2004年から、大阪で開講されていた色彩学校に、1年間通った。
その時描いた「黄色の世界」。その頃講師をしていた、学習障害の子どもたちの学園「見晴台学園」の子どもたちを一人一人顔を似せて描いた。
右下には、難病の子どもたち。当時「電池が切れるまで」という、子どもホスピスのドラマを見ていて、毎回号泣していた。
院内学級の先生になりたくて調べたが、その地域の教員が兼任することに決まっていて諦めた。
左下は、東南アジアで地雷を踏んだために足を無くした子ども。
真上には、当時ボイスセラピーを始めた私達が、声で癒すことができればいいと思い、描いた。
今でも大好きな一枚。
今は、もっと広く、仕事•恋愛•結婚に悩む男性女性、お父さん、お母さん、子どもたちをサポートしたいと願っている。
こうやって今も眺めることができるのが、アートの良さかもしれない。
その時描いた「黄色の世界」。その頃講師をしていた、学習障害の子どもたちの学園「見晴台学園」の子どもたちを一人一人顔を似せて描いた。
右下には、難病の子どもたち。当時「電池が切れるまで」という、子どもホスピスのドラマを見ていて、毎回号泣していた。
院内学級の先生になりたくて調べたが、その地域の教員が兼任することに決まっていて諦めた。
左下は、東南アジアで地雷を踏んだために足を無くした子ども。
真上には、当時ボイスセラピーを始めた私達が、声で癒すことができればいいと思い、描いた。
今でも大好きな一枚。
今は、もっと広く、仕事•恋愛•結婚に悩む男性女性、お父さん、お母さん、子どもたちをサポートしたいと願っている。
こうやって今も眺めることができるのが、アートの良さかもしれない。