田宮克哉さんが亡くなられました。
88歳というお話です。
私がお会いしたのはたぶん5回ほどでしょうか?
(もうちょっと多いかも?)
田宮さんは関西詰将棋ファングループを立ち上げたのは昭和30年代ですか。
詰将棋の会合の先駆けと言ってもいいでしょう。
その関西詰フグが、壮棋会から創棋会となったのは有名な話ですね。
確か明石で子供の詰将棋を募集し、あの山本昭一さんを発掘し育てたのではなかったでしょうか。
その後、田宮氏は関東圏に引っ越しをされました。
三鷹では詰将棋大会(パラ2011・4月号サロン参照)を開催し、さらに詰朗会を立ち上げました。
我孫子に引っ越しされてからはあまり活発な活動をしなくなったのかもしれません。
詰朗会は森田正司氏に引き継がれました。
また田宮氏は詰将棋規約にも多大な関心を持っておられ、パラ誌上にも投稿していましたね。
パラ誌上が乱れるのを嫌って、参加者を募って「詰棋討論」というコピー誌を立ち上げました。
私は読んでないのですが、確か「討議の土俵に上がるための議論」というのを延々とやっていたハズです。
どういう結末になったか、私は知りませんし、たぶんもう知らなくてもいいと思います。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
88歳というお話です。
私がお会いしたのはたぶん5回ほどでしょうか?
(もうちょっと多いかも?)
田宮さんは関西詰将棋ファングループを立ち上げたのは昭和30年代ですか。
詰将棋の会合の先駆けと言ってもいいでしょう。
その関西詰フグが、壮棋会から創棋会となったのは有名な話ですね。
確か明石で子供の詰将棋を募集し、あの山本昭一さんを発掘し育てたのではなかったでしょうか。
その後、田宮氏は関東圏に引っ越しをされました。
三鷹では詰将棋大会(パラ2011・4月号サロン参照)を開催し、さらに詰朗会を立ち上げました。
我孫子に引っ越しされてからはあまり活発な活動をしなくなったのかもしれません。
詰朗会は森田正司氏に引き継がれました。
また田宮氏は詰将棋規約にも多大な関心を持っておられ、パラ誌上にも投稿していましたね。
パラ誌上が乱れるのを嫌って、参加者を募って「詰棋討論」というコピー誌を立ち上げました。
私は読んでないのですが、確か「討議の土俵に上がるための議論」というのを延々とやっていたハズです。
どういう結末になったか、私は知りませんし、たぶんもう知らなくてもいいと思います。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。