は、廊下を歩く時、下位クラスのものを蹴散らすように歩くという。「冗談」を専門とする私からすれば、単純な洗脳に引っかかるバカが「優秀者」であるというのは心から笑えることだが。

皆既日食

7月22日、日本国内で皆既日食を観測できることは、読者も良くご存知のことだと思う。
奄美なじみの一家が羨ましい(おい、もし、一人空席があったら即その旨伝えろよ!もう遅いか)が、なんで、「金環食」と「皆既食」があるのかと問われると、未だ答えられない輩が多いから、ここに簡単に解説しよう。
私は、かねて、占星術と、「LUNACY」に陥るものは、月の遠近を知らぬことが原因である、と主張して久しいが(「宗教」とは「レトリック」のことである)、月は、ある周期を伴って、近くなったり遠くなったりする。つまり、見かけ上、大きくなったり小さくなったりするのである。このことは、引力―動物のバイオリズムに影響するが、通常人には、視覚的な朔望と異なり、強く意識しないと感受し難い。日食では太陽の大きさはほぼ一定なため、だれでもそれが視覚的に観察できる。
「新月」とは、太陽と地球の間に月が入ってほぼ直列することである。
この3者がかなりピッタリ合わさった時、ずれなく日食が起こる。つまり、月の陰が地表の部分を被うのである。
この時、月が近い時、遮られる太陽光は大きくなり「皆既」になる。逆に月が遠い時、遮られる太陽光は小さくなり「金環」になる。
7月22日の午前に日本南部で起こる日食は、午前5時に、月が本年最近になった直後に起こるので、歴史上まれに見る見事な「皆既日食」になる。

22日05:14:月が本年最近。
   09:55:日食開始(東京)
   10:56:奄美北部悪石島で皆既最大
   11:13:東京で食最大
   11:35:新月
   12:30:東京で食終了
8月04日:09:42:月が最遠
  6日:09:55:満月

感じることと動くこと

寂しいこともあるだろう。
悲しいこともあるだろう。
むかつくこともあるだろう。
やり切れないこともあるだろう。
でもだからどうしようっていうのさ。
どんなときでも、
目の前に、
オモロいことさえあれば、それは解決される。
オモロいことが苦しみを忘れさせてくれる。

オモロいことは自分の内にはない。
オモロいことは自分の外にもない。
オモロいことは、「外」に反応する自分の「内」との境界にある。
だから人は、オモロいことがないことを怒ってはいけない。
オモロいことに気づかない自分をこそ誡めるべきなのである。
だいいち、もしオモロいことが見つからなくても、美しいものはある。
美しいものは、オモロいこと以上に「存在」のありがたさを教えてくれる。
感受性は好奇心の元である。
何かを感じられなければ、人は「存在」できない。
何かをすることがなければ、人は「存在」を得ることはできない。
感じることと動くことが人を苦しみから救う。

独学の勧め

良く考えてみれば本来当然そうであるはずなのだが、最近たとえば、宮崎哲哉、内田樹、苫米地英人など、優れて知性的と評される人物のほとんどが独学的な人たちであることが確認される。独学者とは、自らの純粋な好奇心に基づいて、対象の解明に打ち込み、それによって知性を伸ばして行くものたちのことである。これは親に脅かされて無理矢理勉強することの反対である。
これは私が日頃口にしている「主体的な学習習慣」の成れの果てとも言える。主体的な学習習慣のもとでは、先ずテキスト(教科書)を手にすれば目次に目を通して、ざーっと最後まで読んでしまう。もし授業を受けるなら、予め次回にやるところを自分なりに考察し、それに関する書物を読み、授業では、教師が有能であろうが無能であろうが、自分なりのノートを作り、必要なことを覚えてしまうことに専念する。また、独学的な生徒は自分の学習を学校のペースに合わせない、中学英語なら中学英語を終わりまでできるだけ短期間にマスターしてしまうことを考える。ここで、重要な箇所を確認する相手が必要になるが、独学者は、その相手を見抜いて質問して教えを請う。しかし、真に有能な独学者は、複数の参考書の解説を読んでこれを解決する。この状態の子どもに能力のある家庭教師がつくと成績は飛躍的に向上する。もちろん、入試で勝つことが目的の集団の進学塾に通って競争に足場を移しても、周りの者の学習状況の観察や、文や単語の覚え方、それより英語という言語そのものへの構造を解き明かすことに夢中になる。
数学についても同様である。まず、暗算力。その一方で速く正確に式が書けるようにする。その上で中学3年分を一気に終わらせて、なおも興味が続くものは、高校大学の数学にまで手を伸ばす。自ら選ぶ「飛び級」。
独学するものは、困難な状況に陥った時、それを解決するために、自らの欠点の把握とその解決方法の着想に全力を集中する。この時、抽象と発想の両方の能力が発達することになる。
以上には、共通する「前提能力」があると思われる。それは、読みと書きと暗算、そして、抽象化能力と自立性判断力。
自然の中での発見の驚きと、手を使った試行錯誤やしつこい遊びの連続。
友人と群れて遊ぶこと、他者の観察と自分の客観化。
これらが充分であった時、10代前半のある日に「目覚め」が訪れる。
独学にはお金はかからなくとも暇は必要。そして、暇が情報と娯楽以上に好奇心に基づく行動に結びついていることが望ましい。
独学者は、20歳以降もずっと知的成長をし続ける。つまり、精神性が高まり続ける。
独学者は楽しいから学問する。

ソーラーパネル

私は自分が購読している新聞を常に最低の新聞だと思うが、日経新聞はまたしてもやった。
都議選結果ではなく、キリンとサントリーの合併を一面トップに据えたのである。真ん中には、「麻生首相解散を決意」とあるから嗤わせる。
どうしてこんなことをするのであろうか?
誰がこんなことを敢えてやらせるのであろうか?
それは、間違いなく、日経隣りの経団連であろう。
ということは、経団連は政権が交代して民主党に移ると既得権益のいくつかを失うと考えていると推察される。
酒の会社の合併話が、都議選自民の歴史的惨敗報道に優先されるのはどう見てもヘンだ。自民党同様、「今度もゴマカし切れる。というより、そう考えないと存続の可能性がありえないからし方がない」と思っていると思われるバカである
数日前の日経によると、政府は小中学校に太陽発電施設を葺くことにし、6000〜9000億円の予算を投入することに決定した。
もし1兆円予算を組むとすると、これを全国約3万小中校数で割ると、一校あたり約3333万円になる。もし一校あたり5人の大学院生に、時間給2000円で、一人当たり週に10時間授業をやらせると、年30週として約300万円になるから、10年以上これを維持することができる。またその間に教員で能力が足りないものを「降格」することによって経費を節減し、同時に子どもたちに学問の最前線にいるものから直接学ぶという機会を与えることができる。
私は屋上ソーラーパネルではなくて、屋上どころか、校内陽の当たるところの全てで野菜や植物を作ることを推奨したい。二酸化炭素削減にはその方がはるかに効果的なはずだ。だいいち電気は食べられないが、植物は食べられる。
子どもが「電力」から学ぶことは限られる。今の子どもにとって最も接するべきことが「自然」であるとするならば、学校給食の多くを手作り野菜でまかなう仕組みに挑戦する方がよっぽど教育的である。しかもその費用は知れている。
屋上菜園、屋上田んぼ、屋上イモ畑、屋上麦畑。地域の人にも参加してもらう。とにかく陽の当たるところはグラウンド以外全て畑にする。教室窓際は、野菜が林立する。授業に出たくなくても虫取り草取り水やりに従事する場合はそれも許される。不登校もいじめも減る。ゲームやり過ぎ少年も治せる。教師のストレスも減る。これでこそ「温暖化対策教育」である。ソーラーパネルを設置するだけでは成り立たないことである。
そしてその上で、最早読者ご存知の通り、言うまでもなく、校庭で焚火を始める。屋上でとれたイモを焼き、菜園でとれた大根をふかし、生野菜をったっぷりとりながら談笑して音楽や歌を歌う。
教師には、できるだけ近くに住んでもらうようにし、「農園管理人」もやってもらう。
もし1兆円あったら、こんな素晴らしいことができる。他にもいくらでもアイデアを出し得る。
ソーラーパネル設置で喜ぶのは企業だけだということを忘れずにいて欲しい。
都民の支持の厚い公明党もそう考えるに違いない。

「バッキャロー!」

イタリアはラクイラの麻生首相宿舎で、深夜に、「バカヤロー!」の発声が聴こえて話題になっているそうだ。
昭和28年2月28日、衆院予算委員会、吉田茂首相は、社会党の西村委員のしつこい弁舌に、つい「バカヤロー」と呟いた。これがマイクに拾われ、その結果、内閣不信任案、衆院解散に追い込まれ、吉田自由党は惨敗した。この時、麻生首相の祖父の吉田を決定的に追い込むことになる「離脱」をしたのが鳩山一郎で、現民主党党首由紀夫の祖父である。
麻生首相は考えた。
―「呟く」のが悪い。どうせマイクに拾われるなら「怒鳴る」のが正しい。ゆえに私は、心の底から、「バカヤロー!」と叫んでメイクドラマの解散権の行使を実行したい。
とはいえ齢70近い。いざという時、大声できっぱりやれるとは限らない。
しかし、その時は近い。でも、「バカヤロー」とやると負ける可能性も高いから、いざという時に「バカヤロー」とつい大声で言わなくても済むように、予め「バカヤロー」を連発してガス抜きしておくのにもこしたことはない、そう考えたのは、最早「劇画」的発想では政治的に限界があると悟り、やはりこれからは「ギャグ」しかないとの認識を持ったためかもしれない。まさかサミットの席で、「バカヤロー」を言おうというのではなかろう。
結局だから、いつでもそれができるように(同時に妄りにそれを行使しなくても済むように)、ありったけの大声での「バカヤロー」の実際発声練習が、オリンピックというよりゴルゴ13の射撃練習同様、sex以上に欠かせなくなる。首相官邸では、「小泉防音室」でそれもできたが、近く解散するというのにサミットでラクイラでは練習できない。だから、深夜、まるで北朝鮮がミサイルを発射するかのように、「バカヤロー!」と叫ばずにはいられないことになるようだ。
麻生首相を選んだのは自民党である。その自民党が、「選挙に負ける」から「麻生下し」をする。
この時点で、前回国民が自民党議員を選んだことが「間違い」ということになるのは明らか。
「自民党をぶっつぶす!」に変わるコピーが、「自民党のバカヤロー!」というのはなかなか笑える。
森元首相なら堂々とゴルフをし続けるであろうが、どういうわけか胡錦濤中国主席はサミットを蹴って急遽帰国した。暴動鎮圧専門家だからであろうか。二酸化炭素排出よりウイグル族の「バカヤロー!」が気になったらしい。安禄山はウイグル人だった。中国は変わらないねえ。でも、日本やアメリカを含めて世界中どこでも、「支配」とは情報統制のことなのさ。
そして、「地方」が「中央」に対して怒るという構図は、現代ニッポンの橋の下にもシンクロする。
今さら北朝鮮のマネはできないから、日本の真似して、地域を越えた神社を作るといいんじゃあないのか。もちろん、主席の参拝は古今東西禁止にして。
以上もちろん、完全に「冗談」で書いた。
今日は梅雨明けと思ってインド料理を5種も作ってフラフラ。
Profile
Joker.Nobi
 ’57年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。V-net教育相談事務所主催。教育環境設定コンサルタント。能力開発インストラクター。
 著書に、
『子どもを無理なく志望校に入れる方法』(祥伝社)
『子どもを伸ばす音読革命』(主婦の友社)
『親子で遊びながら作文力がつく本』(同上)
『常識破りの日本語文章術』(同上)
『絵で英文法』(ワニブックス=共著)
『サイコロ学習法』(同上=共著)
『受験術』(ザ・マサダ)
 など。
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