<関東学院高>1年男子36人がコンビニで万引き30万円“受験秀才”はいらない 新たに東大が求める学生とは

2015年03月14日

東大合格者速報!中高一貫校が強い理由

15年高校別ランキングと「いい学校」の条件


今年も東大合格者(前期分)が発表された。週刊誌各誌はこぞって「高校別」の合格者ランキング企画を組む。このときが1年でいちばん売れるのだそうだ。いかにも学歴好きな国民性にも思えるが、これは日本だけの傾向ではない。イギリスでも、オックスフォードやケンブリッジにどこの高校から何人が入学したという話題が、タブロイド紙の鉄板企画である。

3月12日発売の『サンデー毎日』2015年3月22日号(毎日新聞社)によれば、東大合格者をたくさん出した高校トップ5の顔ぶれはおなじみの面々だ。

 

 

 

トップ10までを見ても、圧倒的に中高一貫校が多い。これに対して、「中高一貫校は中学のうちから高校の内容までを先取り教育できるから有利なのは当然であり、フェアではない」という批判がときどきある。

しかし、この批判は的を射てはいない。


中高一貫校の利点は先取り教育ではない


中高一貫校では、高校受験がない分、中学生のうちは、目先の1点、2点にとらわれるような勉強をしなくていい。理科では実験に時間をかけ、社会ではフィールドワークやディスカッション、レポート作成に時間をかけられる。数学で、ひとつの証明問題にじっくり取り組むこともできる。点数を取るための英語ではなく、使える英語を身につけるための反復練習をする時間的余裕もある。「真のゆとり教育」が実践されているのだ。


「真のゆとり教育」によって身につく骨太な学力の土台があるから、高校の最後で、大学入試のための勉強を始めたときに、高い学力を積み上げやすい。中高一貫校では、単純に「先取り教育」をしているわけではない。受験に特化したスキルを与えているのではない。むしろ「名門校」と呼ばれるような学校ほど、教養主義を貫く学校が多い。

ちなみに広辞苑によれば、「教養」とは、「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識」のことである。


たとえば、灘(兵庫県)。私立中高一貫校としては珍しく週5日制で授業時間数が少ない。その代わり土曜日には「土曜講座」が開催される。そこではたとえば、「ギリシャの三題作図不可能問題」といわれる数学の問題について、折り紙を使って解くというようなアカデミックな講座が実施される。

麻布(東京都)も同様に、土曜日に「教養総合」を開催する。そこではたとえば、「うさぎ追いし、かの山……」で始まり日本の原風景を表現する唱歌「ふるさと」の4番を作詞する。「現在の日本の原風景とは何か?」という問いである。高層ビルの夜景について、「その中には過労死寸前にまで働いている人たちがいることを考えれば、美しくは見えない」などと、辛辣なメッセージを含む歌詞が登場したりもする。

女子学院(東京都)では「聖書」の時間に、キリスト教の歴史のみならず、世界中の宗教や哲学・思想の変遷についても学ぶ。昨今の世界情勢についても、もちろん触れる。まさにユニバーサルな教養を身につけられる。その知識を礎に、2泊3日の討論合宿を開いたりもする。

「本物に触れる教育」を旨とする武蔵(東京都)では、たとえば地学の時間、鉱石のサンプル作成に膨大な時間をかける。既製品を買ってしまう代わりに、半年以上、ひたすら鉱石を研磨剤で磨き、顕微鏡で見るためのプレパラートを自作するのだ。そのプロセスの中で、一生忘れない、科学者的な感覚を身につける。

「スキル」より「教養」を身につける教育が重要

最近、政府の教育再生実行会議は、アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める「即戦力」となる人材を育てることを首相に提言した。「教養などいらない」と言っているわけではなかろうが、舵取りを誤れば危険だ。

 
 

大学生が職業に直結するスキルを身につければ、企業にとってはたしかに「即戦力」になる。しかしスキルはすぐに陳腐化する。だから社会人になっても「学び直し」ができる制度も整備するという。新しいスキルを随時学ぶことができるようにするのだ。

一見すばらしいが、まるでスマホのアプリを更新する仕組みのようにも見える。不具合が目立ってきたら更新する。いつまでもそうやって、「与えられる」スキルによって生きていくしかない。受動的である。更新サービスが打ち切られたら、おしまいだ。


「人材育成」と「教育」は似て非なるもの


学校での「即戦力」育成は、日本の産業界の積年の望みだ。特に経済が急成長した時期には必ずといっていいほど「実業学校」というような構想が登場している。しかし長続きはしない。結局、世の中のニーズがないのである。


今すぐに必要とされるスキルを与えることに主眼を置いた「人材育成機関」が登場することに反対なのではない。むしろ多様な学びの場のひとつとしては歓迎したい。そういう学びの場が増えることで、結果的に大学が減るのであれば、それは仕方がない。

しかし教養を受け継ぐ場として進化してきた大学を、意図的に「人材育成機関」に置き換えてしまったら、社会的損失は計り知れない。あとから元に戻そうとしても取り返しはつかない。学校はコンピュータやロボットのようなものではなく、生き物であるからだ。一度切り倒してしまった大木を蘇生できないのと同じだ。

「人材育成」は目的ありき。「教育」は子どもありき。2つは似て非なるもの。それらを峻別せずに進められる議論は危険である。

(2015.3.12 東洋経済から転載)



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