こんなことが書けなくなって、いよいよ「職員会議中」に移行することになるのかもしれないが、我が国のメディアと同様、ノーベル平和賞もその「恣意性」によって無意味化した。オバマ氏は合衆国が選んだばかりの大統領である。そしてまだ「姿勢」だけで何も実現していない。彼の「業績」は、アフガン駐留問題などこれからの判断よって現実化される。それを「先認」するとは、誠に残念なことではあるがノーベル賞もおしまいである。オバマ氏自身が「正か否」を論じているのではない。今そのことをすることの決定的な無意味を主張するのである。これでは、チベットの平和安定化のために貢献したと胡錦濤氏(中国主席、この項ネット的制約を受けやすい)に賞を与えるのと同等であろう。ノーベル平和賞が隣国ノルウェーの国会議員5人によって選出される仕組みにまずい点があるのかもしれない。
アフガンでは今も戦争が続いている。その他のイスラム圏でも爆弾テロの話が途絶えることはない。イラクもアフガンも米国が仕掛けている戦争である。しかもこれがどう集結するのかはいっこうに見えて来ない。現地で死者が出続ける時に、戦争を行っている国の大統領に平和賞を与えることはどう考えても理解されない。私が知るところでは、ノーベル賞は、戦争で自分の開発した爆薬が多数の犠牲者を生み出したことを悔やんだノーベルの遺志によって莫大な遺産を基に始めたのであり、それが戦争をする国に賞を授与するのであるから、完全な本末転倒であろう。スターバックスコーヒーが生産地のエチオピア農民に正当な支払いをするように取り付けたビリー牧師のような人でも探せば良いのである。
我々は特定のプロパギャンダに拘泥するマスコミの態度がいやなのである。でも、ノーベル賞選考委員会はこれをやってしまった。ここには米国政府の強い働きかけがあったのは当然のことだろう。そして「西欧諸国」はこれを容認した。彼らは相変わらずムスリムの考えを無視するのである。彼らからすれば米国資本主義的考え方は完全に間違っていることになっていることだろう。これを辞退することを選ばないオバマは、「戦争」を選択したことになる。
そもそもノーベル平和賞は、我が国の佐藤栄作元首相受賞同様に極めて政治的であるが、今回の受賞はこれを決定的に認めたことになる。このことは、新聞が、そしてテレビがたどった道と同じ結果になると私は思う。恣意的な要素があるメディアはその役割を失う。これをはっきりさせたのが今回の受賞決定であろう。したがって、これからノーベル賞を受賞することは無意味ということになるから、ノルウェーの森が好きな「村上春樹」はイスラエルに行くべきではなかったかと今は思ったりしていることだろう。