【倫理】第14回 経験主義

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1.経験主義
  
さて、西洋思想の講義もここから中盤戦です。西洋思想のうち、近代の思想は現代社会に影響を与えているものも多く、やや深いところまで学ぶ必要があります。難しく感じることもあるかもしれませんが、大丈夫。自分のペースで進めて、順に理解していってほしいと思います。

 今日は経験主義のお話です。前回、学んだ科学革命の時代、ヨーロッパでは自然科学が大いに発展しました。その際、観察や実験をとおして本当の自然の姿をとらえようとした人々です。特にイギリスの哲学者が多く唱えた立場です。彼らは、人間が生まれながらに備わっているとする観念(生得観念)を否定し、全ての知識は感覚をとおして得た経験によるものだと考えます。今回はこの経験主義(経験論)の立場にたつ代表的な思想家たちを紹介していきます。



2.ベーコンの思想
 では、まず「経験論の祖」と言われるフランシス=ベーコンの思想から触れていきましょう。ベーコンといえば、「知は力なり」という言葉が有名です。彼によれば、学問とはそれ自体が目的でなく、自然にはたらきかけて支配し、それを人類の生活を向上する「力」でなければならないものでした。そうした信念を持つベーコンは当時のスコラ哲学を人間の生活の役に立っていないと批判したのです。

 学問で知識を学びとり、自然を支配することが重要だとベーコンは考えたわけですが、誤った知識を増やしても意味はないですよね。では、私たち人間はどのように正しい知識を得られるのでしょうか。ベーコンは正しい知識を得るために4つの偏見(イドラ)を排除すべきだと主張しました。
 ・種族のイドラ・・・人間に共通する偏見。錯覚や思い違い
 ・洞窟のイドラ・・・育った環境や個人的な性格からくる偏見。
 ・市場のイドラ・・・変な噂が広まるなどの言葉の不適切な使用からくる偏見。
 ・劇場のイドラ・・・伝統や権威に無条件で従ってしまう偏見。 

 たとえば、無批判にこれまでの言説を信じてしまう(当時であれば天動説とか)のは劇場のイドラにあたりますね。これらの偏見を排除して、正しい知識を得ることが大切だとベーコンは著書の『ノヴム=オルガヌム』で述べています。そして、正確に知識を把握するための方法をベーコンは帰納法と呼びました。

 帰納法とは、実験や観察などによって経験的事実を積み上げていって、そこから法則を導き出すという手法です。これは近代科学が新たな理論を生み出す手段そのものだと言ってよいでしょう。ベーコンはその土台を考え出したのです。例えば、偉大なる先人ソクラテスは死んだ、プラトンも死んだ、アリストテレスも死んだ。そのような客観的事実の積み重ねから「人間は死ぬ」という一般的な法則が導かれるのだといったような具合です。今まで説明したようなベーコンの学問観や方法論は、現実的かつ実用的なものであり、人間の力に対する強い信頼が感じられます。この経験論はロック、ヒューム、バークリーなどの経験論者に受け継がれていきます。



3.ロック・ヒューム・バークリー
 ベーコンの後を継いだ経験主義の主な思想家を3人ほど紹介したいと思います。

 まずはジョン=ロックです。イギリスの哲学者ロックは社会契約説においても知られる人で、彼の思想はアメリカ独立革命やフランス革命に大きな影響を与えました。倫理で習わずとも中学の歴史や公民で名前を目にした人は多いのではないでしょうか。ロックは人間の心をもともと何も書かれていない「白紙(ホワイト=ペーパー)」(後にライプニッツによって白紙(タブラ=ラサ))だといいます。人間の知識の全ては後天的な経験によるものだというのです。

 次に、アイルランドの哲学者バークリーは、さらに経験主義を徹底させる立場をとりました。「存在するとは知覚されることである」という言葉が彼の思想を一言で表しています。目の前にあるものは、私たちが知覚するからあるのであって、客観的な外部世界が知覚以前に存在することを否定しました。

 そして、最後にヒューム。イギリスの哲学者・歴史学者であった彼は、物体の客観的存在を認めないばかりか、私たちの自我(精神や心)の実在をも「知覚の束に過ぎない」として否定しているのです。人間の心は「嬉しい」「痛い」「冷たい」といった知覚による印象が集まったものだと捉えるヒュームのこの考えは、さらに「原因」と「結果」を結びつける因果律の否定につながってゆきます。例えば、「財布を落として、悲しい」というのは、「財布を落とす」という事象を知覚し、連続して「悲しい」という印象を何度も経験してきたと考えます。事象と人間の感情という本来関係のない2つのものを心の中で結びつけたというのがヒュームの主張なのです。

 では、今回はここまでとします。経験主義同様、近代科学の進展に寄与した合理主義について、次回は見ていくこととしましょう。

  

【世界史】第20回 古典インド文明④ 〜統一王朝の変遷(後)

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1.サータヴァーハナ朝

 クシャーナ朝が北インドを支配していた2世紀頃、デカン地方(南インド)ではサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)がおこりました。この王朝は季節風を利用した海上貿易により栄えました。特に、ローマとの貿易では大きな利益をあげたとされています。ローマからはインドへ大量の金貨が輸出され、経済上の大問題となったといいます(南インドからは今日でもローマ金貨が見つかっているそうです)。サータヴァーハナ朝はドラヴィダ系の人々のつくった王朝とされていますが、アーリヤ人による北インドの文化も積極的に取り入れていたようです。



2.グプタ朝
 さて、話を北インドへと戻します。320年頃にチャンドラグプタ1世によってグプタ朝が建国されました。首都はマウリヤ朝以来のパータリプトラです。そして、第3代の王チャンドラグプタ2世(超日王)のときに最盛期を迎えました。この王のときに中国からの僧・法顕がインドを訪れています。このときのグプタ朝の様子は彼の表した『仏国記』に記されています。

 グプタ朝の時代はインド古典文化の黄金期といわれます。仏教やジャイナ教に押されていたバラモンたちが影響力を回復し、彼らの公用語であるサンスクリット語が宮廷のなかで用いられるようになりました。サンスクリット文学の最高峰である『シャクンタラー』という戯曲がカーリダーサによって書かれ、また『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』という2つの叙事詩が生まれました。

 勢力を回復したバラモン教はやがて先住民の信仰と融合していき、ヒンドゥー教と呼ばれるようになります。ヒンドゥー教は「インド人の宗教」という意味です。特定の教義及び聖典は存在しませんが、昔から今にいたるまでのインドの人々の生活に大きく影響を与え、インド独自の文化をつくりあげる大もとになっている宗教です。さっき聖典は存在しないといいましたが、シヴァ神ヴィシュヌ神などの多神教であるヒンドゥー教には『マヌ法典』というヴァルナ制度における規範が書かれたものがあります。バラモンの特権が強調された身分差別的なものや女性蔑視のものなどが記されているので、日本人の私たちが現在読むと違和感を感じます。しかし、ヒンドゥー教の人々にとってはとても大事なものなのです。

 ヒンドゥー教が人々に浸透していく一方で、仏教はかつての勢いを失いつつありました。しかし、教えに関する研究は引き続き盛んに行われ、ナーランダー僧院という研究の中心となる学院もこの時代に創設されました。美術の世界では純インド的な仏教美術(グプタ様式)が完成します(ヘレニズム文化の影響の強かったガンダーラ美術との対比が大事ですよ)。代表的な建築物としてアジャンターの石窟寺院が有名です。

 グプタ朝は、5世紀後半に地方の有力者たちの離反及び独立によって衰えていき、6世紀にエフタルという民族からの侵入を受け、滅びてしまいました。



3.ヴァルダナ朝以降
 グプタ朝の崩壊後、7世紀に北インドを再び統一したのがヴァルダナ朝ハルシャ=ヴァルダナ(戒日王)です。この王自身は巧みに政権を運営しましたが、王の死後、政権は崩壊し、この王朝は短命に終わってしまいました。また、ヴァルダナ王は仏教を保護したことで知られています。この時代に、ちょうど中国から一人の僧がやってきました。その名は玄奘(げんじょう)。私たち日本人にとっては西遊記のモデルといったほうがわかりやすいでしょうか。ナーランダー僧院で仏教を学ぶためにやってきた玄奘をヴァルダナ王は厚遇し、玄奘が唐に戻ろうとした時は強くひきとめたそうです。政治だけでなく学問にも通じていたヴァルダナ王は異国から来た優秀な人を帰したくなかったのでしょうね。その玄奘が書いた『大唐西域記』という記録には、当時の王朝の繁栄した様子が描かれています。
 
 ヴァルダナ朝の滅亡後、インドは混迷の時代へと入っていきます。数世紀間、様々な民族が争い、多くの王朝が生まれは滅んでいきました。この時代をラージプート時代(7世紀〜12世紀)と呼んだりもします。この時代には中国から義浄という僧がやってきて、玄奘と同じように仏教を学びました。義浄は行きも帰りも海路を使い、彼の書いた『南海寄帰内法伝』にはスマトラ島(現在のインドネシア)に大乗仏教が広がっていたことが記されています。法顕、玄奘、義浄の3人はごちゃごちゃしないよう整理して覚えて下さいね。

 そして、11世紀頃からイスラーム勢力(ガズナ朝、ゴール朝)が次々と侵入し、1206年にデリーにイスラーム政権がうちたてられました。インドは新しい時代へと入っていくのです。
 

【世界史】第19回 古代インド文明③ 〜統一王朝の変遷(前)

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1.インド統一への流れ
  今回は、アーリヤ人進入以降の古代インドにおける王朝の変遷を学んでいきます。おおよそ紀元前4世紀〜後7世紀にかけての話です。こういう流れを勉強するとき、「ごちゃごちゃしてて嫌だなあ」と思う人がいるかもしれません。今回はマウリヤ朝、クシャーナ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝という5つの王朝を中心にそれぞれの時代の特徴を端的にまとめていくので各自整理しながら理解していってもらえればと思います。

 まず、北インドで小さな都市国家が徐々にまとまっていくという話から。北インドでは小さな国が対立していますが、そのなかでコーサラ国マガダ国が力を強めます。後にマガダ国がガンジス川流域(インドの東側)の大部分を支配し、北インドが統一されました。しかし、わずか30年ほどでマガダ国は崩壊していったようです。そうしているうちに、前326年頃にあのアレクサンドロス大王がインダス川流域(インドの西側)に進出してきたのです。インドの人たちはびっくりです。西方から異民族の強力な軍隊が押し寄せてきたわけですからね。「これはいかん!インドも結束して外部勢力に対抗せねば!」といったような気運がこのアレクサンドロス大王の東征をきっかけに盛り上がってきたのです。そして、前317年ごろにインドにおける最初の本格的な統一王朝といわれるマウリヤ朝が成立しました。



2.マウリヤ朝
 マウリヤ朝は前317年ごろから前180年ごろにかけて成立していた王朝です。創始者であるチャンドラグプタ王は、ガンジス川流域を支配していたマガダ国を打倒し、首都をパータリプトラにおきました。そして、インダス川流域に残っていたギリシア勢力を追い払い、西南インドやデカン高原(インド中央部)を勢力下におきました。ほぼインドを統一したわけです。

 このマウリヤ朝では、最盛期を築いた王が重要です。その王の名はアショーカ王。三代目の王であったアショーカ王は若い頃は征服活動を活発に行っていました。南方のとある国を滅ぼしたときには数十万人を殺したようです。さすがに自分の残虐な行為に悔いたのか、アショーカ王はしだいに仏教に帰依していきました(信仰に篤い教徒になることです)。争いではなく仏教を通じ平和な世の中をつくる政治を行い、その方針を磨崖碑(まがいひ)や石柱碑に勅令を刻ませて、人々にその方針を伝えました。仏教をもとにした法や倫理をダルマといいます。ダルマにもとづく政治を行ったもの具体例としては、まず仏典結集(けつじゅう)があげられます。アショーカ王は、ブッダの教えをきちんとまとめるために、仏教指導者を集めて仏典の編纂事業を行います。この事業はブッダが亡くなった後から行われて、アショーカ王のときが3回目にあたります。そして、他にもストゥーパを建てさせることも行いました。

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 上の画像の丸い建物がストゥーパです。ストゥーパとは仏塔のことで、ブッダが亡くなった後、ブッダの遺骨を納めています。ストゥーパが各地に建てられたのがアショーカ王の時代です。後に中国(観の時代)に伝播した後、日本にも伝わり、仏舎利塔(ぶっしゃりとう)という名で各地に建てられました。

 アショーカ王の時代、スリランカ(セイロン島)に仏教が伝わったことも一緒に知っておきましょう。アショーカ王の王子であるマヒンダが伝えたとされています。スリランカでは以降、仏教が隆盛し、この地域の仏教は上座部と呼ばれるようになります。上座部は主として東南アジアなどの南方に伝えられたため南伝仏教ともいわれます。
 


3.クシャーナ朝  
 アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退していきます。前2世紀にギリシア勢力やイラン人がが侵入してきたのですが、そのなかのクシャーン人がインダス川流域を支配下におき、1世紀の半ば頃にクシャーナ朝を築きます。

 ガンダーラ地方(現在のパキスタン、アフガニスタン)のプルシャプラを首都として、ガンジス川流域まで支配地域を広げました。この地域は東西貿易の交通の要衝路に位置していたので、当時栄えていたローマ帝国との交易で多くの利益を得ることができました(同時期にローマ帝国、中国の後漢など大きな国が栄えていたのがこのクシャーナ朝の時代でした)。また、交易を通じて、国際色豊かな文化が流行します(もっともクシャーナ朝はイラン系の王朝でしたので、あまりインド色の強くない王朝ではありましたが)。特に、当時の美術をガンダーラ美術といいます。かなりのギリシア人が当時クシャーナ朝にやってきていて、彼らの造った仏像は顔立ちや服装がギリシア人風のもので従来のものとは大きく異なる姿形をしてます。

 このクシャーナ朝の最盛期の王はカニシカ王です。アショーカとごちゃまぜにしないように!と言いたいところですが、行ったことも少し似ています。カニシカ王は第4回仏典結集を行いました。仏教を保護した王として知られています。なお、この時代の仏教は大乗仏教と呼ばれるものです。

 ナーガールジュナ(中国名で竜樹)という人物が大乗仏教のおおもとの理論をつくりました。菩薩信仰がその中心とされます。他人を救済することを通じて自分も救済されるよう修行する人のことを菩薩といいます。このような菩薩の心を出家、在家とわず大切にし、多くの人が救われることを目指す宗派なのです(先ほどの上座部が南伝仏教と呼ばれたのに対し、大乗仏教は中国、朝鮮、日本などに広まったので北伝仏教とも呼ばれます)。
 
 上座部仏教と大乗仏教の違いをもう少し詳しく話しておくと、上座部仏教が「修行を通して悟りを開いた者こそが仏になれる」という教えです。現在のタイなどが上座部仏教の国ですね。対して、大乗仏教は「誰もが仏になれる」と考えます。出家せずに普通の生活をしていても仏教に帰依する立場(在家信者)の人々が中心です。より多くの人が救われる「乗り物」ということで大乗仏教というのですね。この大乗仏教の教えはブッダが創始した頃の教えとは違う!と批判されたりもしています。確かにそうかもしれませんが、日本ではこの大乗仏教の教えが広まっているのです。

 さて、クシャーナ朝はカニシカ王の死後、ササン朝(ペルシア)の攻撃を受けて衰え、滅亡してしまいます。また、クシャーナ朝の頃、インド南部にて勢いがあったのがサータヴァーハナ朝です。次回はこの王朝についてのお話から始めたいと思います。
 

【世界史】第18回 古典インド文明② 〜新しい宗教の誕生

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1.ヴァルナ制度とバラモン教
 まずは前回の復習から。古代インドでは紀元前1000年頃からアーリヤ人がガンジス川流域に移動し、そこでは鉄器が用いられるようになりました。牧畜の生活をしていたアーリヤ人が農耕生活を始めるようになるのです。すると、農業生産力が高まり、村落が大きくなって都市へと成長します。都市では働かなくてよい人々(生産物が余るようになるため)が武士や僧侶階級として力を持つようになりました。こういった流れを理解することが世界史ではただ用語を暗記するより大事かもしれませんね。

 この古代インドで生まれた階級制度をヴァルナ制度といいます。ヴァルナ制度では、主にバラモン(司祭)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(農民、商人)、シュードラ(隷属民)の4つの身分に分かれます。現在のインドにもいまだに残っているカーストという身分制度はこのヴァルナ制度にジャーティ(職業)が結びついてできたものです。さらに、このカースト制度の外部には不可触民と呼ばれる最下層の人々がいます。このような身分差別が現代のインド社会の進展を妨げる要因になっているとも言われます。

 ヴァルナ制度で最上位のランクであったのがバラモンと呼ばれる聖職者たちです。アーリヤ人は自然を神とする信仰を作り、この信仰をバラモン教といいます(聖典は『ヴェーダ』。前回で紹介しましたね)。バラモン教は自然の神を信じてますから、どうにか自然の脅威を抑えてほしいと神にお祈りします。いわゆる祈祷や呪術、そして神への儀式を重んじる宗教です。この儀式や呪術の細かい作法を知っている司祭さん、つまりバラモンは人々にとって非常に重要な存在となっていきます。ゆえに身分の最上位にいるわけですね。

 しかし、バラモンたちが自分の権威を高めようと、あまりに儀式の形式ばかり重んじるので、人々は次第に疑問を抱くようになります。儀式中心のバラモン教を思索中心の宗教へと変えようとする動きが出てきました。そのなかで生まれたのがウパニシャッド哲学です。ウパニシャッドとは奥義書という意味。ヴェーダの付属文献の1つとして宗教哲学がまとめられています。その哲学の中身とは大変難しいのですが、一言で言えば梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と自己であるアートマン(我)とは究極的に一体であるという境地を悟ることで私たちは苦しい生から解脱できるという教えです。



2.新しい宗教 
  バラモン教への批判から紀元前5世紀頃に新しい宗教が生まれます。仏教ジャイナ教です。とはいえ、ともにバラモン教の思想を全く無視しているわけではありません。インドの豊潤な大地から多様な生命が生まれるという自然環境からは「輪廻」という思想が生まれていますが(私たち生きているものはたえず生と死を繰り返しているという考え)、その思想を両者ともに受け継いでいます。

 まず、仏教から。仏教を創始したガウタマ=シッダールタ(ゴウタマ=シッダッタ)はもともとクシャトリヤの王子でした。 彼は年少の頃からの様々な見聞、体験から、人生とは「苦」であるという境地に達して、家族を捨てて出家して修行の道に飛び込みます。当時のバラモン教の教えとは、出家して苦しい修業から悟りをひらくことで解脱できるというものでしたから、彼も苦しい修業を行います。ところが、死ぬ寸前までに追い込む修行を繰り返しても悟りの境地は得られない。彼は段々嫌になって、修業から逃げ出してしまいます。「こんなことして何になるんだっ!」と思ったのでしょうか。しかし、その命からがら逃げる道中で、一人の少女からミルクをもらい、菩提樹の下で静かに瞑想を行うことでとうとうシッダールタは悟りをひらくことができたのです。このときからブッダ(悟りを開いたもの)と呼ばれるようになります。

 彼は、「苦」である人生を克服するには、修行によって悟りを開くことではなく、正しい道を歩んで自分の欲望を捨てることによって解脱への道が開かれるという教えを人々に説きました。これまでのバラモン教の教えを否定したのです。80歳で死ぬまで、45年もの間、ブッダは教えを人々に説き続け、クシャトリヤ階級を中心にインド全土へと信仰が広まっていきました。余談ですが、インドでは現在、仏教を信じている人はほとんどいないようです。13世紀にイスラーム勢力に寺院を破壊されて消滅したのですが、その前から次第にヒンドゥー教におされていたようですね。

  そして、もう1つのジャイナ教についても触れておきましょう。ジャイナ教の創始者はヴァルダマーナという人物です。バラモン教の権威を否定し、苦行や不殺生を実践するよう説きました。不殺生とは生き物を殺さないようにすること。ジャイナ教はヴァイシャを中心に広まっていきます。仏教と違うのは、ジャイナ教は現在でもインドに多くの信者がいるということです。昔と変わらず、主に商人の人々が信仰する人々の中心らしいのですが何故なんでしょう。

 それは余計な不殺生をせずに済むからなんです。例えば、農業だと畑を耕す時に、虫を殺してしまったりするかもしれない。ジャイナ教の人々はマスクをして、小さな虫を口に入れないようにしてます。口に入れるのが気持ち悪いからとかではなくて、虫を殺さないようにするための配慮なんです。不殺生を守るためにここまでするんですよ。ジャイナ教の不殺生の教えをまもることは農業や牧畜業をやっている人には難しいのです。 



参考文献
 
筆者がインドを訪れた際、同乗していた車が人を轢きます。恐ろしく感じた筆者をよそにドライバーは意に介さぬ様子。翌日の新聞にも事故のことが載っていない。何故なのか。それは轢かれた人が不可触民と呼ばれる身分だったから。インド社会に根強く残る身分差別に迫るドキュメントです。



 マンガですから、もちろんフィクションとして読まなければなりません。しかし、ブッダの生涯をハラハラドキドキしながら読める作品としてオススメしておきます。手塚作品の最高峰の1つだと個人的には思います。

【世界史】第17回 古典インド文明① 〜インダス文明

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 1.インド亜大陸
 「世界史」では世界の様々な地域の歴史を眺めていきますが、教える立場からすればインドは比較的教えやすいところかもしれません。だって、インドって言って、世界のどこかを思い浮かべられない人はいないですものね(これまでに扱ったパレスチナとかギリシアだと地図で指差せる人が少なかったかもしれないなあという印象です )。今回からインドの古代文明について学んでいきますが、現在の「インド」という国だけでなく、南アジア全体のことを勉強するのだというイメージを持ってください。

 インドって実は相当広いんです。どのくらい広いのかというと、旧ソ連の領域をのぞいたヨーロッパ全域とほぼ同じなんですよ。そのなかにヒマラヤ山脈などの高地、インダスとガンジスという大河が流れています。気候としては大部分が亜熱帯ですが、山の高いところでは寒冷ですし、乾燥地域も西の方にある。南部は暑苦しい熱帯の地域です。このような様々な自然環境が見られるのですが、この多様性こそがインドの人々の文化の成り立ちに大きく関わったと言えるのです。例えば、日本において広く普及している仏教やインドの人々が信仰するヒンドゥー教といった宗教は、インド古代文明の多神教文化を経て誕生したものです。多様な生命が共存する自然環境に影響を受けて、様々な神が存在する宗教観が生まれたのだと言われます。世界の他の地域とは異なる、独特かつ多様な文化の誕生を可能にしたのは、インドの豊かな自然あってこそだということを知ってもらえればと思います。



2.インダス文明
  では、インドの古代文明の成り立ち、古代における国家の変遷を見ていきましょう。紀元前2300年頃から後7世紀のヴァルダナ王朝の時代までの約3000年という非常に長いスパンで見ていきますが、そう複雑ではありません。落ち着いて話を聞いて理解していってほしいと思います。

 紀元前2300年頃から前1800年にかけて、インダス川の広い流域にインド最古の都市文明であるインダス文明が栄えました。そのなかでも覚えておいてほしい遺跡は、インダス川中流域(パンジャーブ地方)のハラッパー、そしてインダス川下流域(シンド地方)のモエンジョ=ダーロです。 両都市の設計は共通していて、同時代のどの都市にも見られないような整然とした都市計画のもとに建設されていたようです。市街地は碁盤目状に道が通じていて、下水道の整備もきちんとされていました。特に、モエンジョ=ダーロの中央部近くにおかれた大浴場は重要なものだったようで、宗教的なものとして利用されていたようです。インダス文明は青銅器の使用が確認されていますが、金や銀、その他の宝石品も発掘されていて、どうやらメソポタミア地方と交易していたこともわかっています。なお、鉄器

 インダス文明の都市遺跡からは青銅製の像や印章(印を押すもの)が見つかっています。その印章に刻まれていた文字(象形文字)は一部解読できておらず、どの民族のものかはっきりしていませんが、どうやらドラヴィダ系の民族であったことがわかっています。ドラヴィダ人はインドの主要な先住民の1つです。 謎は多いのですが、牡牛や菩提樹を神聖なものとしてみなしていることはその後のインドの歴史にもつながっていますね。インド文化の根底には今もドラヴィダ系の文化の影響があります。



3.アーリヤ人の進入
 前1500年頃、インド=ヨーロッパ語系の牧畜民であるアーリヤ人がカイバル峠を越えて、インド西北部のパンジャーブ地方へと侵入してきます。実は、ちょっと前まではこのアーリヤ人の進入こそがインダス文明の衰退の原因とされてきました。現在では、アーリヤ人の進出とインダス文明の衰亡は約200年ほどのタイムラグがあることがわかっています(どうやら前1800年頃に自然条件の悪化や環境破壊などを原因としてインダス文明は衰えていったようです)。

 アーリヤ人はパンジャーブ地方を中心に定住を始めました。以後、インドの社会・文化の中心は先住民であったドラヴィダ人などではなくこのアーリヤ人が担うことになります。アーリヤ人は、牧畜を中心として農耕を行っていました。よって、宗教ではインドの様々な自然現象(雷、太陽など)を崇拝し、お供えものを捧げたり、賛歌を歌ったりして信仰を守っていました。そして、この神々への賛歌や儀礼をまとめた書物を『ヴェーダ』といいます。その最古のものは『リグ=ヴェーダ』です。芳醇な自然の中で芽生えた多神教の世界観がその書物からは読み取れます。この時代のことをヴェーダ時代とも呼ぶことも知っておきましょう。

 前1000年をすぎた頃、アーリヤ人はより肥沃な土地を求めて移動を開始します。行き着いた先はガンジス川流域でした。このころ、アーリヤ人は森林を開墾するために鉄器を使用するようになります。また、それまでの小麦や大麦の栽培から、稲の栽培を中心とした農業へと変換していったのもこの時代でした。アーリヤ人は移動した土地で農耕に従事する先住民と交わって学び、農耕定住社会をつくりだしました。そして、ここで思い出してほしいのは世界史の初期の頃の講義です(第2回参照)。農耕社会において、農産物の生産に余裕がでてくると王侯や司祭などの生産に従事しない支配者層が生まれ、強い政治的権力をもつようになっていくのでした。そして、徐々に支配者と被支配者の経済格差が生まれていきます。支配者層と被支配者層の確たる差が形として表たのがヴァルナ制という身分制度です。一言でいえば、アーリヤ人が先住民と交わっていくなかでつくられた身分的上下観念です。この制度についてはまた次回に詳しく述べることにしたいと思います。では、今回はここまでにしましょう。

 


【参考】本の紹介



多様かつ独特なインドの思想、文化はどのように生み出されたのか。古代インド文化のあらましをインドの地理的条件と丁寧に関連づけながら解説しています。 

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