もしも充分なお金と時間があったら人はどのような教育をその子どもに授けようとするだろうか。
社会のトップ層の多くは、現実的であると同時に理念的であることが意外と多い。「ノブレス•オブリージェ」(高貴なる義務)の香をまとっていると言っても良い。人は、社会的立場が高くなれば、何らかの形で自分が社会に寄与する存在であろうとする。巨額の寄付をするものもいる。もしそうしないと、社会内における自分の存在意義が感じられなくて不幸だからである。しかしなぜか、時代が下るたびに、政治家にも官僚にもそうした人が少なくなっているようだが。
超上層部では、躾やマナーにうるさい。挨拶や姿勢にうるさい。また、深い教養を持ち、語学に堪能であろうとする。議論をしても極めてまともで、しかも話に説得力があって面白い。文学や芸術への造詣も深い。このことから、超上層部ではリベラルアーツ的な教育が指向されることが必然ということになる。とりあえずあくせく働く必要がないのであるから、できるだけ人間的に大きくなることを心がける。
ではそのためにはどうするか。以下は私の考察に過ぎないが、御参考いただきたい。
先ず人生の源は健康な肉体なので、充分に身体が鍛えられるように、幼時より子どもを広い環境で活発に運動させる。同時に自然環境への接触を充分にし、虫や花などへの接触の機会を高め、景色の佳いところへ連れて行って、好奇心と感受性の基を与える。もちろん音羽に2000坪の土地があって軽井沢にも別荘があればこれは当然のように与えられる。スポーツを得意にする。良く走らせて、球技を得意にする。スキーにも連れて行く。武道のたしなみも与える。
次に勉強についてであるが、古典的な名文や傑作物語を多く音読してやり、音読させ、国語力の基を作る。お話を語らせ、想像力や表現力をつけさせる。
幼児教育においては、能力の伸長よりも良いご家庭や優れたお子さんとの接触相互交換をその目的として利用する。ピアノかバイオリンを習わせる。もちろんその前に、名演奏に親しませる。就学前後に語学の家庭教師を雇い、家族でも外国語を使って会話したり話しかけたりする。作文を書くことを重視する。そのための漢字学習を徹底する。そして、着々と読書の習慣を高め、常に質の良い読書を心がけるように仕向ける。
公立に通わせるのは世の中をよく見知るため。私立に通わせるのは優れた友人から良い刺激を受けるため。またそういったソサイエティーへの足場を作るため。
こうして、国語、外国語、数学がしっかりできるようになったら、中高一貫6年制の学校に進学させ、ホームステイを経験させた上で、本人の希望と実力があれば、高校からアメリカやイギリスのボーディングスクールやパブリックスクールに留学させる。あるいは、大学入学後に留学させる。大学院も視野に入れて20代後半までみっちり勉強させる。ご飯をどうやって食べるかは考える必要がない。芸術を選択することも可能だろう。
では、その下の層はどうするか。塾に通わせるお金はあるので、進学塾に通わせて、名門中学高校を経て一流大学を卒業させ、医師、弁護士、公認会計士などの高度の資格試験を通過させてやや高収入を得させようとする。ボーディングスクールは経済的にまず無理だろうが、大学時に留学くらいはさせられるかもしれない。資格を取る方向性ではなくとも、一流企業に就職させ、収入の安定化を図る。親の金だけでは面倒見切れないので、できるだけ早く自分で稼ぐように仕向ける。この層では、高級読書より試験得点が優先されることが多いだろう。そして、多くは企業戦士になって日本経済を支える勤め人となる。
ではその下の層ではどうだろう。私立に通わせられないから、公立を選ばざるを得ない。でも超上級層ができることの多くは親に自覚があれば実行し得るし、図書館や岩波文庫などを利用して読書に励めば、生活に苦労しているだけに、弱者のことを良く理解した才能豊かな知識人を目指すことも可能だ。良く努力した結果、フルブライトなどを利用して留学も可能である。しかし、そのためには、子供の時からの高い国語力の獲得が前提となろう。
しかし、親の収入と学歴に比例関係がある今日、この層の子どもたちが優秀な学歴を得るためには、ある種の「偶然」も必要であろう。
以上は全て親に教育の自覚がある場合であるが、共通点は、高い国語力と深い読書を伴った知性の獲得を目指すことだろう。
注意したいが、それは学校教育ではまず得られないということだ。だから、金があればあるほどそれが得られる可能性があるということになろう。しかし、この事実に多くの人は盲目的である。そして、世は、平和が続く中で、ジワジワと「階級」の整備が進められる。
ここでまた、世の中がそうなっていると了解するのにもまた国語力がいる。これは国民の望むことではないはずだが、政府はずっとこのことを意図的に放置した。そして、国民は決してそのことに本格的には気がつかない。
だから国家による教育に従うとは、国家にダマされることなのである。