中東一の善人サーメル

運営者情報
ワンワールド。それは、1年間FIXの世界一周航空券である。一年で世界一周するのは時間的にかなり厳しい。しかし、その時間制限が有ってこそ光り輝く何かがある。いわば、ワンワールドで旅をするということは、ある一つの作品を作り上げるのと同じこと。みんなそれぞれの旅がある。これはそんなワンワールドを利用し、どこまでできるかチャレンジした365日間の記録である。
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  • サーメルという男  2007年10月02日
  • サーメル・ストーリー1  2007年10月02日
  • サーメル・ストーリー2  2007年10月02日
  • サーメル・ストーリー3  2007年10月02日
  • サーメル・ストーリー4  2007年10月02日

サーメルという男

サーメルという男。

アンマンのクリフホテル。
日本人ご用達のこの宿は、イラクでの日本人ジャーナリスト誘拐事件で有名になった。彼らが解放されたあとに戻ってきたのはこの宿だった。そして、もう一つ。あの、イラクでの香田さん殺害事件だ。彼はイラク入りする前日、このクリフホテルに泊まっていた。とある元総理の「たかがバックパッカー一人」発言のように、一般には、ただのバックパッカーが興味本位や武勇伝作りに無茶やったと思われているが、実のところは、そうではなかったようだ。もっともっと、何か強い意志が有り、その為に彼はイラク行きを決めた。結果彼は殺されてしまったが。そこらへんの細かい事情は、プライバシーにも関わるし、憶測の域を脱さないので割愛するが、イラク行きは彼にとって大変重要なことだったようだ。当時、そんなことは何も知らないくせに、馬鹿な日本人もいるもんだ、なんて思っていた自分が恥ずかしい。しかし、僕も旅に出ることが決まって、中東の旅程を立てるようになってから、彼は本当に何の理由もなくイラクに行ったのか?そう思うようになった。その疑問が、ここクリフホテルにきて、少し解けた気がする。

そして、そんな彼のイラク行きを止めようとした男がいた。
クリフホテルの従業員、サーメルだ。
“中東一の善人”
そんなあだ名を、僕は南米に居る時から何度も耳にしていた。
大勢の旅人から、中東へ行ったらサーメルに会ってと言われた。

「もの凄くいい人だから」

誰もが口をそろえて同じことを言っていた。
今年9月に発売した、『地球の歩き方・ヨルダン・シリア・レバノン』を見てほしい。アンマンの宿情報のところに、クリフホテルが載っている。普通、ここには宿についての情報が載せられるが、ここクリフの情報に関しては、サーメルのことばかり書いてある。ホテルはボロいが、サーメルの人気でもっている、と。そもそも、クリフの紹介タイトルの部分が、「親切な従業員さん」と書かれている。こんな宿紹介見たことがない。そもそも、ほとんど宿の紹介ですらない。

そのサーメルにとうとう出会った。
ほんとうにいい奴だった。
僕らが到着すると、ネスカフェを出してくれた。話に聞いていた通りである。必ずネスカフェかジュースをおごってくれると。最近会った旅人達にも、食事をおごってもらったとか、いろいろな噂を聞いていた。

「あなたに会いに来た」

そう伝えると、サーメルはとても喜んでいた。

まったりスペースに、日本人が作った「サーメルありがとうブック」というものが有り、それを読むと、今まで世界各地で出会った友達の名前がたくさんあった。みんなサーメルのお世話になっていた。それを読んでいる間も、コーラを頂いた。

物腰も丁寧だし、めちゃくちゃ優しいし、すごく世話を焼いてくれる。すっかり仲良しになった僕らに、アンマンに居た半月のほとんど、夕飯を作ってご馳走してくれた。毎回、なけなしの給料の数割分もする肉などをふんだんに使ってくれた。こちらがお金やお礼を渡そうとしても、絶対に受け取らない。なんでこんなに親切にしてくれるの?・・・その答えは、ありがとうブックの一番後ろに貼り付けられた別紙により明らかになった。

『サーメル・ストーリー』なるタイトルの旅行者によって書かれた冊子。
これには、サーメルの生い立ちや、彼の考え、そして、香田さんについて彼がしたことが書かれている。これは、彼が実際に語ったことを、旅人達が少しずつ翻訳して文章に起こしたものである。
その本を読んで、彼が僕達にひたすら優しいわけが分かった。

幼い頃から母親による差別を受け、家から逃げるように職を転々としたサーメルは、ここクリフホテルで働き始める。そして13年間、24時間休みなしで働き続けている。
そして、このホテルは、まさにパレスチナ問題の縮図とでも言える状況になっている。
パレスチナ人のサーメルを雇っているのは、5人のイスラエル人オーナー達で、サーメルは彼らをとても恐れている。奴隷のようにこき使われ、ベッドさえ与えられていない。13年間硬いソファーで寝ている。給料は最低賃金並み。いつもは明るいサーメルも、オーナーが姿を現すと、たちまち萎縮してしゃべらなくなってしまう。そんな状況で13年間我慢し続けていた。

そんな彼の心を癒したのが日本人旅行者だった。
欧米人と違い、日本人は帰国後もお礼の手紙などをくれたそうだ。それで、日本人の温かさに心を打たれた彼は、いつの間にか日本人に対し、フレンドリーに接するようになった。そんな矢先、あの香田さんの事件が有り、彼を止められなかったことに悩み、苦しみ、それからますます日本人に親切に接するようになったそうだ。彼なりの罪滅ぼしのつもりなのかも知れない(まったく彼に責任はないのだが)。

オーナーが居ないときに、一緒にバックギャモンやトランプをした。
いろんなお願いしちゃったし、何十杯ネスカフェおごってもらったことか。
彼のネスカフェは、普通の粉末をお湯に溶かしただけのものだが、何故かとても美味しく感じる。彼の真心がこもっているのを、これを飲むとよく分かる。
中水夫妻と共に、他の日本人にも内緒で、スペシャルディナーを何度も食べさせてくれた。
いつも笑顔で迎えてくれたサーメル。

そのサーメルが、9月30日をもって、クリフホテルを辞めた。
10月1日から、彼がオーナーとなる『KODAホテル』に籍を移すためだ。
今まで何度も移動の話はあったが、ことごとくオーナー達に潰されてきた。しかし今回は、ダミーの情報ノートを作ったり、トップシークレットにしたり、フライヤーを作ったりと、多くの旅人達が協力して、とうとう実現した。
一週間ほど前、ずっといえなかった「辞める」という言葉をオーナーに伝えてから、なにかと言い争いが絶えなかったが、気弱なサーメルなりにがんばって、辞める意思を伝えた。

オーナーになると言っても雇われオーナーであって、給料は今までと変わらず+歩合。
その代わり、好きな時に休みがとれて、あの恐るべきオーナー達も居ない。そして、13年ぶりにベッドで眠ることができるし、好きなだけ日本人と話ができる。
客寄せパンダのようだが、彼にとっては最高の空間になった。

サーメル移籍前日。最後の夜。AM2時。
みんな先にKODAホテルに移り、がらんとしたホテルのロビーで、電気を消し、ソファに横たわってテレビを見ているサーメルの姿があった。いつもなら爆睡しているはずだが。

「サーメル、眠れないのか?」

そう聞くと、

「NO!大丈夫」

と。その顔は笑顔だった。

「本当によかったね」

そう言い残し、がっちり握手をして、僕も部屋に戻って寝た。

9月30日は、彼のクリフホテルで2回目のお休みとなった。とはいっても、初めての休みは半日だけだったようだが。
そして、彼の希望で、僕らは人生3回目の死海へと出かけた。
いい加減飽きた感はあるが、嬉しそうなサーメルが見れたので良かった。
帰ってきてからKODAホテルにて、パーティーが行われた。
彼の為に多くの日本人が集まった。
もちろん、今朝サーメル最後の客として、一緒にクリフホテルを出てきた僕らも参加した。
本当に嬉しそうだった。
2,3泊しかしないつもりだった、何にも無いアンマンに、2週間以上滞在した甲斐があった。どうしても彼の門出が見たかったし、彼からもそうしてくれと何度も頼まれた。
なので、これこそ最大の恩返しになると思った。ちょうどインドビザもここで取れたので、旅にはそれほど支障をきたしていないので、サーメルも安心してくれた。

簡単なフライヤー的なホームページを作ってプレゼントした。
そこにサーメル・ストーリーをデータ化して載せてあげた。
とても喜んでくれた。
そして、このいろいろなことが有った日本人ご用達宿は、ある意味、その歴史に幕を閉じた。

そして、10月2日。とうとうサーメルとお別れの日がやってきた。

「明日出るよ」

そう伝えると、それまで新ホテル移籍でうきうきだった彼は、いきなりがっくりと肩を落とし、

「寂しい…」

と言った。

僕らが荷物をまとめ、レセプション前の共有スペースで最後のおしゃべりを済ませ、新しく作った『サーメルありがとうブック・KODAホテル偏』と『自作指さし会話帳・日本語』を渡し、

「サーメル。チェックアウト、プリーズ」

というと、彼は泣き出してしまった。

「おいおい、客が出て行く時に泣いちゃうオーナーがいるかよ!」

って言っておいたけど、別れを惜しんで泣いてくれるオーナーがいるような宿など他にはないし、正直嬉しかった。こういうオーナーが一人くらいいても良いのかも知れない。

僕らが出た翌日、クリフのオーナーに居場所がばれ、スパイが送られてきたり、サーメル引き戻し作戦が行われたりと、まだまだ問題はたくさん有るけど、新しい場所で、サーメルにはがんばってほしい。

遠く離れた中東の地に、かけがえの無い友達ができた。

自分の置かれた悲惨な状況を恨むでもなく、かけねなしに、人に優しくする彼の姿は、僕らに、忘れていた何かを思い出させてくれた。

サーメル、本当にありがとう。

いつの日か、また…


http://samer.web.fc2.com/i/index.html
↑KODAホテルHP。iモード対応。
サーメル・ストーリーを掲載してあるので、時間のある方は是非お読み下さい。
僕らの知らない、パレスチナ問題やあの事件のことが少し分かるかも知れません。



写真;
1.クリフホテルにて1



2.サーメルとツーショット2



3.こっそりサーメルメシ3



4.いつも豪勢なサーメルメシ4



5.さすが元料理人。旨い5



6.いつも中水夫妻と共に、こっそりサーメルにメシもらってた6



7.ホッシーとも再会。一緒に記念撮影7



8.クリフホテルを辞めていいですよ、と書いて有るらしい。大喜びのサーメル8



9.罰ゲームで踊りを躍らせてみた9



10.メグと3人で10



11.すっかり仲良くなった11



12.ノリ君のバックギャモンはサーメル直伝12



13.サーメル、大事なもの入れ13



14.サーメルといえばネスカフェ。14



15.クリフホテル、最後のサーメルネスカフェ。コレに癒された旅人数知れず15



16.サーメル「KODAホテル」移動パーティーのメシもサーメルが作る16



17.パーティーに集まった大勢の日本人旅行者。国外から駆けつけた人も17



18.僕らからは、バックギャモンをプレゼント18



19.さっそくやってみる。サーメル大喜び19



20.他団体より、ダーツをプレゼント。またまた大喜び20



21.KODAホテルの(雇われ)オーナーサーメル誕生。頭上には、香田さんの遺影21



22.何度目かのサーメルメシ22



23.今日もサーメルメシ。絶対に金もお礼も受け取ってくれない。23



24.今回最も長くお世話になった面々。中水夫妻は、その後エジプトに行ってから、またサーメルに会いに戻った。24



25.3度目の死海。最早死海マスター25



26.死海ではしゃぐサーメル(モモちゃん写す)26



27.サーメルも浮くが、ビビリまくってた(モモちゃん写す)27



28.この表情を見ると、なんかこっちも嬉しい(モモちゃん写す)28



29.ほぼみんな3回目の死海。これがサーメルへの恩返し(モモちゃん写す)
29




サーメル・ストーリー1

※サーメル・ストーリーは、サーメルが直接語ったことを、彼にお世話になった大勢の旅人達が長い時間をかけて翻訳したものです。
原文はサーメルの持つ「サーメルありがとうブック」の一番最後のページに貼ってあります。
今回は、KODAホテルオープンのお祝いに、文章をデータ化してSDカードに入れてサーメルにプレゼントしておきました。
このサーメル・ストーリーを多くの人に広めてほしいとの彼からの願いを受け、ここに掲載します。
ほぼ原文そのままの内容で掲載しております※



サーメル・エルハメーディ
1974年7月8日
アンマン・ヨルダン生まれ
ヨルダン・パレスチナ人

サーメル・ヒストリー


父が話してくれたことによると、パレスチナにいた私の祖父がヨルダンに移ったのは、1948年(第一次中東戦争)のこと。それまではイスラエル北部、ハイファのソパリンという小さい町に住んでた(今はソパリンという名の町はなく、別の名前になっている)。

当時、私の父の年齢は7才、祖父の職業は不明。
イスラエル軍の攻撃から逃げ、祖父らはアンマンに移った。
その後イスラエルが独立を宣言。
イスラエルとヨルダンの間に国境を作ってしまい、祖父ファミリーはパレスチナに戻ることができなくなってしまった。
パレスチナは私の祖国なのに、渡航にはビザが必要になってしまった。
その時パレスチナ、ヨルダンに親戚がいたり、たまたま離れていた家族は、そのせいで引き離されてしまった。私の母と、母の姉がそのパターンで、1948年当時、母の姉は14才。母は7才だった。
家族、親戚がパレスチナから出るとき、母の姉はひとりアンマン行きを拒み、パレスチナに残った。彼女はその時、パレスチナに好きな男性がいたので、彼と一緒になるほうを選んだのだ。

真相は不明だが、私の祖母と母が語ったことによると、イスラエル軍の仕打ちは本当に酷いものだったそうだ。

「本当は、傷ついても死んでもパレスチナを離れたくはなかった。でも、イスラエル軍は、略奪、殺人、あらゆることをした。中でも酷かったのは、若い女性に対するもので、若い女性をつかまえ、裸にしてトラックに積んで道に立たせるというもの。レイプもあった。ムスリムの女性にとって、このような仕打ちは死ぬより辛いもの。でも逃げることも助けることもできなかった。布をかけてやるだけで撃たれてしまう。ここまでされるのなら、もう逃げるしかない。出て行くしかない。」

それから60年近く経つけれど、戦いは終わっていない。

2年前、パレスチナ自治区北部、ナプレスに住む母の姉に電話を架けた。
パレスチナ訪問のビザを取るためにパレスチナ住人の助けが必要だったからだ。
叔母は、

「残念だけど、手伝ってあげられない」

と言った。
4年前のアル・アクサ・インディファーダ(対イスラエルのパレスチナ人の戦い)により、4人の息子のうち2人が死に、2人が投獄されているのだという。

「今、私の家族の状況では、ビザのサポートとして問題があるから」

叔母はそう言った。


家族の話をしよう。
父と母とは遠い親戚で、同い年で幼馴染のようだった。
17才の時に結婚、アンマン郊外に小さい家を建て、3年後に長男ハッサンが生まれた。
父はエレクトリック(電気器具の修理が主)として忙しく、週に1,2度しか家に帰って来れないほどだった。
それでもお金は沢山得られたので、アンマンのダウンタウンから少し離れたところに、大きな家を買った。
そこで三男、四女をもうけ、私たちはそこで暮らした。
私は8人兄弟の4番目。
長男ハッサン、次男アベット、長女サウサン、私サーメル、妹スーハ、妹ハイファ、妹タハニ、そして末の四男フィクリ。

その家で私は18年暮らしたが、その生活は必ずしもハッピーというわけではなく、母は上の兄二人を特に可愛がっており、姉のサウサン、二人の妹スーファ、ハイファ、そして私のことはどうでもよかったようだ。
末の妹タハニと、弟フィクリが生まれ、やはり老いてからの子供は可愛いのか、その二人のことはとても可愛がった。
兄弟間で母から差別を受けるのは、辛いことだった。

母は衣服、身の回りの持ち物、食べ物などで差別をした。
普段から私と姉、妹は、充分な食べ物を与えられなかった。
母はとにかくお金に対する執着が強く、父がちゃんとお金を与えているにも関わらず、食事はごく質素で、さらにかわいがられている兄達の食事より、私や姉、妹の食事は少なかったので、木曜日と金曜日以外は、ひもじい思いをした。

木曜日と金曜日は、きまってご馳走だった。父が帰ってくるからだ。
母は父に見えるところだけ、取り繕うようにお金をかけ、私たちにも綺麗な服を着せ、普段からそうしていたかのようなふりをするのだ。
楽しいはずのラマダン明けの祭りでさえも、私にとっては辛いものだった。
父が帰ってくるのは嬉しい。
しかしラマダン明けの祭りの数日間は、たくさんの食べ物をそれこそ食べきれないほど用意しなければならなかったので、お金を使いたくない母としては、そうとう面倒で嫌だったらしい。
母は本当にささいなことで、あるときは理由もなく、私や姉、妹をののしり、棒で打った。
もちろんそれは父のいないところでだったが。

私が12才になるころには、父と母との間に、言い争いが絶えなくなった。
私や姉妹は、学校が大好きだった。学校にいれば友達もいるし、大好きな勉強もできる。何より母に辛くあたられることもないし。父と母が言い争うのも見ないですむ。
家に帰りたくなくて、私たちはよく家出をした。

「もう帰らないからね!」

という私たちを母は止めなかった。
しかし、行く当ても無く、いつも警察に保護されてしまい、そんな私たちを迎えにくるのはいつも父の役目で、父のいないときには、兄が渋々くるといった感じだった。
母が私たちを迎えにきたことは一度もなかった。
そんな中、母の妹が私たちのことをかばい、たまにではあるが、家出をすれば少しの間、泊めてくれたり、食べ物を与えてくれた。彼女は私たち兄弟8人を分け隔てなくかわいがってくれた。
父や親戚は、たまにお土産を買ってきてくれたが、私や妹の手に渡ることはまれだったし、母は父がくれた1DJ(現在約160円)の小遣いさえ取り上げた。
ある日父は私へと、腕時計を買ってきてくれた。
私はとても嬉しかったが、父がでかけた途端、母はそれを私から取り上げてしまった。
きっと母は、その時計を兄にやってしまったのだと思う。
ある日母からの仕打ちにたまりかねた妹スーハは、母が普段、自分たちに少ししか食べさせてくれないことや、私たちに対する暴言、兄達との差別、今までの仕打ちを手紙に綴り、父のカバンにそっと忍ばせたが、それを見た父は

「この手紙に書いてあることは本当か?」

と、母に見せてしまい、さらに母の怒りを買い、母は私たちをよりいっそう憎むようになってしまった。
手紙については、父は母に

「あなたに家にいてほしくて言った嘘だ」

と巧く言いくるめられ、信じてもらえなかった。
私たちは、父が別の仕事についてくれることを願った。

「父さんが仕事を変えて、毎日家に帰ってきてくれたらいい。そしたら毎日ご飯を食べられるし、母さんも私たちをいじめない。早く大きくなって、結婚してしまいたい。そうしたらこの家を出て行ける」

その言葉どおり、二人の妹スーハとハイファは、エジプト人と結婚し、今はエジプトに住んでいる。
姉サウサンは、ヨルダン人と結婚したものの、わずか一ヶ月で結婚生活は破綻した。
姉サウサンと妹ハイファは、父が決めた男性と結婚したが、スーハは自分で結婚相手を決めたため、父の怒りは大変なものだった(今は許している)。

15才で学校を卒業してから、3年間職を転々としながら働いた。
車修理工場、プラスチック工場、靴の修理屋…。
仕事はとてもハードで、賃金は低かった。
しかし母は給料のほぼ全てを渡すように要求し、私のところには、毎月5DJ(現在約800円)くらいしか残らなかった。
交通事故で、右足に怪我をしてしまって、一年間働けなかったときもある、そんなときでさえ、母は何もしてくれなかった。
母とのいい思い出は…そういえば一つも思い出せない。
友達を家に連れてきて遊ぶということも、兄には許されていても、私たちには許されていなかった。
大家族の中に在りながら、私も姉も妹も孤独だった。

父との思い出は、父はとても明るく社交的で、母とは対極の人だった。
よく家に沢山の人を招いてパーティーをして。それは楽しかった。
忙しい中、休みの日には父は私たちを紅海やヨルダンバレーに旅行に連れて行ってくれた。
母は決して行かなかったし、母が止めたのか、兄もあまり行かなかったが。
私や妹は、父とでかけるのが大好きだった。
本当に楽しかった。
父はずいぶん後になって、母が私たちにしたことを知ったらしい。

「あの時助けてやれなくて、気付いてやれなくてすまない」

父は私たちにそう詫びた。

19才の時、クリフホテルで働いていた知人が、

「お前もここで働かないか」

と誘ってくれて、私はこのホテルで働くことにした。
給料は良くないけれど、母のいる家に帰らなくていいし、事故で悪くしてしまった右足のせいで、他の職業にはなかなかつけなかったからだ。

クリフホテルに来て、四年ほど経った頃、私は精神的に不安定になっていた。
アンマン、この大都会で、一人ぼっちになった気がした。
友人も本当に心を許せるものはおらず、母のいる家には帰れない。
父にも妹にも会えない…。
そんな中、ある日私は戸棚に薬を見つけ、何の薬だか分からないが、とにかくいっきに大量にその薬を飲んだ。

「薬をたくさん飲んだら、死ねるかもしれない…」

そう思ったのだ。
しかし薬を飲んでも気分が悪くなり、意識が朦朧とするだけで、まったく死ねそうになかった(胃薬だったのかな?)。
そんなことを何度か繰り返し、私は自分自身を傷つけてばかりいた。

「私が死んでも誰も悲しみはしない…」

そう思っていた。
アンマンは本当に都会だ。
こんなにたくさんの人がいるのに、ここでも私はやっぱり孤独だった。
そんな時が何年か続いた。


クリフホテルにはあらゆる国から旅人がやってきた。
フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ…。
冷たい人もいたし、優しい人もいた。
もちろん旅人からしたらアンマンなど旅の中継点でしかないだろう。
でもそんななかに温かい心が有るのを感じた。
通り過ぎた後には忘れていくだけのはずのこの宿に、私宛に「元気?」「ヨルダン楽しかったよ」と葉書や手紙をよこす旅人がいた。
礼儀正しく、優しく、明るい。
振り返ってみると、私に優しい言葉をかけてくれり、微笑んでくれていたのは、遠い東の小さな国からの小さな旅人達だった。
私たちアラブ人と同じ、黒い瞳を持つ日本人。
私は彼らといて、“ああ、家族みたいだ”と思った。
何故だか分からないけど、不思議と日本人の旅人とは、心から打ち解けあえたのだ。
フランス人やイギリス人は、ここを離れるとぷつりと連絡が途絶えてしまう。
でも日本人の多くが、この宿を離れる前に、ノートに思い出や「ありがとう」の言葉を残してくれた。
離れても忘れない、遠くても思い出す、やっぱり私はこれは「家族のようだ」と思わずにはいられない。
私のために泣く人もいた。
私のために怒る人もいた。
私のために必死になる人もいた。
みんな、

「サーメルはどうしてそんなに優しいの」

と言うけど、私にとってもそれは同じ。
知り合って間もない私に、こんなによくしてくれて、こんなに思ってくれるのだから、私も私のできることを、大切なファミリーにしてあげたい。
私には帰る家もないし、家族もばらばらになってしまったけど、私はここで、自分の場所と血の繋がらない兄を姉を、弟を妹を、たくさん得られることができたから、だから私はとても幸せだよ。だってすごいbig familyだよ。

今日もどこからか私の兄弟がやってくる。
私はそれがとても嬉しい。
長旅に疲れてやっと家にたどり着いた弟や妹に、ソファで休むように促し、ご飯を食べさせたり、お茶やコーヒーを煎れることはごく自然なこと。

私は誰もが家族に対し、当然することをやっているだけだ。

キミたちが旅を終えて日本に帰ったとき、キミの父や母はどうやってキミを迎えるだろう。
姉や兄、妹や弟たちは、久々に帰ってきたキミのために何をするだろう…。
私はいつもそんな気持ちで、今日も重い荷物を背負い、不安げな表情で

「今日部屋はありますか」

とクリフホテルの扉を開く、日本人を待っている。(日本食は出してあげられないけどね)
荷物を下ろし、ソファにかけて、暑いネスカフェのカップを手に、キミたちがほっとした表情をするのを見ると。こっちまでほっとする。

「お帰り、ようこそクリフホテルへ!」

そしてクリフホテルで休んで、地図をみて、また元気に旅立っていく、私の弟たち妹たちよ、どうか無事、旅を終えて、日本に帰ってほしい。
そして私のことを思い出して、いつかまたきっとヨルダンにも来てほしい。
いつでも帰ってきていいよ、ここはキミの家でもあるのだから。


そして私はいつも、帰らない弟、コーダのことを思う。
コーダはレセプション裏の狭いバルコニーから、アンマンのつまらない通りを眺めていた…。
今でも思い出せる。
ソファーでノートを見ていたコーダ、部屋へ向かう後ろ姿、クリフホテルから出て行ったあの日、ターミナルからバスに乗り込んだあの時のことを。。。





サーメル・ストーリー2

        〜日本人について思うこと〜


私は日本人を家族のように思う。
今の私があるのは日本人のおかげだ。
以前まで私の気持ちは暗く沈んでいた。
二年前、コーダがこのホテルを出てイラクから帰って来れなくなったからだ。
私はとても悲しかった。
服毒自殺も図った。
そんなすさんだ時も、日本人旅行者の温かさに助けられた。
今、私が生きていられるのは日本人のおかげなんだ。
もちろん、他の国の旅行者達も好きだ。
でも彼らは自分の国に帰ったら私のことは覚えていないだろう。
でも日本人は連絡をくれる。
まるで家族のように。
家族に恵まれなかった私には、日本人が家族なんだ。

16才の時足を骨折したが、検査のため病院に行く時も、母は付き添いはおろか、タクシー代も出してくれなかった為、片足を引きずって通院した。
また母は機嫌が悪いとき、よく私にあたった。
食事がでなかったり、家を追い出されるときもあった。
路上で泣く私に人々は声をかけるが、私は

「なんでもない」

としかいえなかった。((←おそらく母親からの報復が怖かったのでは?))

多くの日本人は私と同じように悩みをかかえているように思う。

悲しく思う。



サーメル・ストーリー3

         〜香田証生さんについて〜


2004年10月19日、16時頃にアラブ人の男(タクシードライバーだと思う)からクリフホテルに電話がかかってきた。

「日本人があなたのホテルに行きたがっている。住所を教えてくれ」

その5分後にドライバーと一緒にコーダはクリフホテルにやってきた。
彼は初めイラクの話などせず、ただ「ドミトリーに泊まりたい」と言ったので((←ここら辺のやりとりは、下川さんの本の記述と食い違いますが、サーメル本人の話をそのまま書きます))、私は彼を部屋へ案内して、宿帳に彼の名前を書いていた(チェックイン)。
すると突然、彼が

「今からイラクに行きたい。どこからセルビス(乗り合いタクシー)が出ているのか教えてほしい」

と言い出したんだ。
私は、

「セルビスで行くのは危険すぎる」

と答えた。
セルビスで行くのはツーリストしかいないから、狙われる危険があるからだ。
するとコーダは、

「I have to go.」

と言ったんだ。

理由を尋ねると、

「イラクの子供達を助けたい…イラクへ行って何が起こっているのか、自分の目で見て、日本に帰ったら、人々に伝えたい」

と。私は、

「もし本当に行きたいのなら、バスでしか行けないよ」

といい、彼は

「OK 今から予約して下さい」

と。
私は本当は予約しようと思えばその時すぐにできたけど、彼を止めるチャンスがあるとまだ思っていたから、

「もう今日は遅すぎて予約はできないよ」

と嘘をついた。彼は、

「じゃー明日のバスを予約して下さい」

と言って部屋へ戻っていった。
コーダが部屋から出てきて、サンドイッチを買いに行って、レセプション裏のバルコニーで、食べていたのが16時半頃。その後部屋へ戻って、少ししたらロビーの本棚の前に立って、情報ノートを見ていた。
そしてまたすぐに部屋へ戻っていった。
彼の様子は他の旅行者と違って見えた。(何か考え事をしているような…)

数十分後に、また部屋から出てきて、バルコニーで長い時間座って、通りを眺めていた。
私は彼のことが心配で、話しかけたんだ。

「まだイラクに行きたいと思っているの?」

って。

彼は真剣な顔で、

「YES」

と答えるだけだった。
その時、クリフに泊まっていた男の人の一人に、コーダと話をしてくれるようにと頼んだ。
日本人と話すことで、コーダがイラク行きを止めようと思ってほしかったから。
その人がバルコニーに行って、コーダと話をしていた。
私は何かジョークを言って彼を和ませようと、

「まだ気持ちは変わらない?もし本当にイラクへ行ったら、アルジャジーラ(カタールの衛星テレビ局のニュース)に出ることになるよ」

と冗談のつもりで言ったんだ。
もう一人の日本人の人は笑っていたけど、コーダは笑顔を見せなかった。
少し怒ってしまったようだった。
その後もコーダとその日本人は、長い時間話をしていた。
二人が話し終わったあと、その日本人は私に、

「彼はイラクにどうしても行くと言っている。だれも彼を止めることはできないよ」

と言った。

次の日(10月20日)の朝、10時頃にコーダは起きてきて、

「予約してくれましたか?」

と聞いてきた。私は、

「18時のバスを予約しておいたよ」

と答えた。けどこれは嘘で、本当は予約なんてしていなかったんだ。
まだ彼を止めるチャンスがあると思っていたから。
12時にチェックアウトしてから、ロビーのソファーに座っていた彼に、何度も

「まだイラクに行きたい気持ちは変わらないの?」

と尋ねたけど、

「変わらない。」

と。もし本当にバスを予約するなら、14時までにする必要があったから、14時前に最後にもう一度尋ねた。
それでも彼のイラク行きの意思は変わらなかった。
それで仕方なくバスの予約をしたんだ。
彼を止めることはできなかった。
コーダが14時過ぎか15時頃に、

「イラクから戻ってくるまで預かっておいてください」

と私にある物を渡してきた。
それは死海で拾った石とタオル、そしてイラクの子供の写真だった。
写真は10枚くらい有って、戦争で傷ついた子供達が写っていた。
コーダは、

「日本人からもらった」

と言っていた。
彼が亡くなった後、彼の家族にその写真を全部送ったら、そのうちの一枚のコピーと、コーダの写真を送ってくれた。(サーメルありがとうブックに貼ってあります)
送られてきた写真の子供はまだましで、もっと酷い状態の子供の写真ばっかりだったよ。
コーダはこういう子供たちのために、何かしたかったんだと思う。
コーダは出発までの時間、少し外に行った以外は、ずっとロビーで情報ノートを読んでいた。

17時頃に、日本人の男の人(昨晩香田さんと話をした人)と一緒にコーダをバスターミナルまで見送りに行った。彼は、

「アッサラーム、さようなら」

といって、バスに乗り込んで行ってしまった…。

彼を見送った2時間後に、日本大使館に電話をすることにした。

「2時間前に日本人、コーダショウセイがイラクへ向かいました。まだ国境に着いていないはずです。もし可能なら、彼を止めてほしい。」

と伝えたら、

「お電話ありがとうございました。また何か分かり次第教えてください」

とだけ言われたんだ。
その後バクダットのホテルで働く知人に電話をして、日本人がホテルに来たかどうか聞いたら、来ていないといわれた。
そのホテルをコーダに教えていたから、必ず行くだろうと思って、しばらくしてもう一度電話をしたら、

「確かに日本人が着たけど、身の安全を保障できないし、ホテルが狙われる危険があるから、止めてあげられなかったんだ」

と言われてしまった。

26日の夜中、12時くらい(日本時間27日)に、国連の人(サーメルさんとは昔からの知り合い)から電話が架かってきて、

「日本人がイラクで人質になりました。アルジャジーラかNHKを見て下さい」

といわれてテレビをつけたら、そこには武装集団に囲まれたコーダの姿が…!!
とても驚いてショックだった。ザルカウイ率いるアルカイーダに捕まったと知って、

「もしアルカイーダが要求している時間内に、日本政府が何もしなければ、彼は間違いなく殺されてしまう…」

そして、

「日本政府は何もしないだろう…」

と思って絶望的な気分になった。
その後日本政府(外務省)からクリフホテルに人が来て、私にコーダのことをいろいろと質問した。
けれど半年前に、タカトウさんたち3人が、イラクで人質になったときは、外務省、自衛隊、ヨルダン政府の人もクリフに何度も来て、もっといろいろなことを聞かれたし、とても慌しい雰囲気だったよ。
けど、コーダの時はそんな感じではなかった。
多分3人の時と同じように、助かるだろうと、殺されることはないだろうと考えていたんじゃないかな。けれど私は、

「危ない…」

と思っていた。
つかまったアルカイーダのグループが、危険過ぎたから。
その後、

『アジア人の遺体発見』

という報道が2回あったけれど、コーダではなかった。
だけど30日の22時に、ニュースで彼の遺体が発見されたことを知った…。
日本大使館からも、電話が架かってきて、彼が殺されたことを知らされたよ。
その二日後に、彼の家族から電話があって、私が誤ると、

「あなたのせいではないですよ」

と言ってくれた。
私はコーダが殺されてしまったと知った時に、心の中で誓ったんだ…。
いつか私の夢である、自分のホテルを持てる日が来たら、ホテルの名前に、彼の名前を入れようと。
そして絶対に彼を忘れないと。
数ヵ月後、日本大使館に電話をして、彼の家族に、

「ホテルの名前をKODA HOTELにしたい」

と伝えてくれるように頼んだんだ。そしたら一週間後に、彼の家族から、

「いろいろありがとうございました。ホテルを作るときに、KODAでもSHOUSEIでもどちらでも使って下さい」

というような内容のFAXが届いた。
だけどその後ヨルダンの役所に、「コーダホテル」は許可できないと言われてしまった。((個人名orあの事件がだったから?))
実際受け継ぐ予定のMANSUR HOTELから名前を変えて、再登録するには、いろいろな手続きと、時間、費用がかかってしまうんだ。
それはあまりにも大変なので、ホテル名はそのままでスタートして、いつか余裕が出来たら、「KODA HOTEL」に代えられるようにトライするつもりだよ。
だけどもしオープンできたら、すぐにホテル名の下に日本語で、「コーダホテル」か「香田ホテル」と書こうと思っている。((日本語なら役所に分からないから))
彼のことを一生忘れないように。

そしてみんなにも彼のことを忘れてほしくないんだ。





サーメル・ストーリー4

           〜パレスチナについて〜


イスラエルができるまでは、ヨルダンとパレスチナの間に国境はなく、人々は簡単に行き来できていた。
アンマンからアカバに行くように、同じ国内を移動しているような感覚だった。
ヨルダン人とパレスチナ人の間に違いはなかった。

1948年。
パレスチナに集まってきたユダヤ人は、アラブ7カ国と戦争をし、7時間で勝利し、イスラエルを作った。
イスラエルが国境を作り、戦火から逃れるために、国外へ出たパレスチナ人は、もう自分の国に帰ることができなくなってしまった。

他の国は分からないが、ヨルダンでは国連がキャンプを作り、家を建てるための援助もした。
家族ごとに、病気や怪我で病院へ行かなければならなくなったときに、無償で治療を受けられる書類も発行された。
そしてヨルダンへ逃れてきたパレスチナ人は、家を建て仕事をし、生活を始めた。
幸せに暮らしている家族もあるだろうが、私の叔母のように、パレスチナに残って、家族が離れ離れになってしまって、未だ再会できない場合が多い。

ヨルダンに住むパレスチナ人は、パレスチナを訪れるには、ビザが必要になる。
パレスチナに家族がいれば、ビザ発給のための書類を書いてもらえる。
それがあれば、比較的簡単にビザを取得できる。
私もパレスチナへ行ってみたい。
会ったことのない叔母を訪ねたい。

しかし私の叔母の四人の息子のうち、二人はイスラエルに逮捕され、二人は殺されてしまった。
彼らはインティファーダの活動に参加していないのに、何もしていないのに。
叔母には手助けしてあげられないと言われた。((政府にマークされているから。))
パレスチナの家族の手助けがない場合も、ビザを申請することはできる。
大使館へ行って申請し、規定の銀行でUS50ドルを振り込み、返事を待つ。
10回目の申請でOKをもらえるかもしれないし、100回申請してもだめかもしれない。
彼らはお金を振り込む前に、ビザをくれるかどうか決して教えてくれない。
私にはそんな方法はとれない。
金銭的に不可能だ。
パレスチナ側の人は、ヨルダンへ入国することは簡単だが、税金も移動費も高く、お金に余裕のある人しかできないから、60年経った今でも、離れたまま再会を果たせない家族はたくさんいる。

毎年2,3回は、叔母に電話をする。去年は2回した。
電話するたび、叔母は少し泣きながら、

「食べ物がない。夫の給料が少なくて、全ての物が高い。イスラエル軍がノックもせずに突然家に入ってきて、テロリストを探しに来る」

という。
何かしてあげたくても、私には何もできないのだ。



ほとんどのパレスチナ人はイスラエル政府、ユダヤ人のことが嫌いだ。
インティファーダが起こる6年前までは、クリフホテルにもユダヤ人のゲストがよく来ていた。
私はもちろんwelcomeともてなすが、実は内心気分はよくなかった。
でもユダヤ人のなかにも良い人はいる。
私には4人のユダヤ人の友達がいて、そのなかでも特に、アディルさんという人は、平和が好きで、パレスチナ人のことも好きだ。彼は今でも時々私に電話をくれる、とてもいい友達だ。

多くのパレスチナ人は、サダムフセインのことが好きだった。
イラクがフセイン政権のとき、サダムはパレスチナ人を助けていてくれたからだ。
パレスチナ人は、イラクに簡単に行くこともできた。
もしパレスチナ人が、イスラエルに対して自爆攻撃すれば、サダムのポケットマネーから、家族に2万ドル渡されていた。

6年前のインティファーダの時、確かパレスチナのラマッラーという町だったと思うが、アハマドドゥッラーという少年とその父親がイスラエル軍とパレスチナ人の銃撃戦に巻き込まれた。
父親は、アハマドドゥッラーを守る為に、打ち合いを止めようとしたが、父親はイスラエル軍に腕を撃たれ、息子は殺されてしまった。
アハマドドゥッラー親子を助けに来た救急車もイスラエル軍に撃たれてしまった。

サダムはアハマドドゥッラーの家族に、2万ドル払った。
当時はこういうことがよくあった。
私はサダムが、自爆攻撃をした人の遺族にお金を渡すのは、良い事だとは思わない。
しかし父を、息子を殺された彼らに、何ができるだろう。
武装したイスラエル兵に石を投げる?そんなことをしても意味がない。
自爆という方法しか彼らには残されていないのだ。

サダムが死刑になったとき、全パレスチナ人が悲しんだ。
私も悲しかったが、それはイラクでの殺し合いを止められるのは、サダムしかいなかったからだ。
サダムが死んで、イラクは終わった。
毎日100人もの人々が死んでいる。
スンニ派とシーア派の殺し合いだ。
サダムが悪い人間だったことは私も知っている。
クルド人がサダムを暗殺しようとしたときには、1000人以上のクルド人を殺した。

それでもサダムはベストだった。

少なくとも国は一つにまとまっていた。
イラクにはサダムのような強い力を持った人間が必要なのだ。
ヨルダン人の人口の70%はパレスチナ人だ。
そしてアンマンの住人250万人のほとんどはパレスチナ人だ。
だが政府関係者、公務員はほとんどがヨルダン人。
権力はヨルダン人が独占していると言って良いだろう。
パレスチナ人の公務員もいるにはいるが、ごく少数だ。
職業に就くのはとても難しい。
だから給料も、ヨルダン人300〜500DJ(現在4万8千円から8万円)/月に対し、パレスチナ人は、150〜200DJ(現在2万4千円から3万2千円)/月と、最低賃金の120DJ(17200円)より少し多い程度だ。

ヨルダン人とパレスチナ人は住む場所が違う為、学校も違う。
互いに嫌いあっていて、ヨルダン人はパレスチナ人の、パレスチナ人はヨルダン人の友達を作らない。
私もヨルダン人の友達はいないし、作ろうとも思わない。
ヨルダン人が怖いのだ。

例えば町でパレスチナ人とヨルダン人がケンカをしたとする。
警察へ行って最初の質問は決まって名前だ。
名前を聞けばヨルダン人かパレスチナ人か分かるからだ。
ヨルダン人の警察が気にするのは、どちらに非が有ったかということではなく、どちらがヨルダン人かということなのだ。
ヨルダン人に非が有ったとしても、警察は彼にコーヒーをサービスし、被害者のパレスチナ人には暴力を加える。
私は何回も警察署でその現場を見てきた。

それが殺人事件であったとしても、ヨルダン人にお咎めはない。
なぜならヨルダン人の家族には力が有って、警察は何もできない。
パレスチナ人の家族も何もできない。
ヨルダン人の犯人の家族から、お金を渡されれば、それを受け取り、黙っているしかない。
金すら受け取れないこともある。
私がヨルダン人の友達を作らないのは、そういった理由があるからだ。
近づかない方が身のためなのだ。
近づけば常にYESといい続けなければならない。
それに彼らの中には、銃を持ち歩いている人がいる。
違法だが、警察は何もしない。
でももしパレスチナ人が銃を持っていたら、大変な問題になってしまう。
パレスチナ人はそういう不公平な社会の弱い立場に置かれているのだ。

以前はパスポートに、ヨルダン、パレスチナ人と記載されていたが、2年前に「ヨルダン人」とだけかかれるようになった。
警察などで起こっているそういった問題を減らす為だ。
しかし名前や話し方、顔の色でヨルダン人かパレスチナ人かすぐに分かってしまう。
何の問題解決にもなっていない。

極少数だが、私の父のように、パレスチナ人がヨルダン人と結婚することがある。((サーメルのお父さんの再婚相手はヨルダン人))
でももし離婚したら、彼は彼の妻の家族に殺されるだろう。


パレスチナは私の祖国だ。
できるなら帰って生活したい。
しかし私が生きている間には実現しないだろう。
なぜなら、エジプトやシリア、ヨルダン、レバノンの国々は、パレスチナ人をパレスチナの地へ戻らせたくない。
多数のパレスチナ人が自分の国からいなくなっては、経済が成り立たなくなってしまうからだ。
それにあの国は、もうイスラエルになってしまっている。
今後も彼らは決してパレスチナ人に返そうとはしないだろう。
パレスチナの50%だけでいい、それだけの土地があればいい。
それでフェアだと思う。
追い出されたパレスチナ人がみんな、祖国へと帰れる日が来ることを願っている。

日本のみんなにはこういったことが、今も起こっていることを知ってほしい。
パレスチナ人はテロリストじゃない。
祖国で静かに生活したいだけだ。
平和が早く訪れることを願っている。

※ 2007/1にサーメルさんに聞いた話をもとに書きました。パレスチナの人々が安心して暮らせるような、世界になることを願っています。そしてKODA HOTELが早くオープンできますように。


※※ 2007/10/1 いよいよKODA HOTELオープン予定。