周囲に動きがあると見るのか、現在の私はさらに執筆と構想に比重を置く生活に移行しつつある。もちろん本業はやめられないが。とどのつまり、現在の私の仕事は次のアイデアを出すことなので、周囲に調整能力の高い人が現れれば、よりいっそうその仕事に専念できる。というよりも専念するために必要な焚火の回数を増やすことができる。
HPをやや大幅に改変しようとする作業に時間がかかっているとのことだ。同時にブログ欄の移行も決定しているが、すでにそのタイトルもだいたい決定している。ここに惜しむことなく公表すると、
『V-net職員会議中』
というのだ。
多くの方のご参加を期待したい。
てなわけで、いつか『職員会議中』になるまで、このブログは、それまでの移行措置変体過程を担うことをその役割をすることになろうか、なんちゃって、どうせ浮き世の暇つぶし。
最近V-netでは、「音読サイコロ道場」というコースを設けている。これは週三コマのどれかの時間に、小学生がカタカムナ音読とサイコロ学習を学ぶものなのであるが、実は最後にやるキャロムを目的に来ている子も多いのである。
この時間、子供たちがあまりにエネルギーを爆発させるので、他の授業はできなくなってしまった。終わった後はまるで台風が過ぎた後のようになる。子供たちはこの時間を「勉強」だととらえていない。ものすごくデカい声で音読して、夢中でサイコロをやって、真剣にキャロムをやる。帰って行く後姿はあースッキリしたというかのごとくである。「道場」をやめて、「音読サイコロ子供エステ」に変名した方がいいと思うくらいだ。音読とサイコロが充分になりつつある子から作文指導に移行する予定だ。
私は相変わらず多くの人の相談を受けているが、何とここのところお役人さんの相談が多くなっている。好きなことをやることと、勤めることより起業する方向性を優先するべきと説く私に、己をわきまえて常識的に安定職を選んだ方のお子さんに私はいったいなんて言えば良いのか。とにかく、公務員の方も自分の子供が受けている文科省教育にはあきれかえっているのである。それはそれで当然のことと理解される。
また、相変わらず「変わったタイプの子」も多く訪問する。私は自分が変わったタイプであるので変わったタイプの人とのコミュニケーションに優れる。こういう子供たちは、昔のように充分な時間をとって指導したいが、なかなかそうはできなくて残念である。周囲の大人や教師が理解できなかったばかりに順調であるはずの能力伸長ができない子供たちを、過ぎた日の自分の姿と重ねてしまう。
今企画中なのは、中高生のためのリベラルアーツコース。これは、論語、韓非子、ブッダ、ソクラテスなどを読んで、ワイワイ議論し、自分の考えをまとめてそれを文章化するコース。大人にも参加してもらって議論を盛り上げて行こうと思う。実行に移すには時間がかかろうが。
執筆が、プライバシーの問題など諸処ゆえあって、「ノンフィクション」から、「ややフィクションに」移りつつあり、それはそれで楽で楽しいなりにまた別の意味で「苦しい」。
私は、またしても、「不謹慎な表現」によって、「冗談文学」の烙印を押されることもなく、かといって「文学」と認識されることもなく、「園芸」の世界に身を染めるだけなのか。相変わらず、ピーマン、シシトウ、インゲン、オクラと収穫順調。そろそろ更新剪定したナスの実も大きくなっている。早取りした唐辛子はもう一度花をつけて実り始めている。
自分がオモロいと思ったことが他人にはあまりオモロく届かないということは、冗談家にとって、畢竟「沈没」を意味しよう。まるで私は、自分で整髪できず、「美容院」のお世話にならなければやっては行けない類いの人間のようである。
「常識がない」これまでどれほど多くの人間にそう言われ(思われ)て来たことか。「常識」を証明できない人がどうしてそう思うのかといぶかしむが、人をこうだとを決めつけることが「常識」だと誤解しているらしい。
私に言わせれば、「常識」なぞないのである。時代とともに常に変化するのが「常識」なのである。ゆえに、どのような場合においても、自己の好奇心と感受性に忠実に、主体的に時間を過ごすことが大切なのである。
HPをやや大幅に改変しようとする作業に時間がかかっているとのことだ。同時にブログ欄の移行も決定しているが、すでにそのタイトルもだいたい決定している。ここに惜しむことなく公表すると、
『V-net職員会議中』
というのだ。
多くの方のご参加を期待したい。
てなわけで、いつか『職員会議中』になるまで、このブログは、それまでの移行措置変体過程を担うことをその役割をすることになろうか、なんちゃって、どうせ浮き世の暇つぶし。
最近V-netでは、「音読サイコロ道場」というコースを設けている。これは週三コマのどれかの時間に、小学生がカタカムナ音読とサイコロ学習を学ぶものなのであるが、実は最後にやるキャロムを目的に来ている子も多いのである。
この時間、子供たちがあまりにエネルギーを爆発させるので、他の授業はできなくなってしまった。終わった後はまるで台風が過ぎた後のようになる。子供たちはこの時間を「勉強」だととらえていない。ものすごくデカい声で音読して、夢中でサイコロをやって、真剣にキャロムをやる。帰って行く後姿はあースッキリしたというかのごとくである。「道場」をやめて、「音読サイコロ子供エステ」に変名した方がいいと思うくらいだ。音読とサイコロが充分になりつつある子から作文指導に移行する予定だ。
私は相変わらず多くの人の相談を受けているが、何とここのところお役人さんの相談が多くなっている。好きなことをやることと、勤めることより起業する方向性を優先するべきと説く私に、己をわきまえて常識的に安定職を選んだ方のお子さんに私はいったいなんて言えば良いのか。とにかく、公務員の方も自分の子供が受けている文科省教育にはあきれかえっているのである。それはそれで当然のことと理解される。
また、相変わらず「変わったタイプの子」も多く訪問する。私は自分が変わったタイプであるので変わったタイプの人とのコミュニケーションに優れる。こういう子供たちは、昔のように充分な時間をとって指導したいが、なかなかそうはできなくて残念である。周囲の大人や教師が理解できなかったばかりに順調であるはずの能力伸長ができない子供たちを、過ぎた日の自分の姿と重ねてしまう。
今企画中なのは、中高生のためのリベラルアーツコース。これは、論語、韓非子、ブッダ、ソクラテスなどを読んで、ワイワイ議論し、自分の考えをまとめてそれを文章化するコース。大人にも参加してもらって議論を盛り上げて行こうと思う。実行に移すには時間がかかろうが。
執筆が、プライバシーの問題など諸処ゆえあって、「ノンフィクション」から、「ややフィクションに」移りつつあり、それはそれで楽で楽しいなりにまた別の意味で「苦しい」。
私は、またしても、「不謹慎な表現」によって、「冗談文学」の烙印を押されることもなく、かといって「文学」と認識されることもなく、「園芸」の世界に身を染めるだけなのか。相変わらず、ピーマン、シシトウ、インゲン、オクラと収穫順調。そろそろ更新剪定したナスの実も大きくなっている。早取りした唐辛子はもう一度花をつけて実り始めている。
自分がオモロいと思ったことが他人にはあまりオモロく届かないということは、冗談家にとって、畢竟「沈没」を意味しよう。まるで私は、自分で整髪できず、「美容院」のお世話にならなければやっては行けない類いの人間のようである。
「常識がない」これまでどれほど多くの人間にそう言われ(思われ)て来たことか。「常識」を証明できない人がどうしてそう思うのかといぶかしむが、人をこうだとを決めつけることが「常識」だと誤解しているらしい。
私に言わせれば、「常識」なぞないのである。時代とともに常に変化するのが「常識」なのである。ゆえに、どのような場合においても、自己の好奇心と感受性に忠実に、主体的に時間を過ごすことが大切なのである。
「品格」を語る数学者を好きにはなれないが、この人が、大学生に岩波文庫を読ませていることには感心する。中高生のためのリベラルアーツコース賛成。手はじめに、カント『純粋理性批判』は如何か。正しさから如何に誤謬が発生するかを理解すれば、その後の議論に対する手続きの準備ができるだろう。中高生相手なのでオッサンも素面で議論できるように努めねばなるまいが...これがなかなか難しいかな。