先日絵本の講座で『にんじんケーキ』を読みあった。
ボイスセラピーのカウンセリングで、夫婦の問題を扱うとき、この絵本を読みあうことがある。新婚のうさぎのだんなさんがある夕方、今日1日のことを奥さんに話す。

「ぼくは、まず、うちのドアをなおしてもらいに、だいくのところへいった」
「あら、そう」
「それから、このチョッキをかった」
「あら、そう」
「あら、そう、しかいえないのかい」
「なんていったらいいのかしら」
「いいチョッキだわ、ぼろぼろになるまでそれをきて、きもちよくすごしてくださいな、とでもいえばいい」
「じゃあ、いうわ」うちきなおくさんは、ちいさいこえでいいました。「ぼろぼろになるまでそれをきて、きもちよくすごしてくださいな」
「うん、それでいいんだ」

上目線のだんなさん。

「それからぼくは、ふゆにそなえて、たきぎをあつめた」
おくさんは、だんなさんによろこんでもらおうと、おそわったとおり、いいました。
「ぼろぼろになるまでそれをきて、きもちよくすごしてくださいな」
「ちがう、ちがう。ぼくは、たきぎのはなしをしてるんだ。ふゆになったら、それをもやしましょう。あたたかいでしょうね、といえはいい」

奥さんはだんなさんの話を真似しているうちに、どんどん会話がちぐはぐになっていく。

「それから、ぼくたちのあなのそとかべのわれめをふさいだ。まるで、あたらしいうさぎあなみたいに」
「ふゆになったら、それをもやしましょう。あたたかいでしょうね」

わなにかかってしまっただんなさんの話には「だいじょうぶ、ともだちがたすけにきて、あなたをだしてくれるわ」と言いなさいと、奥さんに伝える。

「いや、ぼくはなんとかひとりでぬけだして、パンやへいった。にんじんケーキをかおうとしたんだが、ちょっとにおいをかいだとたん、パンやのやつに、のしぼうで、いやというほどあたまをたたかれた。めだまがとびたすかとおもったよ」 

「ともだちがきて、めだまをだしてくれるわ」

この言葉に怒っただんなさんに、奥さんはついに切れた。

「ひどいのはあなただわ」
おくさんはいって、だんなさんをたたきました。
「ああいえ、こういえって、おせっきょうばかり、わたしだって、あなたがおもっているほどばかじゃないのに!」
おくさんは、また、たたきました。
「あれ、あれ」とだけいったのは、こんとは、だんなさんでした。

こんな風にストレートに感情を出し合うことがてきたら、案外夫婦はうまくいくのかもしれない。

この絵本を読みあうと、自分の夫婦関係が照らし出されて、苦しいと言う方は多い。
「これ、子どもの絵本?」とみなさんが驚かれる。

読みあう時、だんなさんと奥さんと両方の役になって読んでいただく。うさぎのだんなさんの役になると、案外自分にしっくりくると言う方も。
そして、先日は、「互いに関心を持つ」ということも考えた。
「どうして、こんな会話を続けるのかな?」
「もし相手に興味があったら、奥さんさんだって、あらそう、ばっかり言うかな?」
会話のスムーズさ=形だけの表現=その虚しさ。夫婦で愛し合うってどうすることなのだろう。

だんなさんは、おくさんにキスをしました。
おくさんは、だんなさんにだきつきました。
ふたりは、しあわせなきもちで、うさきあなにかえって、にんじんケーキをたべました。
なにも、はなしませんでした。

花柄の縁取りがとても美しい絵本です。

『にんじんケーキ』ノニー・ホグロギアン作 評論社